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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

聖ヴァレンティーノ

今日はバレンタインデーです。私も一度だけ女性からチョコを戴いたことがあります。会社の少人数しか居ない同じ課で、定年退職する女性が直前の2月14日、男子にチョコを配られました。初体験だったので、大変感動しました。伊語形のヴァレンティーノという名前について、『名前事典』から伊国の様子を紹介してみます。
名前辞典「この名前は動詞Valère(状態が良い、健康である、強健であるの意)に由来する羅典語名Valentinus(ウァレンティヌス)から来たもの。西ローマ帝国皇帝3人がこの名を持っている。

有名な傭兵隊長チェーザレ・ボルジャ(1475~1507)はヴァレンティーノ公と呼ばれた。彼は、法王アレクサンデル6世の名で教皇庁のトップになった、その名の由来のヴァランティノワ公でロドリーゴ・ボルジャの息子だった。全ロマーニャ地域を占有し、中央イタリアに自分の国を作ることを夢見たが、その夢は新しい教皇ユリウス2世の即位で無に帰した。

現代人の中では、編集者ヴァレンティーノ・ボンピアーニ、宇宙飛行士ヴァレンティーナ・テレスコヴァ(ワレンチナ・テレシコワの事)、女優ヴァレンティーナ・コルネーゼとヴァレンティーナ・フォルトゥナート、デザイナーのヴァレンティーノ(ガラヴァーニ)。

ヴァレンティーナはクレパスで描かれた有名な漫画の登場人物である。文学では、ヴァレンティーノはパースコリが書いた同名の詩の中で謳われた少年の名前である。

教会は2月14日、聖ヴァレンティーノ(ウァレンティヌス)のことを思い出す。この日は聖ウァレンティヌスのローマ殉教の日であり、愛し合う人達の愛に捧げられている。何故かならば、中世には2月14日、春の訪れを最初に感じて、小鳥達は番いとなり始めると信じられて、聖ヴァレンティーノの日は愛のお祭りとして祝われたのである。

イラストレイター、レモン・ペネ(日本ではレイモン・ペイネと通称)は、素晴らしい筆さばきで二人の恋人達の祝祭のメッセージを創出した。アングロサクソンの国では、2月14日に送る愛の手紙をヴァレンタインと呼んだ。それは普通、“君は僕のヴァレンタイン”、あるいは“あなたは私のヴァレンタイン”という文句で綴られる。

こうした伝統は、若者の衝動とはあまり関係のない聖人の名前に異教的(古代ローマ的)祝祭を繋げているとして興味深いところである。事実聖ウァレンティヌスは犠牲と禁欲で鉄壁の信仰を守り、殉教したのだった。この名を持つ者は2月14日の聖名祝日にお祝いをする。

この名前の変化形は: Valente(ヴァレンテ)、Tino(ティーノ)、Tina(ティーナ)。外国人名: 仏国=Valentin(ヴァランタン)、Valentine(ヴァランティーヌ)。英国Valentine(ヴァレンタイン)。独国Felten(フェルテン)。西国Valentìn(バレンティン)。露国Valentin(ワレンチン)。 」  
――ジュゼッペ・ピッターノ著『名前辞典』(I edizione Manuali Sonzogno、1990.03)より
  1. 2019/02/14(木) 16:11:31|
  2. 名前
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カルロ・ゴッズィ(1)について

荒川静香さんがトリーノの冬のオリンピックで金メダルを獲得されたのは、プッチーニの『トゥランドット(Turandot)』の曲で踊られたスケーティングでした。プッチーニのこの曲は、彼の最後の作曲で未完に終わったものではありますが、美しい名曲ですね。

私は伊文化会館の伊語のデッサルド先生の音楽教室を受講した時、オペラは誰が好きですか?と問われ、プッチーニと答えたのですが、後で若い女生徒さんにプッチーニのような歌謡曲ばかり聴いていてはだめですよ、ベルクとかシェーベルクとか硬派のものも聞いて下さいと諭されました。以来プッチーニが気になっています、まだ彼の生地ルッカを訪れたことがないのです。

この曲は彼の手になるものか、あるいは彼の死後補筆したフランコ・アルファーノの手になるものか、私には判りませんが、『ラ・ボエーム』は仏国の、『トゥランドット』は中国の、『西部の娘』は米国の、『蝶々夫人』は日本の物語と、世界各地を題材にしているところがプッチーニのとてもユニークな処と思われます。

この本の原作は、ヴェネツィアの作家カルロ・ゴッズィ(Carlo Gozzi―1720.12.13ヴェネツィア~1806.04.04ヴェネツィア)の演劇作品『トゥランドット(Turandot)』を基にしています。(多分ローマで学ばれた)学者さん達は、Gozziをゴッツィと訳されていますが、ヴェネツィアでは“ゴッズィ”と発声されている筈です。例えばモンテプルチャーノではGozzano(ゴッツァーノ)でも、ピエモンテではGozzano(“ゴッザーノ”)と濁った音ですし、特にヴェネツィア共和国の言葉はウンベルト・エーコが言っているように、方言ではなくヴェネツィアの国語であったとすれば、共和国時代の“ゴッズィ”はますますそうです。Zorzi(ゾルズィ)とか、その手の名は多いようです。
私が初めて伊語会話を教わった先生フィカーラさんの町レッジョ・ディ・カラーブリアでは“マンツォーニ”通りがあると言っていました。ミラーノではマンゾーニであっても、土地に行ったら土地に従うものでしょう(Quando a Roma vai, fa' come vedrai.)。ですから私のVeneziaも、Venesia、Venaxiaとかにすべきだと思っているのですが。
[エーコの言葉については、2011.12.24日のバーカロで触れました。]

『トゥランドット』は、上記のようにヴェネツィアのコンメーディア・デッラルテの作家、カルロ・ゴッズィの原作です。同じ伊人作曲家フェッルッチョ・ブゾーニもプッチーニの前(1917)、この作品をオペラに作曲しているそうです。私がヴェネツィアの語学学校通学時、ストゥーア小広場にアパートを借りた時、傍のゴッズィ館の一階がパン屋さんになり、毎早朝パンを買いに行きました。そんな訳でゴッズィには大変興味があります。仏人青年がゴッズィの館を知らないかとこの日本人に訊いてきたこともあります。いそいそと案内しました。
ゴッズィの家右、ゴッズィ館[左、パン屋さんが開店。右、サンタ・マリーア・マーテル・ドーミニ広場から見たゴッズィ館(正面右)、サイトから借用]  今までゴッズィについては何度か極軽く触れてきましたが、ここで今までの記述を簡単に纏めてみますと――『三つのオレンジへの恋』(1761)=S.S. プロコーフィエフ、『鴉』(1762)=A.J. ロンベルク、とJ.P.E. ハルトマン、『鹿の王』(1762)=H.W. ヘンツェ(1956)、『蛇女』(1763)=F.H. ヒンメル(空気の精1806)とR. ヴァーグナー(妖精1834)、A. カゼッラ、『トゥランドット』(1762)=ブルーメンレーダー、C.G. ライシガー、ホーヴェン、レーヴェンスキオルド、A. バッズィーニ、オーケルベリ、F.B. ブゾーニ、G. プッチーニ(1926未完)、ザーベル、『幸運な乞食達』(1764)=J.A. ベンダ、ツムシュテーク、ダントワーヌ――とカルロ・ゴッズィの書いた戯曲がオペラ作品にされているそうです。

彼と同時代の劇作家、カルロ・ゴルドーニが演劇の改革として新しい劇を発表し、当時の知識人、ガースパロ・ゴッズィ(カルロの兄、ヴェネツィアの新聞《Gazzetta veneta》等の初の創刊者)にはその革新性を認められながら、弟のカルロの目指すコンメーディアとは異なってカルロと論争になり、結局ゴルドーニはパリに去りました。ゴルドーニのパリでの最期については、2009.10.10日のゴルドーニ(3)で触れました。
Gozzi次回からそのカルロ・ゴッズィの生涯を、Carlo Gozzi著『Fiabe teatrali』(Garzanti、1994)で辿ってみます。

最後に、上で触れました伊語の表記の問題で伊語に関心のある方に、語学校ではあまり触れない事を:  ①は正書法と発音の本、②は姓名事典、③は名前辞典、④は道路地図(これは地名についての一例です)。①はアクセントを含めて伊語の発音を教えて呉れます。希臘語起源の固有名等教えられます。②③はその題名通りです。人によりますが、伊語の先生方で固有名を判っているとしてわざわざ調べないで文字にする人がいるのではないかと推察します。私の先生もその一人でした。また伊語は常に最後から二音節目にアクセントありとする表記も見掛けます。音引や促音便なしで、アルファベットを字句通りカタカナに変換するのは、訳ではなく単なる変換だと思うのです。④この地図の総索引には地名にアクセント記号が記してあります。
DOP姓名辞典名前辞典道路地図④  また大きな百科事典にも、紛らわしい言葉には発音記号が付してあるものがあります。

Beliceはスィチーリアの“ベーリチェ”(地震で有名)ですが、複数形の地名Beliciは“ベリーチ”ですし、Salice Salentinoは“サーリチェ・サレンティーノ”ですが、カラーブリアのSalice Calabroは“サリーチェ・カーラブロ”と複雑です。またギリシア神話のテーセウス(Teseo)はギリシア語風に発音すると“テゼーオ”なのに、ローマ神話風だと“テーゼオ” だそうで、その使い方の区別が判りません。
  1. 2019/02/10(日) 09:49:58|
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ヴェネツィア本: 『ヴェネツィアの出版人』

ハビエル・アスペイティア著『ヴェネツィアの出版人』(八重樫克彦・八重樫由貴子訳、作品社、2018年5月30日)を読みました。西国人がヴェネツィアの出版人、アルド・マヌーツィオを主人公に、小説として描いた作品です。作者が想像力豊かに描いた、あくまでもフィクションの体裁です。
『ヴェネツィアの出版人』今までにも、小説風にアルド・マヌーツィオの事績に触れたドキュメント、ラウラ・レプリ著の『書物の夢、印刷の旅』(1~2)について触れています。一方ハビエルは、事実とされている事もフィクション化している面が多いようなので、アルドの実際を知ろうとすると、あまり参考にはならないだろうと思われます。あくまでも彼は物語の主人公なのです。

ベール
招待客らが何を噂しているかぐらい、私にだって想像がつく。新婚初夜に新妻を一人にするとは! 加齢による体調不良だなんて、怖気づいて書斎で震えてるんじゃないか?
彼らには想像すらできまい。
私の手元にいまだ出版されずに来た極上の本があろうとは知る由もなく、世間の夫たちは口を揃えて言うだろう。紙面に黒字で綴られた肉体にそそられるなどあるものかと。見当違いもはなはだしい。病気か死の瀬戸際でもない限り、それはあり得ることなのだ。若々しい肌の甘美な感触や、爽やかなリンゴの香り、肉体の崇高さを実感するには、見合った言語、適切な表現に直した上で、われわれの人生の書に取り込むだけでいい。

神の物質で綴られた完璧な文章は、脆い人間の肉体とは比較にならない永遠性を備え、強風に揺らぐことも浸食されることもない。そのことを私アルドは、身をもって痛感している。ヴェネツィアに住んで八年が過ぎ、九年になろうという時期になされた結婚式の日、自分がさらに年老いたように感じているからだ。

元はと言えば……あれさえなければ……。
忌まわしきアンドレア! 彼も、彼の妻も、二人の子供も、みんなくたばってしまえ!
私は最初から拒み続けてきた。私には不必要だ。ノーだ! 頼むからやめてくれと。

五十歳で結婚式など、たとえシビュラのご神託であっても、願い下げだ! 縁者びいきや家族ぐるみのつながりから、やっと解放されたと思ったのに。そんなものは私にはいらない。これまで一つひとつ積み上げ、地道に築き上げた末に得た自由を失い、他の家族らと同じように、トッレザーニの所有物になるのはご免だ。マリエッタの死がまだ胸を貫いた状態で、再び彼らの情緒ゲームに陥るわけにはいかない。

これから事あるごとに後継者、跡取りと口にしてくるつもりだろう。跡取りだって!? 自分が信念のない、誤植だらけの粗悪な写本になると考えるだけで気が滅入ってしまう。

だが、すべては宿命だった。その上よりによってちょうど今日、ベネデット・ボルドネの工房から二百以上もの挿画と飾り文字の見本が届いた。いずれも『ポリフィロの狂恋夢(ヒュブネロトマキア・ポリフィリ)』用、ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラが生前、私に託した二冊のうち唯一手元に残った本だ。手渡された挿し絵は、私がこの三年間、眠れぬ夜に抱いてきた夢想を具体的に表現してくれる。世の中の多様性を愛した友ピコの戦い、ポリフィロの戦いがようやく具現化する時が来た。彼が敗北し、われわれみなが敗北しつつある戦いだ。 ……」
  ――ハビエル・アスペイティア著『ヴェネツィアの出版人』(八重樫克彦・八重樫由貴子訳、作品社、2018年5月30日)より
アルド・マヌーツィオ『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』中面[左、アルド・マヌーツィオ。右、彼の出版した出版物の中で最も有名な『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』の中面[通称『ポリフィーロの夢』と言われるこの物語については、『澁澤龍彦全集』13巻(河出書房新社)の中の、《ポリュフィルス狂恋夢》の章で知ることが出来ます。(サイトから借用)―
―アルドが1499年出版した『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ(Hypnerotomachia Poliphili―ポリフィーロの夢)』は作者匿名の本で、この小説ではアルドの友人だったピーコ・デッラ・ミランドラ作としていますが、通常は装飾文字の折句から読み取れる、僧フランチェスコ・コロンナ作とされています。説は区々あるようです。『ポリフィルス狂恋夢』は澁澤龍彦の命名だそうです。この本の謎についての推理小説、イアン・コールドウェル、ダスティン・トマスン共著『フランチェスコの暗号』(柿沼瑛子訳、新潮文庫、2004.09.29)を以前読みましたが、近年この『ポリフィーロの夢』本体の訳が出版されたそうです。全訳『ポリフィルス狂恋夢』(大橋喜之訳、八坂書房)だそうです。]

[小説の中で、ドゥカート金・銀貨(ducato伊語―1284年からヴェネツィアで鋳造)を、ドゥカド金貨と書いていますが、ヴェネツィアでは Dogado と呼称し、もっと古くは Dugao と言っていたと、ボエーリオ著のヴェネツィア語辞典にあります。]
  1. 2019/01/30(水) 11:59:51|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアのマドンナ・デッロルト(Madona de l'Orto)教会(2)

(続き)
「……内部は、中央が特徴的な五角形をしている後陣の3ヶの礼拝堂に繋がる3本の身廊である。身廊はギリシア産の高価な大理石の5本の円柱が2列並び、そこから内輪の繊細な仕上げの、オジーブ式のアーチが始まり、その間が木製の鎖で結ばれている。天井も木製であり(中央身廊のなだらかな天井と両脇の傾斜した天井)、極く普通の格天井ではないことを示している。
マドンナ・デッロルト内部[写真はサイトから借用]  身廊と内陣には、アントーニオ・リッツォ、アレッサンドロ・ヴィットーリア、ジャンバッティスタ・チーマ・ダ・コネリャーノ、ジョヴァンニ・デ・サンティ(聖母の1400年代の奇跡的な表現で、上記のようにサン・マーウロの礼拝堂にある)、ジュゼッペ・サルディ、ダニエル・ファン・ダイク、二人のパルマのもの、そして当然であるが、ヤーコポ・ティントレットのオリジナルの傑作がある。

ティントレットについては、彼の亡骸、娘マリエッタと息子ドメーニコのものが眠っていることが思い起こされるが、教会から少し離れた場所に彼ら一家の美しい居宅を、今でも目にすることが出来る(モーリ運河通り3399番地)。

キリストの12使徒の彫塑作品については前回触れたように、ファサードの装飾壁龕の中に置かれているが、その中の一つは、イエスを裏切った使徒であるイスカリオテのユダを描いたのではないかという伝承である。不名誉、不誠実、金次第、裏切りといった否定さるべき感情を不朽のものにするといったことではないにしても、キリスト教芸術史の中でこうした主題を見付け出すのはかなり難しいので、これは真に珍しいことである。

それではこのような表現が一体どうして、こんなに豊かで重要な教会のファサードの装飾の中にあるのだろうか? その答えはこれを制作した彫刻家ピエルパーオロ・ダッレ・マゼーニェのモチーフの中を探す必要があるだろう。彼は正に悪魔宗派に属しており、悪魔礼賛の正統派だったと思われる。それだけでなく、芸術的能力に多大なるものがあったので、同じ魔王ベルゼブ(Belzebù)は、彼を地上の悪の王国の、創造の第一人者で最も権威ある者として明示したに違いない。

否定的で瀆神的イメージで汚された聖堂の建設は、全ての悪の力の統合本部としてのサタン(悪魔)の意向によるものであらねばならなかったであろう。そのために悪魔は若きピエルパーオロに、そのためにイエスが裏切られた30もの銀貨の一枚を渡したのであった。その一枚が、彫刻家の工房が準備しつつあった彫像の一体に窃かに埋め込まれねばならなかったのであろう。ダッレ・マゼーニェは裏切り者イスカリオテの姿を12使徒の像の一つに託して、正に仕事を進めたのであった。誰にもその事を知らすこともなしに、また誰もはっきりと何かを疑うことが出来ないように。

教会の建設と装飾の仕事が最終的に完了した時、ヴェネツィア当局の多くの部署に関わっていた司教の司宰で、厳かに献堂式が行われた。多くの人が参加した神聖なる儀式に、若き貴婦人イザベッラ・コンタリーニが参列した。彼女は天上界と意思が疎通する、そのような能力者として町でも有名であり、実際人々に聖なる人として敬われていた。

儀式の最中、彼女は若いピエルパーオロ・ダッレ・マゼーニェの前に進み出ると、落ち着いて声も高らかに彼を次のように叱責した。『あなたは到頭、やって来た、サタンよ。あなたはキリストに捧げられた聖域に対して尊敬の念を持たない。しかしあなたは知っている、神に対しても信徒達に対しても、枢要徳の《正義》があなたが赴く所にはどこへでもやって来る。それ故、何も出来はしないことを。』

人々が離れると、一種の火花放電のようなものが発し、人々の間に次から次へと広がっていった。ダッレ・マゼーニェはパニックに陥り、驚きも露に、全体重もろ共に若き預言者に身を躍らせた、彼女を黙らせようと、首を絞めに掛かったのだった。しかし傍近く居た助祭は悪魔に聖水を振り掛けた、そんな気概の持ち主だった。それ故、この彫刻家の心を完全に支配していた悪魔は、この悪魔に取り憑かれた男の体から直ぐ様退散したのだった。

ピエルパーオロ・ダッレ・マゼーニェは失神し、その後覚醒したが、全ての記憶が失われていた。ユダの顔立ちの像は、その内部にはイスカリオテから貰った貨幣はそのままあり、そこに残されているのである。

こうして聖金曜日の毎夜、その貨幣はエルサレムの方角に向かって飛び立つのである。この土地(Akeldamà―アケルダマのアラム語で言う《血の畑》)は、ユダが30貨という邪な銀貨で手に入れたもので、卑劣な代償で獲得したものであることが歴然としているのであるが。 」 (終り)

[Akeldamà とは、エルサレム近くの地名で、ユダがキリストを裏切って獲得した賄賂金で買った土地だそうですが、彼は真っ先にそこへ墜落して、身体が真中から裂けて、腸が流れ出してしまった、という哀れな死に様だったそうです(『使徒行伝』)。これでは信賞必罰天罰覿面的であり過ぎます。物事は単純に“勝ち(+)負け(-)”で色分けした方が判り易く、宣伝もし易いということは判るのですが。『ユダの福音書』とかいうものを読んでみたいものです。]
マンショ像正像[数年前、ドメーニコ・ティントレット画『伊東マンショ像』が発見されました。それは1585年、天正遣欧少年使節の4人がヴェネツィアを訪れた時、4人の像をヴェネツィアに残したいと、父ティントレットが当局に依頼され、マンショの像は完成したと伝えられ、しかし何故かそれはティントレット工房から出ることはなかったので、結局未発見、とされていたものでした。
その後息子ドメーニコが肖像画家となり、父の絵に手を加えて売りに出されて転々とし、近年にミラーノのトリヴルツィオ財団が入手し、詳細に調べた結果、伊東マンショ像と判明したそうです。画布裏に“1585”という数字と“MANCIO”とい文字が書かれていたそうです。それについては2016.05.21日の伊東マンショ像展で触れました。また詳しい研究書、『《伊東マンショの肖像》の謎に迫る: 1585年のヴェネツィア』(小佐野重利著、三元社、2017年4月21日)があります。]
  1. 2019/01/20(日) 19:47:59|
  2. ヴェネツィアの教会
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ヴェネツィアのマドンナ・デッロルト(Madona de l'Orto)教会(1)

マルチェッロ・ブルゼガーン著の『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007)が、マドンナ・デッロルト教会について述べていますので、そのご紹介ですが、この教会は近くに住居のあるティントレットが葬られたことでも知られています。彼の住いは地図中丸数字52番がそれで、それは1400年代の建物と言われています(地図左上隅、丸数字55がオルト教会)。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』カンナレージョ図「サンタルヴィーゼ教会近くの町の外れ、カンナレージョ区の最も外れた地域に設置され、古くは菜園や庭園が多く、かつて本土側からの商品の移動には関心が強かった場所に、この教会は建っている。

最初、聖域が聖クリストフォルス(S. Cristoforo)、即ち旅人、巡礼、商人、船頭の守護聖人クリストフォルスに捧げられたのは偶然なことではない。その後、教会前の菜園に置かれた像のために多くの信者に素晴らしいと言われ、途切れることのない巡礼行の目的地となり、1377年、聖母(Madona=伊語Madonna)に捧げられた。

寺院前部には狭いが同名の素晴らしい広場があって、それはイストラ半島石のような素晴らしい四角形の枠石の煉瓦で、ヴェネツィアでも舗装が施された古い場所だった。

教会は1365~77年に、1200年代からここに住む恭順な教団の修道士達によって建てられたが、パルマ出身の修道会長ティベーリオ・ティベーリの計画によるものだった。しかし崩れそうだと言われ、ヴェネツィアの大評議会の命令で、再建が行われ、1399年から完成へ向かっていた。1400年代のアーチ全ての工事が長引いたのだが、結果を見れば明白なように、ヴェネツィア・ゴシック建築の中でも最も意義深く、完成した例証となった。
マドンナ・デッロルト[サイトから借用]  ファサードは建築的品格を備えた正統的傑作で、バルトロメーオ・ボン作の大きな玄関門に特徴があり、ゴシック様式からルネサンス様式への推移を明確に示している(玄関門の3つの彫刻は、1460~64年に遡る。表しているのは『聖母マリアへのお告げ』『聖クリストフォルス』『お告げの天使(ガブリエル)』である)。

玄関大門の両脇の2つの大窓は、盛期ゴシックの最も典型的なヴェネツィア様式で実現された、両脇の小身廊と対応して開かれており、大変美しい。そして糸のような小柱で支えられた四連窓の形を取っており、細かい細工で仕上げられた、入り組んだ小アーチとなっている。その少し上には、丸い巨大な眼のような窓[rosone?]が浮き立つ様に際立っており、更にもう一つの小さな開口部がその上に位置している。

中央身廊の、装飾用の素晴らしいコーニスもまた印象が際立ち、屋根の勾配に沿って、両脇に伸びる2本の大きな壁柱と、2本の小身廊の飾りとしてのトランセンナの上を走る、宙空の優美な小アーチを持っている。そこには小円柱で区切られた一連の壁龕があり、その中には12人のキリストの使徒の像が鎮座している(それら全てダル・マゼーニェ工房の手になる)。
[トランセンナ(transenna)とは: 初期キリスト教建築で透かし細工や彫刻が施されている、内陣を囲む大理石や金属、また木製の格子をいうそうです。]

外部の装飾を仕上げている5棟の小礼拝堂の中には、ムラーノ島のサント・ステーファノ教会のファサードを飾る1700年代の同数の像が、1843年に置かれた。その5体の像はそれぞれ左から、《賢明》《愛徳》《信徳》《望徳》《節制》を表す。 ……」 (2に続く)
[カトリックの Virtù teologali(対神徳)には、fede(信徳)、speranza(望徳)、carità(愛徳)があり、Virtù cardenali(枢要徳)には、prudenza(賢明)、fortezza(剛毅)、giustizia(正義)、temperanza(節制)があるそうです。]
  1. 2019/01/10(木) 00:04:05|
  2. ヴェネツィアの教会
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ヴェネツィアのカーニヴァル(5)

(続き)
「 《行き過ぎと制限》
カーニヴァルは、仮装することで自らのアイデンティティを完全に隠蔽してしまうことを全ての人に許すことになった。その事は、何かが行き過ぎになってしまうということは避けようがなかった。仮装を悪用して良からぬ事を次々と思い付き、仕出かすのだが、それは犯罪となるものだった。

このため当局は、乱用や欺瞞的な利用、或いは正統的でない仮装に対して、繰り返し、制限、禁止そして重罪という通達を発した。事実、特に夜間、闇に紛れた仮装で、結局は知られてしまうことになったが、ひったくりや盗み、または迷惑行為のような各種の犯罪を犯してしまうのは容易いことであった。既に1339年2月22日には夜陰に仮面で町を歩き回ることに対して、禁令が布告されていた。

かなり一般化した乱用としては、秘所に入るのに偽装して女装したり、教会や修道院に入るのに僧侶服を着用し、破廉恥な行いや修道女との放蕩行為に及ぶ男達である。1458年1月24日の通達はその目的に適ったもので、聖域に仮面で入ることを禁じ、それは、multas inhonestates(破廉恥な罰則)を科されないようにする目的であった。

安全が行き渡った期間は、護身用に武器や危険物を簡単に隠せるタバッロのような大きなマントや色々な仮面の着用が広まったことに由来すると言えよう。しかしそれを定着させた公式文書が沢山あり、他人の安全のために何か凶器を身に纏うことの禁令を引き続き再確認していた。こうした犯罪の刑罰は非常に重く、厳しい刑罰として財産刑としての罰金と、ガレー船で何年も船を漕がせるぞ、という警告としての懲役刑があった。

売春という職業は、元々あって欲しくない職業でありながら、共和国の内部では許容せざるを得ないものであった。時に嘱望され、ヴェネツィア人や外国人に求められながら、堕落と風俗紊乱の源と考えられたが、梅毒の感染源と思われた。このため娼婦は、厳しい抑圧の下にあり、酷な課税下にあった。しかし娼婦は仮面との交流がスムーズで、決められた掟の下、仕事に励むことが出来た。それ故最終的に、かなり厳しい法律で娼婦の仮面は禁じられた。

厳しい罰則以外にも、ピアッツェッタの2本の柱の間で晒し者にされ、鞭打ち刑でサン・マルコ広場からリアルトまで晒され、共和国外への4年間の追放刑があった。

賭博場が普及したため、仮面を被ったある賭博師が債権者から逃れるため、ある無名の人を搾取したという記録がある。1703年にはこうした場所へ仮面を被って赴くことは完全に禁じられた。

その後1776年には既婚の夫人が劇場に仮面を付けずに出掛けることは、名誉のために禁じられた。

1797年の共和国崩壊後、個人の館でのパーティやカヴァルキーナやフェニーチェ劇場での舞踏会を除いて、仮装は禁止となった。結果として、何世紀も続いたこの歴史的カーニヴァル行事の精神的支柱が直ぐに崩れ始めた。行事が次第に消えていった。

 《現代のカーニヴァル》
1797年にナポレオン軍がヴェネツィアを占領し、その後オーストリア軍が進駐し、チェントロでは長い間、人民の反乱や混乱を怖れてカーニヴァルは中断していた。ただブラーノ島やムラーノ島では低調とは言え、ある種の熱気で曲りなりにも継続していた。

2世紀後の1979年、何世紀も続いていたカーニヴァルが、燃え尽きた灰燼の中から蘇った。ヴェネツィア市が経済的にバックアップし、フェニーチェ劇場やヴェネツィア・ビエンナーレや旅行協会等の幾つかの市民団体の企画や人力のお蔭である。 ……」 (以下の現代の記述は省略です)
  1. 2019/01/03(木) 04:08:32|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアのカーニヴァルについて(4)

(続き)
「 《天使の飛翔(Il volo dell'Angelo)》
町が行う色々の催し物やスペクタクルの中でも、15世紀半ばのカーニヴァルで、度胆を抜くような特別のイヴェントが行われた。トルコから来た若い軽業師が、錨でピアッツェッタの岸壁に釘付けした船からサン・マルコ鐘楼の頂上の鐘撞き堂まで張った長い綱の上を、狂喜する群衆の喚声の中、平衡を保つ竿だけで辿り着いたのだった。下りは総督宮殿のバルコニーに降りると、総督からお褒めの言葉があった。
ガブリエール・ベッラ画『ピアッツェッタでのカーニヴァルの最終木曜日の祭』[ガブリエール・ベッラ(1730~1799)画『ピアッツェッタでのカーニヴァル最終木曜日の祭』。かつてのカーニヴァルでは、拳骨橋で殴り合いをしていたニコロッティとカステッラーニはその闘いで死者が出、市に戦いを禁じられ、人間ピラミッドで力を競い合うようになったのだそうです。]
このスペクタクルの成功後、直ぐにトルコ人の飛行(Svolo del turco)と呼ばれ、このイヴェントはカーニヴァル最後の木曜日(Giovedì Grasso)にだけ行われ、同じ高い技と何年も色々に変化した形でその後に続く公式の催し物として、要請され計画された。

長年このスペクタクルは同じ名前で呼ばれ、テーマによって種々の危険な技や変化を、勇気を持ってその手腕を発揮したので、若いヴェネツィア人が新しい試みに取り組むこともなく、プロの綱渡り芸人だけが出演していた。

続く何年もの間に区々の変化があり、人に羽根を付け、綱に輪を通してその人をぶら下げ、その人を綱を高速で引き揚げ下ろすという出し物が想定されるまでになり、Volo dell'Angelo(天使の飛翔)という新しい名前が考案された。この選ばれた人は総督宮殿のロッジョーネに下降し、最後に総督からお褒めの金品を手渡されるのが習わしとなった。芸は大胆勇敢に進化発展し、集団的な飛翔等、ますます難しい出し物となった以外に、曲芸師達が動物や舟、色々な形の出し物を企画するショーもあった。

1759年この見世物に悲劇が襲った。ある時、曲芸師が地面に落下激突し、観衆が恐怖に戦いた。多分この大事件が元で、このようなイヴェントは禁止になった。その時から計画は、曲芸師はその綱の道中は木製の大きな鳩に変更され、鐘楼から出発し、観衆には花や紙吹雪を振り撒くという展開となった。

このイヴェントの初めから天使の飛翔は、Volo della Colombina(小鳩の飛行)となった。このようなイヴェントは、セレニッスィマの一千年の歴史の末期に至り、他の恒例の行事やスペクタクルの大部分がそうであったように、長期間中断したのである。

 《コンメーディア・デッラルテの仮面》
『妻はこっち、夫はあっち
気の向いた方へ、それぞれ赴く
皆、誘われた所へ走っていく
賭け事する人、踊る人』 (カルロ・ゴルドーニ)

カーニヴァルは、町の個人の劇場で催される、増加していく秘密のスペクタクルに弾みを付けた。そのイヴェントは、ヴェネツィア貴族の一家が資金を出して催されることがよくあり、彼らは大芸術家や真のプロの演技者に、ますます凝った、念入りな上演を委託する必要を感じていた。

個人の館でのこうしたスペクタクルは、最初は貴族の限られた観客だけに提供されていた。1500年代半ば頃、こうした芸術的なものの発展と要望に従って、ヴェネツィアでは庶民の観衆にも開かれた数多くの小劇場が開場した。

1600年代初頭、町の内外で評価されたプロの芸術家達で構成された劇団の数が増え、質が向上し、舞台芸術と職人の手仕事である衣装と仮面の喜劇演劇の世界と結び付いた活動が発展した。数多くの、才能豊かな劇作家が出現し、名を馳せ、ますます洗練され、複雑な作品を上演した。

コンメーディア・デッラルテの定義は、正にヴェネツィアで生まれたのであり、劇作家で台本作家であったカルロ・ゴルドーニが、1750年に遡る、その年コンメーディアの中に喜劇作品を導入したのだった。 ……」 (5に続く)

[2009.09.26~2009.10.17日にカルロ・ゴルドーニ》(1~4)について触れています。]
  1. 2018/12/27(木) 00:28:29|
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ヴェネツィアのカーニヴァルについて(3)

(続き)
「 《マリーア祭[La festa delle Marie(複数マリーエ=マリーア達)の祝祭]》
このヴェネツィアの非常に古い祭りは、その始まりについては今でも議論の的であり、1039年からのニュースが残っており、それが関連付けられた時の多分943年頃、導入され、カーニヴァル期間中続いた。

2月2日の聖母マリアのお清めの祝日に、ヴェネツィアでは花嫁の授福式の日を祝う風習があった。その日サン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂で、町で最も貧しく美しい少女の中から選ばれた12人の少女の結婚式が集団で祝福されたのである。この花嫁達の持参金の構成要素に貢献するために、ヴェネツィア貴族の家庭が金品贈与等で参加し、総督は少女達に街の宝物の中から素晴らしい宝石や黄金を貸すことが慣習だった。

ヴェネツィア総督と貴族の面前で行われる豪華な結婚式の後、花嫁達はサン・マルコ広場まで行列に付き添われて行った。総督宮殿に到着すると少女達は、宮殿のレセプションに丁重に招待してくれた総督からお褒めの言葉を戴く。続いて行列はブチントーロ船に乗船し、陽気な市民達の数多くの小舟に付き添われて、リアルトに向けて大運河を進み、更にサンタ・マリーア・フォルモーザ教会に至って、そこでまた別の厳かな式典が行われた。

943年、ピエートロ・カンディアーノ3世の総督時代、結婚式の最中、皆の驚く中、ストラ(Istra)半島の海賊が教会に押し入り、arcelle(櫃)と呼ばれる豪華な長持の箱の中に収められた持参金の宝石類等は元より、花嫁ごと全てを略奪したそうである。

最初、何が起こったか信じられない思いで、間違った噂からの混乱の後、勇敢なヴェネツィア人達が直ぐに海賊の追跡に取り掛かり、錨を上げ出航準備、総督を頭に追跡隊を組織した。カーオルレ近くで海賊に追い付き、攻撃して皆殺しにし、12人の乙女達と貴重な金銀を取り戻した。
Veneto地図現在のカーオルレ[現在のカーオルレ海岸、サイトから借用]  総督はこの卑劣な連中が誰にも悼まれる事の無きよう、死体が埋葬されないように全死体を海底深く沈めるよう、命じた。その上、この血生臭い話が生じた場所を乙女の港(Porto delle Donzelle)と命名することに決め、現在でもそう呼ばれている。

それ故この海賊退治のお蔭で、その事を祝うべく、毎年行うマリーア祭を挙行することが決定された。ヴェネツィアで最も美しい乙女の中より、各区(6 sestieri)から2名、この機会に改めてマリーアと命名されたのか、祭りは12人を選ぶことから始まった(多分略奪された少女の多くがマリーアだったか、或いは聖母マリアのお清めの祝日からこの名になったかである)。貴族の家庭が招待され、この娘達をもっと王女様らしくするために、衣類や調度品、宝石類を少女達に授ける役を請け負った。

マリーア達の行列は、町のリーオ運河を行く船で経巡るように進み、ヴェネツィアの主だった教会で宗教行事に参加し、市民が催す舞踏や音楽、茶菓等の接待パーティに参加した。マリーア達に接触することが出来るということは、珍しい、高価な装飾品を身に着けた素晴らしい美女達を近くから目にするヴェネツィア人や外国人にとって、一つのチャンスである以上に、縁起が良いと考えられた。

1272年には9日間も繰り返し続き、特に政庁や貴族の出費となる多額の費用を抑えるために、マリーア達の人数が最初は4人、更に3人と減らされた。予期せぬ改変でその精神と主たる本質を冒すまでになり、時と共に更に変化変更が生じた。

祭りが女の美しさを見たいあまりに偏向したことを修正したい(というより宗教的伝統に立ち戻りたい)と、当局はマリーア達を木造の人形に変更することを決めた。この変化は、当然の如く市民の反対に遭い、直ぐに人形に石や野菜の集中砲火が始まった。そのため1349年に、人形に物を投げてはならないという法律が発せられた。

Maria de tola(板のマリーア)という表現は、特別の機会に貨幣に鋳造されたが、“冷たくて胸のない女”のタイプとして嘲笑的にヴェネツィア語に導入され、今日でも嘲りとして使われている。マリーア達のお祭りは何年も続いたが、次第に廃れていき、ヴェネツィアがキオッジャ戦争に巻き込まれた1379年廃止された。公式の行事としては、サンタ・マリーア・フォルモーザ教会に総督が年に1度訪問するだけであった。

1999年、形態は変わってしまったが、色々のヴァリエーションを伴って約600年後、公式に蘇った。 ……」 (4に続く)
マリーア祭行列[蘇ったマリーア祭(写真はサイトから借用)――Wikipediaのマリーア祭は上記のようですが、2009.01.24~2009.02.07日に『Leggende di Venezia』(Edizioni Helvetia s.a.s)からマリーア祭》(1~3)について書きました。]
  1. 2018/12/20(木) 06:33:32|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアのカーニヴァルについて(2)

(続き)
「……カーニヴァルの衣装がますます普及していったことで、ヴェネツィアに新たに生まれたものというのは何もなかったが、正に仮面と仮装の使用そのものが次第に広まっていったということはあった。1271年からの仮面製作、その教習所や作る技術の記述が残っている。粘土や張子材料、石膏、薄紙等の材料の特殊な使い方のための道具製作が始まった。

型を作った後の仕事は、色を塗り、絵を描いたり、刺繍したり、飾り玉を付けたり、羽毛を挿したり、のような特別の飾りを施し、終了する。所謂、仮面装束は職人達がますます華美に、洗練された様式と仕上げで仮面を製作し、そしてヴェネツィアの古文書館に保存されている1436年4月10日の法規で判るように、その製作法は広く知られていたのである。

特に18世紀から流行し、現在でも着用されている古い時代のカーニヴァルの中で、非常にポピュラーだった仮装の一つは、何と言ってもバウッタ(ヴェ語、bauta)である。この装束(衣装)は典型的にヴェネツィアのものであり、男女を問わず着用し、黒い三角帽子(tricorno)の下に付けられる、larva(妖怪)と名付けられた白い独特の形の仮面で作られるもので、暗いくすんだ色のマント、タバッロ(tabaro)を纏って完成である。
賭場の胴元[ピエートロ・ロンギ画『賭場の胴元』(1757)中、背後の左の女性2人はモレッタ仮面、中央の男性はバウッタ仮面]  バウッタはカーニヴァル中、広く利用されたが、劇場や他のパーティ、女性とのデート時等、自由に口説いたり、口説かれたりする時、完全な匿名性が保証された。この目的のために、この仮面の独特の形は顔から外さずとも飲食を可能にした。
gnaga[サイトから借用] その時代の、別の特徴的な仮装はニャーガ(gnaga)であった。男にとっては簡単に女装する仮装で、いとも容易く着れ、寧ろ普通に利用された。普段着の婦人衣として作られた物で、牝猫の姿をした仮面で、普通は牡猫を入れた籠を腕に下げる。この人物は庶民の小女として振る舞い、金切り声のような、人を嘲るように猫の声[日本語でも“ニャーゴ”ですね]を発する。時には、幼児の格好をした他の男達を引き連れ、乳母を演じる時もある。

それに比して多くの女達は、モレッタ(moreta)と呼ばれる仮装をする。それはくすんだ色のビロード地の小さな仮面から成り、デリケートに作られた小さな被り物、衣類と洗練されたベールから成る物ある。モレッタは喋らない。というのは仮面の内部に付けられたボタンを口に咥えて顔に固定するからである(この意味で物言わぬ小間使い―servetta muta―とも呼ばれている)。

 《お祭り》
カーニヴァル期間中は、ヴェネツィア人の活動と仕事は二の次となるり、祝祭行事、お巫山戯、楽しみ、そして町のあらゆる場所、特にサン・マルコ広場、スキアヴォーニ海岸通り、街の主要な全ての広場で催されるスペクタクルに彼らは自分達の時間の多くを割いた。

あらゆる種類のアトラクションがあった。奇術師、軽業師、楽士、踊り手、動物使い、色々な見世物師は奇抜で飛んでもない衣装で、あらゆる年齢、社会階級の各種の人々を楽しませた。行商人はあらゆる物、季節の果物から贅沢な織物まで、香辛料から遠国、特にオリエントから到来する食品に至るまで何でも売った。ヴェネツィアはマルコ・ポーロが絹の道を通過したかの有名な旅の時代から、緊密で貴重な商業関係を築いていたのである。

広場での大イヴェント以外に、直ぐに個人の家や劇場、町のカッフェで小規模の出し物やあらゆる種類の催し事(違反したものが非常に多かった)が行われた。ヴェネツィアの豪華な館である居宅では、華麗な仮面舞踏会が豪奢に延々と行われ始めた。

しかしヴェネツィアのカーニヴァルが最も光り輝き、知名度が最高になったのは18世紀のことで、当時の全ヨーロッパで熟知され、高評価で観光的魅力となり、何千ものお祭り騒ぎ好き観光客の憧れの地となった。

悪名高いアバンチュールの主人公、この時代最も有名な人物の一人、ジャーコモ・カザノーヴァをヴェネツィアで見るのはこの時代のことである。非常に多作のヴェネツィア人作家であり、当時のヴェネツィアの放蕩無頼の最大のスポークスマンとして能く知られた。
カザノーヴァと想定画[アレッサンドロ・ロンギ画のカザノーヴァと想定される肖像画(1774?)、サイトから借用]  今日でもこの悪評高い軟派男は引用されるが、非常に猥らなパーティに参加したお蔭で、神話的なまでの人物像を創り上げた。それは猥褻なまでの情話や彼が無節操な人生で出遭った、信じがたいまでの“お話し”に書かれており、どこに向かうのであろうとアバンチュールであり、スキャンダルであり、しかし活気に満ちた楽しさなのである。 ……」 (3に続く)
  1. 2018/12/13(木) 00:04:10|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアのカーニヴァルについて(1)

例年の如くまた、ヴェネツィアのカーニヴァルの時季が近付いて来ました。来年のこの移動祝祭日は2月23日~3月5日(martedì grasso)だそうです。現代のカーニヴァルはTVやPC等、色々な媒体で紹介されます。昔はどうであったか、英語のWikipediaの項目や日本語翻訳機能もあります。例によって伊語の下手な翻訳練習(誤訳の場合、通報頂ければ幸甚です)で、イタリアの《Carnevale di Venezia》から紹介してみます。
tre mascheretre travestimenti「ヴェネツィアのカーニヴァルは、ヴェーネトの州都で毎年のように行われる町の祝祭行事である。世界各地の謝肉祭の中でも能く知られ、高評判の移動祝祭日である。その始まりは非常に古い。最初の記録は1094年の総督ヴィターレ・ファリエール時の記述に遡る。その中で民衆の喜びが語られ、カーニヴァル(Carnevale)という言葉が初めてそこに引用されたのだった。

寡頭政治時代のヴェネツィアでカーニヴァルの導入はセレニッスィマも普通にそれを必要としたことにもよるが、人民に、特に最も下層階級に楽しみや祝い事にすっかりのめり込むことの出来る期間を許すことが古代ローマで既に行われていたのと同様に、その期間ヴェネツィア人も外国人も音楽や踊りに羽目を外して、お祭り騒ぎをするために町中に繰り出した。

仮面を付けることと衣装を着けることで、その人の匿名性が保証され、社会的不満が均等化され、当局や貴族階級が隠し立てもしない嘲り行為まで正当化されるようになった。そうした各種の容認が社会全般で大目に見られ、ヴェネツィア共和国内で不可避的に生じる緊張感や不和等の、思いもよらない捌け口と考えられ、一般倫理と市民としての公共の秩序のような問題に厳しく歯止めを掛けるものだった。

 《古い時代のカーニヴァル》
ヴェネツィアのカーニヴァルを民衆の祝祭と宣言した最初の公式記録は、ヴェネツィア元老院が四旬節前の日を祝祭と表明した1296年の法令である。この期間、そして続く数世紀、カーニヴァルは時にその行事が10月1日に始められるようなことがあったにせよ、12月26日から灰の水曜日までの7週間続いた。

 《仮面と衣装》
仮面と衣装を着けた市民は、自分のアイデンティティを完全に隠し、階級、性、宗教といった自分の個人性をこうしたやり方で無にしてしまうことが出来る。各人は新しい衣装と変装した姿を基本に、態度や行動を決定することが出来る。このため、この新顔達が擦れ違う時に発する挨拶はいつも極簡単に、“Buongiorno, siora(signora) maschera !”である。

身分を隠して集団でこうした変装をしての楽しい社会参加は、かつてそうであったように現在でもカーニヴァルの本質である。それは日常の習慣や自分についてのあらゆる偏見や批難陰口から解放され、あっけらかんとした期間だった。人々は皆、大きな仮面舞台に出場した訳である。そこでは演じる者も見る者も、色々な色で飾られた姿形のユニークな一大行列の中に溶け込んでいた。 ……」 (2に続く)
  1. 2018/12/06(木) 09:46:25|
  2. ヴェネツィアの行事
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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