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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

令和元年

明日から令和時代です。平成19年に始めた私のブログも、今日が“平成”最後の日となりました。
日本国旗ヴェネツィア共和国国旗[日本国旗とヴェネツィア共和国国旗、サイトから借用]  ひと月ほど前、改正在外公館名称位置給与法が参院本会議で全会一致で可決されたため、例えば“カーボヴェルデ”は《カーボベルデ》と変更されることになったそうです。“ヴ”を使う国名が公式文書から完全に消えるということです。国名という地域名が変われば、必然的に都市等の地域名も変わるでしょう(既に変わったものは沢山あるでしょう、というか、外務省では既に、例えばベネチアなのだそうです)。

“ヴェネツィア共和国”という国名も、現在存在しない国名ですが、これなども《ベネツィア共和国》というより《べネチア共和国》となるのでしょう。更に進んで、通常の言葉も《ヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォ→バ、ビ、ブ、ベ、ボ》となるに違いありません。

一般用語として“ブ”は強制されるものではないそうですが、語学をする人は今後は、“LとR”のように、“BとV”の違いにも目を光らせなければならないでしょう。例えばイタリア語の berso(蔓棚)と verso(名詞、前置詞等沢山意味があります)のように、両方“ベルソ”だと混乱しがちです。また或いは、bavaglino(涎掛け)と beverino(鳥籠の水入れ)なども普通書かれる時は、“ババリーノ”と“ベベリーノ”と書かれるでしょう。紛らわしい言葉が色々ありそうです。

最近、かつて高校で習った“フランシスコ・ザビエル”が《シャヴィエル》と教科書等で書かれるようになったと聞きますが、スペインでは"B"と"V"は単なるスペル上の事で、両方とも発音上は"B"音なので、スペインには“ヴ”音はないと聞き及んでいました。“シャビエル”ではないのは、綴り字の"V"故でしょうか。或いは《シャヴィエル》の生れたカタルーニャでは、BとVの発音差があるのでしょうか? 私はヴェネツィアの第四の橋、スペインの建築家サンティアゴ・カラトラバ(サンチャゴと書くべきなのでしょう)氏の設計の《憲法橋》は、ヴェネツィアでは“カラトラーヴァ”橋と通称されると書きました。そういう気遣いをする必要がなくなったということです。

私のブログ、この《イタリア、とりわけヴェネツィア》も《イタリア、とりわけベネツィア》、というよりも《イタリア、とりわけベネチア》(ティ、ツィ→チ)としなければならないでしょう。“ヴェネツィア”派は消え去るのみと悟ったところです。
  1. 2019/04/30(火) 04:30:22|
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Daniele Manin(ダニエーレ・マニーン)(2)

1797年ナポレオンによって消滅させられたヴェネツィア共和国を再興した人達がいました。1848年はヨーロッパ各地で革命の嵐が吹きました。ヴェネツィアも例外ではなかったのです。ダニエーレ・マニーンは奇しくも共和国最後の総督ルドヴィーコ・マニーン一族の姓を、カトリックに改宗する時、貰ったユダヤ人で新共和国の統領になった愛国者でした。彼はだらしなかったルドヴィーコ・マニーンの汚名を雪いだユダヤ人でした。M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori)から彼の生涯を辿ります。
『ヴェネツィア人物事典』ダニエーレ・マニーン[右、サイトから借用]  「 ダニエーレ・マニーン 愛国者(1804.05.13ヴェネツィア~1857.09.22パリ)
1804年5月13日に生まれた。ユダヤ系の倹しい弁護士の息子で、カトリックに改宗した時、代父の洗礼名がマニーンであったので、かつての総督ルドヴィーコ・マニーンに敬意を表して、姓名メディーナからマニーンに改姓した。1825年法科を卒業し、1827年ラーウラ・ペリッスィノッティと結婚、2人の子供、エミーリアとジョルジョを得た。

1840年から反オーストリア活動を始め、1848年にはニッコロ・トンマゼーオと共に捕まった。2ヶ月も経たない内、3月17日、反乱を起こした民衆によって解放された。それは1848年3月23日、彼が新ヴェネツィア共和国の長に任命される、自由への革命の始まりだった。1848年8月11日、臨時政府への任命はオーストリアの圧制を排除する事だけを目的としたものだった。

しかし反乱は、飢えと疫病と悲惨な生活で衰弱し、1849年8月22日にはヴェネツィアはオーストリアに屈した。マニーンは妻子と共に逃亡せざるを得ず、最初マルセーユに落ち延びた。その地で妻を亡くし、パリに行った。パリでは窮乏の極みで、イタリア語を教えながら、辛うじて糊口を凌いだ。

1857年9月22日パリで亡くなり、彼の遺灰は1868年故国に運ばれ、今日サン・マルコ寺院の脇で眠っている。中でも思い出されるのは、彼に捧げられた大モニュメントがマニーン広場の中央に設けられていることである。彫刻家ルイージ・ボッロの作品(1875年)である。 」
[2011.12.10日のドルフィーン・マニーン館もご覧下さい。]

イタリアのウィキペディアは“マニーン広場”について次のように述べています。
「マニーン広場は以前“サン・パテルニアーン広場”(この地にサン・パテルニアーン教会があったが、19世紀に崩れ落ちた)と呼ばれた。広場中央にルイージ・ボッロ作のダニエーレ・マニーン像(1875年)がある。運河と反対側の奥にはネルヴィ=スカットリーン館があり、ヴェネツィア貯蓄銀行である。ピエール・ルイージ・ネルヴィが1972年、貯蓄銀行150周年記念のために設計したもの。……銅像向かって左手の建物の間の小路に入ると奥に“コンタリーニ・デル・ボーヴォロ館がある。 」
ダニエーレ・マニーンの生家ダニエーレ・マニーン像マニーンの住んだ家[左はサンタゴスティーン広場近くのアストーリ通り奥にある彼の生家。右は彼が住んだ家、中央は住んだ我が家を見るダニエーレ。細かい事については2007.11.22日のダニエーレ・マニーン(1)をご参照下さい。]

また革命運動が頂点に達して、アルセナーレに駐屯するオーストリア軍を排除した3月22日を記念した“3月22日通りについて、イタリアのサイトは次のように述べています。

「サン・マルコ広場に近い3月22日大通りは上級品贅沢品を買いたい人に愛される通りである。この通りにはヴェネツィアでも最も重要なブティックがあるのである。この通り名はヴェネツィア史でも最も意義深い日付に関わっている: 1848年3月22日。

何年も前からヴェネツィア市は非常に非自由主義的オーストリアの支配下にあった。3月22日ヴェネツィア人民は二人の愛国者ダニエーレ・マニーンとニッコロ・トンマゼーオの釈放を求めて蜂起した。オーストリア人は町から追い払われ、マニーンを統領として再び共和国を宣言した。しかしこの反抗は不運に終わった。何故なら18ヶ月後、オーストリアは海陸を封鎖して町を飢えさせ、ヴェネツィア人は降伏するしかなかった。

それにも拘らず、1848年3月22日のオーストリア排除は、ヴェネツィア維新の第一歩として文化的レベルでの基本であったのであり、1867年イタリア王国と結び付くことが出来た。
拡張された3月22日大通りの碑 トンマゼーオ[左、道が広げられ、3月22日大通りになった時の碑。右のニッコロ・トンマゼーオ像はサント・ステーファノ広場中央にあり、3月22日大通りの方を睨んでいます]  こうして1881年古いサン・モイゼ通り(直ぐ傍にサン・モイゼ教会がある故)が古い建物等を壊して広げられた時、3月22日大通りと命名された。 ……」
ヴェネツィア上ヴェネツィア下1848年のヴェネツィア革命については、『ヴェネツィア』下巻(クリストファー・ヒバート著、横山徳爾訳、原書房、1997年5月10日)をご覧下さい。2009.02.28日のジョルジョ・バッサーニでも触れています。
  1. 2019/04/24(水) 02:31:02|
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ルドヴィーコ・マニーン(2)

(続き)
「ルドヴィーコ・マニーンの選挙の日には既にヴェネツィアの状況は、多くの人の民主化と自由に対する要求があり、革命の準備が進行する仏国の事態による、国内の不安で緊張感が高まっていた。続く年、ヴェネツィアは反動勢力とフランスによって肩入れされた自由主義勢力との間で、中立を維持しようとした。
ルドヴィーコ・マニーン[ルドヴィーコ・マニーン像、サイトから借用]  1792年8月30日、妻エリザベッタがトレヴィーゾで亡くなり、総督は退位を考えたが、許されなかった。その時は公的機関を少なくとも続行させようとして、公職に就く人全てが良心的に自分の義務を果たすよう、そして今や古臭い司法機関の改革がなされるよう主張して管理した。

ある年代記作者は次ぎのように書いた。《濃い眉毛、茶色で血の気の失せた眼、大きな鷲鼻、上唇が突き出て、草臥れた足取り、やや前屈みの人物だった。表情には内部に恐怖心あるいは嫌悪感といったものが窺われ、彼を形作るそうしたものが全ての行動を支配していた。》

1797年4月30日、仏軍が既にラグーナの沿岸に達して、ヴェネツィアに侵入しようとしていた時、ルドヴィーコ・マニーンはかの有名な言葉を発した: 《sta notte no semo sicuri neanche nel noetro letto.》(今夜我々は、自分のベッドでも安全ではない)。

続く日の大評議会の会議において、仏軍の要求に応えるかどうか、決定しなければならなかったのだが、彼は蒼褪め、震え声だった: ナポレオンは現行の寡頭政治の代わりに、民主体制を作り上げる事を、更に4000の仏軍をヴェネツィアに上陸させる事(ヴェネツィアに外国軍が上陸する事は開国以来初めての事)を、本土側で侵入した仏軍と闘った将軍達を引き渡す事を要求した。

5月8日総督は、司法・行政官全てを呼び寄せ、総督宮殿を革命の長の手に渡す用意があると言った。反フランスの新しい防衛軍を組織すべく、ダルマツィアのザーラに逃亡した、彼に背いた人々もいたが、彼はヴェネツィアから動こうとはせず、5月12日には大評議会の最後の会議の議長を務め、ボナパルトの要求を徹頭徹尾全て受け入れることを決めた。
[5月12日の最後の大評議会で彼の案は賛成512、反対20、棄権5の投票結果だったことが、『Atlante storico della Serenissima』(Supernova、2010.02)にあります。建国時代以来の強かった覇気が、もうヴェネツィアにはなかったのでしょう。]
イッポーリト・ニエーヴォ著『あるイタリア人の告白』[イッポーリト・ニエーヴォ著『あるイタリア人の告白』] 5月15日には総督は総督宮殿を出、家族の居宅に戻り、仏軍はヴェネツィアに上陸した。大評議会の最後の会議はイッポーリト・ニエーヴォの小説『あるイタリア人の告白(Le confessioni d'un italiano)』の中に描かれている。

退位後、ルドヴィーコ・マニーンは臨時政府の長になることを拒否し、あらゆる公式行事への出席を止めた。総督に関わる表章・印は全て引き渡さなければならなかったが、それらは寡頭政治の貴族達家族の名簿である“リーブロ・ドーロ”(黄金の書)と共にサン・マルコ広場で、反対者達によって焼尽された。

修道院に引き籠り、自分の人生を終りとしたかったが、彼のこの最後の願いは実現不可能だった。1802年10月24日、水腫と肺の鬱血で自宅で亡くなった。

葬儀は《出来るだけ質素に》やるように定めていた。精神障碍者、捨て子、持参金の必要な少女らのために11万ドゥカートを遺した。現サンタ・ルチーア駅脇のスカルツィ教会の妻の眠る一家の墓に葬られた。かなり生気の無い文体ではあるが、彼の自筆の回想録が残されている。 」
  ――M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori、2006.11)

2011.12.10日のドルフィーン・マニーン館もご覧下さい。
  1. 2019/04/18(木) 09:30:33|
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ヴェネツィア共和国総督: ルドヴィーコ・マニーン(1)

平成時代も残す処、十数日になりました。平成19年に始めたこのブログも平成時代は終焉です。そこでヴェネツィア共和国最後の総督、第120代ルドヴィーコ・マニーンについて、M.ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editor、2006.11.)から紹介してみます。
『ヴェネツィア人物事典』「 ルドヴィーコ・マニーン(1725.05.14ヴェネツィア~1802.10.24ヴェネツィア)、総督(任期1789~1797)
マニーン家はアルティーノ(Altino)出身で、1297年以来ヴェネツィア在住である。各種の封土を獲得したフリウーリの地に1312年移住したと思われる。1651年はカンディア(クレタ島のイラクリオン)戦争という巨額の出費を要した時代で、10万ドゥカートの寄附でヴェネツィア貴族の仲間入りをした。

ルドヴィーコ・マニーンは1725年5月14日生まれた。父はルドヴィーコ・アルヴィーゼ、母はマリーア・バッサドンナ(下層)で、枢機卿の曾孫であった。5人兄弟の長男。ボローニャ大学に通学、サン・サヴェーリオ寄宿学校生だった。その間、彼が主張した自然権の命題の幾つかが印刷されて存在する。

公人としての人生が始まった時、直ぐに自分の物惜しみの無さ、誠実さ、親切心、特に裕福さに気付いた。26歳の時、ヴィチェンツァ、次いでヴェローナ、最終的にはブレッシャの行政・司法長官に選ばれ、ヴェローナでは1757年の洪水に遭遇した。1764年サン・マルコ財政官最高位に任命された。1787年教皇ピウス6世に敬意を表すべく選ばれ、その間ヴェネツィアの領地を越えていき、教皇は彼を騎士に任命し、数多くの精神上の特権を与えて彼に酬いた。

彼は虚弱ながら、慈悲深い女性、エリザベッタ・グリマーニと結婚し、彼女から4万5千ドゥカートの持参金を得た。

総督パーオロ・レニエール没により、ルドヴィーコ・マニーンの名前は直ぐに、特に彼の富と国家の悲惨な財政状態のために最も知られる名となった。事実ヴェネツィアでは、総督とは巨額の公的資金により対策を講じる必要があったのである。前任者もその死に際して、ルドヴィーコが選任されると予測していたようである。その彼は総督としての威厳を維持する能力なしと自覚していた。候補者が適任と理解するや、自分の立場を守ろうとした。最初は、その一族が貴族となったのは最近だとして、見守っていた。だから総督職に選ばれるのは似つかわしくないと。そして彼を選ばないよう、選挙会で涙を浮かべて嘆願した。しかし最初の決戦投票で、41中28の賛成票で選ばれてしまった。

当時流布した一般的な歓呼の声の中に、ヴェネツィアで最古の家系の一家の一つであるピエートロ・グラデニーゴの発した有名な文言がある。《i ga fato doxe un furlan, la republica xe morta!》(選挙人達はフリウーリ人を総督に選んだ。共和国は死んだ!)

選挙結果が彼に齎された時、彼は気分が悪くなり、ベッドに横にならざるを得なかった。妻は彼同様に内気で、夫の叙任式に出席したくなかった。

当選を盛大に祝うパーティには莫大な費用が掛かった。サン・マルコ広場をいつものように回る時には、新任の総督は群がる民衆にお金を振り撒くのであるが、ルドヴィーコ・マニーンは金貨だけを撒き、彼に従うお付きの者には銀貨を投げさせた。

行列がゆっくり進み、出来るだけお金が投げられることを願った。お祝いに要した総費用は50万リラで、共和国の4分の1以下ではあったが、総督の財力では最大の費用が使われた。 ……」 (2に続く)
  1. 2019/04/14(日) 02:47:11|
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ベルナルディーノ・ゼンドリーニ(Bernardino Zendrini)

先頃の《Il Gazzettino》紙にムラッツィ(i Murazzi――護岸壁)を構築した技術者ベルナルディーノ・ゼンドリーニについて紹介がありました。《Il Gazzettino》紙は前回紹介したガースパレ・ゴッズィの創刊した新聞《Gazzetta Veneta》の伝統的な名前を継承した新聞で、次のようなリードで彼を紹介しています。
Il Gazzettino
「"Murazzi"とは何かを知らないヴェネツィア人やヴェネツィア愛好者はいない。それは少なくとも一度はヴェネツィアに居た(夏にそこで日光浴をした事を含めて)、或いはこの仮説の非常に些細な場合、この事を聞いたこともないという場合も含めてであるが。

しかし1700年代のこの壮大な工学的・水力学的構築物は、何世紀も海の怒濤と浸食作用からラグーナを守護してきたのである(1966年の大洪水の時はただ一度だけ海に脱帽せざるを得なかった)。この時の事を知る人は少ないかも知れない。ヴェネツィアの歴史では能く起きるようにヴェネツィアでは何物も生まれなかったし、論理的に言えば、何物も技術者を作り出した訳でもなかった。……」と。
『ヴェネツィア人物事典』彼の生涯は左のM. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori、2006.11)から紹介してみます。

「 (1679.04.07サヴィオーレ~1747.0518ヴェネツィア)
1679年ブレッシャ県のサヴィオーレに生まれ、ヴェネツィアのイエズス会の学校で学び、1701年パードヴァ大学医学部を卒業した。卒業後故郷に戻り、仕事についていたが、故郷の空気が自分に合わないと判断し、1704年頃ヴェネツィアに戻り、重要な科学者のサークルに入り、そこで医学と数学(熱烈なニュートン主義者だった)についての学識を深めることが出来た。

1708年小冊子を出版した。それは人々に彼を周知させたのだが、その中で自然現象について述べながら、大気やそれに関連する風や旋風についての小論文差し挟んだ、その中に1月25日ヴェネツィアに襲い掛かった竜巻についての一節ががあったためである。

しかし彼が自然界についての明確な自説を得るのは数年後のことで、1715年の研究書『河川における浸食線の発見法』の出版においてであり、その書の中で水の流れの速度測定のための極簡単な手法を記述している。

1720年1月18日彼は、総督コルネール・ジョヴァンニ2世から非常に重要な任務を託された。それは《ヴェーネト共和国の河川、潟、港の水に関する数学官にして監督官》というものであった。その時以来彼の名声は最高となり、彼の助成については、ヴェーネト共和国以外からもリクエスト数多だった。1717年ボローニャ人とフェッラーラ人の意見の争いの相談役だったし、1728年はウィーン宮廷、1731年はラヴェンナのために教皇の仕事をし、1735年ヴィアレッジョのためにルッカ共和国にいた。
ペッレストリーナのムラッツィ[サイトから借用。防波堤の右がラグーナ]  ヴェネツィアでのゼンドリーニの仕事、いわゆる“ムラッツィ(Murazzi)”と呼ばれるリード島を海から守護する壮大な護岸壁は永遠に記憶されるものである。それは1740年(1738年に“カッソン・ディ・マラモッコ”で最初に試作された)から、年に80ペルティカ(1pertica=約10ピエーディ[1piede=約29.6cm]で約165m)ずつ進行して、1760年第一期工事完成に漕ぎ着けた。ゼンドリーニの導入した革新は、あるタイプの岩石、ポゾラン石を手作業で仕上げたことであった。この石に石灰を混ぜ、水面下でも最上の状態で、あらゆる水の力に耐えるべく硬化させることが出来た。そして壮大な作業は別の時代、1800年6月の新教皇ピウス7世の時代、更に1807年12月、ナポレオン時代にも行われた。

1747年5月18日没(彼は自らの壮大な事業の完成を見なかった)。アポーストロ・ゼーノは葬儀の弔辞で《あらゆる文言にあるように、この政府が彼に与えた“苦”であり、大いなる“肯定(sì)であった……》と述べた。

彼の重要作品『ヴェネツィアのラグーナや河川と対話する楽しさ、その古くて新しい歴史の思い出の数々』が没後出版(1811年)された。それは大部の2冊で、彼の全ての覚書やスタディ、《水の数学官・監督官》時代の最初の6年間の研究、14世紀から18世紀にかけて記録として表れた潟と河川のあらゆる現象と特殊性に関するものであった。 」

ヴェネツィア共和国の水の監督官は、伝統的に重要な役職でした。水の問題は現在も続いています。運河の浚渫、運河沿いの建物基礎部への対処、アックァ・アルタ等……何年も掛かっているモーゼ計画はこの先どうなるでしょうか。2013.01.26日のブログアックァ・アルタで、第一期Murazzi 完成時の碑等について触れています。
  1. 2019/04/04(木) 03:16:44|
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ガースパロ・ゴッズィ

この際、カルロの兄ガースパロ・ゴッズィについても見ていきましょう。彼については、M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton editori、2006)に彼の事が纏めてありますので、それを紹介してみます。
『ヴェネツィア人物事典』「 ガースパロ・ゴッズィ(1713.12.04ヴェネツィア~1786.12.26.パードヴァ) 作家
貴族の一家の11人の子供の長子で、弟カルロ同様、一家の経済問題で大いに悩まされた。最初の妻、女流詩人ルイーザ・ベルガッリと共に出版業で、困難で不運続きの道を進まざるを得ず、注文を受け、古代ローマの喜劇作家プラウトゥス(Plauto)、古代ギリシアの『ダフネスとクローエ』の作家ロンゴス(Longo Sofista)、古代シリアのサモサタ出身のギリシア語で執筆した風刺作家ルキアノス(Luciano di Samosata)、仏国喜劇作家モリエール(Molière)、独国作家クロップシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock)等を翻訳して、糊口を凌いだ。

弟カルロの新しい、文化的なものに対する熱情よりは、より開明的で、カルロ・ゴルドーニや、作家や諷刺詩人に対して高い評価を示した。彼の文学的デビューは、1752年選集《Lettere serie, facete, capricciose, strane e quasi bestiali》の上梓だった。

引き続き《La Gazzetta Veneta》(1760~61)、《Il Mondo Morale》(1760)、《L'Osservatore Veneto》(1761~62)と題する新聞を一人編纂・発行し、簡潔・軽快・諷刺的、しかし正確な語法を編み出し、当時のヴェーネトを活写・報道した。

二つの作品『Sermoni』(1745~81)と『Favole espiane』は著名で、モラリスト的着想による、11音節による選集である。更に『Giudizio degli antichi poeti sopra la moderna censura di Dante attribuita a Virgilio』(1758)は、僧サヴェーリオ・ベッティネッリとの論争によるダンテ擁護で、古典主義的修辞学に基づいている。

弟カルロとは、擬古典的なグラネッレスキ・アカデミーの会員仲間であった。

最初の妻ルイーザ・ベルガッリとの間に5人の子供を生した。1779年鰥夫となり、貴族トローン家の家庭教師だったフランス人のサラ・セネと結婚した。トローン家は、その2年前の1777年、彼が自殺未遂を起こし、その後長い間、彼の面倒を見ていたのだった。
ガースパロ・ゴッズィ[像はサイトから借用]  1786年パードヴァで亡くなった。 」
  1. 2019/03/24(日) 03:43:48|
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カルロ・ゴッズィ(4)

彼についてのこの評伝は、まだ蜿蜒と続いていきます。簡略にイタリア・ウィキペディアのゴッズィの記事から紹介してみます。
カルロ・ゴッズィ[サイトから借用]  「ヤーコポ・アントーニオ・ゴッズィ伯とアンジョラ・ティエーポロの夫婦の間の11人の子供の内の第6子で、遠くベルガモ出身の一家は1500年代ヴェネツィアに到来し、幸運にもヴェネツィア本島と本土側(フリウーリのヴィズィナーレ(Visinale)にヴィッラを得た)に所領を獲得した。1600年代にはゴッズィ家は伯爵位を得たが、1700年代初頭には一家の繁栄に陰りが見えた。

この状況が『Memorie inutili(出来損ないの回想録)』の中で彼自身が述べているように、彼の人間形成に影響を及ぼした。兄達ガースパロとフランチェスコには公立学校で通常の教育が授けられたが、彼は平凡な司祭に気儘なレッスンを受けただけだった。それ故当時文学者として頭角を顕し始めたガースパロのようになりたいと、独学で自分の学習を深化させねばならなかった。

1300~1500年代のトスカーナの文学者を特に研究した。それは短編作家のサッケッティとフィレンツオーラであり、ある時にはプルチやブルキエッロ、ベルニであった。

1740年軍に入隊し、4年間ダルマツィアで生活した。帰郷し、文学の勉強を再開し、直ぐにグラネッレスキ学会(アカデミー)の最も輝かしい会員として声価を得た。そこで風刺作品により認められたのである。この会は饗宴とエスプリに捧げられており、真摯の文学目的を持って、外国の影響からトスカーナ文学を守護しようと真剣に取り組んでいた。

フランスの例をモデルにして、ピエートロ・キアーリやカルロ・ゴルドーニの仕事が古いイタリア喜劇を作り変え、社会的努力を排除しようとする気配を感じた。1757年ゴッズィは諷刺詩を発表してそれを救ったのである。それは『La tartana degli influssi per l'anno bisestile 1756』と1761年の喜劇『L'amore per le tre melarance o Analisi riflessiva della fiaba』、寓話に基づいた別の2つの詩のスタイルのパロディである。

それを板に乗せるのにアントーニオ・サッキの劇団仲間の協力を得た。彼らの諷刺的活動のお蔭で、喜劇は大成功であった。サッキの仲間達は舞台を神秘的・神話的に構成して観客に与える効果を計算し、感動を呼んだのであった。それは最初は諷刺的作品として単純に舞台化されたのであったが。

続いてゴッズィは、寓話を下にドラマティックな作品を書いた。最初これらの作品はよく知られていたが、サッキ・グループが解散した後は忘れられてしまった。ゲーテやシュレーゲル、スタール夫人、スィズモンディ等も非常に評価した。この劇作品の一つ『トゥランドット』はシラーによって翻訳されたし、プッチーニの同名の作品にインスピレーションを与えた。

最晩年ゴッズィは、喜劇的要素を大いに取り入れた悲劇を描いた。しかしその作品は当時としてはあまりにも斬新であり過ぎた。次第に彼の新機軸は批評家達の受け入れ難いものとなっていき、彼はスペイン劇に方向転換し、そこから色々な表現様式を吸収した。

しかし彼の初期作品に比べ、恋人の女優テオドーラ・リッチの芸術的才能を際立たせはしたものの、成功は僅かであった。 」

ゴッズィは最初の劇作品『三つのオレンジの恋』(1761)の中で、敵対したピエートロ・キアーリを妖精“モルガーナ”、カルロ・ゴルドーニを魔法使い“チェーリオ”に見立て、批判しているそうです。
  1. 2019/03/14(木) 08:01:55|
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カルロ・ゴッズィ(3)

(続き)
「1744年10月帰郷すると、我々は彼の自伝が伝える2つの労苦に満ちて象徴的な事を目にすることとなる。一つは家の内部がランク落ちしてしまい、通行人が《極貧》で修復不可能と見做している、ヴェネツィアの先祖代々の《館(palazzo)》であり、今一つはカルロは、結局はそこへ行くことになるのだが、ヴィチナーレの《崩れそうな城の頂上に》引き籠ってしまった病父のことである。
Gozzi更に何年かが経過し、その後1747年彼は、弟と年老いた侍女と共に家族と生涯の別れをし、サンタ・カテリーナ地区の倹しい住まいに引っ越した。しかし彼の内面は今や突飛で気紛れな気質が、貧乏貴族の反動的性格と渾然一体となっていた。

30年代末から既に、正にカルロが詩的試みを更に推し進めようとし始めた矢先の事であったが、ゴッズィ家で《文学的常会》として兄ガースパロとその恋人の肝煎りでの集まりが行われていた。メンバーには二人以外に、ヴェルダーニとセゲッツィとジョヴァンニ・スィビリアートで、アントーニオ・スフォルツァ、ジュゼッペ・トマーゾ・ファルセッティ等、錚々たるインテリが集まった。この目的は、続いてゴッズィ・アカデミーと呼ばれることから明白である。

文学的伝統である古典を再興すること、言葉と文体を守護すること、トスカーナの一大シーズンを成した1400年代の活気に溢れた詩人達――ルイージ・プルチ、イル・ブルキエッロ、フランチェスコ・ベルニ――を実際に模倣することで見直すこと。“純粋主義”を標榜したこの会は何年もの間、火を灯し続けた。

1747年、ダニエーレ・ファルセッティがサン・マルコ広場に所有していた建物に、《ゴッズィ》の意図を実現するある一つのアッカデーミア・グラネッレスカ(アカデミー)を設立しようと彼の新旧の友人達が集まった。更にガースパロのお蔭で(彼は当時文学団体の革新の必要性と伝統の継承ということを知的レベルで一致させようとしていた)、アカデミー会員はイタリア文化の枝葉末節では無いテーマに直面しており、例えばそれは、あまりにも長い間過小評価されていたダンテのある役割であり、それ故国内では明確に突出したものとなっていた。

しかし特にカルロの要求としての、独学者が見習い研修的期間に論争したいのだという気紛れな野望は、《グラネッレスコ》のアカデミーの中に押し込められており、アカデミーの色々の報告者達は、パロディーや諷刺、罵詈雑言を引き出してはお巫山戯の文体(時には実地練習で)で楽しむということに専ら意を注いでいた。この会の次から次へと起こる出来事は、カルロに代表されるような傾向が色濃くなっていく。

そのような選択の結果として、グラネッレスコ・アカデミー会員(グラネッレスキ)達は、思想・文化的新情報(関連して言語的に混交した)について、あるいは敵意によって特徴付けられる、夥しい、本質的には匿名の詩歌という成果を産出することになる。その思想・文化的情報が、ゴッズィ家の最年少が学ぶレッスンとなったのだった。そしてこのアカデミックな習慣は痛手を蒙ることはなかった。

それは1757年、執筆してコロンバーニ社から出版される『La tartana degli influssi』まで続くことになる。 ……」 (4に続く)
  1. 2019/03/04(月) 03:34:48|
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カルロ・ゴッズィ(2)

「カルロ・ゴッズィは1720年12月13日、遠いベルガモ出身者の一家に生を享けた。しかし16世紀には《ヴェーネト市民権》を持ち、フリウーリに土地を所有している等、色々な面が知られており、封土の譲与権の更新のための毎年必要な費用のために、わずかな農業税の徴収と貴族の称号の使用の権利が与えられていた。彼の晩年の『出来損ないの回想録(memorie inutili)』の中で自分の事を語ったように、ゴッズィ伯爵家の人々の人生は生易しいものではなかった。
Carlo GozziGozzi父ヤーコポ・アントーニオは《洞察力のある、デリケートな感性》の人間だったが、《他人の影響を受け易い気質》で、奇抜なところがあり、自分の騎士道的性癖に従おうとして、資産を無駄遣いしていた。母アンジェラは、貴族ティエーポロ家の最後の人であり、カルロは否定的には考えていなかったが、この家族の不安定な動向には無関心で、偏った態度で接していた。

それ故11人の子供達は、サン・カッスィアーノ傍のヴェネツィアの家か、あるいはヴィチナーレのフリウーリの住居で、《進歩的で》無節操な自由気儘の中で成長した――教育的・文化的人間形成は、殆ど決定づけられていたのである。兄達ガースパロとフランチェスコは、公立学校の通常の勉強に通うことが出来た。しかし若いカルロの教育に関しては、田舎のヴィッラの熱意ある教区司祭が気が向いた時に、更に年齢を経て同じように町の、杓子定規の聖職者の手に委ねられた。

しかしながら教師達とは不満足な関係ではあったが、長男ガースパロ(彼は当時、才能ある文学者として頭角を顕しつつあった)や友人のジャンアントーニオ・ヴェルダーニ、アントーン・フェデリーゴ・セゲッツィの例や助言がありながら、イタリアの言葉や詩の深化を志す学者への道へは向かわなかった。というより、受ける教育の質に対する正確な判断や兄達やその友人達より優秀でありたいという欲求が、まだ若いカルロの心の中で勉学や著作に対する情熱を掻き立て(鼓舞し)、その過度なまでの独習熱は逸早く自覚的となり、継続的なものとなっていたのだった。

《古き、誇り高きトスカーナ語》を読み、一つの国のニュースを理解出来るように、当時好まれなくなったフランス語風の慣用表現の基本を《ピエモンテ人》から学び、当時の選集に纏められた沢山の文章を書いた(1篇のソネットがアポーストロ・ゼーノを理解する上で役立った)。

特に当時のヴェネツィアで流布していたフランチェスコ・ベルニの詩を範に書かれた跡を辿ってみると、出版されることもない幾つかの詩句(ベルリンギエーリの“Don Chisciotto”や“Gonella”)やフィオレンツオーラの“Discorsi degli animali”の韻文化された“La filosofia morale(道徳哲学)”(未出版)である。

しかし1738年、その間、兄ガースパロは才能豊かではあるものの最低の性格だった女流詩人、ルイーザ・ベルガッリと結婚し、益々混乱していく家族関係の中に彼女を引き入れた。それ故、本と原稿用紙で得られる隠れ家は不十分なものとなり、1740年カルロはヴェーネト軍の随員として、ダルマツィアに行くことに決めた。そこで丸3年間、会合や恋愛や冒険、それは熟考に満ちたものとなった。 ……」 (3に続く)
  1. 2019/02/24(日) 07:50:56|
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聖ヴァレンティーノ

今日はバレンタインデーです。私も一度だけ女性からチョコを戴いたことがあります。会社の少人数しか居ない同じ課で、定年退職する女性が直前の2月14日、男子にチョコを配られました。初体験だったので、大変感動しました。伊語形のヴァレンティーノという名前について、『名前事典』から伊国の様子を紹介してみます。
名前辞典「この名前は動詞Valère(状態が良い、健康である、強健であるの意)に由来する羅典語名Valentinus(ウァレンティヌス)から来たもの。西ローマ帝国皇帝3人がこの名を持っている。

有名な傭兵隊長チェーザレ・ボルジャ(1475~1507)はヴァレンティーノ公と呼ばれた。彼は、法王アレクサンデル6世の名で教皇庁のトップになった、その名の由来のヴァランティノワ公でロドリーゴ・ボルジャの息子だった。全ロマーニャ地域を占有し、中央イタリアに自分の国を作ることを夢見たが、その夢は新しい教皇ユリウス2世の即位で無に帰した。

現代人の中では、編集者ヴァレンティーノ・ボンピアーニ、宇宙飛行士ヴァレンティーナ・テレスコヴァ(ワレンチナ・テレシコワの事)、女優ヴァレンティーナ・コルネーゼとヴァレンティーナ・フォルトゥナート、デザイナーのヴァレンティーノ(ガラヴァーニ)。

ヴァレンティーナはクレパスで描かれた有名な漫画の登場人物である。文学では、ヴァレンティーノはパースコリが書いた同名の詩の中で謳われた少年の名前である。

教会は2月14日、聖ヴァレンティーノ(ウァレンティヌス)のことを思い出す。この日は聖ウァレンティヌスのローマ殉教の日であり、愛し合う人達の愛に捧げられている。何故かならば、中世には2月14日、春の訪れを最初に感じて、小鳥達は番いとなり始めると信じられて、聖ヴァレンティーノの日は愛のお祭りとして祝われたのである。

イラストレイター、レモン・ペネ(日本ではレイモン・ペイネと通称)は、素晴らしい筆さばきで二人の恋人達の祝祭のメッセージを創出した。アングロサクソンの国では、2月14日に送る愛の手紙をヴァレンタインと呼んだ。それは普通、“君は僕のヴァレンタイン”、あるいは“あなたは私のヴァレンタイン”という文句で綴られる。

こうした伝統は、若者の衝動とはあまり関係のない聖人の名前に異教的(古代ローマ的)祝祭を繋げているとして興味深いところである。事実聖ウァレンティヌスは犠牲と禁欲で鉄壁の信仰を守り、殉教したのだった。この名を持つ者は2月14日の聖名祝日にお祝いをする。

この名前の変化形は: Valente(ヴァレンテ)、Tino(ティーノ)、Tina(ティーナ)。外国人名: 仏国=Valentin(ヴァランタン)、Valentine(ヴァランティーヌ)。英国Valentine(ヴァレンタイン)。独国Felten(フェルテン)。西国Valentìn(バレンティン)。露国Valentin(ワレンチン)。 」  
 ――ジュゼッペ・ピッターノ著『名前辞典』(I edizione Manuali Sonzogno、1990.03)より
  1. 2019/02/14(木) 16:11:31|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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