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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ティントレットの家、ベンズィ-ゼッキーニ館、元メルカンティ同信会館、マドンナ・デッロルト教会

Casa del Tintoretto(ラ・センサ運河に沿ったモーリ運河通りの3399番地の建物)
「これは1400年代の建物で、ヤーコポ・ティントレットが住み、1594年にこの家で亡くなった。」
ティントレットの家[サイトから借用] 1518年頃に生まれたと言われているティントレットが日本人にとって忘れられないのは、彼が1585年6月26日にヴェネツィアに到来した天正の遣欧使節の正使であった伊東マンショの肖像画を描き、それが現在に伝わるが所以です。日本では2016.05.17~2016.07.10日、東京国立博物館で展示されました。

以前はマンショの肖像画は完成したけれど、他の3人は未完成と言われていましたが、実際に絵を見たという人は皆無で、絵は伝わってはいませんでした。ミラーノのトリヴルツィオ財団は、自社が買った絵を調べてみると、画布の裏に“1585”と“MANCIO”という文字があり、その発見からこの肖像画の購買者履歴と共に肖像の特定が出来たようです。絵の完成当時、誰もこの絵を見ることがなかったのは、遣欧使節の少年達を連れて歩いたイエズス会が、ヴェネツィアが教皇の一方的な破門を受けた時、ヴェネツィアに大変非協力であった事等、ヴェネツィアでは嫌われていたことが原因だったかも知れません。

天正遣欧使節については、これまで何度も触れていますので“天正遣欧使節”で検索してみて下さい。東博での“伊東マンショ”像の展覧会については、2016.05.21日の伊東マンショ像展で触れています。

Palazzo Benzi-Zecchini(ラ・マドーナ・デ・ロルト運河とゼッキーニ運河が交わる角、マドーナ・デ・ロルト運河通りに面する3458番地)
「ベンズィ-ゼッキーニ館は15世紀の尖塔式の建築で、興味深いゴシック様式の大門がある。ゼッキーニ運河に向かって1500年代後期のファサードとcavana(カヴァーナ)のアーチがある(ゴンドラ等の置き場がアーチになっているのでしょうか?)。」
このCavana というヴェネツィアの船乗りの言葉は、色々の意味があるようです: 劇場等のロビー、水槽の様な水の容器、陸地に入り込んだ小運河とその岸、トラゲット用の舟の置き場、小屋、等。

Ex Scuola del Mercanti(ラ・マドーナ・デ・ロルト運河に沿ったマドーナ・デ・ロルト運河通りに面する)
「元メルカンティ同信会館は、アンドレーア・パッラーディオの案で1576年に建設された大きな建物。ラ・マドーナ・デ・ロルト小広場に面し、聖母と聖人達の浅浮彫(16世紀)が大門の上に聳え立つ。同信会館は、かつてはヤーコポとドメーニコのティントレット父子とパーオロ・ヴェロネーゼの一連の絵画作品が沢山あった。」
マドンナ・デッロルト教会[サイトから借用です。正面がマドンナ・デッロルト教会、左に接続した建物は元メルカンティ同信会館]  
Chiesa della Madonna dell'Orto(ラ・マドーナ・デ・ロルト運河に面したラ・マドーナ・デ・ロルト小広場に建つ)
「近くのサン・クリストーフォロという名の修道院と共に1300年代半ば頃建てられ、その後近くに菜園(orto)があって、祝福された聖母(B. Vergine)の奇蹟的イメージを持った教会として移築され、菜園の聖母(マドンナ・デッロルト)教会と変名した。

外側のファサードは1400年代初頭のヴェネツィア・ゴシック様式の教会の最も完全な形の残存例である。ロマネスク様式から派生した、典型的な要素は、12人の使徒を収める一連の壁龕である。15世紀半ばの大門は、ルネサンスの新様式を反映している。内部の三身廊にはヤーコポとドメーニコのティントレット父子の作品が集められている。 」

マドンナ・デッロルト教会については、2019.01.10日『ヴェネツィアの神話と伝説』からの紹介で、マドンナ・デッロルト教会として触れています。
  1. 2023/06/03(土) 18:50:47|
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ミキエール館、アッリゴーニ館、マステッリ館

マーリオ・デ・ビアーズィ著の地図『Calli, Campielli e Canali』の順で、更にカンナレージョ区の建物探訪に向かいます。

Palazzo Michiel(センサ運河に沿ったラ・センサ運河通りに面する3218番地の建物)
「1500年代初頭のルネサンス様式の上品な建物。この近所では最も気品のある建築物である。大貴族のミキエール家の分家の一つの居宅で、この居館を実際に使用していたのは、大運河に建つサンティ・アポーストリ教会に居た。1500年にはフランス大使館の在所だった。」

Palazzo Arrigoni(センサ運河に沿ったラ・センサ運河通りに面した3336番地の建物)
「広い庭を有する1400年代ゴシックの建物。大修道院院長であったオノーリオ・アッリゴーニは1758年ここで亡くなったが、彼は古美術品や貨幣等の夥しいコレクションを所持していた。」
マステッリ館Palazzo Mastelli(ラ・マドーナ・デ・ロルト(La Madona de l'Orto)運河に面する3381番地の建物)
「カンメッロと呼ばれたマステッリの館は12~14世紀の尖塔式の館である。ラ・マドンナ・デッロルト運河にファサードが向いており、ゴシック様式でビザンティン式の要素が混じっている。1200年にモレーア(ペロポンネソス半島のこと)から到来した3兄弟の商人の持ち物であった。

彼等はMastelli (樽の複数)という名前を採用したのである。彼等の肖像は、典型的なモーリの彫像(13世紀末)に酷似するが、古いマステッリ家に残る古代ローマの遺物の中に置かれ、壁に嵌め込まれている(モーリ広場を参照)。」

この館のファサード右の下部に見える窪みはアラブ式の水飲み場で、何年か前までは機能していたそうで、通りかかったゴンドリエーレ達の便となっていたそうです。
モーリ広場のモーリ像[モーリ広場のモーリ像の一つ、リオーバ像、サイトから借用。この像の背後の壁面にまだモーリ像があります]

このモーリに関わるマステッリ館について2010.07.17日と2010.07.24日のブログマステッリ・デル・カンメッロ館》(1,2)でモーリ広場にあるモーリ達との関連の伝説を紹介しています。

また2010年7月にはリオーバ像の頭部が馘首され、ヴェネツィアでは大事件になりました。何日か後に近くの路上に転がされているのが見付かり、現在は元の首に接着されています。
  1. 2023/05/29(月) 22:21:12|
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サンタルヴィーゼ教会

『calli, campielli e canali』の順で、更にカンナレージョ区内陸の建物の紹介です。
サンタルヴィーゼ教会1280px-Chiesa_Sant'Alvise[サンタルヴィーゼ教会、サイトから借用]  Chiesa di S. Alvise(サンタルヴィーゼ運河沿いのリフォルマーティ運河通りに面したサンタルヴィーゼ教会広場前)
「古い教会であるサンタルヴィーゼ教会(vulgo)は、フランス・トゥールーズの、聖化された司教、聖ルイ(リュドヴィークはその変化形)を幻視したアントーニア・ヴェニエールの贈与で1388年に修道院として始まった。

1430年に再建され、1600年末頃には修復の手が入った。1300年代の後期ゴシック様式オリジナルのファサードを見ることが出来、聖アルヴィーゼ(ルイ)像(15世紀初頭)がある。

典型的な修道院教会でジョヴァンニ・バッティスタ・ティエーポロの若き日の傑作2点((1738~40)がある。」

“アルヴィーゼ”というヴェネツィア独特の名称は、伊語のLodovico、Ludovico のことで、その仏語形の基はLouis であり、その伊語化はAloigi、Aloisi、Aloisio、Gigi、Gigio、Gigino、Ginetto、Gino、Luigino、Lodovio、Ludovico、Vico と多くの変化形があります。

ジュゼッペ・ピッターノ著『姓名辞典』は、Lodovico/Ludovico, Lodovica/Ludovica について次のように書いています。
「ロドヴィーコ/ルドヴィーコは、独語のhlod(=gloria栄光)とwig(=battaglia戦)から出来た名前で“戦における誉の高さ”を意味している。中世からルネサンス時代には凄く流布した名前で、王族や貴人に人気があり、中でもシャルマーニュ大王の後継者だったルートヴィヒ敬虔王(Lodovico il Pio)、ドイツ王ルートヴィヒ(ルートヴィヒ敬虔王の3男)、マントヴァ侯ロドヴィーコ3世(Lodovico Ⅲ Gonzaga)、サヴォイア公ロドヴィーコ、ロドヴィーコ・スフォルツァ(Lodovico il Moro)、ヴァグナーを後援した、1800年代後半のバイエルンのルートヴィヒ2世がある。

教会はSvevia の聖イデルガルダの息子、聖ロドビーコに敬意を表しており、4月30日が聖名祝日である(聖名祝日から類推すると4月30日に没したのは南スペイン“コルドバの殉教者”と呼ばれているロデリゴのことのようです)。この名前の女性達はフランチェスコ会の第三会員であったルドヴィーカ・アルベルトーニに捧げた1月31日に祝うのである。

外国名は、Ludovic―リュドヴィーク(仏)、ラドヴィック(英)、Ludwig―ラドウィッグ(英)、ルートヴィヒ(独)、Ludwiga―ルートヴィガ(独)、Viki―ヴィーキ(独) 」

この名前については、2020.10.26日のヴェネツィア話や2020.11.10日の文学に表れたヴェネツィア等々で触れています。
  1. 2023/05/22(月) 18:14:15|
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サン・ジローラモ教会、グリマーニ館、カップッチーネ救世主の小教会、サン・ボナヴェントゥーラ小教会

更に、『Calli, Campielli e Canali』の紹介順でカンナレージョ区内陸の建物を辿って行きます。

chiesa di S. Girolamo(サン・ジローラモ運河沿いのサン・ジローラモ運河通りに面する)
「1300年代の建立で、1705年に再建された。その後この教会への信仰が途絶えたが、50年代に急進的な改築が行われ、閉ざされていた門が開かれた。内部にはヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネの聖ヒエロニムス(司書の守護聖人)の絵がある。」

Girolamoについてジュゼッペ・ピッターノ著『姓名辞典』は次のように述べています。
「この名前は、かつてヘレニズム世界やその後キリスト教世界でもサン・ジローラモ教会のこの大パードレ(聖ヒエロニムスの事)のお蔭で華やかな伝統に輝いていたが、今では流行らない名前となってしまった。異端との論争するその熱意で“キリスト教の論争の獅子”と呼ばれたり、若くしてローマに行ったので、その祖国“ダルマツィアの獅子”とも呼ばれる。ローマで享楽生活を送り、古典の大愛好者となった。

世俗的な生活を止め、贖罪のために砂漠に隠遁し、古典を諦め、人民の言葉、羅典語で聖書を翻訳した(ウルガタ聖書)。それは哲学的な偉大なる知性で注解・解釈されている。

この名前は“聖なる名前”の意である。何故かなら、ギリシア語の ierós(=sacro)とónoma(=nome)から来ており、故に宗教的な意味なのである。教会はこの偉大なる聖人を9月30日に思い起こし、名前ジローラモという人の聖名祝日である。

変化形: Gerolamo、Geronimo、Girolama、Gerolama、Geronima。外国名: Jérôme(仏語)、Jerome(英語)、Jerónimo(西語)、Ieronim(露語) 」

Palazzo Grimani(サン・ジローラモ運河沿いのレ・カプズィーネ運河通りに面する)
「1500年代末の建物。」

chiesetta delle Cappuccine(サン・ジローラモ運河沿いのレ・カプズィーネ運河通りに面する)
Le cappuccine(伊語)=Le capuzine(ヴェ語、カプチン修道女会)
「救世主の母、聖マリアに奉献された教会で、1623年に建立された。大門の上にG. カンパーニャの作とされた、処女マリアとプットの彫刻がある。元修道院は現在は学校に転用されている。」

Chiesetta S. Bonaventura と修道院(リフォルマーティ運河沿いのリフォルマーティ運河通りに面する)
「フランチェスコ会改革派修道士達により、1623年に建てられた。1859年からはカルメル会洗足派の修道院となっている。」
『Duizionario dei Nomi italiani』Bonaventura という名前について、エミーディオ・デ・フェリーチェ著『Dizionario dei nomi Italiani』は次のように書いています。
「変化形: Buonaventura、Ventura、Venturo。この名前は全イタリアに拡散しており、ラーツィオ・カンパーニア・プーリア州では多い名である。“僥倖(buona ventura)”であるという形で完成し、中世の慶賀・祝賀の意の名前として続くが、その誕生が“僥倖”であり、両親にとって幸せの対象である息子に与えられたものであり、人々は“僥倖”、幸運、幸せを祝うのである。

しかし名前の広がりは、ヴィテルボ県バニョレージョの聖ボナヴェントゥーラ信仰で広まった(この町の守護聖人であり、全てのヴィテルボ県人が知るようにこの名は今でも能く知られている)。聖フランチェスコ会の小さな兄弟会修道士であり、アルバーノの司教、枢機卿、教会の博士であったが、1274年フランスのリヨンで没した。」
  1. 2023/05/17(水) 23:15:26|
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ディエード館、ヴェンドラミーン館、サン・マルツィアーレ教会、ロンゴ館

『Calli, Campielli e Canali』の紹介順でカンナレージョ区内陸の建物を辿って行きます。
ディエード館Palazzo Diedo[サイトから借用](ウィキペデイアからの説明)  「このカンナレージョ区2386番地に設置された館は、サンタ・フォスカ運河前のディエード運河通りにファサードがあり、そのためサンタ・フォスカのディエード館と呼ばれ、18世紀に遡るものである。

ディエード家のためにアンドレーア・ティラーリが1710~20年に建設、1888年にはヴェネツィア市が多目的使用のため購入し、ヴェネツィアの監視裁判所となった。2022年には現代美術コレクションを展示するベルクグルーエン(Berggruen)財団に売却した。」

Palazzo Vendramin(『Calli, Campielli e Canali』からの説明)
「カンナレージョ区2400番地サンタ・フォスカ運河前ヴェンドラミーン運河通りに面するこの建物には、ルネサンス様式のファサード(15~16世紀)と興味深い大門がある。この建物では1500年代のヴェネツィア貴族のガブリエーレ・ヴェンドラミーンが彫像や胸像、メダル等、更にはジョルジョーネやティツィアーノ、ミケランジェロの絵画に至るまでの有名なコレクションを有していたが、その後散逸してしまった。」

chiesa di S. Marziale(『Calli, Campielli e Canali』からの説明)
「トラパリーン運河前のサン・マルツィアーレ広場に面したこの教会は、12世紀に建立されたが、1600年代末に再建された。内部にはヤーコポ・ティントレットの絵画作品(1548~49)やティツィアーノ・ヴェチェッリオのものがある。」

ジュゼッペ・ピッターノ著『姓名辞典』は、Marzio/Marzia について次のような事を書いています。
「マルティーノとマルティーナのようにマルツィオとマルツィアは、“戦いの神マルテMarte に捧げた”の意味を持つ愛称である。それ故マルツィオは羅典語のMartius 由来であり、その形容詞形は、Mars、Martisである。

女性形のMarzia は、ウティカのカトー(Catone l'Uticense――ローマ共和政末期の閥族派の政治家で第2次ポエニ戦争時の執政官マルクス・ポルキウス・カトー(大)の曾孫で小カトー(前95~46)と呼ばれ、チュニジアのウティカで自殺した)の妻の名である。ダンテが『神曲』煉獄篇第1歌の中で歌っている。《マルツィアは我が眼を非常に好んだ。》

この名前の人は、4月13日に聖名祝日でお祝いをする。その日教会は、440~530年に生きた聴罪司祭であった聖マルツィオ僧を思い起こす。女性は1月21日に祝うが、その日教会はシラクーザで殉教した聖マルツィアを思い起こす。

変化形に、マルツィアーレ(Marziale)がある。 」
ロンゴ館Palazzo Longo[サイトから借用](『Calli, Campielli e Canali』からの説明)  「カンナレージョ区2591番地のこの建物は、 ミゼリコルディア運河前のミゼリコルディア運河通りに面し、華やかなりしゴシック様式の美しいファサードを持ち、15世紀の装飾に満ち満ちている。

ロンゴ家はリーミニ出身で、1381年ジェーノヴァ共和国とのキオッジャでの戦いでニコロに勲功があり、大評議会への参加を許された。多分彼のお陰で、館をセルヴィ教会前に建てることが出来たと思われる。

2007年に当時の持ち主により建て替えられたが、ヴェネツィアの他の館との類似性がある、幾つかの特徴が見られ、例えばドルソドゥーロ区のカオトルタ・アンガラーン館がその例である。」
  1. 2023/05/06(土) 15:30:00|
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ドナ・ジョヴァネッリ館、ドナ・デッレ・ローゼ館、元サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ修道院

『Calli, Campielli e Canali』のカンナレージョ区を更に進みます。
ノアール運河とサンタ・フォスカ運河の交差の角の2292番地にPalazzo Donà Giovanelli があります。
「15世紀前半のゴシック様式の建物。窓のある中央は注目に値する二連窓である。かつてジョヴァネッリ公の芸術品のコレクションは有名なものであった。公の珠玉品であったジョルジョーネの『La Tempesta(嵐)』は、今ではアッカデーミア美術館で展観されている。」
ドナ・ジョヴァネッリ館[ドナ・ジョヴァネッリ館運河側、サイトから借用]  この建物についてWikipediaは次のように書いています。
「この建物の建築家は知られていないが、過去には総督宮殿の建築家フィリッポ・カレンダーリオとされていた。建物は1538年には既にウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの手に渡っていたが、ジョヴァンニ・バッティスタ・ドナが獲得した。しかし借金のためにジョヴァネッリ(伊語はGiovannelli)家に売らざるを得なかった。

建物は何度か深い改築の手が入った。最初はジョヴァンニ・バッティスタ・メドゥーナによってであり、その後19世紀中期1847~48年にもあった。」

セルヴィ運河とマダレーナ(伊語はMaddalena)埋立通りに挟まれたPalazzo Donà "Dalle Rose”。
「マダレーナ埋立通りにファサードを持つ2343番地のこの建物は、1600年の建築である。」

ex Convento di S. Maria dei Servi(元サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ修道院)
「セルヴィ運河に沿ったカナール運河通りの2372番地は元サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ修道院の入口である。サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ教会は14世紀建立の修道院を持ち、著名な歴史と芸術の傑作が豊富であったが、1800年代初頭、廃止された。
旧サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ教会の大門[旧サンタ・マリーア・デイ・セルヴィ教会の大門、サイトから借用]  1862年ダニエーレ・カナール修道院長が女子専門学校設立のためにこの場所を獲得し、古い建物がそのまま残された。旧修道院(14~15世紀)のゴシックの大門と美しい薔薇窓のある教会は素晴らしい。この修道院で宗教者・神学者であったパーオロ・サルピ僧は生涯を過ごした(1623年1月7日沒)。」

パーオロ・サルピについては、2019.09.09日のブログ、パーオロ・サルピで触れています。
  1. 2023/04/30(日) 12:22:43|
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サン・ジョッベ教会~サンタ・フォスカ教会

『Calli, Campielli e Canali』からヴェネツィア本島内陸の建造物の紹介は次のようです。カンナレージョ運河のトレ・アルキ橋(アンドレーア・ティラーリが1688年建造し、1794年と1980年に修復された)から左へ入った所にサン・ジョッベ教会があります。
Chiesa di S. Giobbe(旧約聖書の聖ヨブ)
「この教会は、かつてジョヴァンニ・コンタリーニによって建てられた貧しい人々のための病院(今日ではコンタリーニ協会の施設)が傍にあってひっそりした地域だった。聖ヨブに捧げられた小さな礼拝堂が建った。

400年代半ばピエートロ・ロンバルドの案で現在の建物が建てられた。その建築スタイルはその後に手直しが行われたのだが、ヴェネツィア・ルネサンスとしての最初の高評価を受けた。隣接する、称賛に価する回廊側の教会の脇には、オリジナルの尖塔式二連窓が見え、屋根に剥き出しのトラスで、特徴的な天井を見上げる時、教会は輝いて見える。」
サン・ジョッベ教会[サン・ジョッベ教、サイトから借用―サン・ジョッベ教会についてはシェイクスピア関連で2010.06.26日のヴェネツィアの建物で触れました。]

chiesa di S. Maria Maddalena(マグダラの聖マリア)
「古典的な装いで、回りが円形の建物である。1700年代後半、T.テマンツァによって建てられた。古いサンタ・マリーア・マッダレーナ教会は1200年代初頭の物である。マッダレーナ広場に最も特徴的な物は、ピクチャレスクな煙突のある、1500年代の典型的な家屋がある。広場中央には16世紀の井桁がある。」
サンタ・マリーア・マッダレーナ教会[サンタ・マリーア・マッダレーナ教会、サイトから借用]
エロティック大詩人ジョルジョ・バッフォの家系、バッフォ家が1222年に建てたこの教会については、2021.02.22日のカンナレージョ区でも触れています。

Palazzo Correr(コッレール館)
「サリザーダ・サンタ・フォスカ(サンタ・フォスカ大通り)のサンタ・フォスカ広場前のカンナレージョ区2214番地のコッレール館は、1700年代のファサードがあり、2217番地には15世紀ゴシックのヴェネツィアン・オジーブ式の建物である。コッレール家はトルチェッロ出身で、9世紀初めにヴェネツィアに来た。この家の歴史には、教会や政府に何人かの高位高官が輩出した。」
サンタ・フォスカ教会[サイトから借用。P. サルピ像の背後にコッレール館の一部が見えています。]
chiesa di S. Fosca(聖フォスカは3世紀前半、リビアの町サブラータ生まれ。古代ローマのクィンツィアーノのプロコンスルの時代の女性で、処女で殉教し、カトリック教会が聖化した)
「オリジンは相当古く、多分9世紀である。現在の姿は1600年代終わりに建てられたもの。擬古典的ファサードは1741年のものである。サンタ・フォスカ広場の中央にはフラ・パーオロ・サルピの銅像がある。彼は宗教者、神学者、卓越した歴史家、ヴェネツィアの相談役で、1606年パウルス5世からヴェネツィアへ下された有名な聖務停止命令(破門)の時代、ローマ教皇庁と鋭く対立した。」

パーオロ・サルピについては、2019.09.09日にパーオロ・サルピを書きました。またジュゼッペ・ピッターノ著『姓名辞典』は、Fosco/Foscaについて、次のような話を書いています。
「フォスコという名のオリジンは愛称であった。羅典語のscuro(暗い)の意のFuscusから来たもので、肌色や髪が浅黒い人を差した。

文学でFoscaはイジーニオ・ウーゴ・タルケッティの小説の題名である。縮小辞のFoscarinaはガブリエーレ・ダンヌンツィオの小説『炎』の中でステーリオ・エフレーナの愛人が思い起こされる。

ローマ暦の記述には1月2日に聖フォスコが殉教し、聖フォルトゥナータは10月14日にチェザレーアで同じく殉教し、聖名祝日となったと記されている。

名前の変化形: Fusco, Foscolo(フォースコロ), Foscaro(フォースカロ), Foscarino, Foscarina。」
  1. 2023/04/23(日) 22:15:47|
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旧サン・レオナルド教会、クリスト同信会館、ロレダーン=ゲルトフ館

サン・レオナルド埋め立て通りのサン・レオナルド広場に面するex chiesa S. Leonardo(旧サン・レオナルド教会)について『Calli, Campielli e Canali』は次のように述べています。

「この教会は11世紀に建立された。この実在する建物の建設は1794年である。この教会は聖レオナルドの日(毎年11月26日)に、ここを訪れるカリタ同信会のオリジンがあった。1800年代の初め、ここへの信仰は終了させられた。」

ジュゼッペ・ピッターノ著『姓名辞典』は、《Leonardo/Leonarda》について次のような事を書いています。
「Leonardoは“獅子のように強い”を意味するドイツ由来の名前である。lewo(=ライオン)とhart(=固い、強い)から来ている。この名前が幸運なのは、我々にとって現在までも最高の天才の名声のお陰である。即ちLeonardo da Vinciである。現在では、作家Leonardo Sciasciaや作曲家であり指揮者でもあるLeonard Bernsteinがいる。

教会名としては、この名の聖人が色々ある。11月26日の聖名祝日は、この名を持っていた聖レオナルド・ダ・ポルト・マウリーツィオによる。

この名の変化形はNardo、Nardino、また外国の名前はLéonard(レオナール、仏)、Leonard(レオナード、英、レオナルト、独)、Leonhard(レーオンハルト、独)、Lenard(レナルト、独)、Leonardo(レオナルド、西)、Leonilde(レオニウデ、葡)、Leonid(レオニード、露)」

クリスト埋め立て通りのScuola del Cristo(クリスト同信会館)については、『Calli, Campielli e Canali』は次のように述べています。
「スクオーラ・デル・クリスト(クリスト同信会館)とスクオーラ・デッラ・ブオーナ・モルテ(ブオーナ・モルテ同信会館)は、1644年に建設されたそれはサン・マルクオーラ教会のアーケード下に置かれた。今日では宗教文化のセンターである。」
ロレダーン=ゲルトフ館[ウィキペディアから借用]  ゲルトフ・ロレダーン通りのPalazzo di Loredan-Gheltoff(ロレダーン=ゲルトフ館)は、『Calli, Campielli e Canali』が次のように記述しています。
「ミゼリコルディア運河に面した15世紀建築の美しいファサードの館である。ロレダーン家は古い家系で、セレニッスィマ政庁に著名な人材を輩出した。総督に以下の3人がある。レオナルド・ロレダーン(1501~21)、ピエートロ・ロレダーン(1567~70)、フランチェスコ・ロレダーン(1752~62)。」
  1. 2023/04/15(土) 22:35:19|
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ナーニ館、シナゴーグ

Palazzo Nani をWikipedia より。
「ナーニ館はカンナレージョ運河のカンナレージョ運河通りに面する。建物は“カンナレージョの”(後にナーニ・モチェニーゴ家となる)住宅として1500年代に建てられた。この世紀の80年代には、既に再びアレッサンドロ・ヴィットーリアの建築案で手が入ったが、それは内部装飾中心だったに違いない。
ナーニ館[ウィキペディアより借用]  その黄金時代、館は古代ローマの残る史料からなる色々な芸術作品のコレクションが収集されて、玄関の大門の両脇にはローマ執政官の大きな像が1体ずつ置かれた。

このナーニ家は1810年まで存続し、その後サン・トロヴァーゾのバルバリーゴ・ナーニ・モチェニーゴ館に移った。続く年一家の凋落傾向が始まり、多大な冒涜を被った。

1859年にはオーストリア軍に接収され、兵舎に改造された。その後研究所施設に充てられた。その間にコレクションは次々と売却され、散逸した。

2021年にはイタリア人建築家マルコ・ピーヴァによる重要な修復と保全が行われ、ラディソン・コレクション・ホテル系列の宿泊施設となった。 」

Sinagoga Ebraica Levantina を『Calli, Campielli e Canali』より。
「レパントのヘブライ・シナゴーグは、ゲート・ノーヴォ[伊語はゲット・ヌオーヴォ(新ゲット)]広場に向かう手前のスクオーレ小広場にある。1500年代末の建設である。古ゲット地区は政庁の意向で1500年代初頭からヘブライ民族が住居を所有することが許された地区である。ゲットという名前Ghetto(getto)は、以前この場所に鉄を鋳造する(gettare=fondere)鋳造所(fonderia)があり、大砲等を造っていた場所だった。[nuovo(伊語)→novo(ヴェ語、新しい)、vecchio(伊)→vecio(ヴェ、古い)]

その後、この名称がユダヤ人(ヴェネツィア以外に住むユダヤ人を含め)の住む地区を示す名称となった。

こことその後の“新ゲット”にはシナゴーグが造られた。ユダヤ人の聖堂はスコーレ(Schole)[スクオーレ広場]とも呼ばれた。」

[ここで知っておきたいのは、地名として定着した古ゲットと新ゲットは、新ゲットが古くに出来たそうなので、“新ゲット”というのは新しく出来たの意です。間違いやすいです。伊語とヴェネツィア語の違いで、伊語Ghetto(ゲット)がヴェ語Gheto(ゲート)となり、文字の重なりを嫌う傾向があり、例えば脱皮後の柔らかい蟹Mollecca(伊)→Moleca(ヴェ)となり、ヴェ語の母音に挟まれた"L"は無音になり勝ちで、《モエーカ》と読まれ、Moecaとも書いたりします。

またこの“ゲットー”がヴェネツィア生まれだという説は各国の百科事典等ではお馴染みの説ですが、中には日本の独文学者のヘブライ語の疎外の意から来た語だとする説や、最近私が読んだ本でこれが正しいのではとする本が和訳出版されました。

2017.05.18日のヴェネツィアのゲットーをご覧下さい。アリス・ベッケル=ホー著『ヴェネツィア、最初のゲットーGhetto』(木下誠訳、水声社)という本です。この本について次のようなblogがあります。《アリス・ベッケル=ホー》]
  1. 2023/04/05(水) 12:19:49|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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テースタ館、チェンドーン館、スリアーン・ベッロット館

Testa館をWikipediaから。
「テースタ館は、カンナレージョ区カンナレージョ運河左岸(北に向かって)のフォンダメンテ(運河通り)サン・ジョッベに位置する建物。
テースタ館[ウキペディアから借用] 15世紀に建てられたが、16~19世紀に度々手直しが行われた。1531~1748年の間、ノヴァーラの古い貴族テースタ家が所有していたが、最後の血統であったウンベルトの死後、テースタ家の長子の後任であったアレッサンドロ・ディ・マルシャーノ公家に合流した。1808年までこの一家の所有であった。

所有が幾度か変わり、1988年不動産はヴェネツィア県の所有となり、現在は隣接する1700年代の建物と共に、エンリーコ・フェルミ技術院とフランチェスコ・アルガロッティ旅行院の分室に充てられている。」

Cendon館を『Calli, Campielli e Canali』解説から。
「チェンドーン館は、カンナレージョ区カンナレージョ運河左岸(北に向かって)のフォンダメンテ(運河通り)サン・ジョッベに位置する建物。

1300年代のゴシック建築の興味深い例の一つである。チェンドーン家は、裕福な商人で、ヴェネツィア貴族と親戚となり、1400年代からこの地区に多くの建物を建てた。」

Surian-Bellotto館をWikipediaから。
「スリアーン=ベッロット館は、カンナレージョ区カンナレージョ運河右岸(北に向かって)のフォンダメンテ(運河通り)デ・カンナレージョ(サン・ジョッベ運河通りの対岸)に位置する建物。

カンナレージョ運河に面したこの堂々たるファサードの館は、17世紀にアルメニア出身の貴族スリアーン家によって建てられた。建築案は近くの建物サヴォルニャーン館の建築家ジュゼッペ・サルディの物である。同世紀終わりにはブレッシャ出身のベッロットの所有となった。

18世紀フランスのベネツィア共和国大使館官邸となった。その間、思想家ジャン=ジャック・ルソーが滞在した。

ヴェネツィア共和国滅亡後、19世紀、館は長い間破壊が進行し、オリジナルの構造や装飾等、豪華な内部が修復不可能に崩れ落ちた。この館を1770年頃画家のフランチェスコ・グァルディが“カンナレージョ運河の景観”で描いている。フランス人が住んだヴェネツィアの歴史的建造物の中でも数少ないものの一つである。
カンナレージョ運河の景観[グァルディ画、サイトから借用] 舘の一階で2016年12月9日から、“Laguna Libre(ラグーナ・リーブレ)”の展示や文化的な“ecOsteria”に命が吹き込まれることとなった。重要な修復後、“生物工学”の主催者達により、この大きな施設が実現し、高品質で有機的な特産品のレストランやイタリア北東部で最も重要な“ジャズと世界音楽のクラブ”(ヴェーネト・ジャズとのコラボ)があり、公・私のイヴェント会場は言うに及ばず、芸術や写真の特別の展示会場、NGOとそのネットワークとのコラボによる本の展示や公開討論会が行われた。

“ラグーナ・リーブレ”は更に、研究と助言の機関“スマート・ヴェニス”の在所でもあり、そこでは改革を含んだある種の平等、耐久性のあるプロジェクトに取り組んでいる。

2020年12月2日、フランス国立テレビのフランス3チャンネルの有名な文化番組『Des Racines et des Ailes(根っこと翼)』がオン・エアで、ドキュメント《ノートル・ダム、シャルトル、ヴェネツィア: ルネサンスの傑作》が放映された。その中でスリアーン・ベッロット館は、歴史と文化的・食道楽的プロジェクトを持つ“ラグーナ・リーブレ”でもって、2019年11月のアックァ・アルタと2020~2021年のコーヴィド19のコロナ禍後の都市の再生を可能にした例の一つであるとしたのだった。」

ジャン=ジャック・ルソーについては、2009.03.21日のブログ、ジャン=ジャック・ルソーで触れています。
  1. 2023/03/25(土) 23:00:14|
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ペッシェクルード(oppure Puntapietra)

Author:ペッシェクルード(oppure Puntapietra)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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