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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの18世紀(3)――その4

(続き)
「完全な静寂はヴェネツィアの賭博場でも見られた。貴族達が胴元で、物音といえば、トランプを両手に半数ずつもって切る音、持ち主が変わるときに硬貨とカウンターがチリン、チリンと鳴る音だけであった。賭博の規制を意図して、一六三八年にマルコ・ダンドロに、サン・モイゼ教会の近くの自邸に公営の遊興場(リドット)を開設する許可が与えられた。
グアルディ『リドット』.[『ヴェネツィアのリドット』(左、フランチェスコ・グァルディ、下左、ピエートロ・ロンギ画集、下中左、下中右、下右、ロンギのリドット画)] 
ピエートロ・ロンギ画集『ヴェネツィアのリドット』Il ridotto賭場の胴元この邸館はその後大幅に増築されて、大きな部屋一〇室をもつことになり、各室にはテーブルがいくつか備えられ、バッセッタやファラオーネからパンフィル、タロッコ、ビリビッソやツェッキネッタにいたる、あらゆる賭け勝負が行なわれた。このような賭博室の一つで、由緒あるモーロ家出身のある男が長年の間胴元をつとめた。彼は負けを支払うときも勝ちを受けるときも穏やかで冷静な表情を変えないことで有名であった。……」

「おおくの有名な貴族家門が賭博で没落したのちに一七七四年、大評議会(マッジョール・コンシーリオ)は七二〇対二一で公営遊興場(リドット)の閉鎖を議決し、建物は政府の官庁へ転用された。実はこの法律が通過すると予想していた議員はほとんどいなかった。多くの議員が賛成票を投じたのは、こうして賭博反対の意を示したところで、自分自身の楽しみが損なわれることはなかろうと確信していたからである。……」

「賭博はあまりにも強固に定着していたので、簡単に廃止することはできず、、公営遊興場(リドット)が開設されていたときと同様に、その後もヴェネツィアのいたるところで、邸館にある私営遊興場(リドット)で行なわれた。……」
[賭博熱については、2019.08.19日のヴェネツィアの賭博等で触れました。]

「貧しい人たちもまた貪欲に賭博に興じた。あまりに寒くて、あるいは雨天のため天水槽のおおいを賭博用の台に使えないときは《海難救助員宿泊所》の裏手のような場所があった。これは一七八二年に政府が閉鎖したクラブであるが、それまでは召使い、給仕、その妻や友人らがしばしば訪れた。

賭博はまた居酒屋、、床屋、そして市中の多数の葡萄酒酒場(マルヴァジエ)で行なわれた。葡萄酒酒場では労働者たちがベンチに座って、乾いてかたいヴェネツィアのパンをムシャムシャ食べながら陶器の瓶からエペイロス産葡萄酒(マルヴァジーア)をすすった。

さらに賭博に興じる人びとを見ることができる場所は、粗末な葡萄酒がスープと魚のフライとともに出される店として知られ、暗くて煙で黒くなったフラトーレであり、お客がウエハースに入れた泡立てクリームを食べる店であるペストリーニであり、葡萄酒とガルバ(渋い味のブランデーの水割り)とともに食べ物も買うことができ、物品を質に入れることができ、《遊蕩を目的として》部屋を借りることができるマガッゼンであり、そしてコーヒー店であった。

コーヒー店は、文人たちが集まる《カッフェ・メネガッツォ》や政府役人が贔屓にする《カッフェ・デイ・セグレターリ》から、コルフ島出身のある男が経営者で濃く甘いトルコ風コーヒーで有名な《カッフェ・クアードリ》や昔の《ヴェニス・トライアンファント》で一七二〇年にフロリアーノ・フランチェスコーニが引きついだ《カッフェ・フロリアーン》にいたるまで多種多様であった。

これらのコーヒー店のほとんどで経営者は新聞、官報、ときには書物さえも提供した。書物は、ヴェネツィアでは他のイタリア都市と比べて安く、他の地方では発禁処分となっている出版物ばかりでなく、優れた印刷の古典や現代文学を、書店のみならず市場の屋台店や街頭の呼び売り商人からも容易に買うことができた。

ほとんどすべてヴェネツィア方言で書かれた新聞『ガッゼッテ』は、どこにでもあった。掲載されている記事は、ニュースと噂話、調理法と園芸や家庭での修理の心得、売り物と探し物のリスト、書評と劇評、商取引の報告、そしてのちに二〇世紀初頭の『ガッゼッティーノ』に見出すことになるような記事であった。……」

「たいていの新聞は、詩人を自称した、ときに金のために売文家となる連中が編集していた。彼らはヴェネツィアに無数に存在する文学協会のいずれかに属していた。たとえばグラネッレスキ協会、すなわち金玉アカデミー(その紋章は爪に二つの睾丸をつかんだ〝ふくろう”であった)、ヴェントゥロージ協会、インペルトゥルバービリ協会、インペルフェッティ協会、シレンティ協会、アドルニ協会(寓話を書いた)、メッカニーチ協会(専門は猥褻文学)、あるいはアッカデーミア・デッリ・インフェコンディ(その入会資格は著述遮断、すなわち心理的要因から著述不能になっていることが要件であるので、入会以前に著作のある人はいなかった)などである。
[有名なグラネッレスキ協会については、2012.05.26日のダンドロ・ファルセッティ館で触れています。》

著述によって生計をたてている者はほとんどいなかった。……詩人のドメーニコ・ラッリは《実際に飢え死にした》と言われた。実際、ゴルドーニのように成功した多作の作家でさえ貧窮のうちに他界したのである。……」 (その5に続く)
[ゴルドーニについては、2009.10.10日のカルロ・ゴルドーニ》(4)等で触れています。]

追記: パードヴァ在住の人がコロナウイルスで亡くなったのはニュースで読んでいました。ヴェーネト州の感染者が25人にもなり、ヴェネツィア在住の88歳の老人が2人入院の結果、感染陽性が判明し、急遽ヴェネツィアのカーニヴァルは日曜日で中止の事態となりました。ホテルは40%程度しか今年は埋まらなかったと聞きましたが、25日のmartedì grassoまで続く予定だったカーニヴァルも突如中止となれば、観光客は直ぐヴェネツィアを去って行くでしょう。
  1. 2020/02/23(日) 17:37:30|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(3)――(その3)

(続き)
「賭博場(カジノ)で夜を過ごした貴族たちは、就寝前に大運河の河岸に係留された船へ果物を買いに行った。……貴族たちが床に就くころ、商人たちは会計室に入り、法律家たちや政府の役人たちはデスクに向かって座り、九時から一時まで仕事を続けた。

良心的な貴族たちは責務を遂行するために敏速に到着して怠け者の仲間を赤面させた。大評議会(マッジョール・・コンシーリオ)は――議員総数は一八世紀初頭の一七三一名から一七六九年には九六二名に減少していた――毎日、夏季には八時より正午まで、冬季には正午より日没まで開会し、例外は二つだけあった。無欠席を自慢できる議員もいた。十人委員会(コンシーリオ・デイ・ディエチ)と国家審問委員会(インクイジトーリ・ディ・スタート)はしばしば終日仕事を続けた。……
codeghe [codeghe] 夜間に市の大部分が闇に閉ざされたのは従来と変わらなかった。いくつかの小路(カッレ)では、照明といえばちらちらするランプ一つだけ、あるいは祠堂を照らす蠟燭の光しかなかった。もっとも一七一九年以後は商店主は一般に店舗の外にランプをつるすようになった。しかし一七三二年以前には多くの街区で街灯はまれであり、それ以後でさえコデーゲと呼ばれる松明持ちをやとって、暗い街路を通りつるつるすべる橋を渡るときに道を照らしてもらう歩行者がまだいたのである。

しかしヴェネツィアの街路は、照明は悪かったけれども、いまではヨーロッパの他の大部分の都市よりも安全であった。これは一つには国営造船所(アルセナーレ)の砲手(ボンバルディエーレ)や船板のすきまに詰め物をする槇皮職人(カラファート)のおかげであった。彼らに要請して、謝肉祭期間に街路を行進する武装市民からなる民兵隊を援助してもらうことができたからである。
……
国事犯監獄への恐怖、そしてそこでの秘密の刑罰や拷問への恐怖は容易には消えなかった。人びとは、歯や舌を引き抜く道具や頭蓋骨を砕く道具について、また国家査問委員会の猛毒について、こわごわ小声で話した。……十人委員会の監獄はいまも存在したが、そのいずれかに犯罪者が投獄される可能性はきわめて小さかった。……統領宮殿の一階の、《井戸(ポッツィ)》と呼ばれる牢獄、つまり暗く水があふれた独房のなかで囚人がかつては乏しい食物をねずみと奪い合った土牢に投獄されたり、これほど恐ろしくないが、溜め息橋(ポンテ・デイ・ソスピーリ)から入り、パラッツォ運河を見下ろすカロメッティ・ディ・クアットロの独房にさえ投獄されることは、あまり考えられなかった。
……
十七世紀にあった一八の公営劇場のいくつかは閉鎖されていたけれども、その後他の劇場が建造されたり拡張されたりして、一七九二年五月、フェニーチェ劇場(テアトロ・ラ・フェニーチェ)のこけらおとしの際には、この劇場のライヴァルは七または八であった。ほぼすべての劇場が貴族の所有であり、もっとも人気の高い劇場は、イタリアの他の地方では休演となる金曜日をふくめて、毎晩満員となった。そのため、市民に人気のあるいくつかの芝居やオペラの上演中には、ガスパレ・ゴッヅィが言ったように、市中の個人の家はすべて貸家かと思われる状態になった。

豪華な道具立てと独創的な舞台装置をともなう芝居がもっとも熱烈に歓迎された。そればかりか、外国人が観察して仰天したのは、役者たちに対する明白な無関心ぶりであった。観客はしばしば大騒ぎしており、仲間同士でしゃべり、賭博をし、接吻をし、冗談を言い、叫び、口笛を吹いた。ゴンドラの漕ぎ手は古くからの慣習でしばしば無料で入場を認められ、座席越しにたがいに大声をかけ合った。

仕切り席の若い貴族たちは、《極端に下品(マッシマ・インデチェンツァ)》な服装の情婦を連れており、蠟燭の燃えさしやリンゴの芯を落とし、下にいる人びとの頭に唾をはきかけた。比較的大きな劇場では、四列の仕切り席の最上段の席では、しばしば男女の情交場面が見られた。場内が静まるのは、有名な詠唱が歌われるとき、人気ダンサーが肌を露出させた衣装で熟練した踊りを見せるとき、あるいは受けがよいコメディアンが一時的に注目を集めるときであった。
……
交響楽団や音楽学校(コンセルヴァトーリオ)における演奏は静かに傾聴されたので、劇場の場合とは著しい対照をなしていた。四つの慈善院、インクラービリ、メンディカンティ、オスペダレット、ピエタに収容された女子の孤児たちは、ヨーロッパでは比肩するもののない手がたい音楽教育を受け、彼女たちが催す音楽会は参加した人びとすべてを魅了した。

……イギリスの音楽学者チャールズ・バーニーは一七七〇年代にヴェネツィアに滞在したが、彼のように判断力のある外国人はヴェネツィア人のパフォーマンスの趣味のよさ、識別力、技量を激賞し、またゴンドラの漕ぎ手の歌の魅力を誉めそやした。……

ヴェネツィアは早くも一六世紀初めにアドリアーン・ヴィラールトの影響のもとにマドリガルの作曲と個人的な楽奏の中心地として指折りの存在となっており、その世紀の中ごろにはヴェネツィアはヨーロッパの楽譜出版の中心地であった。音楽における市の名声は、一五六四年にジュゼッペ・ヅァルリーノがサン・マルコ寺院(バジリカ)の聖歌隊指揮者(マエストロ・ディ・カッペッラ)に任命されて以来高まっていた。彼は最初の器楽合奏団を編成し、歌唱や奏楽を市の教会(このうち一〇〇以上の教会にオルガンがあった)においてだけでなく同信組合(スクオーラ)においても奨励した。

音楽は、一六〇三年に聖歌隊指揮者となったジョヴァンニ・クローチェの時代に、そしてサン・マルコ寺院のオルガン奏者、作曲家であり、一七世紀初頭にヴェネツィアに留学した多くの外国人学生たち数人の師であったジョヴァンニ・ガブリエーリの時代に、引きつづいて隆盛をみた。
クラウディオ・モンテヴェルディモンテヴェルディの墓[左、モンテヴェルディの本、右、モンテヴェルディの墓、フラーリ教会正面左のカッペッラにあります。サイトから借用] しかしヴェネツィアの作曲が一つの流派として円熟期に入ったのは、一六一三年にヴェネツィアに来て、死去するまで三〇年間を過ごしたモンテヴェルディの時代であった。いまやオペラが盛んになりはじめ、モンテヴェルディ自身ヴェネツィア最初のオペラ劇場サン・カッシャーノ(カッスィアーノ)劇場のためにオペラを作曲したばかりでなく、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロやサン・モイゼのオペラ劇場やノヴィッシモ劇場のために作曲した。
新カッスィアーノ劇場前[世界初のオペラ劇場、旧・新サン・カッスィアーノ劇場前テアートロ小広場。建物のあった所は現在、アルブリッツィ館の庭となっています]  これらの劇場のために、そしてその後の劇場――サン・サムエーレ、サンタンジェロ、サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ、そしてサン・サルヴァトーレの劇場――のために、つねに新しい作品の需要があり、一七、一八世紀を通じてとどこおりなく供給された。
ガルッピ像[ブラーノ島B. ガルッピ広場のガルッピ像] 上演されたのは、ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリ、ジョヴァンニ・パイジエッロとニコロ・ヨンメッリ、ニッコロ・ピッチンニ(orニコーラ・ピッチーニ)とブラーノ島生まれのバルダッサーレ・ガルッピ(インクラービリ音楽学校の聖歌隊指揮者となった)、ドメーニコ・スカルラッティらの作品である。……」
  1. 2020/02/17(月) 00:00:00|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(3)―その2

(続き)
「……宗教的祭典もいまなお世俗的祝祭と同様に見ごたえがあった。ヴェネツィア市民が毎年楽しみにしている祭典が二つあった。疫病からの救済を神に感謝するために建造された二つの教会、レデントーレ教会とサルーテ教会の祭りであった。
ヴェネツィア上ヴェネツィア下七月の第三日曜日のレデントーレ教会の祭日には、運河に教会まで小舟をつないだ浮き橋がかけられた。群衆はフォンダメンテ・デッレ・ザッテレから統領(ドージェ)と総理府(シニョリーア)の役人たちに続いて花で覆われた橋を渡り――この慣習は今日もこのままである――その夜は明け方まで祭りが続き、彩色カンテラの下で歌い、踊り、花火の閃光の下でモーレ・デル・レデントーレと呼ばれる桑の実を食べ、夜明けが近づくと、日の出を見物するためにリード島へ漕ぎ出した。
『レデントーレの夜』サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用[左、ガブリエール・ベッラ画『レデントーレの夜』、右、1939年以前のサルーテ教会のponte votivo] 
過去数世紀にわたってそうであったように、クリスマス、復活祭、聖体祝日、昇天節には宗教上の祭典が催され、サン・マルコ広場では工芸品の大市が開かれた。……」

「キリスト昇天祭(フェスタ・デッラッシェンシヨーネ)には、幾世紀にも及ぶ歴史をもつ海との結婚のために、儀典用御座船(ブチントーロ)に従ってあらゆる種類の船がラグーナを渡った。御座船が小広場に帰着するまで教会の鐘が鳴り、礼砲が打ち上げられた。統領と随員たちは統領宮殿の宴会の間に入り、そこではテーブルが整えられて中央にはムラーノ島のガラス製の飾り杯(アルツァータ)、砂糖と蠟でできた凱旋門や城、そしてドラゴンが配されていた。

ついで一二月二六日の聖ステファヌスの祝日に長い謝肉祭(カルネヴァーレ)が始まった。……」

「昼間は市のいたるところで芸当や見世物があり、闘牛や気球のり、仮装パレード、熊いじめ、拳闘や格闘技の試合、笑劇や人形芝居、宙返り曲芸師の、ゴンドラの漕ぎ手の、そしてカステッラーニ党とニコロッティ党の軽業の妙技が披露された。彼らは《ヘラクレスの力業(フォルツェ・デールコレ)》と呼ばれる驚くほど敏捷な離れ業によって、小広場や大運河でたがいに肩の上にのる演技を見せ、大運河の場合には船のなかに立って肩に厚板をのせて均衡をとりながら、雛壇式にしだいに高くなり、ついには人間のバリケード全体がくずれて、叫び声と笑いのなかを海中へ落ちてしまうのであった。……」
ガブリエール・ベッラ画『ピアッツェッタでのカーニヴァルの最終木曜日の祭』[ガブリエール・ベッラ画『ピアッツェッタでのカーニヴァル最終木曜日の祭』] 「謝肉祭の最終日の真夜中になると、サン・マルコ大聖堂(バシリカ)とサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会の鐘が鳴って、今年の楽しいお祭り騒ぎは終わったことを告げ、最後の花火がシューと音をたてて大運河のなかへ落ち、群衆は広場(カンポ)から歩いて家路につき、人々が去ったあとの舗道は、ポンペーオ・モルメンティの言葉によれば《リボン、衣服がちぎれた切れ端、羽毛、紙吹雪、オレンジの皮、カボチャの種》が散乱していた。」
……
「翌朝、夜が明ける一時間前に教会の鐘が鳴り、早朝の祈祷(マットゥーティン)の時を告げる。そして夜警が統領宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)から行進して去って行くと、サン・マルコの鐘のとどろくような音色マランゴーナがふたたび響きわたる。その後まもなく玄関の扉が開いて労働者たちが短い仕事着を着てゆったりしたズボンをはいた姿を現わし、幾人かは仕事場へ向かう途中で足をとめてミサを聞き、あるいは街角の祠堂で急いで祈るのであった。

まもなく街路は鋳造工場、陶器製造所、ガラス製造所へ向かう労働者たちであふれ……。 ……」 (その3に続く)
  1. 2020/02/08(土) 13:03:32|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(3)―その1

ヴェネツィアについて書いた本に、クリストファー・ヒバート著『ヴェネツィアVenezia』上下(横山徳爾訳、原書房、1997年5月10日)というのがあります。私の関心のある18世紀について、次のような事を述べています。
ヴェネツィア上ヴェネツィア下「……旅行者の数は年ごとに増加した――ドイツ人、フランス人、ポーランド人、スペイン人、とりわけイギリス人である。実際レイディ・メアリー・ワートリー・モンタギューが選んだ言葉を使えば、イギリス人は定期的な『洪水のように殺到した』。彼女は一七三九―四〇年に、そして一七五〇年代と一七六〇年代にヴェネツィアで数か月を過ごしたが、グランド・ツアーの途中に謝肉祭(カルネヴァーレ)に合わせてお供の家庭教師とともにヴェネツィアへ到来する同胞青年たちの行状を腹にすえかねていたのである。」
……
「外国人向けにはおびただしい数の快適な下宿(ペンシオーネ)があり、すばらしいホテルもいくつかあった。そのなかには《国王》屋(アルベルゴ・レアーレ)、《フランスの紋章》屋(スクード・ディ・フランチャ)、《イングランド女王》屋(レジーナ・ディンギルテッラ)、《騎士道》屋、《乙女》屋(ドンゼッラ)、《三人の王様》屋(トレ・レ)、《白獅子》屋(レオン・ビアンコ)などがあり、最後のホテルには一七六九年に皇帝ヨーゼフ二世がお忍びで、一七八二年にはロシアのパーヴェル・ペトローヴィチ大公が滞在した。これらすべてのホテルで食物はおいしく、一八世紀が経過していくにつれて食事は高価になったけれども、イタリアの他の都市に比べると値段は高くなかった。」
……
「《ヴェネツィアで見られるような、あらゆる種類の、数多くのすばらしい祝祭、式典、民衆の娯楽はヨーロッパのどこにもない》と、あるフランス人の旅行者は書いている。催し物には、往古の繁栄を記念するためばかりでなく旅行者を引き寄せる意図があったが、毎年恒例の行事もあり、必要に応じて催されるものもあった。統領(ドージェ)の選挙は歳月が経過しても華麗さを少しも失わなかった。

マルカントーニオ・ジュスティニアンの後任としてフランチェスコ・モロシーニが統領に選ばれたときには、儀典用御座船(ブチントーロ)に盛装した役人や貴族がおおぜい乗り込み、同じように入念に飾りたてた小型船を何十隻も従えて、リード島に向かった。

そこでは新統領が御座船の到着を待ち受けていた。彼は御座船で運ばれて小広場まで戻り、大きな凱旋門の下を通過して、周囲で海豚が口から葡萄酒を貝殻のなかへ吹き出しているネプトゥーヌスの像のそばを歩いて、窓から大きな幟やダマスク織りが掛けられている統領宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)へ近づいた。巨人の階段(スカーラ・デイ・ジガンティ)を上りつめたところで戴冠されることになっていた。祝典は三日間続き、街路に出た民衆は仮面をつけ、客人たちが舞踏会や晩餐会、賭博パーティ、仮面舞踏会に参加するために邸館のなかへ姿を消した。」……
ナーニ館での宴[『ナーニ館での宴』―Clemens August von Köln。カ・レッツォーニコ館蔵。サイトから借用]
「一七〇八年のデンマーク・ノルウェー国王、一七四〇年のポーランド国王、一七六四年のヨーク公、一七六七年のヴュルテンベルク公、一七七五年の皇帝ヨーゼフ二世、一七八二年のロシアのパーヴェル・ペトローヴィチ大公と教皇ピウス六世、そして一七八四年のスウェーデン国王の訪問は、すべてこのような祝典によって祝われた。一七五五年の、ケルン大司教・選帝侯であるバイエルン公クレメンス・アウグストの訪問は、ジュデッカ島のパラッツォ・ナーニで催された豪勢な宴会によって注目され、この宴会はピエトロ・ロンギの流派に属する画家によって描かれている。」 (その2に続く)

  1. 2020/02/01(土) 15:15:37|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(2)

ヴェネツィア共和国が滅亡することになる18世紀のヴェネツィアについて、ヘルマン・シュライバー著『ヴェネチア人――沈みゆく海上都市国家史』(関楠生訳、河出書房新社、1985年8月30日)という本は、次のように書いています。
ヴェネチア人「 ヨーロッパのごろつきの巣窟となった独立国最後の時代
一七〇九年から一七二二年までドージェの職にあったジョヴァンニ・コルナーロは、トルコ軍がわずか数週間のうちに一万六千名を失ったことを知り、新しい世紀が共和国の再興隆まではもたらさずとも、これ以上の衰微を招くこともないだろうという期待を抱くことができた。

偉大な家門と町とは、富裕で賢明であった。市民層――キリスト教徒とユダヤ人――も最近数世紀のあいだにずいぶん金持ちになっていた。そしてヴェネチア自体にもう偉大な将帥がいないとなれば、以前にはスイスの衛兵しかできなかったようなすばらしい軍事訓練をつい先ごろからおこなっている国々から呼んでくればよかった。

こういう期待は多分に真実を含んでおり、共和国最後の十人のドージェは事実、戦争での功績よりは精神、教養、文学での月桂冠によって世の注目を浴びることになる。しかしその他の点では、この共和国最後の世紀は、ヴェネチアといえども自然法則の例外を要求することはできない、ということを示した。

頭をたたき割ってやることのできるトルコ人もいなければ、不穏な貴族の若者がぞんぶんにあばれ回ることのできる戦争もないというので、若者のおちつきなさ、貴族の冒険心は、おだやかな人たちに向けられた。

ヴェネチアは、独立国として存立したこの最後の時代に、山師、盗賊、詐欺師、賭博師ら、ヨーロッパ全土から集まったごろつきの巣窟となった。潟の警察はかつてないほどに監視の目を光らせていたのだが。

そういう悪漢のなかでも最も手に負えない男が、十七世紀のヴェネチアに出現した。レオナルド・ペサロという貴族である。ルクレチア・パリオーニという美しい女のために、彼と仲間のカミッロ・トレヴィザンが殺人事件を起こし、ついにペサロはムラーノとメストレ、ヴェネチアとノアレに分散している一味徒党の指揮をするようになった。

金が必要になれば、カリマンのような金持ちのユダヤ人を襲うか、貴族の社交の場に押しかけて、悪口雑言をならべながら婦人たちの首や腕から宝石をもぎとるかした。女が必要になれば、祝祭の場やゴンドラから白昼に誘拐してきて、何か月も手もとに置き、一味の全部がたっぷりなぐさんだ。そういう女性はかわいそうに、その後はどこかのホームにはいって植物のように生きるほかはなかった。

モロシーニ家の男までが、法律の保護を停止されたこの二人の仲間に加わったとき、共和国は真剣になって、三人の相続財産を没収し、彼らを追放すると同時にその首に多額の賞金をかけた。これは、富裕で有名なこういう家門の子弟に対しては、たしかになかなかなしがたい決定である。

ブレーシアに近いヴェネチア領に領地を持つアレマンノ・ガンバーラ伯も、一七六〇年に同じような目に会った。彼は辻強盗一味の首魁になって、古い家名にあまりふさわしくない行動をしたのである。彼も国外追放になったが、こういう処置を見ると、総理府(シニョリーア)は、まだ権力の残されていた最後の世紀になって、高い身分の犯罪者を処刑するのにある種のためらいを感じたかのようである。

これはいささかふしぎである。というのは、これもヴェネチアの人ジャコモ・カザノヴァの口から、ドージェ官邸の地下室で音もなく次々に犯罪者を処刑した鉄の首輪(ガロット)、あのたくみに考案された造り付けの絞首刑道具の話を聞かされるのも、この世紀のことだからである。」
  1. 2020/01/20(月) 00:00:07|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(1)

私がイタリアの中でも特にヴェネツィアに興味を覚えてヴェネツィアに行ったのは、ヴェネツィアの18世紀を面白いと感じてのことでした。それ故初めてのヴェネツィア行の時、レッツォーニコ館の18世紀博物館(Museo del Settecento veneziano)と演劇博物館(Casa di Carlo Goldoni)になっているゴルドーニの生家は見逃す訳にはいきませんでした。

例えば永井三明著『ヴェネツィアの歴史――共和国の残照』(刀水書房、2004年5月26日)は、次のように18世紀の色々な側面を細かく分析して、18世紀ヴェネツィアの有様を教えてくれます。
ヴェネツィアの歴史「……
ヴェネツィアが最高の観光都市であるという定評を確立したのは、十八世紀のヨーロッパ諸国で流行したグランド・ツアーと呼ばれるものによってであった。それは主としてイギリス、フランス、ドイツの知識階級や上流階級の子弟が見聞を広めるために長期にわたって各地を旅行することであった。

ゲーテ、モンテスキューをはじめ数多くのイギリス人やフランス人、ドイツ人による情報は各国の君侯をはじめとして多くの人びとを旅にいざなっただけでなく、ヴェネツィア共和国の政治制度への興味や、その社会のしくみについての興味をかき立てた。

少なからぬグランド・ツアーの滞在者がヴェネツィアの不潔さや悪臭、社会生活での堕落や放埓、悪名高い十人会の抑圧に不満をもらそうとも(モンテスキューはそれを感じた)、悦楽のうちに暮す人びとの屈託のない生活、政府による下層民に対する行き届いた社会生活を認めた。

ましてや、公式に歓迎された君侯がどれほど満足してこの地を去ったかは想像にかたくない。楽しい世紀のヴェネツィアのエレガンスは、北方の君侯の重苦しい宮廷生活の心をときほぐし、着飾った貴婦人による優雅な応対は彼らに再度の来訪を希望させたに違いなかった。

では十九世紀を待たずに崩壊し去ったヴェネツィア共和国が、その終焉の瞬間までどうしてその魅力を全ヨーロッパに向けて発散させることが可能であったのか。国家の滅亡にはほとんどといってよいほど、放火、略奪、暴行、殺戮のイメージが伴う。ヴェネツィア共和国の衰退は十六世紀以降十八世紀にいたる長くて緩やかな下降現象だった。その終焉にあたっても治安はほぼ保たれたが、この事実は稀有な現象といいうるであろう。

外国人をひきつけてやまなかった十八世紀ヴェネツィアの魅力は、上述してきたような貴族の贅沢な生活や、彼らに将来の展望がきかぬことに由来する目先だけの享楽生活だけであろうか。外国人の目にうつったのは市民生活の平穏無事の姿である。民衆暴動はこの都市には伝統的に無縁だった。

イタリアのどの都市にも絶対見ることのできなかった市民生活の安定は無限の重みをもつものである。しかし一般住民には貴族のように快楽で身を焼きつくすには富がなかった。かえってそのことが生活における健全さと程の良さをもたらした。これがヴェネツィア共和国長命の核心である。」 ……

「……ヴェネツィアの治安がなみはずれて良かったのは、決して当局の厳しい取締りによるのではなかった。むしろその理由は民衆の中にあったのである。穏健な当局のあつかいにこたえる健康な良識があったからであろう。本土のどの都市よりも生活水準が高く仕事も豊富にあった。

警官はどちらかといえば、親切で陽気でうちとけた態度だった。闇夜での殺人は、イタリアのどの地方でも日常茶飯事だった。ここヴェネツィアではまれにしか起こらなかった。警官は警棒を使用はしたが、近代的な意味での官憲の暴行は絶えてなかった。感情におもむくまま民衆を残酷に扱うことはなかった。

殺人件数は意外に少なく年間二〇件をこえなかった。それはフランス人シャルル・ドゥ・ブローが証言している。事実、ドゥ・ブローは一七三九年三月より一七四〇年一月まで滞在していて、喧嘩沙汰に対する罰までは数えていないが、重大な暴力と殺人に対する一七件の判決が下されたことを述べている。

一七三二年、故郷ヴェネツィアに帰国した劇作家カルロ・ゴルドーニは街灯が楽しげで役に立つ発明であるのに気がついた。また一七六三年、フランス人聖職者は、夜間の照明は十分にほどこされていると証言している。「それはイタリア中どこにでもあることではない」と。

一方、自分が経営する薬局の奥から世間を眺めて、その見聞のすべてを記録した年代記作者アントニオ・ベニーニャはカーニヴァルの期間中に、ふだん以上に盗みと殺人が多発したために、十人会が各地区の長に対して夜間に武装したスタッフで街路のパトロールを命じたと述べてはいるが。

しかし同時期のイタリアの他都市の情況を忘れてはならない。例えば、教皇クレメンス一三世の下での教会領の殺人が一一年間に一万二〇〇〇件にも上った(年平均一〇九〇件あまり)ことを知れば、ヴェネツィアの治安がずばぬけて良好であったことを認めぬわけにはいかない。 ……」

そんなヴェネツィアの中にもマニーン広場とサンタンゾロ広場を結ぶコルテジーア通り、マンドラ通り、スペツィエール通りから、左へ入るアッサッスィーニ埋立通りというのがあり、その通り入口に古本屋さんがあって、私は何度かここで古本を購入したことがあります。一度など2冊買ったら1冊はサービスするよと、ディスコントしてくれました。このアッサッスィーニ埋立通りのアッサッスィーニ(Assassini)とは暗殺者達のことです。この物騒な名前は、この通りでかつて人が暗殺されたことの記念ということでしょうか。

2000年の大聖年以前、初めてヴェネツィアに辿り着いた時、土地の人に言われました。《夜遅くまで外で遊んでいても、本土の他所の町と違ってここは安全だからね》と。イタリア旅行記で怖い思い、不安感を感じさせられた人の話等を読んで、それなりに構えていた私も、ヴェネツィアに着いてその言葉を聞いてホッとしたものでした。
  1. 2020/01/05(日) 10:00:18|
  2. ヴェネツィアの歴史
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アックァ・アルタ(5)

今季、何回となく紙上を賑わしているヴェネツィア名物(?)のアックァ・アルタ! 損害も何億ユーロにも及び、観光客が面白がっている段階ではありません。事態はCodice arancio(緊急事態、コードオレンジ)で、サン・マルコ広場の甃の敷石が根元から剥き出しになり、破壊された状態になったそうです。

本日のIl Gazzettino紙は、先日平均海面上130cmに達した高潮がこの日には120cmに届き、サン・マルコ広場の粗面岩の敷石(masegna)が高潮で破壊されたと語っています。[masegna(ヴェネツィア語)=macigno(伊語)の意で、大理石ほど硬くない灰色の岩石だそうです。]

サン・マルコ広場の甃の敷石は、パードヴァの西に位置するエウガーネイ丘陵産の粗面岩で貴重な物と言われ、それがこの週のアックァ・アルタで土台から剥き出しにされ、壊れる事態となったという事態です。この広場の敷石は18世紀に遡るもので、1800年代末、一部は修復されたそうです。

現在ではくすんだ色の敷石となり、イストラ半島産の石で飾ったりされたようですが、何か安定性を欠く状態だったようで、今回の高潮で土台から浮き上がったり、割れてしまったり、細かく割れて波に浚われ、元の方形に戻らないもの等多々。

ThetisとKostruttiva協会がいち早く文化財保護局に提示したプロジェクトは、破壊された部分の修復を規定しており、黒く汚れた敷石から雨水の排出作用等を取り戻すために、これらの敷石それぞれを分類し直す作業から始まるだろう、と。予算は3千万ユーロ。

ガッゼッティーノ紙には日本語の広告が結構掲載されており、日本の読者が多くいるということでしょうか。
  1. 2019/12/22(日) 23:16:54|
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ヴェネツィア

平川祐弘著『藝術にあらわれたヴェネチア』(内田老鶴圃、昭和三十七年十月二十日)という本を2011.05.07日のブログ《ヴェネツィア本》(1)で紹介しましたが、その中に次のような文章がありました。
「ヴェネチアを語るには美にたいする鋭敏な感受性を必要とする。雰囲気を感じる肌と、それを伝える筆とを持たねばならない。」

ルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』を見、塩野七生さんの『海の都の物語』を読み、この町に憧れ、1994年の秋、初めてミラーノ・マルペンサ空港に降りました。ミラーノを2日観光、ミラーノ・リナーテ空港からヴェネツィアに飛び立ちました。当時はプロペラ機でした。ヴェネツィアではテッセラ空港からアリラグーナの船便でサン・ザッカリーア桟橋着。初のヴェネツィア入市が一応船(トーマス・マン著『ヴェネツィアに死す』には及びも付きません)ということで感激一入でした。丸1週間滞在し、すっかりこの町の虜になりました。1996年からも切れ目なくヴェネツィアです。

2000年からは、仕事のない月を選んで2~3ヵ月ずつアパートを借り6年間、伊語の勉強でヴェネツィア学院に通学しました。午前中はイタリア語勉強、午後はヴェネツィア街歩きということです。初めて借りたアパートが大運河に面したモチェニーゴ・ヴェッキア館だったこと、そしてこの館でジョルダーノ・ブルーノが館主ジョヴァンニ・モチェニーゴの裏切りで異端審問所に捕まり(1592)、ローマのカンポ・デイ・フィオーリで火刑(1600.021.17)により焼死した、その400年記念日当日(大聖年の2000.02.17)この館に滞在していたことが油を注いだようで、語学院通学は6年間も続きました。ヴェネツィアに行くと必ず顔を出すバールやバーカロも出来ました。

ヴェネツィア滞在中にローマ、スィエーナ、フィレンツェ、ボローニャ、パルマ等ほか、都市歩きもしました。それ以上に頻繁にヴェーネト各地は訪ね歩きました。“gita palladiana”といった趣です。そんな中で友人達のガイド役も幾つかやりました。イタリアが初めての友人達の目線は素直で、既に色かぶれの私の色目とは異なり、新しい発見があったりしました。

ヴェネツィア行の中でも、歌川豊春(1725~1814)の『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』という遠近法を表現した浮絵の手本となった、アントーニオ・ヴィゼンティーニの『Prospectus ab Sede S. Crucis ad P. P. Discalceatos.』の実物を骨董屋で見付け、手に入れた時の嬉しさは格別でした。
カナレットの元のスケッチサンタ・クローチェの景観ヴィゼンティーニの『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊鐘響図』[左から、カナレットがデッサン(ウインザー城蔵)し、そしてその完成画(サイトから借用、ヴァージョンが色々あるようです)。更にそれをアントーニオ・ヴィゼンティーニが銅版画にし、その版画が江戸時代オランダ人(?)により日本に齎され、歌川豊春がそれを浮絵(prospettiva遠近法)の勉強のために模写したという経緯のようです。]

2007年に始めたヴェネツィア・ブログも10年を越し、かつて書いたもの、翻訳したものを読み返してみると、当然の如く誤りや思い違い、誤訳があり、嫌になります。その上引用し過ぎで、著作権上、越権行為と思われるやり過ぎが多々あると思われます。それ以上に誤訳というものは害毒です。“鋭敏な感受性”を欠いた者には、“それを伝える筆”力など生まれる筈がありません。誤訳行為は終りとしなければなりません。
  1. 2019/12/10(火) 08:12:09|
  2. ヴェネツィアの街
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文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(6)

(『水都幻談』続き)
『世界名詩集大成』3巻 フランスⅡ「 館邸
  ――ア・ド・カラマン・シメー公爵夫人に――

そは夜ともならば、蒼白き大理石の低き正面の構えに、窓々の燈火あかあかとともりて、さながら幽霊屋敷なり。昼間は、宏壮にして古き未完成なる屋敷にすぎず、運河ぞいに、獅子頭の刻まれし、そが頑丈なる土台は立つなり。未完成ながら、固く接ぎ合わせし石材を利用し、中断せる普請のうち一階のみを生かせしなり。門よりは、錬鉄の格子戸ごしに、庭の茂みもうかがわれて、高き糸杉の一株、天に聳えたり。

テラスは、そが二段の盛土を水面すれすれにまで広げたれば、われ、そが石階に舟をつくること屢々なり。ここに住まえるはわが親しき婦人たちにして、この古家を人のためにも、己がためにも居心地よき住まいとせし人たちなれど、時にわれ、彼女たちを訪ぬべく格子戸をくぐらで、そこに立ち止まり、欄干に肱つきて、船の往来を眺めんとす。

太鼓腹のオベット船あり、軽快なる伝馬船あり、屋形をつけたる画舫あり。屋形は、長き裳裾に被われ、黒と金もて塗られたり。

このあかぬ眺めに何時までも浸りたけれど、人に見らるるにあらずやと不安なり。思わずふり返る。テラスには人影とてなく、ただかの馴染ふかき二つの像あるのみ。そは古の二人の少年を象どれるもの、服は十八世紀風にして、外套は半ずぼんの上にて開けり。締め金つきの靴をはき、縁の垂れたる帽子をかぶりて、純情可憐、いささか田舎じみたり。双の頬のぷっくりと膨らみたるもあどけなし。めいめいに消壺と提燈を手にす。而して、無言のまま、じっとわが方を見守るは、何ごとかわれに言わんとするものの如し。

さあれ、せんなしや、物言わぬ身の、持物のみにては、何をかわれに語り得ん。提燈が意味するは、日の短く、夜の長くなりしことか。かの火鉢にも似たる消壺のわれに教えんとするは、季節の移り進みて、夏も遠く去り、心地よき秋さえやがて終わらんとすることか。されば、今や赫(かがや)かしき陽光ともお別れなり。

かつては石に、水に、木の葉に、かくもゆたかに降り濺ぎしものを。かかることにあらずや、いたずら小僧共よ、君らの凍えし手と、君らが冬の持物のわれに言わんとするは。冬なりしか! されど、冬近きことは既にわれの知るところにあらずや。冬の気配は、とぼしくなれる光線にも、肌寒くなれる空気にも感じらるるなり。この欄干に絡める藤蔓の残りの枯葉をもぎ取るも冬なり。かの石の籠に盛りたる、彫刻の果実をわれに差し出すも冬にあらずや。風の音にも冬の声す。大潮の満ちて、運河を膨らますも冬なればなり。

かく、ヴェネチアは到るところ、うちふるう光線の中に冬を迎えんとす。然るに、など、かかる提燈や火鉢をわれに示さんとするや、あまりにも性急なる者共よ、君らのおせっかいが今さら何の甲斐あらん。

いな、いな、われ未だこの町を立ち去ることなかるべし。われはこの十一月の寒きヴェネチアをことさらに愛する者なり。濃霧につつまれて牛乳色せる、或いは、氷花に飾られて冷たき音たつる、かの瑠璃細工の如きヴェネチアは格別ならずや。雨とてもわれを追い出すことなかるべし。

入江の水鏡に映える空の色の、澄むとも濁るとも物かわ、庭の木の葉のことごとく飛び去らんとも、そは代赭(たいしゃいろ)色の、緋色の、鮮黄色のヴェールと変じて、秋のかたみの如くに水の面に散りしくにあらずや。

されば騒ぐなかれ、われとても何時かはこの町を去る身なれど、、日暮れて、ヂウデッカ寺のうえに上るかの三日月の、せめて美しき満月となるまで待つとせん。さればその夜の月は、君たちの影法師の、うつぶせに倒れて、君たちの面前にながながと伸びるを、そがヴェネチア風なる銀の面ごしに眺むることならん。 」
  1. 2019/11/30(土) 03:34:48|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(5)

2009.05.23日にアンリ・ド・レニエについて、ブログ水都幻談で触れました。実はこの《ヴェネツィア風物詩》というべき散文詩は、紹介した《序詩》以外は全て古体の雅文で訳されています。森鷗外が訳したアンデルセンの『卽興詩人』の雅文体に最近ハマっている私は是非この眷恋の地をこの文体で紹介したいと思った次第です。
『世界名詩集大成』3巻 フランスⅡ「 奇妙なる庭園
       ――ジェラアル・ドゥヴィルに――

こはただに大理石と水の都のみにはあらざるなり。庭園もまた数多く、緑なす樹木の土壁に囲まれたる、何故か知らねど、他所に求め得ざる、珍奇にして意外なる何ものかを具えたり。壁に護られて中にひそめる庭は、秘やかに閉(しず)もりかえりて、わずかに一樹の梢を、即ち、糸杉の先端を突き出せるに過ぎざるなり。

かかるヴェネチアの庭園を、われ、悉く知るよしもなけれど、名園の幾許かは知れり。ツァッテレ河岸には救済院の庭あり。庭を繞(めぐ)れる長き赤壁には、ところどころ、豊頰の愛神像かざられ、そが一つの如き、冠も髯も藤蔓なるはおかし。また格子造りの門扉ごしに、大運河を望むヴァンドラマン園あり。ヴニエ宮の庭もあり。この庭は、柵をめぐらせし二段の築山によりて、水上にまで伸び、二体の像は田舎者よろしく、また、かずかずの籠には石の果実が刻まれたり。

人目をさけて隠れんとする、さらに陰険なる庭もありぬ。かかる庭を訪ねんには、労をいとわず、辺鄙なる界隈まで足をのばして、この錯綜せる町の迷路の中に探さざるべからず。われはかかる庭園の一つを記憶す。そが名は忘れしも、サン=セバスチアノ寺の方にありき。そこを住まいとせる古き像は大方くずれたれども、英雄や、神々の像なりしならん。われは目を閉ずとも、汝を見る想いす、汝、グラデニゴ宮の小さき廃園よ。さてはまた、汝、カッペッロ宮のなつかしき苑よ……。

或るうららかなる日の夕刻を、われ、かしこにて過ごせしことありき。そは狭く長き庭にして、パラディオ風なる円柱の立ち並ぶ廻廊のあたりにて尽きたり。やせたる花々の花壇をくゆらせ、また、或る花壇には、柘榴の実のまるまると熟れて、えみわれたるありき。われ、幾年月をここに住みなれし心地して、いとも悠々と逍遙せり。

われの最も好むはヴェネチア園ならんも、もとよりそはダリオ宮の庭園を除きてのこと。げにこの庭は、正確なる方形にして、数条の小径にて整然と劃されたり。葡萄棚を支えたるは半身の莢状(さやじょう)せる女人の木造、顔かたち豊満にして歓喜にあふれ、乳房はふくらみ、腹は張り、臍(ほぞ)さえも判然と見ゆ。

彼女等が、葡萄の幹を、葉を、蔓を、房を支えいるさま、いとも誇らしげなり。彼方には、噴泉ありて、大理石の水盤に流れ落つ。そが音は、一滴一滴したたる毎に、いよいよ沈黙は増大し、沈黙を氾濫せしむかと見えたり。

ヴェネチアにはこの他にもなお多くの庭園あり。ヂウデッカ寺の庭の如きは忘れがたく、入江より望まば、そが木立もそが糸杉も見ゆ。われは嘗てそが中にまで足を運びしことありき。いとも広大にして、且つ、閑寂、久しき逍遙に適す。人ここにあらば、潮風を吸い、心に思うことを口にせざるを得ずして、自ずと低吟の意さえ動くほどなるに、これよりわれの語らんとする庭は、人その前に立つ時、そが驚異を心ゆくまで味わんがため、口を噤(つぐ)むを常とす。

ああ、げに奇妙なる庭かな。そが宏大にして微小なる、これにまさる奇異、これにまさる哀調の他にあらんや。そが複雑もまたそが奇異に劣らず。この庭を構成するは、対称的なる花壇なり。花壇を区分する小径なり。花壇を囲む柵なり。花壇を限る廻廊なり。而して、微小なる花々の噴出する無数の小さき瓶なり。この庭は童子の如くにして、永遠にかわることなし。季節の移りかわることもなし。

如何となれば、そは、悉くガラスにて造られしものなれば。芝生も、薔薇も、噴泉も、それぞれを模して、ありとあらゆる色ガラスが用いられしなり。然らば、この庭の滑稽にして愛すべき驚異の中を逍遙すとせば、そはただ目によるほかはなきなり。

往昔、貴族の食卓に飾られいし頃、ヴェネチアの貴婦人らの目は、そが精妙にして脆弱、且つ、突飛なる細工を楽しみしものならんも、この庭の今もなお博物館を訪るる人々を喜ばすこと古(いにしえ)とかわらじ。 」 (6に続く)

この『水都幻談』は、平凡社の文庫ライブラリーで『水都幻談――詩のコレクション』(1994.05刊)として再版されています。
  1. 2019/11/23(土) 17:35:16|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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