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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

アンジェロ・ラッファエーレ広場の恋人達Gli innamorati dell'Angelo Raffaele

マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007)の中に《アンジェロ・ラッファエーレ広場の恋人達》というお話が載っていたので紹介してみます。
ヴェネツィアの神話と伝説「ある少女がアンジェロ・ラッファエーレ広場の傍に住んでいた。彼女は暫く前から同い年の若者と恋し合っていた。二人は心底愛し合っていて時間が許せば何時でも会いたいのだった。若者は給仕として働いており、夜だけ彼女の家の戸口で、うまくいけば前の広場で会うことが出来た。

ある夜、抱擁し合って別れ、若者が家に向かった時、通りの角で不良少年達の喧嘩に巻き込まれてしまった。刃物が飛びだし、若者は不運にも殺されてしまった。翌日悪いニュースが少女の父親の耳に入ったが、彼は娘にその事を告げる勇気はなく、娘をそっと一人だけにしておき、その内恋心も冷めて、娘も若者にはもう会えないことだから、早々と忘れ去ってくれることを願っていた。しかし事が何事もなく収まってしまうということはなかったのである。

同夜少女の父は、娘が恋人と楽しそうに会話しているのを見て驚いた。二人はいつものように楽しそうに話し込んでおり、愛称で呼び合い、何事も起きはしなかったかのように、親し気に冗談を交わしていた。喧嘩や殺人の話は嘘だったのだろうか、父は自問した。もしかして別の事件だったかも知れない、調べてみなくては!
アンジェロ・ラッファエーレ教会[アンジェロ・ラッファエーレ教会、サイトから借用]  次の日父は、アンジェロ・ラッファエーレ教会の教区司祭に二日前の夜起こった事について確認を取った。娘が真剣に愛している若者が殺されたという話は、実際のところ、どうなのか?、と。確認は得た。しかし、彼の疑問への解答とはならず、更に心配が募った。夜になり、娘がまたあの殺された若者と一緒にいるのかどうか探った。父親にはもう考えられなかったのだ……多分、何か妖術でもあって、娘はその妖術で誑かされているに違いない。

でももう一度司祭の所に行き、自分の不安を彼に話した。娘はこの数日別に変わった事もなかったのに、非常に痩せたと告げた。

直ぐに司祭は深く考え、恋人同士の二人の間には何か誓い合った約束事でもあるのではないかと言った。そして司祭との懺悔の告解が出来るかどうか尋ねた。そして翌日起きた事は……

告解の秘密の中で、司祭は少女に沢山の質問をしたが、ある点では黙して語らずであり、ある点では司祭には率直と思われ、何も危惧してないかのようにハキハキ答えた。最後には彼は、二人にとって存命中も死後もお互いを結び付ける約束事を交わしたのだということがすっかり納得出来た。愛し合う二人にとっては互いに深く考えることもせずにしたその約束は、若者にとって危険な要素があることを示していた。

司祭はその時、少女が若者への興味を失うよう説得し始めた。しかし彼女はそんな事には関心を持とうとしなかったのだが、そこで決定的な事が生じたのである。

その日の夜、近くの広場で今や悪鬼と化した若者を、司祭は肩から頸垂帯を垂らし、聖水と死んだ猫を持って待ち受けていた。若者がやって来て、二人が恋人としての挨拶を交わし、おずおずとしながらも愛情一杯の言葉を吐露し始めるのを待って、司祭は隠れていた場所から飛び出し、若者の前に躍り出た。

死猫の脚を摑み、若者の顔の前に突き出し、悪魔払いの呪文を唱え、聖水を翳し、呪文を唱えながら辺り一面に撒き散らし始めた。同時に連禱と祈禱文と死者の魂の平安を祈った。

若者は雄叫びを発して飛び去り、少女は吃驚仰天したが、事の次第は理解出来た。事の恐ろしさと恐ろしさの余りの悲しさに泣き出したが、司祭が優しく慰めた。漸く落ち着きを取り戻し、死と紙一重であった未来から救われたことは納得出来た。こんな風にして少女の愛した若者の魂が永遠の平和の中に戻って行けたことで彼女は慰められたのだった。

そして少女が、この世を引っ張り回され、悪鬼の如くさ迷い歩かせられることは、もは決して無いだろう。 」

サン・セバスティアーン教会すぐ北にあるアンジェロ・ラッファエーレ教会はヴェネツィア語でAnzolo Rafael と言い、Wikipediaは次のように書いています。
「教会は最初に人の住める地区の一つとして、最も古い地区の一つに建っている。伝説によれば、アルティーノ出身のオデルゾの司教だった聖マグヌスが、町の始まり頃建立させた8つの教会の一つで、7世紀に遡る。この位置にあった教会は899年の出火で焼失し、更に2度、1106年と1149年の火事の如く焼失することのないよう、変わることなく再建された、と記録にある。
アンジェロ・ラッファエーレ教会天井画[フランチェスコ・フォンテバッソ画アンジェロ・ラッファエーレ教会身廊天井画の部分、サイトから借用]  1600年代の初め、建物の仮の安定条件は、これ以後の、完全なる再建となることが必要とされた。それは1639年、ルガーノの建築家フランチェスコ・コンティーンが成し遂げたのである。内部装飾は、特に絵画と彫刻で1700年代、1743~49年実現された。 」
  1. 2022/05/21(土) 16:38:09|
  2. ヴェネツィアの伝説
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史上第一号の、ゴンドラの女性漕ぎ手(gondolieraプロ): ジョルジャ・ボースコロさん

先日の『La Nuova』紙に、試験に合格してプロのゴンドラ漕ぎになった女性、その史上初のGondoliera(ゴンドリエーラ)になったジョルジャ・ボースコロさんの記事が載っていました。彼女については2013.08.24日のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョで少々触れたことがありましたが、プロ・デビューして12年後の彼女の紹介記事です。

「 Giorgia Boscolo, la prima gondoliera di Venezia. Un colpo di remo ai pregiudizi
  [ヴェネツィア初の女性ゴンドラ漕ぎ手ジョルジャ・ボースコロさんは偏見に対して立ち向かう]

Dodici anni fa è diventata la prima gondoliera donna, aprendo la strada a chi ha seguito il suo percorso. «All’inizio c’erano dei colleghi diffidenti, si sono ricreduti. I turisti chiedono di me».
[12年前最初のゴンドリエーラになれた彼女はこのプロの道を歩んでいる。《最初は私(女性)に対する不信感の人だらけでしたが、考え直してくれる人も出て来てくれるようになりました。観光客が私を必要としてくれています。》]

町の一つのシンボルとしてのこの仕事で何をしようとしているのか? 《この町で生活すること。子供の頃から人生でやりたいと思っていた唯一の事です。》

ジョルジャ・ボースコロ――37歳、4人の子供の母親(彼女が12年前試験に合格した時は子供2人でした)。カステッロ区に住むヴェネツィア人。史上初の女ゴンドラ漕ぎとなった。何日か前から、もう一人ではなくなった。サーラ・ピッラ、アウローラ・ペッリチョッリ、ジョイア・モンティの3人が同じ道を歩むことになった。ただ彼女達へのこの仕事への適性評価はまだ低い。しかし……。」

この6月からはヴェネツィアへの入市の人数が制限されるという新聞記事は以前に紹介しました。ゴンドラ利用客の数は必然的に減少するでしょう。観光客だけに依存するこの職業は、この2年コロナ禍でその数が減少していた筈ですし、この先も難しい事態だろうと推測されます。
  1. 2022/05/14(土) 11:39:50|
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ヴェネツィアの大統領

この時期、ヴェネツィアを訪れたイタリア大統領の記事が、『La Nuova』紙にありました。
サン・マルコ広場の大統領Mattarella a Venezia per i 60 anni della Scuola Navale Morosini. Brugnaro: «Sempre vicino alla città»
[モロズィーニ海軍兵学校の創立60周年記念のためにヴェネツィアを訪れたマッタレッラ大統領。市長ブルニャーロ 《町にとって大統領は何時も近しい方です。》]

Il presidente in Piazza San Marco per i festeggiamenti della Scuola navale militare "Francesco Morosini”. Il sindaco Brugnaro: «Grazie per non aver mai fatto mancare il sostegno alla città nei momenti difficili come l’acqua grande del 2019». Mille persone per cadetti e Mattarella. Il ministro Guerini: «Tutto il nostro impegno per la pace in Ucraina»
[“フランチェスコ・モロズィーニ”海軍兵学校の祝典で、サン・マルコ広場の大統領。市長ブルニャーロは《2019年の大高潮時のようにヴェネツィアにとって難しいこの時期に、町を維持していく上に有り難いことです。》 そして海軍士官学生とマッタレッラ大統領を前にした何千の市民。大臣ゲリーニは《ウクライナの平和のために我々は全力を尽くす者です。》]
総督モロズィーニモロジーニ・サグレード館[モロズィーニ総督(サイトから借用)と彼の生まれたモロズィーニ・サグレード館]  ヴェネツィアでは国立海軍兵学校にフランチェスコ・モロズィーニの名を冠しています。かつて“モロズィーニ”家の有名人は色々いたようですが、108代総督フランチェスコ・モロズィーニ(1688~1694在位)がダントツのようです。リアルトへのゴンドラの渡しのトラゲット乗り場があるサンタ・ソフィーア広場の左隣に立つモロズィーニ・サグレード館に生まれたフランチェスコは、特にカンディア(クレタ島のイラクリオン)守護の戦いが有名だそうです。元来“サン・マルコの騎士”を名乗るコンタリーニ、クェリーニ、モロズィーニの三名家の一つです。2015.04.16日にフランチェスコ・モロズィーニ(1~2)で触れています。
  1. 2022/05/08(日) 19:08:21|
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ヴェネツィア: 入市が予約制で入場券必要?

先日の新聞によれば、ヴェネツィアを訪問するのにPCで予約を取らねば街に入れない制度を導入するのだそうです。地元住民の生活を守るための措置なのだそうです。超大型船の入港規制が決まったのは知っていましたが、観光客数の入市規制にまで進んできたようです。ホテルに泊まると入市の税金が科かっていましたが、更に来年からは入場料も徴収されるのだとか。
La Nuova紙「  Prenotazione obbligatoria da gennaio e biglietto. Ecco cosa dice Venezia
Le linee guida già tracciate. Difficile tornare indietro. Lo scontro tra esercenti e residenti, ma anche tra albergatori e Aepe. L’esperta: «Alla città questo non basta ancora. Servono anche politiche di crescita». Un bando per i controllori del ticket, il limite dei 40 mila visitatori al giorno.
La Nuova紙は上のように報道しています。
[1月から予約は必須、更に切符も。ヴェネツィア曰く――ガイドラインは大筋決定。引き返しは無理。商店主と住民の間、またホテル経営者とAepeの間の不一致もあるのだが。専門家は言う。《ヴェネツィアにとって、これでもまだ不充分。成長への対策も必要である》。切符を捌くためや、また日に4万人の入場制限の公告の事もある。]

以上が4月21日の『La Nuova』紙の記事です。実際ヴェネツィア訪問する際はどうすればいいのか、どのサイトにインして手続するのか、丸で判りません。これからの研究です。何年も前から、観光客の数が多過ぎるという文句を住民の方から聞かされていた状況が、到頭こういう事態になったのです。

5月16日のニュースを追加しておきます。
Venezia, 16 maggio 2022 – Da luglio per entrare a Venezia sarà necessario registrarsi. Calli e campi di nuovo prese d’assalto dai turisti dopo due anni di pandemia, hanno fatto tornare la città a fare i conti con i disagi di sempre. Alla ricerca di un turismo sostenibile e, per riuscire ad arginare l’enorme flusso di visitatori in alcuni periodi dell’anno, l’amministrazione Brugnaro sta per varare un sistema di prenotazione online che diventerà, di fatto, un passaggio obbligato per fare una visita a Venezia.

La rivoluzione, per ora in via sperimentale, partirà entro la prima metà del mese di luglio (data ancora da stabilire), tempo sei mesi e il sistema andrà a pieno regime e, a pagamento, secondo un sistema di bollini dal verde al nero. A partire dal 16 gennaio 2023 la tariffa ordinaria per il contributo d’accesso a Venezia sarà pari a 6 euro, salvo nelle giornate da “bollino verde” 3 euro, la quota salirà a 8 euro nelle giornate da “bollino rosso” e a 10 euro nelle giornate da “bollino nero”. Per i vettori, invece, è prevista un’unica tariffa da 7 euro. Il ticket d’ingresso, obbligatorio per le visite giornaliere, non andrà versato dai residenti e dai turisti pernottanti.
  1. 2022/04/24(日) 22:17:25|
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Il sesto comandamento

カ・フォースカリ大学のイタリア語教師である、ヴェネツィア生まれのAnna-Vera Sullam(アンナ・ヴェーラ・スッラム)という先生が、初めて推理小説を書かれたそうで、語学学校ヴェネツィア学院の恩師マッシモ先生が、語学校で学んだ生徒にメール便で送ってくれるヴェネツィア話に、Sullam 教授の"Il sesto comandamento(第七の誡)"という推理小説の一節がありました。1940年、第二次世界大戦が始まって4ヵ月、ヴェネツィアで殺人事件が勃発したという設定だそうです。
Il sesto comandamento[『第七の誡』(SEM、2021.02.18)]  「ポンテ・ストルト(捩れ橋)に向かう通りへ入って行くと、ロドルフォは手で腫れた顎をマフラーで隠すようにして、数ヵ月前からユダヤ上級学校となった運河向こうの館で、誰が彼を待つとも知らず、足早に急いだ。

アルベルティ教授は歯科医院を出ようとしたところだった。法的にはまだ有効なのに、彼や家族、患者さえ数年前から診療することを止めてしまっていたが、優秀な医師だった。アポイントを取るため、ロドルフォは電話したが、診療所では摑まらず、受付のルクレーツィア嬢と話して、伝言を頼み、医師が彼に会ってくれるつもりがあるかどうか、はっきりと訊きただした。ルクレーツィア嬢は何年も判っている患者の質問には驚いた風だったが、ロドルフォの懇請に医師を呼びに行ってくれた。

アルベルティは電話口に来ると、せかせかした物言いで、
《ロドルフォ君、non fare il mona(馬鹿な事、しなさんな)、15時だよ》
[ヴェ語mona/monada=伊語frascheria/bazzecola(馬鹿げた事)]

ロドルフォはこうして10月の雨の篠突く15日に、サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ広場に面する狭くて長い診療所に、親知らずを抜きに行くことになった。救急医院へ行くにはサン・マルコ広場を通ったが、それは道なりということではなく、暫くこの広場に足を運んでいなかったからだった。

広場は雨で人影も疎らで、その時間、総督宮殿の柱廊は偶然に落ちた砲撃の修復のために、被さった覆い布で隠され、バジリカ寺院の正面は、木の足場が組まれ掩蔽されていた。そうしたひらひらする覆いの光景は何か不安を掻き立てた。

ここを通ることを選ぶべきではなく、奥の方の通りを選択すべきだった。メルチェリーア通りやスパダリーア通りであれば、戦時中であることの痕跡には気付かなかったにちがいない。そこでは商店が今でもウインドーに品物を一杯に並べ、レストランは開店していた。もし商店主や食堂主人が入念に調べ、調査をすれば、多くの店は閑散としているし、食堂主人は外国人観光客が光り輝く夏季でさえも、人気がないと嘆いてはいるのだが。

イタリアが参戦して4ヵ月。飢えによる苦しみや死去による空虚感はまだ僅少だった。勝利のテーブルに意気揚々と座す総帥を信じ、それが何週も打ち続くのだと信じる人は多かった。砲撃はなかったし、隠れ家に逃げ出させるような兆候はまだなかった。事実爆撃の目標は工業地帯、特にLiquigas (イタリア炭化水素会社)の施設のある石油港のみだった。しかし50人以上の死者や町に莫大な損害を齎した空爆を記憶する人々は、不安で疑り深い目で空を見上げた。

刻一刻と備えが底を突く可能性が市民を動揺させ始め、それが市民の主たる会話であり、生活スタイルの最初の変化となった。ある種の物、特に油脂類や塩の自由取引は禁止となり、人々が苛ついて、男達がこうした物品・食材を買い占めに走ったという事実から、必需品の欠乏は核心に入ったと納得させられる。不満の声が溢れ、あの男が約束した以上の長期に、戦争が多分続くという惧れが現実になった。
……
カノーニカ橋の方に向かって、ピアッツァ広場を横切って行く時、ジューリオは自問した、政府の意向が明白なら、それは彼のユダヤ人の顧客と比べれば、アーリア人種の職業人の態度に違いないのだ、と。彼はその事を知らなかった。ヴェネツィアのユダヤ人コミュニティの長が送ってくれた政策一覧の中に、そうした規定がもしあるなら、探してみようと思った。

それから階段を昇り、救急医院に通じる廊下に入ると、頭の中は麻酔のために下顎に突き刺す大きな注射針の恐怖で一杯になった。恐ろしそうなペンチで、痛みに痺れた歯を摑み、捩じり、抜き取るのだ。ドクドク噴き出す血、麻酔については用心深くされてはいるものの、痛みが何時再爆発するのか。 ……」
  1. 2022/04/16(土) 22:19:50|
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本の夜明け: アルド・マヌーツィオAldo Manuzio

メールの受信欄を調べると、日本語題名『そのとき、本が生まれた(『L'alba dei libri)』からの抜き書きが、ヴェネツィアの語学学校、ヴェネツィア学院のMassimo先生から届いていました。前回のこの本の話に引き続き、それを紹介してみます。

「ヴェネツィアは本の中心地であった。今日(21世紀)リアルトからサン・マルコへ行こうとすると、メルチェリーエと呼ばれる通りを通る。……その時代、移動しようとして1520年同名の通りを行けば、難なくその通り名が判る。500年経ってもあまり変化がなく、やっぱり同名で、商業目的の土地である。

今日Mercerie[(pl)小間物、またそれを売る店=ヴェネツィア語Marzaria――小間物から商品一般を指すようになったのでしょうか]が、made in Italyを売る店であるなら、当時はmade in Veniceを売る店であり、規模からいっても非常に重要なものであった。もし今日イタリアが世界での産業力で、第6か、第7位にあるとすれば、500年前ヴェネツィアはオリンピックで言えば表彰台に立っていたのである。

当時のヨーロッパにはただ3つのメガロポリス、150万の人口を超える都市は3つだけだった。正しくヴェネツィアであり、パリであり、ナーポリだった。だから何を1500年代のメルチェリーエの店で見付けることが出来るか――働く者も住民も居たのだ――例えば布地あるいはヴェネツィアを有名にした素晴らしい赤色に染められた織物、それはビザンティン人に継承されて、㊙の製法で染め上げられた。

あるいは金の皮、即ちパラッツォ内部の壁面装飾用の金箔で打ち出し細工をして装飾した皮革パネルは、かつてアラブ人から受け継いだスペインのムーア様式の技法で仕上げられたものである。

更に沢山の武器がある。それは紛争があったのであり、大富豪や、ヴェネツィア製の“屑鉄”で豪華に着飾ることをしなければ出陣もままならないヨーロッパの半分を占める君主達のものであった。この通りの直ぐ近くの2つの通り名にスパダリーア(Spadaria――spada(剣)から派生)とフレッザリーア(Frezzaria――freccia(矢)から派生)があり、現在でもこの古い職業名の事を人々は話している。

しかし外国からの来訪者が特に胸を打たれるのは、本屋の事である。何十軒の書籍の工房が、ここではヨーロッパの他の地方とは比べようもなく蝟集していたのである。

我々は歴史家マルカントーニオ・サベッリコ(彼は著作権の最初の受益者として知られている)が記述したように、ある人が本当に本の買い歩きをした事を知っている。2人の友人がリアルト橋傍のドイツ人商館からサン・マルコに向かって歩いて行った時、本屋の店頭に張られた書物のリストを読むのに夢中になり、目的地には到着出来なかった[ヴェネツィアの fontego は商館(倉庫)を意味する。ドイツ人商館は――トルコ人商館同様に現在も存在する――中央ヨーロッパからやって来た、特にドイツ語を話す商人達が宿泊し、自分達の商品を保管し、事務所を経営した]。

約65年前、活字印刷を1452~1455年に発明したグーテンベルクのドイツでさえ、そのトップの地位に到達出来なかった。1500年代初頭、ヨーロッパで出版された全書籍の半分がヴェネツィアで印刷されたのである。第1位というのは量だけでなく、質の点[例えば校正]でもそうだったのであり、それは《印刷者達が切磋琢磨した書物の豊富さがあり、美麗な書籍であった。》

この世紀のヴェネツィアの印刷出版業なくしては、今日我々が知り、我々が話すイタリア語のように、書籍というものは存在しなかったかも知れない。イタリア語はトスカーナ人ダンテやペトラルカの作品を礎に置いているが、人文主義者ピエートロ・ベンボの意に則した出版編集の王であったアルド・マヌーツィオ(次章で彼について述べる)に印刷されたヴェネツィアの出版物のお陰なのである。彼は現代まで続く成功を成し遂げたのだった。

こうした店の一つに入ってみよう。本の売買についての作品を書いたアンジェラ・ヌオーヴォの記述のお陰で、それについて思い描くことが出来る(『イタリア・ルネサンス期の本の売買』)。商品の一部は店の前に展示される。陳列台の上で羅典語や希臘語の古典(初期本の価値は高い)や宗教本(聖書や実録)の表紙を眺めることが出来た(人に盗み心を掻き立てさせないように中身のない表紙だけの展示)。

そして印刷。遠近の町の景観、人生において出会いの難しい人物の描写、不思議な遠国の言葉で書かれた本、しかしある町を訪れた人が話した言葉、その言葉の坩堝は今日のニューヨークでの混淆した様子でのみ比較出来るかも知れない。

ここにアルメニアの本がある。ボヘミアの聖書、グラゴール文字(古代教会でスラブ語文献で初めて用いられた文字――古代クロアツィアの文字で中世に用いられた)のテキスト、キリール文字の本、当然1516年にヴェネツィアに出来たゲットは史上初なのでヘブライ語の沢山の本がある。

多くの店舗は製作工房であり、印刷所であり、そのため商品の大半の書は、印刷者-編集者の制作したものであった。店頭の陳列台の上や入口のドアの桟にぶら下げられたものは参考資料であり、常に販売用に出版された本のカタログとなり、通常は2つ折りしたシートが3、4枚重ねられていた。

他の本屋は、文具店あるいは写本を売る店で、それを作る用具備品を売っていた。即ち、紙のシート、インク入りの壜、ペン等である。印刷の時代には、文具店は写字生の筆耕台で書かれた書を印刷機に掛けて、簡単に本にした。……」 と。

[ヴェネツィアの印刷出版業の商業的・文化的繁栄は、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ修道院に現在でも保存されている、1530年に金属活字で印刷された最初の『コーラン』が存在するという事実が示しているかも知れません。また同じ年頃に『Talmud(タルムード――ユダヤの法律と伝承の集大成の本)』が出版されたそうですが、それは巻物から書物の形に変えられた物で、そうしたアイデアは、当時ヴェネツィアが初めて、出版物を生み出そうとする創造力に溢れていたということなのでしょう。]
  1. 2022/03/30(水) 15:56:18|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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本の革命: 1501年の最初のポケット本libro tascabile

ヴェネツィアの語学学校のマッシモ先生から、ヴェネツィアに関するお話が送られてきた中から、書物に関する話を訳してみます。

「 1501年 本の革命、最初のポケット本
本の革命は1501年4月に始まった。アルド・マヌーツィオが初めてポケットに入るサイズの本を出版したのである。出版の世界にマヌーツィオによって導入された革新の重要性、現在でも使用されているイタリック体や句読点類、索引と註、頁だてといったもの――それは歴史上、当時の最初の編集者が色々な章で例証として挙げているものである。
[アルドのポケット本の始まりは『ペトラルカ詞華集』、ヴェネツィア共和国で最初の印刷本はキケロの『Epistolae』(1469―伊名Giovanni da Spira独人により)だそうです。]

しかし選んだものは完成させる必要があるので、ルネサンス時代の最も素晴らしい書籍について述べた後では、ポケット本と向き合うことになる。何故なら、小型本は編集出版業界に新しい目標を目指させることになったのみならず、読書法を変えてしまったからである。

確かにアルドがウェルギリウスを4月に、その数か月後ペトラルカを出版した時、500年後の我々がこの版型を未だに使用し続けるなど、当時の人々には想像も出来なかった。しかし能く理解出来るのは、版型の新しさはその併せ持つ効果、即ち読み物が楽しみであり、読書することは喜びであるということ、それらを同時に齎したということである。

それについては、彼の友人であった年代記作者のマリーン・サヌードに、政治や研究の仕事から手が離れた時に、自由に読書をさせてくれるのはポケット本であると、教えている。また一方、バルトロメーオ・ダルヴィアーノには軍事作戦中にもこの小型本を携えれば、作戦会議の合間にも自分の事に集中出来ると教えている。

これは多分、本と出版の世界にマヌーツィオが齎した改革の中で最も重要なことであった。現代の出版印刷は彼のお陰によるものだし、この状況は、何よりも彼が創り上げたものであることは確かであり、彼はこうした事が必要なのだという認識を掘り起こしたのである。

ポケット本以前は、人々は仕事のためか、自ら学ぶために読書をしていた。その後、自己満足のため、即ち結果として暇潰しのために本の必要性が増加したのである。

小型本という改革は時代的なものである。我々も500年経った今、余暇過ごしに読書し、読書それ自体が楽しく、快適に時間を潰す。こうした新しい考えは、新しい読書法、あるいは黙読から生まれたものである。1ページ大が巨大な本は一度は頁を折り込まれるし、40cmの高さが必要だった。重い本で嵩張って、邪魔な感じだった。本は強固な書見台の上に置かれ、聴衆の前で声高に読まれた。

能く知られた例は、修道院の食堂で食事に夢中の仲間の修道士に大声で読み上げたのである。それに代わって小型で薄い本が、あらゆる変化と共にやって来たのである。自由な時間は目に見えなくても、静かにその変化が到来したのである。

ピエートロ・ベンボとの関係は既に述べたが、基本的なものであった。俗語と肩書の選択は、一種の理想的な宣伝文といえる。俗語の使用は、羅典語の読める知識人だけでなく、幅広い読者との意思疎通に繋がる。『カンツォニエーレ』は勿論の事、ペトラルカが何が俗語であるか、書名を選んだ時、更にそれを強調することが出来た。俗語の小型本のシリーズを選ぶことは、ペトラルカにとって偶然のことではなかった。ベンボの珠玉の選集は――彼以外のダンテとボッカッチョの場合もそうである――輝かしいものであった。

1500年代を通じて、その他の本と一緒に約10万部(この数字は一つの企業では信じがたいものであった)、ペトラルカは売られ続けた。そこでは、読み且つ書く、という行為は少数者の特権であったが、今日においてもベストセラーと呼べる普及度であった。

小型本の利用は倍増した。何十年か後にピエートロ・アレティーノは書くことになる。高級娼婦のルクレーツィアはペトラルカについてあらゆる事を記録している、と。マヌーツィオの小型本のお陰でそうした事を学んだのだと、想像に難くない。

ポケット本の成功はトーマス・モアによっても力説された。ユートピアの住民達はアルド出版の名声を活用したのである。ロッテルダムのエラスムスは、アルドの目的はプトレマイオス王やアレクサンドリアの図書館よりも、もっと野心に富んだものだったと観察している。あるいはそれは『この世界に、閉鎖的でない、境界なき図書館を創出すること。』

実際のところ、マヌーツィオは八折り判の小型本を編み出した最初の人物という訳ではない(印刷紙を8つ折りした、約16x10cmの本)。祈禱書で既に使用されていた。しかし、羅典語であれ、俗語であれ、広い読者に向けた文芸本での使用は初めてだった。ピエートロ・ベンボの図書室に保管されていた小さなサイズの写本を見た時、アイデアが閃いたのだ、という。

ポケット本は薄く、製本し直さなくても読める。その上安い。だから学生が容易く手にすることが出来、それを実際に手に持って、校内から別の場所へ移動出来た。

ポケット判はイタリック体で印刷された。新しい活字はボローニャ人の金細工師フランチェスコ・グリッフォが仕上げ、アルドと共に仕事した。イタリック体はヴェネツィアの総督宮殿で書かれた記録文書の書記局風文字に似ているし、ローマン体よりもっと読み易いと思われる(今日では逆だと考えられている)。しかし特に、よりコンパクトで、紙面に余裕が出る。それが重要な要因であった。

誰でもパソコンに文章をイタリック体で書くと、ローマン体に比べて文字幅が狭くなることに気付く。それは書物でも同様である。紙の値段が1冊の本の最終コストの半分程度で済むといった時代、紙の節約は本質的に費用の節約を意味するのである。

要するに現代までの5世紀の間の、人間の知識の蓄積と伝達のために、最も効果的なやり方で本を出版したのはマヌーツィオだったのであり、全てはポケット本が決定的な役割を演じたということであった。……」
アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ『ゴンドラの文化史』『そのとき、本が生まれた』この抜粋はヴェネツィア生まれ(1962)のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョ氏が書いた"La carrozza di Venezia. Storia della gondola."(『ゴンドラの文化史』和栗珠里訳、白水社、2010年8月30日)の次に日本で翻訳された"L'alba dei libri. Quando Venezia ha fatto leggere il mondo."(『そのとき、本が生まれた』清水由貴子訳、柏書房、2013年3月1日)の一節です。この本については2013.08.31日のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョで触れています。その他、《アルド・マヌーツィオ》で検索して頂ければ、彼の事績に色々触れています。
  1. 2022/03/20(日) 22:08:45|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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かつてヴェネツィアに赤線地帯luci rosseがあった

以前紹介した Youtubeにかつて赤線があった地区という動画がありますが、イタリア語の解説アナウンスが文字としてアップされています。イタリア語の判らない方に、その説明を訳してみます。その説明の言葉を映像に合わせるのは、難しいですが。
スクリーンショット「 かつてヴェネツィアに遊廓があった
セレニッスィマ共和国は、文化的には難しい面を抱えてはいたが、豊かな民族性を持っており、何世紀にも渡って、少なくとも正当な喜びや楽しみを享受している土地のシンボルとして、赤線地帯が完全な形で存続していた。

始まったのは13世紀のことで、ヴェネツィアにとって政治的事件が頻発した時代であり、取り分け総督に対して、一連の陰謀が仕組まれたことが記録されている。住民に対して一生の間、例えば自由な服装をすることさえ抑え、抑圧的な大評議会は1358年の通達で、狭迫に締め付ける環境を押し付けた。

大評議会は1358年の通達で、市内在住の娼婦達を集めるに適した場所を探すように各区の長に命令した。最初に選ばれたのはリアルトに近い場所で、“castelletto(カステッレット)”と呼ばれた一群の背の高い家々で、6人の番人が管理をした。

しかし十人委員会は商売の値段と時間、外出する時の時間と区域、外出時は黄色いハンカチを身に着け、“zatterone(ザッテローネ靴)”は50cmまでのヒールの高さ、居酒屋や食堂は夜間の出入りは禁止、という制約を設けた。しかし規則は頻繁に破られた。
Calcagnetti[calcagnetti、サイトから借用。このzatteroni(複数、コルク製ヒールの女性用のサンダル)は、ヴェネツィアではzoccoli(calcagnetti)、英語でchopine、patten等と言われ、実物がサン・マルコ広場のコッレール美術館で展示されています]

1421年全公娼は富裕の一家ランパーニ家の最後の相続人が死亡して政庁が手に入れた家屋に移動する決定がなされた。事実相続者が無く、動産にも不動産にも遺言状が無く、セレニッスィマ共和国に所有権が移動した。そのためその地区は“Carampane”(カランパーネあるいはランパーニの家――Ca' Rampaniから)と呼ばれるようになった。

16世紀初頭、2種類の娼婦がいた。一つは“di lume(ランプの)”娼婦(貧しく無学だった)と“onesta(気高い)”娼婦(高級娼婦――排他的な貴族階級と交際出来、高貴になる可能性もあった)である。11000の娼婦がいたとする1509年の市勢調査からすれば、町で実際に行われていたこの商売は危機に瀕していたと思われ、それは特に男色の影響によるものだった。倫理的に男色を嫌悪・排斥する政庁は、同性愛者の見せしめとなる刑罰を決定した。そして娼婦達に窓から乳房を露に出して客引きをすることを許し、今日でもその名残である“乳房橋”がある。
[イタリア語の carampana(身形のだらしない女)という言葉は、この事実から言葉の成立が始まったようです。]

この地区にはもう一つの興味深い名前がある。Fondamenta Sottoportego(ソットポルテゴ運河通り)と Stua (ストゥーア)小広場である。リアルトの“ストゥーア”という場所は、ローマの calidarium(温泉にある乾燥室)と同じ公共施設で、そこでは“stueri”[伊語のstufaiolo のことで、足の胼胝や魚の目を手術する専門の治療師]という身体の下部の“手術”をする医師が身体や手足を治療し、禁じられているにも拘わらず、売春婦との間の女衒の役をしていた。

一寸離れた場所に、夜間能く客の集まる場所があった。サンタ・マリーア・マーテル・ドーミニ教会の、今ではなくなってしまった列柱のあるアーケードである。1488年十人委員会はそこを厚い板で囲い、閉鎖した。

赤線地帯はリアルト橋を越して、サン・マルコ地区に繋がっていた(当時1500年代末までは木の橋――アントーニオ・ダ・ポンテの石橋の完成は1591年)。娼婦の顧客が通うに当たって、“del buso(デル・ブーゾ)”とか“dei rufiani(デイ・ルフィアーニ)”とか通称された乗船料を払って、渡し船で通ったのであった。
[江戸でも、吉原に通うのに大川から船で山谷堀を通ったそうです。]

“Nizioleti(ニッスィオエーティ)”という貴重な道路標識のお陰で今日でもこの地区を歩き回り、500年前のヴェネツィアのミステリーを再発見することが出来る。 」

[世界で最も古い職業の一つである売春。ローマではピウス5世(1566~72)はローマの浄化を目指し、町から娼婦を追放したために、門前町化したローマの経済は大混乱したと伝えられています。ヴェネツィアでは1514年アルセナーレの工事のために娼婦達に多額の臨時税を科し、工事を完成させたと言われているそうです。しかし豊富な資金を持つ娼婦にたかる“ひも”や女衒の類には目を光らせ、1492年の文書に女衒追放令が出されたことが書かれているそうです。
詩も書く高級娼婦として名をなしたヴェローニカ・フランコは1580年、総督に500ドゥカートを差し出し、老齢の娼婦を収容する施設を作ってくれるように頼みました。結局貴族の婦人連が動き、サンタ・クローチェのサン・ニコロ・ディ・トレンティーニ教会近くに施設が設置されましたが、その後転々と、サン・ピエートロ・ディ・カステッロ教会傍、サン・トロヴァーゾと動き、結局1593年カルミニ運河のソッコルソ(救護)橋前のソッコルソ運河通りに定着しました。『Calli, Campielli e Canali』はこの Ospizio e Oratorio S. M. Assunta(2585番地)を次のように書いています。
soccorso[2585番地、サイトから借用]  「救急救護院(Ospizio del Soccorso)は、有名な高級娼婦で詩人のヴェローニカ・フランコの希望があって1593年設立され、自ら罪を贖うつもりのある正道を外れた女達を収容した。この運河通りに面してファサードを持つ Oratorio(祈祷所)の建設は1609年に遡る。内部全体は、1700年代末頃に徹底的に修復された。」 
ヴェネツィアは中世以来、聖地エルサレムへの巡礼のためにフランスのマルセイユと共に地中海の基地港として巡礼者が集まったそうですが、船の出港を待つ長期間の町の観光には色々配慮をしたようです。 ]
  1. 2022/02/20(日) 04:28:54|
  2. ヴェネツィアの遊郭
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ヴェネツィアのカーニヴァルcarnevale 2022年

Il Gazzettino紙や La Nuova紙は例年の謝肉祭の模様を報じています。

2月12日から恒例のヴェネツィアのカーニヴァルが始まったようです。生活に密着した宗教行事ですからコロナ禍の中、取り止めという訳にはいかないでしょう。そんな訳で、今年は縮小して、例えばサン・マルコ広場に人が蝟集するイヴェント“天使の飛翔”等は、本年は中止だそうです。 
カーニヴァル[La Nuova紙より借用]  本来の地元優先の、市民のための行事ということで、一方的にサン・マルコ広場に人が蝟集しない様に、小広場や島嶼部に分散して催し物が行われるようで、仮面の品評会等も今年はどうなるのでしょうか。 3月1日火曜日がフィナーレとなるそうです。
  1. 2022/02/13(日) 22:20:28|
  2. ヴェネツィアの行事
  3. | コメント:0

最後のブチントーロ船L'ultimo Bucintoro

Bucintoro、羅典語でBucentaurus と呼ばれるので Bucentauro とも呼ばれる、今は無きヴェネツィアの豪華船は総督のお召し船で、ヴェネツィア語で buzino d'oro(burcio d'oro)が語源だそうですが、数回建造され、最後のブチントーロ船はヴェネツィアで略奪し放題だった仏国の大泥棒ナポレオンにより、焼尽されてしまいました。そのブチントーロ船について、G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』に次のような話があります。[burcio=伊語burchio で櫂や帆で動く船の意]
『ヴェネツィア奇聞』「誰でも知っているようにブチントーロ船とは、金箔が施され、板刻が豊富で、祭礼装飾が満艦飾の素晴らしい船であり、アルセナローティ(造船所の職人衆)に操舵され、総督の厳かな御出座しの時、特にセンサ(Ascensione)の日の“海との結婚式”の際やヴェネツィア来訪の外国の貴顕の歓迎式には際立ったものであった。

始まりは817年に選出された総督ピエートロ・トラドーニコの時代に遡るものである。
ブチントーロ船最後のブチントーロ船は総督アルヴィーゼ・モチェニーゴの下で製作され、ナターレ・ステーファノ・コンティがデザインし、アントーニオ・コッラディーニが彫刻し、1727年5月12日、赤く彩色され、進水した。69年10ヵ月間、共和国滅亡時まで存在した。

その当時を見るに、残念な事に総督や政庁の役人衆に供した、金箔を施した大型のペアート船(peatoni)や Jorch 公のために1760年に建造されたフェラッカ船と共にサン・ジョルジョ・マッジョーレ島でナポレオンに焼尽されてしまった。1805年にはまだその形骸か竜骨が残存していたが、その後ラグーナの守護管理は大型のペアート船に変わった。

市の博物館には最後から2番目のブチントーロ船の、黄金の刺し子で模様を施した絹の旗以外に、最後のブチントーロの、聖マルコに金箔を施した帆と使用した貴重な木材の残片が保存されている。 」

[この船については、2013.11.13日のブチントーロ船や2014.01.16日のブチントーロについてで触れています。また船については、2011.02.26日の船、舟で触れました。
  1. 2021/12/11(土) 22:55:08|
  2. ヴェネツィアの船
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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