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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのチチズベーオ(3)

《Venezia Nascosta(隠れたヴェネツィア)》というブログに《I cicisbei veneziani, e l'amore a Venezia ne1700》というお話が、ヴェネツィアのチチズベーオについて語っていますので、更に紹介してみます。

「チチズベーイとかカヴァリエーリ・セルヴェンティはイタリア的現象で、外人達から酷く非難されたが、中でも仏人モンテスキューは、1728年イタリアを訪問、次のように書いた。《チチズベーオ達の事について私は、そこでは触れなかった。非常に滑稽で、馬鹿な国民が作り出したことである。将来に希望もない恋人達で、選ばれた貴夫人に対して、自由を犠牲にした犠牲者である。》

彼は高慢の高みからチチズベーオの役割の意味を何一つ理解出来なかったし、1600~1700年代のヴェネツィアにも理解が及ばなかった人物である。この大思想家は奉仕騎士自体、貴夫人とその夫を利用出来る立場も、そのチャンスも、更にはゴルドーニが『骨董屋店』の中で、この様態を皮肉っていることさえ理解しなかった。
[モンテスキューのヴェネツィア滞在記については、2013.07.13日のブログモンテスキューで触れました。]

一人の女性をその外出の度に守護するために、カヴァリエーレとして生まれたチチズベーオは貴族階級の息子であった。しかし長男でない息子にとって遺産が全て長子にいくため、しかも社会参加の機会も所持金もないが故、将来の生計を確保することが出来る環境へ出入りしておくことが必要だったのだ。この付添い人は家族の内、あるいは同じ財産程度の友人達の中から選ばれた。そしてその名前が結婚契約書に明記されることが善くあった。

彼の任務は朝から貴夫人に付き添うことで、朝化粧室に赴き、散歩や詩の朗読、音楽の演奏をする等、エスコートした。屢々、詩はアルカディアのイタリア文学から引かれ、ギリシア神話に則り、ペロポネーソス半島のアルカディアは牧羊神のパーンの土地であり、森の神の人気ない処女林のような家であり、森の精ドリュアースの、妖精ニンフ達の、自然の精霊達の庭園である。そこは屢々、不滅の存在であるが故に、超自然なるものだけが住んでいた地上の楽園と言われた。
Casanova回想録カザノーヴァと想定画[左、『カザノーヴァ回想録』(伊語版)、右、Alessandro Longhi画のカザノーヴァと想定される肖像画(1774?)、サイトから借用。]  カザノーヴァは回想録の中で、ジャン・ヴィンチェンツォ・グラヴィーナとかフランチェスコ・ペトラルカとかピエートゥロ・メタスターズィオ(ピエートゥロ・トゥラパッスィのギリシア風の雅号)等の作家の文章を屢々引用し、教養ある、文学的な女性との情交を気晴らしに進めたと言っている。

食卓ではチチズベーオは貴夫人の脇に侍り、肉を切り分けたり、夜には遊戯卓に近侍した。こうした貴夫人とチチズベーオの間には明らかに恋愛とかは存在しなかった。しかし貴夫人に対する慇懃な態度と男らしい配慮を示し続けることは、かつての騎士の古いやり方に従えば、貴夫人に身も心も投げ出した……その他、何もかも。
……
当然結婚というものは色々に組み合わされた結果であり、貴夫人とチチズベーオが夫の暗黙の了解(implicito consenso)の元、彼らの間に恋愛関係を結んだということ、また他の関係を作るということも自由だったということを排除すべきではないが、いずれにしても結婚の完全性として、取り分け家族の財産は強固に守られたのである。

チチズベーオ達にとってより適切な役柄とは僧侶であった(ジャーコモ・カザノーヴァは若くして神父になった)。そしてある人は修道士の義務の退屈さを軽減しようと、修道女に興味を持ったのである。ベネディクト修道院では貴族の娘は信仰には従っていたが、神父や聖職者との関係を発展させもした。事実、ある神父が残したこうした内容の修道院の記述がある。

少々ベネディクト会修道院について話すとすれば、言って置かねばならない事がある。《フランス風に白で着飾り、本当に愛らしい装いをして、包み袋風の絹のコルセット(busto)、面前を覆う小さなヴェール、その下から巻き毛が覗き、見事に似合っている。胸部は半分も剥き出し(伊語scollato)、全体として尼僧というよりは妖精ニンフの装いである。》

ジャーコモ・カザノーヴァの事が思い出されるのはいつもの事であるが、ムラーノ修道院の尼僧、有名なM.M.との関係は有名である。スータンという修道服を着るつもりもなかった人々の淋しい運命、ヴェネツィアの通俗性、この町にしかない独特なこの状況、そして多分偽善の犠牲者であったのだが、生きた人々が住む生きた町……パラッツォやフェルツェのあるゴンドラの中で愛を貪り、生きる喜びを推し進めていった、しかしそれは残念な事にデカダンスの始まりであった。 」
  1. 2018/10/18(木) 00:17:27|
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ヴェネツィアのチチズベーオ(2)

《ヴェーネトの歴史と芸術》というブログがヴェネツィア地方のチチズベーオについて語っています。

「チチズベーオ(cicisbeo)という言葉を発すると、今日否定的な人物像を想像する。事実この人物は、ヴェネツィアでは特に1600~1700年代重要な役目を帯びていた。cavaliere servente(奉仕する騎士)という言葉は仏人が言い出したのだが、戸外へ貴夫人に付き添ったりする、丁度うまく家族に選出された紳士の事なのである。
グァルディの絵画?[イタリアのサイトから借用。この絵は恐らくPietro Ronghiの数ある家族の肖像画の一つでしょう? ロンギとガブリエル・ベッラの絵を見る度に、一番興味のある1700年代ヴェネツィアの習俗を目の当たりにする思いです。] 
チチズベーオは貴族の息子で、通常は長男ではない家系(一般に長男が遺産を継ぐので、彼には経済的資力がない)で、社会と交際し、経済的手段なしでも、身の安定を図る機会を持とうとした。チチズベーオは家族や同じ家計程度の友人達の中から選ばれ、結婚契約書の中に名前が記された。

役目は朝早くから、貴夫人に付き添い、一日中近侍した。食卓では脇に座り、夫人のために肉を切り、好きな料理を取り分けて差し上げた。更にお遊びのテーブルに同伴した。彼には最も公式の役があった。貴夫人に対する“奉仕”の関係は有名だが、夫や家族との間も良好で、結局、貴族主人が自分の力を弁え、発展させる縁であり、知人網を広げていく力となる、それ以上に、夫人に対して敬いの態度を示して、支えとなっているということであった。

この風習は貴族だけのもので、稀に上流ブルジョワの例もあった。その場合は彼は日曜日のみ奉仕に出かけた。
……
記述がないにも拘らず、筆者にはこの役柄の人物は正にヴェネツィアが生み出したと思われるのである。17~18世紀のイタリアを概観すると、女性にとって本当に自由な環境がセレニッスィマ共和国には確かにあった。リーミニ司教区カマルドーリのアウグスティヌス修道会隠修士テオーフィロ・クリーニは、チチズベーオの事を否定的に語っている。チチズベーオを上流社会のあまりなる堕落と考え、教会はこうした社会政治的人物のためにあるものでは決してないのだ、と。
ゴルドーニの挿絵[ゴルドーニの戯曲の挿絵、サイトから借用]  チチズベーオはヴェネツィア生まれであるという別の証言としては、数多くのカルロ・ゴルドーニの作品がある。そこでは作家の喜劇の中心人物の中の一人であり、役を演じている。作家はこの状況の最も喜劇的側面を浮き彫りにしているのである。しかしその事は、謹厳実直なモラリストや、この風習に大いに戸惑いを覚えた、特に外国人達の非難の矢の的となっている、この風習についての知識を高める、更なる要素なのである。 …… 」

ヴェネツィアでの実例は、2013.03.09日のモーロ=リーン館でご覧下さい。
  1. 2018/10/11(木) 02:44:24|
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ヴェネツィア室内合奏団(インテルプレティ・ヴェネツィアーニ)とサント・ステーファノ教会

10月4日(木曜)夜、紀尾井ホールにヴェネツィア室内合奏団の演奏を聴きに行ってきました。今年で連続7回目の来日になるそうです。知り合ったチェロ奏者のダーヴィデ・アマディーオさんはその7回連続の途中1回はヴェネツィア残留組になっていましたが、その時機ヴェネツィアに行くと姉上のソーニァさん(ヴィオーラ)や父上のジャンニさん(コントラバッソ)と合奏団を率いていました。
アマディーオ一家[アマディーオさん一家、サイトから借用。一家揃っての来日は、2008.07.03日の横浜みなとみらいホールで磯絵里子さんとのコラボの演奏会の時でした。この時はダーヴィデさんの奥方クラウディアさんも来日され、お会いしました。サン・ヴィダール教会では会場の受付におられ、よく席を取ってもらいました。リアルト橋の直ぐ傍が火事の時、予定していた道が通行止めで、大変大回りをして開演直前に会場に着きました。満席の中ダーヴィデさんの前の席が確保してありました。]

この楽団の設立は、団長のコニョラートさん(チェンバロ)により1987年の事だったそうで、今年で31年になるそうです。この楽団を初めて聴いたのは、私が1994年初イタリア行した時、サント・ステーファノ教会で聞きました。演奏後、直前に座っていた夫婦が“Magnifique !”と何度も叫んでいたので、仏人と判りました。素晴らしかったです。1994年の資料を捲ってみると、彼の名前がありました。ダーヴィデさんの演奏を聴き始めて24年にもなるようです。2012.09.25日のブログヴェネツィア室内合奏団で彼らの歴史等を書いたパンフレットを訳しています。
1994年9月20日サント・ステーファノでの演奏2度目彼らを聴いたのは、1996年サン・サムエーレ教会でした。大聖年の2000年に、リアルト傍のサン・バルトロメーオ教会での演奏時、教会前で煙草を吸っていたダーヴィデさんに声を掛けたことが縁で、この演奏団はヴェネツィアに行く度に必ず聴きに行くようになりました。今回演奏後、外に出て来た彼と話すと、楽器を新しくしたと言っていました。確かに音が大きく良く透ると思いながら聴いていました。

ここで初めての語学留学をして住んだ広場サント・ステーファノ(広場の裏です)のこの教会について、『Calli, Campielli, e Canali』のサント・ステーファノ教会の記事を紹介してみます。
地図―5 サント・ステーファノ広場[左、地図下方に、ヴェネツィア室内合奏団の本拠地であるサン・ヴィダール教会があります。現在ここが彼らの定期演奏会場です。右、ベルナルド・ベッロット画『サント・ステーファノ広場』――このサント・ステーファノ広場は古くは“サン・ステーファノ”広場と言ったらしく、ヴェネツィア碩学のアルヴィーゼ・ゾルズィ著『Il Doge』の中で、14世紀前の“San Stefano”とそれ以後の“Santo Stefano”が区別して表記されていました。事実“サン・ステーファノ騎士団”のような言葉があったようです(伊語文法はサント・ステーファノが正しいのですが)。] 

「教会と隣接する修道院は、1200年末サンタゴスティーノのアウグスティヌス修道会隠修士達により設立された。1325年教会が完成した後、1400年代半ば改築と建物の拡大があり、現在の姿に至る。この教会は、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーウロ教会とゴシックの宗教施設の最重要の一つと考えられるフラーリ教会と共に尊重されていると言っても過言ではない。1400年代後半の入口大門の浮彫りは、B.ボーン工房の花咲けるゴシック様式の物である。」
  1. 2018/10/07(日) 13:27:57|
  2. 音楽
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イタリア(ヴェネツィア)の風習: cicisbeo(チチズベーオ)(1)

G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』(Filippi Editore Venezia、1897)に、Cavalieri Serventi(奉仕する騎士)の事が書かれていました。2013.03.09日のモーロ=リーン館でも一寸触れましたように、ヴェネツィアでcicisbeoとか、cavalier servente と称される青年の事です。イタリアのWikipediaから更に詳しく触れてみます。

「Cicisbeo あるいはCavalier servente とは、1700年代の非宗教的な通常の機会、パーティ、歓迎会、観劇等の折、貴族の貴夫人に付き添った貴族の青年の事で、人間としての責任において夫人をエスコートした。その機会とは化粧、文通、買物、訪問、遊戯等の折であり、1日の大半を夫人と過ごし、夫人を褒めそやし、午餐、夕食に傍近く着席し、散歩や馬車での遠出に近侍した。貴夫人は騎士のチチズベーオに対し、チチズベーアと言われた。

この言葉の語源は、チチズベーオ青年達の主たる楽しみとなる cicaleccio(ガヤガヤした会話)、cinguettio(お喋り)、chiacchiericcio(長話)を夫人との会話で楽しむ時の、その音声の擬声語と関係していると思われる。 」
……
「イタリアの幾つかの町でほぼ独占的に実践されていたこの風習は、この世紀を通じて、深く含意するもの全てを共示するものとして、深度深く、幅広くその風俗習慣に影響を与えた。最初夫が不在中の妻を守護する目的で生まれたとしても、社会に一般化していく要素が進んでいった。

サロンでの会話が有力となり、決定的なものとなっていくと、女性の役割のこの領域では、チチズベーオは2次的な役割であったものが、女性に行動の自由と安全性を保障する、必要欠くべからざる役割となっていった。しかし社会的な声望が生まれると、チチズベーオを持たないことが逆に貴族の女性のスキャンダルともなった。結婚契約においては、貴夫人がcavalier serventeに対して権利を持つことが明示されており、それは事実多くの場合、彼女の愛人であったということでもあった。

事実cavalier serventeは社会的役割を果たしていた。夫人に尽くす関係は知れ渡っており、彼女の夫や家族との関係も良好で、結局夫人に対する義務を果たすという支援であった。それ以外にも知り合いの網を広げるということにも貢献し、貴族が自分の力を確保し、発展させるのに都合のいい関係であった。

この関係の利用は、貴族階級だけという狭いものであったが、偶には上流ブルジョワ階級のこともあった。その場合は、青年達が日曜日だけの奉仕に赴くということがかなり頻繁だった。

こうした関係が始まった元の理由の一つは、貴族の間では好奇心から、結婚で男女が組み合わされた、その関係の利用、安定した秩序を作るということであった。だから夫婦関係とは、仮定が良いとしても、多くの場合、真心がこもり、親愛の情溢れるものであったのであり、しかし熱情という面では、それに憑りつかれっぱなしの関係ではない事は当然予測されるものであった。

貴夫人とcavalier serventeとの関係は、近しい間柄ではあっても、配偶者の嫉妬は惹起しなかったのだが、しかしその事は、社会の目には嫉妬に狂う亭主とは世間の笑いものであって、無作法で料簡の狭い人間と見做されるだろう、ということであった。

Cavaliere は自分の役目を自由に全うし、貴夫人の部屋に近付き、夫人の手助けをし、どこえへも付き添った。夫人にとっては彼が社会生活の中で、評価される性格の持ち主であるということは基本的な事であり、それは彼の魅力、教育、機知、会話力、文化等である。何年も鍛えられた彼のカリスマ的能力が後ろ盾となって示すやり方を見れば、夫人より成熟した人間であったということは屢々であった。

その付き合いが正に非合法になっていくやも知れぬ、その親密さは突き進んでいく可能性があるが故に、多くの人は貴族の結び付き(結婚)で生まれた子供達の夫性に疑いを持つようになった。ある人々は結婚から初子の妊娠までの期間、長子の嫡出性が保証されるように、夫人がそうした社会的な機会から注意深く遠ざかるように交際停止期間を設けた。長男は姓名、称号、財産を相続した故。

この考えは特例を除き、事実に立脚したものとは考えられないかも知れない。少なくとも資料の検討から推論出来るように、多くの場合、それが関連していたのは唯一の社会階級(貴族)だったのであり、基本的にこの制度が常に不倫と同義語であったとは、考えられないのである。 」
……
「1700年代の倫理的感情との同一化、そしてその解読ということは、現代の我々の評価と当時との間には、未だにその強い影響下にある1800年代のロマン主義が介在しているがため、複雑である。しかしcicisbeismo(チチズベイズモ。チチズベーオの風習)というものは、1700年代末には、突如終焉を迎えたのである。

全てを引っ繰り返した1800年代のロマン主義的情熱の礼賛と夫婦愛という新しい観念の湧出は、社会的に不都合とは思われず、寧ろ喜びと気品の源とされ、アンシャン・レジーム(旧体制)の主人役の陽気で潤色された社交好きを一掃したのだった。再発見された夫婦関係は、主人公の敵役の存在を許さず、公認されることもなかった。

cicisbeismoが消滅するのに貢献した終局的な要素は、フランス革命と、それに由来した、敗退した貴族階級の風習に比して、厳格且つ、如何なるものをも破壊しようとする共和国の倫理を作り上げたことである。その趨勢はナポレオン体制の中で強化され、社会の中枢を占め始めたブルジョア階級が今や確立されていたため、いかに旧に復しようと暗躍しても、事を変える事は出来なかった。

最後の追撃は、リソルジメント(維新)の愛国者の行動による。国家統一運動は新しい価値を作り出し、時にはレトリックを行使したり、市民としての義務や犠牲を祝ったりしながら、決定的に社会規範の観点を変えたのである。 」
……
「チチズベーオと貴夫人、それを取り巻く社会環境に繋がって、行われていた状況は、多くの文学的背景として確立されている。自伝、書簡、著名な作家の作品や知られていない貴族階級の著作も、その輪郭を効果的に跡付けている。こうした観点から歴史的に熟視してみれば、期待せずとも、ご機嫌取りや軽薄な伊達男の服装で、思いも寄らぬ著名な人物が現れ出てくる。

ヴィットーリオ・アルフィエーリの回想録の中には、侯爵夫人ガブリエッラ・ファッレッティへの丸2年間に渡る“サーヴィス”についての文言がある。ピエートゥロとアレッサンドロ・ヴェッリ兄弟の書簡には、類似の状況についての文言が夥しい。彼らの弟ジョヴァンニ・ヴェッリは、ジューリア・ベッカリーアのチチズベーオで、実は彼がアレッサンドロ・マンゾーニの本来の父であるという主張を支持する、更なる要素がある。

チェーザレ・ベッカリーアその人もイタリア文化の他の超一流の人達も、劣っていた人物であったということ等あり得ない。この現象はイタリアに限られたものであったし、名のある旅行者の好奇心が引き起こしたことであったと思われる。 」
ジューリア・ベッカリーアベッカリーア著『犯罪と刑罰』いいなづけ[左、アンドレーア・アッピアーニ画『ジューリア・ベッカリーアと息子アレッサンドロ・マンゾーニ』(1790)、イタリアのサイトから借用]  チェーザレ・ベッカリーアは法学者で啓蒙思想家。『犯罪と刑罰』(1764)は名著、パリ12区に彼を記念したベッカリーア通りがあります。ジューリアは彼の娘、1782年にピエートゥロ・マンゾーニと結婚、1785年息子アレッサンドロ誕生。息子はミラーノからフィレンツェに移り住み、『いいなづけ』を執筆、近代イタリア語を確立したと言われています。

1700年代のチチズベーオを扱った劇作品には、ゴルドーニの『La famiglia dell'antiquario(骨董屋家族)』『Il festino(宴会)』、モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』、ロッスィーニのオペラ『アルジェのイタリア女』等があるそうです。
  1. 2018/10/04(木) 00:41:48|
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ヴェネツィアの魔女

G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』(Filippi Editore Venezia、1897)は《La Catramonachia》という話を載せています。
『ヴェネツィア奇聞』catramonachia「この言葉、Catramonachia(ヴェ語―カトゥラモナーキア)という言葉はギリシア語から来たもので、malia(マリーア=蠱い)、fattucchieria(ファットゥッキエリーア=魔法)、stregoneria(ストゥレゴネリーア=妖術)、ammaliamento(アッマリアメント=魔法を懸けること)と同じ意味の言葉である。これを使って人が食べたり、飲んだり、寝たりを阻止することが出来ると信じられている。

人を震え戦かしたり、野獣の重みや知られてない病で人をベッドに釘付けにしたり、性の喜びを生み出したり楽しんだりする能力を奪ったり、欲望や憎悪、愛情に反した状態に人を突き落したりする。

ギリシアから到来した、民間信仰によるこうした手練手管故、病を患うある人達は、悪魔祓いに関する事についてはギリシア正教の僧侶の元に赴いたのであった。

記述された迷信に夢中になることは、古い史料の中で、facere barbariam(外国風を真似る)、faturariam、eppure facturamをすることだと言われている。そして主に薬草から作られた秘薬は素晴らしいが故に、それは道理として正しい。中でも良かったのは、そこに奴隷が雇われていたことであった。それ故1410年10月28日の通達が規定していたことは、全ての奴隷、あるいは外国風を真似る等(barbariam vel facturam)したり、あるいは他人の心や身体の健康を害する物を食物として与えた者は、晒し刑の台に晒されたり、追放という刑に処された。
[年表によりますと、《1410年10月28日から妖術の類いをする者に対して厳しい措置が講じられ始めた、と。》あります。]

妖術や占い師の裁判沙汰は、Esecutori contro la Bestemmia(世の悪口雑言等に対する警邏隊)に委ねられた。多くの人々は共和国政府の流れの中で興味津々で見ていた。

1749年のカテリーナ・デッリ・オッディの裁判は、ムティネッリが触れている。そしてアルマンド・ボスケットが自分の回想録でその資料について扱っている。26歳の美女、カテリーナ・ファブリース・デッリ・オッディは神聖な蠟燭の前で自分と数多の愛人達が結ばれるように、不思議な呪文を唱えながら、蠱いを行った。

最初投獄されたが、その後彼女の蠱いの儀式は、カトリックの秘跡[洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の7つをいう]を侮蔑するようなことはなく、罪に問われることはなかった。しかし悔い改めるようにと、清廉潔白なる家族の家に預けられた。」

図版のヴェネツィア語は次のようです。
「Son qua chi vol la strolega mi crio, / Per veder de becar qualche traireto, / Massime ale putazze da mario. 」(訳不可です)
  1. 2018/09/27(木) 00:04:47|
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美術館での服装

先日の新聞La Nuova紙に次のような記事が出ていました。

「 ヴェネツィアのティントレット展で、安全のために帽子は禁止
――総督宮殿で行われた宝石展で、大量の宝石類が略奪されたことを受け、入場者全員顔を晒すこと――

ティントレット展で帽子は禁止。作品から安全な距離を越えないことは、あらゆる美術館で有効であるが、新しい規則は総督宮殿の展覧会場での態度振舞いを制することとなる。観客は頭にいかなる物も被ることは禁止となる。 ……」
マハラジャ今年1月5日のブログで書きました、総督宮殿で催された《ムガールとマハラジャの宝石》展で大量の宝玉類が盗難に逢い、監視カメラにその模様は撮影されていたのですが、帽子を被った盗人の表情は知れず、未だに犯人捕獲は出来ずにいます。それを受けて、今後は展覧会等はこの被り物禁止の方向で処されることになるのでしょうか?
  1. 2018/09/23(日) 10:34:08|
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ヴェネツィアの夜間の徘徊

G. ニッサーティの『ヴェネツィア奇聞』に、夜間ヴェネツィアで街灯の無かった当時、街歩きはどのようであったか記述があります。

「昔ヴェネツィアは、夜は漆黒の闇に閉ざされていた。暗闇には[街の角々にあるマリア様等の小さな祭壇の]聖像の前に吊るされた微光(龕燈)が唯一の明かりであり、それはcesendelo(チェゼンデーロ―小さな明かり)と呼ばれた。

闇の中で何が起きるか不明の状態を明白にするために、1450年政庁は通達を出した、夜になって3時間後に街を歩きたい人は皆、明かりを用意しなければならない、と。そして貴族や裕福な人々は召使いに前を歩かせ、蠟燭や2枝燭台、あるいはカンテラ(洋灯)を持たせるようにまでなった。
コーデガの道案内そのような風習の記憶が、いわゆるcodeghe[コーデゲ(男性複数)、道案内人の意]として我々に近い近年まで残されている。即ちある種のポーターの事で、我が家まで送ってもらいたい人へのサービス業として、火を灯したランタンを持ち、雨が降りそうであれば傘を持ち、サン・マルコ広場の行政館(Procuratie)のカッフェ近くか他の人の出入りの激しい場所で夜間待ち受けている。
[codega(コーデガ、男性単数)―希語のOdegos(案内人)から来たものと思われる。カンテラを持ち、夜その人の家まで付き添う、サン・マルコ広場の道案内人を言う。サン・マルコ広場の提灯持ち(Feralante)の事。――ヴェネツィア語辞典より]

ある人が希語のodegos(ガイド)に由来する言葉とする、コーデガという職種の考案は、ピエートゥロ・q.・オズヴァルド・ダル・カーポのお蔭だと、グラデニーゴは記している。」

図版に添えられた伊語は次のようです。
「De notte ora ai teatri, ora al Redutto / Son quel che col feral serve de lume; / E pur che i paga mi so andar per tutto. 」

総督ドメーニコ・ミキエール(1118~1130)政権下の1128年初頭から、建物の壁面に一晩中灯す目的で、その上遠方からでも通行人が識別出来、勇気付けられるようにと、微光ながら燈明が出現し始めたようです。当時の要望に応えた事ではあったのですが、要求の中身に全的に対応した内容という事からは程遠い通達だったようです。そこで年表から1128年の項を見てみましょう。
1100~1399「市民の安全性を確保するために、当時の世相の風潮にケリを付けることが決定された。即ち、ギリシア風の付け髭を付けることの禁止(晒し首の刑)、更に夜陰に乗じる危険行為から人を守るために、共和国の公費で壁面に吊り下げた、小さな油の燈明―cesendeli(チェゼンデーリ)で、安全性が希薄と思われる通りに明かりを設置する、その明かりの保全は教区司祭に委ねられる。教区司祭には、悪党共を意気阻喪させるために、奉納の小祭壇や祠の聖像の前にcesendeliを置くように求めている。
[ここで使われているcapitelli(柱頭、複数=ヴェ語capiteli)とは、ヴェネツィア語では“祠”の意です。]

この種の明かりでは殺人、暴力行為、強奪等類似行為にブレーキを掛ける効力は充分ではなく、ヴェネツィアの町をコントロールするFante(Famulo di Curia―法務局の人員)の員数を増加させる決定に至ることとなる。」

ヴェネツィアの街歩きをすると、通りの角や折れ曲がった箇所に、歩く目線の行く先に聖女様等を祀る小祭壇が目に付くものです。その数だけでもヴェネツィア人が非常なる篤信家であったことが判ろうというものです。ナポレオンがこの地を占領した時、宗教施設の多さに驚き、相当数の教会や同信会館等を潰させたと言います。そのために絵画作品が四散することになりましたが、潰されたサン・マルコ広場のサン・ジェミニアーノ教会といい、残念な事でした。
  1. 2018/09/20(木) 09:53:06|
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サン・ジャコメート教会の時計

2018.06.10日のブログに書いた、リアルトの1422年製のサン・ジャコメート教会(伊語はサン・ジャコメット)の時計が修復に入った記事から3ヶ月。摩耗した内部の機械部分を含めて修復が完了し、時計は再び次の600年の稼働を開始した記事が、La Nuova紙に出ました。
サン・ジャコメートの時計「 サン・ジャコメット教会の修復、古い時計の修復も完了
――6世紀弱の命が蘇る。ザーネ曰く《技術者の方々、有難う。皆全員でお祝いしましょう》――

サン・ジャコメットの時計が救われた。修復のデリケートな仕事、スポンサーに経済援助され、一つの仕事が完了した。文字盤の針はこの種では特殊であり、また元の場所に戻されるが、多分先週には仕事は終わっていただろう。 ……(以下略)」 
サン・ジャコメート教会[カナレット画『Campo S. Giacometto(サン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会)』――ヴェネツィアでは、サン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会は、サン・ジャコメート(S. Giacometo―ヴェ語)と愛称されています。]
  1. 2018/09/17(月) 12:45:54|
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ヴェネツィアのアルターナ

ヴェネツィアの屋上にアルターナ(altana)という、日本で言えば物干し台風のベランダがあります。設置されている建物は、許可を得て設置され、外観変更禁止のために新しく設置することは禁じられているそうです。かつてそれがどういう風に使用されていたかについて、G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』に次のような記述があります。
『ヴェネツィア奇聞』「ルネサンス時代、我らが貴婦人達は、多分ブロンドの鬘を被っていたローマ婦人の風を真似たいがために、ある溶液で髪を染めていた。そのためその液はビオンダ(bionda)とか若さの水(acqua di gioventù)と呼ばれた。

そのやり方は次のようである。屋根の上に設置された、現在でも altana と呼ばれる、例の木製の屋上テラスへ行く。そこで上記の液に浸した sponzeta(小さなスポンジ)で頭を濡らし、紡ぎ車形の物の先端に接着させる。
アルターナの貴婦人こうしてから、両肩を schiavoneto と呼ばれる絹のバスローブか、柔らかい布で覆い、solana と呼ばれる山の部分のない帽子の鍔だけの麦藁の輪っかを頭に被り、太陽光線で乾かすためにその鍔の上に髪を広げる。

その姿は当時のヴェネツィアの画家の絵の中で、描かれた殆ど全ての女性が赤みを帯びたブロンドの髪であることに気付かされるのである。」と。

Cucciolaさんが『ルネサンスのセレブたち』というブログの2010.07.04日の《ルネサンスの美容読本》という欄で、かつての化粧についての歴史や化粧品について詳しく述べていらっしゃいます。参考までに。

またVeniceWiki にアルターナの説明があります。
「アルターナとは屋上に設置された、全シーズン太陽や風雨に晒された木製の板のお盆のような物で、テラスとは全く違う物。木の柱が支えで、脇は屋根裏部屋で固定され、頭をぶつけたりしながら内部の屋根裏部屋を通ってから、外に出る。
アルターナ[あるアルターナの例、サイトから借用]  アルターナとは床が光や空気が抜ける、隙間が空いた簀子状の板で作られている。愛用の指輪等は持っていかない。運河に落ちるか鷗の口に入ってしまう。また鉢植え用のものでもない。傘など置きっ放しにすると、雨風や太陽の餌食となってしまう。ここは地球外の場所であり、奉仕の場である。大運河から見えるのは僅かであり、主要なパラッツォのファサードの上からも見えない。

ヴェネツィア人の髪のブロンドや赤毛は、アルターナで太陽に晒して獲得されるのであるが、sponzetta ligata e in cima ad un fuso の後、独特の作り方で、自分で煎じた浸剤を準備し、solana という、山の部分のない広い鍔の帽子で頬には日差しが当たらないようにし、山無し帽の中央の穴から髪を出して太陽光に晒す。

アルターナは物干し場の役もするし、遠望したり、現在では仲間とプロセッコの飲み会や月光下でのお喋り、レデントーレの夜の花火を見たり、冷えた西瓜を味わったり。」

サン・カンツィアーン教会傍のファビアーナさんの家は88段階段を昇ります。暗くなって彼女の家のアルターナから、ワインを片手に眺めるヴェネツィアは格別でした。彼女が広場の屋台で買ったというレーザー光線はサン・マルコ鐘楼へ一直線の銀白線を描きます。
  1. 2018/09/13(木) 00:06:17|
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サン・マルコ広場の舗装

前回サン・マルコ広場の井戸について書きましたが、今回はこの広場の舗装についてです。G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』(1897)からどうぞ。
『ヴェネツィア奇聞』「サン・マルコ広場の初期は菜園であり、そこでは野菜や果樹が大量に栽培されていた。ダンドロ年代記によれば、1267年初めて煉瓦で舗装された。
[サン・マルコ広場の“菜園(brolo)”は、brogio、broglioなどとも言われ、特に総督宮殿のアーケード下(broglio)は大評議会の選挙が近付くと、富裕貴族が貧乏貴族の票を買収しようとその空間を行ったり来たりして、買収活動が行われたそうです。その事から、imbroglio(インブロッリョ―ぺてん、ごたごた等の意)という言葉が生まれ、イタリアのオペラや演劇の陰謀等の場面を指すようになったそうです。2007.10.23日のサン・マルコの菜園で触れています。]

それ以後年代記作者は1392年までこの件については書いていないが、その年代記の中で総督アントーニオ・ヴェニエール[1382~1400]がこの広場を、大理石で煉瓦を四角に縁取りし、デザインに従って角形に集める形で舗装させた、と語っている。

ある年代記作家は次のように書いている。《Facevano quei quadretti bellissima vista perché, essendo partiti l'uno dall'altro con lastre di pietra viva, et havendo essi eminentia, et come una certa rotondità, parevano proprio al guardar monticelli, ma grande incomodo portavano al caminare, e grandissimo al spasseggiare, perché quel continuo montare e dismontare dava noja alle persone. 》(これらの四角形の物が大変美しい眺めを現出していた。何故ならそれぞれが硬い石の板面で、優れており、ある種の丸味を帯びた物として、小さな山々を眺めるかのようであった。しかし歩きに連れて行くには快適という訳にはいかなかったし、散歩には更にそうであった。何故なら登ったり降りたりを続ければ、人によっては嫌気が差すからである。)

碑文に、土曜の市で場所取りをする同業組合に属した幾つかの登録者が読み取れた。そして最後の舗装でもi Calegheri(靴職人)とi Zavateri(靴修理職人)の例があった。
ティラーリの甃デザイン1495年と1566年と広場舗装が続く。1626年の補修と、ティラーリのデザインに基づく1723年の、全てを硬石での舗装工事(この舗装は1893年に完成した全面的リフレッシュの時まで続く)は1723年に始まり、1735年に終わった。ティラーリに提示された広場の細長い帯状を示すプロジェクトは、かなり変わったものだった。今日でも目にすることの出来る模様は、小広場の方の建築家もその案を繰り返しているのである。」

ヴェネツィア語に、far el liston(リストーンする)という言葉があります。サン・マルコ広場を散歩する、という意味です。伊ウィキペディアに説明がありますので訳してみます。

「都市のある特殊の場所、通常は広場かそれに準ずる場所を示すため、ヴェーネト地方の色々の都市や近隣地域、古いヴェーネト地域で使われているヴェーネトの言葉で、Liston(複数Listoni―伊語listone)という言葉は広場の石畳の舗装のために使われた硬い大理石の長い平らな板石の事をいう。そこから、far el listonという熟語が生まれた。
2本の柱のあるピアツェッタ[ターナー画『雷雨下の2本の円柱の見えるピアッツェッタ』]  ヴェーネトの色々の町にはそれぞれに使い方があり、ヴェネツィアではサン・マルコ広場の散歩を指し、時計台下から二本の石柱、聖マルコ(有翼のライオン)とサン・トーダロ(龍を退治する聖テオドールス)の間を歩くことを言う。」
  1. 2018/09/06(木) 00:09:50|
  2. ヴェネツィアの広場
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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