イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの女性: ペギー・グッゲンハイム(3)

(続き)
「父方の祖父マイヤー・グッゲンハイムは原産地からの織物の輸入業を始めようと、1848年7人の息子達とスイスからアメリカへやって来ていた。しかし銀、銅の採掘と、その冶金の業界で財を成していた。セリグマン家はアメリカで最も重要な金融業者だった。両家とも金の稼ぎ方はもとより、それをどこでどのように使うかも熟知した人達だった。

マイヤーの息子の一人マレーはペギーの伯父でもあるが、ニューヨークの貧しい人達のために歯科診療所を設立した。別の伯父ダニエルは、科学芸術活動促進のためにグッゲンハイム基金を設立した。一方ソロモンは自分の名前と同名の財団を持つ博物館を設立し、また別の兄弟シモンは、芸術文化振興を促進し、価値あるものにするためにグッゲンハイム・メモリアル基金を息子のジョン・シモンの思い出のために設立した。

ペギーの父ベンジャミンはあまり芸術文化には向いていなかったが、彼の死は大変高貴で、高潔な行為であり、隣人愛の範を垂れるものであった。1912年4月15日タイタニック号の沈没で死んだのだった。英雄的な最期だったと伝えられる。というのは紳士として自己犠牲を示し、ある夫人に救助艇の自分の席を譲ったのだった。そして最後まで自分の義務を尽くしたと妻への伝言を頼んだ。

この悲劇が届いた時、ペギーは20歳前だった。遺産は相当なものだったが、伯父達の計り知れない規模の財産ではなかった。だから彼女は働くことを決め、ある図書館に勤め、芸術家達と付き合った。

しかし生まれながらの持参金は、譬え教育と経験によって形作られ、強化されたにしても、あるレベルには届かなかった。図書館で彼女は美術畑の人達を知り始め、美術作品制作の生きた実際を直ぐ傍らで見るようになっていた。

1920年、22歳の時、ヨーロッパに向けて乗船した。目指す先はパリである。彼女が呼吸しているのは美術界であるのは明白だが、伝説的なパリの芸術家コミュニティの魅力は、彼女を魅了して止まなかったのである。パリでは働く必要はなかった。結局厳密な意味においても必要という観念をニューヨークでも持たなかったのである。
ペギー画像[マン・レイの撮ったペギー] 彼女は多くの芸術家達のど真ん中で、熱狂的に、自由奔放に若さを生きた。その中で有名になったのである。偉大なるマン・レイの著名な写真は、コンスタンティン・ブランクーシとマルセル・ドュシャンと共に彼女を表現している。しかし[ジェーノヴァ湾に面した]ラパッロで出会った詩人エズラ・パウンド以外、彼女の友人達はノヴェチェントの芸術家なのである。

1938年には到頭ロンドンのコーク街へ行き、画廊を開いた。1月の最初の展覧会はジャン・コクトーのデッサンであった。更にヴァシーリイ・カンディーンスキイのイギリスでの最初の展覧会、それとイヴ・タンギーの展覧会があった。
マックス・エルンスト[マックス・エルンスト『花嫁の着衣式』] 第二次世界大戦は彼女をニューヨークに連れ戻し、コレクションを戦禍から救った。そしてニューヨークでも“Arts of This Century”という画廊を開いた。そしてその間も彼女のコレクションは増えていった。即ち、ピカソ、マックス・エルンスト(1942年に結婚した)、マグリット、サルヴァドール・ダリ、クレー、シャガール、ムーア、カルダー、ジャコメッティである。

そしてジャクソン・ポロックを見付け出した。彼はペギーに24時間態勢(夜も昼も)で雇われる前に、ニューヨークで伯父ソロモンの博物館の大工として雇われていたのだった。」 (4に続く)
  1. 2017/09/21(木) 00:03:37|
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ヴェネツィアの女性: ペギー・グッゲンハイム(2)

(続き)
「……タンクレーディ・パルメッジャーニ(画家としては簡単にタンクレーディと通称)は偉大な画家だった。19世紀芸術の革新的欲求にひどく敏感に反応し、心の情動、愛、苦しみにも深く突き動かされた。1964年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した。それはいくつかの成功の後に到達した目標地点だった。

そしてタンクレーディは、1964年9月27日、テーヴェレ川に身を投げた。彼はこの時期、ペギーと同棲していた。しかしその同じ時期、画家ローレンス・ヴェイルとの初婚で生まれた長女ペギーンも女流画家となり、ヴェネツィアに住んでいた。若い二人の間に恋愛関係があったと“言われている”(ペギーに関わる事で、何度“と言われている”と言われることか!)
ペギーン・ヴェイルヴァイル[左、ペギーの長女ペギーン・ヴェイル、サイトから借用。右、ペギーン・ヴェイル画『大運河で』]  多分これは多くの事、タンクレーディの自殺や3年後のペギーンの早過ぎた死、等を説明するやも知れぬ。彼女の死にも自殺という重しが大きく圧し掛かっているからである。《愛と死という血の繋がった兄弟は、運命的に未来を左右するだろう》とレオパルディは書いた。このケースの場合のように、時にそれは真実である。

しかしここではロマンティックな要素など何も見出すことが出来ないのである。勿論ペギー・グッゲンハイムの偉大さは“恋”の冒険の中にある訳ではない。そんな事、考えないで頂きたい! この世では、何よりも恐ろしいライバル達に出会うだろう。それは何も美術界だけではない。

しかし芸術的な素質については特別に注意して、常に愛人を選ぶという事を知る必要がある。本当のところ彼女の付き合う男達の大部分は、最初の夫ローレンス・ヴェイルから2番目の夫マックス・エルンスト(もう一人の自殺者であった)まで、概ね彼女の多くの愛人は芸術家であったが、それは大芸術家であったのだ。

ポロックから……と手当たり次第に名前を連ねることは出来るかも知れないが、目撃者はいない。更に彼女の友達の画家達何人が、真に彼女と共にベッドまで辿り着いたのか我々は知らないのである。何人かの人の言葉に、賄賂のように甘く擽るような言葉があるかも知れないのだが。

ある人が言っている、ペギーは絵の収集家というより、画家の収集家だった、と。そして他の人も安易に告発的言質を投げ掛けている。ペギーのような大マネージャーの手に掛かれば、ジョットのような人間でも最終的にはヘボ絵描きとなるのだった。

そして多分芸術上のあらゆる規範を壊し、それぞれに評価を認めたノヴェチェント(20世紀)芸術のように、1世紀も経てば、ペギー・グッゲンハイムのようなある権威の側から市場に投げ掛けるものは、それ自体、高評価の証明書であり、自ずと正統化の証しとなった。しかし彼女の認定は、正しいお手本というよりは、正確で根拠のある、非常に信頼に足るものであった。

そして彼女の独創性、彼女の素晴らしい直感についてであるが、彼女は自分の愛を、それは多分唯一のものであり、勿論の事、慎ましいハニカミ屋にして、節操のある“愛”をヴェネツィアに贈ったのである。確かに多くの観点から言って、それは彼女の生来の独創性に溢れたものであった。

この点において、ペギーはグッゲンハイム家の血筋の中でも、母セリグマンの側にとっても栄えある子孫であったし、1世代という時を経た今、極貧から絢爛たる富裕まで体験した二つの家は、ペギーの言葉に従えば、正にアメリカ叙事詩の中で、移り変わるエピソードを正確に定義したのだった。芸術や文化への愛、芸術愛護の素質は一家全員が身に帯びたものだった。 ……」 (3に続く)
  1. 2017/09/14(木) 00:05:25|
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ヴェネツィアの女: ペギー・グッゲンハイム(1)

今までも何度か引用させて頂いている、ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女 愛とその意義――カテリーナ・コルナーロからペギー・グッゲンハイムまで』(Corbo e Fiore Editori、2005.10)で、最後に登場する女性ペギー・グッゲンハイムという、ペギー・グッゲンハイム・コレクションを立ち上げた女性について。

グッゲンハイムという発音はドイツ語式でしょうか、ヴェネツィア人はグッゲナイムと"H"を発音しません。初めてこのコレクションに向かった時、途中土地の人に《グッゲンハイム・コレクションへはこの道でいいですか?》と尋ねると、ちょっと不審そうに間を置いて《お前の言うのは、グッゲナイム・コレツィオーニのことか。だとすれば、この道で Va bene.》と。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』ペギー[写真はサイトから借用]  「ペギー・グッゲンハイムはヴェネツィア女だろうか? その名前から判断すれば、そうだとは全く思われない。 しかも誕生の地だってそうではない。だがしかし"Sìー"、ヴェネツィア女性なのである。1898年8月26日、ニューヨーク生まれは明確そのもの。喋る調子、生き方は全くアメリカ的である。

しかし彼女には何かがある。ヴェネツィア女達について語るこのお話の中で、ヴェネツィア女として彼女を語ることは可能である。ヴェネツィア女ペギー・グッゲンハイムは1962年2月6日、名誉あるヴェネツィア市民権を与えられたというお役所的な理由からだけでなく、更にはより情動的動機からもヴェネツィア人なのである。

ペギー・グッゲンハイムはかつて書いたことがある。即ち《ヴェネツィアは正に我が大いなる"愛"である。この世でヴェネツィア以外、他のいかなる地であれ、私はそこで幸せであり得るべからざるのである。この地に常住したいのだ。》 だから"愛のヴェネツィア女"、我々は彼女をこうも呼べるだろう。

それはあらゆる意味での愛なのだ。それは町にとっても、ある幸運な住民にとっても、更に彼女の比類なき美術のコレクションを鑑賞しようとヴェネツィアを目指し世界各地から訪れる我らが区々の友人達にとっても、である。

ペギーは単なる美術品の大収集家だったのではなく、経営的な意味においても特別な才能も持ち合わせ、愛に焦がれる情熱家だった。私は思い出す: 私の女友達や彼女のアメリカの女友達が私に語った、彼女に対する誹謗中傷のことを。 : もし本当だとすれば、いかにもありそうに思えることは確かである。

欣喜雀躍して1000番目の恋が彼女の人生にやって来たある時期、私の女友達が解説するように、憧憬の余り狂い死にしそうだと妹に直ぐ様電話したらしい。多分彼女には羨望の思いもあったのだろう。ペギーは自分から愛することも出来たし、自分を愛させることも出来た。自らを抑制して、しっかりした、ある種の共感というものを輝かせることも出来た。

しかし時に愛は悩み苦しみを与える。タンクレーディ・パルメッジャーニ(芸術家としては単にタンクレーディ)は偉大な画家だった。19世紀芸術の革新的欲求にひどく敏感に反応し、心の情動、愛、苦しみにも深く突き動かされた。1964年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した。それはいくつかの成功の後に到達した目標地点だった。そして…… 」 (2に続く)
ヴェネツィアが燃えた日今まで何度か紹介したジョン・ベレント著『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(高見浩訳、光文社、2010年4月25日)が、ペギーについて詳しく触れています。
  1. 2017/09/07(木) 00:05:36|
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ヴェネツィアの運河: マリーン運河(Rio Marin)

E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)がマリーン運河について次のような事を書いています。
ニーグラ館[中央がマリーン運河の入口] 「この運河は11世紀に掘削され、マリーン・ダンドロの名から命名された。この運河に重要な館が姿を見せるのだが、その中には、あの豪壮なグラデニーゴ館があるが、仮令他に沢山館を保持していても、大運河沿いにはこの一家は持てなかったのである。しかしヴェネツィアでの生活や運命の中で、かれらの重要さは大きかったので、周知されないということはあり得なかった。
グラデニーゴ館 ソランツォ館[マリーン運河に建つ瀟洒なグラデニーゴ館と右、ソランツォ館] ヴェネツィア成立に立ち会った十二使徒を名乗る、12の家系の一つで、今日でも繁栄している一族である。グラデニーゴの名前は、ヴェネツィアの何世紀にも渡る事件と絡み合った金糸のようなものである。

裕福で、素晴らしい一家は共和国に3人の総督、無数の有能な人材を輩出した。多くの人は外交官として秀逸であり、バルトロメーオの場合、難しいスペイン宮廷に3年間大使を勤め、彼は娘がスペイン王に洗礼を受けたということがあった。

セレニッスィマは貴族に全てを期待し、要求した。というのは、使用人を雇うにも事欠くほど不十分で、些細な謝礼金を彼らに出したが、その代表者達は個人的、貴族としての威信を維持するために、家族から富を吸い上げながら、その状態を保った

こうしてスペインから帰還時、先祖伝来の館に入館する時、若いバルトロメーオはアトリウムで彼を待つ父の前に跪いた。彼は自分の地位を維持する必要経費のための三千ドゥカートの負債を負わねばならなかったことを父に詫びたのだった。父は彼を抱き締め、何も言わず、それを支払った。

しかしこの家系で最も著名な名前は勿論、同時代人がそう呼ぶように、ピエラッツォ(Pierazzo――Pietroの愛称)の名前である。1289年総督ダンドロが亡くなった時、人々は古い貴族の家系のヤーコポ・ティエーポロを選んだ。しかし彼はそれを断った。

満場一致制を打ち砕くことになる機会を捉え、"新しい"家系はピエートロ・グラデニーゴ(1289~1311) を選出することに成功した。彼は"古い"家計に属していたにも拘らず、彼ら党派のメンバーだった。

ピエラッツォは弱冠38歳の時(50歳の時、毒殺されたらしい)、精力的で公平無私、有能な政治家となった。1297年には一般人民の決定は全て廃止する大評議会のあの有名なセッラータを完成させた。父方の子孫が元老院に所属するのだということを認めるために、貴族にのみ権力の行使を許したのである。

この事は、"古い"家系の大部分に打撃を与えた。即ち商業にのみ携わって、政治には関わっていなかった人々が、1310年のバイアモンテ・ティエーポロの謀反に加担することになった。

イギリスの歴史家ヒュー・ホナーがセッラータについて書いていることについて、ここで伝えるのは興味深いことである。
《……民主制から寡頭制へのこの変革は……"自由"の長女に対する一つの祝福であるように感じさせる。14~15世紀に大いなる拡張を可能にした13世紀の増大する繁栄がその結果であった。政治の世界から扇動的政治家を排除し、こうした僭主の異母兄弟から国家を守った。

沢山の人の手が政治に携わるようにし、その商業的繁栄とお互いの嫉妬が、優位に立ったり、権力の最高位を獲得することから、各一家を牽制し守った。こうして大評議会が作り上げたシステムは効果的に機能し、500年間も変化もなしに生き延びたのである。》」

[セッラータ(serrata)については、2012.01.14日のベンボ館をご参照下さい。]
  1. 2017/08/31(木) 00:04:41|
  2. ヴェネツィアの運河
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マリーン・サヌード(Marin Sanudo――伊語Marino Sanuto)

前回も触れ、今までも何度か触れてきたマリーン・サヌードの生涯について、マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton Editori、2006.11)から紹介してみます。
『ヴェネツィア人物事典』「歴史記述史家、年代記作者(1466.05.22ヴェネツィア~1536.04.04ヴェネツィア)
サヌードの裕福な一家の最も重要な一員である。少なくとも11世紀からはヴェネツィア史の中では確定した一家であり、13~14世紀生きたマリーン・サヌード・トルセッロ(初代il vecchio)の子孫として区別するために、il giovane(ジュニア)と呼ばれた。

元老院議員であり、歴史記述史家であって、サンタ・クローチェ区に在住し、その建物は市民のための穀物が保管されていたのでそう呼ばれた、メージョ(Megio=伊語miglio、粟、穀類の意)運河通りに面していた。

1500年を挟んでヴェネツィア生活の優れた年代記作家として、ヴェネツィアの1496~1533年の政治、経済、軍事を始め、日々の事、個人的な事、風俗習慣に渡ってあらゆる出来事を微に入り細を穿って58巻の日記の形で書き留めた。この日記(驚異的な著名なヴェネツィア語で書かれており、出版は漸く20世紀になってからだった)は、ヴェネツィア史の研究者にとって無尽蔵のニュースの源泉であり、何世紀にも渡って、この現実の町の歴史のあらゆる瞬間に関する詳細なニュースを得ようとする時、この潟の街の歴史家達はこの日記に鋭意専心してきた。
[ヴェネツィア語とは――現在では方言と処理されますが、ウンベルト・エーコはバーカロの中で国語というものについて述べています。現在でもヴェネツィア語のコミュニティーがブラジルやメキシコに構築されているそうです。]

しかし作品の読み易さ、取り込まれたデータの豊富さと興味深さが、単純な読者をも熱中させ、その中に限りない、詳細な細部に至るまで見出させ、読者を巻き込み、薫陶していった。

サヌードは他の重要な文学作品の作者でもある。その中には『歴代総督伝』『De situ et magistratibus urbis Venetae』『ヴェーネト地方内陸部旅行記』、これらはヴェネツィア史にとっても重要な作品である。しかしサヌードは詩や劇作品においても教養豊かで洗練されており、確かに知名度はあまりないが、芸術的才能は際立ったものがあった。

彼の収集癖、文学に対する熱い思い、洗練された書き手といった性格は、彼を手稿本や印刷本の豊富な図書室を作り上げることに向かわせた。1530年頃には地勢図、都市図、地図類以外に約6500冊を数えた。こうした驚異的な図書室は、当時のインテリ達に大変評価されたが、残念なことに、《単に貧しいというよりも、年老いて、病身で、貧しい紳士》(1531年経済的援助を求めて、その時十人委員会に向けて彼自身がそう書いた)は、年に金貨150ドゥカートの終身年金を得たかもしれないのに、祖国の歴史的記憶の研究と追及に注いだ長い年月の間に背負い込んだ負債の清算のために全書籍を売らざるを得ない事態に立ち至り、その多くが露と消えたのだった。」

『ヴェーネト地方内陸部旅行記』は英国の古文書学者ロードン・ブラウンが1848年パードヴァで最初に本にしたそうですが、ブラウンはヴェネツィアに到来し、英国関係の古文書を調べる中で、サヌードを知り、もっと知られるべきだと周知活動等をしながら、ヴェネツィアで亡くなったようです。2009.12.05日のブログダーリオ館でブラウンについて触れました。

『Diarii di Marin Sanudo 1466-1536』は1879~1902年、ヴィゼンティーニによりヴェネツィアで本になったそうですが、監修者には次の名前が挙げられています。Rinaldo Fulin、Federico Stefani、Niccolò Barozzi、Guglielmo Berchet、Marco Allegri。この中のGuglielmo Berchet(グリエルモ・ベルシェ)という名前は、米欧回覧使節の岩倉使節団が1873年にヴェネツィアに到着し、東洋学者グリエルモ・ベルシェの案内で古文書館に行き、支倉常長や天正遣欧使節の日本文のヴェネツィアへの挨拶状を発見した、という話を思い出すのですが、その当人でしょうか? 岩倉使節団については、2010.10.16日の久米邦武をご参照下さい。
  1. 2017/08/24(木) 00:57:24|
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ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(4)

(続く)
「ヴェネツィアに帰還したピエトロ・ベンボは、ありとあらゆる礼を尽くして迎え入れられた、と書き記しているのは、もちろんマリン・サヌードである。
Palazzo Sanudoサヌードの家1サヌードの家2サヌードの家3[左、『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』vol.1,2 (Piero Pazzi, Tipografia del Centro Grafico di Noale)のサンタ・クローチェ区の1頁、サヌードの家が1757番地とあります。左中、サン・ジャーコモ・ダ・ローリオ広場北、運河の北にメージョ橋があり、左にサヌード館が見えます。右中、テントール通りを西へ、メージョ橋があり、中央にサヌード館が。右、1757番地の建物。Marin Sanudoは伊語ではMarino Sanutoと表記されます。]

1530年9月、『日記』には、《三千ドゥカートの報酬を得て何も書かずに没した》ナヴァジェーロの後任として、《詩神たちの共通の父》が選出されたと書かれている。12月、図書館の引継ぎにあたり、サヌードはこう記している。ベンボが《ラテン語のヴェネツィア史を執筆する任を負った。前任者アンドレア・ナヴァジェーロは、三千ドゥカートの報酬とさらに毎年二百ドゥカートの年収を得ながら何も書かなかった》。

要するにわれらの年代記作者はまたもや戦いに敗れたのである。選出されたベンボ――ライバルとしてはあまりにも巨大な権威である――に咬みつくことはできなかったが、だからといって、依怙地な恨みつらみのなかで、何度も受けた不正を仄めかさないわけにはいかない。ただ執拗なまでに、哀れなナヴァジェーロに罪を着せるのであった。彼のすべての不幸の唯一の責任者であるかのように。
……
ピエトロ・ベンボは押しも押されもしない地位に君臨しつづけていた。ベンボは1532年の4月、つまり共和国史官となりニカイア文書を整理する任を引き受けてから間もなく、ヴェネツィアの誇りとなるべき図書館の創設に向けて決意をあらたにする。

そこでヴェットル・グリマルディと同盟を結んだのである。彼は高い教養をもつ有力な貴族で、革新派のアンドレア・グリッティ総督に近かった。総督としてもこの計画には賛成しており、あのローマ劫掠の後はとりわけ、ヴェネツィアにはこれらの遺産をしっかりと保護する義務があると考えていた。したがって図書館には、古代ローマ、古典古代とローマ帝国の刻印がなくてはならない。

四年後、図書館建設の責任者としてヤコポ・サンソヴィーノが任命される。ドイツ兵の襲来とともにローマを脱出した建築家で、ヴェネツィアに移っていた。造幣局やマルチャーナ図書館など多くの建築物を設計し、優れた手腕を発揮することになる。

これに関してベンボは厳格そのもので、貸し出し中の書物がもとの場所に収められるよう、ヴェネツィアの国外にまで容赦のない手紙を書き送っている。たとえば、1528年、マントヴァ大使ジョヴァン・バッティスタ・マラテスタに、エウクレイデスの写本が貸出されたが、それは手から手へとわたり、いまボローニャにあった。32年、ベンボはボローニャの行政官に手紙を書き、この写本を取り戻すことに成功している。ともかくすでにあまりにも多くのものが失われたのだ。

いずれにせよベンボは、信頼できるジョヴァン・バッティスタ・ラムーシオの協力を当てにしていたのである。だが古写本の貸出しについて有力貴族の何人かは、書記官が印刷者や外国使節と関係のある写字生に寛大すぎると言って非難しつづけていた。実際のところ、たとえばフランス大使ペリシエールは、十二名もの写字生を擁する正真正銘の筆写館を設置していたのだ。印刷者と写字生はまだ共存していた。 ……」
 
ピエートロ・ベンボについては、2012.01.14日のブログベンボ館でも触れています。
  1. 2017/08/17(木) 00:04:55|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(3)

(続き)
「16世紀を通して――たしかに16世紀だけではなかったが――ヴェネツィアは、流通する商品、文化、そして悦楽の代名詞だった。いつの時代も、この年は喜々として歓楽に向かったというのが決まり文句である。例えば裕福な遊女であったヴェロニカ・フランコのことは、今なお語り継がれている。ヴェロニカと文学論争を戦わせたマッフィオ・ヴェニエール大司教は、十一音節詩行で《ヴェロニカ、唯一無二の娼婦》と、かなりあけすけに彼女を咎めたものだ。
[ヴェローニカ・フランコについては、2010.09.18~2010.10.09日のブログヴェローニカ・フランコ(1~4)をご参照下さい。]

何千もの娼婦たちが伝説を残しているが、彼女たちの多くはカランパーネ地区に住み、テッテ{乳房}の橋に面した窓に立って胸をはだけ、男色に走る海の男たちを誘惑したのであった。観光客に洗われて水臭くなったとはいえ、カーニバルとその自由な習俗は残りつづけた。ジャコモ・カサノヴァのことは言わずもがなである。
Tete橋[写真の“乳房橋(ヴェ語ではponte de le tete)”はサイトから借用。尚、2008.06.27日のカランパーネ通りと2008.07.04日のストゥーア小広場で、“乳房橋”周辺のかつてのヴェネツィア赤線地帯について触れました。伊語の caranpana(身形のだらしない女)はこの“カランパーネ”埋立通りから来たようです。]

その輝きの頂点でヴェネツィアは、まるで寄せては返す波のように、セックスと金銭の流れの只中にあった。人々はますます自由奔放に暮らし、奢侈と風俗紊乱に対して引き締めをはかる共和国政府の再三の試みも空しく、条例の効き目もなく、多幸症的な傾向に引きずられるがまま、禁止は侵犯されつづけた。

未婚であろうが既婚であろうが、ヴェネツィア婦人は派手で積極的で機知に富んでいた。どのような法律をもってしても、彼女たちの陽気さ、魅力的なコケットリーを止めさせることはできなかった。

そういうわけで、彼女たちは髪の色を明るくするために、《ソラーナ》という縁ばかりの帽子をかぶり、屋上テラス――屋根の上に架けた木造のテラス――で何時間も陽にさらした髪を、葡萄と大麦が原料の抽出物あるいはカモミール水でつねに濡らしていた。帽子の目的は顔の白い肌を保護することだった。
[この木造の屋上テラスの事をヴェネツィアではアルターナ(altana)と言い、古くは lobia と言ったそうで、現在新しく設置することは禁じられているそうです。夏、Fabi さん宅のアルターナで飲んだビールの美味しかったこと。]

顔の皺や染み、肌の手入れや化粧に関する最初の出版物も、上記のような処置を推奨していた。ヴェネツィアの婦人たちは、肌をますます白く滑らかにするため、牛乳に浸して柔らかくした肉片を顔に貼りつけたのであった。外出するとなると、顔にはさらに、キプロスの粉を塗るのを忘れてはいけないし、頬には、ハエとも呼ばれた付け黒子も必要だった。サン・パンタロンの界隈へ行けば何でも買えたものだ。それが流行だったのだ。

近頃また彼女たちは、みみたぶに穴をあけ、繊細な金の輪に純白の真珠を嵌めたものを吊るしはじめた。汚らわしい《ムーア人の風習》とマリン・サヌードは軽蔑を込めてかたっているが、ヴェネツィアの婦人たちは、銀の締め金に貴石を散らした豪華な帯を締めた上、耳飾りまで付けだしたのである。彼女たちが快楽と贅沢に走るのを抑えることは不可能だった。 
……
怪しげな女たちの社会的地位をもち上げるためには、すでにピエトロ・アレティーノの書物があった。愛に関する洗練をきわめた対話、ベンボの『アソロの人々』のパロディである。女たちが語りあう『六日間』で、ナンナは、娘のピッパにいかにして立派な娼婦となるかを、この職業の筆舌にしがたい詳細にいたるまで、母親らしく懇ろに教え諭している。
ラジオナメンティピエトロ・アレティーノの肖像[ピエートロ・アレティーノの翻訳作品には、『ラジオナメンティ』(結城豊太訳、角川文庫、昭和五十四年六月三十日)や澁澤龍彦文学館1『ルネサンスの箱』中、『好色談義(六日物語)(抄)』(河島英昭訳、筑摩書房)があり、彼についての『ティツィアーノ ピエトロ・アレティーノの肖像』(フランチェスコ・モッツェッティ著、越川倫明+松下真記訳、三元社、2001年11月15日)があります。尚、ヴェネツィアのアレティーノについては、2012.01.14日のブログボッラーニ・エーリッツォ館もご参照下さい。]

すでにお分かりの読者もいらっしゃるはずだが、ヴェネツィアの方言で書かれた作者不詳の五幕の喜劇、韻文の幕間劇も備えた『ヴェネツィア婦人』のことである。おそらくは靴下同盟の誰かが、余興のために制作した作品と思われる。制作年代は1535年の終わりから38年のあいだと考えられている。年代を推定させるさまざまな状況証拠のなかでも、とりわけ重要なのは、本作品についてマリン・サヌードが何も述べていないことだった。
『ヴェネツィア女』[作者不詳『La Veniexiana(ヴェネツィア女)』(ジョルジョ・パドアーン監修、Marsilio Editori、1994.01)は、左頁伊語、右頁ヴェネツィア語の左右対称の形の本で出版されています。サヌードの日記に記されていないという事はサヌード没(1536.04.04)後の事らしく、このドラマの発見後、イタリアの百科事典にも項目として掲げられているように著名な作品のようです。その事について2008.07.20日のブログヴェネツィア映画で触れています。]

だがわれわれの濃厚に官能的な《本当の出来事》の登場人物は、身分の低い下賎な者たちではない。それどころか、この喜劇の主人公二人は――未亡人と若妻、彼女たちがひとりの若い兵士の逞しい肉体を奪いあう――、ヴェネツィアでも評判の良い裕福な貴族の家柄に属していた。

1520年代に上演された数多くの作品をサヌードは語っている。ビッビエーナの『カランドリア』、アリオストの『カッサリア』、マキャヴェッリの『マンドラゴラ』、ルザンテの初期作品など……。『マンドラゴラ』――《フィレンツェに住む老いた医師とその妻、子どもができずに云々》――は、1522年2月にクロセキエーリの修道院で上演された。そこでは実験的な演劇がよく取りあげられ、貴族も商人も庶民も1マルチェッロ払えば観劇できた。サヌードにしたがえば、『マンドラゴラ』は満員御礼で、《あまりに多くの人が入場したので、第五幕を演じることができないほどだった。》

ヴェネツィア市民生活の完璧なバロメーター、サヌードは、あらたな現象に立ち会っているのだ。 ……」 (4へ続く)
  1. 2017/08/10(木) 00:09:58|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ヴェネツィアの島: ラッザレット・ヴェッキオ

リード島に一番近く、ラッザレット・ヴェッキオ島があります。この島には元々、ナザレートの聖マリーアが祀られていたそうですが、後名前が変化して、14世紀にはペスト患者を引き受ける場所となったようです。19世紀には軍の収容施設となったようですが、現在放置されたままのようです。今日のLa Nuova紙によれば、ラッザレット・ヴェッキオ島を再開発することを模索しているようです。
ラッザレット[写真はヌオーヴァ紙から借用」 「 ヴェネツィアのラッザレット・ヴェッキオ島、見捨てられていた島を見直す 
――ヴェネツィア映画祭で提示された映画は、過去を再照射する。しかしプロジェクトは歴史や考古学遺物について解説する“センター”の意中にある――

蔓延るアカシアやイラクサの絨毯は、今でもアラビア文字までは覆い尽くしていなかった。中東との交易の証明である。その建物の縁側で、貴族のアルナルド・フジィナートは『ヴェネツィアの最後の時』という有名な詩を書いたし、聖母子のフレスコ画も崩れずに残っている。

ラッザレット・ヴェッキオとは世界初の伝染病隔離病院で、今でも人命擁護の施設であるが、経済的バックアップがないのである[辞書によれば、聖書の救癩聖者のLazzaroのLが、ヴェネツィアのSanta Maria di Nazaret(教会付属の病院)のNazaretのNとすり替わって出来た言葉だそうです]。

島は広く、2ヘクタールあり、建物は8000㎡ある。リード島からわずか70mであり、ラグビー広場に面しており、ホテル・エクチェルスィオールの水側玄関に通じる運河の前にある。今日この島はヴェネツィアのアルケオクルッブ(水クラブ)の好意と力添えに寄る。このクラブは国有のこの島の保全を任されているのである。

ヴェーネトの考古埋蔵文化財局やポーロ・ムゼアーレ局のプロジェクトは、ここやラッザレット・ヌオーヴォにヴェネツィアとその潟の歴史や考古文化財を研究展示するセンターを立ち上げるということであった。

新ヴェネツィア評議会は90年代にいくつかのきっかけを作った。その場所で2010年には着手される筈であったが、最終的に資金調達が不可能で、全てが無となった。……」
  1. 2017/08/06(日) 22:20:56|
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ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(2)

(続き)
「数か月前からヴェネツィアでは、トッレザーニ印刷所の件でさまざまな噂が飛び交っていた。老アンドレアが没すると、突然、印刷所の動きがすっかり停止してしまったのである。ともかく出版活動の一切が中断していた。カルパントラの司教ヤコポ・サドレートは、かなりの出費をして、学識あふれる彼の『詩篇第九十三註解』をフランスからジョヴァン・フランチェスコ・トッレザーニに送り、印刷の仕上がるのを待っていた。

しかし応答がない。彼は何度もベンボ――もちろん即座に援助を約束して、後の始末は秘書のコーラ・ブルーノに任せた――や、グッビオの司教フェデリーゴ・フレゴーゾ――ベンボやカスティリオーネらの友人であり、『宮廷人』出版の際には惜しみなく援助をしている――に手紙を書いた。

けれども無駄であった。月日は流れ何も起こらない。この袋小路が、教会の検閲によるのかヨーロッパ随一の印刷所の怠慢のせいなのか、それもはっきりしなかった。そういうわけで、サドレート司教は、長いあいだ静かに待ちつづけた後、この『註解』をリヨンの印刷所へと回したのである。

明らかにサン・パテルニアンの印刷所には何か重大な異変がおきていた。仮借ない剣の刃が沈黙のうちに砥がれていたのだ。続く月日に麻痺状態の本当の原因が明らかになる。遺産相続の問題であった。

[サン・パテルニアーンについて――前回の(1)で触れましたように、アルド・マヌーツィオは最初サン・ポーロ区のリーオ・テラ・セコンド(セコンド埋立通り)に印刷所を開いたそうです。建物正面に羅典語の碑が掲げてあります。後トッレザーニの娘マリーアと結婚し、旧サン・パテルニアーン教会裏に越したようです。そこにギリシア語で語り合うクラブ、アルディーナ・アッカデーミアを開きます。マニーン広場の“ヴェネツィア信用金庫”とでもいった銀行の壁面に彼の碑があります。銀行建物はヴェネツィアに似つかわしくない現代建築で評判が良くないようです。アルドが葬られたサン・パテルニアーン教会は1810年倉庫になり、1848年を記念してダニエーレ・マニーンの銅像を建てるため広場として広げられた1869年壊され、現マニーン広場となりました。マニーン広場からサン・ルーカ広場への道はリーオ・テラ・サン・パテルニアーンと旧教会名が残され、その通りにその碑を見ることが出来ます。マニーンの銅像は長年住んだ運河向こうの我が家を見下ろしていますが、マニーンの生家は、上記アルドのセコンド埋立通りのサンタゴスティーン広場に近いアストーリ通りどん詰まりにあります。最近登る事が可能となったボーヴォロ階段はマニーン広場の傍です。2011.12.10日のブログでもマニーン(2)について触れています。]

すべては1515年の1月、他界する一月前にアルド・マヌーツィオが書いた遺言中の一言――この事件を担当する判事は完全に有効な言葉と認めるだろう――にかかっていた。すなわち、アンドレア・トッレザーニとアルドとのあいだで未分割の財産について、《五分の一がわたしに属する》という言葉である。彼、つまり彼の遺族、彼の子どもたちは、トッレザーニの全財産の五分の一を所有するわけだ。

アルドの妻マリア、つまりアンドレア・トッレザーニの娘が後見人となり、子どもたちが小さいあいだは、不動産、出版活動、高い評価を受けている商標、つまり全財産を老アンドレが管理していた。だが彼が亡くなると、まさに文字通り決算の時が来る。トッレザーニとマヌーツィオの第二世代が衝突する時が来たのである。まもなく誰もが心の内をさらけ出して不満を爆発させ、和解は困難になった。
……
パオロ・マヌーツィオ青年は、父親――三歳の時に死亡した父親の記憶は何もなかったが――の遺言を執行すると従兄たちに告げ、相続人の名において、ジョヴァン・フランチェスコ・トッレザーニのやり方がアルドの商標を曇らせていると憚りもなく言った。ともかく、財産はまだ分割されておらず、ジョヴァン・フランチェスコとその放埒な兄フェデリーコには、父親アルドの財産の五分の四が与えられるはずだ。

不公平なことだった。トッレザーニ家はすでにマヌーツィオ家よりかなり裕福だったが、出版業におけるアルドの才能と技術がなければ、トッレザーニはこれほど豊かにならなかったであろうし、このように高い評価を得ることもなかったであろう。 ……」 (3に続く)
  1. 2017/08/03(木) 00:06:04|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(1)

以前2011.06.04日~のブログアルド・マヌーツィオ(1~4)でヴェネツィアの印刷・出版について触れました。その当時の歴史的事実を元に、当時の出版文化をフィクシャスに描いた一種の小説というか、ドキュメントがあります。ラウラ・レプリ著『書物の夢、印刷の旅――ルネサンス期出版文化の富と虚栄』(柱本元彦訳、青土社、2014年12月10日)です。
書物の夢、印刷の旅「古典の発見――まず第一にギリシア、そして次にローマの文学――を目的とする明確な企画が、その他無数の印刷者からアルドを隔てていた。そして極めて洗練された入念な装幀によって、またたくまに押しも押されもしない最高の印刷者となったのである。さらに、イタリック体の導入、小型判、頁番号、句読点法、出版の文化的意図を宣言する前書きなど、印刷物に堂々とした存在感を与えるこうしたすべてのことが、普及の促進につながった。マヌーツィオは、どのような人々が読者になるのかを心得ていたのだ。

それだけではない。おのれの企画に活力を注入するため、アルドはヴェネツィアの文人たち、互いに友人同士でもある彼らを身辺に集めていた。ラムーシオ自身もそのひとりであったし、いまや群れをなすイタリア人文主義者たちの先頭に立つピエトロ・ベンボ、博識のアンドレア・ナヴァジェーロなど、他にも大勢いた。印刷待ちの書物の監修を毎回のように彼らに任せ、その意見には進んで耳を傾けたものだ。

ほどなくしてアルドのカリスマ性は誰もが認めるところとなった。ロッテルダムのエラスムスでさえ、1508年、ようやくにして辿り着いたボローニャ大学――古典古代の文化を訪ね歩く彼のイタリア旅行の最も重要な滞在地――から、純粋に尊敬の思いをこめて手紙をしたため、しばらく前にパリで印刷された彼の作品、『アダジア』の出版をアルドに請うたのであった。

その同じ年に承諾の返事を受け取ったエラスムスは、ヴェネツィアのアルドの家にしばらく滞在し、ローマ古典文学の何冊かを監修することになった。アルドが創設したギリシア・アカデミーに通い、高名な印刷所を中心に集まる数多くの文化人たちと交流を深めたのである。エラスムスはまさに、『アダジア』のこの版によって大きな名声を得ることになる。それまで彼の名は、ごく少数の宗教学の専門家に知られていたにすぎなかった。文献学的に正しい聖書を出版するという壮大な計画を語ったからである。

1515年2月6日、病に倒れて何か月もたたない内にアルド・マヌーツィオが亡くなった。享年およそ六十五、かなりの年齢になってから結婚したマリアとのあいだに、小さな子どもが四人残された。マリアの父親は、アソラの印刷者アンドレア・トッレザーニ、つまりアルドの長年の仕事仲間である――例によって例のごとく共同事業者の関係を強化するための結婚だった――。マリン・サヌードは、都市の重大事件を扱う年代記にこの別離のための頁を割き、葬儀の細部にも触れている。
マヌーツィオの碑アルド・マヌーツィオの碑サン・パテルニアーンの地面に置かれた地図[左、マヌーツィオは最初リーオ・テラ・セコンドに印刷所を創設しました。中、サン・パテルニアーン教会裏に印刷所を移しました。右、現在のマニーン広場に彼が葬られたサン・パテルニアーン教会がありました(写真のようにマニーン銅像下に当時の地図があります)。尚、2007.10.31日のエミリアーナ書店、2007.12.13日のサン・パテルニアーン埋立通り等もご参照下さい。]
取るに足りないような些事にも注意を怠らない彼は、わずかな言葉で的確に、サン・パテルニアン教会でおこなわれたアルド・マヌーツィオの告別式を描写している。アルドが生涯をかけて作りつづけた多くの《書物が棺の周囲に》置かれ、厳粛な葬儀だったが、洗練された演出にも欠けてはいなかった、と。

サヌードのこの十数行の文章のなかに、《アソラの印刷者アンドレアの娘婿》マヌーツィオは生前《多数の献本》をおこなったという記述がある。そして自分もまた《数多くの作品》の献呈を受け、ポリツィアーノのラテン語文献やオウィディウスの『変身譚』などを手にしたと書いている。彼の心のなかには抑えきれない不満が染みついていたが、『日記』のこの言葉を読めば分かるように、少なくとも一度は満足の気持ちを味わったのである。

葬儀の機会に、年代記作者サヌードは、かつて受けた評価に返礼するつもりだろうか、アルドを《最高の文人》だったと読んでいる。ともかく現実主義者のサヌードは、アルドの遺体が、最後の旅路に就くその時まで、薄気味の悪い安置所の暗がりに置かれていたことも書き漏らしていない。 ……」 (2に続く)
RamusioAsola[上記に"ラムーシオ""アソラ"があります。Ramusio、Asola と思われますが、Dizionario d'Ortografia e di Pronunzia(Edizioni RAI)によれば、図版のように《ラムージオ》《アーゾラ》と読むようです。イタリアのPCサイトの辞書"Treccani"も同じようにSを濁る指定をしています。固有名詞は特に正確を期したいものです。尚、2013.08.31日のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョも参考までに。]
  1. 2017/07/27(木) 00:06:51|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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