イタリアと日本との関わり――フェリーチェ・ベアート

日本の土を踏んだ最初のイタリア人は、やはり天正時代ローマに伊東マンショら4少年使節を送り出したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539.02.15〜1606.01.20)でしょうか。彼はキエーティに生まれ、パードヴァの「ボー」で学び、東インド巡察師として1579(天正7)年に来日しました(彼については『巡察師ヴァリニャーノと日本』(ヴィットリオ・ヴォルピ著、原田和夫訳、一藝社、2008年7月10日発行)が詳しいです)。

続いて、伊達政宗の命でスペインに向かった支倉常長のお付きの者として、グレゴーリオ・マティーアスは彼のお供で渡欧し、イタリアに行った時には、体の調子を崩してジェーノヴァで待つ彼の代理で、ヴェネツィア共和国への贈答品を持参し、敬意の表明に行きました。ヴェネツィア出身の宣教師だったそうです。

1643年に来日したパレルモ出身の宣教師ジュゼッペ・キアーラ(1602〜1685.08.24)は捕らえられ、江戸に送られキリスト教を棄教しました。転伴天連(ころびバテレン)として宗門改役の監視の下、岡本三右衛門の名前と妻を貰い、十人扶持を給され、小石川の切支丹屋敷を出ることは許されず、83歳まで天寿を全う(?)したそうです(遠藤周作の『沈黙』のモデル)。

1708年禁教令下の日本に渡来した最後の宣教師、シチーリア生まれのジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(1668〜1714.11.27)は直ぐに拘束されて江戸へ送られ、小石川切支丹屋敷に幽閉されました。彼の尋問から新井白石が『西洋紀聞』や『采覧異言』を書いたことは歴史に知られています。

明治時代、日本政府がイタリアに文化・芸術面で教えを仰ぎ、ヴィンチェンツォ・ラグーザ、エドアルド・キオッソーネ、アントーニオ・フォンタネージ、ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペッレッティ等を「御雇外国人」として招聘したことはよく知られています。

この時代、イタリアでは蚕の病気のためイタリア養蚕業が大問題でした。来日し、内陸まで入り込んで日本の養蚕業の中心地を探し出し、健康な蚕卵紙を購入してイタリアに持ち帰り、最初の経済関係を築いたのはロンバルディーア州の蚕卵業者だったそうです。以来多くの蚕卵業者が日本の土を踏んだと言います。そんな歴史的背景を元に、アレッサンドロ・バリッコが『絹』(鈴木昭裕訳、白水社、1997年5月発行)という小説を書いています。

その明治時代、岩倉具視らが米欧を回覧した時、アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ駐日イタリア全権公使がイタリアでは彼らに付き添ったそうですが、その後継公使となったラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニが1877〜81年の公使の任務を終えて帰国した時に、日本のお土産として持ち帰った、日本全国に及ぶ名所旧跡等を当時の写真技術で写した写真集がイタリアに残されていました。それが『大日本全国名所一覧――イタリア公使秘蔵の明治写真帖』(監修マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章、平凡社、2001年6月25日発行)として刊行されています。
大日本全国名所一覧
これは明治初期の北海道から小笠原諸島までを、1268枚の各地の景観や建物等の写真で日本全国を網羅したもので、大変貴重なものが数多く含まれているようです。この写真集は単なるスーヴニールの領域を超え、バルボラーニ公使がどういう理由でこれを手にし、持ち帰ったのか判然とはしないようです。私はこの本のディ・ルッソ氏の解説で、当時来日していた二人のイタリア人写真家、フェリーチェ・ベアートとアドルフォ・ファルサーリの名前を知りました(この写真集にはこの二人の写真は含まれていないそうです)。

フェリーチェ・ベアート(1834〜1908?)は1863年に来日した写真家で、横浜を栄えある写真の町(下岡蓮杖らも活動していました)に活気付けた功労者の一人だそうです。また長崎にも何度か訪れ、現在NHKテレビの大河ドラマ『竜馬伝』が放映中ですが、その主人公坂本竜馬や高杉晋作らの写真を残した上野彦馬とも交流があり、日本の写真界を牽引した人物でした。

ベアートが誕生したのは、ヴェネツィア共和国時代はヴェネツィア領だったコルフ島(現ギリシアのケルキラ島)で、彼が生まれた1834年当時は、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814〜15年――映画『会議は踊る』の舞台)の結果、イギリスの統治下に置かれることになり、イギリス領だったので、彼の両親はヴェネツィア人だったのですが、日本では英語式にフェリックス・ベアトと呼称されることが多いようです。

在日イタリア商工会議所発行機関誌『Viste dalla Camera』の「Gennaio/Febbraio 2000」の「Anno2 Numero1」にリーア・ベレッタ(Lia Beretta)氏が「Obiettivo sul Giappone Meiji: Felice Beato(日本の明治時代にレンズを向けて――フェリーチェ・ベアート)」と題したエッセーを書いていらっしゃいますのを参考にさせて頂き、彼について記して見ます。

1970年代末、ニューヨークで『日本の写真1854〜1905』という写真展が開かれ、その図録と共にフェリックス・ベアトの写真が出現し、また一方で「フェリーチェ・アントーニオ・ベアート」の写真とされる物も出回っていたそうです。

次第に判明してきたことは、フェリーチェにはアントーニオという兄がおり、二人とも写真家で、片やアジアで、片やエジプトでの同時期の写真が発表され、当時の交通手段では無理なことから謎であったようです。ようやく忘れ去られていた写真家の姿にフォーカスが絞り込まれるようになり、現在では彼は19世紀のアジアで活躍した最も偉大な写真家と考えられているそうです。

彼の写真家としてのキャリアは、妹マリーアの夫で写真家のジェームズ・ロバートソンと共に赴いた1855年のクリミア戦争に始まるのだそうです。

1858年はセポイの乱のドキュメント、60年にはイギリス軍の後を追い、中国に移動、第二次アヘン戦争の英仏軍の公式カメラマンとなります。

アヘン戦争が終結すると、一緒に仕事をしていたジャーナリスト、チャールズ・ワーグマンが日本に渡ったその後を追い、横浜に到着、ワーグマンとの横浜でのコラボレーションが始まります。

絵心のあるワーグマンや日本の職人達の助けで、彼は手彩色のカラー写真を日本に導入しました。それはヨーロッパでは知られていた技法でしたが、普及はしていませんでした。日本では浮世絵の技術に長けた職人達の能力のお陰もあって、大成功を収めたそうです。

1866年、横浜大火で倉庫を全焼し、一からの出直しとなりました。1877年自分はビジネスの才ありと誤解し、写真館をオ−ストリア人ライムント・フォン・シュティルフリート男爵(日本では英語風にスチルフリートと書かれたりします)に譲ってしまいます。そして84年にはビジネスは立ち行かなくなり、無一文で日本を後にしたようです。

1910年以前、ビルマ(現ミャンマー)で亡くなったのではないかと言われています。

彼の写真は次のサイトでどうぞ。フェリックス・ベアト
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パリ(2)

カナの
カナの婚礼
ルーヴルで見たイタリア絵画は、イタリアで見たイタリア絵画とはまた異なった雰囲気で、感動の連続でした。特にナポレオンがヴェネツィアから略奪して持ち去った、そして未だに返還されていないヴェロネーゼの大作『カナの婚礼(婚宴とも)』、ルーヴル最大のこの絵画にようやく出会えた時は至福の一時でした(出来ればヴェネツィアのサンタ・マリーア・マッジョーレ教会修道院で鑑賞したかった)。

それに比すと、同じ部屋のこの絵の対面に展示されていた『モナリザ』は、頑丈なガラス・ケースで保護され、6〜7メートル遠くから見ることを強制され、ガラスが反射して観賞に堪える設置になっておらず、ルーヴルが誇る至宝の誇示といった趣でした。
スティーン
雪のチュイルリー公園を横断して見に行ったオランジュリー美術館の小品達は、全て親しみの持てる simpatici のものばかり。モディリアーニ、スーティン、アンリ・ルソー……。気に入ったスーティンのものを1点掲げます。
チュイルリー公園
再度チュイルリーの雪を踏み締め縦断し、ティヴォリ通りに出ると向かい側に噂に聞いていたガリニャーニという書店がありました。書店の歴史について何か本があるかと聞くと、オルディナトゥールで検索すればある筈ですよ、という店員さんの返事で、帰国してからパソコンを開きました。以下がこの書店の歴史です。
ガリニャーニ書店
「ガリニャーニ書店は、多くの読者に書籍を提供するために、発明されて間もない印刷機を、その初期から使用したことで知られる。1520年代初め、シモーネ・ガリニャーニはラテン語文法書をヴェネツィアで出版した(最古の「ガリニャーニ本」として知られる)。

しかし彼らの大成功は1597年出版のPTOLEMAEUS(プトレマイオス)による『地理書』であった。それは16、17世紀における超ベストセラーであった。ガリニャーニは結果的には各種の出版物の再版を重ねていった。

18世紀の終り、ブレッシャ近郊生まれのジョヴァンニ・アントーニオ・ガリニャーニは、経済的に落ち目となったヴェネツィアを後にして、先ずロンドンに向かったが、直ぐにパリに赴き、1801年ヴィヴィエンヌ通り(2区?)に書店と共に、英語本の読書室を開いた。その間にも出版活動は続いた。

更に日刊新聞『ガリニャーニのメッセンジャー』の創刊、大陸での英語話者社会へのリファレンスの創設があった。この新聞に寄稿した当時の何人かの著名な作家、そして彼らの著書はガリニャーニから発刊された(バイロン、ワーズワース、サッカリー、スコット……)。書店は1856年リヴォリ通りに店を移し、現在に至る。

1882年ヴィリアン・ガリニャーニは死に際して、甥のシャルル・ジャンクール=ガリニャーニに会社を譲り、現在その直系が店の経営に携わっている。20世紀初め、新聞と印刷所は廃止、独軍占領下では英語本のストックが許されず、アンドレ・ジャンクール=ガリニャーニは芸術本のコーナーを始めた。」

2009.07.25 から3回に渡ってプルーストのヴェネツィア(文学に表れたヴェネツィア――プルースト)を書きました。今回オルセー美術館でプルーストの肖像画を撮ることが出来ましたので、その絵を掲げたいと思います。ジャック=エミール・ブランシュが1892年に描いたプルースト(21歳)です。
マルセル・プルースト(21歳) 
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パリ(1)

雪のモンマルトル
急に思い立ってパリに行ってきました。初めてのパリは雪でした。真っ白に凍て付いたようなモンマルトルの坂道を足を滑らせながら歩き回りました。サクレ・クール寺院前の広場からパリを見下ろしても、降雪で煙り、殆ど展望は利きません。
サクレ・クール寺院前からパリを望む
真っ白のリュクサンブール公園の雪をキュッキュッと鳴らしながら、リュクサンブール宮殿を眺めていると、突如蘇った言葉がありました。「Mais ou sont les neiges d'antan.」という、かつてシャンソンで聞き、口ずさんだこともある放浪の泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンの『遺言集』の一詩「その上の貴婦人を讃えるバラード」のルフラン「さはれ、去年(こぞ)の雪、今いづこ」です。
リュクサンブール公園
リュクサンブール公園を横切り、オデオン座からサン・シュルピス教会を覗いた後、サン・ジェルマン・デ・プレに出ました。ジャン・ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワール等が屯していたというキャフェ「フロール」や「ドゥ・マゴ」を横眼で見ながら、サン・ジェルマン・デ・プレ教会に入りました。教会裏にはフュルスタンベールという大変古雅な美しい通りがあり、ドラクロワが住んでいたことを知りました。
フュルスタンベール通り
更に進んでビュシ通り10番地にはアルテュール・ランボーが住んでいたというので、詩人の痕跡を探して歩きました(ヴェルレーヌの家は程近いパンテオン裏にあるとか)。テレンス・スタンプ主演の『ランボー:地獄の季節(Una stagione all'inferno)』(監督Nero Risi)というランボーの生涯を描いたイタリア映画を思い出していました。
ビュシ通り10番地
ジャン・マリ・カレ著『地獄の遍歴者』(江口清訳、立風書房、1971年10月20日)によりますと、
「テオドール・ド・ダンヴィルは放浪詩人のためにビュシ街に学生部屋を借り受け、彼の細君がそこにベッドを運んだ。ランボーはこの夜の宿にたどり着くと、虱だらけの服をいそいで脱ぎ、汚れたシャツを取り去って、それらを一まとめにすると、隣人の驚き騒ぐ中を素っ裸になって窓に近寄り、包みを窓から通りへ投げ捨てた。」それからしばらくして、そのパリの初宿からモンパルナス墓地脇のカンパーニュ・プルミエール街に、彼の後援者達が金を出し合って屋根裏部屋を借り受けてくれたのだそうです。

ビュシ通りからサン・ミシェル広場に至るサンタンドレ・デザール通りの脇道、passage prive' で始まるコメルス・サンタンドレ通りにパリ最古と言われるキャフェ「プロコープ」がありました。割栗石が敷き詰められたその凸凹の通りは歩きにくく、いかにも古さを感じさせます。ヴォルテール、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴェルレーヌ等、文学者達が集まり、談論風発の議論を闘わせたのだそうです。
キャフェ・プロコープ
コメルス・サンタンドレ通りからジャルディネ通り、レプロン通り、セギエ通り等サンタンドレ・デザール通りの脇道は、中世の面影を残す通りなのだそうです。

後日、雪も消えてから行ったギュスターヴ・モロー美術館で私が見た物とは――彼がイタリア旅行中に模写したダ・ヴィンチ等のイタリア絵画が、書斎などに飾られていましたが、最上階の大広間正面にカルパッチョの原寸大の『聖ゲオルギウス(S.Giorgio)の勝利』の模写絵があったのです。
ギュスターヴ・モローの模写
それはヴェネツィアのサン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館の天井下に描かれた、聖ゲオルギウスが竜を退治する様を描いた、私の大好きなカルパッチョの傑作の一枚だったのです。その余りに正確な模写故に、彼のカルパッチョに対する思いの程が伝わってきます。
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文学に表れたヴェネツィア――バイロン(3)

総督宮殿の大評議会が開かれる大会議場の天井下の壁面に、歴代総督の肖像画が年代順に飾られ、正面に向かって左側一番奥近くに、肖像画の代わりに黒い布が張られていることは大会議場を訪れた人であれば、誰でも知っているに違いありません。

1354年に第54代総督に選ばれたマリーノ・ファリエーロ(Marin Falier)は、1355年市民が企てた反乱の首謀者に名前を連ね、事が露見し、かつて自ら議長を務めた十人委員会の死刑宣告を受け、宮殿中庭で断首の刑が執行されました。

彼の生家はカンナレージョ(Canaregio)区のサンティ・アポーストリ(Ss.Apostoli)広場からサンティ・アポーストリ橋を渡った先が、ファリエーロ軒下通り(Sotoportego Falier)ですが、その5643番地の Palazzo Falier(現在はホテル・アンティーコ・ドージェになっています)がそれだと言われ、『Calli, Campielli e Canali』は次のように書いています。

「この建物は12世紀に建てられ、次の世紀には手直しされたが、中央のヴェーネト・ビザンティン様式の窓と1200〜1300年代の痕跡が残っている建物である。総督マリーン・ファリエールが住み、セレニッシマに対する国家反逆罪で、1355年に首を切られた。」
ホテル・アンティーコ・ドージェ
マリーン・ファリエール館
[写真下、右にアーチが3連見えるのがサンティ・アポーストリ橋から見下ろしたファリエーロ軒下通りです]

バイロンはヴェネツィアに来てこの総督の事を知り、1821年に『マリーノ・ファリエーロ』という悲劇を発表しています。この悲劇と仏人カジミール・ドラヴィーニュの書いた悲劇(1829) とを元に、ジョヴァンニ・エマヌエーレ・ビデーラが台本を仕上げ、ガエターノ・ドニゼッティが3幕のオペラを作曲し、パリのテアトル・イタリアンで1835年3月12日初演されました。

『マリノ・ファリエロ』(『対訳バイロン詩集――イギリス詩人選(8)』笠原順路編、岩波文庫、2009年2月17日発行)より
「第一幕二場 「陰謀へ」
……
総督 お前は私を過大に評価している。この総督の権力など、飾りにすぎぬ。この被り物は、君主の王冠ではない。この衣服は乞食のぼろのように、同情を掻き立てるかもしれぬ。いや乞食のぼろは乞食自身の持ち物だが、これらは憐れな繰り人形に貸し与えられたものに過ぎぬ。その人形はこの白テンの毛皮を着て、帝国を相手に己の役を演ぜねばならぬのじゃ。
ベル 王におなりになりたいのですか。
総督 そうだ。幸せな民の王にな。
ベル ヴェネチア絶対君主におなりになりたいのですか。
総督 そうだ。国民が統治権を共有している限りはな。そして国民も私も、これ以上、この増長した貴族社会の怪物ヒュドラーの奴隷にならないためにな。我々は皆この毒々しい怪物の毒のある頭から吐き出される毒気に悩まされてきたのだ。
ベル しかし、総督は貴族としてお生まれになり、今も貴族であらせられます。
総督 何という不幸な時に生まれたものよ。しかもその生まれによって総督になり、侮蔑を受けるとは。だが私は、ヴェネチアの国と民に仕える一兵士、一従僕として生きてきたし、苦労も重ねてきたのだ。断じて元老院に仕えるためではない。ヴェネチア国民が幸福になり、私が名誉を得たことだけで、私は報われているのだ。私は戦い、血を流してきた。そうだ、軍を統べ、勝利を得たこともある。

しばしば交渉団を率いて、和睦を結んだこともあるし、国益にかなうと見れば、和睦を反古にもした。常に職務にあって、陸や海を越え、この六十年近くの間、父祖たちや私を生んだヴェネチアのために尽してきた。その愛しい教会の尖塔が、青いラグーンの向うに聳えておる。それらを再び目にすることが出来るだけで、充分報われておる。

だが特別の人間どものためとか、一党一派などのために、血や汗を流してきたのではないのだ。だが私がなぜこういう事をしてきたか、知りたいと思うか。血を流すペリカンに、なぜ胸に傷をつけるのか訊いてみるがよい。声がだせるなら、全て雛のため、と言うにちがいない。……」
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文学に表れたヴェネツィア――バイロン(2)

バイロン卿は滅び行こうとしているこの町について、「滅びの美」(死に行く栄光)を感じ、街の美しさを発見し、それを世界に発信し、多大の影響を及ぼした嚆矢の人であったと言われています。

前回引用しました詩「ヴェニス」の冒頭で歌われた「嘆きの橋」は、彼に歌われる以前、ヴェネツィアの観光名所であったことはないことは、例えばカナレットが描いた総督宮殿の絵の中でも、「橋」はそこにあるから、風景の一部として描かれているだけであったように類推されます。

彼の後にこの街を訪れた人達は、サン・マルコの素晴らしさは元より、名もない、心寂しきリーオや橋、狭隘なカッレ等の佇まいにまで、目を潤ます人々が現れるようになって行ったようです(かつてはエドワード・ギボンのように「運河などという大袈裟な名前が付いていますが、悪臭ふんぷんたるただのどぶです」とこの街に嫌悪を示した人もいたのです)。

彼がヴェネツィアで、モチェニーゴ本館の二階を借りて移り住んだ、その滞在中の、イタリア女性との放蕩的恋愛沙汰については2007.11.29に書きました「Palazzo Mocenigo Ca'Nova」を参照して下さい。

ヴェネツィアでの恋愛の最後を締め括ったのは、ラヴェンナの伯爵夫人テレーザ・グイッチョリ(19歳――夫の伯爵は58歳で3度目の結婚)だったそうです。モチェニーゴ本館右隣りの旧モチェニーゴ館の左隣はかつて貴族コンタリーニの館だったそうですが、明治時代、日本領事館が最初ヴェネツィアに置かれた時(数ヵ月後ミラーノに移動)、そこがその所在地だったそうで、当時グイッチョリ館と呼ばれたそうです。ラヴェンナのグイッチョリ家とはどんな関係にあったのでしょうか。
モチェニーゴ
旧モチェニーゴ館とコンタリーニ・ダッレ・フィグーレ館
[ヴァポレットの停留所「サン・トマ駅」対岸正面に、上左から新モチェニーゴ館、モチェニーゴ本館、旧モチェニーゴ館が一部、下左からモチェニーゴ本館の一部、旧モチェニーゴ館、旧モチェニーゴ館通りを挟んでコンタリーニ・ダッレ・フィグーレ館が臨まれます。かつてRaffaella Russo著『Palazzi di Venezia』に従い、上左の建物を通称「イル・ネーロ館」と書いたことがありますが、「新モチェニーゴ館」更に「新モチェニーゴ館は「モチェニーゴ(本)館」が正しいようです。]

バイロンの恋愛行脚はテレーザで納まり、36歳の死の直前まで彼女(夫と別れました)と行動を共にします。来伊した詩人P.B.シェリー(1822年レーリチ湾で遭難死)との付き合い、そしてシェリー亡き後テレーザの兄弟達とギリシア独立運動に傾斜していく姿には感動があります。彼はその戦いのためにバイロン義勇軍を自費で組織したのでした。

「ゴンドラを見たことがありますか
見たことがないといけないので
正確に描写しておきましょう
ゴンドラはここでふつうに使われている
覆いつきの長いボートで
へさきに彫りものがあって
軽快な、こじんまりした造りです
そして、「ゴンドリエール」とよばれる
ふたりの漕ぎ手に漕がれて
棺桶をはめこんだカヌーみたいに
黒々とした姿で水面をすべる
この棺桶のなかでは
何をいっても何をしても
だれにもわからないのです

ゴンドラはあちらこちらの長い運河を
登っては下り
リアルト橋の下をスーッと通りぬけ
夜も昼も、速く、あるいは遅く
いろんな速さで進むのです
ゴンドラは劇場のまわりで
悲しげで陰気な仕着せを着て
黒い群れをなして待っている
でも、ゴンドラは悲しいものじゃない
ときには快楽を
ふんだんに乗せていることだってある
葬式のあとの葬儀馬車みたいにね(バイロン著『ベッポ』)
 ――『ヴェネツィアの光と影――ヨーロッパ意識史のこころみ』(鳥越輝昭著、大修館書店、1994年8月1日発行より)
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文学に表れたヴェネツィア――バイロン(1)

以前にも書いたことがありますが、私が初めてヴェネツィアの語学学校に通った時、借りたアパートは、サン・サムエーレ教会脇のサン・サムエーレ大通り(Salizada S. Samuele)から大運河に向かう旧モチェニーゴ館通り(Calle Mocenigo Ca' Vechia)の旧モチェニーゴ館の一隅にありました。

大運河から、向かってこの館の右隣りは新モチェニーゴ館(Palazzo Mocenigo Casa Nuova)です。ヴァポレットでサン・トマ停留所を通る時、反対側に目をやると、この館の壁面に「ここに1918年から'19年にかけてバイロン卿が住んだ」というプレートを目にすることが出来ます。

ジョージ・ゴードン・バイロン(1788.01.22ロンドン〜1824.04.19ギリシャのミソロンギ)は、1797年ナポレオンに滅亡させられ、沈滞し切ったヴェネツィアに1816年11月10日やって来ました。彼は異母姉との近親相姦があったようで(メドーラと名付けられた女児は、彼の子だというのが定説だそうです)、結婚したばかりの妻にも去られ、ロンドンの上流社会からも非難され、「チャンピオン」紙上で叩かれて、ロンドンを逃げ出し、ジュネーヴを経て、ミラーノ、ヴェローナを経由し、ヴェネツィアに辿り着いたのでした。

グランド・ツアーの行く先は古代ローマ発祥の地が最大の目的(勉強のため)だったそうですから、イギリス人の多いに違いないローマやフィレンツェ(この町にはイギリス人専用の墓地があります)は避けて、勉強の旅の最後に遊びで行くヴェネツィアはイギリス人は比較的少ないという判断があったのでしょうか。

「ヴェニス

私はいまヴェニスの「嘆きの橋」に立つ
かたえには宮殿、かたえには牢獄(ろうごく)
魔術師のふる杖(つえ)にこたえるかに
浪間から、その楼閣は眼のまえに浮かびあがる
千年、――そのおぼろげな翼は私のまわりにひろがり
滅びゆく栄光は、はるかな昔に微笑(ほほえ)みかえす
その昔、属領はみなその翼ある大理石(なめいし)の獅子像(ししぞう)にひれ伏し
ヴェニスは荘厳にも百の島の王座に坐した。

いま海から生まれ出たばかりの母神(シビリ)
空のかなたに誇らかな尖塔(せんとう)の冠をいただき
そびえたち、壮大の力をもって
海のくまぐまとその権勢とを握るもの
これこそ、そのかみのヴェニスの面影
国々の劫掠(ごうりゃく)と、無尽の東邦の富は、燦(きらめ)く宝玉の雨となり
この母親の膝にあつまり、その娘らの身を飾り
王者の紫衣(しえ)につつまれるとき、もろもろの帝王も
その饗宴(きょうえん)に寄りつどって、その威厳を加えた。

ヴェニスに、タッソーの歌の響きはとだえて
歌もなく、ゴンドラの舟夫(かこ)は、黙(もだ)して漕ぎ
その殿堂は、水べに崩れてゆく
いまは、耳にひびく音楽もまれとなり
かのよき日は去ったが、――美の面影はなおただよい
国々はほろび、芸術は消えたが、――自然は滅びぬ
思い出すのは、そのかみの日のヴェニスの懐かしさ。
祝祭に満ちあふれた、歓びの宮
地上の楽園、イタリアの仮面。――『チャイルド・ハロルド』第四巻より」
  ――『バイロン詩集』世界詩人選第四巻(阿部知二訳、小沢書店、1996年7月20日発行)
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日本の災害ニュース

ヴェネツィア大学には日本語学部がありますから、書店等に日本の文学作品の翻訳等がそれなりに多く並べられているのかな、と思いましたが、別段取り立ててそうしたこともないように感じました。しかしカ・ペーザロの東洋美術館に行った時、帰りに一階の売店を覗いてみると、谷崎潤一郎、芥川龍之介、川端康成(新しい作家も含めて)等の日本の作家の翻訳が結構並んでいました。やはり東洋美術館に日本の工芸品が数多く展観されていることと関係があるのでしょう。

「その時雨は最も激しく降り出してゐたが、貞之助が見ると、此処(ここ)の邸内で一番低いと思はれる、ちよつとした雨にもよく水が溜まる書斎の庭の東南の隅の、梅の木の下が二坪ばかり池のやうになつてゐる外には、自分の家には何の異状も認められなかつたし、それに此処は蘆屋川の西の岸から七八丁は離れてゐるので、別に危険が迫ってゐるとは感じられなかつた。

しかし悦子の行つてゐる小学校は、此処よりずつと川の近くにあるので、もし堤防でも切れたとすればどの辺が切れたであらうか、あの小学校は大丈夫であらうかと云ふことが、第一に彼の頭に来たが、幸子に無用な心配はさせまいと云ふ心づかひから、わざと落ち着いて、少し時間を置いて離れから母屋(おもや)の方へ来た。

(その、離れから母屋へ渡る五歩か六歩の間にもびしょ濡()れになつた)そして、今のサイレンは何ですやらうと幸子が云ふのを、さあ、何か分らないが大したことないやらうと云ひながら、兎も角もその辺まで出て見るつもりで薩摩絣(さつまがすり)の単衣の上に洋服のレインコートを纏(まと)つて玄関の方へ行かうとすると、えらいことでございますと、お春が顔の色を変へて、腰から下を泥まみれにして裏口から駈け込んで来た。

彼女はさつき増水の様子を見てから、何となく小学校の方面が気になつてゐたところへサイレンが鳴つたので、途端に外に飛び出して行つたのであると云ふ。と、水は直ぐ此の家の一つ東の辻まで来てゐて、山手から海の方へ、――北から南へ、滔々(たうたう)たる勢で流れてゐる。

彼女は試みにその水の中を東へ向つて進みかけたが、最初は脛を没する程度であつたのが、二三歩行くと膝まで漬()かつてしまひ、危く足を浚(さら)はれさうになつたと思つたら、人家の屋根の上から、こらツ、と怒鳴(どな)る者があつた。こらツ、此の水の中を何処へ行く、女の癖に無茶なことすなと、えらい剣幕で怒鳴られたので、誰かと思つて見たら、自警団員らしい服装はしてゐるけれども顔見知りの八百常の若主人であつた。

何やねん、あんた八百常さんかいなと云ふと、向うも気が付いて、お春どん、あんた何処へ行かはるねん、此の水の中を気でも違うたんか、これから先は男でも行かれへん、川の近くは家が潰れたり人が死んだりしてえらいこつちやがなと云ふ。

だんゞゝ聞いてみると、蘆屋川や高座川の上流の方で山崩れがあつたらしく阪急線路の北側の橋のところに押し流されて来た家や、土砂や、岩石や、樹木が後からゝゝゝと山のやうに積み重なつてしまつたので、流れが其処で堰()き止められて、川の両岸に氾濫(はんらん))したゝめに、堤防の下の道路は濁流が渦を巻いてゐて、場所に依つては一丈ぐらゐの深さに達し、二階から救ひを求めてゐる家も沢山あると云ふ。……」
 ――谷崎潤一郎『細雪』中巻の四(現代日本文学大系31巻、筑摩書房、昭和四十五年十一月三十日発行)より

12月にヴェネツィアの語学学校に通学している期間中、定期的に開かれるサン・マウリーツィオ広場での骨董市に行った時、次に掲げる、古い『La Domenica del Carriere』という絵入り新聞が目に付いたので購入しました。そこに書かれていたのは次のような事です。
La Domenica del Corriere 1938.07.24.
「1938年7月24日付――日本の神戸市の一部では、3カ所の貯水池の決壊が起こり、道路に崩れ落ち、巨大な鉄砲水の氾濫となって、町を襲った。何百という家々に、この怒涛のような洪水が襲来し、基礎部分から破壊し去った。(絵:A. Beltrame)」

調べてみますと、阪神大震災以前の有名な災害は1938年7月初めの阪神大水害だったそうです。その時の模様が、イタリアにはこのような内容で伝わったのでしょう。大谷崎は『細雪』の中で当時の模様を、中巻四章から数章に渡って書いていました。
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文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセ(2)

サンドとミュッセの恋の逃避行は、マルセイユまでは乗合馬車と船、マルセイユからは船でイオニア海を渡りました。ピーザで下船した時、ローマへ行くかヴェネツィアに行くかコインを床に投げて決めたようです。10度もヴェネツィア行きの表だったそうです。

フィレンツェを経てヴェネツィアまで馬車の旅。そして本土側からヴェネツィアまでは沢山の荷物をゴンドラに積み込んで、ラグーナを渡りました。

「スキアヴォーニの岸のとある建物の正面、大理石の階段の下でゴンドラが停まる。各階のオジーヴ[交差リブ]形の窓が光を放っている。やっと旅の終着点、昔のナーニ宮殿のアルベルゴ・レアーレ、別名ダニエリ・ホテル(1822年ニエルのジュゼッペとかいう男が買い取った)に到着した。

当時、ヴェネツィアを訪れる富裕な外国人を引きつけるに足る、快適で、ヨーロッパにその名を知られたホテルである。この時代の案内書は、イタリアで最良のホテルの一つとして紹介している。≪豪華な家具が備えつけられ、フォルテ・ピアノさえ置かれているアパルトマンの美しさに、この上なく魅力的な眺望が加わる。必要なものがすべて揃えられたゴンドラ、軟水および塩水の入浴施設を外国人は随時、利用できる。≫」
 ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』(ベルナデット・ショヴロン著、持田明子訳)より

ジョルジュが、先ず病に倒れ、回復するや今度はアルフレッドが病に苦しみます。その間彼の医師ピエートロ・パジェッロとジョルジュの恋が始まります。結局アルフレッドは聾桟敷に追いやられた形で、静養のために本国へ帰ることになりました。彼女とピエートロとの恋はどのようなものであったのでしょうか。

アルフレッドが帰国した後、彼女はヴェネツィアについて書いています。
「確かにこれまでヴェネツィアの空の美しさや夜の持つ無上の喜びを褒めそやした者はいない。美しい夜、ラグーナ(潟)は実に穏やかで、水面に映る星々が震えることもない。ラグーナの真んなかにいると、水があまりにも青く、平らかであるから、もはや水平線を見分けることができず、水と空が一枚の紺青のヴェールとなり、夢想が吸いこまれ、眠りに落ちる。

大気があまりに澄みきって、清らかであるから、北方のわがフランスの空に見ることのできる星の五十万倍もの星が空にある。私がここで見た星の夜は、星々の銀白が天空の紺青をしのいでいるほどであった。それはパリの夜空の月のように輝く、無数のダイヤモンドであった。パリで見える月を悪く言いたいのではない。それは青ざめた美しさであり、その物悲しさはおそらくこの地の星月夜以上に知性に語りかけるであろう。

わが国の生暖かい地方の靄に包まれた夜の魅力は、私は誰よりも楽しんだ、そして、今その魅力を誰よりも否認したい気になっている。ここでは、自然の及ぼす影響がより強烈であり、おそらくはいささか度を越して精神を封じこめている。それは思考を眠らせ、心をかきたて、感覚を支配する。天才でない限り、この官能をそそる夜の間に詩作しようなどと考えてはならない。やるべきことは愛することか眠ることだ。―『ある旅人の手紙』第二信」
 ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』より

サンドはミュッセと完全な別離をしますが、二人の間には文通は続きます(一方彼女はパジェロをパリまで連れていきます)。そうした中で、ミュッセは『世紀児の告白』(1836年)で二人をブリジットとオクターヴとして「世紀の恋」を書きました。

1836年末サンドはリストの紹介でショパンを知り、'37年末頃から二人の仲は深まり、マヨルカ島に行ったり、またアノンでのショパンとの生活が10年は続いたそうです。

その間――「1842年、ジョルジュ・サンドのもっとも長編であり、もっとも推敲を重ねた小説『コンシュエロ』が発表される。この時代の偉大な歌姫ポリーヌ・ヴィアルドの人物描写をとおして謳い上げた音楽への壮大な賛歌であると同時に、ヴェネツィアへの感動的な賛歌である。

第一部の舞台は1742年から1755年にかけてのヴェネツィアであり、ジョルジュは才能と深い学識から、この時代をその芸術的豊かさをとおして再現することができた。……
……『コンシュエロ』はたちまち、思いがけないほどの大成功を収める。」
 ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』より

そして彼女もまた、ミュッセとの間を総括する意味でか、『彼女と彼』(1859年――川崎竹一訳、岩波文庫、昭和25年5月5日発行)でヴェネツィアでのミュッセとの愛を、テレーズとローランと名を変えて語りました。
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文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセ(1)

ディアーヌ・キュリス監督の映画『年下のひと(Les enfants du sie`cle)』(1999)という映画を見たことがあります。この映画は、19世紀フランス・ロマン派詩人アルフレッド・ド・ミュッセ(1810.12.11パリ〜1857.05.02パリ)と男性名ジョルジュを名乗る閨秀作家ジョルジュ・サンド(1804.07.01パリ〜1876.06.08ノアン)がヴェネツィアに滞在したことを中心に撮られた映画でした。

この映画の元となったと思われる二人の評伝が訳されています。『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』(ベルナデット・ショヴロン著、持田明子訳、藤原書店、2000年4月25日発行)です。著者はグルノーブル大学教授でサンド協会事務局長も務めた、サンド研究者だそうです。

この本によれば、名編集者フランソワ・ビュロ(映画の中では、「ビュローズ」と発音されていました)が、二人の出会いを仕掛けたのが、1833年6月19日の文学晩餐会だったそうです。それはジョルジュが田舎で退屈至極の(彼女がピアノを弾いて聞かせると鼾をかいてしまうような)夫カジミール・デュドゥヴァンと別居して、モーリス(10歳)とソランジュ(5歳)を連れてパリへ出、彼女が文学に励んでいた時期だったのだそうです。

ジョルジュは小さい頃からイタリアに憧れていて、アルフレッド・ド・ミュッセと出会って間もなく、彼と共にイタリアに行くことにします。アルフレッドも彼女に劣らず、イタリアに興味を持っていました。サン・マルコ広場を「世界の大広間」と名付けた彼は、ヴェネツィアを次のように歌っています。

「サンド以上にミュッセはヴェネツィアを熱望している。この街は彼にとって子供の頃から想像のなかで細部まで築き上げた街であった。できる限り早く、この空想を現実のものとする必要を感じている。わずか19歳であった1829年、一度として目にしたことのないこの街を描き出し、驚嘆させはしなかったか? 

赤く染まるヴェネツィアに
一艘の舟とて動かず
一人の釣人とて水面(みなも)になく
いさり火もない

砂浜にただ独り坐し
大いなるライオンが持ち上げる、
澄み渡った水平線に
その青銅の脚を。

ライオンの周りに、
大船小舟がむれをなし、
輪になって眠る鷺にも似て

煙る水面(みなも)で静まり返る
そして旗々が
霧のなかに交差する
かすかに渦を巻きながら。

薄れゆく月が
その過ぎる額を覆う
星がきらめき 半ば
ヴェールのかかった雲で。(……)

そして年を経た宮殿も
荘重な柱廊も
騎士達の白い階段(きざはし)

そしていくつもの橋と通りも
陰うつな彫像も
風にふるえて
波打つ入江も

すべて口をつぐむ
兵器廠の銃眼で寝ずの番をする
長き矛槍を手にした
衛兵をのぞき。(……)」
 ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』(ベルナデット・ショヴロン著、持田明子訳)より

アルフレッド・ド・ミュッセ著『世紀児の告白』(小松清訳、岩波文庫)は、二人の恋をオクターヴとブリジッドと名前も、また所も変えて書かれたものだと言いますが、この本の訳者の「あとがき」はヴェネツィアのミュッセを次のように書いています。

「サンドは以前から計画していたイタリア旅行にひとりで出発しようとした。ミュッセは彼女なしではもう生活できなかった。恋の国イタリアへ行き、すべての過去を忘れ、新しい空の下で新しい生活を始め、自分も創作すると云ってサンドを説き伏せた。……

……ミュッセは病める恋人を旅室に残して、見物と新しい土地での歓楽に耽りはじめた。ついには自分は思い違いをしていた…お詫びをするが、あなたを愛していないと宣言して、二人の室の間の扉は閉ざされた。」
 ――『世紀児の告白』(小松清訳、岩波文庫、昭和28年6月25日発行)より

そんな中で、ミュッセが病に倒れ、サンドが病める子を看とる母親のように看護している期間中、彼の医者ピエートロ・パジェロとの間に恋が芽生えたのでした。しかしミュッセは病が癒えると、三人の間の完全な友愛を信じ、サンドをヴェネツィアに残し、一人パリに帰って行きました。
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Ca' Dario(ダーリオ館)(2)

ダーリオ
「ジョヴァンニ・ダーリオはヴェネツィア貴族ではなかったが、1400年代、大運河に面して邸館を所持出来た数少ない一人であった。共和国秘書官階級[市民階級]に属していた。

7年間の戦争の後1479年[1月29日のこと]、セレニッシマ共和国はオスマン・トルコ皇帝(Imperatore dei turchi ottomani)メフメット2世(Maometto II)との和平交渉という重要な使命を彼に委ねていた。ジョヴァンニ・ダーリオは、大変な損失を伴う結果となったにも拘らず、ヴェネツィアを満足さすに足る条約を締結することが出来た。

スルタンは彼に黄金製の織物の衣装を3着贈物にしたし、セレニッシマは高額の報酬とノヴェンタ・パドヴァーナ[パードヴァ東部のノヴェンタ]に土地を与えて彼に報いた。ジョヴァンニが受けたこれらの褒賞は、外交交渉が成功裏に終わったことだけでなく、彼によってオスマン帝国との間に公然と開かれた関係が創始されたことがそれに値したのであった。

メフメット2世が自分の肖像画を描かせるためにイスタンブール[1453年コンスタンティノープルがこのように改名され、帝国の首都となった]の彼の宮廷に、画家ジェンティーレ・ベッリーニを招き寄せることになった[1479.08.01のこと]のも、彼の尽力のお陰であった(その時の絵の1点が、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーに収蔵されている)。

共和国から受けた高額報酬によって、ジョヴァンニは大運河に顔を向けるゴシック様式の建造物を獲得することになった。その建物には、当時の時代趣味に則った設計による新様式のファサードを纏わせた。その設計は恐らく、ピエートロ・ロンバルドに依頼され、1487年工事は開始された。

ファサードは色大理石を潤沢に使用し、通常のゴンドラ(10メートル)よりも狭く、洗練された装飾はアーチや古典的輪郭を持つ形のように、ルネサンスの建築語法と考えられる要素と溶け合っている。

建築の初期段階、館の所有者は下の階の大理石に≪Urbis Genio Joannes Darius≫(当市の天才に、ジョヴァンニ・ダーリオ)という銘刻を刻み込ませた。その銘刻をジョン・ラスキンは1800年代前半に一新させた。

1484年ヴェネツィア政庁は今や70歳台のジョヴァンニ・ダーリオをトルコとの交渉のために再度派遣することを決定した。今回はメフメットの息子バヤジットBayezid)2世が相手だった。その結果、満足の印に元老院は十人委員会の秘書に彼を任命し、その上彼の娘マリエッタの婚資までも提供したのだった。

ジョヴァンニ没後、邸宅はヴィンチェンツォ・バルバロの花嫁となった娘の手に移り、その後19世紀初頭までその古い貴族のバルバロ家の所有が続いた。

1838〜42年、ラスキンの友人だった Rawdon Lubbock Brown の所属となった。彼はアルメニア人宝石商 Abdoll 侯爵からこの建物を手に入れたのだった。ロードンは27歳の時ヴェネツィアに到来し、終生この地を去らなかった。彼は古文書学者で、セレニッシマの国立古文書館にある、イギリス史関連のあらゆる史料の筆写の仕事を託されていた。とりわけ1500年代の日記を残したマリーン・サヌードについての研究を出版したのは重要である。

館は修復後、メッテルニヒ公妃の兄弟、ジークムント・ツィヒー公爵に売却された。数年後には新しい所有者ラ・ボーム公爵夫人のお陰で、カ・ダーリオは特にアンリ・ド・レニエを筆頭に彼女のサロンに足繁く集うフランス文学者達のために有名になった。

時と共に変わる持ち主が痛ましいエピソードの犠牲者となった。館に不吉な噂が立ったのである。噂だけでなく実際の持ち主にも生じたのであるが、それは未だに真相が判明していない。ガルディーニ家はカ・ダーリオの呪いから逃れられなかったのである。」
[旅行ガイドに寄りますと、企業家ラウル・ガルディーニは1993年夏、自殺を遂げたのだそうです]。
 ――Raffaella Russo著『Palazzi di Venezia(ヴェネツィアの館)』(Arsenale Editrice、1998年3月刊行)より
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