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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

イタリア語

ヴェネツィアのラグーナの事を読んでいて、意味の判らない言葉があり、小学館の伊和辞典には出てないので、PCで調べてみました。"comune marino"という言葉です。

ググってみましたが、"Comune di Marino"という言葉が中心で、頭から30項目中に comune marino という言葉は、1項目だけありました。面倒なのでその言葉を最初から自動翻訳にかけてみました。全然意味が判りません。次がその自動翻訳です: 海洋自治体。そしてそのイタリア語のサイトは次です: comune marino。ここに訳された翻訳語"海洋自治体”では、今読んでいるものが理解出来ません。

小学館の伊和辞典の"comune"に二つの違った言葉としての意味があり、一つ目のcomuneは: 形容詞①共通の②普通の③並の④公認の、男性名詞①一般②一般的水準③共通点④水兵、女性名詞①舞台の出入口②世論とあり、二つ目のcomuneは、男性名詞①地方自治体②市・町・村とその役場③下院④中世の都市国家⑤職人、女性名詞①仏国のコミューン②中国の人民公社③生活共同体、と、意味が多義に渡っています。

この言葉comune に“海の”marino(男性形容詞)が形容した場合、読んでいる内容に一番適合しそうな意味として、一つ目の男性名詞②③の意味で海水の一般的水準、あるいは共通点といった意味で、干潮満潮の平均的な潮の高さをいうのではないかと思われました。その意味で訳してみます。こういうものを訳して個人的なブログに掲載することは著作権を侵害することになるのでしょうか……

「満潮時の通常点(comune alta marea)あるいは海の標準線(comune marino)、簡単に水準点(comune)という言葉は、比較するための高度を指し示している。例えば、"水準点の下(sotto comune)”6ピエーデ(約210cm)で建物の土台を決定、"水準点の下”5ピエーデ(約175cm)に運河のaveo を掘削、あるいは"水準点の上(sopra comune)”2ピエーデ(約70cm)に土台上部の区切りを決定、等。[aveo とは、ヴェネツィア語?]

このように重要な基準点が海水の流れや太陽光の動きに左右されたままだったので、既に曖昧模糊で不明確な状態であった故、町の別の地域だけでなく同じ運河の対岸と比べてみても、普通には変形して、相異なった印となっていた。

17世紀末、ピオーヴェゴの行政官達が水準点は岸で実際使われている石に刻んだ大文字の"C"を上に設定した、水平の線によって、忘れられないように固定しようと決めた。……(以下略―全訳禁止)」
[ピオーヴェゴ(Piovego)とは、パードヴァからヴェネツィアに向かう運河のこと]

と、ヴェネツィア共和国等を定義する(?)"海洋自治体”の意味ではなく、読んでいる内容に合致して、海水の高さの事として理解することが出来ました。

尚、自動翻訳中の図版の説明は、ヴェネツィアの運河にある実際の物のようです。左上の写真から右下写真にかけて次のようになります。
メージョ運河、サン・ボルド運河、メージョ運河/カ・コルネール運河、ドゥーカ運河、サン・フェリーチェ運河/ドゥーカ運河、プリウーリ運河、ペルゴラ運河
  1. 2020/06/23(火) 23:56:18|
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改正著作権法

5日前の6月5日、参院本会議で改正著作権法が成立しました。今までの映像と音楽中心から漫画、新聞、雑誌、書籍、論文といった全ての創作物の権利を守るために、罰則規定をもってPC等を監視するというものです。

海賊版が横行している、有償で提供されている漫画等の正規版に対する侵犯・違反には、特に目を光らすようです。ネット利用者の萎縮や知る権利の侵害とならない限り、著作権者の利益を不当に害しないと認められる≪特別な事情がある場合≫は許されるようです。しかし、本来≪基本的に無断で公開された著作物のダウンロードは認められない≫のですから、創作者の許諾なく無断転載したりすれば、著作権者の利益を不当に害する結果となります。

Free の事典Wikipedia のイタリア版を勝手に翻訳して、Venezia の紹介(画像も借りて)を何度かしましたが、いくら自動翻訳に誤訳が多いからといって、自分のBlog に無断翻訳して掲載すれば、以前から気にしていた通り今回のこの法律に抵触することになります。ということで、翻訳を通してのVenezia 紹介は終わりとなります。

翻訳をしていて表記に苦労しました。イタリアに行った時まごつかないように、ヴェネツィア人が言うように、またイタリア人が言うように表記することに努めました。 "L"、"R"、また"Z"、"ZZ"の発音、"SS"、"LL"等の子音の重なり、アクセントの位置(特に固有名詞)等をどうするか? ヴェネツィアでは、"L"が無音化することあり[例、moleca(モエーカ)]、"Z"、"ZZ"は“ズ”音のこと多し[例、Zorzi(ゾルズィ)]、子音の重なりは1字になること多し[例、tete(テーテ、伊語tette(乳房)]、固有名のFloriano等の語尾o、i 等が脱落してFlorian(フロリアーン)とアクセントが最後尾に残る、等ヴェネツィア語にはあります。この言葉はヴェネツィア共和国の“国語“として外交等に使用されていました。

イタリア語翻訳では固有名詞の意味、アクセントの位置が気になりました。イタリア語の固有名等のアクセントは百科事典等で調べるしかありませんが、地名の場合は車の道路地図を参照しました。Verona(ヴェローナ)、Padova(パードヴァ)は有名ですが、カラーブリアのPunta dell'Alice(アリーチェ)、ピエモンテのAlice(アーリチェ) Superiore とAlice のアクセントの位置が地方で異なります。ブルガリアの首都はSofia(ソーフィア)、女性名はSofia(ソフィーア)です。妻が来日したナーポリ人にPompei(ポンペイ)に行ったことがあると日本式に言っても理解されず、ポンペーイですよとアクセントを明確に発音して判ってもらえたことがありました。アクセントの位置は重要です。

イタリア旅行協会のTouring Club Italianoの日本語版≪フィレンツェ イタリア中部≫(NTT出版刊)の"フィレンツェ”の中で、伊語版ではPiazza S. Trínita(広場、橋、教会名等)となっているのが、日本語版はS. Trinità、また教会名S. Felicita がS. Felicità と誤植となっています。Trínita(トリーニタ)は羅典語から伊語(Trinità―三位一体)として定着する前の段階の言葉が残存したのだとか、またFelicita は聖女フェリーチタのことで、 Felicità(幸福)ではありません。ヴェネツィアにもSanta Trinità を意味するS. Ternita(サンタ・テルニータ)という旧教会名を地名にしたものが残っています。
Il DogeAlvise Zorzi(アルヴィーゼ・ゾルズィ)著『IL Doge(総督)―un romanzo vero』(Oscar Mondadori刊)を読んだ時、12世紀頃のヴェネツィアの街について述べた中に、“San Stefano”広場という語が出て来ました。態々San と全スペルが書かれています。突然の事で、“Santo Stefano”の間違いではないか、と。読み進めていくと、16世紀頃の記述では“Santo Stefano”広場となっていました。そこで思い出したのは、かつて伊文化会館に中世の団体名で"S. Stefano"をサンと読むかサントと読むか尋ねたことがありました。回答はサンと読む人はその方が音が面白いからと、サントと読む人は現代文法ではそれが正しいから、と。二つの意見があるということは、ヴェネツィアの場合も、当時サン・ステーファノという発音が存在したのではないか、と思ったことでした。誤植ではなく、注意喚起です。
[この作者をアルビセ・ツオルチと表記する人もいるかも知れません。Alvise というヴェネツィア独特の名前は伊語でLodovico/LudovicoまたはLuigi を指します。それ故、カンナレージョ(ヴェ語Canaregio)区の北に位置するSant'Alvise(サンタルヴィーゼ)教会は、トゥールーズの聖リュドヴィーク(orルイ)に捧げられた教会です。]
ダンテ[ラヴェンナのダンテ像]  ダンテの“Divina Commedia”(ディヴィーナ・コンメーディア―『神曲』)は、1500年代ヴェネツィアで重版が出版された時、"Divina”という言葉を追加して出版され、それ以後その書名が定番となったそうです。彼が上梓した当時は単に“Comedia”(コメディーア)と呼ばれ、アクセントの位置も現在とは異なっていたと聞きます。ヴェネツィアにもComedia(コメディーア)という通り名が残っています。例えば、Commedia dell'arte(コンメーディア・デッラルテ)をコメディア・デラルテとかコメジア・デラルテとかに簡略化する人にとってはこんな話は無意味となるでしょう。
DOP『Duizionario dei Nomi italiani』イタリア姓名辞典[左、『D.O.P.』、中、『イタリアの名前辞典(Dizionario dei Nomi italiani)』(Oscar Mondadori刊)、右、『イタリアの姓名辞典(Dizionario dei cognomi italiani)』(Oscar Studio Mondadori刊)]  バロック・オペラの紹介の時は、登場する人物は伊語名で呼ばれるので伊語式に書き、その人物が日本ではどのような歴史上の人物名として知られているか調べるのが大変でした。ギリシア神話のテーセウスはイタリアではTeseo(テーゼオ)と呼ばれ、ギリシア風にテゼーオとも呼ばれたりします。"se"は“ゼ”と濁ります。こういう事に『DOP(Dizionario d'Ortografia e di Pronunzia)』(ERI Studio Edizioni RAI刊)が非常に参考になりました。
  1. 2020/06/10(水) 23:42:02|
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ヴェネツィアのラッザレット・ヴェッキオ島

前回≪伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――8≫で9に続くとしましたが、“9”は医学の科学的内容のようです。私には手に負えないと思いますので、ここで翻訳は打ち切りとします。代わりにその“8”で触れた、イタリア語の"lazzaretto"(伝染病院)の語源となった島"Lazzaretto Vecchio"(ラッザレット・ヴェッキオ島)についてのWikipediaの記事を訳してみます。
LAZZARETTO-VECCHIO[ラッザレット・ヴェッキオ島、サイトから借用]  「Lazzaretto Vecchio島はヴェネツィア潟の島で、ヴェネツィア・リード島西海岸の直ぐ傍に位置している。病院が設置され、そこでペスト流行時に患者を治療した。その後、他の島同様に、軍隊の駐屯地となった。その敷地は2.53ヘクタール、拡張された建物面積は8,400㎡に及ぶ。

最初、アウグスティヌス修道会隠修士のパードレ達が住んでいた。彼らがナザレの聖女マリア(Santa Maria di Nazareth)に捧げた教会と聖地パレスチナに行き、帰還した巡礼者達の収容施設(1249年)を建てた。1423年スィエーナの聖ベルナルディーノの助言に従い、共和国元老院は疫病感染国から到来する人や物品の収容隔離所として、更に収容された人達の食糧、医薬品、看護を提供するためにこの島を充てることにした。

"lazzaretto"(伝染病院)という言葉は、伝染病に感染した人の守護聖人名、聖ラザロ(San Lazzaro)を、Santa Maria di Nazareth(サンタ・マリーア・ディ・ナザレット)教会名に重ね合わせたことに由来すると思われる。

救護施設の維持費用は最初の60年間は、食塩署の収益の一部で賄われた。それは予防、診察、検査、検疫の措置を講ずる常設の保険庁の監督下に置かれた。1468年から島は、感染症に罹った疑いのある病人の収容を引き受けることになり、ラッザレット・ヌオーヴォ(Lazzaretto Nuovo)島に新しい建物を建て、感染者が移送された。

既にその時島は、運河で二つに分けられて、橋で繋がっていた。狭い方は爆薬置き場と護衛兵の住居(宿舎)が置かれ、長方形の大きい方には、病院が設置され、そこに以前からいた修道僧達の住まいが組み込まれた。初めは木造の小屋等が付け足されていたが、次第に石造に建て替えられていった。

建物は小広場と二つのコルティーレ(中庭)に面して並んでいたが、小広場に面しては修道院長と彼の助祭の家、道具類の倉庫、貯水槽、感染被疑者が40日間過ごさねばならない地下道があった。コルティーレの周りには、最初修道院の中庭があって、国へ帰らねばならないヴェーネトの施政官長や司祭用の住居があった。二番目のコルティーレの周りには、入院患者用の100の小部屋があった。

大きな建物の背後には草叢と幾つかの屋根が見えた――木造の格子門で他の施設から隔てられていたが――そこでは欠席裁判の検疫で商品の排除が行われていた。1564年には周りの潟を埋め立てて病院は拡大された。1586年には島内への入口の運河にコヴァーナ(ヴェ語covana――ヴェネツィアの船の収容施設)が造られた。

1846~1965年、島は他の多くの島同様、最初オーストリア、その後イタリアの軍当局に撤収された。その間、キオーストロ(修道院の中庭付き回廊)、鐘楼のある教会、その面会所、他の建物が壊れてしまった。続いてこの島は野良犬を保護する目的で、愛犬家のグループにヴェネツィア市から払い下げられた。

2004~2008年、島は公共事業局と文化財保護局から“ヴェネツィア市とヴェネツィア潟の博物館”のための準備としての引き取り、という重要な措置が取られた。その機会に発掘調査で1500体以上の罹患者の遺骸が発見され、独自ではあるが世に共通したことであったことが明らかにされた。その分析結果、1500年代のヴェネツィア人の命・生活に関する情報がもたらされた。しかしプロジェクトは資金不足で頓挫し、島は再び放棄と荒廃の危機に陥った。

2013年9月からヴェーネト考古物保護局は、監視のために相互理解のために記録文書を活性化させている。 」

現在の島の様子を撮影した短い動画があります。ラッザレット・ヴェッキオ島をご覧下さい。
  1. 2020/05/18(月) 17:27:11|
  2. ヴェネツィアの島
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伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――8

(続き)
「  長期的に見た成り行き

黒死病は中世ヨーロッパ社会に激しい変化を及ぼした。それ故1348年以降、13世紀の文化的規範を維持し続けることは不可能になった。人命の著しい損失が、長期に亘って人間社会を確実な効果で再構築するよう促したのである。人口統計上の下落で、農地や利益を生む仕事が人口の僅か1%に役立つ事態となった。収益を生まない土地は見捨てられた。ある地域では村ごと捨てられてしまった。

ギルドは最初は入会を拒否していたのだが、必要に迫られ、新会員を認めた。農地の地代は崩壊し、都市の賃金は明白に上昇した。このためペスト後、多くの人々は二度と得られないと思われた、生き延びれた幸せ感に浸ることが出来た。

人力による手間賃の増加により、労働の機械化が大いに必要とされ、中世後期は著しい技術革新の時代となった。商業が再び繁栄したことは、金融システムと会計術の発展をもたらした。為替手形と複式簿記が導入され、信用制度は急速な推進力で進んだ。

革新について、歴史家デイヴィッド・ハーリヒイ(David Herlihy)は印刷術の例を挙げている。即ち、写字生の俸給が低かった時、筆耕は著書の再生産の一つの満足策であった。手間賃の増加はヨーハン・グーテンベルクの金属の可動活字による印刷術の発明を引き起こしたような一連の実験に道を拓いた。更にハーリヒイは述べている、火器技術の革命は兵士の激減によるものではなかったか、と。

1347~1353年のパンデミックの結果、当局はペストの予防・治療の試みに適した法令・法規を拡大展開し始め、続く4世紀の間もそれを続けたが、それにも拘わらず疫病は周期的に出現し続けた。新しく流行病蔓延の兆候が見えるたびに、健康状態を証明する検疫所を設置し、町の衛生状態を改善し、物品や人の流れを制限する、そういう習慣だった。

“瘴気”理論を基に、悪臭を発する活動を阻止し、娼婦や浮浪者、他に罪人のような“倫理的に汚染された人々”と考えられるような一群の人々は遠ざけられた。

続いて臨時の衛生委員会と検疫官を設ける処置が講じられた。例えばミラーノでは1450年、常設の保健所が設立され、1488年のプロジェクトによる聖グレゴリウス伝染病院(lazzaretto)が建てられた。1486年にはヴェネツィアも同じようにしたし、フィレンツェでは1527年まで待たねばならなかった。
[lazzaretto(伝染病院、隔離病院)という言葉は、聖書に登場する救癩聖者ラザロ(Lazzaro)の"L"がヴェネツィアで出来た教会付属の病院 Santa Maria di Nazareth(Lazzaretto Vecchio島にあった)のNazarethの"N"とすり替わって出来た言葉だと伊和辞典にあります(Nazzaretと書いてありますが)。ヴェネツィアではこのNazareth(ナザレット)病院に隔離してペストの治療等が行われたそうです。]

こうした病院はパリでは1580年に出来たが、既に約30年も前から流行病蔓延に向き合うための法令や規則の公布に当たって問題を抱えていた。16世紀末頃アムステルダムでは、疫病蔓延の汚染源から防御しようと衛生状態を改善する目的で、道路からゴミを排除する公共機関を設置し、伝染病院を設立し、公衆衛生に携わる役人の中に専門医を置くことを決定した。ロンドンでは長い間、伝染病院に閉じ込めるより、自宅隔離が好まれた。

長い期間の後、ペストの薬として古代ギリシアのガレノス流の本草薬物の伝統から漸く自由になれた。シクストゥス(Sisto)4世とクレメンスClemente)7世の教皇大勅書は、この病によると死因が判明しても、遺体を区別葬してよしとしていた。

フランドルの医師アンドレアス・ヴェサリウス(Andrea Vesalio―1514~1564―パードヴァ大学教授)は、人体の死体解剖研究を系統立てて開始した最初の中の一人だった。分析的な研究法により人体に直に施した解剖は、ペスト後の社会に非常に大きな衝撃を与えた。現代医学、経験論的科学へ向いた第一歩だった。しかしながら、ヴェローナの医師ジローラモ・フラカストーロ(1483~1533)がよりシステマティックな手法で感染という考え方に向き合う前、ほぼ200年という年月を経なければならなかった。

何人かの文化史家によれば、その中には特にオーストリアのエゴン・フリーデル(Egon Friedell)もいるのだが、黒死病は人間と宇宙の中世的観念の危機を招き、あの世においてまで優位に立っていた確たる信仰心を動揺させ、黒死病の終末とルネサンス(復活)の間の偶発的・直接的関係の中で自らの姿をそこに見たのである、と。 ……」 (9に続く)

ヴェネツィアは現在ファーゼ・ドゥーエ(fase 2)下にあり、5月18日から全てが再開出来るのではないかという状況のようです。5月10日に撮影された街の動画がYoutubeにアップされていました。次のサイト静かなヴェネツィアMa non troppoです。私の大好きなカンポ、サント・ステーファノ広場から始まります。初めてアパートを借りたのはこの広場の裏で、毎日広場の“アンゴロ”でスプリッツ・コン・ビッテル(sprits con bitter)を飲んだものでした。

追記: 2008.07.20日のブログヴェネツィア映画で、ジローラモ・フラカストーロについて触れたことがありますが、上記のヴェローナの医師ジローラモ・フラカストーロとは、イタリア・ウィキペディアによれば、

「Girolamo Fracastoro【1476/78ヴェローナ~1553.08.06ヴェローナ北の現アッフィ】は、医者、哲学者、天文学者、地理学者、文学者であり、全時代を通じて偉大な医師の一人と考えられている。ニコラウス・コペルニクス(Niccolò Copernico)の同僚、友人であり、パードヴァ大学の論理学教授だった。教皇パウルス3世の首席侍医で、彼に天文学の著書『Homocentrica』(1538)を献呈した。ヴェローナ近郊Affi町のIncaffi部落で亡くなった。月面にあるクレーター・フラカストーロは彼に献じたもの。
Fracastoroフラカストーロ像[左、フラカストーロ、右、ヴェローナ、スィニョーリ広場のフラカストーロ像、両者サイトから借用]  医学への貢献: 近代病理学の基礎を固めた一人。科学者としての研究は、感染とは有機体の中で増殖し、呼吸あるいは異なった形での接触を通して伝染する可能性のある病気を持つ者の菌に負うものであると仮説を立て、証明した最初の人であった。科学者としての文献の中で、長短短六歩格詩のヘクサメロン叙事詩の短詩形(1521年執筆、1530年出版)で、"Syphilis sive de morbo gallico"(Sifilide(梅毒)あるいはフランス病、この言葉は当時から現在まで彼の命名通りに呼ばれている)と記されている。

1546年の論文"De contagione et contagiosis morbis"(感染と伝染病について)、これは現代病理学の始まりである。 」
  1. 2020/05/13(水) 02:05:45|
  2. 疫病
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伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――7

(続き)
「  人口統計の推移  

人口統計上黒死病は、2000~2500万人、当時のヨーロッパ人口の約3分の1の生命を奪ったと推定されている。しかしアジアやアフリカの犠牲者については確たる資料がない。当時の人の証言は、このパンデミックへの恐怖心や悲惨さを表現するのに恐らく過剰な数字を挙げ連ねているから、数字は慎重に考慮されねばならない。

例を挙げれば、アヴィニョンでは同時代の年代記作者は死者の数を12万5千と見做していたが、その当時町には5万以下の住民しかいなかった。宗教団体に関するデータでより信憑性があるのは、例えばアヴィニョンの聖アウグスチノ修道会士全員、またカルカソンヌとマルセイユのフランチェスコ会修道士全員(それらはそれぞれ凡そ150人であった)、更にマグロン(Maguelon―これは大聖堂のあるヴィルヌーヴ=レ=マグローヌの事だろうか?)のフランチェスコ会修道士160人中153人、また更にモンペリエのフランチェスコ会修道士140人中133人が各々亡くなった。

1347年12月~1349年5月の間ヴェネツィアでは、人口の約60%ほどが消滅した。言わば、12~15万人の間を上下していた人口の内、7.2~9万人が犠牲者となった。早々とquarantena(40日間の検疫)を行っていたにも関らずである。ロンドンは12万5千の住民に対して、2万5千~5万人の死者を数えた。

トスカーナではサン・ジミニャーノで、住民の70%が死んだし、プラートでは、ブレーメン(Brema)の70%、リューベク(Lubecca)の25%、マクデブルク(Magdeburgo)の50%の家族が消滅したように、38%の家族が消えた。

数字以上に、ペスト猖獗に具体的なイメージを与えてくれるのは、個人の運命である。スィエーナの年代記作者アーニョロ・ディ・トゥーラは死者の埋葬人が最早いなくなり、自分の5人の子供を自らの手で葬らねばならなかったと嘆いた。

キルケニーにあるアイルランド修道院で、最後に生き残ったジョン・クラインは自分がペストで死ぬ直前に、疫病蔓延の中、自分は最後に生き残っている人間であり、自分が書き始めたペストの年代記を書き続けることが出来ればという希望を紙に記していた。多くの場合、自分自身もペストに冒され、ペスト患者に呼ばれて慰めの言葉を与えてから死んだ宗教者は多かったのである。ヨーク市の教区では土地の聖職者約40%が亡くなった。

黒死病は全ヨーロッパを同じ程度で打ちのめした訳ではない。ある稀な地区では感染から殆ど免疫状態にあった(ポーランド、ベルギー、プラハのある地域のように)が、他の地区では逆に殆ど人が居なくなった。イタリアではペストからミラーノが地域的に免れ、約10万人の人口ながら1万5千の死者で済んだ。一方フィレンツェは住民の5分の4が死んだ。

ミラーノは何故死者を抑えることが可能だったかという推測がなされた。その幾つかは、ヴィスコンティ家の強力な政庁に焦点が向けられた。それは町への商品や人の出入りを激しく制限したことであった。そして家族内の一員に感染者ありの疑いが出た時は、家に隔離させた。一方別の人々には、町から少し離れた、人気のあまりない広大な地域にいるように勧めたし、多くの人には隔離場所を見付けることを許した。

ドイツでは特に南部が難を逃れたが、ハンブルク(Amburgo)、ブレーメン(Brema)、ケルン(Colonia)は、手酷く打ちのめされた。人口に及ぼした結果は、特にフランス、イタリアでは厳しいものであった。

スカンディナヴィアも悲惨なものだった。特にノルウェーではパンデミックは、国王夫妻なしという状態に国民を放り出すほど激甚だった。即ちデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの北欧三国がデンマークのマルグレーテ(Margherita)1世女王の元に合体したのはこの時のことであった。

ヨーロッパの人口がパンデミック前の密度に戻るには数世紀が必要であった。合衆国の中世史学者デイヴィッド・ハーリヒイは、ヨーロッパの住民数は15世紀の初めの数10年間は下降は止まったが、次の50年間は固定的であった。その後1460年頃からゆっくりと増加を始めたと書いている。 」 (8へ続く)
  1. 2020/05/08(金) 00:46:54|
  2. 疫病
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伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――6

(続き)
「  ヨーロッパ蔓延

一度ヨーロッパに到達するや黒死病は急速な広がりを見せ、6~9ヵ月に渡って各地を襲来し続けた。平均死亡率は全人口比、約30%であったことに対し、致死率(この病気の)は約60%であった。特に都市の最も密集した地域で拡大したが、そこは住民が栄養不良で衰弱しており、丸で信頼出来ない不衛生状態で生活していた。メッスィーナに上陸した後、黒死病はジェーノヴァやマルセイユ(Marsiglia)のような地中海の主たる港に上陸したが、その記録が残っている。

1348年1月初頭、疫病はピーザ港に到達した。また更にスプリト(Spalato)や近くの港シーベニク(Sebenico)、ドゥブローヴニーク(Ragusa)にも広がり、そこから1348年1月25日ヴェネツィアに到来した。1年の内に全地中海に拡大したということである。
[ピーザは当時、現在のような内陸ではなく、海に開かれた港でした。また“1348年1月25日”のようにヴェネツィア共和国の記録文書は正確と言われています。例えば飢饉の死者の数等、10の位まで信用出来、他のイタリア都市は信用出来て精々100の位から、と言われています。]

疫病の蔓延は1348年から始まったが、それは最も頻繁に人の往来のある、大陸の商業ルートに乗ったものだった。イタリアは3方向からの感染があった。即ち、スィチーリアから全地中海のイタリアとラツィオが、ジェーノヴァから全ロンバルディーア(ミラーノ人が罹患しなかったことは有名である)とピエモンテ、スイスが、ヴェネツィアからヴェーネト、エミーリア=ロマーニャ、トスカーナ、イーストラ(Istria)半島、ダルマツィアが感染した。

フランスではマルセイユの感染後、ローヌ(Rodano)渓谷から北上し、直ぐにラングドック(Linguadoca)とモンペリエ(Montpellier)に到達した。1348年8月にはカルカソンヌ(Carcassonne)、ボルドー(Bordeaux)、エクサン=プロヴァンス(Aix-en-Provence)が巻き込まれた。アヴィニョンは当時教皇庁在所であり、感染初期3日間で1800人が死亡した。3月にはペストはトゥールーズ(Tolosa)に、5月にはパリに至り、更にノルマンディ(Normandia)とオランダに向かった。

ペストがイギリス海峡(canale della Manica)に到達するのには、ほんの僅かの期間を要したのみであったが、海峡を越すやイギリスの、多分ウェイマスに上陸した。そこからは素早くロンドン、ブリストル、プリマス、サザンプトンと移動した。

1349年ペストはイギリスのコーンワル(Cornovaglia)半島とノルウェーで犠牲者を出し始めた。翌年にはスウェーデンとスコットランド、アイスランド、グリーンランド(Groenlandia)、デンマーク領フェロー諸島(isole Fær Øer)、シェトランドが感染地であった。同年12月にはスイスとドイツに到達した。即ち、ヴェネツィアからブレンナー(Brennero)峠を越え、オーストリアに至り、最初ケルンテン(Carinzia)、そこからシュタイアーマルク(Stiria)、最終的にはウィーンに到達した。

イベリア半島では1350年、カスティリアとレオン両国の王アルフォンソ11世がこの病気で亡くなった。この事が引き金となり国内で内戦が勃発して、それによりアルフォンソと愛人レオノール・デ・グスマン(Eleonora de Gusman)の息子、エンリケ・エル・フラトリシダ(Enrico di Trastamara―兄弟殺しのエンリケ)が王位を襲った。

1351年にはブランデンブルク(Brandeburgo)に至り、同年には北東方面、ポーランド、バルト海三国、フィンランド、ロシアと拡大していった。ロシアでは1353年、ロシア正教会の総主教テオニョステ・イル・グレコ(テオグノストゥス?―Teognoste il Greco)とモスクワ公シメオン・イヴァノヴィチ(Simeone di Russia)が病に倒れた。その蔓延はシベリアの広大で無人の平原に至り、止んだ。

感染の危険を抑えるために1347年以後、ペスト存在の可能性を疑われて、船は40日間、陸地から離れた沖合に停泊させられた(quarantena (40日間)というヴェネツィアの言葉は、“quarantina(検疫)”という言葉の元になった)。quarantena は乗組員の上陸は阻止出来たが、疫病蔓延の真の媒介者である鼠の上陸の阻止は不可能であった。 」 (7に続く)
  1. 2020/05/04(月) 22:20:39|
  2. 疫病
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伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――5

(続き)
「 ペストが爆発し、ヨーロッパに蔓延

 ≪鐘は最早鳴らなかったし、泣く人とて無かった。人に出来ることと言えば死を待つという、ただそれだけ。ある人は今や狂然として虚空を凝然視し、またある人はロザリオの玉を一つずつ繰りながら祈りを口にした。そしてまたある人は自堕落に沈湎する。多くの人が口にした、“この世は終わりだ”。≫ (スウェーデン年代記の作者の覚書)

   起源
14世紀、腺ペストはモンゴルとゴビ砂漠の間に棲息する齧歯動物の風土病であった。多分、世界規模にまで拡大することになった、健康上の一つの状態を引き起こしたのはモンゴル人と志那人の戦争であった。パンデミックの震源地はアルタイとトゥヴァ共和国の間、中央アジア北部であったようである。そこは中国に近く、現代の研究では1331~1353年の間、猛威を振るった疫病蔓延で住民の65%近くが死亡したとされた。

1338~1339年、ペストは現在のキルギスタン(Kirghizistan)のイスィク=クリ(Issyk-Kul)湖傍のネストリウス派のコミュニティーに近付いた。伝染病蔓延について最初に書かれた証言は正にこの湖の傍で発見されたが、この湖はシルクロード上の必ず宿泊する地であった。

1345年ヴォルガ南部の河畔のサライ(Saraj)とクルィム(Crimea―クリミア半島)で最初の症例が残された。1346年ペストはアストラハン(Astrachan)で最初の犠牲者を出し、続く年疫病は、当時のヨーロッパとの境まで到達した。ジャーニー・ベク(Ganī- Bek)に率いられたキプチャク・ハーン国軍(L'Orda d'Oro)は、クリミア半島のカッファを攻撃した。そこはジェーノヴァ共和国の豊かな植民地ガザリーア(Gazaria)と呼ばれる地方の主都であり、オリエントへの道の寄港地でもあった。

ペストはキプチャク・ハーン国軍に連れられて町へやってきた。当時の年代記は報告している(フランスの歴史学者ミッシェル・バラールが、筆者不明の年代記に基づいて書いている。それはフランシスコ派の僧ミケーレ・ダ・ピッツァの作と考えられている)。侵略者達はペストで死んだ死体をカタプルタ(catapulta―石や弓を射るための弩砲)で町の城壁の内側にまで打ち込んだという。カッファの市民達は死体を直ぐ様海に捨てただろうが、こんなやり方でペストは町へ侵入した。

しかし別の要因として、ジェーノヴァ人の感染は鼠からであったということは有り得ることである。鼠はモンゴル軍から町の住民の所へ移動したか、最近の考え方としては、gerbillo(荒地鼠)から感染したという。

カッファではかつてペストはジェーノヴァ人の広い商業網から侵入してきて、全地中海に広がったとされた。1347年秋町を出発した船でペストは、最初のヨーロッパの感染都市コンスタンティノープルに至り、更にペーラ(Pera―Beyoğlu―ボスポラス海峡のコンスタンティノープルのヨーロッパ側にあるジェーノヴァ共和国の植民地)に、その後キプロスやエジプトのアレクサンドリアの住民に感染し、1347年9月には疫病はメッスィーナ港に到達した。 」 (6に続く)

[話は丸で変わりますが、ヴェネツィアで語学学校に通っていた時、ジャズピアニスト上原ひろみさんのコンサートがゴルドーニ劇場であり、席が満席で、ここでも凄い人気なのだと合点したことがありました。彼女の米国バークレーの先輩、小曽根真さんのコンサートには時々参加しますが、このコロナ騒ぎで先日のコンサートは取り止めになり、その代わりということなのでしょうか、facebook で暫く前からPC上の live が“Welcome to Our Living Room”として続いていました。

しかし音質がイマイチということだったのでしょうか、昨日4月30日の21.00時からは、YouTubeに発信局が切り替わり、美しい音で live がありました。視聴した人数は7347人という盛況でした。今夜も21.00時から聞かねばなりません。
Youtube で≪“Borderless Music” by Makoto Ozone≫を検索すれば聞けます。]
  1. 2020/05/01(金) 14:37:53|
  2. 疫病
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伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――4

(続き)
「 疫病猖獗前夜のヨーロッパ

10世紀~14世紀初頭の間、ヨーロッパでは人口増加は緩慢であったが、恒常的にあった。フランスとイタリアでは倍増したが、ドイツでは3倍増となった。この事は政治構造の安定剤として機能し、更なる安定性、そして中世の暑かった期間として知られる、温和な季節に移行した。

経済は栄えた。即ち、数世紀後には情報活動は効率的に維持され、商業交易は活発になり、黒海やビザンティン帝国にまで及んだ。14世紀初期、ヨーロッパの多くの都市には1万人以上の住民が住み、ある都市では、10倍を数える所まで現れた。イタリアではミラーノは約15万人、ヴェネツィア、フィレンツェでは10万人、ジェーノヴァは6万人。一方ヴェローナ、ブレッシャ、ボローニャ、ピーザ、スィエーナ、パレルモは多くても約4万人という数であった。

当時の食生活の基本としての食べ物である穀類の調達といういつもの大目的に向かって、耕作地の拡大や3年サイクルの輪作、新しい農具といった農業技術の改良があった。しかし1300年代初期の数10年間、“小さな氷河期”とその後歴史に残ったように、一般的な気温の低下のために農業生産は需要に応えられなかった。

1315~1317年にヨーロッパは、何年もの間発生したこともなかったような大飢饉に襲われた。特に北ヨーロッパの幾つかの都市では続く年月、別の飢饉が発生し、1338年と1343年の飢饉はヨーロッパ南部の国々の大いなる関心を呼び、記憶されている。

1325~1340年の間、夏は非常に低温多湿で多雨が襲来して収穫物を駄目にし、現在でも存在しているが湿地を拡大した。既に1339年と1340年、疫病の流行があり、多くの場合、腸感染症と仮定されている。これによってイタリアの都市は、死亡率の決定的な増加を見た。

更に状況を悪化させたのは、1337年、フランス王国とイングランド王国間に1世紀以上続く紛争が勃発したことであった。戦争に怯え、自分達の畑の些少の収穫物では生存し続けることが出来ない農民達は、日々の糧を求めて都市に向かった。道に捨てられ腐敗するゴミの山、下水溝とて無く、窓やベランダから直接道に捨てられる生ゴミと一緒に、相当ひどい衛生状態の中で、人口過密な居住区を形成していた。

これが、ペストが地中海の港に到達した1347年10月、パンデミックを爆発させるには理想的な状況、ヨーロッパの疫病猖獗前夜の姿である。 」 (5に続く)
  1. 2020/04/27(月) 23:50:00|
  2. 疫病
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伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――3

(続き)
「用語“ペスト”(羅典語pestis、“破壊”“破滅”“伝染病”の意)は中世において高い死亡率と猖獗を特徴とする種々の病気、コレラ、麻疹、天然痘等を意味した。黒いペストという表現は1300年代その病気が人間に引き起こす症状を観察し、とりわけ患者の皮膚や粘膜に現れる出血性の、はっきりした土色の斑点が生じるという症状の観察から生まれた。

同時代の人々は、こうした伝染病(パンデミック――伊語pandemia)を羅典語で、febris pestilentialis、infirmitas pestifera、morbus pestiferus、morbus pestilentialis、mortalistas pestis、或いは簡単に pestilentia と呼称していた。この病気を同時代の著者は、“大ペスト(grande peste)”とか“大疫病(grande pestilenza)”の呼称もした。

1300年代半ばの疫病蔓延は“黒死病”(Morta nera――羅典語mors nigra)という形容語でも有名である。この言葉は1350年に初めてベルギー人スィモン・ド・クーヴァン(Simon de Couvin[Covino]によって使われたが、彼は『De judicio/iudicio Solis in convivio/conviviis Saturni』の詩の著者で、この詩作品の中で黒死病は土星と木星が天文学でいう“合”の状態に入ったためではないかと仮説を立てている。即ち――
≪Cum rex finisset oracula judiciorum       (王が審判の託宣に終止符を打った時
Mors nigra surrexit, et gentes reddidit illi.≫   黒死病が生まれ、国はそれに屈した。)
Johannes Isacius Pontanus[ヨハンネス・イサキウス・ポンタヌス像、Wikipediaから借用] 14世紀の伝染病は、1631年に出版された、フラマンの歴史家のヨハンネス・イサキウス・ポンタヌス(Johannes Isacius Pontanus)の『Rerum Danicarum Historia』の中でも“黒死病”と呼ばれ、この場合でも表現は羅典語で atra mors となった。即ち――
≪Vulgo & ab effectu atram mortem vocitabant.≫  (通常、その症状故に黒死病と定義された。)

事実、フランスの医者ジル・ド・コルベイユ(Gilles de Corbeil)は12世紀に、論文『De signis et sinthomatibus egritudinum』の中で、atra mors という用語をペスト熱(febris pestilentialis)に言及するために使用した。“黒死病”(アイスランド語 Svarti Dauði、オランダ語 den sorte Dod)という表現はスカンディナヴィア地方、その後ドイツで広まった。ドイツでは次第に14世紀の病気と統合されていった。

この用語は英語では1775年初めて使用された。その表現は1832年にドイツの医者ユストゥース・ヘッカー(Justus Hecker)によって再び取り上げられた。1347~1353年のペストについての彼の記事は、1826~1837年ヨーロッパで猖獗を極めたコレラの大流行時代に出版もされ、“黒死病”と題されて、大反響があった。記事は1833年英訳され、重版を重ねた。 」 (4に続く)
  1. 2020/04/23(木) 10:39:18|
  2. 疫病
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伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”―2

(続き)
「 黒死病前史と流行病に対する社会的自覚

14世紀の人々は予防法とか治療法といった考えを所持していなかったが、疫病の流行といった概念については能く知っていた。即ち、過去のペストの大流行は、旧約聖書申命記32章23~24節で、《我禍災(わざはひ)をかれらの上に積かさね、吾が矢をかれらにむかひて射つくさん。かれらは餓えて痩おとろ熱の病患(わづらひ)と悪き疫(えやみ)とによりて滅びん……》と書かれ、既に知っていた。
トゥーキュディデース[トゥーキュディデース像、ウィキペディアから借用] 歴史家トゥーキュディデースは彼の『ペロポネーソス半島戦史』の中で、対スパルタ戦の年月の間(Bc431~404)、アテネを襲ったペストについて記述しているが、そのペストがアテネの敗北の原因となったと推測している。トゥーキュディデース以外にも、多くの古代の作家達が疫病の流行について記述している。ガレノス(Galeno)、コス島のヒッポクラテス(Ippocrate di Coo)、プラトーン(Platone)、アリストテレース(Aristotele)、エフェソスのルフォス(Rufo di Efeso―医師)等。

ヒッポクラテスやガレノスのような医師は、その原因が四体液説により人体のバランスを崩す大気中の毒である、空気の瘴気の中にあると言っている。しかし誰も疫学というものの概念がない上に、人間間での感染性については認識していなかった。

歴史家カエサレアのプロコピウスが詳細に記述したように、紀元541年コンスタンティノープルは所謂“ユスティニアヌスのペスト”(ユスティニアヌス1世在位527~565)に襲われ、ビザンティンの首都で人口の約40%が死滅した後、疫病は約750年頃まで全地中海地域に波状攻撃を繰り返し、5000万~1億人の死者を生じさせた。故に史上初の“パンデミック”と考えられるに至った。

590年ペストが初めてローマにやって来た時、伝説は大天使ミカエルが顕れて、大聖グレゴリウス(グレゴリウス1世)の願った贖罪の行列のお陰で、ペストの侵入が止まったと言っている。

イスラム世界も流行病から免れてはいない。ヒジュラ(遷都―Egira)以来、5回のペストが知られている。“シーラワイフ(Shirawayh)
のペスト”(627~628)、“アムワス(Amwas)のペスト”(638~639)、“大(violenta)ペスト”(688~689)、“処女の如き(delle vergini)ペスト”(706)、“特筆すべき(notabili)ペスト”(716~717)である。

14世紀の人々は天然痘や麻疹のような感染症が存在することを認識していた。しかしこういう状況を生き延びた人々は人生の残りの間、免疫された状態だったので、感染症というものから子供達は例外的に免れているのだと考えていた。その上、人間間の感染の可能性の認識はなかったので、伝染病というものは個人にのみ関与するものであるとし、その病気が伝染するものであるということは何も知らなかったのである。……」 (3に続く)
リアルト橋rialto tricolore[左、ロックダウン下のリアルト橋、右、トリコローレのリアルト橋(サイトから借用)――昨日の新聞によりますと、ヴェーネト州のルーカ・ザーイア知事は5月4日には商店等の再開をしたい旨を表明されています。それに呼応したように、ヴェネツィア・リアルト橋にイタリアの三色旗の色が照射されました。イタリアに漸く春本来の陽光が差し始めたかのようです。またWikipediaに《感染症の歴史》という項目があります。大変参考になります。]
  1. 2020/04/18(土) 00:02:01|
  2. 疫病
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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