イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

観光客の礼儀

ヴェネツィアの新聞La Nuova紙は、この夏の観光客の傍若無人を嘆いています。町はリードのように海水浴場やピクニック場ではなく、市民の規律ある生活の場なので、一市民としてのあるべき礼儀を求めています。
海浜にあらず「 観光客への“十戒”: 《ヴェネツィアを蔑ろにしないで下さい》
――グループのメガホンは叫んでいる“我が未来のヴェネツィアは、市の周知するためのキャンペーンに期待して、印刷や掲示をするために商人達を呼び寄せている――

ヴェネツィアでは鐘楼の日陰等でピクニックをすること、自転車やスクーターで街を乗り回すこと、サン・マルコ前等のラグーナに飛び込むこと、等々全て禁止で、もし誰も気付いていないなら、それをどうやって観光客に伝えるか? しかし良識も教養も助けにはならない。処罰する前に、余りにも度を越した人や不注意極まる人に、覚醒して貰わねばならない。……」
……
La Nuova 2》、《La Nuova 3》、《La Nuova 4等々観光客の条例違反が多々あったようです。

サン・マルコ広場での禁止事項については、2009.03.14日のブログカーニヴァルで触れました。
  1. 2016/08/29(月) 18:19:49|
  2. ニュース
  3. | コメント:0

エレオノーラ・ドゥーゼ(1)

前回、カテリーナ・コルネールとアーゾロの関係について触れましたが、アーゾロでもう一人忘れられないのは、20世紀前半の大女優エレオノーラ・ドゥーゼ(1858.10.03ヴィジェーヴァノ~1924.04.21米国、ピッツバーグ)です。彼女は仏国サラ・ベルナール(1844~1923)、英国エレン・テリー(1848~1928)と共に、当時のヨーロッパ3大女優と謳われたそうです。シェイクスピア女優としてのエレンは、マクベス夫人とも愛称され、演出家の息子ゴードン・クレイグの母でもありました[『ゴードン・クレイグ 20世紀演劇の冒険者』(エドワード・クレイグ著、佐藤正紀訳、1996.11. 平凡社)参照]。
ドゥーゼベルナールエレン・テリー[左から、エレオノーラ・ドゥーゼ、ジョルジュ・クレラン画のサラ・ベルナール、ジョン・シンガー・サージェント画のエレン・テリー。3者、サイトから借用]
灰の1灰の2[2001年イタリア年の『イタリア映画大回顧』図録より] 私がエレオノーラの演技を見たのは、2001年の初の日本におけるイタリア年の時、京橋の国立近代美術館フィルムセンターで見た無声映画『灰』ででした。彼女については、2009.01.17日のブログルーカ劇場で触れました。B. ロザーダ著『Donne veneziane(ヴェネツィアの女)』(Corbo e Fiore Editori)から彼女の生涯を辿ってみます。

「《おゝ、偉大なるアマチュアよ》。それは22歳のガブリエーレ・ダンヌンツィオがエレオノーラ・ドゥーゼに向けた最初の言葉に違いない。1885年の夕べ、ローマの劇場の幕間で、舞台の袖で、彼に突然泣かされたのだった(何故かは分からない)。その神話が真実ならば、ヴァッレ劇場の3月2日の夕べの事だろう。そこでエレオノーラはデュマの『ドゥニーズ』を演じていた(カミッロ・アントーナ=トラヴェルシの言うように『椿姫』ではなかった)。

その最初の束の間の出会いから(しかし詩人の言葉は、既に新しい、初々しい接吻の希求を表している)、歴史が伝えるように、その後、大いなる愛が始まる。他人に対する限りない愛のみならず、何しろ多くの人々の意見にあるように、その愛は女優エレオノーラ・ドゥーゼの美点を隠してしまうようなものだから。後と言っても9年後のことである。ダンヌンツィオとの最初の出会いのその頃、ドゥーゼはアッリーゴ・ボーイトに完全に心を奪われていたのだから。

本題に入ろう。エレオノーラはヴェネツィアで誕生したのではない。ヴィジェーヴァノに生まれた。しかしそれは偶然のことで、世界を巡業して回っている役者で、キオッジャ出身の両親からである。キオッジャで4歳の時、デビューした。ヴィクトル・ユゴーの『あゝ無情』の劇場版のコゼッタ役である。

キオッジャとヴェネツィアの感性的なアイデンティティを考えると、キオッジャ人とかヴェネツィア人とかいうことには、然したる違いはなく、誰も何も盗まれることはないし、エレオノーラ・ドゥーゼをヴェネツィア女として紹介しているようなものである。何度となくヴェネツィアに対する愛を言明しているから、結局それは、彼女のヴェネツィア性であって、養子だとか言えないが、正にそこが由って来る所である。

そして彼女はヴェネツィアに長らく住んだ(当然女優としてであり、巡業の合間の休息時である)。大運河のサン・ヴィーオとサルーテの間のサン・グレゴーリオ教区の古い館バルバロ館で、屋根最上階にオジーヴ式の大きな窓があり、そこから全市が見渡せた。
カ・ダーリオ旧聞に属するその年月の事を次のように語る人がいる。《エレオノーラは骨董的家具は僅かながら、夥しい絨毯で調度を整えていた。部屋に辿り着くまでの長い階段の脇には、緋色の織物が上から吊り下げられていた。》 館の所有者はロシア人の紳士で、アレクサンデル・ニコライエヴィチ・ムロンゾフ(Alexandre Nicolaievitch Mouronzov―あるいはヴォルコフVolkov)、更に詳しくは、サインする時のようにルソフ(Roussoff)という名の類稀なるインテリで、貴重なる絶品の収集家であり、大変仰々しいタイトルの本『批評の中での大まかな事』の著者で、彼女に甚大な影響を及ぼした。

そしてこの人物の興味のお蔭で、エレオノーラ・ドゥーゼはロシアへ最初の巡業をして、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット(Giulietta e Romeo)』で、1891年5月4日サンクトペテルブルグ(San Pietroburgo)のプティ・テアトル(小劇場)で大成功を収め、ベルリン(Berlino)やパリ(Parigi)への道を切り拓いた。 」 (2へ続く)

ニュースによりますと、イタリア、ラツィオ州リエーティ県アペニン山脈ラーガの山々の麓、特にアマトリーチェ近辺を中心に、24日未明マグニチュード6.2の大地震があり、大被害が発生した模様です。イタリア・ブログを書いている者として、現地の方々にお見舞いの意を表明致します。追記: 267人(8月26日)が亡くなられたそうです。お亡くなりになった方々に哀悼の意を表します。200名以上の方が瓦礫の中から救出されたそうです。更なる救出を願うばかりです。
  1. 2016/08/25(木) 00:02:14|
  2. | コメント:0

コルネール・デッラ・レジーナ館(2)

(続き)
「その交換として、カテリーナにアーゾロの領地が与えられた。洗練され、エレガントな小さな宮廷は芸術家や文学者らで活気付き、20年アーゾロを統治した。サロンと上流階級のパーティの女王は、イザベッラ・デーステやベアトリーチェ・スフォルツァの友人であった。カテリ-ナ・コルネールは作家やロマン主義的詩人を鼓舞した。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』アーゾロ案内 ベンボ像アーゾロの談論長い間、アーゾロ宮廷にピエートロ・ベンボが通った。彼は、女王と女王の宮廷を対話集『アーゾロの談論』の中で神話化した。[『アーゾロの談論(Gli Asolo di Messer Pietro Bembo)』(仲谷満壽美訳、ありな書房、2013年3月15日)]

カテリーナはしばしばヴェネツィアに戻り、大運河に建つ建物で豪華な歓迎会に招かれた。そこでは数々の結婚式が祝われた。その中には従妹のクェリーニ・グラデニーゴと、弟にパンドルフォがあり、リーミニ領の奪われた権力の相続人カルロ・マラテスタとの結婚があった。

女王は1510年、大運河の彼女の館で亡くなった。そして館は兄弟ジョルジョの手に渡った。

1700年代コルネール兄弟は、流行りのスタイルで自分達の住処を作り直すことに決めた。その案はドメーニコ・ロッシに委託され、建築は1724~28年続いた。内部もその時代の趣味で装飾され、前からあったフレスコ画は外され、代わりにジャンバッティスタ・ティエーポロにも任されたに違いない。

館は1800年までコルネール家の手にあった。最後の子孫カテリーノはその建物を教皇庁に譲ったが、ピウス(Pio)7世はアントナンジェロ(アントンアンジェロ)とマルカントーニオ・カヴァーニスの二人の司祭に贈り、二人は裕福でない階層の若者教育に邁進する信心会を設立した。

ヴェネツィア市は彼らからそれを贈られ、そこを公営質屋とした。1971年にはこの機関はメーストレに移され、館の所有はヴェネツィア信用金庫に移った。

実際にはヴェネツィア・ビエンナーレの管理下にあり、修復の期間を経て、ここに現代芸術歴史資料館が設置された。資料館には資料豊富な図書室と定期刊行物資料室以外に写真資料室もあり、そこには写真の複製品が保存され、1895年[第1回ビエンナーレの年]以来、全ての作品はビエンナーレで展示紹介されてきた。 」
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」カテリーナ・コルナーロについては、2013.03.23~2013.04.06日にカテリーナ・コルナーロ(1、2、3)で触れました。
  1. 2016/08/18(木) 00:05:00|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの建物: コルネール・デッラ・レジーナ館(1)

ブラガディーン・ファヴレット館を右へ進むと、右隣にコルネール・デッラ・レジーナ館があります。R. ルッソ著『ヴェネツィアの建物』は次のような話を書いています。
Corner_regina[サイトから借用] 「1454年、この館で有名なキプロスの女王カテリーナ・コルナーロ(ヴェ語Corner)が誕生した。リュジニャン家のジャック2世(GiacomoⅡ di Lusignano、フランス系王家)の妃であった。ジャック2世は王ジャン2世(GiovanniⅡ)の庶出の息子で、正当な相続人で、サヴォイア家のルイージの妻シャルロット(Carlotta)を蔑ろにして、キプロスの王冠を横取りしていた。権力を奪い返されることとトルコの攻撃を恐れていたので、セレニッスィマとの友好関係を強固にしたいと、ヴェネツィアで妻を探すことにした。

マルコ・コルネールには13歳の娘がいた。ルネサンス期の法規では、結婚可能年齢だった。直ぐに少女カテリーナの肖像画が送られた。言い伝えは言っている、王は肖像画を見るや、彼女にぞっこんとなったと。

こうして1468年7月31日、ヴェネツィアで代理の結婚式が盛大に祝われた。カテリーナは、彼女以前にどんな女にも与えられたことのない名誉である、セレニッスィマの娘として養子縁組され、国家は金貨100万ドゥカートの持参金作りに参加した。

4年後、王妃は壮麗な船列を従え、王国に向かった。ファマグスタ(Famagosta)大聖堂で、キプロス、エルサレム、アルメニアの王妃として戴冠した。しかし結婚は長続きしなかった。ザーコ王(リュジニャン[Lusignano]はフランス系なので、ジャック(Jacques)としてのザーコ[Zaco])は、1473年7月亡くなり、全てはカテリーナに遺され、彼女は息子を妊娠中だった。死の床の王は、リュジニャンの全遺産を彼女に託し、王国を統治するのは摂政団に助けられた彼女だった。

しかしその少し後、カテリーナはザーコ王の庶出の息子達に全権を譲るように要求する謀反人の手に落ちた。ヴェネツィアは時宜よく行動を起こしており、セレニッスィマの船団がキプロスに上陸し、謀反人達は逃亡した。

小さなジャック3世はその年、熱病で亡くなった。施政官と2人のヴェネツィア貴族に付き添われ、女王は今や、完全に象徴的な存在であり、1487年元老院はヴェネツィア領にキプロスを併合することを決め、カテリーナを退位させた。」 (2へ続く)
  1. 2016/08/11(木) 00:01:45|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの伝説: ノーヴェ海岸通りの7人の魔女(3)

(続き)
「一番若い魔女が一人残って、ニコロは言い訳がましく声を掛けながら彼女に近付いた。彼女は理解が早く、直ぐ様この若い運搬人が何を望んでいるか、悟るが否や、満面に笑みを浮かべ、熱烈な一目惚れに陥ったのだった。即座に愛を告白して二人は結婚した。
フォンダメンタ・ノーヴェ海岸アノニムス[左、フォンダメンタ・ノーヴェ海岸地図、北対岸に墓の島サン・ミケーレ。右、画家不明『1708年のノーヴェ海岸の凍結』]  新郎新婦の間には、“平穏な”結婚生活は長くは続かず、娘は次第に激しくニコロを夜の外出に誘い、友達らとオステリーア(食事処)に繰り出し、明るい月光の下、気晴らしにニコロを夜の散歩に連れ出した。

彼に対してこんなに思いやりのある妻に出会って最初は幸福だった。更にはこうしたニコロに対する変わらぬ思いはますますミステリアスな色合いを帯び始めた。《恋人でも出来たのか? 彼女と一緒に居たい夜に、僕を外に連れ出すのは何故?》。

ある夜、12月24日の金曜日という、魔女には特別の日、食卓に釘付けになって、梃でも動こうとしなかった。《僕は外には行かないよ。家に居るよ。君がする事を見ていたい!》 何か心配になった若い魔女は彼を言い包めようとしたけれど、丸で功を奏しなかった。ニコロは頑として動こうとしなかった。

その時魔女の娘が言った。《いいわ、私がやってる事知りたいなら、一緒に来て頂戴。この呪文を一緒に唱えて〝Corpo de su, corpo de zo(体を上へ、体を下へ)″って、夜12時になった時、驚いては駄目よ。》 厳然たる静寂の中、鐘楼の鐘の音が12ヶ鳴るのを待った。12番目の音が消えようとした時、ユニゾンで唱和した。《体を上へ、体を下へ》。

と、突如、壮麗な王宮の宴の大広間が現出した。そこには特に顔を仮面で包んだ、エレガントな素晴らしい装いの沢山の人々が集っていた。魅力的な音楽が辺り一面に鳴り響いていた。制服姿の小姓達が飲物やデザートを運び、皆は笑いさんざめき、幸せそうだった。

《でも、あの人、誰?》 ニコロが叫んだ。《テースタ・ドーロの薬屋さんだ、ほれ、ご覧、アヴォガドーロ弁護士さん、産婆のジョヴァンナさん、サン・サルヴァドールの仕立て屋さん、サン・ザッカリーアの修道女の看守さん、収入役のドルフィーンさん、ナヴァジェーロ船長だ。でもよく見ると皆悪魔や魔女だ。でも今まで誰かそんな事言った人いるんだろうか?》。

ニコロは驚愕のあまり口をアングリさせて、ホールの真ん中で棒立ちで佇んでいた。そこでは沢山のカップルが音楽の名手達の甘美な演奏に優雅に踊り回っていた。

その時、長身で洗練された、目も髪も黒々として、口と顎に長々とした鬚髯を蓄えた一人の紳士が彼に近付いてきた。快い芳香が漂い、特別の香気を発散させていた。強烈とも言える香だった。《ニコロ君、こちらへお出で。君と話がしたいんだ。》 その未知の人が言った。しかし彼は、それが誰なのか分かっていた。ベルゼブ(魔王)その人だった。

《君の奥さんは真の花ですよ。才能もあり、将来は大貴婦人となられますよ。で、君にはお望みなら、お教え出来ますよ。》 ニコロはその新しくやって来た人物を目を皿にして見詰めた。しかし彼の望んでいる事は、この悪魔が直ぐに立ち去ってくれることだった。《閣下、全く以って、閣下に対して私が何をなすべきか分かっていないのです。》 この荷物運搬人は言い逃れを言った。

《来なさい、ニコロ君、書斎まで付いて来なさい。金貨を一山差し上げよう。これさえあれば、君の花嫁に素晴らしい生活をプレゼント出来ますぞ。それにもっと幸福になれること、請け合いだ。》 金貨の山が舞い込んだ。そんな物、見た人いるのか? ニコロは考えた。でも僕に何を望んでるんだ?

《ニコロ君》 悪魔は続けた。《約束をこう決めよう、私は君にこの金貨を差し上げよう。》 こう言って上着のポケットからポケット一杯のお金を取り出し、人が腰を下ろしているソファーの前の低いテーブルの上にぶちまけた。《怖がらずに、君はこの契約書にサインして呉れたまえ。心配することは何もないよ。事は全て君の死後の事だから》。

それは悪魔がニコロの心を買い取るという恐ろしい契約だった。《嫌です。そんな事受けられません。あなたのような悪魔に魂を売るよりは、惨めな貧乏人として一生を全うする方がずっとましです。僕の愛しの魔女ちゃんは僕がするようにきっとします。何時も口にしているように僕を愛しているなら、この生活に直ぐ慣れますよ。》 こう言うと呪文を順序逆に唱えた。《体を下へ、体を上へ》 その瞬間、自分の家の台所に居た、傍らに若い妻を従えて。

二人は抱き合い、永遠の愛を誓った。ニコロは忘れる事なく、次の日のクリスマスの日、サン・トロヴァーゾ教区の司祭で有名な祓魔師の所に行って、あった事全てを話した。その時司祭は、その若い女を邪悪から解放するには悪魔祓いの呪文で事を行う必要があると言った。魔女の魂を持つ女を解放するには、あるいはニコロがもしそうしたいなら、その魂の分離の瞬間、彼でもやることが可能だ、と。

ニコロは若妻が眠りに落ちる時を待たねばならなかったことだろう。口からか鼻からか毒虫が飛び出すまで、徹夜で彼女に付き添って、分離の瞬間があった。その時魔女は黒蠅となって死んだような少女の魂の抜け殻から飛び出した。その時ニコロは黒蠅が2度と戻らないように、娘の鼻の孔と喉を蠟で蓋をしなければならなかった。夜明けの太陽の曙光と共に娘はデーモンから完全に解放され、新生の命と共に目覚めた。

ニコロはこんな風にやったのだった。新郎新婦は苦楽を共にして自分達の明るい人生を歩んだ。娘は名前を変えたいと、聖処女のようにマリーアと呼ばれることになった(いかなる悪魔も神の母の聖名を持つ女には対抗出来ない)。そして全ヴェネツィアの中で最も善良で賢明なる女となったのだった。」 (終り)
  1. 2016/08/04(木) 00:04:53|
  2. ヴェネツィアの伝説
  3. | コメント:0

『ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』展

国立新美術館で開催中(07.13~10.10日)の、ヴェネツィア・アッカデーミア美術館所蔵の絵画展に行ってきました。来日した中で、最大の絵は、ティツィアーノの晩年の傑作と言われている『受胎告知』でした。リアルト橋傍のサン・サルヴァトーレ(S. Salvador)教会の右壁面の角にあり、何度か見ましたが、いつも暗く、今回は明るい照明の中、細部の色合いまで視認堪能出来ました。この教会には祭壇左上に、カルパッチョ作品と言われたこともある『エメイウスでの晩餐』(現在は同定せず)もあります。
アカデミア展1裏1
アカデミア展2パンフ裏2アッカデーミア展 パンフレットアカデミア展図録[左、チラシ、右、図録] 私は初めてヴェネツィアの語学校に通った時、借りたアパートが 《モチェニーゴ・ヴェッキア館》 だったので、“モチェニーゴ”と聞くと反応してしまいます。来日したヤーコポ・ティントレット画 『アルヴィーゼ・モチェニーゴの像』(1世、1570~77―下図)を掲げてみます。今回展示を見て回りながら感じた事は、作品達に初めての出会った感じがしなかったことです。3回はアッカデーミアに入館しているせいか、名状しがたい懐かしさのような感を抱いてしまいました。
アルヴィーゼ・モチェニーゴ像 ドメーニコ・ティントレット[右、ドメーニコ・ティントレット画『キリストの復活』] 先日伊東マンショを描いたティントレットの次男ドメーニコ・ティントレットについて書きましたが、今回彼の描いた肖像画ではない作品を見て、親に引けを取らないと感じました。
講演講演2実は展示物を見る前に、陣内秀信先生の 『水を現代的に生かすヴェネツィアの都市づくり』 という講演を聞きました。専門的な中身に、先生一流の楽しいヴェネツィア話が盛り込まれ、またヴェネツィア観光に出かけたい思いに取り付かれながら、絵画鑑賞の心構えが整ったのでした。

つい先日もNHKのイタリア街歩き撮影番組のベストを放映していましたが、またこのイタリア特集でヴェネツィアがベスト・ワンに輝き、私自身、大いにその思いを煽られて、ここにUPするためのヴェネツィア話のネタ探しに励まねばと思っているところです。
旧、鉄製アッカデーミア橋元インクラービリ養育院[左、アッカデーミア美術館(古い絵葉書)、右、アッカデーミア美術学校新在所] 2010.04.24日に、ナポレオンの意向もあって宗教施設がアッカデーミア美術学校とアッカデーミア美術館になったその前史について触れました。近年、その時以来あったアッカデーミア美術学校がザッテレ海岸通りにあったインクラービリ養育院跡に本拠地を移し、その空いた空間を美術館に模様替えするために、長い間修復のテントを被っていました。以前と展示方法が相当異なったことでしょう。
  1. 2016/07/31(日) 00:03:34|
  2. ヴェネツィアに関する展覧会
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの伝説: ノーヴェ海岸通りの7人の魔女(2)

初期化してPCが直りました。 ウインドウズ10にUPしたのが原因かも知れません。――[続き]を続行します。

「幾晩かサンピエロータの船首の隙間に蹲り、帆と横静索の下に身を潜め、魔女の到来を待っていた。4晩の間、彼の待機は虚しく、5番目の夜、あの妖術使いの一団が乗船して来た。畏怖に囚われ、動かないようにしても、ニコロは恐懼に打ち震え、小さく小さくなっていた。

舵取りの魔女が例の決まり文句を唱えた。《一番手開始、二番手開始、三番手開始……》 と、七番手まで進んだ。しかし今回は舟は動かず、飛翔しなかった。《どうして?》 舵を握る老魔女が叫んだ。《何故、この(sta)阿呆な舟は動かないの?》 ニコロは震え始めた。今、多分魔女達は中を覗き込んで彼を見付けるかも知れない。しかし幸運なことに舵手はどうでもいい事を話し始めた。

そして《一番手開始、二番手開始、三番手開始……》 と、今回は八番手までいった。八番目で舟は動き始め、舵を握る老魔女は次のように付け加えた。《私は考えたんだよ、畜生女めが、お前達の誰かが妊娠したんだよ、誰にも分らんが……》 皆は笑って、お互いを探るように見、誰が身重なのか知ろうとした。そして人間が聞いたこともないような悍ましい言葉で、止めどなくお喋りを始めた。

舟は船首を南に取り、静かにスピードを上げ、飛んで行った。こんなに素晴らしい運行はかつてなかった。目的地に到着するのに約2時間だった。その時魔女達は、色々の形や大きさの船が一杯繋がれた大きな開廊の、船を隠すように守られた場所に舟を舫って、直ぐ様舟を降りた。

その時点でニコロは勇を鼓して隠れ処から出ると、周辺を見回した。そこはオリエントの大きな町の港だったが、どこだろう? 彼も舟から下りると身を潜めて土の固められた広い道を進んだ。よろよろ歩く2人の見知らぬ人とすれ違い、ここはどこか訊いた。しかし2人は返答もしなかった。

その時再度、周りを見ると、一つの教会に気が付いた。何度も聞いていた話のお陰で、サン・マルコの教会のように理解され、結局それがどこか分かった。何と、何と、そこはエジプトのアレクサンドリアだった。
棗椰子[棗椰子、サイトから借用] その時近くにあったナツメヤシから実の付いた小枝をちぎり取って上着の下に隠した。それから急いで元の道を引き返し、サンピエロータに乗って帆の下にうまく隠れ、7人の魔女の帰りを待った。待つも程なくして女達はお喋りしながら笑いこけて帰って来た。もしかしたらそれは魔女達の安息日の宴のようなものであったのか、あるいは悪魔達と何か約束でも交わしていたのか。

舟に乗り、自分の場所に腰を下ろすと、仲間を率いる老魔女が例の呪文を唱え始めた。《一番手開始、二番手開始、三番手開始……八番手開始》 そして高らかな声で嘲笑いながら付け加えた。《あんた達、猥らな女が一人、子供を孕んだんだ。》

約1時間半の飛行で、サン・マルコ広場の大鐘楼が直ぐに突然現れた。ヴェネツィアに帰還したのである。舟はフォンダメンタ・ノーヴェに停まって通常通り繋がれた。魔女達は下船すると立ち去った。

ニコロも降りると、この旅の戦利品、今までこの町では未見で、新鮮な未熟の棗椰子の小枝を握り締めた。それは彼の驚天動地の旅を証明する証だった。こうして皆彼の話を信じた。神父は彼の舟を聖水で清めに行き、以来魔女には使われることはなかった。

ブラーノ島では同じような話が伝わっており、詳細には異同があるが、本質は同じである。舟は輸送の人の物ではなく、漁師の物であり、当然ブラーノ島に係留された。魔女の数も7人ではなく12人である。飛行の呪文も、当然13番まで数え、飛行はエジプトのアレクサンドリアではなく、コンスタンティノープルである。この二つのもののオリジナルのヴァージョンはどういうものか、誰も正確には知り得ない。

あるヴァージョンによれば、この伝説から派生したものがあるかも知れないと言っておかねばならない。事実若いニコロは彼の舟を使った7人の魔女達の中に、ほっそりと元気溌溂した表情で、然るべき部位はちゃんとした曲線美を備えた、好感の持てる、一番若い魔女に気付いていたようである。こうしてエジプトのアレクサンドリアへの飛行後、帰還した夜、立ち去るのではなく、少し打ち解けた気持ちを抱いて魔女達に付いて行こうと決めた。」 (3に続く)
  1. 2016/07/27(水) 00:00:00|
  2. ヴェネツィアの伝説
  3. | コメント:0

レデントーレの花火大会

7月の第3土曜日の夜は恒例のレデントーレ祭礼前夜の花火大会でした。《La Nuova紙は次のような記事を載せています。
レデントーレ「 レデントーレ、夜空には2種の《三色旗》、そして静寂の中、ニースに対してヴェネツィアのオマージュ
――ニースの犠牲者追悼のため、予定は変更された。スペクタクルな花火、終わりには驚きがあった。夜空に描かれた〝ヴェネツィア″の文字、9万以上の観客と湾には1700艘の船。レガッタもあった――

イタリアとフランスの2つのトリコローレ(三色旗)が静寂の中、花火で夜空に描かれた。これは悲しみに沈む、国境のヴェンティミーリャからそんなに離れていない町、ニース(Nizza)の悲劇に対するヴェネツィア人の哀悼の意だった。そこでは人々は祭りのために海岸に集まっていた。花火のスペクタクルに集まった人々の所に殺戮の狂気が炸裂した。

こうして連帯の思いが始まった。レデントーレを中止する事は、狂気とテロへ敗北を意味するだろう。昨夜深夜前、花火は4分半中断された。夜空の〝三色旗″は、静寂の1分間花開いた。再開後、大喝采が起った。……」

ダッカでのテロで、伊人9人、日本人7人が殺され、ニースでは84人の犠牲者でした。islamici のテロリスト化していく層が拡大傾向が見える現在、かつてヴェネツィア共和国が islamici との戦いで、降伏すれば助けるの約束を破られ皆殺しに遭った歴史が幾つかあります。ヴェネツィア人は彼らを信頼していないでしょう、この祭り1日前からリベルタ橋前で大検問が敷かれ、警備に万全を期そうとする姿勢がヌオーヴァ紙からも感じられました。大群衆の中で爆弾を抱え、自爆ということも考えられます。無事に終わり meno male でした。

この祭りについての謂れ等については、2011.03.05日の年中行事(8)で触れました。
  1. 2016/07/17(日) 22:38:30|
  2. ヴェネツィアの行事
  3. | コメント:1

ヴェネツィアの伝説: ノーヴェ海岸通りの7人の魔女(1)

以前ヴェネツィアには幽霊話が似つかわしいと、そんな伝説を幾つか書きました。今回は魔女のお話です。M. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話伝説』(Newton Compton editori、2007.10)から次のお話をどうぞ。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』「伝説が伝えているのは、カンナレージョ区のフォンダメンテ・ノーヴェに沿って、かつて7m以上もあるラテン帆を張った素晴らしいサンピエロータという美しい舟を繋いでいると、誰かが繋舷した場所を移動させてしまうというような事がよくあったということである。ということは、舟が舫っている時は特に監視の目を光らせていた(それはヴェネツィアの古い俚諺 barca neta no vadagna――もし舟が綺麗に清掃してあれば、最近漁に出ていないから櫂は水に浸かっていない、の意――を無視してのことである)。

《サンピエロータ舟: 独特の型の舟でこう呼ばれ、たっぷり6~7mの大きさと変化があり、誕生したのもペッレストリーナ海岸のサン・ピエーロ・イン・ヴォルタ地区が起源である。ラグーナの古い舟の中でも比較的最近の物で、19世紀から作られるようになった。櫂かラテン帆で運行され、典型的な形をしている(元々起源であった流線型のサンドロ舟(sandolo)に比べて胴が膨らみ、幅広になっている)。ラグーナでのちょっとした漁のために生まれたもので、波が荒れる度に左右され、港の入口に避難する。》(囲み記事より)
sanpierotasanpierota%20Venezia[サイトから借用]  [ウィキペディアで説明を補強しますと、《ヴェーネタ潟伝統の木製平底、潟での漁用としての起源の舟。舳、艫に漕ぎ手2人、あるいは艫の1本櫂、又はヴァレザーナと言う2本櫂漕、あるいは外部にモーター付き、あるいはラテン帆で進む。帆は主墻に掲げるスパンカー(主帆)とマスト上に飾り帆を着ける、か、舳の板の上の帆柱にフォアスル帆で形成される。サンドロ舟の進化形で、そのラインはトーパ舟(topa)のようで、舟身も似て短く幅広で浅い。波を受ける舳は高く、広い。製造もトーパ舟に似て簡単、舟体は火で形の湾曲を求めることなく、板の柔軟性をそのまま生かしている。》]

舟はよく磨かれた板で蓋がされ、舷側は青と赤で色が施され、最大帆のスパンカーは黄色地に赤と黒の罫線が入り、最小帆のフォアスルは白と橙色である。結局、運河というものは譬え大きいものでなくとも見たくなるものであるし、特に風が横風で強く、小止みなく吹いた時など、帆で〝手綱を引き締め、トロットで進む″ことが出来る。
ブリコラ頁サンピエロータはニコロの情熱そのものであり、運び屋と呼ばれ、彼にはこの舟ほど価値あるものは何もなかったから、殆ど熱狂的な思いで舟を扱った。だから所有者(paron)ニコロにとって、ある朝、夜間知らない内に誰かがそれを使ったと気付いた時、それは彼にとって青天の霹靂だったというのは驚くに当たらない。傷が付いたとか汚れたとかではなく、パリーナ(palina=運河に立つ1本棒の繋舟用の杭、一方bricola(ブリコーラ)は数本セットの潟の航路標識用の杭)に舟を繋ぐ繋舟用の索の結束法が、彼が常々やっている方法とは異なっていた。

ところで何が起こったのか? 明確な解答には至らなかった。それだけではなく、何度も毎週終わり驚くべき事が繰り返された。酷過ぎた! そしてニコロは今や調べる時と思い、こんな悪ふざけの張本人を現行犯逮捕しようと決めた。如何にして? 近くの隠れ家に潜んでいるだろう者を上手く見つけ出す方法も、このならず者を現場で捕獲する方法も思い浮かばなかった。

長い間待った。深夜の鐘の時、何かが起こった。襤褸を着て、汚らしい女が7人、海岸通りをお喋りしながら、下品に笑い転げ、舟を舫った桟橋に近付いていった。一人ずつ大袈裟にサンピエロータに飛び乗った。6人は3人ずつ大鍋のような台に腰を下ろし、一番長老と思しき7番目の老女が艫に座り、舵を掴んだ。

マストロ・ニコロは誰か悪党に出遭ってもどうしていいか分からなかったし、7人の女に遭うなど思いも寄らなかったので、混乱のあまり、自分の正体がばれるのを恐れて、この際自分のなすべき事は何だろうと思っていた。

その間、舟上では2人の女が舟の舫いを紐解こうとしており、舵を握る長老が呪文を唱え始めた。それは《一番手開始、二番手開始、三番手開始……》 そして《七番手開始》 で終わった。その時舟は船脚を進め始め、宙空に持ち上がり、南の方向に軸足を向けた。

《何て事だ! この女達、魔女だ!》 ニコロは呆然と恐れ慄いて思った。《神様、この邪悪な者からお守り下さい》 そう言いながら十字を切った。恐ろしさのあまり、一晩中倉庫に隠れていたが、夜明け前、舟は飛んで行き、彼の桟橋には戻って来なかった。

その後戻って来ると、魔女達は宙空から下りてじゃれ笑いしながらお互いの肩を叩き合って、海岸通りを慌ただしく遠ざかって行った。

あぁ、哀れなニコロ! お前は何をなすべきか? 何が口に出して言えるか? 誰にこんな驚くべき体験を話せるか? 誰も信じないに違いない、皆は彼が気が違ったと思うだろう。事実こんな風に事は起ったのだ! 彼が見た夜間の体験を語った人全ては、彼の顔を見て嘲笑したのであり、教区の警官や神父達は彼を不憫に思った。

しかし事はそれだけでは済まなかった。魔女の一団もあの彼の美しい舟を勝手に使うことを許さなかったので、あの7人の魔女がどこへ行くのか探るために、勇を鼓して舟の中に隠れてみることにした。……」 (2へ続く)
  1. 2016/07/14(木) 00:03:13|
  2. ヴェネツィアの伝説
  3. | コメント:0

詩人、吉増剛造さん

その年、語学学校ヴェネツィア学院に通学していた時、私のクラスにはチリ、アゼルバイジャン、トルコ、モロッコ、スペイン、オランダ、ドイツ、日本の老若男女が学んでいました。国籍が種々だった故か、その日の授業は何の話からそうなったか記憶にありませんが、ニコ先生は自分の国の詩人の名前を挙げるように求めました。

私の隣に座っていたチリ出身のアナがネルーダと言ったのだけは記憶にあります(彼女はご亭主がマルゲーラで仕事、メーストレ奥のMiranoに住み、伊語習得。私と馬が合いました)。《Neruda》はチリ人なのだと初めて知りました。私は《Gozo Yoshimasu》と答え、伊語での彼の説明に苦慮しました。

何故この名前を発声したのでしょうか。詩人の名前は沢山あります。私の住む町内には、夭折した立原道造の弟さん夫妻がいて、後ろ姿など何度かお見掛けしており、彼の詩集も時たま覗いたりしていましたから、立原道造には愛着があったので、東大裏の《道造記念館》には2度は行っているのですが。
草書で書かれた、川私の好きな詩集『草書で書かれた、川 吉増剛造詩集』(思潮社、一九七七年七月一日)の中の一節に《「ゴーゾーさん」 不思議な声が木魂している》(『窓辺にて』より)とありますので、以後は「ゴーゾーさん」と書かせて頂きますが、多摩川、高麗川が歌われ、私の住む八王子、そこを貫流する浅川や、また福生が歌われます。
黄金詩編静かな場所『静かな場所』(書肆山田、一九八一年四月二五日)という紀行書に次のような一文が。
「現代アメリカの生活のなかの音をとらえようとするのだが、なかなかむつかしい。まず考えつくのは、これは日本でもそうだがクルマの走る音、そしてテレビ、ラジオの音だ。いつかめずらしい静寂のなかにいるなとおもったことがある。数年前に訪れた水の都ヴェニス。当りまえのことだが、水路が主な交通手段だから、クルマのはっとする音が聞こえない。そして、クルマがここには入ってこられないのだと考えると、不思議と落着きを覚える。……」

「ゴーゾーさん」は都内の阿佐ヶ谷で誕生され、以後、都下の基地の町〝福生″で成長されたそうです。私は八王子に住む前、福生の多摩川沿いの福生団地で生活しました。福生では、アメリカン・グッズの店から、「ゴーゾーさん」の実家前、多摩川岸へとよく歩き回りました。そうした風景が『草書で書かれた、川』を読む度に、眼前します。
マリリアのパフォーマンス盤上の海、詩の宇宙奥さんのマリリアさんと「ゴーゾーさん」トークによるコラボレーションによるパフォーマンス、またTVで見た、天才棋士羽生善治さんとの対談は録画して何回か見ました。そして羽生善治・吉増剛造対談集『盤上の海、詩の宇宙』(荒木経惟写真、河出書房新社、一九九七年八月二〇日)が出版されました。激しく刺激を頂きました。
剛造展パンフ表剛造展パン裏表声のま 図録[右、図録カバー] そんな訳で、『声ノマ 全身詩人、吉増剛造展』(2016.06.07~2016.08.07、東京国立近代美術館)を見にいって来ました。疾走してきた詩人の言葉は爆裂し、爆裂し、爆裂し、その飛散した片言、片言、片言を拾い集め、私なりの構築をしたいと思ったことでした。美術館売店に寄ると「ゴーゾーさん」のコーナーに詩集『怪物君』を始め、関連の書籍が爆発していました。その中の1冊『我が詩的自伝』(講談社現代新書、二〇一六年四月二〇日)は、「ゴーゾーさん」のユーモアに満ち溢れ、大変楽しい本でした(下、何方でも楽しめる新書版[カバー]です)。
オシリス、石の神我が詩的自伝gozoCine`を見ながら、「ゴーゾーさん」の詩の謡いによる《詩能》を思っていました。
  1. 2016/07/07(木) 00:15:29|
  2. | コメント:0
次のページ

カウンタ

カレンダー

07 | 2016/08 | 09
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア