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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内: サンタ・クローチェ区

前回、サンタ・ルチーア駅のあるカンナレージョ区を歩きました。今回は大運河対岸のサンタ・クローチェ区を歩きます。

「サンタ・クローチェ区の魅力は、小さいけれど大きいと言える。ピアッツァーレ・ローマを出発して、我らが“宝探し”の旅の第1目的地は、サン・スィメオーン・ピッコロ教会である(教会が開くのは午前中、あるいは宗教行事が行われている間)。1728~38年の間に建造されたが、その構造で人目を引いた。特にローマ大広場(Piazzale Roma)に到着すると、最初に目立つ建物である。
サン・シメオーン・ピッコロ教会[鉄道駅側からの教会。サイトから借用]  大運河に面し、サンタ・ルチーア鉄道駅のほぼ真正面にある。鐘楼は倹しい規模でヴェネツィア最低の高さ(ほんの3mの高さ)、内部には最後の審判からキリストの受難までの死のテーマを描くフレスコ画がある。興味深いクリプタがある(聖具室係の案内で参観可能)。

この教会を後にして、サンタ・クローチェ区内部に入り、600mほど離れた次なる目的地、サン・ジャーコモ・ダッローリオ広場へ向かう。ペンマ館の外にはみ出した露台を見たかったのだが、改築のために工事用の保安ネットに包まれてしまった。独特で魅力に富んだ広場や小広場の市の建物に信を置いて又のチャンスを期待しよう。
サンタ・クローチェ区近くの何軒かの家のグループにアクセスすることが出来るが、これはかつて周りを運河で取り巻かれていた、独立した区域で並行した小さな通りから辿り着くことが出来る。Rio Terà de l'Isola(島の埋め立て通り)で囲われた区域である。

次の目標は、サンタ・マリーア・マーテル・ドーミニ教会である(午前中のみ開場)。暗くて狭い通りに隠れたように位置し、同名の広場にある。内部にはティントレットの傑作がある[ティントレットとして知られるヤーコポ・ロブスティ(1519.04.29ヴェネツィア~1594.05.31ヴェネツィア)はヴェネツィア共和国市民で、イタリア人画家であり、ヴェネツィア派を代表する大画家の一人で、イタリア・ルネサンスの最後の大画家と呼べるだろう。綽名のティントレットは布の染色師であった父の職業に由来する]。
右、ゴッズィ館[サンタ・マリーア・マーテル・ドーミニ教会側から見た同広場。奥右の館は、劇作家カルロ・ゴッズィの生家。カルロ・ゴッズィについては、2019.02.10日~ カルロ・ゴッズィ(1~4)で触れています。
その絵は左の内陣の奥に掲げられた傑作『聖十字架の発見』である。」
  1. 2021/02/28(日) 23:25:17|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内: カンナレージョ区(2)

(カンナレージョ区街案内の続き)
「次の目的地はディエード通り2386/A番地で、そこに同名の館があり、裁判所である。大門の脇には蝙蝠のように翼を広げたメフィストフェレス的獅子が置かれている。サンタ・フォスカ運河に架かる橋は独特で、あまり見かけないものである。橋の上を注意深く見ると、四つの足跡があり、“サンタ・フォスカ橋の足”と呼ばれている。その足型は、かつて戦争橋として知られた、その印としてのもので、対立する2ティーム間の古い闘いの跡を思い出させる。橋が激しい戦いの戦場で、不運な戦闘員は殴られ蹴られて運河に転落した。
ガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』[ガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』]  ここから約300mの所に有名な“ヴェネツィアのカズィノ”(賭博場)があるので、もし門が開いていれば一目見て、ファサードの魅惑的な姿に魅了されてみよう。そしてマッダレーナ教会に向かおう。同名の広場にあって、セレニッスィマ時代最後に建てられた宗教施設である。ひとつ独立した建物。手元の地図が教えてくれる、玄関門の上に三角形の興味津々の眼の、フリーメーソンのシンボルが嵌め込まれているのに気付く、と。

教会にはトンマーゾ・テマンツァ(Tommaso Temanza、1705.03.09ヴェネツィア~1789.06.14ヴェネツィア。建築家、作家、技師「)の遺体が埋葬されており、彼はヴェネツィアの最初のフリーメーソンの一人であったアンドレーア・メンモの影響を受けた。他にもフリーメーソンの印がこの教会にはあり、保管されているが、展示されていないため、残念ながら見ることは出来ない。

ストラーダ・ヌオーヴァは言わばヴェネツィアの主要な幹線道路の一つであり、そこでは高級品の店が軒を連ねる。その一つに我らが“宝探し”の目的地、“黄金のヘラークレースの香辛料”店がある。ヴェネツィアの香水技術にインスピレーションを得た香水の高級品を提供する“ヴェニスの商人”(ストラーダ・ヌオーヴァ、2233番地)店の親切な女店員に、オリジナルの店の造作を愛でるため、入店の許可を貰おう。そしてこの素晴らしい場所に残る古い壺やその他を見せて貰おう。

ここは3世紀前の重要な香辛料の店であった。高価な材料で作られたバロック様式の家具や彫刻が沢山あり、単に薬剤師向けのものだけでなく、インテリ貴族、聖職者、文化人が文化交流のサロンとして集まれる貴重な場所として造られた。ここではガレノス派医学の治療薬や世に評判の高い薬が用意されており、“サンタ・フォスカの奇跡の丸薬”として能く知られた店であった。

芳香馥郁たる香料によって、更に魅了されてしまう独特の雰囲気は、ヴェネツィア、香辛料商人、ヴェネツィアの薬の歴史に繋がっていく過去を夢見させる……しかし現実に戻ろう。もう一つのヴェネツィアを発見しなければならない。店の大変親切だった店員さんに礼を言い、次なる目的地に向かう。

あまり詩的ではないが、ヴェネツィアの現実の中では正に真実なのだ。オーロ通りを行くと、同名の歴史的な館がある。道の中ほどに美しい芸術的な樋が見える。そして優雅で洗練された柱頭とその飾り。トラゲット運河通りの、大運河に面したカ・ドーロのファサードは美しくエレガントである。

興味深い掻き絵が保存されている。円柱の上部に鼠(pantegana)の絵が引っ掻いた線画で描かれ、ヴェネツィアでは一人当たり5匹の鼠がいることを思い出させる。残念ながらヴェネツィアが能く考えねばならないという現実は、ヴェネツィアの地形と猫族が姿を消したことに原因がある。

ここから少し行き、サン・カンチャーノ教会の傍のトラゲット軒下通りに、1864年の“大氷結”を思い出させる引っ掻き文字が柱に刻まれている。この刻み文字はヴェネツィア人が氷の上を歩きながら、厄除け(お守り)を手に入れることが出来たことを証明しており、迷信或いは伝説で《錨に触った人は墓の島に通じる、運河の向こう岸にトラゲット(渡船)で渡る必要がなくなると考えられ、言わばまだ死なないの意である。この通りに触れることは、死から遠ざかる一種のお守りということになる。》

テースタ通り方向へ行くため、東にちょっと逸れると、6216番地で我らが“宝探し”の旅の次なる目的地に至る。“死刑執行人の家の頭”である。伝説によればこの頭は、15世紀に実際の死刑執行人が住んでいた住居を示していた。開けた口の中に死刑に関するものが投げ込まれた。

サン・カンチャーノ教会近くの薬屋の直前に、注意深い人なら舗装された道に穴があることに気付くだろう。これはヴェネツィアで作られた有名な薬、毒消し(Theriaca Fina)を作るための材料を砕くための乳鉢を設置する場所だった。

次の目的地、サンタ・マリーア・ノーヴァ小広場5999番地に、洗練された、美しい館がある。カ・ベンボ=ボルドゥで、そこにはHomo Selvaticusの彫刻がある。それは古代ローマの森の神を思い出させる。"el vecio pien de peo"(毛むくじゃらの古代人)と呼ばれ、貴族のジャンマッテーオ・ベンボが欲しがった彫刻である。この彫刻には色々な説があり、ある人は謎かけのように錬金術を想定した。」 (カンナレージョ区、終わり)
 
文中の説明の図版については次のサイト、カンナレージョ区をご参照下さい。
  1. 2021/02/22(月) 23:20:59|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内: カンナレージョ区(1)

PCを見ているとヴェネツィアの6つあるセスティエーレ(区)の街ガイドがありましたので、紹介してみます。先ずは電車で到着する人が最初に足を踏み込む、サンタ・ルチーア駅のあるカンナレージョ区から始まります。

「カンナレージョ(ヴェ語canaregio)区の名前は、葦が繁茂していた場所だったということに起因しているとか、区を横切るレージョ(Regio)運河に由来するとか言われるが、いずれにしても、6セスティエーリの中では最も多様な側面を持っている。観光的な区域を紹介したいが、それは屋台の店、店屋、レストランで特徴付けられる場所であり、ヘブライのゲットのような独特な場所とは異なり、それは人が群がり、賑やかな、あるいは静かで、魅惑的なコーナーでもある。

ピアッツァーレ・ローマから出発しよう。サンタ・ルチーア鉄道駅を過ぎると、大運河から少し逸れていき、カンナレージョ運河に向かう。グーリェ橋を渡り左へ、ゲットへ向かう。この区で最も特徴ある地域である。
Campo%20del%20Ghetto%20Nuovo,%20Venezia[ゲット広場]  素晴らしい料理"kosher"を提供するレストラン"Gam Gam"傍の軒下通り(ソットポルティコ=ヴェ語sotoportego)を抜けていく。昔の雰囲気、独特な感じで“古”と“新”のゲットを特徴付けており、ヴェネツィアに居るのだとは迚も思えない。文字や店、独特の産物は流離の民のものであり、自分達の伝統と異種の文化を持つ共同体のものであることを物語っている。

我々の興味をそそるものは、ユダヤの菓子、それにはゲットのお菓子屋のショーウインドーに美味しそうに飾られている"impade"や無酵母のパンケーキ、その他特別のスペチャリタである。古い本やヘブライ語の新しい文書、シナゴーグとユダヤ人及び体験したホロコーストの犠牲者に纏わる過去の記念すべき碑は、ゲット内部で直ぐ視認出来る。
ホロコースト[サイトから借用。ホロコーストの記念物]  新ゲット広場の巨大燭台はユダヤの祭り"Chanukah"("Hanukkah")のシンボルであり、光明祭あるいは8日間の燈明祭であり、この年は12月24日に始まった。この広場の向かい側に1980年日付のホロコーストの記念物がある。

ゲットを後にして、カンナレージョ区の興味深い一角へ、我らが宝探しに邁進しよう! 次なる目的地はモーリ運河通り(フォンダメンタ)の、ゲット出口から約500mの、地番3399番地の“棍棒を持つヘーラクレース”の彫像である。この高肉彫りの像はティントレットが晩年住んだ家(1594年)のファサードにある。
ティントレットの家ヘーラクレース[左、三連窓の館がティントレットの家。右、サイトから借用、そのファサードのヘーラクレース像―近年痛まないように屋根が付けられたのでしょうか?]  棍棒を持つヘーラクレースはティントレットに纏わる伝説について語っているが、それはティントレットの長女マリエッタを騙して連れ出そうとした魔女の話で、ティントレットがこの妖術使いを棒の一撃で撃退したという興味深いお話である。壁面に残る穴は、唯一の逃げ道だった場所で、魔女は猫に化けてその穴に逃げ込んだ。ティントレットは棍棒を持つヘーラクレースを彫って、その穴を埋めたという。

カンナレージョ区の静かで、閑静な、観光的ではない区域に向かおう。次なる目的地はミゼリコルディア教会である。同名の運河通りにあり、橋から能く見える。単純な河岸ではない、一つのファサードの額縁である。多分別の建物用に設計されたものだろう。この少し先の3598番地に1600年代初めの、建築家バルダッサッレ・ロンゲーナ(ドルソドゥーロ区のサンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会の建築家)に帰属するLezze館がある。
レッゼ館錬金術の浮彫[サイトから借用。左、レッゼ館、右、錬金術の浮彫]  この建物はヴェネツィアの“哲学者の居宅”と考えられており、錬金術のシンボルを持つ浅浮彫が壁面にあり、立ち止まって能くご覧になって頂きたい。稀に見る興味津々の物である。必ずや、"Voarchadumia"と呼ばれた錬金術師の秘密の団体がヴェネツィアに存在したことを認めるに違いない。1450~1490年に活動し、続く世紀も活動したのだった。

Lezze館の浮彫は、“ヴェネツィアの錬金術”の秘密に繋がる、過去の沢山あるシンボルの一つである。……」(2に続く)
  1. 2021/02/14(日) 00:10:59|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの書店

私が嘗て学んだヴェネツィアの語学学校の、マッシモ先生からのEメールが、この1月に届いていました。ON-LINEで各国の語学生と繋がって、オンライン授業をやっているのだそうです。学校閉鎖になってはいなかった! マッシモ先生は私が初めて語学校通学時に、先生の部屋を借りたこともあり、心配していました。ワクチン接種も順調らしいし、モーゼが機能してサン・マルコ広場が水浸しになることも減ったようです(高潮の設定が高めだったらしく、完璧に水が出ないという訳にはいかないらしい)。

自宅に籠るには読書が最適と、ジョヴァンニ・モンタナ―ロ著『ヴェネツィアの本屋さん』という本からの引用だそうです。2月に入り、ヴェーネト地方はコロナ禍はイエローゾーンに緩和されたらしいです。
「……ヴェネツィアのサン・ジャーコモ・デッローリオ広場とテントール通りの角に小さな本屋さんがあり、そこは何が起ころうとも未だに存在しているということで人を驚嘆させる書肆の一つである。しかしながら、ゲリラを戦う兵士のように根強く、王女のように優雅な、そうした店というのはどんな町にも存在するものである。そんな書店は皆同様に見えるかも知れないが、ここは入店してしてみると判るが、他店とは同じではないのである。
サンタ・クローチェ区このサン・ジャーコモ・デッローリオの書店は部屋が二つで、ミーノース王がミーノータウロスを幽閉した迷宮(ラビュリントス)内でのように迷ってしまう可能性がある。木製のくすんで頑丈な書架では、何万という言葉の群れが大洋の魚類のように、壁面との間で互いを追い掛け回している。

店主はヴィットーリオと言う。40代を越したとは誰にも気付かれず、ずっと若そうに見える。山の中、今や過疎地となったカドーレの山村に生を享けた。ドロミーティの町には、嵐のような力強さと陽も暮れなんとする時の気後れした優しさがある。ヘーラクレースのように強靭に、隅々にまで書籍の詰まった書架の間を事も無げに移動する。しかし一旦書を手にするや、子をあやすが如き手付きである。

今や時代遅れの、市松模様のフランネルのシャツ(私は笑ってしまった)で、彼はそれしか着ないのである。ボロボロのジーンズのズボンを穿き、頑丈なドタ靴を履いている。腕捲りすると、前腕に刺青、斜視の獅子の皺だらけの脚が覗く。ヴィットーリオは美男子である。が、ある種の男達のように、その事に気付いておらず、その事を知るにはその事を言ってくれる女性を必要とする。

毎日髭剃りした顎、ボクシング選手のような胸、読書の習慣を実行に導く無頓着、食後何かが気掛かりのように毎日着火する煙草の火の煙。

今はそうではないが、かつて彼の店に能く通ったことがある。ヴィトーリオは経済学を学びに19歳の時ヴェネツィアにやって来たが、卒業証書(ラウレア)を手にすることは出来なかった。サン・マルコ広場の美術館に勤務するアイルランドの娘に出会った。彼女が2度彼にキスをした。1度目は二人に恋を芽生えさせ、その後彼女は彼と別れるに当たって、彼にメルヴィルの本を贈った。

彼は書物というものにそれ程馴染んでいなかったが、その夜、彼女を引き留めようとするかのように直ぐに『モビー・ディック(白鯨)』を読み始めた。そして今までこんな風に読書をしたことがなかったことに気付いた。

突如、自分が操船を指揮し、捕鯨用の銛を油で磨き、救命ボートのベンチを洗っているように思われた。彼には日に日を次いで生活が膨張して、魅惑的になり、そして人生がより能く、以前より何がしかが理解されるように思われてきた。

彼は大学を辞め、リード島の店に仕事を見付けたが、それは敢えて家から遠くの場所を選んだ。リーヴァ・デ・ビアージョの停留所からヴァポレットでの通いは、毎日2時間の読書が可能だった。そして譬え望まずとも、またお気に入りでない本を選んだとしても、ヴァポレットの窓からの眺めは同様に素晴らしく、アメリカや鯨の見付かる大洋が想像出来た。

あの大陸が彼を引き付ける。RothやDeLillo、MastersやWhitman、AusterやEllisと話し始めた。そしてある期間、合衆国東北部メイン州に住むことを夢見た。しかし出発はしなかった。ヴァーモントの薪置きの小屋を奇麗に片付けねばならないような身形をし続けているからである。

20代からヴィットーリオは、サン・ジャーコモ広場の本屋さんである。書店は彼の事をモビー・ディックと呼称する。譬えアイルランドの娘の事をもはや考えないとしても、またここには海があり、ナンタケット(Nantucket)の大洋は存在しないとしてもである。

彼は少し離れた所に住んでいる。そこで学生時代からずっと生活してきた。解剖裁判所の屋根裏部屋である。そこからヴェネツィアの赤っぽい屋根、フラーリ教会、フェニーチェ劇場の大きな図体が見渡せる。彼の生活は自ら望んだものである。書店主であるためには、人は裕福になることは無用だが、本屋のために人は生きるのではない。彼に仕合せかい?と問わねばならないとすれば、ヴィットーリオの方はそうだよ(Sì)と応えるかも知れない。

今や彼は慕われている存在でもあるのだ。」

サン・ジャーコモ・デッローリオ広場とテントール通りは地図下部に位置しますが、テントール通りを南へ下ると向かって右側にヴェネツィアで一番美味しいと言われたピザ屋さんがありました。更に下って橋手前を左に行くと、ポンテ・ストルト(曲がった橋)、そして鐘楼が途中で切られて民家に転じた風情が見られます。

2014.11.27日のブログでヴェネツィアのハーマン・メルヴィル(1~2)について触れています。
  1. 2021/02/07(日) 00:30:12|
  2. 書店
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映画『ベニスの愛』

最近になって知ったことがあります。映画好きの私が見損なっており、蔦屋のイタリア映画コーナーでカセット・テープ等でも見かけず、一度紹介したことのある、柳澤一博著『映画100年 STORYまるかじり イタリア篇』(朝日新聞社、1994年11月30日)の中の年表からも洩れていて、私のヴェネツィア映画についてのブログでも触れたことのなかった映画――日本語題名は『ベニスの愛』(1971年8月28日、日本公開)、イタリア語題名“Anonimo veneziano”(1970年制作)という映画です。
[Anonimo veneziano――Youtubeにポルトガル語字幕の映画『ベニスの愛』がありました。]

アレッサンドロ・マルチェッロ作曲のオーボエと弦楽合奏のための協奏曲ニ短調の第2楽章アダージョが、主人公のオーボエ奏者によって演奏されたために、この演奏されたアダージョ楽章が《ベニスの愛》と呼ばれるようになったそうで、私は、“ある映画で使用されたためにこの協奏曲がこの様に呼ばれるようになった”と単純に思い込んでいました。

その上、私は映画音楽として作曲された曲とは知らず、曲名も知らず、普通のムード音楽として聴いていたのですが、エンリーコ・マリーア・サレルノ監督のこの映画では、ステルヴィオ・チプリアーニが映画音楽として主題となるメロディを作曲していました。ヴェネツィアでは能く耳にしたものです。ですから『ベニスの愛』という曲は、このチプリアーニ作曲の映画音楽がそれだったのです。

この映画が公開された当時は、マルチェッロのオーボエ曲は兄のアレッサンドロがアカデミー(Ponteficia Accademia degli Arcadi)の会員で、Eterio Stinfalico(エテーリオ・スティンファーリコ)の名前で発表したこともあって、有名な弟の作曲家ベネデットと混同され、ベネデット・マルチェッロ作の曲とされていました。しかし現在はアレッサンドロ・マルチェッロ作曲と同定されています。映画の題名“Anonimo veneziano”とは、このマルチェッロの曲に綽名がないことから、ヴェネツィアの曲であることを明確にするために付けられたものでしょうか、《ヴェニス無題曲》といった意味合いのようです。
[Youtubeにアレッサンドロのオーボエ協奏曲ニ短調がありました。]

映画は、Youtubeにアップされたヴェネツィアの街を見るような趣で、喧嘩ばかりで別居していた夫婦がヴェネツィアで再会し、1日街を歩きながらお喋りし、言い合いをし、また愛し合っていた昔を思い出したりしながら、1日ヴェネツィアの街の彼方此方を歩きます。ヴェネツィアの路地歩き好きには必見の映画でした。サント・ステーファノ広場ではジェラートが美味しいと評判のカッフェ・パオリーンのテーブルでの語り合い。映画で映し出されるパオリーンと右隣のカッフェ・アンゴロの間の道を入った所に、語学校通学時、アパートを借りていたのでこの近辺は懐かしいのです。私はアンゴロでヴェネツィア名物スプリッツ・コン・ビッテルを知りました。
中央の赤っぽい絵が画伯の物[中央の赤っぽい絵が絹谷画伯のもの]  ロカンダ・モンティーンで食事をするシーンがありました。ロカンダ(locanda)は安宿の意で、かつて泊めて貰えないかと、Faxしたことがありました。折り返しFaxが戻って来て、今は食堂の経営だけなので、ヴェネツィア来訪の折には食事にお出で下さいとありました。その後食べに行くと、店の人が、ここには日本人の画家の絵がありますよと案内されました。部屋の片隅に掲げられていたその絵は、芸大の絹谷幸二教授のものでした。翌年また食事に行くと、絵の展示場所が客の目が直ぐ気付く部屋の中央に変更になっていました。日本人が食事に訪れるようになったのだと、合点しました。

主人公は会話の衝突から、竟、自分は5、6か月後には死ぬだろうと宣告されたことを口走ってしまいます。彼は死ぬ前に愛していた妻に会いたかったのです。そしてこの夫婦にとっては寂しいFineとなりました。
  1. 2021/01/30(土) 22:02:12|
  2. ヴェネツィアに関する映画
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ヴェネツィアのカーニヴァル 2021年

今日の新聞に、リオのカーニバルが中止になったとありました。
カーニヴァルカーニヴァルは暦年の宗教行事の一つです。人が集まるイヴェントが取り止めになったということで、例年行われていたように、各家庭内ではそれぞれの謝肉祭を楽しんでいたはずです。

ヴェネツィアのカーニヴァルの日程も近付いてきました。PCのサイトには、旅行社等の記事で2021年のヴェネツィアのカーニヴァルの予定が発表されています。ヴェネツィアの公式サイトにも昨年の内に公式の行事予定が発表されていました。

しかしこの1月4日付の《ラ・ヌオーヴァ》紙は、縮小された形で、イヴェントは定員制でやるか、Web上でやればOKとしていましたが、23日付では明確に人の集まるイヴェント、館での舞踏会等、サン・マルコ広場や通り等での人出を発生させる一切を禁じ、催しはonlineで発表するように、保健局のお達しです。市にとっては大打撃のようです。

NHK・TVで、昨年のヴェネツィア・カーニヴァルが、ヴェーネトで感染者はまだ僅か、しかし死者1名の報の直後、日曜日から中止になった時のフィルムを見たことがあります。主催者達は大変悔しい思いをし、今年のカーニヴァルに賭けていたと思いますが、昨年以上に残念な結果になってしまいました。このコロナ禍はいつまで続くのでしょうか。

1月21日のヴェネツィアの様子(早朝?)を撮られたMarco ScarpielloさんがupされたYoutubeから ヴェネツィア 1月21日。コロナ禍以前であれば、この明るさの朝早き時間、運河には沢山の船の動きが見られ、通りでは多くの人々が足早に歩き、サン・マルコ広場は既に観光客の姿があり、活気ある街を感じたものです。カメラに映し出された街を見ると、かつて泊ったことのあるホテルの場所にはシャッターが下り、ホテルの看板がありませんでした。
  1. 2021/01/23(土) 23:49:52|
  2. ヴェネツィアの行事
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リアルト橋

2000年の大聖年の年から6年間、ヴェネツィアの語学学校に通いました。仕事がありましたので、年に精々2~3か月間でしたが、レベル1から始まりました。現在のコロナ騒ぎで学校はどうなったでしょうか。伊語の学校には外国人しか学びに来ません。国境は閉鎖状態で観光客もまばらなヴェネツィア! 市は観光客もいない状態で、市の美術館や博物館も閉鎖することにしたそうです。

学校から伊語の勉強を怠るな、と能くヴェネツィアに関する書物からの引用文をメールで送ってくれていました。その中に、リアルト橋についての引用文がありました。リアルト橋については以前にも何度か触れていますが、視点の異なることと文章が非常に難しかったので、譯の練習を兼ねて、蛮勇を奮って訳してみました。どういう人が書かれた文かは判りません。

「……1507年、十人委員会は、木製のリアルト橋を石製に取り換える意向を固めた。石製は3アーチで、中間に2橋台・2橋脚という、中央が通過出来る様に開かれた構造とされた(最初の石造製の構想)。有能な技術者がいたにも拘わらず、年月が経った。
カルパッチョのリアルト橋[カルパッチョ画の木造のリアルト橋(部分画)]  1527年から彫刻家で建築家のサンソヴィーノ(ヤーコポ・タッティ)がヴェネツィアに最終的に定住した。彼はサン・マルコ政庁の印刷者であり、サン・マルコ小広場を古代ローマ様式に再生させるためのクリエーターとして任命されていた。

貴族のアルヴィーゼ・ドナは航海に長けた愛好家だった。1537年、3アーチの橋のモデル(第4番目の構想)を既に完成させていた。1546年、十人委員会は以前にピエートロ・デ・グベルニに相談を持ち掛けていた。彼は塩と海洋庁の職長で、単独アーチの木造橋のモデル(第5番目の構想)でサンソヴィーノに重大な疑問を投げ掛けていた。

1551年には石造橋についての質問が元老院に強力に投げ付けられた。工事の監督官には、サンソヴィーノの支持者であったヴェットール・グリマーニとアントーニオ・カッペッロが選ばれた。
アルピーニ橋[サイトから借用。1569年バッサーノ・デル・グラッパに架橋されたパッラーディオの屋根付きの木造の“ヴェッキオ橋”、アルピーニ橋とか屋根付き故コペルト橋等呼ばれます]  竟にコンクールが公募された。ヴェネツィアのマエーストロやイタリア各地の人が公募に応じた。サンソヴィーノ以外にもバルバロ兄弟に支持されていたヴィチェンツァ出身のパッラーディオも応募した(バルバロ兄弟の、ダニエーレはアクイレーイアの貴族で、パッラーディオの挿画入りの、ウィトルウィウスの『建築について』の知的翻訳者であり、マルカントーニオはドミヌスの施政官、サン・マルコ収入役で、サンソヴィーノ図書館[サン・マルコ図書館]完成に尽力した)。
……
街を美しくしたいという通常の目的には橋も含まれていたが――それは特にサン・マルコ地区を変えたいということが中心であった――パッラーディオの構想はそれまで知られていなかったが故に、無に帰した。彼は観念的、象徴的、水力学的な発想の時期にいたのかも知れない。
……
パッラーディオはその時、出向で遠くにいたのであったが、必要な場合は、事に対して批判的にもなって、自分の論文にリアルト橋の3アーチという野心的な構想を導入していた。木造ということは部分的な修復が可能という、十人委員会の認めていたことのために後々まで彼の心に残っていた。
Palladio[パッラーディオ、サイトから借用]  彼のその悲しむべき状態の前で、元老院は新しい橋を完璧に遂行するために、3人の監督官を任命することを決めた。橋の輪郭は大評議会が大衆的見地から認めるものとなるかも知れなかった。
……
1587年[この年再度の公募が行われました]12月28日、前例にはなかったような手続きで、政府の役人達は最初の相手に、更に質疑に応じることの出来る全専門家に向き合った。9つの関係する質問があり、それは安全性、費用、建造の難度、高さ、通行人や船の利便性、潮の流れ、障害物、埋め立ての危険度、橋の美観だった。そのデッサンが監督官の家に張り巡らされていたので、現在我々は職人衆の証言内容が判るのである。

質疑に応じて、ヴィチェンツァの建築家の、パッラーディオの弟子であったヴィンチェンツォ・スカモッツィもコンクールに参加[師のパッラーディオの死は1580年]し、“コンクールに参加”と署名したように、それは戦いであった。

スカモッツィ(同じ様にマルカントーニオ・バルバロに支持され、援助されていた)によれば、3アーチと水流の川床中間部に埋め込んだ2本の橋脚で橋を建造することが必要だった。古代ローマの建築家が教えているように、正しい教えは長期となる建造期間中に結果が出るのである。単独アーチの橋という考えは、未開人の意見であって、橋は偏に橋台の堅牢度に委ねられる。故に、その橋の強度の持続は短期間だけの事である。[直ぐに崩れるの意]

リアルトのために、彼は中間の2つの橋脚の中央に完全な半円形の大きなアーチを提案した。河岸上の橋台と共に2つの小さなアーチを支えるだろう。
……
アントーニオ・ダ・ポンテ像[ダ・ポンテ像、サイトから借用]  18世紀の研究者によると、3アーチという解決策を持つヴィンチェンツォ・スカモッツィの案が元老院に選ばれるはずだった(1587年)としている。17世紀と19世紀の歴史家は、提出された色々の案について仄めかしているが、選択としては単独アーチのアントーニオ・ダ・ポンテ案が考慮された(彼は建造現場の監督だった)としている。
[アーチ1個案が選ばれる結果になりました]
……
実際の建造作業と共和国の政府機関の、危険を能く知った配慮が失敗を阻止した結果となったが、困難な過程は大きな橋が失敗作になった可能性もあった。しかしそれは、大運河の川床に支えられた訳でもなく、中断なしに大きなアーチで大運河を跨越し、泥濘に打ち込まれた橋台の重さの圧力に堂々と耐え、潮の流れや巨大船も危険なく上向下降させ、大理石の舞台、というよりモニュメンタルな背景、言わずと知れた水の大通りを、隠すことなく正しく設定したからである。
ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』鳥瞰的リアルト橋[左、ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』] それは直ぐ様、ヨーロッパ中に知れ渡った。……」
 ――ヴェネツィア学院送付の文章から

各国の語学生で成り立つ語学学校です。コロナ禍中、人の行き来が途絶えれば、生徒はゼロ、経営破綻は目に見えています。日本の日本語学校も同様でしょう。懐かしい先生方の顔が目に浮かびます。何とも成す術はありません。下手な訳文、申し訳ありません。
  1. 2021/01/08(金) 23:20:43|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィアの民話: 魔女と黒猫

下のような2ユーロ硬貨をご覧になったことがありますか。硬貨に刻まれた年号から、2017年にヴェネツィアで催された事に関する硬貨ではないかと思われます。サン・マルコ寺院が刻まれています。何かをを記念したのでしょうか。
2ユーロ、表2ユーロ、ヴェネツィア[左、2ユーロ表、右、その裏面――表のユーロ地図はイギリスが抜けたので、変更になるでしょう。]

以前にも紹介した事のあるM. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007)から、《La strega e il gatto nero(魔女と黒猫)》を紹介します。
ヴェネツィアの神話と伝説「サンタ・マルタ地区に住む若い船頭の話である。長年働き、苦難の末、ある額の貯えをすることが出来、若い恋人と結婚することが出来たのだった。まる1年も経たずにこの結婚で、可愛い男の子を授かった。若い二人は幸福至極となり、この神からの授かりものを地上の最後の赤子でもあるかのように、可愛がり、キスし、腕で抱き締めた。

しかし半年経った時、子供は具合が悪くなり、少しずつ容態が悪化し、死に至った。

この若い両親の悲しみ、息子を失った苦悩、尽きせぬ涙は想像に難くない。幸いなことにその悲しみは三月も続かず、若い妻は再び妊娠した。出産は滞りなく進み、可愛い次男が誕生し、長男の死という悲しみを忘れさせた。残念な事に6か月後に病が起こり、この幼い命は尽きてしまったのである。

母親は更なる命の喪失の苦しみのため、丸で気が狂ったようになったが、夫が直ぐに慰撫した。しかし時は進み、若い妻は再び身籠り、三男が生まれた。この子も可愛く、愛らしかった。二度と葬式はしないようにと、息子の世話には時を惜しまず、育児に全力を尽くした。それ故、息子を独りにするということは殆どなかった。睡眠時のみが母親の気の休まる時であり、また家の事や家族の事に携わった。

しかし限りなく注意を払っていたにも拘わらず、この度も充分でなかったのか、この三番目の息子が6か月を経た時、衰弱を始めたのである。恐怖に襲われて気が違ったようになった母親は息子を助けるべくあらゆる手段に全力を尽くし、評判の医者を呼び、可能な限りの薬を飲ませ、持てる全財産を使った。しかし子供は回復しない。

見誤るような事態にならないよう、揺籃の傍に敷いた藁布団の上で縮こまったように、子供を見守りながら夜を過ごした。ある日の真夜中、子供が泣くのを聞き、眼を開けてそちらを見ると、揺り籠に黒猫がおり、猫は気付くと直ぐ様部屋の外に逃げて行った。

妻は直ぐに夫を呼びに行って、その不思議な出来事を知らせた。漁師はその話にうんざりしたが、何が起きたのかよく知りたいと思い止まって、次の夜、子供を隠して様子を見ようと決めた。

こうして次の夜、用心のために暖炉からよく尖った焼き串を用意した。丁度真夜中、子供が泣くのが聞こえた。見ると、黒猫が揺り籠にいた。で、焼き串を摑むと怒りに任せて猫に襲い掛かった。猫は揺り籠から跳び下りて、電光石火逃げ出した。獣は余りにも素早く、何も出来なかった。ただ焼き串を投げ付けると左の前肢を擦っただけだった。

翌朝若い妻が子供の様子を見に行くと、明白に良くなっているのが見て取れた。喜んで、仕事に出掛けようとしている夫にその事を告げた。その後隣のアパートに住む姑(madonaヴェ語=suocera伊語)の所に行った。大声で姑を呼んでも、返事がない。更に呼び、ドアを何度も叩いた。すると奥から非常に微かな声が聞こえ、調子が悪いから帰ってと答えた。

ちょっと心配になり、若妻はその言葉を無視して、中へ入ると姑はベッドで上掛けを顎の下辺りまで引いて寝ていた。もっと上まで上掛けを引き上げるように勧めたが、動く気配はなかった。おやつを置いたが、敷布の下から手を出そうともしない。昨夜の事を話しても喜ぶ気配はなかった。若い女は到頭姑を独り残して、立ち去った。

昼食に夫が帰宅した時、若妻は彼にお母さんの具合が悪くて、何も食べないし動こうともしないと言った。二人は家を出ると、母親のアパートに行った。挨拶をして、具合はどうか尋ね、スープを差し出した。しかし母親は動こうともせず、寝床から腕も出さなかった。若い夫は普段にないこの態度に不審を抱き、突如母親の上掛けを剥ぐった。と、病人の左手は血で汚れた襤褸切れで包まれていた。

《ここ、どうしたの? 何が起こった?》母に尋ねた。《何でもないよ、怪我しただけ》彼女が答えた。《見せて》こう言うと母の手の包帯を剥がした。

ビックリ仰天だった。腕の傷は鋭く尖った物で抉られたように深く、煤けた煤煙で汚れていた。《悪魔の女! もう判ったぞ。俺の息子を二人も殺したんだ》

もう母親を絞め殺さんばかりった。しかし女の涙と哀願で、結局出来なかった。結局、この女は今まで自分の母であったし、能く知られているように、やって来た事を再度やることは二度とないだろうからである……見付かった魔女は二度と妖術を使うことは出来ないのだ! 」
 ――M. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』から
  1. 2020/12/29(火) 20:49:14|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ヴェネツィアの街灯の歴史(3)

(続き)
「しかしながらガス料金は、アルコール類に比べて決定的に低価格だったにも拘わらず、その導入には住民側から強い拒否の声が上がった。悪臭があるということが原因だった。特に芸術家達は光源の強烈さやその色合いを嘆いた。その明かりは、ナトリウム、カリウム、リチウム、銅の塩基の中に浸したランプ用の網を使用するので、その対策を講じるため時間とともに模索していた。

炎の点火と消火は手で行われ、ガスの流出口のガス栓の開け閉めは長い棒を使用した。

20世紀の初めから、各々の照明箱の中には、ゼンマイ式の1週間の自動巻き時計が内蔵された。しかしこのやり方は、ガス点火の小口に1日中種火を点火しておく必要があり、決められた時間に網の点火と消火させるレバーを時計に操作させた。

1886年電気による照明プロジェクトが始まり、ジュデッカ島で最初の実験が行われた。翌年市はWalter Edison社に10年間個人への電気の配給を許可した。公道での施設はガス会社が独占権を主張していた。

1889年チェントロの狭い区域に小さな施設を作ったヴェネツィアの電気照明の株式会社が創立された。とはいえ矢張り、主人顔するのはガスで、市とLa Lionese(ラ・リオネーズ)の契約の更新は1909年に行われた。その契約では元のマルテ広場、現サンタ・マルタ広場地域に小さな工場を予定していた。

市はいかなる街灯システムであろうと導入し、適用することは制限されていない、とはしていたが、ガス利用については、最小量であろうと補償はするつもりであった。後に法律でこの但書きは決定的に廃止され、1922年には町全体の街灯のためにはガスから電気に変わることが決定された。
サン・マルコ小広場岸壁ラグーナの街灯[ヴェネツィアでは潟でも、夜間の航路を明示するためブリコーラの上に街灯があります]  当時の、そのフランスの会社(ラ・リオネーズ)がイタリアのものとなって Italgas(イタルガス)がこの会社を所有することになり、マルゲーラ港の新しい産業の基軸から化石燃料を町の末端まで配給する準備を整えた。……」
 ――ネーリ財団銑鉄博物館のサイトから
蛙を持つ少年税関岬2013.03.22日のブログ蛙を持った少年で書きました、この白い少年像は、汚されないように常に警備が必要で、その上市民にも評判悪く、数年後撤去されましたが、その跡に、以前あった街灯(1800年代様式)が蘇りました。漫画家谷口ジロー著『ヴェネツィア』(双葉社、2016年11月23日)には《蛙を持った少年》像が描かれ、短い期間展示された像の“記念作品”となっています。
  1. 2020/12/07(月) 17:00:35|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街灯の歴史(2)

(続き)
「……邸館の壁面に、最初843灯取り付けられ、1761年には1750灯、、1773年4月には1778灯と増加した。《サン・マルコ広場と広場に隣接する道を含む、市の夜間照明に必要な油》についての記録で、19世紀初めにセレニッスィマ共和国が2030灯の照明を準備したことが知れる。細かく言えば、ジュデッカ島12灯、ゲット地区27灯、サン・マルコ広場76灯、1915灯は町中に広がった。
点灯[サイトから借用]  点灯の係員は、仕事をより良く遂行するための梯子や道具類を所持した、ヴェネツィア語で bolleghieri という点灯夫である。

1839年7月、ガスを使用してのサン・マルコ広場とその周辺の照明の請負を決定するため、フランスの会社《De Frigère, Cottin, Montgolfier, Bodin(ド・フリジェール、コタン、モンゴルフィエール、ボダン)》との契約を結ぶ会合があった。

《他の主要都市より劣っているというものは何もないヴェネツィアは、特に再び美しく顕著になるとしても、現実にミラーノで動きつつあるガス灯問題に無関心ではいられない》と注記されている報告書は、新しいシステムの導入を提案していた。そのシステムとは、4面を囲われ、下部はクリスタルガラスで、薄い鉄板で作られた街灯146灯でサン・マルコ広場、スキアヴォーニ海岸通り、メルチェリーア通り、サン・バルトロメーオ広場、ラルガ大通りの主要な場所を照明するというものであった。

《La Lionese(ラ・リオネーズ)》というフランスの会社は、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャに最初のガス工場を建設し、1843年3月の13、14日にはその点灯の実験を行っていた。しかし2年前の2月には既に、屋外空間を明るくする提案が認められていたのである。それは《広場がどんな状況であろうとも、新聞が読めるような反射板が取り付けられた、2つの火口で点火する明かりが上部で点灯する構造の、鉄製の燭台置かれていた。》ということ。

しかし1864年までは、大半の地域では未だオイル・ランプが残存していた。その同じ年、そうした古い明かりの契約が満了になったので、ガス灯再検討のチャンスとなった。その会社は6年以内に全市に新しいガス燃料システムを拡大し、既にある1368灯に追加して500灯の街灯を取り付ける仕事を引き受けたのである。

それは邸館のファサードに鉄で取り付けたランタンであり、銑鉄を溶融して造った縦の棒から吊るした明かりであり、正に街灯(lampione)とか燭台(candelabro)という言葉に相応しいものであった。……」 (3に続く)
  1. 2020/11/30(月) 06:49:14|
  2. ヴェネツィアの街
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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