イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(36): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「ここを後にすると右手にサン・パンタローン教会がある。内部の天井に、目を見張る巨大な画布の絵(イタリア最大―総督宮殿のティントレットの最大の物は板絵です)がある。ヴェネツィア人ジャン・アントーニオ・フミアーニが25年間(1680~1704)掛かって描いたもの。彼はここに葬られた(1710―制作中に足場から転落死したそうです)。有名な遠近画法の効果に溢れた絵画は、人生の最重要な時と聖パンタレオヌスの重大な瞬間を描いている。
サン・パンタローン教会[サンタ・マルゲリータ橋からの写真はサイトから借用] この教会を後にしてサンタ・マルゲリータ橋を渡ると、サンタ・マルゲリータ広場である。ここには学生っぽさに溢れたお祭り騒ぎ的、屈託のない雰囲気が漂っている、という事は大学が程近くにあり、そうした場所が広場の周りには色々広がっている。謂わば我らがカルティエ・ラタンなのである。バール、カッフェ、ビヤホール、軽食堂、朝から夜遅くまで、一人ぼっちである事は出来ない。
サンタ・マルゲリータ広場の屋台広場に入ると、右手、現在は無くなってしまった教会、1600年代の大理石の欠片がふんだんに残る、その鐘楼の上半分を切り取って出来た建物の前に、石の美しいドラゴンのため、Ai Do Draghi と呼ばれる最初の小さなバール(Baretto―ここで元気回復の美味しい飲み物が飲める)がある。

左には小さな小広場に通じる軒下通りがある。そこには小麦粉を売る商館があり、その前に壁で塞がれた柱廊があって、かつて堂々として魅力的な井桁が目立っていた。

広場では魚と野菜の市場が開かれる。セレニッスィマが設置した、カステッロ区のターナ運河通りやリアルト魚市場の、販売の魚の最小の大きさを記した石版があるが、それとはまた別の物がここにあることに気付く。これは広場中央のヴァロテーリ(毛皮製造業者)同信会館の小さな建物壁面に嵌め込まれたもの。以前はジェズイーティ広場にあったもので、そこから持ち込まれた。ここでは信者会に崇められた聖母の大理石の浮彫りが置かれた。左手先方には“Antico Capon”のオステリーアがあり、右手には“il Caffèがある。

ここで一服しよう。戸外のテーブルに腰を下ろし、周りを取り巻く生活の匂いに魅了されながら、何か美味しい物でも飲もう。目を上げると、背後の右手の家は、ヴェネツィアではかなり珍しい事だが、トスカーナ風の突き出した屋根を持つ家である。この場所の前の角には、新しいビヤホールがあって、夜遅くまで店を開き、騒々しい若者達の溜まり場である。

更に進んで角の裏に、サルデーニャ料理の店、“L'Incontro”があって、そうした場所は無くなることはないのだが、この町はミゼリコルディア運河通りとそれに続くオルメズィーニ運河通りと共に益々活気をなくしているのか。この広場は夜にもまた訪れたい。

“Il Caffè”と右手の1300年代の瀟洒な家の間には、フォースコロ=コルネールの美しい小館があり、そこを後にしてこちら側を進んでいくと、カルミネ教会の1300年代の美しい大門に向かって漫画とファンタジー専門の書店“Solaris”がある。

右手にロンゲーナのファサードで覆われ、ティエーポロの9点の画布を収めるカルミネ同信会館がある。美術研究所の入っていた元修道院のある広場を通り抜けて、ソッコルソ運河通りを行こう。 ……」 (37に続く)

[私がこの広場を初めて見たのは1994年でした。2000年の大聖年にはこの広場にある語学学校に3ヶ月以上通い、以来2006年まで毎年数ヶ月ずつ、この広場まで通学しました。お店等随分変わりました。ここに書かれている事は私がここで呼吸する以前の事のようです。通学以後も、店等変化はあるようです。2012.01.21日にサンタ・マルゲリータ広場(1~3)を書いています。

例えば学校の真向かいにあった書店は美術本等割引で売っていましたが、店のドナートさんは現代のコンパニーア・デ・カルザ・イ・アンティーキのメンバーで、カーニヴァル時期、このグループの催しの事を教えて呉れました。語学校直ぐ左前の仮面師グェッリーノ・ロヴァートさんもそうで、ロヴァートさんはフェニーチェ劇場再建、最後の美術的仕上げを担当されましたが、お二人とも今ではこの広場でお目に書かれません。2011.02.12日のカーニヴァルでコンパニーア・デ・カルザ・イ・アンティーキについて触れています。

語学校下のバールは、偶々旧マダムに広場で出会った時、中国人にこの店を売ったと言って、懐かしがってくれました。学校の10.30の休憩時にはこの下のバールや向かいのカッフェ・ロッソがコーヒー・タイムでした。ある日喉が渇いて、スプリッツ・コン・ビッテルを注文すると『ダーメ。授業が終わってからよ』と叱られてしまいました。

現在はその店がなくなってしまいましたが、広場南のカルミネ大同信会館真向かいに骨董屋さんがありました。ここでカナレットの景観画をアントーニオ・ヴィゼンテーニがモノクロ版画にしたものを買いました。版画用紙にはヴェネツィア製であることを示す“V”の字が透かしで入っています。我が家の宝です。2012.10.13日にアントーニオ・ヴィゼンティーニについて触れました。] 
  1. 2018/04/19(木) 23:55:10|
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ヴェネツィアの現在: サン・マルコ大聖堂

去る木曜日の新聞La Nuova紙は、次のような事を伝えています。
行列の人々「 サン・マルコ大聖堂、寺院の回転ドアに行列。1月から入堂者に入場券
――テッセリーン曰く“ローマのコロセウムに次いで見学者の多い大聖堂は、毎年入堂者が550万人で、3人に2人の割で無料である――

2019年からサン・マルコ寺院は入場券が必須となる。自宅で予約し、行列を回避したい人は、2ユーロとなる模様だが、その他の人は無料。サン・マルコ大聖堂初代代表のカルロ・アルベルト・テッセリーンは“寺院内に何人の人が居るか正確に知る方法もある。コロセウムに次いで訪問者の多いこのモニュメントは3分の2の人が無料である”。
[先年、ヴァティカン美術館をまた見たいと思い、行くと大行列になっていました。入口を見ていると、何か紙を提示する人は即入場していました。PC等で予約した人だと思われました。]

イタリアでは幾つかの教会が以前から入場券販売に踏み切っている。その他、入場自由となっているのは、ミラーノの大聖堂からナーポリの新ジェズ教会まで。(アンドレーア・スクテッラ記)
[ピーザに行けば、斜塔だけを見る人が多いでしょう。傍の大聖堂は入口に係員がいて入場はフリーではありません。しかし広場の向こうの入場券売り場に行って《Per Duomo》と入場券を頼むと無料で渡してくれます。大聖堂は無料なのです。
先日、日本人男性(63歳)が斜塔上り階段途中で突如息を引き取られた記事を読みました。狭い階段で、遅い足を下から急かされ、迫るような混雑の中、判らない世界各地の言葉に悩まされての事だったのでしょうか、冥福を祈ります。この斜塔でピーザ生まれのガリレーオ・ガリレーイは物の落下実験をしたと言伝えがあるそうです。彼がパードヴァ大学教授時代、サン・マルコ鐘楼から彼の発明の望遠鏡で彼方の船等を総督に遠望させた記録はあるそうです。船乗り達には大変有効な物だったことでしょう。2008.10.05日の日本の旅で触れました。サン・マルコ鐘楼はエレヴェーターで登れます。]

サン・マルコ寺院は教会の内と外で、入場の回転ドアを採用した。人の流れを調整するためである――今日でも行列は不可避である――来年初めから入場券を売り出すための準備中である。(予約したくない、行列したくない人の無料入場券を含め)いずれにしても、入場する人全員、入場券は必須となる。 ……」

[パルマと同じように、サン・マルコ広場に近い場所に無料券の発券所が開設されるということでしょうか。全ては来年1月に大聖堂入口に掲示が出されるのでしょう。]
  1. 2018/04/14(土) 12:43:09|
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ヴェネツィアの街案内(35): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「この壮麗な教会を後にして、後陣に沿って右へ廻り、サン・ロッコ教会へ向かう。聖ロクスに捧げられた教会は別にしても、町のまた一つの宝石、サン・ロッコ大同信会館が聳えている。その遺体が教会に祀られているこの聖人は崇拝され、疫病やペスト等から守護されるよう祈願され、毎年8月16日大祭が行われていた。政庁の高位高官の来駕のために広場に大きな天蓋が設置され、古い作品や新しく描かれた絵画作品が館のファサードに掛けられたものである。
サン・ロッコ大同信会館[写真はサイトから借用] 同信会館はボンとスカルパニーノの手になる(2人の芸術家が相手のプロジェクトに介入して融合させることが出来たのだと気付いてみれば、それは素晴らしいことである。事実ファサードの下の部分は、中央の装飾的扉口は別にして、ボンの作品であり、上階と扉口はスカルパニーノの手になる)が、建築は1515年に始まった。そしてそれは正に会館のために一連の絵画を描いたヤーコポ・ティントレットの勝ち取った勝利だと思われる。ローマのサン・ピエートロ大聖堂のスィスティーナ礼拝堂を飾る壮麗な作品群とある人が比較していたほど、著名なのである。

しかし我々は、この傑作群について君達に説明する仕事は他の人に任せて、先を急ごう。そして同信会館の左の脇道カステルフォルテ通りから同名の広場へ行く。ここで左折し、同信会館下の軒下通りを抜け、我らが友、プラットに大変愛されたそこの小さな橋を渡る。広場に前の運河に面した2階の窓が風見や風車、複雑な装置であってほんのちょっとした風が通るとそれが動き始め、通行人にとっては楽しいお祭りなのだった。

残念ながら今では数年前から、こうした昔ながらの思い付きは取り払われてしまい見られないが、埃まみれの天井も姿を消した。自動装置の悲しい終焉である。

いずれにしても目線というものは非常に暗示的であり、ちょっとしたファンタジーの断片も失われていくことに対するノスタルジーがある。次なる出会いに赴こう。ビザンティン皇帝である。

渡橋し、デイ・プレーティ・オ・デル・ピストール(パン屋)通りとの交差点まで直進しよう。右手に学生達の溜まり場“Caffè Blue”があるが、左折し、更に右折し、サン・パンタローンと通りの終りまで行く。そこで左手のカ・アンガラーン小広場へ入ってみよう。町でも今まであちこち移動してきた彫刻の一つがここにある。ビザンティン皇帝像(12世紀のコンスタンティノープル作品)である。ワシントンのダンバートン・コレクションに類似の物がある。
アンガラーンの像[サイトから借用]  研究者によると、イサキオス2世(Isacco Ⅱ Angelo―1185~1195)か、あるいは彼の弟のアレクシオス3世(Alessio―1195~1203)ではないかという。他の研究者は10世紀の物で、賢帝と呼ばれた文人皇帝レオ6世(Leone VI detto il Saggio o il Filosofo―866~912)であると主張している。

壁面に掛かるこの素晴らしい円板がどこへ行ってしまうのか、あるいはソロモンの小さな鍵(Clavicola di Salomone―レメゲトン)という宝物を秘匿してしまう神秘の中で、何とかしてこの古い円板が立ち戻って来はしないかと、ミスティックな心持でこの小広場を後にしよう。 ……」 (36に続く)
  1. 2018/04/11(水) 19:16:02|
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ヴェネツィアの街案内(34): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「ピッツェリーア(ピッツァ屋)傍のサーヴィオ橋に向かってここを離れ、サーヴィオ通りを抜けるとレストラン“Antica Beseta”の前に出る。その傍のオルセッティ(小熊)通りへ至る狭い通り[Rm. de Zusto]を行く。先ず右折し、続いて左折し、ラルガ・デイ・バーリ[Da baro(賭け事用の意)、開かれていない場所、あるいは賭博師に出会う場所の意]通りへ抜けるガリオーン通りへ行く。この近くにジャマイカ音楽を流しているジェラート屋さんがあって、ジェラート以外にも、ジャマイカ音楽についての貴重な情報を提供してくれる。
[狭隘な通りRm. de Zusto(ズースト通り)について、2008.09.21日の狭い通りで触れました。]

クローチェ通りへ向かって右折し、マリーン運河に出た所で左折し、マリーン運河両側に並行して走る対岸の運河通りに架橋するカッペッロ橋を渡る。左手方向僅かの所に小さなオステリーア(居酒屋)“Ai Postali”がある。この魅惑的な運河通りを進み、橋の向こうにこの町で最初のインド料理の店“Shri Ganesh”がある。

マリーン運河通りを進み、右折してオージョ又はカフェティエール(オリーヴ油、又は喫茶店主)通りへ。左手の小さなCorte(庭程度の小広場)、カルデレール(鋳掛屋)小広場に気付いて覗いて見ると、そこの地面には煉瓦が敷き詰められ中央に井桁がある。

そのまま通りを右手の小広場の所まで進むとその入口の門構えが素晴らしい。ピエートゥロ・ロンバルドの作品であるサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ大同信会館小広場である。この建造物全体は1400年代の初期のもので、この世紀末に色々な手が加えられた。中でも1481年のロンバルドの物はその美しいアーチが、ゴシック最盛期の建築にルネサンス調に色を添えている。
サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ[写真はサイトから借用] この大同信会館の基礎は1261年に遡る。初めサンタポッリナーレ教会内に礎が出来、福音史家聖ヨハネの同信会館は隣接した救護所として現実の建物がここに建てられた。内部は、マーウロ・コドゥッチ(1498年)の2本の階段を備えた美しい大広間が目に着く。その階段は1727年ジョルジョ・マッサーリが改築した2階へ通じている。2階には町でも最古の同信会館の一つであるこの館を飾るヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネの色々の絵画が鑑賞出来、信者の中でも高貴なるスペイン王フェリペ(Filippo)2世の来駕を誇っている。

このエレガントな建物を後にして、この道を更に進み、共和国の古文書館前のサン・トマ埋立通りまで行く。この古文書館には9世紀からセレニッスィマ共和国が崩壊させられる1796年までの史料が蒐集されている。

左折し、右のサン・スティーン橋を渡り、フラーリ運河通りを行く。橋の向こうには威風堂々の教会が聳えている。橋の手前に“Caffè dei Frari”がある。内部は2階が張り出し回廊構造で、休息に絶好の空間である。
[このカッフェには1996年以来ヴェネツィアの右岸を歩く時は必ず寄りました。1階・2階があるカッフェで、2階は吹き抜け構造で上から1階が覗けます。そんなこんなで店主のジョルジョと知り合いました。近年彼は店を手放し、暫く会えないでいると、リアルトの“アンティーカ・ルーガ”でバイトで週一カウンターに立ち、結婚して子供が生まれたと写真を見せて呉れました。街歩きのおしっこタイムは右岸(De Ultra)ではここのCaffè、左岸(De Citra)ではフェニーチェ劇場隣のバール“アル・テアートロ”だったのですが、トイレが本当に綺麗で女性に推薦出来ました。]

Frari(伊語Frati)としてよく知られた聖フランチェスコ会派の重要なる教会は、その前に存在した教会の場所に1335年に始まり、より少し小さいものが完成し、1492年献堂された。ヴェネツィア・ゴシックの大いなるお堂として、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会とが代表しており、両者が総督や傭兵隊長、共和国の抜きん出た人物の墓所の役を共有している。
[この教会について、2017.10.25~11.09日のヴェネツィアのパトロネージ(1~3)で触れています。]

この壮麗な建造物の内部には、2点のティツィアーノ作品(『被昇天の聖母マリア』『カ・ペーザロの聖母』)、ジョヴァンニ・バッティスタ・デル・ドナテッロの多彩色の素晴らしい木彫、バルトロメーオ・ヴィヴァリーニの多翼祭壇画、聖具室の忘れられないヤーコポ・ パルマ・イル・ジョーヴァネ作品とジョヴァンニ・ベッリーニの三幅対祭壇画の大作がある。

葬儀のモニュメントの中では、アントーニオ・リッツォのルネサンスの大作である総督ニコロ・トゥローンのもの(1473年)、サン・マルコ寺院の著名な楽長であり、聖歌の重要な革新者であったクラウディオ・モンテヴェルディの墓、ティツィアーノの酷い墓、アントーニオ・カノーヴァのピラミッド形の墓、元々はヴェチェッリオ(ティツィアーノ)のために企画されたものであった。
[モンテヴェルディの墓は正面最左翼のカッペッラの鉄格子から内部床を覗くと真中に視認出来ます。]

その少しだけ開いて、落ち着かない風情のポルティコは我々を招き寄せるような、そしてポッサーニョ生れの大彫刻家の心臓を斑岩の壺の中に収めているのである。しかしかのコルト・マルテーゼを更に魅了したのは、スペインの血が流れているため、聖具室に教会の聖遺物を潤沢に収集して、バロックの展示場となった壮麗な大祭壇であった。その前には寓意的な絵が描かれた素晴らしい時計もある。

教会中央部には僧達の木製の聖歌隊席(124席)があり、マルコ・コッツィ作(1468年)の魅惑的な嵌め木細工で飾られた扉が付いている。 ……」 (35に続く)
  1. 2018/04/06(金) 22:39:14|
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ヴェネツィアの現在: パスクァ(復活祭)

今日の新聞La Nuova紙は昨日の復活祭の模様を伝えています。今年の移動祝祭日の復活祭(Pasqua―翌日の月曜日Pasquettaも休日で連休となります)は4月1日となりました。
大行列「 ヴェネツィアは満腹状態、駐車空間は日曜日11.30時から空きゼロ
――アックァ・アルタの土曜夜の後、ヴェネツィアのチェントロは大変な観光客。砂浜へ向かう道も大行列――

ピアッツァーレ・ローマもトゥロンケットも11.30時から駐車空間は空きゼロ。ヴェネツィアのチェントロにトゥーリストの大波が押し寄せて来た。沢山の人が美術館・博物館や道に溢れ返った。復活祭のために天気は予報通りで、この絶好の日和とも共謀してヴェネツィアの満腹状態に輪を掛けた。……」
  1. 2018/04/02(月) 12:27:40|
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ヴェネツィアの街案内(33): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「小広場を後にして、右のカ・ブレガディーン通りへ、更に右へデ・ラ・レジーナ通りへ行く。ちょっと離れた所に神話的な“fritolin”(例の黄土色のテーブル・クロスに用意されたポレンタと魚の唐揚げを食べさせてくれる)店があり、今や改装されて、品位あるエコノミックなレストランになった。右には軒下通り下に“Nono Risorto”のトラットリーアがある。
[Nono, Noni, Naniは古いヴェ語で漁師を意味するらしい事を入口に座っていた小父さんが教えてくれました。“復活した漁師”です。]
Nonoレストラン更に進み、直ぐ左へ曲がり、サンタ・マリーア・マーテル・ドーミニ広場に入る同名の橋を渡る。ここはプラットのお話、ヴェネツィア物語で、コルト・マルテーゼがマッソーニカ回廊の天井から飛び降りて、夜の銃撃戦を繰り広げるミステリー溢れる舞台となった所である。左側には、13世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の美しい四連窓のザーネ館があり、橋の右前には14~15世紀の美しいゴシック=ルネサンス様式のバルバロ館がある。
[このS.M.Mater Domini橋の直前左角には16世紀のゴッズィ館があり、この館に生まれたガースパロとカルロのゴッズィ兄弟については今まで何度も触れています。“ゴッズィ”でブログ内を検索してみて下さい。代表として2008.07.04日のストゥーア広場を掲載しておきます。またザーネ館1階に絵葉書屋さんが店開きしており、近くを通り掛かった時、寄ります。日本でハイデルと通称する印刷機は優秀で、ここの手書き絵葉書は非常に美麗で新シリーズがあった時は何度か購入しました。]

教会脇を右に回り直ぐ左に折れ、クリスト橋を越え、スペツィエール(薬草屋)小広場を過ぎ、サン・スターエ運河に面したグルーエ(鶴)運河通り方向へ左折する。通り半ば左に魅惑的なフィラトーイオ(製糸工場)軒下通りがある。ここにはかつてミステリアスな壁画が見られ、それは尾っぽを数字の8の字に巻いた形に寝そべった蛇だった。尾っぽの下に7つ突起の星形を置き、頭の上に三日月を掲げた永遠のシンボルであった。

運河通りをそのまま進み、左に曲がる前に直前の玄関の上を見上げると、13世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の化粧板がある。そこに描かれているのは、2匹の孔雀と走駆する獅子の頭を啄ばむ鷲であり、誰かが鶴と誤解した孔雀が運河通りの名前になったと言っている。
サン・ボルド広場[ポンテ・ストルトからサン・ボルド広場、サイトから借用]  モーデナ通り方向に前進する。橋を渡越し、キエーザ(教会)大通りへ進み、右折しサン・ボルド広場に出る。ヴェネツィアでも小さくて魅力的な一画の広場(Campo)である。古い鐘楼が上部を切断され、グリマーニ館脇のかつて存在した教会共に住居に転じた。運河の交差点であり、歪んだ橋(ponte storto)との景観は、この場所に摩訶不思議な雰囲気を与えている。

パルケータ(peruchetaとも。小さな鬘の意)運河通りへ向けて橋を渡越。ここに店を構えていた商人が被っていた奇妙な鬘から、近所の人々が悪ふざけで言い出したことからの通り名である。
タリアピエーラ[サイトから借用] テントール(染屋)通り方面へ右折すると、左手の有名なピッツァ屋さん“Ae Oche”の手前に、アーケードの背後にタジャピエーラ(石工)小広場(corte)に通じる道がある。この活気を取り戻した小広場は、下は煉瓦が敷き詰められ、庭全体に植木や花が満ち溢れ、女性の馥郁たる優雅さが辺り一面に発散し、ボッカ・ドラータがここにヴェネツィア滞在を決めたのは宜なる事であった。
[染屋はTentorだそうですが、ヴェネツィア語ではジョルジョーネをZorzonと言うように、天正使節・伊東マンショの肖像(先頃来日しました)を描いたドメーニコ・ティントレットはTentoreto Giovineとか言うのでしょうか。]

引き返し、運河に面した軒下通りを抜けた後、右手には町の漕ぎ船専用の貸し船屋さんがあった場所。元の道を進もう。こうして美しいサン・ジャーコモ・デッローリオ広場に至る。古い教会の後陣の前に、オリジンが10世紀に遡るものがあるのだが、当時13世紀前に再建され、続いて16世紀更なる改築が行われた。中でも内部にはヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネの忘れ難い絵画作品、ゴシックの竜骨構造の天井、ある異教の神殿から到来したイオニア式の柱頭を持つ緑の大柱がある。
[広場北のラルガ通りをサン・ボルド運河沿いに北上すると直ぐメージョ橋です。Rm.megioが右の通りで、左のCa. del Spezier(薬草屋)とFdm. del Megioが左にあり、その角にマリーン・サヌード(伊語Marino Sanuto)の生家があります。サヌードについては2017.08.24日のマリーン・サヌードで触れました。]
サン・ジャーコモ・デッローリオ[サイトから借用] 広場左手には、1671年の生理医学研究所の古い建物があった。直ぐ左の橋は、事実“dell'Anatomia(解剖学の)”と呼ばれた(この解剖教室は橋の向こうにあり、1800年代焼失した)。
[2008.08.31日にパードヴァ大学でこの広場の解剖教室について触れました。]

教会後陣に背を向けて左の館に目をやり、ファサードに近付いてみると、窓の抱き枠が奇妙なことに気付く。これは事実通常の四角形ではない。教会に向けてではなく、広場の広がった方向に向けて窓を作ったように見える。好かれてもいないユダヤ人も教会に目を向けて欲しいとこんな作りをしたと言われている。

広場内部に足を向け、12世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の鐘楼を見上げよう。聖ゲオルギウスを示す盃が興味深い。ピオヴァーン(教区司祭)小広場には教会の入口が口を開け、河岸通りに“Refolo(レーフォロ)”のピッツァ屋さんがある。 ……」 (34に続く)
  1. 2018/03/31(土) 23:27:19|
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ヴェネツィアの現在: Actvの運航時間の変更

昨日の新聞La Nuova紙はヴェネツィアの水上バス[ヴェネツィア語“Vaporeto(ヴァポレート)”のWikipediaの項目があります。興味のある方はどうぞ]の運航について述べています。
Vaporetti「 アチティヴ(Actv)の運航に革新的試み。しかし乗船桟橋には行列
――先ず第一のリアクションは、一番線が6分間隔に。復活祭のためのテストと旅行者集団の動きの緩和――

アチティヴの革新的運航の試み。市と交通関係の会社からは、大運河のヴァポレットの時間割は満腔の意で迎えられている。3月29日からヴァポレット1番船は新しい1番船の導入で、9.00時~17.00時は6分刻みの運航となる。

それ故1時間に更に5ルートが追加となり、必要とあれば、リアルト~ピアッツァーレ・ローマ間とジュデッカ運河経由でサン・ザッカリーア~ピアッツァーレ・ローマ間がアンコールされることもある。

最初の間は時間割の新しい繫がり具合を理解することが重要であり、ファルセッティ市庁舎と会社の技術者により何ヶ月も検討されたので、問題なく施行されるに違いない。大運河のある区間では既に運航にパンクが生じているのだが。それ故Actv番線ではなく、一般の通行と直接繋がらないところで、観光客の通行を制限することも必要になるのかも知れない。……」

ヴェネツィア観光の足であるヴァポレットの運航密度が増し、より便利になるようです。
  1. 2018/03/29(木) 12:32:21|
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ヴェネツィアの街案内(32): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
『Calli, Campielli e Canali』 の地図Rialto4Rialto3
大運河の 右岸区域Rialto5Rialto2Rialto1
Rialto9Rialto6サント・ステーファノ広場
Rialto8Rialto7「進行方向に戻って、大運河を背に左へ曲がり、ボテーリ通りの端まで行き、そこで右へ折れカランパーネ埋立通り(rio terà)を通過し、同名の通り(ramo)を進み、左タモッシ通りへ曲がり、[rioに突き当たるので]更に右フラートラ(惣菜屋の蔑称)と言う魅力的な軒下通りである運河通りを進もう。
[carampane/aは伊語の“身形のだらしない女”の元になった言葉で、2008.06.27日のカランパーネ埋立通り等で触れています。]

この道の半ばで右へ、この町で最も狭い通りの一つ、ストゥレッタ通りへ曲がると1600年代のアルブリッツィ館のある同名の広場に出る。次世紀になると非常に豊かになった建物である。内部は良く保存されていて、1700年代の最も豪華な建物の一つとしての例証がこれである。気付くのは、三層になった素晴らしい煙突で、色々な様式で我が町の屋根を飾った独特の建造物の事を思い出させてくれる。
[このストゥレッタ(狭い)通りを含めて、ヴェネツィアの狭い通りを調べに歩いたことがあります。2008.09.21日の狭い通りで書きました。ご参考になれば。]

左のアルブリッツィ館を後にして同名の通りを進み、左へ走るカランパーネ埋立通りを行く。この区域はセレニッスィマが1360年から遵守さるべき規範として全娼婦を集めようとした、所謂“Castelletto”(リアルトのサン・マッテーオ教区)の建物に、強制的に収容されることを毛嫌いした娼婦達が集められた地域である。事実、時代と共に町の至る所に散らばって行くことになる。

その上、オリエントからやって来たSodomia(男色)の流行に直面した。共和国は娼婦達の存在に勇気付けられることとなり、夜彼女達が明るいランタンで照らされた戸や窓に、身も露な姿を男達に見せるように命じたのだった、ヴェネツィア男子の下落した男らしい熱情を取り戻させようと。これ故埋立通りの角を曲がると、テッテ(ヴェ語Tete―乳房)という興味深い橋がある。自然の摂理に反する悪徳ということで、セレニッスィマはこのこうした罪を威嚇するためサン・マルコの2本の柱の間で同性愛者を絞首刑にし、それでも不十分とばかり、死体を灰塵に帰すまでに焼き尽くした。
[国民皆兵の共和国は男子の出生率の低下を殊の外恐れたようです。ガレー船の漕ぎ手に囚人を使ったりするようになるのは時代が下ってのことでした。乳房(ヴェ語“テーテ”)橋については、2017.08.10日の『書物の夢…』が参考になります。かつてのこの赤線遊郭の雰囲気を描いた映画がありました。『薔薇の貴婦人』というマーウロ・ボロニーニ監督作品で、2008.07.20日にヴェネツィア映画で触れています。]

この小さな橋の上で左を見ると、中空に金属の橋が見える。それはアルブリッツィ館とかつて運河の向こうにあった新カッシアーノ劇場を結ぶものである。
[新カッシアーノ劇場については、2008.06.20日の世界初、オペラ劇場をどうぞ。その跡地が現在アルブリッツィ館の庭園となっています。]

直ぐ右をストゥーア運河通りの方へ行く。更に左の軒下通りを潜るとストゥーア小広場へ入る。独語のstubeから来た stua(伊語stufa)は公衆浴場のことで、そこでは体を洗い、魚の目の治療をしたり、町での流行病(はやりやまい)のための軟膏を貼ってもらったりした。そして多くの場所が直ぐに淫売宿と評判になった(stuer(伊語stufaiolo―公衆浴場主)は学校では外科手術者と関連ありと見られている)。
[ストゥーア小広場は私が3ヶ月語学校に通うために借りたアパートがあったので非常に懐かしい地域です。2008.07.04日にストゥーア小広場を書きました。]

結局今見てきたように、これらの地域は正に最下層の赤線地帯だったのであり、現在でもヴェネツィア弁で“vecia carampana”は鬼婆、糞婆を意味する悪罵の言葉である。このよく知られた地域は、日本のgeishaとも考えられる、洗練された高級娼婦(cortigiana onesta)の世界と対比される。
[日本の芸者さんは花魁などが主役の宴席に侍り、芸事をするアーティストであって、決して娼婦的な存在ではありません。明治時代の文化のない下級武士が政治屋に成り上がり、《芸者遊び》とかを吹聴したことが外国に歪に伝わってしまったに違いないのです。語学学校の授業中、芸者の事が話題になり、単語の蓄積がなく芸者さんと花魁の区別を伊語でうまく言えませんでした。] (33に続く)
  1. 2018/03/26(月) 17:30:43|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(31): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「ゴッボを後にすると、1300年代から海上保険の本拠地があったセクルタの通りがある[セクルタ=ヴェ語Securtà/Segurtà=伊語Sicurtà、現在のAssicurazione(保険)].
サン・ポーロ区とドルソドゥーロ区この魅力的な広場の左にはリアルトのアーケード、オレージ通り(Oresi=伊語Orefici(金銀細工師))に沿ってアーチ下の、古い雰囲気を残すパラゴーン(伊語Paragone)通りが走っている。事実、工房の倉庫や市場の露台の収納倉庫になっている。その通りのある角に、小さなバーカロ“Sacro e Profano”があり、飲みたくて仕方のない連中が立ち飲みに足を止める。

アーケード終り近く目を上げると、フレスコ画(1500年代半ばの作品)の描かれた丸天井の、修復で輝きを取り戻した結果を目にするだろう。今やこの辺りは、市場と共に朝5時には人々の活動は始まり、それぞれがこの地域特有の顔を持った元気印で、最高の集中力を示している。

この地域のバーカロに行けば、君達にこの町の真実の局面を発見させられるだろうし、あらゆるものが芳香馥郁たる表情で、この祝祭エリアの虜にしてしまうだろうことは確かだが、糅(か)てて加えて、色々な濃度の美味しいアルコール飲料が世の中全てを薔薇色に見せ、この街歩きを続行する気を萎えさせてしまう。
Antico Doloヴェッキア・サン・ジョヴァンニ通りに出たら、幾つか思い出して頂きたい場所がある。一度は訪れたい“Antico Dolo(アンティーコ・ドーロ)”、更にメルカンティ(商人)同信会館のシンボルを描いた16~17世紀の盃が見付かれば、皆に愛されたバーカロ(Osteria)“Do Mori”[Do=伊語Due]は近い。
Do Moriの鍋[ド・モーリ(二人のムーア人)には、天井に胴製の鍋のコレクション。チケッティ(ヴェ語cicheti)にはmusetto caldo、coppa di toro、fagioli in umido piccanti con l'acciuga等。私はリアルト近辺に宿を取ることが多く、ヴェネツィア街歩きは先ずド・モーリでプロセッコを1杯引っ掛けてから始まりました。ここのプロセッコ、最高! カーニヴァルの時、朝簡単な仮装して行くと、小父さんがカウンターから出てきて「お前の髪は乱れている」と仮装に被っていた白色のナイロンの鬘の髪を鋏で整髪して呉れました。2011.12.31日のバーカリで、ド・モーリを紹介しました。]

ヴェッキア・サン・ジョヴァンニ通りを行き、大運河のヴィン(Vin)通り方向にヴェネツィア人に愛されたレストラン、“アッラ・マドンナ”がある。
[マドンナには何度も行きましたが、ヴェネツィア人が子供の誕生日を祝う風景を見たのはここが初めてでした。♪Tanti auguri a te…♪ 傍にいた日本人にもドルチェのお裾分けがありました。Grazie !]
野菜市場ペスカリーア野菜市場の屋台を経巡った後は、大運河脇のペスカリーア(魚市場)傍まで行くと、その日の旬の食材等の最新情報を顧客達に声高に呼び掛ける声を通して、ベカリーエ広場の色々の色や芳香に陶然としたかのように、ヴェネツィア人にとっては海の港であるかのようなオステリーア“Pinto”が我々の入港を待ち受ける。特に土曜日は、買い物袋をはち切れそうにしてプロセッコのグラスを傾けながらお喋りに余念がない人々が一杯である。
[知り合ったヴェネツィア生まれのファビアーナのお宅に何度か招かれました。友達の魚屋のジャンニの店で買い物をする彼女にばったり出会い、ジャンニと友達という事に驚いていましたが、魚の値段を知らず所持金が少なく、直ぐ近くに事務所を構える夫にお金を持ってきてくれと電話していました。彼女のお宅で魚料理は見掛けません。また語学校で知り合った日本人は、生食をするホンビノス貝の料理方法を家の女主人に尋ねると煮るように言われたと言っていました。何しろ生食用ですから高価な貝です。火を通したら本当の味が分かりません。魚の事をあまり知らないヴェネツィア人も結構いるようです。魚屋のジャンニについては、2010.04.17日のアッカデーミア橋で触れました。]
Posto Vecieと魚市場ペスカリーア脇の小さな木の橋の向こうに、セレニッスィマ時代の郵便事業の在所であったその場所にレストラン“A le Poste Vecie(古い郵便局)”がある。かつてフルヴィオの経営になり、フーゴ・プラットも記憶すべき宴を催した特筆すべき場所である。
[私も初めてヴェネツィアに来た時、ここで夕食を摂り、最近はここがホテルもやっていることを知り宿泊しています。写真はホテル窓からレストラン入口の飾られた木の橋を見下ろしたところ。向かいは魚市場の建物。]

もし本当にこうしたオステリーア(バーカロ)に興味が湧いてきて、君達に提案するこの迷路のような路地を辿る冒険心が素直に湧くかどうかは分からないのだが。ベカリーエ(肉屋)橋を渡りカペレール(帽子屋)通りを通り、ボテーリ(桶屋)通りへ行こう。                                                                                       
この道の裏、隠れたように、平行に走る通りと繋がって、(今はなき古劇場)テアートロ・ヴェッキオ小広場の鉄格子の上に、13~14世紀のギリシアの大理石で作られた非常に興味深い浮彫りがある。それは背中に犬を乗せたヒトコブラクダで、我々にも興味を抱かせるお話があるということである。……」 (32に続く)

サン・カッスィアーノ教会(ヴェ語San Cassan)裏のテアートロ・ヴェッキオ小広場のTeatro di San Cassiano Vecchioについて――1580年ミキエール家によって建てられた木造建築劇場。パルコ式の観客席で、劇場内部は卵型。スキャンダルに満ちた悪辣な行為が頻繁だったらしく、全てのパルコ席は後背部にドアはなく、オープンで誰でも中へ入れたし、内部を見ることが出来たということです。
1500年代末のカーニヴァルの時まで、喜劇の上演で劇場は続きました。
Teatro di San Cassiano Nuovoについては、2008.06.20日の世界初オペラ劇場で触れました。
  1. 2018/03/22(木) 16:50:08|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(30): リアルトからザッテレ海岸通りまで

以前、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto』(LIZARD edizioni、1997.11.)というヴェネツィア・ガイドからアルセナーレ近辺の街案内をしましたが、今度はリアルトからザッテレ海岸まで歩きます。出発は左岸(de citra)のカルボーン運河通りです[右岸はde ultra]。
Corto Sconto「ヴァポレット1番線または82番線[かつては国鉄サンタ・ルチーア駅前から82番線という急行便がありました。国鉄もトレニターリア鉄道となりました。]で、リアルト橋で下船――

このコースは魚市場休日の日、日曜日あるいは月曜日は計画から外すのが良い。
[以前は月曜日も休日だったのでしょうか。現在近くのバーカロ、ルーガ・リアルトに日曜日食事に行くと、大好きなネーロ(イカ墨パスタ)は市場休みで材料なしのため断られたりします。]

土産物等の店に囲まれたリアルト橋を上り、橋の高みから大運河を見物しよう。我々が出発したカルボーン大運河通りを左手に見れば右手はヴィーン河岸通りである。向こう岸から右岸に向かい、背後にドイツ人商館(Fontego dei Tedeschi)を目にしながら階段を下る。階段下で、リアルト橋を石で作るという可能性をかつて人々が疑っていたという古いお話についての興味深い各種柱頭が嵌め込まれたカメルレンギ館のファサード(ロンバルド作)を見よう。

1588~1591年と橋の建造に3年を要した事、土台作りに1万本の杭柱を埋め立てた事、工事に必要な資金(25万ドゥカーテイ)集めるのに、宝くじが始められた事を思い起こそう。

橋を後にすると、セレニッスィマ共和国の経済の心臓部、リーヴォ・アルト島に入る。ここにはかつて、両替屋やあらゆる国の商人がいて、信じがたい量の商品を相互に商っていた。フランドルの布地からショールや衣類、絹のカーテン、オリエントの香水・香油、麝香、サンダルやあらゆる香料まで、また高価な物には胡椒(中世には黒い金と考えられ、貨幣代わりに使われたこともある)からナツメグ、丁子、生姜、肉桂、樟脳、サフラン、カイロのアヘン、アヘンチンキ、赤い根のアカネ属の染料、またセラックと明礬は布類の染めを定着させるための物質。

アーケードの下の通りには、貴金属商や宝石屋があって、ペルシャのトルコ石、インドのエメラルド、アフガンの水晶や青金石、ルビー、サファイア、紅玉髄、黄玉、ダイヤモンド、そして人は所持すればするほど、出来るだけ身に付けたがるものであり、石に魔術的、治療的効力がある事を忘れはしないのだ。

こうした利点に加えて、野菜や果物、魚、鳥籠に入れた鳥を付け加えよう。即ちこの今、歩き回るのはどんな意味があるのか? 色んな意味でパーティーやお祭りがある。かつて知られていなかった色や芳香があっちこっちから到来するのである。

現在でもここは、ヴェネツィア人の最愛の市場として活気に包まれ、屋台の全域に渡って住民達が押し合いへし合いしている。観光客も興味津々で溢れ返っている。自分の行く手をこれぞという方角には決めにくいもので、先ほどの館の右へ行くと、ヴェネツィアで最古と思われる聖ヤコブス(Giacomo)に捧げた教会、サン・ジャーコモ教会の前に出る。最初に人々が居を定めた5世紀頃(リーヴォ・アルトに)、その時代、初の建設になるという。
アル・メルカ[野菜市場のバール――何年か前、ここアル・メルカの前に位置していた野菜市場の前にあった裁判所がテロで爆破され、以来野菜市場は更に奥のペスケリーアの脇に移りました。写真で見るように店内にはお客は3人はぎりぎり立てます。しかし夕方暗くなると立ち飲み客が何十人とこの店前の広場で飲むことになります(夕食前なのでアペリティーヴォ時間とかスプリッツ・タイムなんて言ってました)。知り合ったバーテンのフランチェスコはてんてこ舞いで、グラスを割っていました。勘定をどう処理するのか凄く興味がありました。ローマ等と異なり、勘定は後でというヴェネツィア流作法が今でも生きているのだとか。]

現在の建物は11~12世紀に遡り、続く年に何度か修復の手が入ったが、初めの建物の姿の変更はなかった。ファサードには大きな時計(1410年作)が、あの時代古い教会ではよくそうであったようにゴシックのポルティコの上を飾っている。教会前には布告用の柱があって、リアルトのゴッボ(佝僂(せむし)―Gobbo di Rialto)と呼ばれる階段を支える彫刻がある。……」 (31に続く)
gobo de Rialto[写真、サイトから借用] 『  リアルトのゴッボとは?
1291年コゼンツァ(Acri)からヴェネツィアに持ち帰られた低い斑岩の“柱”である。頂上の低い小さな階段であり、罪の宣告文や追放刑に処された市民の一覧表を告知したりする報道伝達官の役を持つ、弓なりになった彫像の階段で、普段見掛けない姿のため、ヴェネツィア人は Gobbo(ヴェネツィア語でゴーボ、el gobo de Rialto)と呼んだ。

中世には、盗人は罰せられて、鞭打つ人々の間を素裸でサン・マルコ広場からここリアルトまで歩かされた。ゴッボの柱は最終目的地で、柱に到着すると犯罪者達はお互いに抱き合い、彫像に接吻するという苦しみの最後を締め括る場所だった。 

1500年代半ば、柱に聖職者や国の品行の堕落等を批判する辛辣な詩や中傷文書がぶら下げられた。マドンナ・デッロルト教会傍のモーリ広場の“Sior Rioba”と共に、ゴッボはヴェネツィア人の“Pasquino(パスクイーノ)”となった。』 
[“Pasquino”はローマの、現在パスクイーノと呼ばれる広場に立つ古代ローマ時代の1501年に発掘された彫像で、この像に落首の形で批判文書がよく貼られたそうです。]                                                                                                                            
  1. 2018/03/18(日) 23:50:10|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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