イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(15)

今回マーリブラン劇場前のアパートを借りましたので、以前にも紹介したG.フーガ=L.ヴィアネッロ著『CORTO SCONTO』からここを通るコースを紹介してみましょう。
ヴェネツィア地図1「かの有名なヴェネツィアの喜劇作家カルロ・ゴルドーニの銅像に元気も貰える広場サン・バルトロミーオが、我々のこの旅の出発点である。ヴェネツィアの中でも中心となるこの広場は、ヴェネツィア人が出会いの場所として最も好む地点の一つであり、既にご存知のように、その奥まった所に朝から晩まで盃を傾けることの出来る飲み屋さんが色々ある。

今やお歳を召したゴルドーニ老、あらゆる人間の機微を熟知した父親のような温かい彼の眼差しを受けながらお別れして、フォンテゴ・デイ・テデスキ(ドイツ人商館)大通りを行こう。ドイツ人商館はヴェネツィア中央郵便局である。この堂々たる建物は、建築家スパヴェントの作品で、3年前の凄い火事で完全に焼失した商館の跡に1508年再建されたものである。
ドイツ人商館屋上から[ここは最近ヴェネットーン経営の有名ブランド店になりました。以前からのヴェネットーン店はそのままリアルトにあります。郵便局はリアルト近くサン・サルヴァドール通りに越しました。屋上に上がることが出来るようになり、修復なったリアルト橋の向こうに素晴らしい眺めが展開しています。]

ここは13世紀からドイツ人のコミュニティが、ヴェネツィア元老院から住宅や旅客用、輸出入の倉庫用敷地の許可を得て、所有していた。この建物は大運河側が全面ジョルジョーネによってフレスコ画で覆われた。その残存したフレスコ画の一部がカ・ドーロ美術館で保存されている。一方道路側はティツィアーノがフレスコ画を描き、それらは正に素晴らしきルネサンス芸術である。

内部の中庭は総体に同時代の壮大なエレガンスを帯びた、3列のロッジャの規模がリズミックな魅力を醸し、丸でジョルジョ・デ・キリコのメタフィジックな広場空間に入り込んだ感がある。階段を昇り、ロッジャ周りを歩いてみよう。各アーチの基部や石の上に、ある種の引っ掻き図が見られる。そのモティーフは一種のお遊び(tria=伊語tavola a mulinoというゲーム)である。

共和国時代、ここには記憶に値する祭があった。中でも伝統的な仮面のそれは、3日間継続して続き、カーニヴァルの開始に繋がっていった。この素晴らしい中庭(現在は屋根が付けられた)を後にする前に、我々は切手を買って、郵便物を送るために、窓口に行こう。

橋を越し、レストラン“Fiaschetteria Toscana”まで行き、その直後を左へ曲がり、レメール小広場の軒下通りを抜けると、大運河に顔を向ける、13世紀終りの建築的にも目を見張る、上部に見える建物、奥に見えるのはビザンティン様式の味わいがある。
レメール広場[外階段の右は何年か前に開店したバーカロ・レメール。その他にもこの小広場に活気が見えます。]  道を引き返し、ヴェネツィア人がよく通った、“マドンナ”とともに知られるレストラン“トスカーナ”の前を通り越し、教会(サン・グリゾーストモ)の向こうを左に曲がり、最初の右の道モロズィーニを行くと、最初の小広場アマーディ小広場がある。時に鉄格子が閉まっていることがあるが、壁に美しいビザンティンの盃を見ることが出来る。

更に奥に、モロズィーニ小広場があり、かつての冒険や忘れがたい騎士、決闘や闘いといったものを想像させる兜や盾を彫り込んだ、アラブ=ロンバルディーア様式(13~14世紀)の大理石のアーチが建ち上がった入口がある。

この小広場は今でも煉瓦が敷き詰められ、井戸や外階段といった中世の面影を見せるが、ここはかつて町でも一番古くて著名な一族モロズィーニが住んだ一角である(総督4人、総督妃3人、王家嫁入り2人)。

モロズィーニ通りを後にして引き返し、右へ曲がり、軒下通りを抜けてプリーマ・デル・ミリオーン小広場に出る。ここはコルト・マルテーゼと彼の仲間達がよく訪れた一角である。 ……」 (16に続く)
ティツィアーノ展1ティツィアーノ展2ヴェネツィアから帰り、先日漸く都美術館の『ティツィアーノとヴェネツィア派展』に行ってきました。~4月2日までやっています。
  1. 2017/03/23(木) 00:14:03|
  2. ヴェネツィアの街
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マルコ・ポーロ

今回ヴェネツィアで借りたアパートは、知り合ったマウリーツィオが4人用のアパートを作ったから利用してくれという話に乗りました。到着し、電話してそのアパートに辿り着くと、最終の宣伝用の写真撮影の最中でした。リヴィングのソファーをばらすとベッドになり6人まで泊まれるようです。

アパートのロケーションが大変気に入りました。テアートロ小広場のマーリブラン劇場正面入口の左脇の建物です。街歩きにはとても便利しました。サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ大通りの教会右脇を入ると、銀座のイタリアン・レストラン《バラババオ》のシェフが修業された《バラババオ》本店があり、その更に奥に劇場があります。劇場右脇には、ミリオーン[Milionは『東方見聞録』の原名、大風呂敷の意]小広場があり、軒下通りを抜けて、運河前左を見ると、マーリブラン劇場の裏手にマルコ・ポーロがかつて住んだことを示す碑が掲げられています。この劇場は1596年マルコの家が焼失した後、その礎の上に建てられたものだそうです。
マーリブラン劇場ヴェーネト・ビザンティン様式[左、アパートの窓から見たマーリブラン劇場、右、ミリオーン小広場の、一説にポーロ家が所有したと言われるヴェーネト・ビザンティン様式(1200年代)の帯状装飾]  このマルコの碑の直ぐ運河の向こうには、橋を渡って有名なバーカロ《Al Portego》があり、狭い店からはみ出して、ソートポルテゴ(軒下通り)の下で、テーブル代わりに置かれた樽の上にワイングラスを置き、わいわい呑兵衛達が屯してお喋りに懸命です。その直ぐ向こうのサンタ・マリーナ広場に語学校通学にアパートを借りた時はよく通いました。懐かしい一角です。
マルコ・ポーロ ヴェネツィア1ヴェネツィア2そんな訳で今回は日本人も良く知っているマルコ・ポーロについてです。ニック・マカーティ著『マルコ・ポーロ Marco Polo――世界を旅した男』(久松武宏訳、BL出版、2009年1月20日)というビジュアル版伝記シリーズの絵本です。絵や写真が一杯掲載されているので眺めているだけで読んだような気になってきます。私が最初にマルコの事を知ったのは次の本でした。
東方見聞録マルコ・ポーロについては、2008.10.12日の日本の旅や2009.10.31日のヴェネツィアと日本で触れましたように、カステッロ地区のサン・ロレンツォ教会に葬られたそうですが、1600年代には墓の在所が分からなくなってしまったそうです。現在サン・ロレンツォ教会は再生のための修復工事が何年も前から続いており、教会として甦るのは何年先か丸で分かりません。
サン・ロレンツォ教会ヴェネツィア警察前から見た、修復中のサン・ロレンツォ教会。マルコ・ポーロについては2011.11.26日のサン・ロレンツォ教会も参考までに。
ヴェネツィア話は変わりますが、帰国して図書館で谷口ジロー著『ヴェネツィアVenezia』(双葉社、2016年11月23日)という本を見ました。去年暮れに出版されたばかりの本です。ヴェネツィアのイメージがまだ濃密に残っていたので、大変心を刺激されました。著者が描いた場所の大体がどこか分かりました。正確な実景の絵だったのです。先日週刊誌で著者がこの2月に亡くなられたことを知りました。昂ぶった心を揺さぶられました。合掌です。
  1. 2017/03/16(木) 00:07:41|
  2. ヴェネツィアのアパート
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テアートロ・イタリア(Teatro Italia)

前回、スーパーマーケットになったテアートロ・イタリアについて触れました。駅からの一本道サン・ベルナルド埋立通りからプラトール通りと、マッダレーナ埋め立て通りの間、アンコネータ(伊語anconetta)小広場にあるこの建物についてイタリアのサイトは次のような事を述べています。連れ合いが語学留学中、左脇のアゼーオ通り(Cl. de l'Aseo=伊語aceto)奥にアパートを借りていた頃は、いつも大学生が屯していたそうです。
テアートロ・イタリア 地図2地図1「トゥレニターリアのサンタ・ルチーア駅とリアルト橋を繋ぐ人通りの多い道(いわゆるストラーダ・ヌオーヴァ)に建つ、正面にTEATRO ITALIAと書かれたネオ・ゴシックの独特の建物である。

1915年ジョヴァンニ・サルディによって建て変えられ、ラグーナのゴシック様式を採用し、特に一面窓とサン・マルコ広場の総督宮殿とドルソドゥーロのフォースカリ館(現在大学)の三連窓を採用している。

ファサードを見ると、2階に二つの紋章が見え、屋根の手摺りの中央に、有翼のライオンが見える。鉄製の四つの入口の大門は、ウンベルト・ベッロットの設計で、内部のシャンデリアも彼のデザインである。

ヴェネツィアの画家アレッサンドロ・ポーミ(1890~1976)が建物内部の中心のホールの天井中央に、“イタリアの栄光”と称する寓意画をフレスコで描いた。一方、フリウーリ人グイード・マルッスィグが地元の画家達と内部の品格ある装飾をリヴァティー様式で仕上げた。それは鉄筋コンクリートで補強され、建物の最初の例を見るものである。

テアートロ・イタリアの歴史は区々である。最初は映画館に改築され、長い間の閉鎖後、ヴェネツィア大学の持ち物となり、長い修復の期間中開かれたこともあったが、結局スーパーマーケットとしてオープンした。」

別のサイトはもっと古い時代の事を語っています。ビザンティン式の典型的な建物だったそうです。サン・マルコの有翼のライオンが屋根部を飾っています。伝説的な演奏家達が、音楽やオペラの催しを数多くこなしたのです。

劇場は500年近くに渡って、伝説的な演奏家達がその世紀でも際立つ音楽やオペラ等の催しを数多くこなしてきたのです。この劇場は世界でも、その他多くを凌駕する歴史的遺産でありました。
  1. 2017/03/09(木) 00:05:43|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ヴェネツィアのカーニヴァル

ヴェネツィアのカーニヴァルに行ってきました。この度は初めて家族全員での旅行でした。かつて夫婦だけで見物したカーニヴァル時代と少し様変わりしてきたのでしょうか? そんな印象を覚えました。1979年、現代のコンパニーア・デ・カルザ・イ・アンティーキ(中世、この名の貴族の若者グループが町を面白く、楽しくしたのだそうです)の人達が町興しのために始めたものが、こんな形で町に根付いたようです。

このグループの人達の催しを探して歩きましたが、ありませんでした。かつて『昔の展示室《バウータ》』というイヴェントを見たことがありました。通学した語学学校の向こうにドナートさんの本屋があり、演劇を見ないかと誘われました。学校の前にはグェリーノ・ロヴァートさんの仮面屋もあり、コンパニーアのグループ長のルーカ・コルフェラーイさん(『図説 ヴェネツィア――「水の都」歴史散歩』(中山悦子訳、河出書房新社、一九九六年一月二五日)の著者)等がイヴェントの協議をするNHKTVを見たことがありました。
[2011.02.12日のカーニヴァル(3)で触れました。] 

ドナートさんは引退されたようですし、ロヴァートさんの仮面屋さんも閉店し田舎に移られ、コンパニーアの人達の第一期の時代は終わったのかも知れません。そんな感じで仮装を見て回りました。フェニーチェ劇場修復に尽力されたロヴァートさんは、海水で消火したフェニーチェの塩抜き作業が大変だったと話されました。絵や彫刻等の修復に携わられました。

昨年のLa Nuova紙で読んだ、サン・ジェレミーア教会のキリスト像が、モロッコ人の回教徒により、腕を圧し折られた事件がありました。腕が接着され、正面に掲げられていました。教会の係の人にも、この像かと確認しました。そんな訳で、回教徒のテロを大変に恐れたカーニヴァルで、鞄などのチェックもあるということでしたが、そこまではありませんでした。
[事件を伝える2016.07.28日のLa Nuova紙]

ストラーダ・ヌオーヴォのかつて大学が使用していた“Teatro Italia”は華麗なスーパーに変貌していました。舞台正面、壁面や天井などの絵画がそのまま残され、華麗なスーパーマーケットです。
[2016.12.30日のLa Nuova(2)紙を参考までに]

カーニヴァル中、フェニーチェ劇場でプッチーニの『La Bohème』の公演がありました。娘達と一緒のこともあり、もしかして劇場に席が残っているかも、訊くだけは訊いてみようと尋ねると、僥倖なことに平土間席があり、楽しいオペラ鑑賞の一夜となりました。
仮面仮面2仮面3仮面・仮装の人達の写真は沢山の人達がブログアップされていることでしょう。
  1. 2017/03/02(木) 00:01:50|
  2. ヴェネツィアの行事
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文学に表れたヴェネツィア――ジョナサン・ホルト

『カルニヴィア1 禁忌』(ジョナサン・ホルト、奥村章子訳、早川書房、2013年9月15日)という推理小説があります。物語は次のように、いきなりヴェネツィアで始まります。

「プロローグ――ヴェネツィア 一月五日
ツーストローク・エンジンの小型ボートは、舳先にわずかなしぶきを散らしながら静かに船着き場を離れた。スロットルを握るリッチは、狭い船着き場にひしめく小さな釣り船や開店休業状態のゴンドラを避けて、巧みにボートを操った。仕掛けた籠にカニがかかっているかどうか確かめにいくというのを口実に、リッチは毎晩、ラグーナに出ていた。彼がときどきカニよりはるかに金になるものを手にするのを知っているのは、ほんの数人だけだった。誰かがこっそりボートでやって来て籠を沈めた場所を示すブイにくくりつけていった、青いビニールシートで覆った包みを引き上げているのを知っているのは。

ジュデッカ島を出てしばらくすると、リッチは背を丸めて煙草に火をつけながら、《もう大丈夫だ(E sicuro.)》と、小さな声で知らせた。
…… 」
カルニヴィア巻末の《解説》で、文芸評論家の池上冬樹氏がこの作品を次のように紹介されています。
「……
物語はまず、殺人事件をほのめかすプロローグのあと、非番の女性刑事が、一月の祝日の夜、ヴェネツィアの居酒屋で男を物色している場面からはじまる。イタリアには警察がいくつもあり、もっとも大きいのは内務省所属の国家警察と国防省所属の憲兵隊で、後者の刑事部のカテリーナ・ターボ大尉がある男をその夜の相手にしたいと考えているとき、携帯が鳴り、死体が発見されたといって呼び出される。

現場に駆けつけると、頭を撃ち抜かれた死体が教会の前に横たわっていた。どうやら高潮にのってラグーナから流されてきたようだった。冬はもともと潮位が高く、しばしば街が水浸しになり、数十センチ水没するのも珍しくなかった。運河の水が歩道にあふれるために死体も流れ着くのだ。

奇妙なのは、被害者が女性で、カトリック教会の祭服を着ていることだった。カトリックでは女性は司祭になれない。しかも腕にオカルトのシンボルとおぼしきタトゥーがあった。 ……」
  1. 2017/02/23(木) 00:12:54|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(3)

(続き)
「ルイーザはフィウーメに発った。そして彼女を待つダンヌンツィオは、港の女歌手、リリ・ドゥ・モントゥレゾルと夜を過ごしていた――フェデーリチは更に書いている――彼女はかなり散文的な報酬で翌朝立ち去ったと、そしてそれがどのような報酬であったか我々は知りたいものである。

しかし我々はある事を知る、それはリリ(彼女の本名はリーナ)はペスカーラ出身で、暫く前からダンヌンツィオを知っており、友人の画家ミケッティのモデルをしたことがあるということである。

フィウーメでルイゼッラは、色々に忙しかった。先ずは音楽家としての、公開のコンサートでの演奏活動に勤しみ、更に多分自分の男への熱心な協力者として、賢明で十全な秘書活動をした。

しかし彼女の新しい生活は始まったばかりで、19歳にして、1938年3月1日の詩人の死まで彼の傍にあって注意深く、忍耐強かった。正しく彼は、数年後には彼女を丸で妻の如く扱った、封書の宛名に“ダンヌンツィオの女ルイーザ(donna Luisa d'Annunzio)”と。しかし彼女に与えた屈辱は大変なものがあった。彼の人生で唯一の失敗があり、滔々たる冒険的活動の結論として、1921年ルイゼッラとガブリエーレが隠棲した、ガルドーネ近郊のカルニャッコの豪勢なヴィッラ、ヴィットリアーレで、その20年足らずの間に100人近くの女性達がそこで過ごしたと思われるからである。事態は正しくこのようであった。

100人近くの女性達の中には、正式の妻のマリーア・アルドゥアン・ディ・ガッレーセ(Maria Hardouin di Gallese)、女流のポーランド人画家タマラ・ドゥ・ウェンピツカ(Tamara de Lempicka)、ヴェントゥリーナ(Venturina)やイーダ・ルビンステイン(Ida Rubinstein)のようなかつての恋人達である。

ルイゼッラの態度をはっきりと示す、日付のない手紙がある。《私のアリエール様、あなたのオフイスは整頓されていて、純白無垢の花があなたにお帰りなさいを言うためにあなたを待っています。朝食のために万全の準備をしておきました。ミサに行って、直ぐ帰ります。私の両腕は昨日の疲れの後も痛みはありません。その事に満足しています。あなたを抱擁します。ルイゼッラ》

アリエール=ガブリエーレなるイタリア男の集中するもの、一体何が好みであったのか。しかし彼女は彼に信じ込ませたのでもなければ、感謝の念を示したのでもない。全てはそれ相応の事であった。そして彼女は次のような事を書くことになる。《おちびさん、あなたの事を一杯考えてます、心配なんです。多分私の存在だけがあなたを落ち込ませているんです。決めるって事だけがあなたに残されたことです。貴方の重荷になるよりは、私が立ち去る方がいいのです。あなたの過ぎ去って行く日々がなくなる時、多分それはあなたには長いことではないと思われます。薔薇の花を摘んで来ました、あなたのためにです。私を許して下さい。それってあなたにとって多分過分な事と思われますが。》

彼女へのアリエールの返事がどんなものであったか、我々には分からない。しかしまた別の手紙の始めで想像することは出来る。《私のアリエール、こんなにも辛く、苦しい電報はもう待つことは出来ません。なぜこんな電報を寄越すのですか。ガルドーネの事務所に私が帰る事を望んでいらっしゃらないことは分かっていますのに。脅すような奴隷の尺度と考えられますのに。》
ルイーザ・バッカラルイーザ・バッカラ[右、サイトから借用]  ルイゼッラは彼女のアリエールより47年も長生きした。しかし彼の死と共にヴィットリアーレを遺された。とは言え、詩人の生存中に生きたと同じように生き、その時から奴隷の如く、そして隠遁生活を送った。何も求めず、何も得ることもなく、追憶と忘れられた存在として人生を過ごした。」

ガルドーネ近郊のヴィッラ・ヴィットリアーレについては、2013.10.26日のカジーナ・デッレ・ローゼ館で触れています・
  1. 2017/02/16(木) 00:07:33|
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(2)

(続き)
「戦争中、広場にあった参謀本部が前線の兵站基地となっており、町に残る数少ないヴェネツィア人や前線から離れて避難している人々、市民病院で回復を待つ数多の戦争傷病兵の楽しみのために、ピザーニ館のベネデット・マルチェッロ音楽院のホールで定期的に幾つかのコンサートが開かれた。そうした活動に尽力する高名な芸術家達に混じって、ルイーザ・バッカラの姿もあった。中でも多分一番若くて、一番無名だった。

そんな彼女について、ジーノ・ダメリーニは次のように書いた。《ヴェネツィア生まれの大変若いピアニストは、戦争が勃発する前、ベネデット・マルチェッロ音楽院の最大の新星だった。勉強のご褒美に、ソリストとしてのキャリアーを凱旋するような、特別豪華なやり方で始めることが出来たのだった。》

それから19歳の春がやって来る。フィウーメ(現リエカ)占領の年である。ルイーザはヴェントゥリーナ事件でComandante(司令官――ダンヌンツィオのもう一つの添え名)を知っている。“ヴェントゥリーナ”とは彼が最後に獲得したオルガ・ブルンネル・レーヴィに与えた名前(実は最後から2番目)であった。しかし当時、彼は自分の書いた初期ヴェネツィアの悲劇『船』を映画に撮るためにイーダ・ルビンステインに関わっており、彼女を蔑ろにしていた。

しかしその事は“NO”である。最後から2番目ではなかった。更にまたヴェントゥリーナとの愛の“歴史”の間、満足することのない愛の渉猟者は、マリーア・ルイーザ・カザーティ・スタンパ侯爵夫人アーダ・コラントゥオーニ(ネリッサ)とも、愛の“歴史”を作ったのだった。彼女はヴェニエール・デイ・レオーニ館に住み、後に女優エーレナ・ドゥ・ヴノロスカであり、アンナ・モロズィーニ伯爵夫人であるペギー・グッゲンハイムとして住むことになる。……

その事はヴェントゥリーナとの“歴史”が長続きしたことを示している。事実それは17歳の1月(or 1917年1月)に始まり、ダンヌンツィオの中では、愛の継続は裏切りの数で計測される(多分“愛の逸脱”と称したケースであって、“裏切り”というと言葉が仰々しく、厳し過ぎるかも知れない)。

ヴェントゥリーナは自宅にルイーザ・バッカラを少し音楽をしませんか、と招いた。夕食にはガブリエーレ・ダンヌンツィオもいた。その時彼は彼女をしげしげと見た。彼女に手紙、贈物、本、花と贈るようになった。暑い夏の間、彼らは何度も会ったが、フィウーメ事件の始まる数日前の事、サン・ヴィダールのヴェントゥリーナの家でかなり形式的な出会いだったようである。
ガブリエーレ・ダンヌンツィオダンヌンツィオ(D'Annunzio)に(彼女もD'Annunzioの“D”を、“d”と小文字で書いた)《紹介されたいとは思いませんでした――更に続けて――詩人の理想というものは私にもあります。知るということ、男性というものを知るにつけ、評判というものは下がってほしくないのです。それはヴェントゥリーナが私にしたある種の裏切りのようなもので、演奏するように私を家に招待し、d'Annunzioに会わせる事をしたのです。》

後日(1919年9月9日のこと)詩人は、攻撃に出発した。即ち、愛しい少女の友は画家のグイード・マルッスィグ[1885年トリエステ生まれ]と共にルビンステイン家の正餐への招待から始まるのである。招待状はlei (貴女)で書かれていた。続いて、もう一つの招待状が届き、それは彼女の家であり、voi (あなた方)と書かれていた。我々にはもう一つ、10月1日の招待状があり、それはフィウーメからで、tu (お前)で書かれている。

中身に疑いの余地はない。《今度お前にいつ会えるのか。小さな、黒っぽい顔はどこにいる? 若い、野性的なすじを刻む、銀色に輝く髪はどこに? いつ再会出来るのか?……休戦時にお前の抱擁、僕の抱擁を考えながら打ち震えている。熱情の最後の夜のこと。お前に会えるだろうか?》 ……」 (続く)
  1. 2017/02/09(木) 00:05:44|
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(1)

2016.08.25日のエレオノーラ・ドゥーゼ》(1~4)でドゥーゼとガブリエーレ・ダンヌンツィオの事に触れましたが、ダンヌンツィオの最後の恋人になったのは、ピアニストのルイーザ・バッカラ(1892.10.14ヴェネツィア~1985ヴェネツィア)だったそうです。Bruno Rosada著『ヴェネツィア女達――その愛と評価』(Carbo Fiore Editori)により、2人の足跡を辿ってみます。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィアの女達』「《彼女にとっては愛の歴史、彼にとっては一つの歴史》 ルイーザ・バッカラの生涯の最初の章はこうした題名で始まる。アントネッラ・フェデーリチはこの情熱的な女とガブリエーレ・ダンヌンツィオの関係をこう要約した。大体全員というか、彼の全員の夥しい愛人達をこの“神聖な詩人”は楽しませたという。この堂々とした男中心主義者に今後に残された、予想される愛人関係というものがかつてとそれ程かけ離れたものではなかったのではないか、と。実を言えばそれは“NO”であった。

ルイーザ・バッカラとの関係は違った愛だった。しかし違っていたのはそれだけではなかった。どんな女も、彼女ほど諦めと品位のある無視無欲と献身的な自己犠牲に満ち溢れた愛情を注いだ者はいなかったのである。

事実人々、ある文化水準に到達していない人々全てを含めて、ダンヌンツィオの文一行さえ読んだことのない人々もこの不撓不屈の誘惑者の抑えようのないエロティスムを知っている。しかし本当に多くの人がルイーザ・バッカラの名前を挙げるのを全く聞いたことがなかった。一方彼の女達の中でもエレオノーラ・ドゥーゼの名前を挙げるのをよく聞いたのである。

これはルイーザ・バッカラが無意味な人物であったということでは決してない。もし無意味な人物であったなら、ダンヌンツィオが興味を持つ筈がなかったからである。彼女は彼の傍に居て、彼に逆らうなんて1分としてなかったことだろう。と言うより約20年間、彼の仲間であった。ドゥーゼは大女優であることを止めなかったが、それは彼の幾つかの大作を演じるという利点が引き出せたからであったが、ダンヌンツィオにとってのバッカラは大ピアニストであることを止めていた。

しかし彼女のデビューは大したものであったし、満足のいくものであった。1902年のムラーノ劇場での最初のコンサートに同席してみよう。その時やっと10歳で、『Il padrone delle ferriere(鉄工所の親方)』の幕間に2曲演奏した。プロを呼ぶためには十分な資金のない人が、一少女に対して興味深くも満足のいく要請をしたに違いないのである。そして10歳からよく知られるように、詩人と出会う運命の19歳まで成功が続くだろう。特に15歳から18歳の期間、戦争(第一次大戦)があったと考えても、である。

イタリア国内を回っても、それほど多くのコンサートはしなかったが、戦争中もルイゼッラ(ルイーザは家族にこう呼ばれていたが、ガブリエーレはスミクラ(Smikra`)という、ギリシア語で正に“ちっちゃな(picolina)”を意味する愛称を好んだ)は、ソリストとして注目を浴びた。 ……」 (続く)
  1. 2017/02/02(木) 00:08:50|
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文学に表れたヴェネツィア――タニス・リー

タニス・リーという英国の作家が『ヴェヌスの秘録』第1巻《水底の仮面》(柿沼瑛子訳、産業編集センター、2007年3月31日、他第4巻まで)が出版されています。このシリーズ第4巻《復活のヴェヌス》(2007年6月30日)のあとがきで、訳者は次のような解説を書いています。
水底の仮面ヴェヌスの秘録、2,3巻復活のヴェヌス「……本作『復活のヴェヌス』は四部作を締めくくる作品でもあり、ここでこのシリーズについても少しお話しておくことにします。このシリーズはいずれも水上都市ヴェヌスを舞台にしていますが、これはもちろんイタリアのヴェネチアがモデルになっています。役者もかつてヴェネチアに三回ほど滞在したことがあるのですが、車というものが存在しない街のたたずまいには、かつて某文豪が語ったように、どことなく夢のなかの街のような、日本に帰ってきてからも、はたしてあれは現実にあったのだろうかと思わせるような、どこか幻想めいた雰囲気があります。幻想が紡ぎ出す現代の語り部タニス・リーにとっても、これ以上に舞台としてふさわしい場所はないでしょう。

まず第一巻『水底の仮面』は十八世紀初頭のヴェヌスが舞台になります。ある事情からヴェヌスのスラム街に身を落とし、今は怪しげな錬金術師の弟子として鬱々たる日々を送る、怒れる貴族の青年フリアン。彼は仮面をつけた美女エウリュディケに出会い、恋に落ちてしまいます。そして彼女を巡る謎、とりわけ彼女に捧げる歌を残して死んだ、ある青年作曲家の歌を巡って、ヴェヌスのもっとも影の領域へと足を踏み入れていきます。謎の仮面ギルド、錬金術、蘇生する鳥と、いかにもリー好みの素材を駆使した冒険ロマンスが展開されます。……

第二巻『炎の聖少女』はさらに時代をさかのぼり、ちょうどフィレンツェでサヴォナローラらによる宗教改革運動がまっさかりだったころの中世ヴェヌスが舞台になります。火を呼ぶ能力のある奴隷の少女ヴォルパが、醜い世俗の権力に翻弄されながら、本人もまったく与り知らぬうちに聖女とされていくという、どこかジャンヌ・ダルクを思わせるストーリーですが、さらに彼女と、神以外の何者をも愛することのない氷のようなキリストの戦士との、およそあり得ぬ恋の物語になっています。……

第三巻『土の褥に眠る者』はルネッサンス最盛期のヴェネチアが舞台の華麗なる復讐譚であり、タニス・リーの作品に共通して流れるテーマである〈輪廻〉と〈変身〉がもっとも色濃く出た作品であるともいえます。墓堀人バルトロメの口を通して語られる敵対するふたつの名家をめぐる血なまぐさい復讐の年代記。主人公のベアトリクサとシルヴィオは対立するふたつの家というだけでなく、さらには人間と幽霊という世界にも隔てられた、いうなれば二重の意味での「ロミオとジュリエット」なのですが、このふたりの恋の行方と、さらに全編に流れる残酷美は、まさしく血とエロチシズムの作家であるリーの真骨頂といえるでしょう。……

そして第四巻であり、シリーズ最後の本作品『復活のヴェヌス』では一気に時代は未来に飛び、すでに水没し、海中ドームの中の水中都市として保存されているヴェヌスが舞台のSF仕立てになっています。昔の死人を再生させるという一大プロジェクトにより、未来のヴェヌスによみがえった古代ローマ時代の女性剣闘士と、十七世紀の作曲家、そして避け難い運命に導かれてヴェヌスにやってきた、暗い影を負うミュージシャンのピカロと、常に怒りに燃えている古代学者のフレイド、この四人の運命がクアルテットのごとくからみあいながら、最後にヴェヌスの運命おも含めた壮大なクライマックスを迎えることになります……。」
  ――タニス・リー著『ヴェヌスの秘録』第4巻《復活のヴェヌス》(柿沼瑛子訳、産業編集センター、2007年6月30日)“あとがき”より
  1. 2017/01/26(木) 00:04:12|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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サン・スターエ教会

コッチーナ・フォスカリーニ館を右に進むと、サン・スターエ教会となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を教えてくれます。
サン・スターエ「古い建築で、10世紀に遡り、ジュストとアドルドのトローン一家の手によって、ファサードが大運河に向くように最初の向きを90度変更するというやり方で、ジョヴァンニ・グラッスィによって、1600年代後半に完全な形で再建された。

最後の所は、総督アルヴィーゼ・モチェニーゴの遺産のお蔭で、建築家ドメーニコ・ロッスィによって1709~1710年に仕上げられた。

教会はバロック様式の建物である。両脇に礼拝堂のある一身廊の形式で、パッラーディオの影響が色濃く感じられる建造物である。コンポジット式の半柱で三分されたファサードは、破風と短い建物袖部を支え、当時の多くの彫刻家の装飾物で飾られている。

入口の大門は、特にファンタスティックに区切られたティンパヌムが浮き立って、彫刻による装飾的動きでその成果が際立つ。内部は興味深い画家達の作品に満ちて、ピアッツェッタやティエーポロの作品で素晴らしい。

大運河に面して教会左隣に、1700年代の素晴らしい建物がある。ティラオーロ・エ・バティオーロ同信会の建物である。

1636年教会の前では、激しい暴風雨が吹き荒れていたが、アンドレーア・ドナと妻のチェチーリア・ポラーニがペーザロ館での仮面パーティー後、帰宅する時、ゴンドラが転覆して、二人の夫婦とゴンドリエーレ達が溺れ死んだ、ということがあった。」

ドナ家は、フランチェスコ(1545~1553)、レオナルド(1606~1612)、ニコロ(1618)と総督を輩出した家系です。

尚、サン・スターエ教会に寄り添うように左に建つティラオーロ(Tiraoro)・エ・バティオーロ(Batioro)小同信会館は、1420年創立で、最初サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ教会にありましたが、後サン・リーオ教会に移り、更に1720年サン・スターエ教会隣に移動しました。

後期バロック様式のこの建物は、建築家ジャーコモ・ガースパリに帰属しますが、彼はサン・スターエ教会ファサードのコンペでは、参加しただけに終わりました。tiraoro は織物用の金糸を造る職人、batioro は工芸品用の金箔を造る職人の意のヴェネツィア語。
  1. 2017/01/19(木) 00:04:26|
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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