イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内(12)

(続き)
「この直ぐ前方の軒下通りまで進もう。1800年代末にも、1655年グリマーニ家によって開場されたサン・サムエーレ劇場があった。カルロ・ゴルドーニはそこでデビューした。右へ曲がりスフォルツァ公の小広場まで進もう。

そこにはキプロス島の女王の父マルコ・コルネールが始めた壮麗な館が建っていた筈である。バルトロメーオ・ボン設計図には長さ55m超にも及ぶ部屋が示され、総督宮殿の大評議会の間より大きかった。現実に大運河に唯一残るオリジナルの設計の基礎部の角の柱や浮出し飾りのある切り石積みの断片がある。ここにはオリエント芸術の興味深いコレクションがある。

マリーノ・ナーニ・モチェニーゴ伯はコーヒーやチョコレート、お茶の茶碗一式に特別の関心を抱いて、1700年代の磁器の収集を始めた。このためCicara伯(チカーラ=ヴェ語デミタスカップのこと)と愛称された。この収集家伯爵の死で妻のカテリーナ・ヴェッルーティは、義兄のルクセンブルク大使ユーグ・ル・ガレが、日本と極東滞在時に集めた東洋の芸術品のコレクションとこの素晴らしい収集を統合し、1962年カ・デル・ドゥーカ(ドゥーカ館)に小さな博物館を開いた。
[ナーニ・モチェニーゴ伯爵夫人はカルパッチョ料理誕生に関わりがあります。以下の、2012.11.03日のブログカルパッチョ(5)をご覧下さい。]

1513~14年ティツィアーノがここの大広間で総督宮殿のために大画布を制作準備したが、1574年と1577年の恐ろしい火災で、ヴェロネーゼとティントレット、ベッリーニの作品と共に灰燼に帰した、ということがあった。

引き返してテアートロ通り(Cl. Teatro)を行こう。直ぐの右の軒下通りへ曲がり、続く橋を越え、そのまま次の橋まで行くと、ヴェネツィアでも広く美しい広場の一つサント・ステーファノ広場(Campo S.Stefano)が開ける。足を止めることなく回って行くこと少々、取り囲まれた生活を楽しむべく、1杯のコーヒーで座る時間がやって来た。“パオリーン”こと、ハーゲン・ダッツのジェラート屋である。
パオリーントンマゼーオ広場中央にある銅像は、文学者で愛国者のニコロ・トンマゼーオである。銅像を見れば分かるように、像背後に積まれた本の山は皆が愛情を込めて、糞本(I cagalibri)と呼んでいる。

この周りにはモロズィーニ家からロレダーン家(現在ヴェーネト科学文学芸術協会の所在地)や素晴らしいピザーニ家まで貴族の館が建ち並んでいる。ピザーニ家はそのサロンに王侯貴族を招いた(この同じ家系の家はストラの田園に美しい迷路のある、有名な館を所持している)。1877年からピザーニ家はベネデット・マルチェッロ財団の音楽院の本拠地である。広場最奥にはバルバロ館やグッソーニ=カヴァッリ=フランケッティ館がある。
[ブレンタ川(運河)沿いのストラのヴィッラ・ピザーニに行った時、この有名な、2m以上もある黄楊が密生した生垣で作られた迷路に入り、中央のミネルヴァの塔までは行けました。復路は迷路に完全に翻弄され、パニクって、解放されるま10分以上は帰路で呪縛されていました。このピザーニ館や迷路(1722年建築家ジローラモ・フリンジメーリカにより)をガブリエーレ・ダンヌンツィオが作品『炎』の中で触れているそうです。]
ピザーニ迷路音楽院[左、ストラの迷路。右、ピザーニ広場のベネデット・マルチェッロ音楽院。写真はサイトから借用] 大運河の尖塔式のバルバロ館は、1800年代末、米国画家ジョン・シンガー・サージェントの家族ダニエル・サージェント・カーティス(ダニエル・サージェント・クルティス)の未亡人が手に入れ、ヴェネツィアの英語話者コミュニティ・センターとなった。中でも英国詩人ロバート・ブラウニング(後1899年カ・レッツォーニコで死去)や印象派画家エドガール・モネ夫妻、『アスパンの恋文』を書いた英国作家ヘンリー・ジェイムズらを招いた。

聖アウグスティヌス修道会隠修士修道院が隣にあるゴシックのサント・ステーファノ教会は、13世紀に建った。1325年には建て直され、1400年代半ば頃まで度々改築された。素晴らしい船底天井はアルセナーレ造船所の有名な船大工達の仕事を思い起こさせる。ここに集められた芸術作品を目にするにつけ、大祭壇の大理石の嵌め木細工的仕上がりを暫時鑑賞したいもの。
サント・ステーファノ広場サント・ステーファノ広場Antonio Visentini のサント・ステーファノ広場[左、カナレットのサント・ステーファノ教会と広場のクロッキー(ウインザー城蔵)、中、カナレットの甥ベルナルド・ベッロットのヴェドゥータ、右、ヴィゼンティーニの版画] 中庭(chiostro)では、ある期間若きカノーヴァが習作を重ね、オルペウスとエウリュディケーの彫刻を石膏で造形した。教会ではしばしばクラシック音楽のシリーズが催される。[私が初めてヴェネツィア室内合奏団(Interpreti veneziani)を聞いたのは、1994年この教会ででした。現在はこの広場一番大運河寄りのサン・ヴィターレ(S. Vidar)教会がメイン会場です。]

この広場で1802年2月22日(サンタ・マリーア・フォルモーザやサン・ポーロでのように)最後の闘牛(牛追い)が行われた。モロズィーニ館近くの観客用の仕切席が崩れ、多くの打撲傷や怪我の人が出た。そのためこうした催し物はこれを機に禁止となった。

夕方、ヴェネツィア人が一杯引っ掛けにやって来て広場が賑わうのは恒例である。特にかの有名なスプリッツ(spritz)を飲みに来る“食前酒の時間(l'apertivo―スプリッツ・タイム)”なのだ。即ち、炭酸水1/2、白ワインとカンパリかセレクト1/2、とお好みで。
[初めての語学学校通学で古モチェニーゴ館にアパートを借りた時、スプリッツ・コン・ビッテルを教わり、サント・ステーファノ教会前のバール“アンゴロ”で2ヶ月間、毎夕食前の一時、赤いスプリッツを楽しみました。カンパリ1/3、白ワイン1/3、炭酸水1/3の割合にレモン。毎夕顔を合わせる知合いも出来て、語学のために話し掛けて伊語を教えられたり。] 

“ハーゲン・ダーツ(Haagen Datz)”の右からスペツィエール通り(Cl. Spezier)に向かって、我らが道を進もう。路の右に小ぢんまりとした庭があり、prattの若き友人のクラシック音楽のCD屋さん“Nalesso”がある。左には町でも最上のお菓子屋さんの一つがある。」 (続く)
[このNalessoのCD屋さんで、1585年ヴェネツィアまでやって来た四天正遣欧使節歓迎のためにアンドレーア・ガブリエーリが作曲し、サン・マルコ寺院で使節の前で演奏された大ミサ曲『四つの合唱隊による16声のグローリア(Gloria a sedici parti, con quattro cori separati)』を探し、尋ねたのですが、その曲はまだCDになっていないのではないかとのことでした。現在はどうなのでしょうか? 2008.04.04日のブログ《天正遣欧使節(3)》でも触れました。]
  1. 2016/12/01(木) 00:02:53|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(11)

(続き)
「右の酷い近代建築(銀行)を過ぎ、広場を横断しよう。近くにElecta芸術出版があり、行止まりの路にはバール“Vitae(ヴィテ)”がある。かつては70年代の歴史的な場所“アル・ケルビーン”があったが。

教会の小広場へ、そしてヴェネツィアののらくら者達の神話的飲み屋“アル・ヴォルト”のあるカヴァッリ通り(Cl. Cavalli)へ進もう。そこにはPrattもしばしば訪れ、何か特別のワインを引っ掛けて、当然の如く近くのロッスィーニ劇場に向かう。老いた経営者カルボーンは、バッカスに捧げる、親しく飲み慣れた《果物の汁》の熱愛者だったが、各地方のワインをそれも念入りに選りすぐって1000種以上集めた。

当時美しい絵画としてのHugo Prattの『砂漠の蠍』という水彩画があった。今やこの絵はもはや見当たらない、所有者と多分正に特別の酒瓶と共に本土へ行ってしまった。しかし残りは全てそんな風に残って、この飲み屋はワインを愛するヴェネツィア人の心の中にあり続けている。

あなた方も楽しんだだろう。一杯のワインとチーズの塊等々の後は、ヴォルト軒下通り(Sotoportego del Volto)を通り、左の奥、更に右へ、ロッスィーニ映画館前の運河通りへ進もう。[ロッスィーニ映画館については、2012.11.17日のブログターナーで色々触れています]
旧ロッスィーニ劇場[ロッスィーニ劇場は現在スーパーマーケットに]  サン・ルーカ教会の前を通る。この教会には人生を思い通りに楽しく過ごしたピエートロ・アレティーノが埋葬されている。橋を渡って映画館前に出る。フェニーチェ劇場が出来る前、この劇場は町で最も重要な劇場だった。そして直ぐの軒下通りを潜り、最初を右へ行くと、大理石の浮彫のあるサンタンドレーア小広場(Corte S. Anndrea)に出る。古いレンガを敷き詰めた空間に大きく夾竹桃が成長して、中央に井桁がある。

更にテアートロ大通り(Salizada del Teatro)へ進むと、右のサン・ベネデット広場(Campo S. Beneto)に至り、1400年代のペーザロ館(P. Pesaro)がある。ここは大運河に建つ壮麗なペーザロ館に越す前の館で、アポッリネーアと通称されたオルフェーイ学会の在所で、音楽研究を深める団体だった(その後、アポッリネーア研究室と通称されてフェニーチェ劇場の研究室に越した)。

この住まいは1800年代末、グラナダからヴェネツィアに母親や姉妹とやって来たマリアーノ・フォルトゥーニ・イ・マドラソ[本名Maria' Fortuny i de Madrazo(1871.5.11~1949.5.3)カタルーニャ生れ]という素晴らしい多才の芸術家が手に入れた。この館の中庭の美しい階段を下りて、この興味津々の館を後にしよう。
フォルトゥーニ美術館中庭[フォルトゥーニ美術館、かつてはこの美しい中庭側が美術館入口だった]  右へ曲がり、直ぐに左のマンドラ埋立通り(Rio Tera' de la Mandola)へ。交差点まで行き、右へ行くのだが、その前にアッサシーニ埋立通り(Rio Tera' dei assassini)の入口に安い古本の素晴らし店ベルトーニ(Bertoni)があって、Prattもよく通ったことを思い起こそう。[ここで本2冊買った時、1冊は是非読んでもらいたいから進呈すると、1冊の本代だけ請求されたことがありました。]

アッサシーニ通りという名前は、昔、夜の闇の中で刺殺された可哀想な人の遺体が、朝方発見されるとかいうことがよくあったという事に由来する。そしてこうした暴行を思い止まらせ、闇の路を少しでも明るくしようと、当時小さな明りの点いた誓願の小さな祭壇が設置された。

1128年の布告によれば、政庁は犯罪者が自分の変装のために付ける、いわゆる“付け髭”を禁じた。ドイツ占領時代、この通りにはSSの将校がそんな理由から存在したのだった。“Assassini(殺し屋)”について、今日この名前の居酒屋がこの通りの奥にあるが、若者達の典型的な待ち合わせポイントであり、美味なワインが味わえる場所である。

サンタンジェロ広場へ向かって我らが道を進もう。橋の手前、右に行くと奇想天外な名前で呼ばれる、広場を回る通りがある。いわば法則のようなもの、“Calle va in Campo(道は広場へ通じる)”という通り名。

前の橋の脇にサント・ステーファノ修道院の中庭の大門があり、その上に聖アウグスティヌスと付き従う修道士達を彫った、非常に美しいポリクロミーの大理石の浮彫がある。

フラーティ橋(ponte dei Frati)を越え、フラーティ通りを進み、右へ曲がって直ぐ左の数段の石段を上がると、ノーヴォ・オ・デイ・モルティ小広場(Campiello Novo o dei Morti)に入る。実はここは古くは墓地であった。ナポレオン到来前は、死者は教会やそこに隣接した、どこにでも埋葬された。

更に進み、ボッテーゲ通り(Cl. Boteghe)を右へ行くと、左にエレガントな靴の浮彫がある。それはここにドイツの靴職人の家があったことを示しており、有名なサン・サムエーレの“靴職人(calegheri)”のことである。その浮彫はPrattの友人、イギリスの画家ハンフリー・ジョフリー(Humphry Geoffrey)のアート・ギャラリーである建物の上にある。[かつて靴職人は“El calegher(靴直し)”と呼び売りする連雀だったとマルチェッロ伯爵はTVで語っておられました。]

左へ曲がり、サン・サムエーレ大通り(Salizada S. Samuele)を進み、モチェニーゴ通り(Cl. Mocenigo)まで来ると、バイロン卿が住んだモチェニーゴ館へ通じる。そしてヴェロネーゼと通称されたパーオロ・カリアーリが住んだ家がある。
[旧モチェニーゴ館のアパートを借りて語学校に通学した時、この辺りはよく歩いたので懐かしいです。ヴェロネーゼの家の碑には《Paolo Veronese/ pittore sovrano di Venezia/ trionfante maestro immortale/ per mutare di secoli dimoro'/ lungamente in questa casa e vi/ mori' il XIX APRILE MDLXXXVIII.(ヴェネツィアの最高の画家パーオロ・ヴェロネーゼは、その後の世紀を変えるほどの大成功を収めたマエーストロだった。この家に住み続け、1588年4月19日ここで死んだ)》とありました。]

この地域のムネーゲ通り(Cl. Muneghe)にはかつて淫売宿が多く、その一帯は娼婦が溢れていたという。右へ行き、カロッツェ通り(Cl. Carozze)へ入り、どん詰まりの大運河まで行くと、展覧会にとっても重要である、グラッスィ館が聳えている。しかしより魅了されるのは、未だに手垢に染まることなく、我々の前に姿を現す、12世紀のサン・サムエーレの小さな鐘楼である。
カザノーヴァの碑教会をぐるりと回り、マリピエーロ大通り(Salizada da Malipiero)を行き、直ぐ右のマリピエーロ通りへ入る。ここでジャーコモ・カザノーヴァ(1725~1798)は生まれた。このLigne(人の行くべき道?)の王は書いた。《あらゆる事物事柄を愛し、欲した。全てを手に入れた後は、何も無しで済ますことが出来ることを学んだ。》 ……」 (続く)
[カザノーヴァについては、2009.07.04日のカザノーヴァ(1)で触れました。]
  1. 2016/11/24(木) 00:45:53|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(10)

(続き)
「この美しい17世紀の小さなボンボン入れのような場所を後にし、サン・マルコの方向、バラッテーリ(Bareteri)橋へ戻ろう。このメルチェリーア(Marzaria)通り、フーゴ・プラット(Hugo Pratt)(ヴェネツィアの友人達の古いグループをそう呼ぶ習慣があったのだが、McPratt司令官のhalabardiersに属していた一人であった)の少年時代の旧友ジルベルト・ファビアーノの宝石店(そこには楽しかった思い出、当時の紙不足を記録する、両側にインド人の最も初期のデッサンを満載した頁が貴重に保管されている)の傍を通ろう。
アルメーニ軒下通りかつてそこでは何でも目にすることが出来、欲しい物が何でも見付かったメルチェリーア通りを行こう。直ぐに右へ曲がり、フェラーリ(Ferali)橋を渡る。その後数歩で再び右にアルメーニ軒下通り(Sotoportego dei Almeni)がある。そこに1600年代の小さな宝石が潜んでいる。二つの十字架とアルメニア語の文字のある大扉。サンタ・クローチェ・デッリ・アルメーニの美しい小さな教会がここに隠れている証しである。前室には小さな墓地があり、穹窿内部には魅惑的な満天の星がある。

この扉が開く時に出会うのは非常に難しい。確かなのは、日曜朝11.15分アルメニア式典礼のミサが執り行われる時間。間違えないように、町の隠された美しさを見るのはミサが終わるのを待つ事。軒下通りを出て、ファッブリ通り(Cl. dei Fabbri)との交差点まで左へコロンネ埋立て通り(Rio Tara' delle Colonne)を行こう。服飾店の所で曲がり、再び右へ。ここからアルメニア教会の鐘楼を望むことが出来る。

道どん詰まりまで行くと、正に井桁の中でも唯一風変わりな、15世紀の井桁にぶつかる。籐の大きな蔓で作られた籠のようである。その特異性、しかし非常に美しく、ヴェネツィア警察の在所は知っている、更にこのグレゴリアーナ小広場の名も知るヴェネツィア人の大半も気付かないものである。
井桁サイレンの浮彫[左、グレゴリアーナ小広場の井桁、右、魚を手にするサイレン像] 路を進もう。辻の角の後、右の壁面に13世紀の美しい酒盃が幾つか嵌め込まれている。中でも本当に不思議な物は、サイレン(sirena)が魚を手にし、鳥の脚で、鶴の頭をした尾っぽの像である。

ファッブリ通りへ戻り、右へ曲がって四辻を越え、次の最初の右のサン・ガッロ通り(Cl. S. Gallo)へ折れる。そのまま右の通りを進み、トローン橋(Ponte Tron)を渡るとゴンドラ用の小さなオルセーオロ・ゴンドラ溜まり(Orseolo bacino)がその向こうに見えるオルセーオロ運河を越える。この風景は『ヴェネツィアの童話』の中にも描かれている。

左手の碑がここにコーヒー店主フランチェスコーニ(フロリアーン)の家があったと語っている。彼はこの家で亡くなったカノーヴァを自家に招いたのだった。橋を降りてそのままフレッツェリーア通り(Cl. Frezzeria)と交差する所まで進む。フレッツェリーアの名前はこの通りで矢(freccia――vicus sagittarius)を見ることが出来ることに由来している。

イギリス式の薬局1676番地の上階に織物商の家があり、そこにある期間バイロン卿が住んだ。彼は名もなき店主の美しい妻と愛の三角関係に陥った。この道は戦後陽気な女達の隠れ家、正確に言えば、成熟した若き婦人達の隠れ里となったのだった。
ダ・イーヴォ[ダ・イーヴォは運河から入店可能] 右へ曲がり、更に左へ曲がってフゼーリ通り(Ramo dei Fuseri)を進むと橋の手前、右にレストラン、ダ・イーヴォがあり、その直前はゲーテが泊まった館である。
[2010.09.04日のブログゲーテ(2)》でゲーテが宿泊した宿等について触れました。]

橋の向こう、丁度正反対の位置にレストラン、ダ・ゾルズィがある。かつてヴェネツィア人にとってこれは泡立った生クリームとホット・チョコレートの同義語だったが、現在はその場所は経営が変わってしまい、ヴェネツィア料理を作っている。先へ進み、左のコルテ・コッポ通り(Ramo di Corte Coppo)へ入り、同名の軒下通りを抜け、直ぐ右へ曲がると、別の軒下通りがあり、潜って行くとラ・ヴィーダ通り(Calle de la Vida o de le Locande)となる。道なりに左へ進むと次の道がマルテーゼ小広場(Corte del Maltese、現在はCorte Contarini del Bovolo)に通じる。

1800年代初期コンタリーニ館はアルノルド・マルセイユによって貸し出されたが、彼は“イル・マルテーゼ”という宿屋を開き、この小広場の古い名前はそこから来ている。しかし我々をここに引き付けるこの愛称の楽しい親密な響きは別にしても、我々が訪れる主たる理由は、この小さな小広場に隠れた、貴重な素晴らしい螺旋階段のためである。
コンタリーニ・ボーヴォロボーヴォロ(Bovolo螺旋の意)階段には、1400年代終わりのルネサンスの面影がある。しかしビザンティンの魅力的な影響もある。基礎部には小さな庭があり、11世紀ビザンティン風の幾つかの井桁のような建築的要素を備えた石の片塊が置かれている。

左へ曲がって、マニーン広場まで行こう。ここにはこの町で、恐ろしく酷い近代建築である銀行が建っている。その銀行が建っている場所に、アルド・マヌーツィオのアルディーナ・アカデミーがあった。マニーンの銅像の傍近く、今では無くなったサン・パテルニアーン教会や建物があったことを示す碑が、地面に埋め込まれている。ここは町の激しい変化を真面に受けた広場であった。 ……」 (続く)

[2007.11.22日のブログマニーン広場と2007.12.13日のブログサン・パテルニアーン埋立て通りを参照して下さい。マニーンやマヌーツィオの碑(写真も)について触れています。現在はどうか分かりませんが、以前そこに居た人にお願いしたところ、この階段を登らせて頂きました。私は高所恐怖症で、同伴の家族が代わりに登りましたが。]
  1. 2016/11/17(木) 00:06:07|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(9)

(続き)
「こうしてサン・マルコ地区を後にして、時計塔の下を潜り、最初の道を右へサン・マルコ大通り(Calle Larga S. Marco)、更に左の2番目の道を曲がり、スペキエーリ通り(Cl. del Spechieri)へ。その通りに最近マエストロに愛されたレストランがある、ド・フォルニ(ai Do Forni)。

ピッシーナ・サン・ズリアーン通り(Piscina S. Zuriian)、ここに通じる次の角まで道を進むと、左に小さな軒下通り、ルカテッロ小広場(Ct. Lucatello)に通じるプリモ・ルカテッロ軒下通り(Stp. primo Lucatello)がある。その広場には中央に小さくて魅力的な井桁と外階段がある。軒下通り上の2階のリドット、即ちカジーノ・ヴェニエール直前のバレテーリ橋(P. del Bareteri)を越えよう。

背後には橋の前に魚の目治療師エウジェーニオ・ジェーネロの療所があった。彼は詩人で足の専門医であり、ヴェネツィアの戦闘ファッシの設立者であった。Hugo Prattの叔父もそうであった。

カジーノ・ヴェニエールは、賭博が主たる仕事であった楽しい寄合所に貴族達を歓待する、こうした私的場所が1700年代どのようなものであったかの貴重な証拠を代表している。

こうした風俗が最大に普及した時代、1797年それは136ヶ所にも及び、同じ一家で夫が一軒、妻が一軒持ち、と正に社会的に顕著な傾向となっていた。結局賭け事に対する情熱が全社会階層に広がり、その流行を抑えるどんな禁令も功を奏さなかった。

各人自分なりの賭け事や危険性に対する嗜好があった。賭博は油の染みのように広がった。ヴェネツィアのどんな街角、広場、橋、路、教会の隠れた場所では聖職者や僧侶と結託して、と、どこにもある、個人の家、カジーン(賭博場)、倉庫(magazeni)、居酒屋、商店、店(furatole)、床屋の倉庫室、娼婦の居間であらゆる種の賭博が歓迎された。

こうして10以上の賭博が蔓延していた: picchetto(トランプ32枚でするゲーム。ヴェ語picheto)、biribissi(数合わせのゲーム、ヴェ語biribis)、zecchinetta(トランプ賭博の一種)、cressiman(ヴェ語。二人で戦われるカードゲーム、カードは各二つに分けられる)、bazzica(タロットカード・ゲーム)、slipe slape(ヴェ語。同信会等、多数で遊ぶカードゲーム)、meneghella(同信会等、多数で遊ぶカードゲーム、メネゲーラの強い札は剣の2の札。ヴェ語meneghela)、camuffo(古いカードゲーム)、gile alla greca(ジュコーネ(giucone)と似たカードゲーム、ヴェ語giule/gile)、tresette(4人2組のカードゲーム。ヴェ語tressete)、ombre(西語。3人でするスペイン到来のゲーム、ヴェ語rocolo)、tric trac(伊国の双六のようなもの)、bassetta(ヴェネツィア式タロットカード・ゲーム、ヴェ語basseta)、faraone(カードの賭博、人数に制限はなく一人が銀行になる。ヴェ語faraon―zogar a faraonファラオンで勝負する)。この最後のものは賭博者の情熱に火を点けたし、ヨーロッパの最初の公的カジノであった、この輝かしき状況の時代のリドットは、最初の賭場だったのである。そこはサン・マルコ近くのヴァッラレッソ通り(Calle Vallaresso)にあった。
グアルディ『リドット』.『ヴェネツィアのリドット』賭場の胴元[『ヴェネツィアのリドット』(左、フランチェスコ・グァルディ、中・右、ピエートロ・ロンギ)] セレニッスィマ共和国は1522年にロッテリーア(福引所)を作り、1638年リドット(賭博場のある休憩場)を許可した後、数世紀後、国の凋落傾向を知って、賭博の広がりから収入を増やそうとした。館内部は規則通りであるとはいえ、カーニヴァル・シーズン(当時6ヶ月続いた)は賭博が行われた。

胴元を務める人物は、貴族で鬘を被り、黒いトーガを纏い、仮面は身に着けていないが、客は逆に、正装している。我々は直ぐに想像出来るが、テーブルの周りにはあらゆる招待客が座っている、貴族、女衒、娼婦、外交官、高利貸し、他に誰あろう。今やヴェネツィアとカーニヴァルはヨーロッパの賭博と歓楽、欺瞞のシノニムになった。それ故、貴族達、冒険家、ペテン師達の各種のツアーのお気に入りの目的地となったのだった。

毎晩のように、全き幸運が瞬く間に懐に飛び込んだ。アルブレヒト・デューラーはそこで出会うヴェネツィア人と客について語っている、“……この地上で本当に悪意のある、嘘吐きで、不誠実な輩達”と。倫理的な衝動の中で共和国は1774年、こうした施設を閉鎖し、仮面の商人や旅籠屋の主の主張する各種の禁止保護令を立ち上げたが、この蔓延した熱狂を全く排除することは出来なかった。しかし雨後の筍のように増殖する個人のカジーンの内部に閉じ込めた。

これはロレンツォ・ダ・ポンテ、特にカザノーヴァのような人物には好まれたものである、カザノーヴァは彼の回想録の中で区々の場所やファラオーネ(faraon)で、成功を収めた賭場について記述している。
[賭博熱については、2014.02.19日のブログバウアー・グリュンバルトでも触れました。]

こうした賭け事やバッセッタ(basseta)について、オルテス師や経済学者チェーザレ・ベッカリーアのような啓蒙学者が胴元と客の間の勝ち負けの確率を分析している。ある点こうした賭け事に対する情熱は魔力の一つとして、他の物に向かうこともり、“ファラオーネ”は合衆国に移動し、“fara”の名前で、金採掘者の間で有り触れたものになった。

我々が訪れた、かの素晴らしきヴェニエールのリドットは17世紀の手付かずの魅力が保存されており、また3部屋の一つの部屋では角に置かれた戸棚が隠している秘密の通路は今や閉鎖されてしまたということは別にしても(そこからは玄関を通らず、出入りが出来る)、全ては同じように保存されているのである。床のタイルの下に隠された覗き穴が今でも残されている。そこから入館する階下の人を見張る事が出来る。

3部屋以外に、小サロンと一角の戸棚に隠された給仕用のワゴン通路で繋がる台所があり、そんな風に主人と使用人は分けられていた。 ……」 (続く)
[初めてヴェネツィアに行き、ゴルドーニの館を訪れた時、運河側のメインルームの床に覗き穴風の物があり、見下ろすと階下の運河からの玄関口が見下ろせ、ゴンドラで誰が訪れたか明確に分かるシステムになっている事を知りました。]
  1. 2016/11/10(木) 14:06:57|
  2. ヴェネツィアの街
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イタリアン・フェア: 大阪

昨日の新聞La Nuova紙に次のような記事が掲載されています。
マウリーツィオ「 日本での主役、ヴェネツィアの職人、マウリーツィオ・ロッテル氏のお話
――在日30年。ムラーノ・ガラスで真珠を製作。姉妹のコンステーロ氏は仮面職人。アットンブリ氏の首飾りも評判が高い――

大阪。イタリア祭のヴェネツィアの主役は今や30年前からの活動である。今年も日本の最も著名な商業センターである、梅田の阪急に呼ばれた。イタリア工芸品の最上の物を集める、イタリア祭の長老は、ヴェネツィア人マウリーツィオ・ロッテル氏である。彼はムラーノ・ガラスで、真珠や首飾りといった物を創造するために、大阪に彼のアートを持ち込んだ。

マウリーツィオは在日30年となり、2人の子供も大学を卒業し、2ヶ月毎にヴェネツィアに戻り、製作に必要な材料の探求に余念がない。大阪では、ヴェネツィア・カーニヴァルの仮面のデザインを教える、妹のコンスエーロ氏もいる。「毎日、私の創作ワークショップに行列が出来るんですよ」と、コンスエーロ氏は満足気に笑う。「この技術を学びたい人は多いんですよ」

イタリア祭ではまた別のヴェネツィア人ステーファノ・アットンブリ氏を紹介。氏はリアルトのアトリエで独特の首飾りを発表している。

大阪のイタリア祭は毎年何万という人を引き付けている。東京のICE責任者のアリスティーデ・マルテッリーニ氏とイタリア大使館初期の参事官ピエルルイージ・トロンベッタ氏の元に始まったのだった。」

阪急うめだ店では、11.02~08日までイタリアフェアをやっているそうです。今年は30年目、それが凄いです。
  1. 2016/11/06(日) 18:15:41|
  2. 行事
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ヴェネツィア街案内(8)

(続き)
「この比類なき寺院のアートリオ(柱廊玄関)に暫し足を留めて、頭を上げると、モザイクで描かれた古い“漫画”を目にすることが出来る。旧約聖書の一連の物語である。発見者によれば、フィンランドの研究者ティッカネンは大英博物館の木綿聖書の中にあった5~6世紀の初期キリスト教のミニチュアを正確に模写した、即ち、それはコンスタンティノープルの占領があった12世紀にはヴェネツィアの芸術に流れ込んだ、キリスト教の初期ルネサンス思潮の中での作品であった。

これらのモザイクは、創世記からアダムとイヴの誕生、カインとアベルの物語、ノアと大洪水の話、バベルの塔の建造、ヘブライ民族の始祖アブラハムと、ヤコブとラケルの子ヨゼフの物語を語っている。こうした作品群の第一群は、バジリカ寺院の最初の装飾である。
モザイク画聖マルコ寺院の4頭のブロンズ馬[左、サン・マルコ寺院入口のフレスコ画、サイトから借用。聖マルコの遺体をアレクサンドリアから持ち出す時の模様] 狭い急な階段を上ると馬のロッジェッタに着く。内部には何年も前から、修復された素晴らしい動物が保管されている。外には魂の抜けたそのコピーだけが置かれている。この四頭立て二輪馬車用の馬は、元々金箔で覆われていた。総督エンリーコ・ダンドロが第4次十字軍(1204年)の時の戦利品として、コンスタンティノープルから、その他の物と一緒に手に入れた物だった。

事実ビザンツから到来した、この寺院の区々の物は多岐に渡るが、建物全体を通してオリエントの面影が、寺院に連続的に手が加えられたにも拘わらず、瑕疵を受けることもなく、イスタンブールのサンタ・ソフィア教会との親族的類似性を明白に示している。

既に示唆したように、コルトの愛した第2の扉口の列柱からは、1400年代の帆船の航跡が、残念ながら寺院の遥か彼方へ姿を消した。寺院内部の最近の柵組のため、中央身廊左の小祭壇の赤い大理石の筋模様に潜む小悪魔の姿を見ることも同じように不可能である。

正に時の旅といえるこのモニュメントを後にして、素晴らしい全体像を観覧するために、長蛇の列もなく、雲一片とてなく天晴朗なれば、第一になすべきは、鐘楼に昇り、その高みからヴェネツィアを賞賛することである(更に魅力的展望は、直前の島サン・ジョルジョ島の鐘楼からのそれである)。

プラット(Pratt)はこの鐘楼が好きではなかった。これは1902年7月14日朝10時崩れ落ちたものを再建した物で、以前のスリムな物に比べて、ひどくずんぐりした物と思われたからである。その上これは総督宮殿のサン・マルコ広場への出入口である布告門の景観を疵付けるものであると。

総大司教側にとっては、その考え方の方が良かったかも知れない。こうしてプラット(Platt)はこの場所に鐘楼のスケッチを描いている。

この広場はセレニッスィマ共和国の最高の素晴らしさの表現であり、その権力の中枢には、総督宮殿あり、時計塔あり、2本の石柱あり、サンソヴィーノ図書館あり、鐘楼のロッジェッタあり、新・旧 の行政館がある。現実の配置は、舗装や若干の手直しは別にしても、寺院正面にあったサン・ジェミニアーノ教会を、1807年ナポレオンがいわゆるナポレオン翼建築のため、解体したことがあった。
サン・ジェミニアーノ教会2本の柱のあるピアツェッタ[左、サン・ジェミニアーノ教会(カナレット画)、右、聖マルコと聖テオドールスの円柱(ターナー画)] モーロ岸壁に向いた2本の巨大な石柱の間で死刑が執行されたが、興味深いのは、この石柱は12世紀オリエントから運ばれた物で、元々3本だった。しかし陸揚げ作業中、1本がラグーナに沈み、引き上げる術がなかったため、2本は長い間陸地に放置されていた。その後木造の、最初のリアルト橋の建造者ニコロ・バラッティエーリとかいう人物が、問題を解決し、現に見るように、直立させることが出来た。バラッティエーリはその返礼に、この2本の柱の間で、街のその他の地域では禁じられていた賭博商売を営業する権利を得た。

ドージェ(総督)の館については、それについて一章を設ける価値があるが、内部の秘められた箇所の訪問を予約して赴くことがお勧めである。そうすれば、この輝かしい政庁の権力がいかに機能していたか少しは明らかになる: 拷問部屋、ボッシュの絵画、カザノーヴァが逃亡した鉛の牢獄。

長さ54mの大評議会会場の天井を支える梁の興味深い構造は、アルセナーレの工人達が実現したものである。この天井の全構造図は、日常の感覚が、マジックのように天地逆に引っ繰り返って見えることである。事実それは、地は無の空間であり、天は構造物に満ち満ちて。

最も興味深い収集品や豊富なコレクション(コッレール美術館、サンソヴィーノ図書館、考古学博物館等々)について唯一のお勧めは、各時代の物が収集され、保管されて、その時代に再度帰還することが出来ることであって、決して皮相的で無用な訪問にしないように、ということである。

結局コルト・マルテーゼも朝方にはここに舞い戻り、サン・マルコ図書館内部で提供される迷宮のような研究の中に迷い込むことであった。ここでは特筆すべき事の中に、ドメニコ会士フランチェスコ・コロンナの手になる『ヒュプネロトマキア・ポリフィーリ』やラテン語と伊語の混交体という貴重な言葉で書かれた『夢の中の愛の闘い』や1400年代末、アルド・マヌーツィオに印刷製本された物があるということである。
[アルド・マヌーツィオや『ヒュプネロトマキア・ポリフィーリ』について、2011.06.11日のヴェネツィアの印刷・出版等で触れました]
カッフェ「フロリアーン」このエリア、この寺院の中で我々は限りない表現の海原で迷い、自分を見失うかも知れない。しかしコルト・マルテーゼが選んだ少し特殊な、我らの基準を携えて進もう。他のガイドは我らには関係ない。既にして斯くなされたのだ。こうして我々はカッフェ・フロリアーンのオリエンタルな居心地のいい部屋で寛げる。美味のコーヒー一杯でリフレッシュの一時を楽しもう。

あまり公的とも言えず、少々軽薄でもある場所へ向けて、我らが道を辿ろう。ヴェニエール家の行政官夫人のリドット(集会場)である1700年代のあの素晴らしい溜まり場である。最近仏人に修復され、アリアンス・フランセーズ(Alliance Francaise)の本拠地となった。 ……」 (続く)
  1. 2016/11/03(木) 00:04:10|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(7)

ヴェネツィアの語学学校通学時、ヴェネツィアの街歩きに興味があるなら、お薦めの本があるよ、と言われ紹介された、先生ご推薦の本、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto―itinerari fantastici e nascosti di Corto Maltese a Venezia』(LIZARD edizioni、1997)を以前紹介しました。その第二弾を紹介してみます。
Corto Scontoサン・マルコ中心案内「 サン・ザッカリーア停留所で1番線から下船
古くから続くホテル・ダニエーリの前で下船する。ここに沢山の人物が宿泊したが、その中にはチャールズ・ディッケンズやジョルジュ・サンド、バルザック、マルセル・プルースト等がいる。壮麗なホールにはエレガントで魅力に溢れたバールがあって、Prattもここで寛ぐのを愛した。

ホテル脇の橋を渡り、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の銅像の前に立つと、天に向かって剣を振りかざしている: ヴェネツィアでは“impiracolombi(鳩も鼻に引っ掛けない)”と囁かれている。

左へ踵を返して、小さな軒下通り(ソトポルテゴsottoportico)を抜けると、15世紀のサン・ザッカリーア教会の美しいファサードの前に至る。最初の建物は9世紀に遡り、10~11世紀に手が加えられた。現実の建物は建築家ガンベッロの作品で、マーウロ・コドゥッチがゴシックとルネサンス様式の美しい混交で最終仕上げをした。

この教会には、他に聖ザカリーアスと聖アタナシウスの聖遺物が保管されており、正に興味深い、古いクリプタ(10~11世紀)はサン・タラーズィオ礼拝堂の下にある隣接の修道院と通じている。

教会内部の左側面には、ジョヴァンニ・ベッリーニの素晴らしい祭壇画がある。1506年かの有名なアルブレヒト・デューラーはこの絵を見て、ヴェネツィアから友人に手紙を書き、ヴェネツィアの画家誰一人として、当時75歳だった“ジャンベッリーニ”のように矍鑠とした老人であると誇れる者は皆無であると断言した。

ここを訪れた後は、教会を後にして我らが辿るべきルートに従おう。軒下通りを潜り、サン・プローヴォロ(S.Provolo)橋へ直行。それを渡橋すると直ぐ左に居酒屋“リヴェッタ”がある。Pratt に愛された所。サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ(S.S.Filippo e Giacomo)広場に入ると、右手にまた美味しい居酒屋“ラッチュゲータ”がある。

左手には2軒の店の間に、小さな通り(calle)が覗き、ロザーリオ小広場(Corte del Rosario)に通じる。ここには戸の上方に隠れたように、14世紀の悪巧みに長けたような小さなドラゴンの浮き彫りがある。更に我々の案内に従って先へ行き、サンタポッローニア通り(Rugheta S. Apollonia)から同名の運河通りへと左へ道を取り、直ぐ前の門の中へ入る。

ここは町で唯一のローマ様式の例であり、12世紀のベネディクト派の素晴らしい中庭がある。壁面に沿って建築で使われた大理石片の収集物が置かれている。ここでCorto は喧騒を離れて、遠くから聞こえる響きを耳にしながら、隠遁的な時間を楽しんだ。

井戸の周りの今や無用となった初期キリスト教時代の格子模様に囲われた、この調和的な高価な宝石のような一角を後にして、運河通りへ向かおう。カノーニカ(Canonica)橋を渡る時、左手向こうにソスピーリ(溜息)橋が望まれる。総督宮殿とセレニッスィマの牢獄間の中空を渡る有名な渡り廊下である。

橋を進行方向に渡るのではなく、左手の大きな門に入ってみよう。ここも、また別の、町の秘められたコーナーである。15世紀の聖テオドールスの小さな教会があった。かつてファサードは完全にフレスコ画で覆われ、教皇庁の検邪聖省(異端審問所)の在所だった。煉瓦造りのサン・マルコ寺院後陣、特に補強用の扶壁に打ち込まれた各片は素晴らしい。それは寺院修復中に発見された物で、色々のスタイルの物、時代も11~16世紀に渡り、建築的な大きなコラージュ風の装飾のように配置されていた。

カノーニカ運河通りを行くと、レオーニ(Leoni)小広場に通じる通りに出る。そこにはサン・マルコ寺院の前にビヤホール“アイ・レオンチーニ”があり、1920年代ファシスト達の溜まり場だった。 
サン・マルコ広場サン・マルコ寺院は、寺院全体に張り巡らされたモザイクの黄金の輝きに包まれ、三次元的なイコンがその広がりを与えている。床は素晴らしいものであり、またとない素晴らしいパーラ・ドーロ、夥しい聖遺物のコレクション、宝玉類があり、そしてクリプタでは、歴史を思い起こすため、暫し立ち止まろう。

このクリプタには1094年聖マルコの遺骸が置かれた。それは828年、ヴェネツィア商人ブオーノ・ディ・マラモッコとルースティコ・ディ・トルチェッロの二人がエジプトのアレクサンドリアから持ち帰った物である。ある僧院から掠め取り、豚肉の荷の下に隠し、イスラム教徒のチェックを逃れた。更に福音書記聖人の下に隠した物は、ソロモン王の鎖骨やソロモンとシバの女王の宝物を見付け出す秘密の扉を示す神秘の呪文が彫り込まれた魔法のエメラルド宝玉があった。

904年パレルモのサウド・ハルラは最高に高価なエメラルドを自分の物にすることが出来た。それをヴェネツィアのどこかに隠したが、マドンナ・デッロルトかサン・マウチリアーンかサン・マルツィアーレのどこからしい。 ……」 (続く)
[Saud Khalula di Palermoとは?: このアラブ風の名前はスィチーリアに長く君臨したアラブ人の子孫を意味し、漫画家ウーゴ・プラットのシリーズ漫画の中のヴェネツィア篇に登場するキャラクターということでしょうか]
  1. 2016/10/27(木) 00:02:29|
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ヴェネツィアの喫茶店: メネガッツォ(Menegazzo)

G. Nissati著『ヴェネツィア歴史奇聞』(Filippi Editore Venezia、1897)から以前にも火事や氷結、飢饉等の面白話を紹介しましたが、今回は喫茶店話です。以前2009.10.10日のゴルドーニ(3)でも紹介した、カッフェ・メネガッツォについてです。
『ヴェネツィア奇聞』「かなり太った男で、メーニコとかいう名の男に経営されていたので、こんな風に呼ばれていたカッフェ。そしてバレッテーリ橋に向かって右側、メルチェリーア・ディ・サン・ジュリアーノ(サン・ズリアーン教会の事)通りの始まる場所に開店しており、ピオヴァーン小広場、現在のサン・ジュリアーノ(サン・ズリアーン)小広場に向かって裏の出入り口があった。

そこには何人かの文学者達、元老院議員ダニエーレ・ファルセッティ、辛辣なバレッティ、ビアージョ・スキアーヴォ・ダ・エステ司祭、レオナルド・マルチェッロット司祭らには利用し甲斐のある場所だった。しかしここの大評判は、その喫茶店にグラネッレスキ・アカデミーが置かれたからであった。次に記すようなことがあった。

1747年サン・ドメーニコ・ディ・カステッロ修道院で、ダニエーレ・ファルセッティとその友人達は、かなり頭のおかしい司祭ジュゼッペ・サッケッラーリの語る聖ヴィンチェンツォ・フェッレーリについての馬鹿馬鹿しい説教を聞き、この人物の持つ“知識”と冗談半分に契約を結びたいと考え、《新しい文学アカデミーを設立したいと思っているのだが、もしご希望ならば、我々のいつもの溜まり場のカッフェ・メネガッツォまでご足労願えないか》と彼に伝えた。

司祭はそこに赴き、喜び勇んでもう一つの馬鹿な話を語った。そしてアカデミーが設立されると、それは片脚を上げると、2ヶの睾丸か小さな2個の玉の梟が看板に描かれているため、グラネッレスキ(granelleschi)と通称された。そこで早速サッケッラーリは“アルチグラネッローネ(Arcigranellone)”の肩書でそのアカデミーの会長に選出された。冗談半分で生まれたこのアカデミーは、ガースパレ・ゴッズィ等の作品を発表したり、強化発展活動に素早く動いた。そして特にイタリア語を破壊しようとするものに立ちはだかり、イタリア語を守り続けた。1761年にはアカデミーは終わった。

カッフェ・メネガッツォの他の評判には、バレッティと司祭ビアージョ・スキアーヴォ・ダ・エステ間の文学的口論等の話に満ち溢れている。数年前、バレッティはあるかなり平凡な修道女に一篇のソネットを書いた。その詩がスキアーヴォの手に落ち、彼はそれを下手な、それも少々無礼なソネット一篇を添付して、無署名の手紙で送付した。

バレッティには色々の状況証拠からその著者が誰か分かり、メネガッツォでスキアーヴォを見付けると、居合わせた人々の笑い者に貶めて、喫茶店から追い払った。

メネガッツォ喫茶店は、トロヴァトーレの看板でこの時代に再開したが、その寿命は短かった。1860年9月7日~8日の夜、火事が発生し、近くの商人は恐怖に駆られ、商品を近くのサン・ジュリアーノ教会(S. Zurianのこと)に避難させたが、教会は何日も聖務を行うことが出来なかった。」

喫茶店メネガッツォについては2009.10.10日のゴルドーニでも触れました。またイタリアのサイト“Altra Venezia”ではカッフェ・メネガッツォについて次のような事を書いています。
地図-1地図下部に④のSan Zurian教会と教会前広場。Merceria通りを通って、リアルト橋方面に。
地図-2「メルチェリーア通りの始まるサン・ズリアーン教会傍の角の建物には、かつてカッフェ・メネガッツォがあった。その建物は持ち主のメーニコがずんぐりと肥満した体躯でこう呼ばれたが、愛想が良く、客対応のいい人柄だった。

この人々の溜まり場はヴェネツィア在住の有名人: ダニエーレ・ファルセッティ、カルロ・ゴルドーニ、ジャーコモ・カザノーヴァ、キアーリ師等が通ったので、特に有名だった。この喫茶店の一室でグラネッレスキ・アカデミーが誕生した。アカデミーの起源である。

ダニエーレ・ファルセッティと友人達は、サン・ドメーニコ修道院で聖ヴィンチェンツォ・フェッレーリについて馬鹿げた説教を聞いた。それは彼らがあまり利口でも知的でもないと思っているジュゼッペ・サッケラーリ司祭が語ったものだった。友人達はふざけて、彼らが設立しようとしているアカデミーに司祭を参加してくれるよう招き、彼にArcigranellone(極大玉玉ちゃん)の肩書で、最高代表者に就任してくれるよう提案した。

可哀想な司祭について、ファルセッティと友人達は冗談で、問題のアカデミーを設立することを決めていた。それはサッケッラーリの偽りの肩書を記憶に留めるべく、グラネッレスキという言い方だったのだった。その結果、看板としても片脚を上げ、玉玉を持ち上げている梟が選ばれた。

アカデミーにはカルロとガースパロのゴッズィ兄弟も参加した。モルメンティは語っている、《アッカデーミアは冗談の下に芸術や思考を損なう美辞麗句の誇張を修正し、増大する言語の不純化に対抗する高貴な意向を持っていたが、古いトスカーナの作家の気障な真似事ではあるかも知れないが、それを達成するには余りにも経立ち過ぎているかも知れない》と。

メネガッツォの店は1800年代まで続いたが、文学的カッフェの役割は今や終わった。1861年7月21日のチコーニャの日記が我々に思い出させるように、結局名前も“トラヴァトーレ”と変わった。」

2012.05.26日のブログダンドロ・ファルセッティ館で、アカデミーについて触れています。
  1. 2016/10/20(木) 00:03:08|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: ペーザロ館(2)

一方、R.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)は、カ・ペーザロについて次のような事を記しています。
ヴェネツィアの館「ヴェネツィア・バロックの傑作であるこの館は、今日近代美術館と東洋美術館が入館しており、東洋館の最初の中核はブルボン家のバルディ公エンリーコがアジア旅行中収集したコレクションで成り立っていた。

建築物は1558~1628年にペーザロが獲得した、隣接した中世の三つの館を統合した物で、1628年建築が始まった。設計はジョヴァンニとフランチェスコ・ペーザロがバルダッサッレ・ロンゲーナに依頼したが、彼は自分の設計案の完成を見ることはなかった。建築は1710年まで掛かり、完成時、建築家も発注者も数年前に亡くなっていた。

ペーザロ家はマルケ州の姓名と同名の町から13世紀頃、ヴェネツィアにやって来た。その地ではパルミエーリの姓で有名だった。ヴェネツィアではペーザロ・デル・カッロとして知られた。カッロ(carro)はブレンタ川からフジーナ近くのラグーナ(潟)までの彼ら所有の水運用船の意である。

一家の最も著名な人物の一人はヤーコポ・ペーザロで、1519年フラーリ教会に一家の大祭壇画を描いてくれるようにティツィアーノに依頼したことである。ヤーコポはキプロス島のパフォス(Paffo/Pafo a Cipro)の司教だったが、次いで教皇代理使節と教皇庁軍の将軍、更には対トルコとの戦に関わるヴェネツィア軍の総大将に任命された。

ジョヴァンニ・ペーザロもまた大運河の館の注文主であり、1643年のヴェネツィア軍の将軍だった(しかしこの時は、教皇庁軍に対抗するもの)。その時、個人の家からの略奪、絵画や芸術品の盗みを奨励したと言われている。彼を裁判に掛けるのが相当だとする声が高かった。

1658年、総督に選出された。コンクラーヴェの時その選出が決まり、ヴェネツィアでは一つの戯れ唄が町中で歌われた。《Viva el Pesaro dal caro/ Che xe sta in preson per laro/ E per ultima pazzia/ G'ha sposa' dona Maria.(ペーザロ・ダル・カーロさんよ、万歳だ/ あんたは盗っ人で獄門入りだった/ 最後の気違い沙汰は/ マリーアという女を嫁っ子にしたことだ)》

事実人々は、陰口を叩いていた。ルチーア・バルバリーゴの鰥夫(やもお)となり、一家の家政婦マリーア・サンタソフィーアとかいう女とお休みになっていた、とか。

しかしながらジョヴァンニの人生の浮沈は、彼の兄弟の荒々しく、流血を好む乱暴者のレオナルドに比べれば、左程驚くほどの事ではない。1601年2月28日、ミノット館での結婚披露宴で高級娼婦のルクレーツィア・バッリョーニの知られた恋人だったポーロ・リオーン閣下を殺害した。事件一ヶ月後、十人委員会はレオナルドの貴族身分と財産を没収し、永久追放に処した。15年間流罪にあり、1616年、100人の兵士を6ヶ月間召集し、武装させ、その維持費用を出すことを条件に帰国が許された。

一家の子孫の一人、フランチェスコ・ペーザロは、ナポレオンが使嗾したフランスとの協定を拒絶した人物として、歴史に名が残った。フランス側からヴェネツィアとの戦争を宣言し、結果共和国の滅亡に繋がった。

サン・スタエの分家の最後の一員であったピエートロはロンドンに移住し(一家のコレクションであった200点以上の絵画を売り払った)、1830年の彼の死後、カ・ペーザロは最初グラデニーゴの手に渡り、次いでヴェローナのベヴィラックァ公に、最終的には将軍ラ・マーザ公へ渡った。彼の妻は、ヴェネツィアの若き芸術家の展覧会を企画するために、ヴェネツィア市に財産を譲った。」
  1. 2016/10/13(木) 00:04:14|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: ペーザロ館(1)

ドナ館を更に右へ進むと、レ・ド・トッレ運河を挟んでペーザロ館があります。バルダッサッレ・ロンゲーナの傑作建築物だそうです。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように紹介しています。
カ・ペーザロ「ヴェネツィア・バロック期の最も壮大な建築物の一つである。そこは以前、サン・マルコ財務官(procuratore)レオナルド・モチェニーゴが3軒の建物を建てていた場所であり、当時の大建築家バルダッサッレ・ロンゲーナの案に委ねられた。  

建築は1652年に始まったが、ロンゲーナが1682年に死去したため、3階の着工のところで中断され、1710年アントーニオ・ガースパリの手で完成した。彼は運河に面した大変質素なファサードの提案もしている。

館はライオンの頭部で細かく飾られた腰羽目装飾とダイヤモンド先端の模様で、高く持ち上がった基礎部で威風堂々としている。その中央部には、1階の天井は生地仕上げの柱で支えられ、華麗なアンドローネ(玄関と階段の間の大広間)に通じる大門が二つ開けている。建物ぐるりに連続して続くバルコニーで目を引く2、3階は、窓のアーチから大きな開口部を持つ双柱の列の中に、マルチャーナ図書館の案を取り込んでいると思われる。

深い開口部と夥しい彫刻群は、基礎部の装飾案と相俟って、バロックに典型的な際立った明暗効果を上げている。オリジナルな装飾としてニコロ・バンビーニの『ペーザロ家の栄光』(1682)のキャンバス画が2階に残されている。

ペーザロ家は富裕で勢力ある一家であり、最初の出身地と同名のパルミエーリと呼称されており、1297年の大評議会の《セッラータ》でヴェネツィア貴族とされた程古くからヴェネツィアに移り住んでいた。

“海の”総大将、外交官、文学者そして総督ジョヴァンニ(1658~59)を輩出した。芸術や稀覯本の収集に情熱を傾けた元老院議員フランチェスコ(1740~99)は、カ(館)・ペーザロで生涯を過ごした。彼は共和国滅亡前、ナポレオンに談判しようとしたが、多分柔軟性と能力の使い分けを間違えた。それが為、古きヴェネツィア人は名を成しているのである。

その後、館はグラデニーゴの手に渡り、暫時アルメニア神父達に貸与された。結局は、総督夫人フェリーチタ・ベヴィラックァ・マーザの所有となり、1889年芸術使用を条件にコムーネ(市)に贈られた。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)こうして彼女の若き芸術家を支援するという名目で、建物が立ち上がっている。館内は今や、近現代美術館であり、ナルディ公に由来する東洋美術の素晴らしい収集がある。」
  1. 2016/10/06(木) 00:03:42|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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