イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

マドンナ・デッラ・サルーテ教会の祭り

本日のLa Nuova紙は、昨日21日のサルーテ教会の祝祭の事を報じています。
サルーテ教会橋を渡る信者達[写真はサイトから借用] 「 マドンナ・デッラ・サルーテ教会へのお参りは一方通行で交通制限
――ヴェネツィア警察は大混雑回避のため、信者達の足を制限するかも。ヴァポレットの増発あり――

11月21日は、ペスト・ネーロという黒死病を克服したことを祝う、ヴェネツィア人に最も愛されるマドンナ・デッラ・サルーテ教会の祝祭日である。

“ヴェネツィア人の”教会、マドンナ・デッラ・サルーテで我々の出会いは繰り返される。サルーテ教会の何千という信者達を呼び寄せる参詣は、蠟燭に火を灯し、祈りを捧げるためであり、何千というここの檀家でない市民達も、この最もヴェネツィア的な祝祭に惹かれてこの税関岬までの巡礼行に参加する。

Ponte votivo(ポンテ・ヴォティーヴォ――この日のためにグリッティ館脇のトラゲット広場と大運河対岸のトラゲット通りを結ぶ仮設の奉納橋)は、本日(22日)の22時まで渡橋可能である。ヴェネツィア的な素晴らしい寺院への巡礼行は、何世紀にも渡って繰り返された伝統行事なのである。 ……」

サルーテ教会のお祭りについては、2011.03.26日のヴェネツィア年中行事や2012.08.11日のパトリシア・ハイスミス等でその謂れについてなど、触れました。この日にはカストラディーナという去勢牡羊の煮込み料理を食するのがヴェネツィアの伝統だそうです。2012.08.18日のカストラディーナも参考までに。
  1. 2017/11/22(水) 12:33:33|
  2. ヴェネツィアの行事
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ザネッタ・ファルージ(Zanetta Farusi)(1)

カルロ・ゴルドーニの『回想録』にも書かれた、ジャーコモ・カザノーヴァの母、ザネッタの事に興味が湧き、PCのイタリア百科事典(Treccani)を見ていたら、その項目がありました。2009.10.17日のカルロ・ゴルドーニや2011.04.16日のヘルマン・ケステンで少し触れました。あの時代、彼女の息子を含めヨーロッパを駈けずり回ったイタリアの自由人の生きざまが興味深いです。

「Farusi(Farussi)、Zanetta(Giovanna Maria―通称ザネッタ)――靴職人ジローラモと妻マルツィアの一人娘で、1708年の夏(Rasiによると1709年)、ヴェネツィアのブラーノ島に生まれた。ジャーコモ・カザノーヴァの回想録(p.27)の注記に従えば、16歳でその美しさは完璧だったとし、俳優、ヴァイオリン奏者、ダンサーであったガエターノ・カザノーヴァに出会った。彼は平凡な喜劇役者で、家を飛び出してある女優との乱れた関係の後、1724年ある特徴もない喜劇団とヴェネツィアにやって来て、サン・サムエーレ劇場で演じていた。

両親が言う“目付きが忌々しいコメディアン”(回想録1巻p.28)との結婚の同意を得ることに失望して、ファルッスィは自分を連れ出させ(駆け落ちし)、1724年7月、この俳優と結婚した。

父ジローラモの死で胸も張り裂けそうな思いをした後、多分1725年母マルツィアは娘が舞台には立たないという約束――カザノーヴァが注記しているように一般人と結婚した全ての役者は保証はするが守られたことのない約束――を得て、娘夫婦を許すことにした。1726年長男ジャーコモ誕生から1年後、彼女はロンドンと契約を結んだ夫に付いて行き、そこで親との約束はご破算になり、息子を母に預けて芝居を開始し、満足のいく成功を収めた。

1727年の夫婦の移動は不安定で、2番目の息子フランチェスコの誕生地についてある解説者はリスボンと言い、他の人はロンドンと言っている。

1728年はヴェネツィアにおり、ここでガエターノはサン・サムエーレ座の劇団員に新しく雇われた。彼女の舞台活動についての証言は見つからないが、カザノーヴァの回想録の一節が指摘しているように、ブラネッラの愛称を使って彼女は演じ続けた(回想録1巻p.29)。《1728年の暮れ頃、母は夫とヴェネツィアに戻り、喜劇女優となり、演じ続けた。》

1728~32年、3人の子供をもうけた。ジョヴァンニ・アルヴィーゼ(1728~98)、幼くして死んだ娘、マリーア・マッダレーナ・アウグスタ[或いはアントーニア(1732~1800)]である。1733年、後に生まれた息子は恐らく異父の子であるが、その名前は知られていない。

1733年12月夫の死で、彼女はジュゼッペ・イメール一座にザネッタ・カザノーヴァの名前で一番手の恋人役で入団した。カルロ・ゴルドーニはその年彼女を知り、“非常に可憐で有能な未亡人”と彼女を表現した。生き生きとした、センス抜群の、朗々たる演技力ある女優だった。

作曲家G・マッカーリとの共作があると書かれており、1734年12月『Belisario(ベリザーリオ―東ローマ帝国の将軍ベリサリウス)』でサン・サムエーレ座に登場した。瞳ちゃん役(pupilla―最愛の者)で大成功だった。イメール座の主たる役者達“3人の内、誰も音楽というものを知らなかった。ザネッタさえ音程はいい加減だったが、3人ともその生き生きした演技で観客に愛された”(Ortolani(オルトラーニ)、p.1225).

同じ人々が、イメール座のために書いたゴルドーニの“インテルメッゾ”を演じた。1735年のカーニヴァルの終り頃には大成功の出し物となった。それは『la Birba(ビルバ―ならず者)』だったが、一緒に演じられた悲劇『Rosmunda(ロズムンダ)』はそうはいかなかった。多分イメール座とうまくいかなかった事と、その公演が大変な収入になった事が彼女をヴェネツィアから去らせることになった。
ロズムンダ[サイトから借用。ランゴバルトの王アルボイーノは妻の王妃ロズムンダに殺される]  ゴルドーニの悲嘆は大きなものがあった。それは彼女の出発がある種、女優の喪失と思われたし、幕間劇(インテルメッゾ)は観客にとって舞踊と対比で考えられたからである。《……私にとって、ザネッタ・カザノーヴァの出立は大変関心を引くことであったし、彼女は喜劇の出し物の中で、2番手の女役以上に幕間劇中、考えられる空白を埋める存在だった》(ゴルドーニ『回想録』デル・ベッカーロ編、ミラーノ1965、p.171).

それはファルッスィが歌手としての才能はないものの、音楽劇の、特に演者として留まったという仮説をすれば、興味深い。 」 (2に続く)
  1. 2017/11/16(木) 00:24:24|
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ヴェネツィアの聖マルティヌス祭(11月11日)

本日のLa Nuova紙はこの11月11日の聖マルティヌスの祝日の事を次のように語っています。サン・マルティーノについては、2008.12.06日のサン・マルティーノで触れました。

「 街はサン・マルティーノの祝祭で彩られ
――子供達の行進、善きサマーリア人を祝うお菓子(ドルチェ)。チェントロ・ストーリコ(中心街)や本土側で沢山のイヴェント――

町でも大変愛される伝統行事である聖マルティヌス祭の飾り等で溢れた週末、金曜日朝、ヴェネツィアの子供達は鍋等食器類や音を出せる物を手にして行進し、伝統行事の“Bater San Martin(バーテル・サン・マルティーン)”を楽しんだ。
[Bater(ヴェ語)=battere(伊語―叩くの意)。この日子供達はサン・マルティーノの伝統的なドルチェをせしめようと鍋等の底をお玉等で騒音を発しながら、街を練り歩きます。無事獲物を獲得すると音は止み、去って行きます。
またMartinはMartinoの語尾"o"が省略され、例えばcaffè FlorianはFlorianoの語尾の省略、VendraminやGiustinian等もヴェネツィア特異の語尾省略現象です。アクセントの位置は変わりません。]

10時30分、マルゲーラの自治体当局会議室では、マルゲーラとカテーネの保育園児にサン・マルティーノの伝統的なお菓子が配られた。それはヴェーラ社の協力の下、新カテーネの未来協会主催のイヴェントだった。ヴェネツィアでは、11日の土曜日、15時からカステッロ区サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ広場で聖マルティヌス祭が行われる。 ……」

その他、リアルトのペスケリーアやリード島、ペッレストリーナ島、メーストレ等各地で色々祝祭行事が行われる予定だそうです。

この時期、日本でも良い天気が続いており、《小春日和》と言いますが、イタリアではそれを《estate di san Martino(聖マルティヌスの夏》と言います。それには次のような謂れがあります。
san Martino[サイトから借用] 「マルティヌスはパンノーニア(ドナウ川の南西部のハンガリー地域の古代ローマの属州名)の兵士で、馬に跨り、帝国の監視をして回るという軍務についていた。ある日、ほんの些少の襤褸のみを身に着けた貧しい身形の者に出会った。彼は寒さのあまり歯をガタガタ震わせていた。それを目にした心優しき騎士は、抜刀するや、自らのマントを一刀両断し、そのマントの半分を貧しい乞人に与えた。

伝説が伝えるところによれば、その栗烈たる寒が緩まり、半分のマントだけでも両者が寒さを凌ぐことが出来る程になったのだと言う。その時以来、毎年聖マルティヌスの日(11月11日)の頃の天候は温和となり、夏が戻ってきたように思えるところから、短い“estate di san Martino(サン・マルティーノの夏――小春日和)”という。」のだそうです。

ヴェネツィアのサン・マルティーン教会は、アルセナーレ造船所の大門のライオン像達の前を右に行った前方にあります。私が語学学校に通った時、学校のマッシモ先生のお宅をアパートにお借りしました。それはサン・マルティーン教会から更に奥のド・ポッツィ[do(ヴェ語)=due(数字2)―二つの井戸]広場傍にあり、通学時この教会脇からヴァポレット停留所アルセナーレに向かい、カ・レッツォーニコ停留所(フェルマータ)まで、船通学でした。通学定期にACTVのCartaVenezia(カルタ・ヴェネツィア)を契約しての乗船です。カルタ・ヴェネツィアは必要な書類を揃えれば、ヴェネツィア人以外でも契約出来ます。ヴァポレットが格安に乗れます。
  1. 2017/11/11(土) 21:00:25|
  2. ヴェネツィアの行事
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(3)

(続き)
「《フラーリ聖堂の三連祭壇画》は、ベッリーニが教会内部の聖母と諸聖人を表した三番目の祭壇画であり、この絵をもって画家はある特定の問題に対する解決法を見出した。その問題とは、説得力のある自然主義的な方法で、間違いなく聖母に適しているがむろん屋内のものである聖堂という舞台の中に、浸潤する陽の光や外気の明るさをいかに描き出すか、ということである。
聖母[サイトから借用]  教会内部を聖母の舞台として用いる、というネーデルラントの着想をイタリアへ導入したとされるピエロ・デラ・フランチェスカは、光源の隠された日光に満ち溢れる、完全に閉ざされた教会内部を表現した(1472年頃)。この方法をアントネッロ・ダ・メッシーナが1476年に《サン・カッシアーノ聖堂の祭壇画》をもってヴェネツィアに伝えたことは疑いない。

だが彼がピエロと同じく、閉鎖された屋内を絵画化したのか、あるいは部分的に空の見える教会を創作したのかは不明である。ベッリーニは、このモチーフを扱った自身の最初のヴァージョン、つまりドメニコ会のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のために制作されたが今日では消失している《聖母》(1476年頃)において、壁のない聖堂という別の着想を試みた。……」
……
「ティツィアーノが初めてフラーリ聖堂のために制作した作品である主祭壇の崇高な《聖母被昇天》は、フラーリ修道院の院長ジェルマーノ・カザーレによって1516年に注文された。この年はちょうど、フランチェスコ会から穏健派の会士たちが離脱する時期にあたる。教皇レオ10世が1517年にこの修道会の分裂を承認して発した『イテ・ヴォス・イン・ヴィアネム・メアム(和合の大勅書)』は、同会をほとんどその創設時から苦しめてきた危機の終焉を告げるものであった。
聖母被昇天[サイトから借用]  つまり、16世紀初頭における会士たちの苦々しい気分や、1517年の教団の分裂に帰結することになる様々な出来事こそが、ティツィアーノの祭壇画と主祭壇そのものをジェルマーノが極めて公的に発注した歴史的、そしてまさしく心理的な文脈なのである。他方、その神学的および宗教的な文脈は、聖母の無原罪懐胎の議論における会士たちの勝利であった。

聖母の無原罪懐胎の問題は、カトリック信仰のもっとも根本的かつ深遠な争点について論じるもので、何世紀にもわたって神学上の議題であり続けた。すなわち、無原罪懐胎の祝日は1476年に認可されたが、その教義の布告は1854年を待たなければならないのである。中世とルネサンス期を通じて、議論は《修道会の方針》に沿って真っ二つに割れ、フランチェスコ会士たちが無原罪懐胎を断固として擁護したのに対し、ドメニコ会士たちはそれを声高に否認していた。……」
……
「ティツィアーノの《聖母》は1519年、キプロス島パフォスの司教であるヤコポ・ペーザロ(1464~1547)によって無原罪懐胎の礼拝堂のために注文された。このヤコポの祭壇は、ペーザロ家がフラーリ聖堂で無原罪の聖母に捧げた二つ目の祭壇にあたる。第2章で見たように、聖具室のペーザロ礼拝堂を飾る祭壇画の中で、ベッリーニが無原罪懐胎の祝日の典礼文をはっきりと引き合いに出していることを考慮すれば、この聖具室の礼拝堂が彼女に献じられていたことは間違いないからである。
ペーザロの聖母[サイトから借用]  しかしながら、フランチェスコ会に属するフラーリ聖堂の修道士たちは、ペーザロ家がこの二つの寄進を行うはるか以前から無原罪懐胎の祝日を祝っていた可能性が高く、またサルトーリの引用する文書記録によると、1361年には、本堂のペーザロ家の祭壇があるのと同じ場所、もしくはその近くに、無原罪懐胎を奉献対象とする礼拝堂が建っていたという。

1498年には無原罪懐胎同信会が、この団体の規則を記したマリエーゴラに記録されているとおり、フラーリ聖堂の修道士たちの承諾を得て設立された。この新たな同信会の礼拝堂は、今述べたのと同じ、14世紀にすでに無原罪のマリアへの崇拝に結びつけられていた場所に存在した可能性があり、またその場所は、15世紀の終り以降は継続的に無原罪懐胎に奉じられていたようである。

というのも、ペーザロ家の祭壇の前方に立つ、同家の紋章のついた支柱には教皇グレゴリウス13世がこの祭壇と無原罪懐胎同信会に贖宥を授けたことを記念する銘文が、1582年の年記とともに添えられているからである。……」
……
「……サヌートによれば、ヴェネツィアでは総督が聖母マリアに敬意を表し、《聖母にまつわるすべての日》にサン・マルコ聖堂でミサに参列したという。また、ヴェネツィア人たちは二つの主要なマリアの祝日を、この共和国の世俗的な大祝日として祝っており、さらに三番目の聖母の祝日は、ヴェネツィアにおいてとりわけ世俗的な含みを有していた。

まず、第一の祝日から述べると、ヴェネツィア人たちの主張するところでは、この国は421年3月25日受胎告知の祝日に創建されたため、《ヴェネツィアの誕生 Origo Venetiarum》は毎年この祝日に祝われた。ヴェネツィア暦では新年が3月25日に明けるが、これも同一の理由によるものである。

また、著しい政治的意味を持つ教会サン・マルコ聖堂では、聖母と大天使ガブリエルをかたどった浮彫りがファサードを飾り、そこでは彼らが、同じくこの都市の守護者である聖ゲオルギウスと聖デメトリウス、ヘラクレスにつき従われている。ヘラクレスは、ヴェネツィア人の起源に関係を持つとされる神話上の英雄で、二度にわたって姿を現す。

そして、受胎告知はリアルト橋にも表現され、こちらでは、ヴェネツィアの最初の守護聖人である聖テオドルスと、彼の後を継いだ聖マルコその人がマリアとガブリエルの傍らに位置している。そして、こうしたイメージが一段と明快な形で提示されているのが、ボニファチオ・デ・ピターティによって国庫財務管理者庁舎(マジストラート・デラ・カメラ・デリ・インプレスティーディ)のために制作された三連の絵である。

この絵では、大天使ガブリエル、ならびに受胎を告げられたマリアが左右のカンヴァスを占め、中央のそれには、父なる神がサン・マルコ広場に祝福を授ける様子が描かれている。つまり、こうすることで、ヴェネツィアの建国がキリストの受肉に譬えられているのである。

さらに、受胎告知がこの共和国の創建を思い起こさせるという理由から、ヴェネツィアでは必然的に、内陣アーチに伝統的に描写されていたマリアとガブリエルの図像――フラーリ聖堂の聖具室に見られる作例など――がそれ自体で、宗教のみならず政治とも深いつながりを持つことになった。

その上、こうした政治とのつながりもあって、ヴェネト地方では、イタリアの他のいかなる土地よりも一般的に受胎告知が墓碑――フラーリ聖堂の内陣に据えられた総督の墓二つを含む――において視覚化されていたのである。……」
  1. 2017/11/09(木) 00:50:34|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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『遥かなるルネサンス』展―これが、天正遣欧少年使節がたどった、イタリアだ!!

私の居住する八王子市の、東京富士美術館で開催されている『遥かなるルネサンス』展に行ってきました。天正の四少年遣欧使節がイタリアで辿った跡を検証する展覧会です。私がヴェネツィアに行った時仄聞し、その後色々知ることとなった彼らの事績を思い起こさせて頂き、感動を新たにしました。彼らについてこれまで、2008.03.21日の天正遣欧少年使節(1)から、2017.06.01日の天正遣欧使節(10)までとか、2014.10.18日の寺崎武男展等で天正の4遣欧使節の事を書いてきました。
遥かなるルネサンス遥かなる、図録[左、パンフレット、右、図録]  今回の展覧会は少年使節達の行動を再確認させてくれました。展覧は彼らが行動した順序、上陸したリヴォルノから乗船したジェーノヴァへの行程に沿って、中心地ごとに関連した書状や絵画等が展示されていました。
ヴェネツィアに関する事で言えば、上陸して直ぐピーザのメディチの城に招かれ、晩餐会の舞踏会でトスカーナ大公フランチェスコ1世妃ビアンカ・カッペッロに誘われ、伊東マンショが踊ったそうです。彼は戦に向かう勇気を鼓して舞踊に臨んだそうです。大公妃は元々ヴェネツィア貴族の娘で、フィレンツェの若者と恋に落ち、フィレンツェに駈け落ちした前歴を持ちます。ヴェネツィア人とダンスをした第1号がマンショでした。
フランチェスコ1世ビアンカ・カッペッロビアンカ[左、フランチェスコ1世、中、ビアンカ大公妃(来日したヴァージョン)、右、同じビアンカ大公妃(富士美術館所蔵―以前このブログでもこの絵を紹介しましたが、このアッローリ工房のヴァージョンを所蔵する富士美術館でこの展覧会が開催されたのも宜なるかなと思われます。今回この二つが並べて展示されていました。]
 
ローマでは教皇グレゴリウス13世が彼らの到着を心待ちにしていました。この教皇は現在のグレゴリウス暦を制定した教皇として夙に有名ですが、彼らに謁見して18日後(4月10日)に没してしまいます。コンクラーベがあり、シクストゥス5世が選出され、新教皇も彼らを謁見しました。3月22日~6月03日のローマ滞在後、イタリアを経巡り帰国の途に就きます。
グレゴリウス13世 ITALIA[左、グレゴリウス13世] 左図のような行程を経て、6月26日ヴェネツィアに到着しました。ヴェネツィアでの行動は次のようです。
ニコロ・ダ・ポンテ[パルマ・イル・ジョーヴァネ画『総督ニコロ・ダ・ポンテ像』サイトから借用。遣欧使節に謁見時、95歳。謁見直後の7月30日没。]
「6月26日=誓願修舎の客室に一泊。夜、教皇使節来訪。
6月27日=ヴェネツィア総大司教、ドイツ皇帝大使及び諸国の大使・貴顕の来訪。市内数ヶ所の聖堂を訪問。
6月28日=総督ニコロ・ダ・ポンテの謁見式が総督宮殿で。日本服1着、刀1振、短刀1振贈呈。その後、武器室、第十参議会[十人委員会の事?]室、宝庫を参観。昼食後ムラーノ島のガラス工場を見学。
6月29日=この日は聖ペテロと聖パウロの祝日であったが、毎年聖マルコの祝日(6月25日)に行われる習わしであったヨーロッパでも著名な豪奢な行列がこの日に延期された、それを参観。
6月30日=大会議室にて歓迎会。
7月1日 =教皇使節の宴会。 
7月2日 =聖母御訪問の祝日でミサを聞き、天主堂で聖体拝領。
7月3日 =造船所、リードの2城塞を訪問。
7月4日 =政庁に告別に赴く。大会議室に彼らの姿を記念に残すことになり、ティントレットに描かせた(マンショの物だけが完成した)。昼食後政庁は一行に贈物をした。=《高価な象牙製の十字架4個、美麗に彩色された鏡4面、立派な種々の硝子器の入った美しい函(硝子器が500個以上)、濃紅色天鵞絨の織物2反、グラン染織物2反、濃紫色琥珀織物2反、繻子2反、金襴の織物2反(1反は濃紅色、他は薔薇色でヴェネツィアで最も珍重される絹地であり、色合いであった)、金襴錦織物2反》。
7月5日 =サンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館を来訪、ヨハンネス(希語式バシレイオスBasilios)・ベッサリオン(羅典語式Johannes Bessarion――伊語式ジョヴァンニ・ベッサリオーネGiovanni Bessarione)枢機卿の残された聖遺物を拝観。ヴェネツィアを発つ。」 ――ルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳注、東洋堂、1942)より
伊東マンショ今回も来日した、ドメーニコ・ティントレット画の伊東マンショのこの肖像画は、前回発見直後来日し、国立東京博物館で短期間展示されました。その展覧に合わせてイタリア文化会館で、この絵を所有したトゥリヴルツィオ財団の方を始め、ヴェネツィア大学の美術の先生方の講演がありました。2016.05.21日のブログ伊東マンショでその辺の事情を書きました。
マンフレディアーナ天正遣欧使節の碑彼らがヴェネツィアに来訪した事を受けて、その旨が1585年の碑に残されています。最初それは彼らが訪れたサンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館に置かれていましたが、カリタの教会、修道院、同信会館がアッカデーミア美術学校と美術館に模様替えになった時、碑は近くのサルーテ教会左隣のSeminario patriarcale の中庭に移されました。ここの門は普通は閉ざされいて一般公開の状態ではなかったのですが、最近ここの蒐集品がマンフレディーニ絵画館(Pinacoteca manfrediniana)としてオープンしたので普通にアクセス可能となりました。私はまだ再確認していませんが、門を入ると中庭で左前方、入口左にそれはありました。

彼らは6月29日は豪奢な行列を見たのですが、サン・マルコ寺院でアンドレーア・ガブリエーリの歓迎のミサ曲を聞いています。それは『四つの合唱隊による16声のグローリア(Gloria a sedici parti, con quattro cori separati)』(1587刊)という大曲でした。アンドレーアはその年の8月30日全力を使い果たしたように亡くなっています。かつて彼の没年月日は辞典等曖昧でしたが、近年古文書が見つかったようです。ヴェネツィアでも東京でもCDが探せませんでした。私は未聞ですが、この大曲を聞かれた方があるのでしょうか。
  1. 2017/11/06(月) 01:00:07|
  2. 展覧会
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(2)

(続き)
「フラーリ聖堂は、ヴェネツィアと外国双方のそうした同信会によるパトロネージから多大な恩恵を受けた。1361年、ミラノ人同信会は、聖アンブロシウスと洗礼者聖ヨハネを奉献対象とする礼拝堂の寄進に同意している。また、1435年にはフィレンツェ人たちが、ドメニコ会のサン・ザニポロ聖堂に礼拝堂を建てるという当初の計画をわざわざ放棄して、洗礼者聖ヨハネと聖母に献じる自分たちの同信会をフラーリ聖堂で創立する許可を得た。
フラーリ教会[写真、サイトから借用]  このようにフィレンツェ人たちがフラーリ聖堂に寄進を行ったからこそ、ヴェネツィアに残る唯一のドナテッロの作品、すなわち彼が1438年に同国人のために制作した多彩色の木彫《洗礼者聖ヨハネ》は、この聖堂に収められているのである。……」
……
「すでに1290年代後半の法律制定が、ヴェネツィアの有力な一族からそうした世俗的関心を取り除くとともに、彼らの政治上ないし社会上の持続的な優越性を、少なくとも彼らが男子の跡継ぎをもうけることができる限りにおいて、事実上保障していたのである。その極めつけの法律は『セラータ』で、これは実際に、1297年における大評議会の『閉鎖』であった。

すなわち、大評議会の議員資格が、過去4年間に議員を輩出している一族の男子に限定されたのである。大評議会はあらゆる官職の候補者を供給する排他的な源であったため、その議員資格の限定は、政府のすべての地位と権力にまつわる資格の限定を意味した。1297年のこの法律制定をもってヴェネツィアの貴族階級は自らを生み出したのである。

そして、それから約200年がすぎた頃、ヴェネツィア貴族たちは『貴族としての自意識に極限までみがきをかける』べく、貴族の出生および結婚について記載されるいわゆる『黄金の書(リブロ・ドーロ)』を編纂し始めた。1506年8月31日に十人委員会によって定められた法令により、貴族の父親は出生を記録する義務を負った。加えて、1526年4月26日に公布された法律に従い、貴族の結婚についても登記の必要が生じたのである。

ラータの発布された時期に貴族であった一族の中には、後にフラーリ聖堂の主要なパトロンとなる家柄も含まれていた。ベルナルド家やコルネール家、ダンドロ家、フォスカリ家、ジュスティニアーニ家、マルチェッロ家、ミアーニ家、トレヴィザン家、トロン家、そして言うまでもなくペーザロ家がその例である。いやそれどころか、ヴェネツィア貴族のすべてとは言わないまでも大半は、様々な機会に様々な方法でフラーリ聖堂に寄進を行っていた。

イタリアの他の土地におけるパトロネージをしばしば特徴づけるものであった、自分の居住地の近くに建つ特定の教会への忠誠というしがらみから解き放たれていたヴェネツィア貴族は、立地に関係なく教会に寄進を行っていた可能性が高い。事実、スタンレー・ホイナツキが明らかにしたとおり、1376年の行政上の国勢調査[estimoエスティモ(市民や町の財産評価。その評価に基づく税金や貢納金の意)]は、ヴェネツィア貴族全体の76.9%がこの都市の二つ以上の地区[sestiere(六つの区のこと)]に名を連ねていたことを明瞭に示している。……」
……
「フランチェスキーナはピエトロ・ペーザロの未亡人であった。ピエトロは、ファンティーノの息子カローゾの甥にしてアンドレアの息子にあたる人物である。彼は1419年、アレッサンドロ・プリウリの娘アレッサンドラ、通称アレッサンドリーナと最初の結婚をした。この夫婦は、少なくとも四人の息子を含む数名の子供をもうけている。

その後、アレッサンドリーナは1427年に若くしてこの世を去るが、それ以前、おそらくは数回にわたる妊娠期間のいずれかに、万一のため遺言状を公証人に口述筆記させていた。遺言状は非常に簡潔で、埋葬場所については明記しておらず、アレッサンドリーナはその場所の決定を夫ピエトロら遺言執行者にゆだねている。

この最初の妻の死から一年後の1428年ピエトロは再婚した。その再婚相手こそが、サン・ベネット教区に住むニコロ・トロンの娘であったフランチェスカ、すなわちフランチェスキーナで、彼女はニコロ、ベネデット、マルコという三人の息子をピエトロにもたらした。そして、この三兄弟が、フラーリ聖堂におけるジョヴァンニ・ベッリーニのパトロンになるとともに、父よりも10年長生きした母を全面的に記念する、当初は聖具室礼拝堂を極めて豪華に飾り立てていたもののパトロンとなった。……」 (3に続く)
  1. 2017/11/01(水) 00:27:17|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ヴェネツィアの人口(4)

昨日のヴェネツィアの新聞La Nuova紙は次のような事を告げています。
ヴェネツィアの人口「 流出(Esodo)、ヴェネツィアは54,000人を切った
――10月26日、ヴェネツィア本島(チェントロ・ストーリコ)の住民は、53,986人と減少。この1年で約千人の市民を失った――

悲観するような新記録、“出エジプト記(出国)”である。チェントロ・ストーリコの54000人という《城壁》は崩されてしまった。ヴェネツィア市に住む市民の戸籍簿の更新されたデータは、53,986人の住民となったことを語っている。

サン・マルコ、カステッロ、カンナレージョ区に住む人は32,000人以上であるのに比して、ドルソドゥーロ、サン・ポーロ、サンタ・クローチェ、サンテーレナに住む人は約21,000人である。

昨年11月、“Venexodus(ヴェネッソドゥス)”の町のための歯止めが解けてしまった。町の人口減少に対するヴェネツィア市民の表明は、Venessa.com協会に助成され、サン・バルトロメーオ広場のモレッリ薬局のカウンターは、まだ54,926人を示していた。その抗議は55,000人という数字を破壊することに繋がったのだった。今や1年も経たない内に54,000人を下回ったのである。……」
  1. 2017/10/29(日) 12:43:49|
  2. ヴェネツィアの人口
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(1)

ローナ・ゴッフェン著『ヴェネツィアのパトロネージ――ベッリーニ、ティツィアーノの絵画とフランッチェスコ修道会』(石井元章監訳、木村太郎訳、三元社、2009年3月31日)という本を読んでみました。
パトロネージ「ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂はまるで小宇宙のようである。この聖堂は壁の内側に、まさしく文字どおり、ヴェネツィア・ルネサンス美術の歴史を含んでいる。それと同時に、フラーリ聖堂の歴史は、13世紀の創設から1517年の分裂に至るまでのフランチェスコ修道会の歴史を縮約している。

この聖堂の祭壇や装飾に表されている神学上の問題と特別な宗教性は、フランチェスコ会特有の関心やこの修道会の性格を示すものであり、また一方では、ルネサンス期ヴェネツィアにおいて教会と国家のあいだに存在した独特な関係を暗示するものでもある。そして、今述べたことすべては、15世紀のヴェネツィア最大の画家ジョヴァンニ・ベッリーニと16世紀絵画の偉大な天才ティツィアーノ・ヴェチェッリオがフラーリ聖堂のために描いた祭壇画に具現されている。
[Frari(フラーリ、単数frar、ヴェ語)=伊語frate(僧)、fratello(兄弟)の意。ここではフランチェスコ会士のこと。]

そのうちの三点は、それらが当初から置かれることになっていた場所に今日も光彩を添えている。すなわち、ベッリーニの手になる聖具室の聖母の三連祭壇画と、ティツィアーノによる主祭壇の《聖母被昇天》、および左側廊の《聖母》である。現在ヴェネツィアのアカデミア美術館に収蔵されるティツィアーノの《ピエタ》もまた、もともとは同じ聖堂のために制作されたものであった。」
……
「その約一年後の1250年4月3日、助祭枢機卿にして教皇庁の遣外使節であったオッタヴィアーノによって新しい聖堂の礎石が置かれた。オッタヴィアーノは、この聖堂の建設を援助した者には140日の贖宥を与える、と宣言した。聖母被昇天を祝うために献じられたこの聖堂は、オッタヴィアーノが説明するように、聖母を奉献対象とするヴェネツィアの他の教会と区別するため、『サンタ・マリア・グロリオーザ(『被昇天の聖母』を意味する[ただし、本来は『栄光の聖母』の意])』と名づけられた。このフラーリ聖堂の奉献はまた、聖母マリアに対する聖フランチェスコとその弟子たちの深い信仰をはっきりと示すものであった。……」
……
「教皇によるパトロネージは概してフランチェスコ会を強力に後押ししたが、それは聖母に献じられたこのヴェネツィアの聖堂においても変わりはなかった。1249年3月25日のインノケンティウス4世による大勅書の発布から3年後には、フラーリ聖堂ならびに修道院の建設費用を負担した者に40日の贖宥を与えることが新たに承認されている。

また、インノケンティウス4世の後継者アレクサンデル4世は、1255年、1256年、1261年に公布された大勅書の中でいくつかの贖宥を認めるとともに、フランチェスコ、アントニウス、キアーラの三聖人の祝日におけるフラーリ聖堂への参詣に対して褒賞を授けることで、この新たなフランチェスコ会の聖堂をよりいっそう支援した。そして、これらの後も、贖宥の認可はさらに数多く続いた。……」
……
「フランチェスコ会士たちは15世紀後半、すなわち1517年のフランチェスコ会の分裂に先立つ約50年間に、もっとも大きな成功のいくつかを収めた。フラーリ聖堂の装飾の多くはこの時期に完成しているが、それらが少なくとも全般的には、公の賛意と奨励によって助成されていたことは疑いを容れない。

例えば、1475年にヴェネツィアの元老院は、聖フランチェスコの祝日が公的な祭典をもって祝われるべきものであると定めている。しかしながら、フラーリ聖堂をまさしく文字どおり、今日見ることのできる輝かしい記念碑へと仕立て上げたのは、教皇庁でもなければヴェネツィア共和国でも、またいかなる政府機関でもなく、むしろこの聖堂の民間のパトロンたちであった。これらのパトロンの中には、外国およびヴェネツィアの様々な同信会、ならびにサンソヴィーノの述べるような『貴族、平民を問わ』ない多数の寄進者たちが含まれる。

フラーリ聖堂の建設と装飾という大事業はほぼ完全に、そうした民間の寄進者たちによる貢献のおかげでなし遂げられたのであり、そこにヴェネツィア共和国からの支援はほとんどなかった。……」 (2に続く)
  1. 2017/10/25(水) 00:14:37|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ヴェネツィアの街案内(22): サン・マルコ広場

今までヴェネツィアの中心サン・マルコ広場について、余り触れてきませんでした。ヴェネツィアの古本屋で買ったLeone Dogo編集『Questa strana Venizia(不思議の町ヴェネツィア)』(Novara、1971)というガイドブックに、サンマルコについて簡単な紹介があるので訳してみます。
Veneziaサン・マルコ広場 1500年前、ヴェネツィアは存在していなかった。少なくとも“この”ヴェネツィアは存在していなかった。しかし繰り返される蛮族の侵入から逃れるため、ラグーナ(潟)の中に逃げ場を求めた、多くの政治的難民としてのヴェネツィア人の古い先祖達は存在していた。ある種の同盟で結ばれた小さなセンターが、ラグーナの島に幾つも発生した。人々は特に漁業の収益と塩の販売で生活した。

今やヴェネツィアを起ち上げた、これらの島のグループはこうしたセンターの一つを形成した(Rivo Alto[羅典語Rivus altus―深い川、運河]と呼ばれた島)。門の前に舫った舟があり、木と籐や葦で出来た垣のボロ屋が点在し、運河に架けた木の小さな橋、野生動物が通過出来るような小さな階段さえまだなく、耕された畑に囲まれて貧弱な礼拝堂や小さな教会があり、平らな地では雌羊や乳牛が飼育されていた。

塩田として囲われた区域は仕事に活気があった。運河岸のここかしこには、潮流のゆっくりした流れで動く粉挽きの水車の姿が見られた。これは紀元655年にヴェネツィアに到来して見渡せば、凡そそこに現出している風景であった、はたまた755年にさえまだ…。

修道女の果樹園――サン・マルコ広場なのか? 現在、当然サン・マルコ広場にはそうしたものはない。このエリアには運河と水溜りが走り、近くのサン・ザッカリーア修道院の修道女の所有になる樹木の生い茂る brolo[ブローロ―果樹園]が広がっていたのだ。[下図、サン・ザッカリーア教会]
サン・ザッカリーア教会[総督宮殿の辺りは brolo、brogio (ヴェ語、果樹園)と呼ばれ、サン・ザッカリーアの修道女の所有でした。12世紀、総督宮殿が増築して建てられることになった時、彼女達はその地を総督に譲ったので、総督が年に一度復活祭の日曜日、サン・ザッカリーア教会に表敬訪問をする仕来りが生まれたそうです。
総督宮殿下のアーケードは broglio(伊語)とも呼ばれ、大評議会で採決する前、票集めの買収のためにあのアーケード空間を行き来してひそかに票の売買が行われるのが毎度のことだったようです。そのため imbroglio(伊語、ペテン)という言葉が生まれました。オペラ等でごたごたや陰謀の場をインブローリオと言ったりします。]

809年カール大帝[シャルルマーニュ](伊語Carlo Magno)の息子ピピン(Pipino)が大軍を率いてリード島を平定した(当時そこにヴェネツィア政庁があった)。しかし彼の軍がザッテレまで来るとラグーナの水が退潮し[船が座礁し]、泥濘が罠となって足を取られ、二進も三進も行かなくなった。“水の穴”に足が嵌まり、文字通り全てが沈んだ。

ピピン軍は面目丸潰れで、何の成果もなしに退却したのである。ピピン軍の成果皆無の敗退で、ヴェネツィア人は自分達の中心地を、リードからより安全と思われるリアルトに移すことに決めた。それ故サン・ザッカリーア修道院のバデッサ座下の同意を得て、総督達は、現在総督宮殿が建っている場所に彼らの住居を建てた。
[サン・ザッカリーア教会には洗礼者ヨハネの父、聖ザカリアの遺体が祀られています。この遺体はビザンティン皇帝レオ5世(813~820)が友情の印として、ヴェネツィアに贈与したものだそうです。ヴェネツィアには福音史家聖マルコやシラクーザの聖女ルキアの遺体が現存します。]

その代りバデッサ座下は権力の象徴としての角の形をした総督帽(コルノ帽‐corno dogale、acidarioとも)を、総督が年に一度修道院に表敬訪問する時、彼にそれを手渡し、着飾って貰うという特権を得た。

木の教会――20年ほど後(828年)、2人の冒険好きのヴェネツィアの商人[ブオーノ・トリブーノ・ダ・マラモッコとルースティコ・ダ・トルチェッロの2人]が、エジプトのアレクサンドリアの教会から福音史家聖マルコの遺体を盗んでヴェネツィアに持ち帰った。その時まではラグーナの人々の守護聖人は、ドラゴンを制圧した聖テオドールスであり、その何年も前の事、ビザンティンの将軍ナルセス(Narsete―ベルサリオス将軍の後任)の兵士達が、修道女の有名な《果樹園(brolo)》にお堂を建立したのだった。勿論の事、ヴェネツィア人は守護聖人の役を聖テオドールスから聖マルコに変更する事を決めた。

新しい守護聖人の栄えある教会が、数年後総督の《城》[当時はまだPalazzoになっていなかったようです]の直ぐ傍に建造された。それは当時ヴェネツィアの全ての建造物がそうであったように木の教会で、976年僭主化していた総督に抗議した人民が、総督の館に近い教会に火を放ち、焼失したのだった(この総督ピエートロ・カンディアーノ4世は逃げ出そうとしていたところを、教会玄関で腕に抱えた幼い息子もろ共虐殺されてしまった)。

新総督ピエートロ・オルセーオロ1世はより美しい、未だかつて見た事もない物を再建した。彼は国家財産に全てを注いだ聖なる男だった。だから自費で建てようとし、直ぐ傍に貧しい巡礼者のための施設(救貧院)さえ建てたので、聖地を目指す全ヨーロッパからの夥しい人間がヴェネツィアに詰め掛けた。
[エルサレムへの巡礼行はヴェネツィア或いはマルセーユから船で行く便が有名でした。ヴェネツィアでは船の出航までの期間、巡礼者達の扱いに色々策を練ったようです。言わば、当時からヴェネツィアには観光業が存在したという事。例えばザビエル(最近はバスク人だったこともあり、シャビエルと表記するようになったようです)が日本に到来する前、イグナティウス・デ・ロヨラがエルサレムへの巡礼行のため、インクラービレ養育院で奉仕活動をしながら船待ちをしていたそうです、それは実現しなかったようですが。]

現実のサン・マルコ寺院は1063年に完成した。

広場の生成――セバスティアーニ・ズィアーニはサン・マルコ広場にその景観を与えた総督である。彼の在任中(1172~78)、《バドエール運河》を完全に埋立て、広場を広げた。この運河は古い“brolo”の真ん中を流れており、プロクラティーエ・ヴェッキエ(旧収入役館)と呼ばれた建物が左に建てられた。総督ズィアーニは“総督城”も新しく、もっと美しいものにしようと考えた。
サン・マルコ広場サン・ジェミニアーノ教会[カナレット画、左、サン・ジェミニアーノ教会側から見たサン・マルコ広場、右、サン・マルコ寺院側から見た旧サン・ジェミニアーノ教会]  1500~1600年の間に広場と小広場は決定的なその姿を形作る事になった。時計の塔が建ち上がり、サンソヴィーノ図書館(総督宮殿前)、プロクラティーエ・ヌオーヴェが姿を見せた。1902年崩れ落ち、“come'era e dov'era(元の姿で同じ所に)”と再建された鐘楼を別にして、新しい建造物はフランス軍占領下に作られた、いわゆるナポレオン翼である。それは1500年代建築のサン・ジェミニアーノ教会を壊した跡に建てられた。」
  1. 2017/10/19(木) 00:53:37|
  2. ヴェネツィアの街
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文学に表れたヴェネツィア――ヴェネツィア文芸本一覧(和訳本)

ブログ満10年となり、この節目に定期的(毎週木曜日)更新を終了することにしました。以前2011.05.07日のヴェネツィア本》(1)~2011.05.28日のヴェネツィア本》(4)とヴェネツィア関連本をリストアップしましたが、この際今まで取り上げた文芸本もリストにしておきます(掲載日、新→古の順です)。

『書物の夢、印刷の旅――ルネサンス期出版文化の富と虚栄』(ラウラ・レプリ、柱本元彦訳、青土社、2014年12月10日)
『カルニヴィア1 禁忌』(ジョナサン・ホルト著、奥村章子訳、早川書房、2013年9月15日)
『ヴェヌスの秘録』第1巻《水底の仮面》(タニス・リー、柿沼瑛子訳、産業編集センター、2007年3月31日、他第4巻まで)
『ストラヴァガンザ 仮面の都』(メアリ・ホフマン、乾侑美子訳、小学館、2010年7月4日)
『水冥き愁いの街(みずくらきうれいのまち)――死都ヴェネツィア 龍の黙示録』(篠田真由美、祥伝社、平成18年5月20日)
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、和辻哲郎『イタリア古寺巡礼』(要書房、昭和二五年四月)
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、板垣鷹穂『イタリアの寺』(芸文書院、大正一五年一一月)中の《小寺小品》
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、牧野英一『海を渡りて野をわたりて』(日本評論社、昭和二年一一月)中の《マルコの広場》
『みどりの小鳥』(河島英昭訳、岩波書店、一九七八年四月二七日)、《イタリア民話選》として
『ヘミングウェイとパウンドのヴェネツィア』(今村楯夫/真鍋晶子、彩流社、二〇一五年一月二十日)
『齋藤茂吉全集』第一巻(岩波書店、昭和四十八年一月十三日)、第四歌集『遠遊』中の《伊太利亜の旅》
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、斎藤茂吉『三田文学』(大正一五年八月号)に掲載した《ヴェネチア雑記》
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、成瀬無極『夢作る人』(大正十三年七月)中の《伊太利小景》
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、河東碧梧桐『異国風流』(大正九年)
『遊び人の肖像』(フィリップ・ソレルス著、岩崎力訳、朝日新聞社、1990年12月20日)
『フロイトのイタリア――旅・芸術・精神分析』(岡田温司、平凡社、2008年7月25日)
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、田中耕太郎『南欧芸術紀行』(文藝春秋新社、1952年刊)
『世界紀行文學全集 5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)、歌人与謝野晶子の夫、与謝野寛(号、鉄幹)のイタリア旅行記《ヴェネチヤ編》(明治45年)
Zeppelin, citta` raccontate da scrittori シリーズ中の『Venezia』(Valerio Bispuri, Luciano del Sette 編)に、メルヴィルの《ヴェネツィア滞在記》
Giuseppe Nalin『Fiabe veneziane(ヴェネツィア昔語り)』(Corbo e Fiore Editori-Venezia、1995)、見開きでヴェネツィア語とその伊語訳が対照的にページアップされたもの。その中の『La fiaba dello sciocco(馬鹿息子の昔話)』
『ヘルマン・ヘッセ全集 16 全詩集』(日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会編、臨川書店、2007年4月30日)
『老ピノッキオ、ヴェネツィアに帰る』(ロバート・クーヴァー、斎藤兆史・上岡伸雄訳、作品社、2012年9月30日)
『世界名詩集 12巻』(平凡社、昭和四十三年五月二十五日)中、テオフィル・ゴーチエ『七宝とカメオ』(齋藤磯雄訳)
Marina Vlady『Le collectionneur de Venise(ヴェネツィアのコレクター)』(Editions Fayard、1990.05.)
アンリ=ルネ=アルベール=ギ・ド・モーパッサンの紀行文『Venise』(1885.05.05)をティツィアーノ・スカルパはその著書『Venezia è un pesce(ヴェネツィアは魚だ)』(Universale Economica Feltrinelli、2003.10)中に掲載しています
『スターバト・マーテル』(ティツィアーノ・スカルパ著、中山エツコ訳、河出書房新社、2011年9月30日)
Diego Valeri『Guida sentimentale di Venezia(ヴェネツィア・センティメンタル・ガイド)』(Passigli Editori、1997、古い版の新版)
『ジンメル・コレクション』(北川東子編訳、鈴木直訳、筑摩書房、1999年1月12日)/平凡社ライブラリー文庫『ジンメル・エッセイ集』(川村二郎訳、1999年9月)
『表象のヴェネツィア――詩と美と悪魔』(鳥越輝昭、春風社、2012年11月21日)
『ヴェネツィア 詩文繚乱――文学者を魅了した都市』(鳥越輝昭、三和書籍、2003年6月30日)
『ヴェネツィアの光と影』(鳥越輝昭、大修館書店、1994年8月1日)
『生きている過去』(アンリ・ド・レニエ著、窪田般彌訳、岩波文庫、1989年11月16日)
『チャンドス卿の手紙 他十篇』(ホーフマンスタール著、檜山哲彦訳、岩波文庫、1991年1月16日)中の『美しき日々の思いで』
『ピエタ』(大島真寿美、ポプラ社、2011年2月18日)
Aldo Bova『Venezia――I luoghi della musica』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)
『アスパンの恋文』(ヘンリー・ジェイムズ著、行方昭夫訳、岩波文庫、1998年5月18日)
『ヴェニス 光と影』(吉行淳之介X篠山紀信、新潮社、五十五年十月二十日)/學燈社版で再販
『ニーチェ全集 第十六巻』書簡集・詩集(塚越敏・中島義生訳、理想社、昭和45年5月25日)
『齋藤茂吉全集』第一巻(岩波書店、昭和四十八年一月十三日)
『藝術にあらわれたヴェネチア』(平川祐弘、内田老鶴圃、昭和三十七年十月二十日)
Roberto Bianchin『Acqua granda―Il romanzo dell'alluvione(アックァ・アルタ―大洪水の物語)』(Filippi Editore Venezia、1996)
『ピサ詩篇』(エズラ・パウンド、新倉俊一訳、みすず書房、2004年7月15日)
Pietro Buratti『Elefanteide』(Filippi Editori Venezia、1988)
『ヴェネツィアで消えた男』(パトリシア・ハイスミス著、富永和子訳、扶桑社ミステリー文庫、1997年2月26日)
『ヴェネツィアの石――建築・装飾とゴシック精神』(ジョン・ラスキン、内藤史朗訳、宝藏館、2006年10月20日)
『ヴェネツィアの薔薇――ラスキンの愛の物語』(ミッシェル・ロヴリック&ミンマ・バーリア著、富士川義之訳、集英社、2002年1月30日)
『決定版 ロシア文学全集 3』(ツルゲーネフ『父と子』『その前夜』『初恋』米川正夫訳、日本ブック・クラブ、1969年9月20日)中の『その前夜』
『鷗外全集 第二巻』(岩波書店、昭和四十六年十二月二十二日)中の『卽興詩人』
『世界名詩集大成 9巻』イギリス1(平凡社、昭和34年10月20日)、ワーズワース『 ヴェニス共和国の滅亡に際して』(前川俊一訳)
『スターバト・マーテル』(ティツィアーノ・スカルパ、中山エツコ訳、河出書房新社、2011年9月30日)
『ヴェネツィア刑事はランチに帰宅する』(ダナ・レオン、北條元子訳、講談社文庫、2005年4月15日)、ブルネッティ警視シリーズ
『死のフェニーチェ劇場』(ダナ・レオン、春野丈伸訳、文藝春秋、1991年7月)、
『異国に死す』(ダナ・レオン、押田由起訳、文春文庫、1998年3月)
『ヴェネツィア殺人事件』(ダナ・レオン、北條元子訳、講談社文庫、2005年4月15日)
『ヴェニスの街のなんと哀しき――』(ソランジュ・ファスケル、榊原晃三訳、人文書院、1995年6月30日)
『ゆるぎなき心』(フィリップ・ソレルス、岩崎力訳、集英社、1994年5月25日)
『鷗外全集 第十一巻』(岩波書店、昭和四十七年九月二十二日)中のアンリ・ド・レニエ『復讐』
『即興詩人』(アンデルセン、神西清訳、小山書店、昭和33年3月31日)
『ヴェネツィアの恋文――十八世紀、許されざる恋人たちの物語』(アンドレア・ディ・ロビラント、桃井緑美子訳、早川書房、2004年6月30日)
『カザノーヴァ』上・中・下巻(ヘルマン・ケステン、小松太郎訳、角川書店、昭和38年11月20日)
『修道士マウロの地図』(ジェイムズ・カウアン、小笠原豊樹訳、草思社、1998年4月1日)
『歌手コンシュエロ――愛と冒険の旅』上・下巻(ジョルジュ・サンド、持田明子・大野一道監訳、藤原書店、2008年5月30日・6月30日)
『本当の話』(ソフィ・カル、野崎歓訳、平凡社、1999年10月20日)
『デカメロン』その三(四日目第二話)(ボッカッチョ、野上素一訳、岩波文庫、1957年2月5日)
『特命全権大使 米欧回覧実記 四』(久米邦武編、田中彰校注、岩波文庫、1980年8月18日)
『特命全権大使 米欧回覧実記 4 ヨーロッパ大陸編・中 1871-1873』(現代語訳普及版、久米邦武=編著、水澤周=訳・注、米欧亜回覧の会=企画、慶應義塾大学出版会、2008年6月20日)の《後注》
Bruno Rosada『Donne veneziane―Amori e Valori―Da Caterina Cornaro a Peggy Guggenheim』(Corbo e Fiore Editore、Venezia、2005.12.)
『ルネサンスの高級娼婦』(ポール・ラリヴァイユ、森田義之・白崎容子・豊田雅子訳、平凡社、1993年8月25日)
Alvise Zorzi『Cortigiana veneziana――Veronica Franco e i suoi poeti 1546-1591』(Camunia editrice srl, 1986)
『イタリア紀行』上巻(ゲーテ著、相良守峯訳、岩波文庫、1942年6月1日)
『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(ジョン・ベレントン、高見浩訳、光文社、2010年4月25日)
雑誌『ユリイカ』1972年11月号(vol.4-13)の《エズラ・パウンド特集》
雑誌『現代詩手帖 1998年7月号』(第41巻第7号の《パゾリーニ特集》
『世界名詩集大成 第11巻』アメリカのエズラ・パウンド『キャントゥズ(Cantos)』(岩崎良三訳、平凡社、昭和34年5月20日発行)
『オセロ』(シェイクスピア、三神勲訳、角川文庫、昭和47年8月30日)
『ヴェニスの商人』(シェイクスピア、福田恒存訳、新潮文庫、昭和42年10月30日)
『浴室』(ジャン=フィリップ・トゥーサン、野崎歓訳、集英社文庫、1994年11月25日)
Da Ponte『Memorie/I libretti mozartiani』(i grandi libri Garzanti、1976)
Matilde Dillon Wanke編の『Senso e altri racconti』(Oscar Classici Mondadoriシリーズ、Arnoldo Mondadori Editore、1994)
『世界名詩集大成 第6巻』ドイツ1(平凡社、昭和35年6月10日発行)中の『詩集』(川村二郎訳)
『マリノ・ファリエロ』《対訳バイロン詩集――イギリス詩人選(8)》(笠原順路編、岩波文庫、2009年2月17日)
『バイロン詩集』世界詩人選第四巻(阿部知二訳、小沢書店、1996年7月20日)
『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』(ベルナデット・ショヴロン、持田明子訳、藤原書店、2000年4月25日)
『世紀児の告白』(アルフレッド・ド・ミュッセ、小松清訳、岩波文庫、昭和28年6月25日)
『年下のひと』(フランソワ=オリヴィエ・ルソー、吉田良子訳、角川文庫、平成十二年四月二十五日)
『彼女と彼』(ジョルジュ・サンド、川崎竹一訳、岩波文庫、昭和25年5月5日)
『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』(金関寿夫訳、集英社、1996年1月22日)
『ヴェネツィアに死す』(トーマス・マン、岸美光訳、光文社文庫、2007年3月20日)
『都市ヴェネツィア』(フェルナン・ブローデル、岩崎力、岩波書店、1986年8月11日)/同書再版、同時代ライブラリー20(フェルナン・ブローデル、岩崎力訳、岩波書店、1990年3月9日)
『ヨーロッパ・二つの窓――トレドとヴェネツィア』加藤周一・堀田善衛対談集(リブロポート社、1986年12月)
『ヴェニスに死す』世界の文学35巻他(トーマス・マン、関楠生訳他、中央公論社、昭和40年6月10日)
『ヘミングウェイ全集7巻――河を渡って木立の中へ・他』(大久保康雄訳・他、三笠書房、1973年12月30日)
Ernest Hemingway『Di là dal fiume e tra gli alberi』(伊語訳とまえがき Fernanda Pivano, una cronologia un'antologia di giudizi e una bibliografia 付き, Scrittori del Novecentoシリーズ、Oscar Mondadori, 2005)
『消え去ったアルベルチーヌ』(マルセル・プルースト、高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫、2008年5月20日)
『失われた時を求めて』12巻、第7編「見出された時 1」(マルセル・プルースト、鈴木道彦訳、集英社、2000年9月25日)
『ヴェネツィアでプルーストを読む』(鈴木和成、集英社、2004年2月10日)
『失われた時を求めて』第11巻第六編「逃げ去る女」(マルセル・プルースト、鈴木道彦訳、集英社、2000年3月22日)
『失われた時を求めて』第六篇「逃げさる女」(筑摩世界文学大系59A「プルーストⅢA」、井上究一郎訳、1988年4月30日)
『カサノヴァ回想録2 脱獄の巻』(ジル・ペロー編、大久保昭男訳、社会思想社現代教養文庫、1986年5月30日)
『カザノヴァ回想録』第一巻(岸田國士訳、岩波文庫、1952年4月25日)
『カサノヴァの帰還』(アルトゥール・シュニッツラー、金井英一・小林俊明共訳、集英社、1992年3月10日)
『ヴェネツィアからの誘惑――コルヴォー男爵少年愛書簡』(河村錠一郎訳、白水社、1994年12月25日)
『世界名詩集大成 第3巻』フランス2(アンリ・ド・レニエ、青柳瑞穂訳、平凡社、昭和37年4月1日)中の『水都幻談』
『ヴェネツィア風物詩』(アンリ・ド・レニエ、窪田般彌訳、王国社、1992年1月30日)
Gaspara Stampa『Rime』(Biblioteca Universale Rizzoli, stampare nel mese di febbraio 1994、ガースパラ・スタンパの詩集)
『世界名詩集 10巻 リルケ』《第一の悲歌》(手塚富雄訳、平凡社、昭和44年3月20日)中の『ドゥイノの悲歌』
『新潮世界文学32巻 リルケ』(谷友幸訳、1971年9月20日)中の『神さまの話』《ヴェニスのユダヤ人街で拾ったある風景》
『ヴェニスからアウシュヴィッツへ』(徳永洵、講談社文庫、2004年7月10日)
『新潮世界文学32巻 リルケ』(大山定一訳、1971年9月20日)中の『マルテの手記』
『郷愁のイタリア』海外旅行選書(ヘンリー・ジェイムズ、千葉雄一郎訳、図書出版社、1995年2月28日)
『鳩の翼』(ヘンリー・ジェイムズ、青木次生訳、講談社文芸文庫、1997年10月10日)
『筑摩世界文学大系22巻 ルソー』(桑原武夫訳、昭和48年1月10日)中の『告白』
『世界文学全集 2-5 ルソー』(J.J.ルソー、井上究一郎訳、河出書房新社、昭和39年1月10日)中の『告白録』
Giorgio Bassani『Dentro le mura』の改訂版、『Cinque storie ferraresi』
『フィンツィ・コンティーニ家の庭』(ジョルジョ・バッサーニ、大空幸子訳、新潮社、1969年12月15日)
『ニーチェ全集』第14巻《この人を見よ・自伝集》(川原栄峰訳、理想社、昭和42年4月25日)
『筑摩世界文学大系11巻』(ダンテ、野上素一訳、筑摩書房、昭和48年11月15日)――『神曲』《地獄篇第21歌》

今後は不定期に翻訳等の日本語訓練を試みたいと思っています。長い間、有難うございました。
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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