イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(20)

(続き)
「教会の大門を後にして、マドンナ小広場へ行き、最奥を左へ曲がり、フェルツィ河岸通りを鉄の橋まで行く。橋は登ってみるだけで越さない。更に左へ行き、ボテーラ[Botera=Bottaio(伊語、樽職人)]小広場を見付けよう。しかしヴェネツィアの公式名でなく、ここを訪れ思い出す方が楽しい。ウーゴ・プラットのファンタジーと有名な所謂“スコンタ・デッタ・アルカーナ小広場”にその時居るということで、そこから、ツァー(ロシア皇帝)の失われた驚くべき宝物や革新的モンゴル、素晴らしき王妃達、残酷無残の好戦的支配者達についてのマルコ・ポーロのお話、コルト・マルテーゼ風の中国とシベリアの素晴らしい冒険旅行を始めるのである。
[Corte Sconta detta Arcanaとは、Hugo Pratt著のマンガ・シリーズ”Corto Maltese”の中の『ヴェネツィア物語』(Favola di Venezia)中で名付けた《神秘と呼ばれる隠されたコルテ》のこと。]

ここには魅惑的な調和で12世紀以来の建築的要素が入り混じっている。コルトがその時代を知ろうとした時、目前の壁面に日時計(長時間)を見たのだった。隠れた小さなオアシスが我々を魅了し、町の何と美しい一角であるか思い出させ、今や目にする事が可能だったはずのことは閉ざされている。……

この不思議な一角を後にして、河岸通りに戻り、最初の通りを左へ行こう(ヴェニエーラ小広場)。そして再度広場へ戻り、右へ曲がり、ザニポーロ大通りを行く。この通りには居酒屋アル・バローンがある。老いたカード師達の屯する所である。左手には先ほど述べた教会の後陣が見える。古い資料によれば、ここには弓や石弓の練習用の的が以前からあって、少年コルト・マルテーゼにとって普通に親しんだ地域だったことを付け加えておきたい。
オスペダレット教会[オスペダレット教会、サイトから借用]  右には仏語書の書店がウーゴ・プラットに向けて小さなショーウインドーを向けていた。左にはバルダッサーレ・ロンゲーナのオスペダレット教会の、巨人と怪人の彫像のバロック様式のファサードが迫ってくる。“バルバリーア・デ・レ・トーレ”通りへ向かう。この名前はここに材木倉庫があったことを思い出させる。トーレ(tole)とはtavole(板)のこと。
ヴェネツィア地図[サン・ザニポーロ大通りに続くバルバリーア・デ・レ・トーレ通り左の6673番地の4階と屋根裏部屋に、カザノーヴァが恋人フランチェスカ・ブスキーニと、ヴェネツィアに帰郷した後年1782年9月まで住みました。これが彼のヴェネツィア最後の滞在です。]
この名前全体は、多分この板がベルベル人向けの物であったという事実に基づくか、あるいはここで板の毛羽が削られた、即ち鉋で削られたということかも知れない。1000年頃の史料が存在する。ギリシアの皇帝が、ヴェネツィアの材木とサラセンの鉄の交易に対して文句を付けているのである。

ここ左手に食堂“バンディエレッテ”がある。仮面に興味があるなら、この遂先の左に随一のものがある。そして最も熱心な工房であり、20年ほど前、古い型を見付け出し、古典的でファンタスティックなタイプの仮面を作り始めた。そして町に影響を与え、急速に支持者を集めて、大中小、各種の仮面には巨大な物まで作る店まで現れて、そんな仮面屋のない通りはヴェネツィアにはないというほどまでになった。この店の右の古い浮彫に気付いて欲しい。これはライオン穴に投げ込まれたダニエーレ(5世紀の浮彫)を表している。
[旧約聖書のダニエル書にある、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルの話から。essere nella fossa dei leoni(虎穴に入る)。ダニエルは無事に救い出されます。]

もし仮面に興味が湧かないなら、その代り通りが狭くなるが右へ曲がり、ムアッゾ通りからムアッゾ小広場まで行こう。そこにはゲットの建物同様に町でも最も高い建物があり、その一家の建物(17世紀)は一種の摩天楼のように聳えている。11世紀のビザンティン式の美しい柱頭が見られる。

軒下通りを抜け、橋を越え、カッペッロ家の1500年代の美しい館側を行く。この館は現在時にコンサートに使われる。右の狭いサン・ジョヴァンニ・ラテラーノ河岸通りへ曲がり、狭い通りを進んで、更に先の折れ曲がった同名の河岸通り名が終わる所で、左のテッタ通りへ曲がり、同名の橋を越す。左手に格安の宿泊所となっているヴァルデージ館がある。

右へ曲がると、ロンガ・サンタ・マリーア・フォルモーザ通りである。この通りに双子のような場所、“アル・マスカロン”と“ラ・マスケレータ”がある。時には“マスカロン”で一休みして、料理を待つのもいい。流行りの店の一つなので、前もって予約をした方がベターである。

食事を楽しみ、美味しいワインで気分一新して、ヴェネツィアでも大広場の一つである広場まで通りを進もう。サンタ・マリーア・フォルモーザ教会があり、素晴らしい鐘楼は丸でお菓子職人の細工のようである。」 (21に続く)
[サンタ・マリーア・フォルモーザ広場については、2010.09.18日のヴェローニカ・フランコに図版資料があります。]
  1. 2017/04/27(木) 00:04:28|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(19)

(続き)
「左の素晴らしいファサードは、サン・マルコ大同信会館のものである。現在は市民病院である。
[連れ合いは語学学校通学時代、突然目が充血して真っ赤になり、ここで色々診察やら検査をして貰ったことがありました。結局何が原因だったか、分からず仕舞いに終わったのですが、ヴェネツィアに滞在する旅行者は無料だということで、あり難いことでした。面白かったのは、院内にはバールがあって、ワインも楽しめるということで、日本とは丸で発想が違っています。]

総督ニコロ・マルチェッロのモニュメントも総督アンドレーア・ヴェンドラミーンのドキュメント(1493年)同様に、ピエートロ・ロンバルドと彼の工房が息子トゥッリオの協力もあって製作した作品である。

ピエートロ・ロンバルドと二人の息子トゥッリオとアントーニオの建築で、建築家のGiov. di Ant. Buora(オステンソ生まれのジョヴァンニ・ブオーラ・ディ・アントーニオ―1450~1513)の協力を得た。その後上部の改装ではマーウロ・コドゥッチ、後背部の増築ではヤーコポ・サンソヴィーノの手が入った。

多色大理石や遠近法を思わす浅浮彫の手業は大いに称賛され、入口の側柱のだきに近付いてみると、1400年代より後の物と思われるが、帆船を引っ掻いて描いた跡がある。それは詳しく言えばサン・マルコ寺院の第2大門の柱に描かれて見ることが出来るものであり、コルト・マルテーゼが非常に愛したもので、親しい人には必ず伝えていた。

(残念ながらこれらの引っ掻き絵は、現在では修復工事、もう少しラディカルに言えば、市の浄化作業の中で殆ど全て姿を消した。石という物の見方、また扱い方というものは何時見直しが始まるのだろうか)。

隣の壮麗な教会[サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会、ヴェ語ではサン・ザニポーロ教会]はドメニコ会士に属しており、1430年に献堂された。しかし約200年もの長きに渡って、僧達は御勤めをしてきた。ゴシック式とルネサンス式の間の1400年代建造の入口の大門は、その堂々たるファサードが完成にまで至らなかったということを告げている。使用されている大柱はトルチェッロ島から持ってきたもので、そちらは今は蛻の殻である。

外部には、9世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の盃と棺(1249年の総督ジャーコモ・ティエーポロと1275年の息子の総督ロレンツォ・ティエーポロの)があり、教会に入堂するというよりは、恰も大霊廟に入廟する感がある。ここには総督や優れた人達を祀る厚葬の壮麗なドキュメントがある。ピエートロ・ロンバルドの傑作は、多分総督ピエートロ・モチェニーゴ(1476年)のドキュメントであろう。しかしマルカントーニオ・ブラガディーンの名誉ある、素晴らしいドキュメントも見ることが出来る。
[マルカントーニオ・ブラガディーンについては、2016.06.23日のブログブラガディーンをご参照下さい。]

聖ウィンケンティウスに奉献された政治的なるものは、最初ヴィヴァリーニに、その後ベッリーニの作と同定されたが、全作品がリストアップされるまで長く掛かった。ここにある葬送の作品群は結局、セレニッスィマの眠れる歴史だということである。聖カテリーナ・ダ・シエーナの足下の少々不安になる聖遺物の事を思い出してみよう。

この格別の建築物の、素晴らしい多色のステンドグラスの向こうにあるのは、括目に値するヴェッロッキオのバルトロメーオ・コッレオーニの銅像という奇跡のような作品を、恰も我々のために準備して、思い出させようとするかのように広場中央に騎馬像があるということである。ヘルマン、ヘッセは彼の旅ノートの中で、町の繊細で音楽的な美と対照的な尊大な美というものについて語っている。
[H.ヘッセについては2014.02.05日のヘルマン・ヘッセ(1~3)をご参照下さい。] 

この素晴らしい馬の鋳造はマドンナ・デッロルト教会近くのある小広場で、アレッサンドロ・レオパルディの監督の下、行われたが、その小広場はそれ以後、コルテ・デル・カヴァッロ(馬小広場)と呼ばれることになった。この動物の乗馬利用が1500年頃殆ど姿を消したことに触れるのは楽しいことである。もっと言えばヴェネツィア人の馬の乗り手を嘲笑う機知ある詩句が存在するのである(この町の車の運転手に対しても同じようにそれがある)。
[修道女の車とヴェネツィア・ナンバーの車には、若葉マークの車のように近付くなと言われているそうです。]
コッレオーニコッレオーニはヴェネツィアが雇ったベルガモ人傭兵隊長だった。死に際して、多額の遺産を遺し、それ故彼はサン・マルコ広場に銅像が建てられることを望んだ。幸運な事にその意志は聞き届けられず、この広場が選ばれた。セレニッスィマはフィレンツェ人彫刻家アンドレーア・ヴェッロッキオに委託した。彼は型と蝋を用意したが、1428年突然の死に襲われ、製作半ばに終わった。その時点でヴェネツィア人鋳造家アレッサンドロ・レオパルディが後任となって仕事を終わらせ、非情に美しい台石を仕上げた。

この広場の魅力を楽しませようと、この広場にはずらりカッフェが並んでいて、我々に一休みするよう招いている。……」(20に続く)
  1. 2017/04/20(木) 00:07:01|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(18)

(続き)
「海岸通りを引き返し(この通りは1766年12月20日の大嵐で、殆ど壊れたのだが、完全に修復された)、ドナ橋の方へ向かおう。町のこの辺りは、色々な競技が楽しまれている。ラケット競技(テニス)、既に触れたサッカー競技、ボッチェ競技(ボウリングに似たベタンク)、劇場(最近小さいけれど素敵な物が開場した)があり、ある家等でトゥルッコ・ダ・テッラ(trucco da terra)が遊ばれた。

そして更に、多分サン・ミケーレ島墓地の整備(1808~26)のために、この辺りはロマンティックというか物寂しい雰囲気を帯びることになった。フリードリヒ・ニーチェが『曙光(伊語訳Aurora)』の執筆のために滞在したのは偶然のことではなかった。
[後で述べますテースタ通りの奥、海岸傍にベルレンディスという通りと小広場があり、6296番地にニーチェは部屋を借りたのではないか、とされています。この辺りはかつてサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場があった場所だったそうですが、私がテースタ通りにアパートを借りた頃は廃墟の感じでした。2010.03.20日のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場を参考までに。]

橋を越えて行くと、右手にドナ館がある。豊かな貴族の住居であり、内部には多数の芸術作品や家族の古文書的な資料が豊富である。入口の、レーパントの戦いに参加したガーレア・ドナの二つのランタン(ヴェ語Fanò―ランプ)は大変目立つ。左の船着き場からは、サン・ミケーレ島、ムラーノ島、マッゾルボ島、ブラーノ島、トルチェッロ島、ヴィニョーレ島、サンテラーズモ島へ船が通う。

ロマンティック精神にお勧めは、船に乗ってサン・ミケーレ島に行き、コルボー男爵、ディアギレフ、ストラヴィーンスキーの墓を訪ねることである。その待ち時間にカフェ・アルジュバジョに寄ってみよう。
[コルボー男爵については、2009.06.06日のウィリアム・ロルフを、ディアギレフ、ストラヴィーンスキーについては、2007.11.14日のサン・ミケーレ島をご覧下さい。尚ここに眠る日本人については、2012.06.16日の鷗外独逸日記を、墓地については2010.08.14日のサン・ミケーレ墓地をご覧下さい。]

サン・ミケーレ島は墓地に改変される前、カマルドリ会[聖ロムアルドゥスが1012年、アレッツォ山中カマルドリで開いたベネディクト一会派]の修道院で、セレニッシマ時代、重要な共和国の研究センターであった。島の探索は次回に回したければ、橋を渡り、最初の通りを右へ行くと道のどん詰まりに、ティツィアーノの家前の小広場を囲む壁の前に出る。

右へ曲がり、直ぐ左のピエタ通りへ入り、更に左へ曲がると、ティツィアーノ小広場に出る。ここにかの有名な画家が住んだ。この家は君主や王侯、各種芸術家を招いた(芸術家の中でも、ヤーコポ・サンソヴィーノやリアルトに住んだピエートロ・アレティーノはせっせと通った)。続いてここにコルト・マルテーゼが住んだ。公表された文書では彼はこの地区の事は語っていない。

この小さな小広場を後にすると、古い居酒屋“ラ・フォスカ”の傍に出る。この古い居酒屋のある、一風変わって楽しげな小広場と別れ、左の通りを最奥フーモ通りまで行く。そこで 右へ曲がりペストリーン小広場へ向かう。そこに二つの食堂が続いて現れる。2番目は“チェーア食堂”で深緑に覆われており、町でも最も美しい井桁(18世紀)がある。

左へ向かいステッラ広場とヴィドマン小広場を斜めに突っ切り、運河まで行く。左にアーケードがあり、右を見るとプラットが“ノスタルジーの橋”と呼んだ橋がある[パスクァリーゴ橋、orヴィドマン橋の事だろうか]。このアーケードの軒下通りを抜け、ずっと左を辿って行くと橋の袂に居酒屋“Da Alberto”がある。橋を越え、ラルガ・ジャチント・ガッリーナ通りを行くと長いテースタ通りと交差するが、テースタ通りにプラットの家族は住んだ(興味を持って忠実に、右へ行き、2本目を左へ行くとフォルノ通りとなり、左の最初の門が巨匠の家の入口だった)。
「ダ・アルベルト」バーカロ・アル・ポンテ[左、ダ・アルベルト、右、アル・ポンテ] 交差地点まで戻り、カヴァッロ橋へ向かうと橋の袂に、その誘惑から逃れようとしても、あなた方を待ち受けているのは、小さいけれど、大変愛想のいいバーカロ“アル・ポンテ”である。橋を越えると街で最も美しい広場[ヴェ語ではサン・ザニポーロ広場]の一つがある。左手にはサン・マルコ大同信会館があり、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会前には広場中央に、世界でも最も美しい、ヴェッロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』がある。
サン・マルコ同信会館コッレオーニ[左、サン・マルコ大同信会館、右、コッレオーニ騎馬像。語学校通学のためにテースタ通りにアパートを借りた時、このバーカロ“ダ・アルベルト”やカヴァッロ橋の袂の“アル・ポンテ”に通いました。またヴェネツィアの傭兵隊長コッレオーニは自分の財産を共和国に遺すに当たって、サン・マルコ広場に自分の銅像を建てて呉れるように言い残したそうですが、実際にはサン・マルコ大同信会館前だった訳です。]

美というものを目の当たりにすれば、芸術的宇宙を夢見させ、切磋琢磨させるのにその事が芸術家を手助けするというのは確かな事である。……銅像の背後にコルネール館に属していた16世紀の井戸がある。この素晴らしい広場はサン・マルコ広場同様、町を代表する場所であり、総督の各種の儀式、厳粛なる葬儀が挙行された。」 (19に続く)
  1. 2017/04/13(木) 00:07:37|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(17)

(続き)
「サン・カンチャーノ教会の脇を過ぎて、この広場を後にして、サン・カンチャーノ橋を渡り、右へ。“デ・ラ・カゾーン”のソットポルティコを左へ、このcasonの名称は監獄を意味し、この辺りは出獄者が住んだ地域であった(それ程重罪でなかった犯罪者達の溜まった場所だった)。

左へ行き、直ぐ右へヴァルマラーナ通りの方へ、そして更に右へ進むと狭い迷宮状となり、そこはそこで行われていた活動を思い出させる職業名の人達がいた場所で、最初、ポスタ(郵便)・フィオレンティーナ通りと呼ばれ、後、ポスタ・フィアンドラ(フランドル)通りと呼ばれた。ここは外国郵便物の事務所、正確にはフィレンツェ郵便物の宿があった場所であり、15世紀から神聖ローマ帝国の郵便業務をやっていたトゥルンとタクシス(Thurn Und Taxis)家の住居と事務所があった。

ヴェネツィアの郵便はリアルトのベッカリーエ(Beccarie)通りに事務所があり、そこは現在“アッレ・ポステ・ヴェーチェ(Alle Poste Vece―古い郵便の意)”というレストランであるが、続いてサン・モイゼのバロッズィ小広場に越した。
ポスト・ヴェーチェポスト・ヴェーチェ内部[左、ポステ・ヴェチェ、リアルト・ペスケリーアの入口、右、その内部。ポステ・ヴェーチェは現在はレストランだけでなく、上の階がホテルになっています。]

ヴェネツィアは1500年代から既にコンスタンティノープルと月一で郵便業務が組織されており、市内も外国とも郵便活動は行われていた。ラ・ポスタ・デ・フィアンドラ通りの端の方で、ヴァルマラーナ小広場(=古ヴィチーン・カ・バローン・タクシス小広場)に向いた館と繋がる大きな二つの門が塗り込められて壁面となったのが興味深い。

この二つの大門を後にして、先へ進もう。左へ曲がりフォルノ通りからバルバ・フルタリオール埋立通りへ出る。左へ曲がり、我々の右の八百屋さんの屋台の向こう右をスペツィエール通りへ曲がろう。サルトーリ橋を越え(もしお望みならば海岸通りを左へ曲がると20メートル程行った建物の壁にサルトーリ病院の大理石の美しい浮彫り(1511年)がある)、直進方向セリマーン大通りを行き、橋を越えるとジェズイーティ(イエズス会の意)広場である。

我々の左手にはゼーン館が建っている。ヴェネツィアの有名なその名前から、14世紀の有名な船乗りの名前が思い起こされる。海の隊長カルロはキオッジャ戦争の時の英雄であり、ニコロとアントーニオの2人の兄弟は自分の費用で軍艦を作り、現在カナダのニューファンドランドのラブラドールと呼ばれているドロジェーオ(Drogeo)を発見した(1390年――コロンブスのサン・サルバドル島発見は1492年)。館はフランチェスコ・ゼーンの案で建てられたが、ファサードがヤーコポ・ティントレットとアンドレーア・スキアヴォーネのフレスコ画で全面を覆われたことが思い出される。

左に見える、4本の特徴的な煙突を備えた一角には、13世紀のクロチーフェリ(慈善宗教団体)の古い病院とオラトリオ(小礼拝堂)があった。一方右の区域には修道院と教会があり、クロチーフェリの聖マリアに捧げたものであった。

Ospedalieri(マルタ騎士団の事)という当時の騎士修道会は、巡礼者を助けることを決めており、教皇庁と多くの慈善家の援助の下、全ヨーロッパに約200の病院を作った。クロチーフェリの元の教会は建て直され、1729年バロック様式で完成した。

内部はタペストリー風を見せる嵌め木細工のような大理石の素晴らしい仕上がりで、天井は一面、金箔のスタッコ細工で飾られ、色々な作品の中には、クロチーフェリの歴史に関わる、パルマ・イル・ジョーヴァネの絵画以外に、美しいがあまり知られていないティツィアーノの作品『聖ラウレンティウスの殉教』がある。

15世紀以来女性用の慈善院(現在も存続する)に変更されていた、4本の煙突のある病院の内部には、有名な物として、修道会の歴史に関わる、パルマ・イル・ジョーヴァネの絵画シリーズのあるオラトリオがある。クロチーフェリの教会内部には、皇帝(Basilio/Basileus)から贈られた聖バルバラ(ニコメディア[トルコ北西イズミット]の聖処女)の遺骸が収められている。この聖遺物のためにクロチーフェリは長い間、総督ピエーロ・オルセーオロ2世から贈られた幾つかの聖女の遺体を保有してきたトルチェッロの修道女達と争った。
[聖バルバラについては、2011.04.02日のヴェネツィア年中行事をご覧下さい。]

ボールで練習に励むサッカー場の奥に、ムラーノ島やサン・ミケーレ島を含むラグーナ北が見える。フォンダメンタ・ヌオーヴェに出よう。このフォンダメンタ(海岸通り)は1589年頃作られた。1546年の元老院の決定によれば、サンタ・ジュスティーナからサンタルヴィーゼまで行けるはずであったが、結局はサッカ・デッラ・ミゼリコルディアで止まってしまった。

反対側は、現在そこで行き止まりなのだが、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャとを結ぶ橋(1820年壊れた)があった。先を急がないなら、海岸通りを左へ行ける所まで行くと、正面にCasino degli Spiritiが見える。 ……」 (18へ続く)

Casin degli Spiriti については20.11.12日のコンタリーニ・ダル・ザッフォ(1、2)をご覧下さい。                                                                                 
  1. 2017/04/06(木) 00:05:16|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの観光客

4月1日の読売新聞に次のような記事が出ていました。「世界遺産《観光客多すぎ》――イタリア 環境や景観 影響深刻」と。ヴェネツィアにあまりにも多くの観光客が訪れるので、町が駄目になって終うかもしれないと、現地の人も危惧を抱いています。私自身もそんな危惧を抱かせる、その他大勢の観光客の一人です。

文面に「……ベネチア市統計局によると、2004年に同市中心部を訪れた観光客は約175万人だったのが、14年は約260万人と5割増に。これは市の人口(26万5000人―何年の人口か記載なし)の約10倍にあたる。……」とあります。

何年も前、鞄を買った鞄屋の小父さんは、観光客が多過ぎて問題だ、と吐き捨てるように言っていましたが、親切にヴェネツィアの事を教えてくれました。そう言いながら、今度はいつ来ると、リピートの要求でした。2年後のカーニヴァルに行った時は、町が人で溢れ、ファッブリ通りでは動けない状態になり、あっちへ行く流れとあっちから来る流れがぶつかって、このまま人が蝟集すれば狭い通りで潰されると危惧したのですが、流れがピタリと止まり、30分後には流れ始め、広場に出た時はホッとしたものでした。ある現場一点に人が集中していくということではないのです。

かつてサン・マルコ広場でピンク・フロイドの野外コンサートがあった時は、集まった人が30万人と言われ、トイレの施設などほんの僅かでしょうから、翌朝は、ヴェネツィア全市が芥の山で、街を奇麗に戻すのに1ヵ月以上掛かったそうで、市は二度とそういう事は許可しないと言われています。しかしヴェネツィアはイヴェント都市であり続け、観光客を呼び続けています。

そういう事を厭がってか、町の人口は着実に減少しています。知り合ったファビアーナ達は、ヴェネツィアに生まれながらメーストレに移り住んでいましたが、またヴェネツィアに戻って来ました。住民がゼロになれば、それは正にヴェネツィアがテーマパークになるということです。色々難しい問題があるのでしょう。
[ヴェネツィアの人口については、次のブログヴェネツィアの人口をご覧下さい。]

しかし数字的にはどうなのか、分かりませんが、今年のカーニヴァル体験からすると、かつて体験した時よりも、人出は少なかったという、肌の感覚です。何かが変わりつつあるような感じを受けました。
ホテル・ダニエーリ前の賑わいリアルト橋を望んで[左、ホテル・ダニエーリ前、右、リアルト界隈] 3月18日のLa Nuova紙は次のような事を書いています。
「 2000年から今日まで、ベッド数の増加にはチェックが利かない
――ベッド数5万以上、宿泊者数1000万人に対して、チェントロ・ストーリコでは3万5千(30%アップ)。無登録の旅行者用アパート、B&Bは数に入れない――

ベッド数5万以上、宿泊者数1000万人に対して、チェントロ・ストーリコでは3万5千(30%アップ)。無登録の旅行者用アパート、B&Bは数に入れない。チェックや年間観光客数から零れてしまう雪崩現象。

《観光客の正確な数とは? 我々には分からない。》 数ヶ月前、市の認めるところである。その上CosesとAptは観光に関わっていながら、資料がない。唯一の資料は、ベッド数が聖年の2000年から今日まで急激に増えたということである。チェックするには、認可がうまく機能していないので、目標が定めにくいということである。

しかし例えばトイレを設置し、ホテルへの依存を強めれば、可能であろう。近年パラッツォの[ホテルへの]模様替えも増えている。」

チェントロ(中心部)に宿泊可能者数が年間1000万としても、日帰りの人はそれ以上に多いと思われます(何年か前、両方合わせて2000万人位ではないかという記述を読みました)。私が初めてヴェネツィアのカーニヴァルに行った時は、カステルフランコに泊まりました、ヴェネツィアで宿がなければ、帰っておいで、と。ヴェネツィア本島に泊まれない旅行者はパードヴァ等近隣に泊まります。その日電車でヴェネツィアに向かった時、同じ車両に扮装した20人ほどのアジアーゴの人がいて、既に出来上がっており、飲め飲めとワインを勧められました。駅で一緒にカメラに収まって呉れました。こういうヴェネツィア観光客は多いでしょうね。
  1. 2017/04/04(火) 18:30:09|
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ヴェネツィアの街案内(16)

(続き)
「二番目の軒下通りを越えると、セコンダ・デル・ミリオーン小広場があり、そこにはポーロ家の家があった。その名前はヴェネツィアの偉大なる旅行者マルコ・ポーロが書いた著名なる作品『イル・ミリオーネ(Il Milione――東方見聞録)』を我々に思い起こさせる。

ヴェーネト=ビザンティン様式のアーチ(11~12世紀)の下を潜り、マーリブラン劇場(当時映画館)の前に出る。1677年グリマーニ家の意向で建てられたが、最初はサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場と呼ばれた。装飾が豊富で、取り分け音楽用の劇場だったが、時代と共に経営と目指す目的が変わっていった。

1834年新しいパトロンが改築し、有名な歌手マリーア・フェリーチタ・ガルシーア(伊語式)・マリブランに対する感謝の印にマーリブラン劇場と呼ばれることになった。
[劇場名はマーリブラン(伊語)となりましたが、マヌエル・ガルシアの娘、パリ生まれの西国歌手マリア・フェリシア・アンナは仏人ウジェーヌ・マリブランと結婚します。1835.04.08日この劇場でヴィンチェンツォ・ベッリーニの『La Sonnambula』を歌った時、この劇場の有様を見かねて出演料を修復のために使ってほしいと辞退した事を受けて、このマーリブランを劇場名とする事になりました。その辺りの事情については2010.06.05日のサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモをご覧下さい。]

この劇場はコルト=プラットの世代にとって、重要な役割を帯びていた。事実ここは、フェニーチェ劇場が選ばない、軽い演劇を上演していた。小作品が好まれ、それは『アルレッキーノの三百代言』のような演目であった。パルコは当時の青少年達にとって、絶好のランデヴーの場であり、同じような演目として興味はあっても、それを超越する、といった場所だった。

セコンダ・デル・ミリオーン小広場に戻り、テアートロ橋、そしてスカレッタ通りへ向かおう。その通りの右に20年前まで人々がよく通った、外国渡来の新しいダンスを教える、ロランドによる学校があった。

通り突き当りまで行き、サンタ・マリーナのアーケードを越し、クリスト通りに入り込むまで斜めに突っ切って行く。クリスト橋からの運河の眺めは大変美しい。素晴らしい館が重なり、織り成して我々を魅了する。運河通り(fondamenta)を行くと、コルト・マルテーゼが愛して止まなかった住居の一つの大門の前に出る。ヴァン・アクセル館である。
ヴァン・アクセル館最初はソランツォ館であった。その後フランドルの裕福な商人ヴァン・アクセル(Van Axel)家が所有した。1665年ヴェネツィア貴族となったのである。内部にはヴェネツィア・ゴシックの大変美しい中庭がある。
[地図帳『Calli,Campielli e Canali』は、このソランツォ=ヴァン・アクセル館について次のように紹介しています――オジーブ式建築の最も重要で興味深い物の一つである。1473~79年に装飾的要素が色濃く残るヴェーネト・ビザンティン様式の建物が建っていた跡地にソランツォ家が建てた。15世紀の木製のノッカーを備えたオジーブ式の大門はオリジナルで、ヴェネツィアでの例は唯一。]

カステッリ通り左側は町の宝石のような建築の一つであるサンタ・マリーア・デイ・ミラーコリ教会に通じている(人々のもとで奇跡のような名声で獲得した、ここにある聖母の絵の回りに集められたコインで建てられたかのようである)。このような色とりどりの大理石のボンボン入れのような作品は、ピエートロ・ロンバルドと彼の工房の手になるものである。1481に始まり、1488年に終わり、12月31日の夜、祭壇に素晴らしい絵が齎された。教会前部に数年前からクラシック音楽の愛好家用に適した場所が設置された。
santa-maria-dei-miracoli[上掲の地図帳曰く――伝承によれば、カ・アマーイ小広場に居宅のあるフランチェスコ・アマーディが、1477年既にそれが奇跡と考えられていた聖処女の絵をその広場に設置させた。その絵は崇拝され、捧げ物等が豊富だった。アマーディの高潔無私の雅量から、その奇跡の絵を収めるために、1481~89年ピエートロ・ロンバルドの設計で教会が建てられた。外部も内部も色大理石で覆われ、取り分けロンバルドの装飾技法の最良の物となった。]

この素晴らしいルネサンスの建物を曲がり、サンタ・マリーア・ノーヴァ橋を越え、左の通りへ曲がり、広場中ほどに建つ家に沿って曲がると、その建物は6044番地で、“ピッケのエース”考案者で編集者のマーリオ・ファウストネッリが住んだ。ヴェネツィア漫画の創始者である。
[この6044番地の脇道に、通行する人が何故か踏んで通り過ぎるのを避けて行く、座布団大の石板が道に埋め込まれています。その石を踏むと縁起が悪いのだそうです。]

この家の前にベンボ・ボルドゥ館が建ち、そのファサードにはヴェネツィア人を魅了する、多分外国から渡来した彫像を収めた壁龕がある。毛むくじゃらの野人の像Chronosである。その当時の貴人か“太陽の円盤”を手にするSaturno(農耕神サトゥルヌス、希語Kronos)であろう。
[クロノス像はジャンマッテーオ・ベンボ(有名なピエートロ・ベンボの孫)が設置した物で、ここに在住し、像の下に記した羅典語の文言に「この太陽板が回転するまで、Zara(クロアティアのザダル)、Cattaro(モンテネグロのコトル)、Capodistria(スロヴェニアのコーペル)、Verona、Cipro(キプロス島)、Creta(クレタ島)、Giove(ゼウス)の寝床が我が行動の証明になり得よう、と。] (17)へ続く
  1. 2017/03/30(木) 00:45:04|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(15)

今回マーリブラン劇場前のアパートを借りましたので、以前にも紹介したG.フーガ=L.ヴィアネッロ著『CORTO SCONTO』からここを通るコースを紹介してみましょう。
ヴェネツィア地図1「かの有名なヴェネツィアの喜劇作家カルロ・ゴルドーニの銅像に元気も貰える広場サン・バルトロミーオが、我々のこの旅の出発点である。ヴェネツィアの中でも中心となるこの広場は、ヴェネツィア人が出会いの場所として最も好む地点の一つであり、既にご存知のように、その奥まった所に朝から晩まで盃を傾けることの出来る飲み屋さんが色々ある。
ゴルドーニ像今やお歳を召したゴルドーニ老、あらゆる人間の機微を熟知した父親のような温かい彼の眼差しを受けながらお別れして、フォンテゴ・デイ・テデスキ(ドイツ人商館)大通りを行こう。ドイツ人商館はヴェネツィア中央郵便局である。この堂々たる建物は、建築家スパヴェントの作品で、3年前の凄い火事で完全に焼失した商館の跡に1508年再建されたものである。
ドイツ人商館屋上から[ここは最近ヴェネットーン経営の有名ブランド店になりました。以前からのヴェネットーン店はそのままリアルトにあります。郵便局はリアルト近くサン・サルヴァドール通りに越しました。屋上に上がることが出来るようになり、修復なったリアルト橋の向こうに素晴らしい眺めが展開しています。]

ここは13世紀からドイツ人のコミュニティが、ヴェネツィア元老院から住宅や旅客用、輸出入の倉庫用敷地の許可を得て、所有していた。この建物は大運河側が全面ジョルジョーネによってフレスコ画で覆われた。その残存したフレスコ画の一部がカ・ドーロ美術館で保存されている。一方道路側はティツィアーノがフレスコ画を描き、それらは正に素晴らしきルネサンス芸術である。

内部の中庭は総体に同時代の壮大なエレガンスを帯びた、3列のロッジャの規模がリズミックな魅力を醸し、丸でジョルジョ・デ・キリコのメタフィジックな広場空間に入り込んだ感がある。階段を昇り、ロッジャ周りを歩いてみよう。各アーチの基部や石の上に、ある種の引っ掻き図が見られる。そのモティーフは一種のお遊び(tria=伊語tavola a mulinoというゲーム)である。

共和国時代、ここには記憶に値する祭があった。中でも伝統的な仮面のそれは、3日間継続して続き、カーニヴァルの開始に繋がっていった。この素晴らしい中庭(現在は屋根が付けられた)を後にする前に、我々は切手を買って、郵便物を送るために、窓口に行こう。

橋を越し、レストラン“Fiaschetteria Toscana”まで行き、その直後を左へ曲がり、レメール小広場の軒下通りを抜けると、大運河に顔を向ける、13世紀終りの建築的にも目を見張る、上部に見える建物、奥に見えるのはビザンティン様式の味わいがある。
レメール広場[外階段の右は何年か前に開店したバーカロ・レメール。その他にもこの小広場に活気が見えます。]  道を引き返し、ヴェネツィア人がよく通った、“マドンナ”とともに知られるレストラン“トスカーナ”の前を通り越し、教会(サン・グリゾーストモ)の向こうを左に曲がり、最初の右の道モロズィーニを行くと、最初の小広場アマーディ小広場がある。時に鉄格子が閉まっていることがあるが、壁に美しいビザンティンの盃を見ることが出来る。

更に奥に、モロズィーニ小広場があり、かつての冒険や忘れがたい騎士、決闘や闘いといったものを想像させる兜や盾を彫り込んだ、アラブ=ロンバルディーア様式(13~14世紀)の大理石のアーチが建ち上がった入口がある。

この小広場は今でも煉瓦が敷き詰められ、井戸や外階段といった中世の面影を見せるが、ここはかつて町でも一番古くて著名な一族モロズィーニが住んだ一角である(総督4人、総督妃3人、王家嫁入り2人)。

モロズィーニ通りを後にして引き返し、右へ曲がり、軒下通りを抜けてプリーマ・デル・ミリオーン小広場に出る。ここはコルト・マルテーゼと彼の仲間達がよく訪れた一角である。 ……」 (16に続く)
ティツィアーノ展1ティツィアーノ展2ヴェネツィアから帰り、先日漸く都美術館の『ティツィアーノとヴェネツィア派展』に行ってきました。~4月2日までやっています。
  1. 2017/03/23(木) 00:14:03|
  2. ヴェネツィアの街
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マルコ・ポーロ

今回ヴェネツィアで借りたアパートは、知り合ったマウリーツィオが4人用のアパートを作ったから利用してくれという話に乗りました。到着し、電話してそのアパートに辿り着くと、最終の宣伝用の写真撮影の最中でした。リヴィングのソファーをばらすとベッドになり6人まで泊まれるようです。

アパートのロケーションが大変気に入りました。テアートロ小広場のマーリブラン劇場正面入口の左脇の建物です。街歩きにはとても便利しました。サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ大通りの教会右脇を入ると、銀座のイタリアン・レストラン《バラババオ》のシェフが修業された《バラババオ》本店があり、その更に奥に劇場があります。劇場右脇には、ミリオーン[Milionは『東方見聞録』の原名、大風呂敷の意]小広場があり、軒下通りを抜けて、運河前左を見ると、マーリブラン劇場の裏手にマルコ・ポーロがかつて住んだことを示す碑が掲げられています。この劇場は1596年マルコの家が焼失した後、その礎の上に建てられたものだそうです。
マーリブラン劇場ヴェーネト・ビザンティン様式[左、アパートの窓から見たマーリブラン劇場、右、ミリオーン小広場の、一説にポーロ家が所有したと言われるヴェーネト・ビザンティン様式(1200年代)の帯状装飾]  このマルコの碑の直ぐ運河の向こうには、橋を渡って有名なバーカロ《Al Portego》があり、狭い店からはみ出して、ソートポルテゴ(軒下通り)の下で、テーブル代わりに置かれた樽の上にワイングラスを置き、わいわい呑兵衛達が屯してお喋りに懸命です。その直ぐ向こうのサンタ・マリーナ広場に語学校通学にアパートを借りた時はよく通いました。懐かしい一角です。
マルコ・ポーロ ヴェネツィア1ヴェネツィア2そんな訳で今回は日本人も良く知っているマルコ・ポーロについてです。ニック・マカーティ著『マルコ・ポーロ Marco Polo――世界を旅した男』(久松武宏訳、BL出版、2009年1月20日)というビジュアル版伝記シリーズの絵本です。絵や写真が一杯掲載されているので眺めているだけで読んだような気になってきます。私が最初にマルコの事を知ったのは次の本でした。
東方見聞録マルコ・ポーロについては、2008.10.12日の日本の旅や2009.10.31日のヴェネツィアと日本で触れましたように、カステッロ地区のサン・ロレンツォ教会に葬られたそうですが、1600年代には墓の在所が分からなくなってしまったそうです。現在サン・ロレンツォ教会は再生のための修復工事が何年も前から続いており、教会として甦るのは何年先か丸で分かりません。
サン・ロレンツォ教会ヴェネツィア警察前から見た、修復中のサン・ロレンツォ教会。マルコ・ポーロについては2011.11.26日のサン・ロレンツォ教会も参考までに。
ヴェネツィア話は変わりますが、帰国して図書館で谷口ジロー著『ヴェネツィアVenezia』(双葉社、2016年11月23日)という本を見ました。去年暮れに出版されたばかりの本です。ヴェネツィアのイメージがまだ濃密に残っていたので、大変心を刺激されました。著者が描いた場所の大体がどこか分かりました。正確な実景の絵だったのです。先日週刊誌で著者がこの2月に亡くなられたことを知りました。昂ぶった心を揺さぶられました。合掌です。
  1. 2017/03/16(木) 00:07:41|
  2. ヴェネツィアのアパート
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テアートロ・イタリア(Teatro Italia)

前回、スーパーマーケットになったテアートロ・イタリアについて触れました。駅からの一本道サン・ベルナルド埋立通りからプラトール通りと、マッダレーナ埋め立て通りの間、アンコネータ(伊語anconetta)小広場にあるこの建物についてイタリアのサイトは次のような事を述べています。連れ合いが語学留学中、左脇のアゼーオ通り(Cl. de l'Aseo=伊語aceto)奥にアパートを借りていた頃は、いつも大学生が屯していたそうです。
テアートロ・イタリア 地図2地図1「トゥレニターリアのサンタ・ルチーア駅とリアルト橋を繋ぐ人通りの多い道(いわゆるストラーダ・ヌオーヴァ)に建つ、正面にTEATRO ITALIAと書かれたネオ・ゴシックの独特の建物である。

1915年ジョヴァンニ・サルディによって建て変えられ、ラグーナのゴシック様式を採用し、特に一面窓とサン・マルコ広場の総督宮殿とドルソドゥーロのフォースカリ館(現在大学)の三連窓を採用している。

ファサードを見ると、2階に二つの紋章が見え、屋根の手摺りの中央に、有翼のライオンが見える。鉄製の四つの入口の大門は、ウンベルト・ベッロットの設計で、内部のシャンデリアも彼のデザインである。

ヴェネツィアの画家アレッサンドロ・ポーミ(1890~1976)が建物内部の中心のホールの天井中央に、“イタリアの栄光”と称する寓意画をフレスコで描いた。一方、フリウーリ人グイード・マルッスィグが地元の画家達と内部の品格ある装飾をリヴァティー様式で仕上げた。それは鉄筋コンクリートで補強され、建物の最初の例を見るものである。

テアートロ・イタリアの歴史は区々である。最初は映画館に改築され、長い間の閉鎖後、ヴェネツィア大学の持ち物となり、長い修復の期間中開かれたこともあったが、結局スーパーマーケットとしてオープンした。」

別のサイトはもっと古い時代の事を語っています。ビザンティン式の典型的な建物だったそうです。サン・マルコの有翼のライオンが屋根部を飾っています。伝説的な演奏家達が、音楽やオペラの催しを数多くこなしたのです。

劇場は500年近くに渡って、伝説的な演奏家達がその世紀でも際立つ音楽やオペラ等の催しを数多くこなしてきたのです。この劇場は世界でも、その他多くを凌駕する歴史的遺産でありました。
  1. 2017/03/09(木) 00:05:43|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ヴェネツィアのカーニヴァル

ヴェネツィアのカーニヴァルに行ってきました。この度は初めて家族全員での旅行でした。かつて夫婦だけで見物したカーニヴァル時代と少し様変わりしてきたのでしょうか? そんな印象を覚えました。1979年、現代のコンパニーア・デ・カルザ・イ・アンティーキ(中世、この名の貴族の若者グループが町を面白く、楽しくしたのだそうです)の人達が町興しのために始めたものが、こんな形で町に根付いたようです。

このグループの人達の催しを探して歩きましたが、ありませんでした。かつて『昔の展示室《バウータ》』というイヴェントを見たことがありました。通学した語学学校の向こうにドナートさんの本屋があり、演劇を見ないかと誘われました。学校の前にはグェリーノ・ロヴァートさんの仮面屋もあり、コンパニーアのグループ長のルーカ・コルフェラーイさん(『図説 ヴェネツィア――「水の都」歴史散歩』(中山悦子訳、河出書房新社、一九九六年一月二五日)の著者)等がイヴェントの協議をするNHKTVを見たことがありました。
[2011.02.12日のカーニヴァル(3)で触れました。] 

ドナートさんは引退されたようですし、ロヴァートさんの仮面屋さんも閉店し田舎に移られ、コンパニーアの人達の第一期の時代は終わったのかも知れません。そんな感じで仮装を見て回りました。フェニーチェ劇場修復に尽力されたロヴァートさんは、海水で消火したフェニーチェの塩抜き作業が大変だったと話されました。絵や彫刻等の修復に携わられました。

昨年のLa Nuova紙で読んだ、サン・ジェレミーア教会のキリスト像が、モロッコ人の回教徒により、腕を圧し折られた事件がありました。腕が接着され、正面に掲げられていました。教会の係の人にも、この像かと確認しました。そんな訳で、回教徒のテロを大変に恐れたカーニヴァルで、鞄などのチェックもあるということでしたが、そこまではありませんでした。
[事件を伝える2016.07.28日のLa Nuova紙]

ストラーダ・ヌオーヴォのかつて大学が使用していた“Teatro Italia”は華麗なスーパーに変貌していました。舞台正面、壁面や天井などの絵画がそのまま残され、華麗なスーパーマーケットです。
[2016.12.30日のLa Nuova(2)紙を参考までに]

カーニヴァル中、フェニーチェ劇場でプッチーニの『La Bohème』の公演がありました。娘達と一緒のこともあり、もしかして劇場に席が残っているかも、訊くだけは訊いてみようと尋ねると、僥倖なことに平土間席があり、楽しいオペラ鑑賞の一夜となりました。
仮面仮面2仮面3仮面・仮装の人達の写真は沢山の人達がブログアップされていることでしょう。
  1. 2017/03/02(木) 00:01:50|
  2. ヴェネツィアの行事
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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