イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(39): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

以前、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto』(LIZARD edizioni、1997.11.)というヴェネツィア・ガイドでリアルトからザッテレ海岸までの街案内をしましたが、今度はアッカデーミア美術館からジュデッカ島まで歩きます。出発は右岸(de ultra)のアッカデーミア橋です。
Corto Sconto 旧、鉄製アッカデーミア橋現在のアッカデーミア橋[中、鉄製の旧橋、右、現在の木製の橋] 「橋上から素晴らしい景観を楽しめる木造の大橋を降りよう。この橋はかつて鉄製で、町で遭遇する全ての鉄製の橋と同じく、オーストリア人の占領時代、彼らによって造られた。橋前にカリタ大同信会館(scuola)があり、それは貧者援助に捧げたスクオーラで、ヴェネツィア最古(1260年)であり、6大同信会館のうち最重要なものであった。
元インクラービリ養育院[現在美術アカデミーはインクラービリ養育院に移りました] 今日、アッカデーミア美術館の在所で、美術研究所(アカデミー)が創設された(1750年)後、1807年創立された。美術アカデミーは脇のゴシック式大門のラテラーノ司教座聖堂参事会員修道院内に設置されている。

人は全世界の区々のコレクションの中でも失われてしまった素晴らしいあらゆる財産に対してノスタルジーを抱くのだが、この蒐集された絵画作品を鑑賞しようとやって来る、文化参観の生徒達の行列が譬えなかろうと参観の価値はあるのである。ここで我々は絵を愛で、美的センスを学ぶ。これこそ全ヴェネツィア絵画を特徴付けるものである。

その名はベッリーニ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレット、ティエーポロ、カナレット、グァルディであり、大運河の日々の生活を描いた、以前にも触れたことのある絵画、我らの大のお気に入りの作品『十字架の聖遺物の奇跡』と共に聖ウルスラ(Orsola)に捧げた、ヴィットーレ・カルパッチョの一連のずば抜けた作品群である。
十字架の奇蹟[カルパッチョ画『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』]   通常芸術についてであるが、他の地方で起きた事と異なって、ヴェネツィアでは詩歌は花咲かなかったとして記憶されているのは興味深い。1400年代末、ヨーロッパのどこの地よりも書籍が印刷されたのであり、実際的な現代の書籍を発明したのは事実である。しかし1700年代のデカダンスも知って欲しい、ゴルドーニ、ゴッズィ、バッフォ、ダ・ポンテがいた。
[ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョの3大詩人はフィレンツェが育てたのですが、書籍については今まで色々に触れています。次のブログ2011.06.11日ヴェネツィアの印刷・出版(1~4)等をご参照下さい。ゴルドーニやバッフォ等についてもあちこちで触れました。]

ヴェネツィアでは、映像、造形美術、建築、モード、そして風景を支配し、全てを現実の汎神論的ヴィジョンで包む色と光が常に支配していた。人間とそれを取り巻く自然は比類なく不思議なハーモニーで溶け合った。例えばジョルジョーネの『嵐』の中で、左の兵士を見ると、彼を包む風景の繁茂した葉群と彼は不思議と溶解し合ったかのように見える。
ジョルジョーネ『Tempesta(嵐)』アッカデーミア美術館ジェンティーレ・ベッリーニ『サン・マルコ広場の祝祭行列』veronese-レヴィ家の饗宴[左、ジョルジョーネ『嵐』、中、ベッリーニ『サン・マルコ広場の祝祭行列』、右、ヴェロネーゼ『レヴィ家の饗宴』(サイトから借用)]  しかしこの絵の傍に立てば、ピアッツァ広場を正確にリアリスティックに描いたジェンティーレ・ベッリーニの『サン・マルコ広場の祝祭行列』(1496年)と生命を吹き込む人間性、そしてサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会にドメニコ会士の修道院食堂に最後の晩餐として描かれたが、検邪聖庁裁判で検閲され、芸術家の自由の保護に関しては嘆かわしい結果の後、若干の変更、『レヴィ家の饗宴』と題名を変えた絵画、ヴェロネーゼの巨大な《晩餐》を見るにつけ、ヴェネツィア絵画の合唱のような局面が思い起こされるのである。
カナの[ルーヴル美術館にある『カナの婚礼』]  もう一つの絵に関して次の事を思い起こそう。サン・ジョルジョ教会の食堂に置かれた巨大画布(その部屋は正にこの絵が置けれるように設えられた)は、ナポレオンによって強奪され、現在はパリのルーヴル美術館にあり、移動すると壊れるという言い訳で未だ返還されていない。
[パリでこの絵を見た時は、感動よりも腹立たしさが先に立ちました。ヴェネツィアと長年争っていたジェーノヴァの持ち物だったコルシカ島(仏語Corse)生れのナポレオン(Napoleone)に略奪された絵です。またニッツァ(現ニース)地方等もナポレオン3世の要求で、イタリア統一を認める代償に、カヴールはフランスに割譲せざるを得ませんでした。私のフィレンツェの友人は測量士で、伊国建国150周年記念の会に招かれ、国が作ったA全版のイタリア地図(会の記念品)に興味があるだろうと、送ってくれました。その地図は世界地図と異なり、コルシカ島もニッツァも空白になっています。見る度に不思議な感慨があります。]

この美術館を後にして、右折して橋近くまで行き、更に二つ目の通り(ノーヴァ・サンタニェーゼ通り)を右へ折れ、その通りを越す(ここの左手に有名なフリウーリのスリッパを見ることが出来る)。右手にピッシーナ・ヴェニエールその先にピッシーナ・サンタニェーゼがあり、泉の前にマドンナの家があり、1630年猖獗を極めたペストの恐ろしい発生を思い出させる家のファサードが顔を出す。

ノーヴァ・サンタニェーゼ通りを橋まで、更にサン・ヴィーオ広場まで進む。運河通りにレストラン“Cantinone Storico”がある。キエーザ通りを進むと終り近くにマルチグラフの工房ギャラリーがあり、そこでフーゴ・プラットの2枚のグラフィック・ポスターが誕生したのである。1枚はイギリスの手榴弾兵を扱ったものであり、もう1枚はコルト・マルテーゼのものであった。 ……」 (40に続く)
ヴェロネーゼの家[ヴェロネーゼの家(サイトから借用)――私がヴェネツィアで語学留学を3ヶ月に渡って初めてしたのは、大運河に面した旧モチェニーゴ館のアパートを借りてのことでした。館の脇門からモチェニーゴ・ヴェッキア通りを抜け、サン・サムエーレ大通りに出ると直ぐ左の3337番地の建物に次のようなプレートが掛かっていました。《Paolo Veronese/ pittore sovrano di Venezia/ trionfante maestro immortale/ per mutare di secoli dimorò/ lungamente in questa casa e vi/ morì. IL XIX APRILE MDLXXVIII》。この家に、ヴェロネーゼが長い間住み、ここで亡くなった事を知りました。以来前を通る度に見上げたものでした。その故か、この辺りは画廊など絵画関係の事務所も多いと聞きました。当然彼の檀那寺サン・セバスティアーン教会にも行かねばなりません。]
  1. 2018/06/21(木) 03:56:54|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの高級娼婦の結婚

先日ヴェネツィアの高級娼婦、ヴェローニカ・フランコについて触れましたが、マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori s.r.l. 2007)には、ヴェネツィア貴族と結婚した高級娼婦の話が掲載されています。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』「1581年の聖フランチェスコの日[彼の聖名祝日は10月4日です]、サンタ・マリーア・フォルモーザ教区で23歳の貴族マルコ・ダンドロと高級娼婦としては最高位にあった20歳のアンドリアーナ・サヴォルニャーンが結婚した。結婚式は町で大スキャンダルを惹起したが、特に新郎新婦間の社会的階級の隔たりが余りにも過度であったがためであった。一人の貴族が好き勝手で一人の高級娼婦を扶養するということは、極普通のことであったが、結婚し、彼女を貴族階級に引き上げることは常識外れであった。

《確かに》と、コメントされている。《ダンドロ家は愛の妙薬に取り憑かれていた。高級娼婦達は財産のある夫を手に入れるために、こうした事をやっている!》。怖れをなした十人委員会さえも行動を開始し、若い二人に対して逮捕令を発したが、二人の結婚を取り仕切った司祭の司祭館で、胡散臭い世相を感じ取った二人が雲隠れしてしまったため、どんな成果も得られなかった。

若者は両親を亡くしており、多分少々単純なお人よしであり、彼女の方はウーディネ生まれで、貴族サヴォルニャーンの召使いの娘で、この貴族から姓を貰っていた。(父親がセレニッスィマのガレー船の漕ぎ手として仕えていたが窃盗で罪に服し)幼くしてヴェネツィアに引っ越さざるを得ず、子供の時から苦しい生活で、11歳から公娼となり、ヴェネツィアやパードヴァで商売をしていた。

彼女の幸運は、1576年の大ペスト蔓延に生き残ったことであり、競争相手がひどく少ないということから、沢山のヴェネツィアの老若貴族との接触が可能になった。その中には令名高き姓の若き芽があった。即ちコンタリーニ、コルネール、カナール、アヴォガードゥロ、ダンドロ、ソランヅォである。こうした人達の中で最もよく通い詰めたのがマルコ・ダンドロその人だった。彼はある時から若い娼婦の家で同棲を始めたのだった。

兄弟のフランチェスコや姉妹、全ての親族はこの不名誉な関係に全面対立しており、この2羽の小鳥に目を光らし始めた。こうして判ったことがあった。アンドリアーナは自宅に数十のホスチアという聖体を小箱に収めて持っており、それはキリスト像を刻印した物であり、宗教的魔術的呪文の類いで、胃痛の時など彼女はそれを食べていた。人々が期待したことは、サヴォルニャーン嬢が直ぐに魔女になってくれることだった。

《で、あなたもあの魔女がマルコにもあのホスチアをこっそり食べさすところを見たいの?》。親族達は言った。《きっと何か悪魔の儀式で魔法をかけられたんだよ》。

魔法という鋭い武器で何も判らない純真なマルコ・ダンドロを彼女に首ったけにさせているとして魔女に対する裁判の下準備をしようと総代司教に申し立てたのは直ぐだった。こうして区々の証拠が直ぐに現れた。《結婚して2時間後には、もうアンドリアーナはベッドで他の男と横になっていた。》と小間使いが言った。《彼女が死人の頭を持っているのを見た。》とゴンドラ漕ぎが話した。《空豆を投げて未来を予言した。》と誰かが断言した。《魔法の草で媚薬を調合している。》 《アヴォガードゥロ公妃を殺そうとした。》等々。結局全ては予想とは逆のものであった。

確かな事は、空豆の話は彼女が作り上げたものであり、正しくこれはこの種の魔術においては最も適正なものの一つであるということ。また確かな事は、“黒”と書かれたホスチアは祝別された神聖な物で、サヴォルニャーンがフラーリ教会の教区司祭から手に入れた物であったこと。更に確かな事は、《彼女が悪魔に取り憑かれ》、同一の司祭に何度も悪魔祓いの儀式で、彼女は祓い清められたということ。その上、他の女達と一緒に、幾つかの祭儀に熱心に参加したということも確か。それは奇天烈な神像を持って歩く奇天烈な行列であり、大きな深鍋で煮え立たせるために入れられた死人の摩訶不思議な頭のことについて言っているのか? 全て本当の事のように思われた。

結果は? 裁判での証言は披露されなかったし、陰口など考慮されなかったから、それについては事実上何もない。サヴォルニャーンは誤解を避けるために最初パードヴァに逃げた、更により安全な別の場所に。ダンドロはローマ教皇庁に助けを求めたが、結婚を無としないだけでなく、妖術の告訴を全て排除してくれた。二人の若者はこうして、ヴェネツィアに意気揚々と帰還することが出来、幸福に愛の生活を全うすることが出来た。

マルコ・ダンドロは人生を進展させ、続いてセレニッスィマの公的生活を栄光あるキャリアで飾り(中でもフェルトレの行政長官)、1616年8月、58歳で生まれ故郷で亡くなった。アンドリアーナ・サヴォルニャーンについては、貴族としての生活が続かなかったとしても、知られていることは僅かである。当時のヴェネツィアの中傷話が定義するように、我々も断言しよう、確かに彼女は“成り上がり者”ではあった、と。」                         
  1. 2018/06/14(木) 00:22:22|
  2. ヴェネツィアの娼婦
  3. | コメント:0

リアルト、サン・ジャコメート教会の時計

先日、6月5日のLa Nuova紙に次のようなニュースが掲載されました。
サン・ジャコメートの時計「 リアルト、サン・ジャコメート教会の古い時計の修復にロッククライマー達
――有翼の獅子が付いた時計の針が撓み、1422年製の歯車が損傷の危機――

6月5日、二人の修復師がサン・ジャコメート教会に設置されている、ヴェネツィアで最も古いと考えられている1422年製の時計の針を修復した。作業はアクロバット的技が求められ、通行人や物見高い人々の関心を呼んだ。事は太陽と時計の針の問題である。これは太陽の熱線で針が撓み、廻りながら時計の他の部分も傷付けてしまう惧れがあるためである。

リアルトのサン・ジャコメート教会の古い時計の修復作戦は、この芸術的な針が時の経過と共に摩耗したということ。太陽の熱線で、中央の有翼のライオン飾りの付いた針が撓み(多分悪天候故に)、1422年に遡る、24時間を刻む時計の文字盤が傷付けられ始めたのだった。 ……」
サン・ジャコメート教会[カナレット画『サン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会』] [ヴェネツィアでは、サン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会は、サン・ジャコメート(S. Giacometo)と愛称されています。]
  1. 2018/06/10(日) 10:00:20|
  2. ニュース
  3. | コメント:0

『ヴェネツィア幻視行』

ジャネット・ウィンタースン著『ヴェネツィア幻視行』(藤井かよ訳、早川書房、昭和63年7月31日)を読みました。ナポレオンに憧れ、彼の召使いとなったアンリは、ヴェネツィア生まれの娘ヴィラネルと出会い、恋に落ちます。ヴィラネルのヴェネツィアとはどんな?
ヴェネツィア幻視行「……わたしは夜が好きです。ヴェネツィアではずっと昔、わたしたちが独自の暦を持ち、世界に超然としていたころでは、一日は夜始まったものです。わたしたちの商売も秘密も外交も暗闇が便りという時に、太陽が何の役に立つというのでしょう? 闇の中で人は変装しますが、ここは変装の都なのです。

あの頃(わたしにはそれを時の流れの中に置くことができません、何故なら時間は昼の光と関わりあっているからです)、陽が沈むとわたしたちは戸口を開け、火屋(ほや)をつけた明りを舳先にかかげ、滑るように漕いでいったものです。

その頃はここの船は全部真黒で、止まっても水に跡一つ残さなかったものでした。わたしたちの町が取引きしていたのは、香料や絹。エメラルドにダイヤモンド。国家機密。わたしたちが橋を造ったのは、水の上を歩いて渡るのを避けるためだけではありません。そんなにはっきりしたものじゃないのです。

橋って人の集まる場所です。中立的な場所です。気のおけない場所です。仇敵同士が出会いの場に橋の上を選び、この中立の場で決着をつけるという場所なんです。一人は向こう側に渡れる。もう一人の方は戻ってこないでしょう。恋人たちには、橋は一つの可能性であり、自分たちのチャンスの隠喩なのです。そして、ひそかに品物を運搬するためには、夜の橋ほど適当な所が他にあるでしょうか?

わたしたちは哲学的な人間で、貪欲と欲望の本質に精通し、神と悪魔の双方と手を握っています。そのどちらも離したくないんです。この生きもののような橋が全てをそそのかし、人はここで魂を失ったり、見つけたりもするのです。……

大運河(グランド・カナル)[普通はカナル・グランデと言っています]はもう野菜船で賑わっています。遊びにきているのはわたしくらいのもので、他の人は積荷を固定したり、友達と議論する合間に、物珍しげにこっちを眺めています。あの人たちはみんなわたしの同朋、だから気のすむまで眺めても結構です。

わたしはリアルト橋の下まで漕いでゆきます。この風変わりな橋は途中で切れていて、街が二つに分れて戦闘状態になったとき、
街の半分との往来を止めるために、引き上げることができるのです。この橋が上げられれば人々は封じ込められて、ついには親子とか兄弟ということになってしまうでしょう。だが、これが逆説の運命というものでしょう。

橋は結び合わせるのが、分つものでもあります。……

大時計のムーア人の人形がハンマーを振りあげ、交互に振りおろします。まもなく広場には人がおしよせ、暖かい吐く息が立ちのぼって、頭上に小さな雲ができることでしょう。わたしの息は火龍のように、まっすぐ前に吐き出されていきます。先祖たちは水辺のあたりから叫び声をあげ、サン・マルコ寺院のオルガンが響き始めます。

凍結と融解のはざまに。愛と絶望のはざまに。恐怖と性欲の間に、情熱は存在しています。わたしは櫂を水の上に平らに置きます。一八〇五年の元旦です。 ……」
  1. 2018/06/07(木) 00:51:33|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:0

書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(4) 

(続き)
「“カタログ”の中で低額の娼婦の傍で(210人中79人の娼婦は1スクードで満足している。《セルヴィのエーレナ・ロッサ》は正に0.5スクードであり、そんな人が4人いる。《アゼーオ橋のキアレッタ・パドヴァーナ》《サント・アポナールのラウレッタ・カヴァルカドーラ》《カステッロのルグレーティア・モルテジーナ》《ピストールの真ん中のマリーン通りのマリエータ・ヴェレーラ》で、彼女達に客は欲しがるものを与えることが出来る)、当時のお金を稼げる可能性に関して、全く些細な幸運を求める少女達に客達は出会うのである。

20スクード稼ぐ《サン・トーマ[San Thoma―当時はS.Tomàではない。サント・ステーファノもSan Stefanoと言われたりした]のチェチーリア・カラッファ》から、25スクードのリーヴィア・アッザリーナや、実に30スクード要求する《サンタ・ルチーアのパウリーナ・フィーラ・カネーヴォ》までいる。

トゥッリア・ダラゴーナに関しては、1535年に刊行された“娼婦料金表”は“カタログ”印刷時に指導的役割を果たし、出版意向と類似の実用性を込めて編集されたということではないけれども、7スクードの額を彼女に割り当てている。譬えジョヴァン・バッティスタ・ジラルディ・チンツィオが言うように、彼女が一晩過ごした独人から100スクードも稼いだことがあったにしてもである。彼女の立場に立てば、空想ではあるが、アントンフランチェスコ・ドーニは贅を尽くした、素晴らしい館に共に宿泊したかった美女の一人の好意を得たいがため、最高額として25スクードを提示した。

ヴェローニカについての浩瀚で資料豊富な研究書の著者アルトゥーロ・グラフは、彼女の職業が明白であるにも拘らず、“カタログ”においては、その能力があるのに彼女の要求する額が余りに低いので、“手引書”の著者の中に誹謗するような意味を感じ取っている。

問題となることは殆ど重要でないが、“カタログ”が1566年と思われるように(確かにそれは1570年以前であるが)本当に出版されていたならば、我らが高級娼婦詩人はその若い年齢からしてまだ駆け出しであったに違いない(彼女は多分1546年に生まれた)。しかしそれは彼女の人生で、より以前に記録された職業的、文学的成功からは程遠いものであった。

18世紀初頭、愚かしさが頂点に到達する。G. カノーニチ・ファッキーニの「15世紀から現代までの文学における、有名イタリア女性の伝記的側面」は、《この美しい、能弁で輝く女性は……若い年頃で書くという喜びと文化の、正に愛の隠れ家を作り上げていた。若い身空で未亡人となり、引き篭もり、文学に専念する……》。

もっと用心深く言えば、前世紀のヴェネツィアの博識なるネストルである、エマヌエール・チコーニャは、この職業の際どい話は避けるようにしていた。そして断言した。《ヴェローニカは独特の美しさを持った女性だった。だから沢山の恋人達がおり、彼らにかなり喜んで身を捧げた》。
[ネストル(Nestore)はトロイ戦争におけるギリシア軍の最も賢明な長老。]

ヴェローニカを、彼女自身とは違った人間であるとする、洗練さに欠ける試みの前では、改心後は品行方正に生活すると称賛するといった風に彼女に関わってきた、1700年代の唯一の評論家、ジョヴァンニ・デッリ・アゴスティーニ師の試みは殆ど悲愴的とも言える。

もう一人のセッテチェントの碩学フラミーニオ・コルネールによって、受容された伝承を基にすれば、彼女は聖ゲオルギウス(S. Giorgio)への祈願として、悔いた娼婦を収容する《救護の慈善院》を創立したかったのである。それは最初トレンティーニに設置され、その後サン・トロヴァーゾ教区に、それもサンタ・マリーア・カルミネ教会からほど遠からぬ所に設置された。

このため直ぐに次のように言われた。1570年11月1日に書かれた彼女の第2の遺言状の中でヴェローニカは、相続人が自分より前に死んだ場合は、自分の財産は次の人に贈られる。即ち《善良な若い娘に贈る。しかしこの仕事を捨てたいと思う娼婦が二人見つかったなら、それに値するか、修道女になるなら、その場合はその二人の娼婦を受け入れ、若い娘は止める》。

そして1580年に、総督とセレニッスィマ政庁に見せるための《秘密のaricordo(形見)》を書いていた。その中で、救護院あるいは収容所の設立を提案していた。そこでは生活を変えたいと望んでいる娼婦をその子供共に受け入れることが出来るのである。しかし《秘密のaricordo(遺言)》にも書かれていることであるが、その中でフランコは、自分の相続人のための年500ドゥカートの年金と引き換えに彼女自身が提案した企画の実現を申し出ており、彼女の進言のお蔭で掻き集めることの出来る金額を引き出せるのである。その《秘密の遺言》は救護院の古文書館に存在し、チコーニャに出版された文書の余白のメモから判るように、公にされなかった。

そして正にこの考えから、その後そうした機関が奏効的に設立される芽が吹き出す可能性があっても、想像であるが、ヴェローニカはその組織とその発展に積極的に参加するということはなく、そこから身を引いていたのである。……」 (引用終り)
  1. 2018/06/01(金) 00:05:41|
  2. 文学
  3. | コメント:0

学校対抗レガッタ

La Nuova紙によりますと、先日学校生徒間の対抗レガッタが催されたそうです。

「 ヴェネツィア、中学高校対抗櫂漕大会
――サン・ビアージョで明朝土曜日、第37回学校対抗の櫂漕大会が開催。120人の初心者の生徒達がカオルリーナ舟での2つの競艇。Ciniと市の共催――

櫂漕によるヴェネツィアの生徒達120人。明朝学校対抗レガッタが、2017年中断後、第37回目がやって来る。予定の競艇は2つで両者共にカオルリーナ舟。第1試合は中級の中学生が挑戦(申込みは10艘)、第2試合は小学生(9艘エントリー)。

折り返し地点のポールが設置されない、15分ほどの短いコース。チーニ=ヴェニエール・ヴィットーレ・ペッキーニの校長や教師サビーナ・ロエンツィーニ、ジョヴァンナ・ディアーナら、スタッフが見張り役。《我々は社会貢献を期待しているのです。》と、学校当局の責任者は語る。《こうした指導が広まること、ヴェネツィアの人口統計のデータが下降し続けていることを意識してのことです。》

《一度いいニュースがありました。》と、“ジョヴァンニ・ジュスト櫂漕”の代表取締役は言う。《昨年の中断後、我々は学校対抗レガッタを再組織することが出来ました。舟上に、上級生のみならず、中学の下級生まで組織出来たのです。》

第1試合は明朝10.15分、第2試合は11.45分出発して、サン・ビアージョ岸の大会事務局到着まで。 ……」
Vogalongaこのヴェネツィアの学生達の大会の1週間ほど前、恒例のヴォガロンガの行事がありましたが、私の都合で触れることが出来ませんでした。次の記事です。La Nuova 2です。
  1. 2018/05/28(月) 12:28:34|
  2. ニュース
  3. | コメント:0

書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(3) 

(続き)
「フォンターナの論拠は、かなり議論に値するもので、事実書かれた時代としても、彼の最新の論文の中に纏められている。《「歴史家は真実を述べなければならない。真実が述べるに値し、必要な時は、記憶に留めなければならない。しかしこれはその場合ではない。意地悪い才能がないなら、真実を明らかにする適切な性癖がないなら、健康な大衆の不賛成に出くわすので、per piacere a quattro 姿を現すことはない。
ヴェローニカ・フランコの肖像[コッレール美術館のヴェローニカ・フランコの肖像]  天賦の才を持つ人、彼女は書いている[ここでフォンターナはタッスィーニを向いているのだが]、酷い身形かも知れない、そしてヴェローニカは才能豊かな娼婦であった。しかし問題はそんな身形であったということではなく、一人の作家がある日大衆にその事を告げるのに非常にあけらかんと大まかにしか語らなかったということなのである。

あなた方の評価の前にこの女をあなた方の侮蔑と共に紹介します。ご存知と思いますが、彼女は有名な作家であり、かつまた著名な娼婦でもあります……》

フランコの職業の事実を否定は出来ないので、だから彼女の擁護者はそれを明らかにする、間の悪さを感じて、結論として愛国主義の中に逃げ込んで、次のように言う。《……我々はヴェネツィアを守るために、フランコを守る。なぜならヴェローニカの不名誉は、ヴェネツィアの不名誉となるからである》。

タッスィーニに関しては、彼は自分の所有する資料に確信があり、第2版の中で本の題名を変更することで満足し、《娼婦 meretrice》という言葉を、実際そんなに醜くはない、《高級娼婦 cortigiana》という適切な用語に変えた。

何年かして、我々により近い年代で別の擁護者が“カタログ”のヴェローニカ・フランカは、『第三詩集』と『家族書簡』のヴェローニカ・フランコでは有り得ないと正に主張しようとした。何故なら“カタログ”の姓名は“a”で終わっていて“o”ではないからである。1500年代には、“a”の語尾が王族の妃を含めて、女性の姓に属するものとする使用法が通常であったことを知らないということはさて置いて、『第三詩集』の大扉でも『家族書簡』の大扉でも、要するに著者は常にフランコではなく、ヴェローニカ・フランカと呼ばれているのである。

フランコやトゥッリア・ダラゴーナのようなコルティジャーナの階級にある者が、“カタログ”の中に、自分の名前を入れる場所を見付けられなかったかも知れないなどという、同じ擁護者の主張は無意味である。 ……」 (4に続く)

[ヴェローニカ・フランコについては今まで、2007.11.03日のVeronica Francoや2010.09.18日のヴェローニカ・フランコ(1)~2010.10.19日のヴェローニカ・フランコ(4)等で、また違った面から触れています。]
  1. 2018/05/25(金) 01:00:15|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
  3. | コメント:0

書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(2) 

(続き)
「《書簡》の美しき著者は、5年前弱、《セレニッシモな我が殿御で御座せられ、尊敬措く能わざるマントヴァとモンフェッラートの公爵》に捧げた《第三詩集》を出版した詩人でもあるが、その捧げられたグリエルモ・ゴンザーガは、ルネサンスがこの地に留まり、多様化するのを見たのであり、量においても質においてもヴェネツィアはローマに張り合った、恋愛商売という軍団に属していた。
ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』[ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』、米国マサチューセッツ州ウースター美術館蔵]   即ち高級娼婦とは、売春の中でも選りすぐりの階級であり、1500年代に正にヴェネツィアで栄えた、洗練され、享楽的な文化のオリジナルな表現であり、その時代は最も熱っぽく、肉欲的で、繫栄した季節であった。そして彼女自身が正にその手紙の中で説明しなければならなかったように、儲けは多いが危険も多い、その仕事の中で成功したということ、その事を特にセンセーショナルな出来事として示している。

即ちフランス王であり、且つポーランド王であったヴァロワ家のアンリ3世の1574年7月18日から28日の間の、ヴェネツィア共和国表敬訪問の機会に、レーパント戦勝後の沈滞した国家の威信の強化にその存在そのものが貢献する賓客を、セレニスィマ共和国は幻惑しようとの目的で催した祝宴の渦の中で、彼女、ヴェローニカと丸一晩過ごせるよう、彼に身柄を任せられるよう求めたのであった。

そしてヴェローニカは、彼女達の席順の第一位にランクされるという名誉に満足し、王のような奉仕で報いられ(彼女の料金が《カタログ》の倹しい2スクード金貨に比べてかなり増えたことは確かである。第24代ヴァロワはリアルトまでの散歩中、貴金属店で素晴らしい宝石を鏤めた錫杖を手に入れるのに、平然と26000スクードも支払うようなタイプの人間だった)、素晴らしいこの贈物を手にする王、即ちティントレットに描かせた彼の肖像画にペトラルカ風の2篇の飾り立てたソネットを添えて、返礼とした。

また職業、この仕事についてヴェローニカは隠そうと思っていないどころか、逆だった。その態度は事実上、《腐敗して》《醜悪で》《卑猥な》等のカテゴリーに属する状況以上のもので(世界で最古の職業についてのモラリストの言葉は、最もエレガントな意味の中でも責めや非難といった用語が夥しいが)、結局は他の全ての事以上に一つの文学的な事件であったし、現在もあり続けている、そうした事の嚆矢となった。

詩を書いた高級娼婦については、ヴェネツィアとローマで大成功したヘタイライ(Etera―古代ギリシアの高級娼婦、一般の娼婦はポルナイ)だったトゥッリア・ダラゴーナを始めとして、既に他所でも存在した。しかしこの世界へのはっきりした彼女の登場は、あらゆる事を考慮に入れてもそれは平穏なものであったし、後悔していますと喪服用の黒ベールで身を隠したりとか、弁解がましい態度で身繕いしたり等しない詩人ヴェローニカに対する純粋の共感が、ある批評家以上に根底にあったのだが、他の批評家から手厳しく非難される原因でもあったように、モラリスト的偏見に満ちたものであった。そして時間の経過と共に、全く弱まっていきそうにない興味が持たれてしまう始まりだった。

上で述べた偏見がために生じた、その世評がいかなる時点まで広まっていくのか、あらゆる真実や根拠に対して、ヴェローニカの職業を隠蔽し、変装させようとする多くの努力が試みられた。博識のヴェネツィア人ジュゼッペ・タッスィーニよって出版されたものは、現在では基本となる、ヴェローニカについての最初のヴァージョンで、その題名で、この女流詩人を《ヴェネツィア娼婦》と規定した。

それは他の研究者のリアクションを活発に惹起し、少々いい加減ではあるが情熱的に取り組んだジャンヤーコポ・フォンターナは、ヴェローニカは決して娼婦などではなく、ただ変わった主婦であっただけで、夫婦の倫理に関しては、やや軽率であった、と支持し難い論文で述べている。

仏王アンリの訪問についてもフォンターナは、《汚らわしくも悍ましい娼宅に、アンリ3世を受け入れるなど許されもしなかったし、ティントレットが肖像画を描いて、最初から携えてきて彼女と共に過ごすなどなかった》と断言した。
Cortigiana veneziana[以下の引用に誤訳があると思えますので、原文を図版として掲げます] そして結論として《社会や文学に貢献した人から月桂冠を奪取しない……天賦の才の価値を駄目にするほどのものではない、誰にもある人間の弱さというものを赤裸々にはしない……謝意を持って敬意を表すべき名前の人から聖なるベールを手荒に剥ぎ取らない……外国語の読書で壊れてしまった美的センスを持って生きていかねばならない悪徳の巣窟で、愚か者達に求められても協力しない。
しかしかくして、売春が文学となっていく……》 ……」 (3に続く)
  1. 2018/05/18(金) 09:24:58|
  2. 文学
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの現在: センサの祝日

昨日曜日はセンサの祝日(伊語でAscensione[キリストの昇天]の祭り―復活祭から40日後の木曜日。ヴェネツィアは直後の日曜日に変更しました)で、ヴェネツィアでは恒例の《海との結婚式》の行事が執り行われる日です。日曜日のLa Nuova紙から、この日の行事予定を訳してみます。
レガッタ「この週末、ヴェネツィア人が待ち望んでいる行事との出会いが今年もやって来た。2018年センサは時に、この町と海との結婚としてよく知られたイヴェントに次ぐ各種の行事が目白押しである。これは宗教的であると同時にスポーツ的で、櫂漕のチャンピオンシップを賭けたレガッタに代表されるスポーツである。

ヴェネツィアと海との結び付きは、今日ではシンボリックなものであるが、かつては商業航路とアドリア海の海外領土獲得のための軍用航路としての収入の源であったが、それは住民と旅行者に町の伝統を活性化させるための機会であった。

事実センサの祭りは、二つの重要な事件を思い起こさせる。総督オルセーオロ・ピエートゥロ2世が、1000年5月9日スラヴ人に攻められていたダルマツィアの人民への援軍と、総督セバスティアーノ・ズィアーニが教皇アレクサンデル(Alessandro)3世と皇帝フリードリヒ(Federico ⅠBarbarossa)1世赤髭王の間の平和協定を取り持った1177年の取り決めである。

Vera Spa(帆会社)によってうまく調整され、センサの祭りは一連の行事がうまく結び合って、本日の17時にはアドリア海の姉妹都市提携が始まり、歴史の流れの中でヴェネツィアと特別の関係があった都市や地域との繫がりを生かしたいとしている。

2016年のフィレンツェ、昨年のモンターナ・アゴルディーナ同盟との後、今年はクロアティアの都市、プーラ(Pola)、ウマグ(Umago)、ノヴィグラード(Cittanova)、メドゥリン(Medolino)、ロシーニ島(Lussino)、ツレス島(Cherso)、ラブ島(Arbe)とセレニッスィマ共和国との歴史的関係を強化する。

式典は総督宮殿で行われる。市長はアゴルディーナ共同体から指輪を受け、クロアティア海岸都市にそれを手渡す。続いてヴェネツィアとその千年の歴史が伝えてきた価値を活用し、信頼し、注意を喚起する抜きん出た行為、あるいは態度を世に示した三人の人物に、2018年センサのオゼッラ金賞の授与式がある。

日曜日当日には、センサ祭委員会の活動のお蔭で、1965年まで繰り返されてきた海との結婚式が再現される。9時30分にはサン・マルコ湾からセンサの水上パレードが出発する。

リードのサン・ニコロ教会前の海上に一度到着すると、総督の指輪を水中投下する海との結婚の儀式が10時30分に祝われる。それ故サン・ニコロ教会での宗教上の荘厳ミサは11時30分となる。

また9時からはサン・マルコ湾とリードのサン・ニコロの海岸の間は、レガッタ用となる。一番手は青少年のプッパリーン舟、9時45分は女子の2人漕ぎマスカレータ舟、次いで男子のレガッタは4人漕ぎのゴンドラ舟(10.30)。しんがりは12時からサンタンドレーア水上機停泊地で、schie とmaciarele のregata(レガッタ)となる。 ……」
[スキーエとマチャレーレの舟形は“regata delle schie”“regata delle maciarele”を図版で検索してみて下さい。]

海との結婚式の謂れについては、2010.04.24日のアッカデーミア美術館や2013.04.27~2013.05.13日の海との結婚式(1~4)等で色々に触れています。

追記: 日曜日のセンサの様子はLa Nuova 2でご覧下さい。
  1. 2018/05/14(月) 12:34:00|
  2. ニュース
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの現在: 鴎の被害

ヴェネツィアのユリカモメによる損傷事件をLa Nuova紙が伝えています。
鳥に襲撃される[カッフェ・フロリアーンの屋外席] 「 ユリカモメに襲われ、病院へ
――ある女性が憲法橋を渡っていた。大きな鳥が彼女からクルミの実を奪おうと唇を傷付けた――

胡桃を食べていると、彼女の口唇からそれを奪おうと鴎が飛び掛かり、傷を負わせた。凶暴な Magoga(水鳥―老婆の意も)の犠牲となったのは、カンパルトのデーボラ・ルカテッロさん。彼女は昨朝、息子の先生との面談のためにチェントロに向かっていた。10時40分頃、飢えた水鳥に襲われた。

《私はピアッツァーレ・ローマでバスを降り、面接時間に間に合うように朝食も摂らず、駅の方へ向かいました。カラトラーヴァ橋を越し、レジョーネ館下の軒下通りを潜る前、バッグに入れていた胡桃を取り出し、まだ朝食を食べていなかったので食べようと思いました。殻を剥き、軒下通りから出て、海岸通りに降りる最後の段に掛かった時、鴎が私に突進して来たのです。》と未だ冷めやらぬ驚天動地の思いの中で、ルカテッロ夫人は語っている。 ……」

近年鳩に餌をやることはサン・マルコ広場では禁じられ、屋台では売っていません。市庁舎のダンドロ=ファルセッティ館の右隣コルネール=マルティネンゴ・ラヴァ館は2階が市の結婚式場で、式終了後、門から出て来た新郎新婦に祝福の米を降り掛けました。その米を目当てに、訳知りの屋上に待機していた鳩達が一斉に飛び付いて来ました。突然の大群にびっくりしましたが、鳥嫌いの人はもう2度と…と言っていました。

妻はホテル・ダニエーレの屋上レストランで昼食をした時、矢張り鴎が飛来し、待機しているカメリエーレが撃退用の棒に布を付けて旗のようにして追い払ってくれたと言ってます。町中でも外で食事が出来るレストランでは、鳥達も判っていて、飛んできますが、人の方も準備万端、撃退用具の設置に余念はありません。一つには観光客の興味本位で、鳥に口移しで餌をやったりすることに鳥達が慣れ親しんだこともあるのでしょう。

私の住む八王子の浅川から、近年毎年飛来していた鴨の大群が冬場姿を見せなくなりました。他の水鳥も同様で、鷺の姿も数羽です。浅川をコンクリートで固めた護岸工事で、冬場は土の土手に潜って越冬する水中昆虫が激滅し、それを食べていた小魚、それを餌にしていた鳥達も住めないのに、小魚を乱獲する、住民の放した鯉が勝ってし放題なのです。川ではない単なる放水路になってしまったに違いありません。この近辺は多摩丘陵と浅川に挟まれて野鳥の宝庫と言われていました(天皇が学生時代、野鳥を見に来られたとか)。路傍の山野草(“雑”草などという日本の野生植物はありません)や自然の気ままな野鳥好きには言葉がありません。

La Nuova紙が以前掲載したラグーナの野鳥達の姿を、2、3掲げてみます。La Nuova 2La Nuova 3La Nuova 4La Nuova 5等です。2013.08.12日にヴェネツィアのフラミンゴについて触れました。
  1. 2018/05/13(日) 16:36:33|
  2. ニュース
  3. | コメント:0
次のページ

カウンタ

カレンダー

05 | 2018/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア