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<title>イタリア、とりわけヴェネツィア</title>
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<description>ヴェネツィア偏愛、時には脱線。</description>
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<title>コルネール=ロレダーン館(2)</title>
<description> ｢最も苦労多き期間に、アゴスティーノ・バルバリーゴに次いでレオナルド(在位1501～21)は総督になったが、いずれにしてもこの時期は共和国にとっては大変な期間だったのである。第一に、彼が総督職に就くやトルコとの関係がまたまた悪化し、一触即発の戦争の危機となった。結局、1503年領土上の夥しい損失があったものの、トルコとの和平が成立した。当然、海上貿易上の更なる損失も生じた。第二には、カンブレー同盟に連合したヨ
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<![CDATA[ ｢最も苦労多き期間に、アゴスティーノ・バルバリーゴに次いでレオナルド(在位1501～21)は総督になったが、いずれにしてもこの時期は共和国にとっては大変な期間だったのである。第一に、彼が総督職に就くやトルコとの関係がまたまた悪化し、一触即発の戦争の危機となった。結局、1503年領土上の夥しい損失があったものの、トルコとの和平が成立した。当然、海上貿易上の更なる損失も生じた。<br /><br />第二には、カンブレー同盟に連合したヨーロッパ諸国が、ヴェネツィアに敵対したカンブレー戦争という、本土で直面した戦いの出費である。しかし柔軟な外交活動のお陰で、対仏神聖同盟[1511年スペイン、イギリス、スイス、ヴェネツィアが、仏軍をイタリアから撤退させるために結んだ同盟]の一員に加わり、ヴェネツィアはヨーロッパでの信望と力を取り戻すことが出来たが、それは偏に妥協の産物だった。<br /><br />ジョヴァンニ・ベッリーニが描いたレオナルドの肖像画は、その表現において、この人物を最大に評価し、思索的意志、行動力の可能性、&#28497;溂とした知性といったものを&#25681;み取っており、彼はフランスのルイ12世に決定的な打撃を与えることが出来たのである。<br /><br />ピエートロ(1481～1570)は1567年に総督に選ばれ、トレント公会議[1545～63年]の通達を認めることを拒んで、当時における強力な教皇庁と公然と確執を醸し、一家のエネルギーを蓄え、安定性を強化した。彼を激しく打ちのめしたのは、再びトルコ側から起こされたキプロス攻撃であった。彼は既に老齢[88歳]で、1570年には心配のあまり亡くなった。<br /><br />フランチェスコは1752～62年総督を勤めたが、それはもうヴェネツィア共和国が落ち目の時期だった。<br /><br />この一家の幸運は商業を基本に据えたことであった。1300年代の半ば以来、ジョヴァンニ・ロレダーンの足跡が中国に見られる。彼は実り多かった商業活動の末、1338年には同族の他の二人とインドに向けて出発している。我々が現代ジェット機で旅行をするように、当時ヴェネツィアと家族から何年間も離れて、同じような旅をしたということである。<br /><br />こうした商人貴族達は、帳簿を完全な形で整理・保存した。ヤーコポ・ロレダーンの記録の中には、フォースカリ家とこの一家の不和に起因するゾッとするような悲劇的な記述が残されている。<br /><br />1423年、父ピエートロ・ロレダーンとフランチェスコ・フォースカリは総督選出の選挙戦に巻き込まれ、フォースカリが勝ち、こうして以前から燻っていた憎しみが再点火された。そのあとピエートロが突如不可解な死を遂げ、更にその直後彼の兄弟のマルコが同じような奇異な死を迎えた。フォースカリの誰か友人が毒を盛ったという噂が流れた。<br /><br />要するに、墓石の上に一家が「毒殺」と記させたことだった。その日ヤーコポは帳簿を開き、新しい事項を記入した。劈頭《父と叔父マルコの死は、》と書き起こした。<br /><br />数十年後の1457年、フランチェスコ・フォースカリは一家の不幸な生活と彼自身の政治上のあらゆる不手際のため免職させられ、失意の中で他界した。[2010.09.11日の「<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-172.html" target="_blank" title="フォースカリ館">フォースカリ館</a>」をご参照下さい。]<br /><br />そしてヤーコポは、手短且つ冷徹にそのドラマティックなページのタイトルの下に、ただ二語を書き足した。《清算完了。》」<br />　――E.＆W.Eleodori『大運河』(1993)より。<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201202201628504ff.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201202201628504ffs.jpg" alt="ジョヴァンニ・ベッリーニ画『レオナルド・ロレダーンの肖像』" border="0" width="81" height="111" /></a>　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120220163039f75.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120220163039f75s.jpg" alt="ヴィットーレ・カルパッチョ画『レオナルド・ロレダーンの肖像』" border="0" width="84" height="111" /></a><br />アルヴィーゼ・ゾルジ著『ヴェネツィア歴史図鑑』(金原由紀子他訳、東洋書林、2005年４月22日)掲載の、上左の『レオナルド・ロレダーンの肖像』のキャプションは、｢…ジョヴァンニ・ベッリーニによる(ロンドン、ナショナル・ギャラリー蔵)。総督はかつては政治と軍事の最高権力者だった。ところがその特権は何世紀もの間に、選挙で選ばれた主席行政官としての権限にまで縮小されるようになる。<br /><br />ジョヴァンニ・ベッリーニが威厳と思慮深さをそなえた風貌に描いたレオナルド・ロレダンは(実際にそうした人物であったことは年代記者の記述からも裏付けられる)、ヴェネツィアが「全世界を敵にまわした」時期に総督を務めた。ヴェネツィアの覇権があまりに突出したため、教皇ユリウス２世、フランス国王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン１世、アラゴン国王フェルディナンド［Ferdinandoは伊語式の言い方。西語ではアラゴン・カスティリャ連合王国王Fernando Ⅱ世］がカンブレー同盟(1508年)を結成したのである。ヴェネツィアがイタリア本土に所有していた領土をすべて失いそうになりながらもこの危機的状況を回避できたのは、政府首脳が賢明に立ち回ったお陰だった。」とあります。<br /><br />上右の絵は、昨年(2011年)秋の「ヴェネツィア展」に、コッレール美術館から初来日した『二人の貴婦人』『赤いベレー帽を被る貴族の男』等と共にやって来たヴィットーレ・カルパッチョの『総督レオナルド・ロレダンの肖像』(カルパッチョに帰属)です。近年この作品はヴィンチェンツォ・カテーナの手になるのではないかと言われているそうです。<br /><br />イタリアのウィキペディアは、ヴィンチェンツォ・カテーナについて次のように記述しています。<br />｢Vincenzo Catena は Vincenzo Biagio(1470頃～1531)とも言われ、ルネサンス期のヴェネツィア派画家の一人。名前はジョルジョーネの『ラーウラ』の背景に書き込まれたサインで知られる。生涯についてはあまり知られていない。作品はルーヴルやロンドンのナショナル・ギャラリーに展示されている。<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120220200013472.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120220200013472s.jpg" alt="ジョルジョーネ『ラーウラ』" border="0" width="92" height="111" /></a>　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120220200145025.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120220200145025s.jpg" alt="ヴィンチェンツォ・カテーナ『聖母子と聖人達』" border="0" width="105" height="111" /></a>左、ジョルジョーネ画『ラーウラ』、右、カテーナ画『レオナルド・ロレダーンに崇拝される聖母子と聖人達』<br />彼の最初の創造性は、1500年代の、後期アントネッラ・メッシーナ派の伝統とした色に色濃く残っている。ベッリーニ風のイコン的要素を取り入れたり、チーマ・ダ・コーネリアーノ風の彫塑風の重視など。しかし、アルヴィーゼ・ヴィヴァリーニの画法の影響は色濃い。この期の例は、『聖会話』『レオナルド・ロレダーンに崇拝される聖母子と聖人達』(1506)。<br /><br />第２期は、ベンボやトリッシノのような人文主義者との交流のお陰もあって、ジョルジョーネやティツィアーノの作り上げた芸術的世界と取り組むことになった。パルマ・イル・ヴェッキオの色や形の切磋琢磨した研究のお陰で、色彩の豊かさ、彫像的な形の構成による、意義深い作品を残した。……｣ ]]>
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<dc:creator>ペッシェクルード</dc:creator>
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<title>コルネール=ロレダーン館(P.Corner- Loredan)(1)</title>
<description> サン・マルコ方面は大運河の「上」になり、ローマ大広場(Piazzale Roma)方面は「下」となるため、リアルト市場側は左岸と呼ばれ、サン・マルコ側は右岸と呼ばれるようです。また違った言い方もあって、サン・マルコの「こちら側」の意で右岸をラテン語で de citra(羅語前置詞)と言い、左岸をサン・マルコの「向こう側」の意で de ultra と言うそうです。その大運河右岸の炭運河通り(Riva del Carbon)を進み、ヴィヴァルディが晩年
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201202121840524dd.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201202121840524dds.jpg" alt="コルネール=ロレダーン館とダンドロ=ファルセッティ館" border="0" width="148" height="60" /></a><br />サン・マルコ方面は大運河の「上」になり、ローマ大広場(Piazzale Roma)方面は「下」となるため、リアルト市場側は左岸と呼ばれ、サン・マルコ側は右岸と呼ばれるようです。また違った言い方もあって、サン・マルコの「こちら側」の意で右岸をラテン語で de citra(羅語前置詞)と言い、左岸をサン・マルコの「向こう側」の意で de ultra と言うそうです。<br /><br />その大運河右岸の炭運河通り(Riva del Carbon)を進み、ヴィヴァルディが晩年住んだ家の前を通り、ダンドロ館を過ぎると、コルネール=ロレダーン館(現、市庁舎)に至ります。市庁舎のカルボーン通り(Cl.del Carbon)側の壁面に次のような碑文が掲げてあります。<br />「QUI NACQUE L'ANNO 1646/ ELENA LUCREZIA CORNARO PISCOPIA/ PRIMA DONNA LAUREATA NEL MONDO/ IL 26-6-1678.(ここでエーレナ・ルクレーツィア・コルナーロ・ピスコーピアは1646年に生まれた。1678年6月26日、女子として世界最初に大学を卒業した。)」<br /><br />パードヴァのボ大学(哲学科)を卒業した、世界初の女性大学卒業生エーレナ・ルクレーツィア・コルネール(コルナーロとも)=ピスコーピアの誕生した邸宅がここのようです。パードヴァのボ大学本館のガリレーオ・ガリレーイが教壇に立ったホールのある２階へ昇る階段下にも、彼女の彫像と共に説明の文言があります。<br /><a href="http://blog-imgs-53.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120505001428e2e.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-53.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120505001428e2es.jpg" alt="エーレナ・ルクレーツィア・コルナーロ・ピスコーピア" border="0" width="113" height="111" /></a>イタリアのエーレナ・コルナーロ・ピスコーピアのサイトから借用。パードヴァ大学にある彼女の彫像<br />『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』(Piero Pazzi著、Tipografia del Centro Grafico di Noale)によれば、コルネール=ピスコピア館(Ca' Corner Piscopia)について次のようにあります。<br />｢元々この古い建物は、退位(1275)後の総督ヤーコポ・コンタリーニが、1280年に招いたたパルマのボッカージ一族によって建てられたと思われる。その後1361年、オーストリア公の宮廷を招いたザーネ家の手に渡った。２年後この高名な建物に実際に繋がりを持っていたコルネール家の所有となった。<br /><br />1363年ここに、フェデリーコ・コルネールがキプロス島の王、ピエートロ・ルジニャーノ[後にカテリーナ・コルネールが嫁入りしたリュジニャン(仏語式呼称)王家]を招いた。７万ドゥカートを融資した見返りにピスコーピア城を譲与された。そのためこの一族はコルネール・ピスコーピアと称される。<br /><br />1684年、ロレダーン家との婚姻があり、更には1867年にヴェネツィア市が購入し、市庁舎は隣接する市の建物(ファルセッティ館)と陸橋で結ばれて拡張された。」<br /><br />また2008.09.28日に触れた、サンタ・クローチェ区の<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-61.html" target="_blank" title="ナザーリオ・サーウロ広場">ナザーリオ・サーウロ広場</a>の呼称の元となった、愛国者ナザーリオ・サーウロの顕彰碑がこの市庁舎の玄関口に掲げてあるようです。<br />｢QUESTE RELIQUIE/ DEL MARTIRIO DI NAZARIO SAURO/ QUI FUGGIASCHE DA POLA/ AFFIDANO GLI ESULI GIULIANI E DALMATI/ ALLA MATERNA PIETA` DI VENEZIA/ PERCHE` SIANO SERBATE AL DI` DEL RITORNO/ X-II-MCMXLVII   X-VIII-MCMLIV.(ポーラ［クロアツィアのプーラ］からここに帰還したナザーリオ・サーウロのこれらの殉難碑、ヴェネツィア・ジューリア地方やクロアツィアの亡命者達はヴェネツィアで祖国への愛を信じていた。何故かならば、1947年2月10日の帰国の日まで待ち続けていたのだから。1954年8月10日。［1916年8月10日にサーウロはオーストリア軍によりポーラで絞首刑にされました])」<br /><br />コルネール=ロレダーン館についてE.＆W.Eleodori『大運河』(1993)は次のように述べています。<br />｢宮廷風の優雅なスタイルで、伝統的な商館邸宅を発展させたヴェーネト・ビザンティン様式の素晴らしい例の一つである。元々の一階の回廊と二階全体を覆う酒杯で飾られた、連続する露台を持つ多連窓はそのまま残されて、三階・四階が16世紀に建て増しされた。<br /><br />その多連窓については、内側の柱の区切りがサロンに採光する中央開口部を区切るように、２ヵ所の２本柱で強調されている。この伝統はパルマ出身のボッカージ一族(Bocassiと誤植してます)の建築で、13世紀に遡る。その後、ズィアーニ家の建物、更に1300年代にはコルネール家の建物となる。<br /><br />1703年ロレダーン家の手に渡り、1867年には市の所有となった。そして右隣のファルセッティ館と共に市庁舎となった。使い勝手のために1800年代の修復での変更は、建物の古びた緑青風は止め、大理石に変えられ、あまり目立たないモチーフとなっている。<br /><br /><strong>ロレダーン</strong>家は“新しい(nuova)"一家で、その出自は11世紀に遡り、幾つかの分家に分かれ、現在もサン・ヴィーオ教区に現存する。一人の素晴らしい人物以外にも、共和国で名を成した一連の政治家や海や陸の著名なキャプテンとなった者、そして３人の総督がいた。」<br />　――『大運河』(1993)より。後半は次回(2)です。 ]]>
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<dc:creator>ペッシェクルード</dc:creator>
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<title>ヴェネツィアを撮した映画(3)</title>
<description> これまでに見たイタリアのヴェネツィア映画を、アト・ランダムに挙げてみます。『ある女の存在証明』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)では、最終場面主人公達は結論を見出そうとヴェネツィアに行くのですが、解決らしいものは見付かりません。ホテル・グリッティ・パレス(館名は P.Gritti-Pisani)のサロンから対岸のサルーテ教会隣のカ・ジェノヴェーゼを映しながら、男女は決定的に分かれるのです。『女テロリストの秘密』(
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<![CDATA[ これまでに見たイタリアのヴェネツィア映画を、アト・ランダムに挙げてみます。『ある女の存在証明』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)では、最終場面主人公達は結論を見出そうとヴェネツィアに行くのですが、解決らしいものは見付かりません。ホテル・グリッティ・パレス(館名は P.Gritti-Pisani)のサロンから対岸のサルーテ教会隣のカ・ジェノヴェーゼを映しながら、男女は決定的に分かれるのです。<br /><br />『女テロリストの秘密』(ジュゼッペ・ベルトリッチ監督)は、冒頭サン・マルコ湾からカメラは回り、サン・トロヴァーゾ教会前と覚しき広場で主人公の女テロリストが二人の男を射殺します。しかしこれら２本の映画は《ヴェネツィア映画》と称するには余りにもその場面が過少です。<br /><br />『鍵』(ティント・ブラス監督)は、谷崎潤一郎の小説『鍵』の舞台をジュデッカ島に設定した映画で、『イタリア式離婚狂想曲』(ピエートロ・ジェルミ監督)で日本初お目見えのあの可憐だったステファーニア・サンドレッリが、惜しげもなくその見事な全裸を披露しています。監督ティント・ブラスの故でしょう。<br /><br />『薔薇の貴婦人』(マーウロ・ボロニーニ監督)は、ヴェネツィア語で書かれた16世紀の喜劇の映画化で、イタリアの百科事典はその原題である《Venexiana, La  (o, Veniexiana)》の項目を次のように書いています。<br /><br />｢1500年代に書かれた作者不詳の喜劇で、大部分がヴェネツィア語で書かれ、全イタリア劇作品の中でも最も著名なものの一つである。1928年エミーリオ・ロヴァリーニに発見され、彼は成立年代を16世紀初頭の作とした。近年G.パドアーンがアレティーノのための詩人作家の集まりで復活上演した。現実に起きた事から書き起こされたものと思われ、著者はロレンツォ・ヴェニエールやも知れぬと仮説を提出した(この喜劇の中に窺える大胆な政治性・宗教性故、また序文で表明された意見と、高名な医者・詩人として詩学的発想で著述したと思われることから、ロヴァリーニはジローラモ・フラカストーロ作の可能性を示唆している)。｣<br /><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120401183309451.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120401183309451s.jpg" alt="『ヴェネツィア女』" border="0" width="73" height="111" /></a>『La Veniexiana』(Giorgio Padoan序、Marsilio Editore、1994)<br />ラーウラ・アントネッリ扮する未亡人の住む館として、美しいソランツォ=ヴァン・アクセル館が何度も登場します。かつての《乳房橋》近辺の遊郭の雰囲気、あるいはまた中世の昔のヴェネツィアはこうであったかと知りました。<br /><br />『家庭教師』(アルド・ラード監督)は、テッラ・フェルマ(本土)の若者とクェリーニ・スタンパーリア館付近のお屋敷に住む金持ちの少女との恋物語で、この街の現風景がふんだんに現れ、何とも楽しい映画でした。<br /><br />『ヴェネツィアのノスフェラトゥ』(アウグースト・カミニート監督)は、英語版でしたが、クラウス・キンスキが吸血鬼となって街中を駆けずり回ります。サン・マルコ小広場で吸血鬼が溜息の橋を背にして、裸の恋人を抱いて歩く場面は多くの物見高い観光客を避けて、ノスフェラトゥには適合した丑三つ時の撮影だったと思われます。<br /><br />イタリアにはヴェネツィアを舞台に選ぶと、その映画は当たらないというジンクスがあるという話を聞いたことがあります。『ベニスで恋して(Pane e tulipani)』(スィルヴィオ・ソルディーニ(Silvio Soldini)監督)については2007.10.28日に｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-6.html" target="_blank" title="Campo Do Pozzi">Campo Do Pozzi</a>｣で、この映画についても触れましたように、このジンクスを書き換えました。監督の高々観客2万の予想が大幅に外れて130万超の大当りとなったのです。<br /><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204011916495d7.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204011916495d7s.jpg" alt="「ベニスで恋して」パンフレット" border="0" width="78" height="111" /></a><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204011917540fb.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204011917540fbs.jpg" alt="「ベニスで恋して」場面１" border="0" width="79" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120401191912c95.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120401191912c95s.jpg" alt="「ベニスで恋して」場面２" border="0" width="79" height="112" /></a>　　<a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120401192109db7.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120401192109db7s.jpg" alt="スィルヴィオ・ソルディーニ「ベニスで恋して」" border="0" width="65" height="112" /></a>左、映画パンフレットより。右、『Pane e tulipani』台本(Silvio Soldini/Doriana Leondeff、Marsilio、2000.07)　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br />この映画は劇場で見、ビデオ屋さんからテープを借りてきて何度も見ました。2007.10.28日のブログでも書きましたように、語学学校通学のため、語学学校のマッシモ先生の家を借りてのことで、家はアルセナーレ直ぐ西側の「二つの井戸広場｣(Cp.Do Pozzi―Do(ヴェ語)＝“二つ”の意)から北上するマーニョ通り(Cl.Magno)にありました。通学にはこのド・ポッツィ広場を通り抜け、停留所アルセナーレからカ・レッツォーニコまでヴァポレットです。<br /><br />そのような理由で、Do Pozzi 広場のバーカロ、通り道のオステリーア・アイ・フォルネーリには毎日コーヒーやオンブラを飲みに立ち寄りました。ですから映画の中で、ロザルバ(リーチャ・マリェッタ―Licia Maglietta)とコスタンティーノ探偵(Giuseppe Battiston)が出会いの場所として C.Do Pozzi(字幕は｢井戸広場｣。Do の意が判らなかったのでしょう)を指定して出会った場面を見た時、直にそこと分かりました。<br /><br />この映画を見てからヴェネツィアに行った時、アイ・フォルネーリを訪ねました。ご主人に『Pane e tulipani』を見ましたよと言うと、撮影時の色々の話を聞かせてくれました。このバーカロの内部から窓を透して井戸の方へ向けてカメラを回したシーンもあったけれど、後で映画を見ると、映画にはその場面が入ってなくて残念だった等。<br /><br />ロザルバが借りることになったフェルナンド(Bruno Ganz)の部屋、そして友人となるグラーツィア(Marina Massironi)が住むそのアパートの玄関のドアはアーチ状で、ヴェネツィアでも独特なのでしょう。その台所の窓からトロンケットの港付近が見える設定になっていたので、サン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教会近くのアルゼレ運河通り(Fdm.de l'Arzere)等の近辺を歩いてみました。いずれにしても二人の追っかけっこの場面等、観光客など殆ど見かけないあの Do Pozzi 広場界隈の複雑な道を色々使っているのが分かり、懐かしさに胸が熱くなりました。<br /><br />サンタ・マリーア・ノーヴァ(S.Maria Nova)広場(この広場では定期的に(?)骨董市が開かれます)の骨董屋さんで骨董雑器を買った時、女主人にこの映画を見たことを話すと、追っかけっこの末、ミラーコリ小広場(Cpl.dei Miracoli)に設置された花屋に逃げ帰ったロザルバ(二つの井戸広場からミラーコリ小広場まで相当離れています。非現実的だから映画は奇想天外で楽しいです。例えば『ベニスに死す』でもフェニーチェ劇場裏のフェニーチェ橋をタッジオらがマリーア・カッラス運河通り側に渡りますが、先は劇場で行き止まりです)を見張るために、ミラーコリ教会の裏側に隠れたコスタンティーノ探偵のことなど、撮影時の模様を話してくれました。そして次回ヴェネツィアに来る時はアパートを紹介するから電話して、と名刺まで渡されました。<br /><br />そして映画のフィナーレは、フェルナンドの歌うタンゴで皆がこのミラーコリ小広場で踊り始め、サンタ・マリーア・ノーヴァ広場へと踊りの輪を広げる人々の楽しい踊りで大団円です。コンメーディア・デッラルテの終演のように≪ものみな踊りで終わる≫のです。<br /><br />[友達になったファビさまから、友人のヴェネツィアのダンス・サークルの人達が踊りの練習をサルーテ教会の門前でするから見に行こうと誘われて、見に行きました。その踊りは格好いいタンゴでした。ヴェネツィアの人達はタンゴに夢中のようでした。]<br /><br />追記：現在まだ見ていない『ヴェネツィア・コード』(ティム・ディスニー監督――劇場未公開)という映画を、ビデオ屋さんから借りたいと思っています。ジョルジョーネの『テンペスタ(嵐)』に纏わる話だそうです。<br />尚、2010.05.01日に「<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-151.html" target="_blank" title="文学に表れたヴェネツィア―ダ・ポンテ(1)">文学に表れたヴェネツィア―ダ・ポンテ(1)</a>」にロレンツォ・ダ・ポンテのヴェネツィア時代を含めた映画『ドン・ジョヴァンニ―天才劇作家とモーツァルトの出会い』の事を書きました。更にダ・ポンテについては2010.05.01～05.29日に「文学に表れたヴェネツィア―ダ・ポンテ(2)～(5)」で触れています(日本語になっていない訳文ですが)。 ]]>
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<dc:subject>映画</dc:subject>
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<title>ヴェネツィアを撮した映画(2)</title>
<description> 映画祭パンフレットより。ヴェネツィアが決定的に印象づけられた映画はルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』でした。塩野七生さんの『海の都の物語』と共に、この街を訪ねてみたい気にさせられた最右翼です。そんな気持ちになっていた1990年、ＮＨＫがテレビとラジオでイタリア語講座を始めました。講座を視聴しながらその思いを嵩じらせました。トーマス・マンの原作『ヴェニスに死す』はトリエステからアドリア海を経
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413110327de0.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413110327de0s.jpg" alt="ヴィスコンティ映画祭" border="0" width="79" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120331230920179.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120331230920179s.jpg" alt="ベニスに死す(1)" border="0" width="85" height="111" /></a><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120331231043e05.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120331231043e05s.jpg" alt="ベニスに死す(2)" border="0" width="84" height="111" /></a><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203312311480d6.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203312311480d6s.jpg" alt="ベニスに死す(3)" border="0" width="86" height="112" /></a>映画祭パンフレットより。<a href="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413110425c64.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413110425c64s.jpg" alt="タッジオを求めて" border="0" width="149" height="35" /></a><br />ヴェネツィアが決定的に印象づけられた映画はルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』でした。塩野七生さんの『海の都の物語』と共に、この街を訪ねてみたい気にさせられた最右翼です。そんな気持ちになっていた1990年、ＮＨＫがテレビとラジオでイタリア語講座を始めました。講座を視聴しながらその思いを嵩じらせました。<br /><br />トーマス・マンの原作『ヴェニスに死す』はトリエステからアドリア海を経て、ヴェネツィアの正面玄関口サン・マルコ小広場へ到達する設定になっていますので、この中世以来の正統のヴェネツィア入り、どうすれば映画のように船でサン・マルコ小広場に直接着岸出来るかに大変拘りました。<br /><br />初めてのヴェネツィア行を企図する者にとっては、『都市ヴェネツィア』(岩崎力訳、岩波書店、1986年8月11日)の著者、地中海学者フェルナン・ブローデルの、｢…ラグーザ(ドゥブロヴニク)からの小さな船で。妻と私は眠りこんでいたので、朝まだき目をさました時、船はすでにドガーナ・ダ・マールの埠頭に接岸していた。…」の手法や、あるいはまた映画『旅情』はオリエント急行でヴェネツィア入りする設定ですので参考には出来ませんでした。<br /><br />2009.09.12～09.19日に書いた｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-111.html" target="_blank" title="文学に表れたヴェネツィア――トーマス・マン">文学に表れたヴェネツィア――トーマス・マン</a>｣で、船で直接サン・マルコ小広場に至った経緯を書きました。映画で船がサン・マルコに接岸するまでのバックグラウンド・ミュージックとしてグスタフ・マーラーの交響曲第５番４楽章のアダージェットが流されます。You Tube で「<a href="http://www.youtube.com/watch?v=ZsNmxcx0Lcs&amp;feature=related" target="_blank" title="Luchino Visconti Morte a Venezia">Luchino Visconti Morte a Venezia</a>」、また「タッジオを求めて｣の｢<a href="http://www.youtube.com/watch?v=bSpEsw1YsNE&amp;feature=related" target="_blank" title="In Search of Tadzio">In Search of Tadzio</a>」(この続きは「<a href="http://www.youtube.com/watch?v=Iu_cLpCs6eg&amp;feature=relmfu" target="_blank" title="２/２">２/２</a>｣)をどうぞ。<br /><br />ヴェネツィアに行くようになってビデオ屋さんを探し回り、ヴェネツィアを撮った映画を借りてきました。アト・ランダムに挙げてみます。先ず英米映画では『赤い影』(ニコラス・ローグ監督)、英国人がヴェネツィアでおどろおどろした不気味な体験をする怨霊映画ですが、ヴェネツィアが美しいです。<br />『迷宮のヴェニス』(米人ポール・シュレイダー監督)は、早川書房から出た『異邦人たちの慰め』(イアン・マキューアン著、宮脇孝雄訳、1994.03)を映画化したもの。この結末も恐ろしい。<br />『ベルボーイ狂想曲』(マーク・ハーマン監督)は、マニーン広場から路地奥に入った所にあるコンタリーニ・デル・ボーヴォロ館の、有名な螺旋階段での追っかけっこがあったりする楽しいドタバタ喜劇です。<br />『リトル・ロマンス』(ジョージ・ロイ・ヒル監督)は、小さな恋人達がヴェネツィアにやって来て、溜息の橋の下をゴンドラで潜りながら、自分達の恋を誓います。<br /><br />『鳩の翼』(イアン・ソフトリー監督)は、原作者のヘンリー・ジェイムズのヴェネツィア好きをそのまま反映して、稀に見るヴェネツィア賛歌の映画です。カーニヴァルで狂ったように踊り回る庶民達の熱狂を撮して、ヴェネツィア好きでなければ撮れない映画と合点しました。サンタ・マリーア・フォルモーザ広場での撮影でしょうか。2009.04.04～04.11日の｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-date-200904.html" target="_blank" title="文学に表れたヴェネツィア――ジェイムズ(1)(2)">文学に表れたヴェネツィア――ジェイムズ(1)(2)</a>｣にこのジェイムズの『鳩の翼』のことなどを書きました。<br /><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120401163208b09.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120401163208b09s.jpg" alt="『鳩の翼』" border="0" width="59" height="111" /></a><br />『世界中がアイ・ラヴ・ユー』(ウッディ・アレン監督)は、ニューヨーク以外では映画を撮ることは殆どないと言われている監督が、ヴェネツィアで楽しそうにカメラの被写体になっていました。ジュリア・ロバーツとのコラボレイションです。彼は1996年１月29日炎上してしまったフェニーチェ劇場でジャズ・コンサートをする予定でしたが、劇場炎上で別の場所での公演になりました。彼が公演の収益からラ・フェニーチェ再建のために多大の寄付をしたことは知られています。<br /><br />『ヴェニスの商人』(マイケル・ラドフォード監督)は、シャイロックがアル・パチーノで大変楽しく、面白く見ました。しかし2010.07.10日の｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-161.html" target="_blank" title="文学に表れたヴェネツィア―シェイクスピア">文学に表れたヴェネツィア―シェイクスピア</a>｣に書きましたように、シェイクスピアの描くヴェニス人は商人としては愚か過ぎ、世界に冠たるヴェネツィア共和国を作り上げたヴェネツィア商人としては落第生だと思われます。<br />20年近く前、初めてヴェネツィアのゲットに行った時、人気はなく、住んでいるユダヤ人も10家族以下という話でした。最近はゲット広場も賑やかになり、キッパを被った黒尽くめの男性の姿をよく見かけるようになりました。この町からユダヤを世界に発信している感じです。例えばスペインは財産収奪目的で、1492年ユダヤ人を国から追い出しましたが、ヴェネツィア共和国は1516年、逆の経済目的でユダヤ人の定住を公式に認めた国です。他にも例えばフェッラーラにユダヤ人が定住することをウルバヌス8世が認め、1624年「ゲットー」に閉じ込めます。ユダヤ人が住み着いた記録は1275年に遡るそうです。<br /><br />最近2011年3月に見たスリラー映画『ツーリスト』(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)では、ヴェネツィアの色々の際立った景観を勝手に繋げて映画編集をしているので、実際の道順には繋がりません(大抵の映画がそうです)が、逆にクロスワード・パズルの絵解きをする面白さが発生します。その回答を得るにはもっともっとこの街を歩き、目に風景を刻印しなければならないと自戒しました。<br /><br />『浴室』(仏人ジョン・ルヴォフ監督)は、白黒の奇妙な印象が残った映画です。バスタブに住みついた男がある日バスタブを出ると、何故かヴェネツィアに行く不思議な物語です。映画の印象は『本当の話』(ソフィ・カル著、野崎歓訳、平凡社)の中の《ヴェネツィア組曲》のような味わいです。原作はジャン=フィリップ・トゥーサンの『浴室』(野崎歓訳、集英社文庫、1994年11月25日)で、彼は自作『ムッシュー』『カメラ』(両著、集英社文庫あり)を自ら監督して映画化しているそうです。<br /><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204010041151f4.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204010041151f4s.jpg" alt="ジャン=フィリップ・トゥーサン『浴室』" border="0" width="81" height="111" /></a><br />『年下のひと』(ディアーヌ・キュリス監督)は、アルフレッド・ド・ミュッセとジョルジュ・サンドのヴェネツィアでの恋を描いたものです。2009.11.12～12.19日に｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-119.html" target="_blank" title="文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセ(1)(2)">文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセ(1)(2)</a>｣と2010.12.11日にも｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-185.html" target="_blank" title="ジョルジュ・サンド">ジョルジュ・サンド</a>｣を書いています。そちらも参考にして下さい。<br /><br />仏映画『月曜日に乾杯！』(オタール・イオセルアーニ監督)は、突如仕事も家庭も放擲して旅に出た主人公はヴェネツィアに向かうのです。<br />独映画『逢いたくてヴェニス』(ヴィヴィアン・ネーフェ監督)は、夫の浮気相手の旦那を引っさらい、二人の子供も連れて、浮気者達が居るはずのヴェネツィアに乗り込みます。ヴェネツィアがよく描かれている映画でした。<br />デンマーク映画『幸せになるためのイタリア語講座』(ロネ・シェルフィグ監督)は、趣味で伊語を学ぶ仲間達が友好のためにヴェネツィア観光をすることになり、恋人達はこの地で結ばれます。<br /><br />[近年運河を疾走するモーターボートが活躍する映画(『ミニミニ大作戦』という題名だそうです)もあったようですが、見ていません。また『オックスフォード　オペラ史』(ロジャー・パーカー編、大崎滋生監訳、平凡社、1999年3月25日)の中に「……スタンリー・キューブリックの映画『バリー・リンドン』(1975)での、ロウソクに照らされたヴェネツィアのカジノのシーン……」とあり、映画を見てみましたが、&#34847;燭の明かりの中でのギャンブルのシーンはヴェネツィアとは思えませんでした。] ]]>
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<title>ヴェネツィアを撮した映画(1)</title>
<description> ｢日本におけるイタリア2001｣年に始まった｢イタリア映画祭｣が、今年も五月連休に開催されます。今年、特別上映される『シュン・リーと詩人(仮題)』は、ヴェネツィア対岸にある、小さなヴェネツィアとも呼称されるキオッジャが舞台のようです。見逃す訳にはいきません。　　2001年映画祭図録　　1980年代に始まったイタリア・ブーム中、渋谷や六本木、大森など数ヵ所の映画館で行われた「イタリア映画祭｣があり、何本か見た作品の中
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<![CDATA[ ｢日本におけるイタリア2001｣年に始まった｢イタリア映画祭｣が、今年も五月連休に開催されます。今年、特別上映される『シュン・リーと詩人(仮題)』は、ヴェネツィア対岸にある、小さなヴェネツィアとも呼称されるキオッジャが舞台のようです。見逃す訳にはいきません。<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120328190521871.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120328190521871s.jpg" alt="イタリア映画祭2012" border="0" width="79" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120328190641f71.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120328190641f71s.jpg" alt="イタリア映画祭内容" border="0" width="78" height="111" /></a><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012032819074906f.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012032819074906fs.jpg" alt="イタリア映画祭内容" border="0" width="78" height="111" />　　</a><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203281909414f3.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203281909414f3s.jpg" alt="イタリア映画祭2001図録" border="0" width="94" height="112" /></a>2001年映画祭図録　　<a href="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120421144041fb0.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120421144041fb0s.jpg" alt="イタリア映画祭広告" border="0" width="81" height="111" /></a><br />1980年代に始まったイタリア・ブーム中、渋谷や六本木、大森など数ヵ所の映画館で行われた「イタリア映画祭｣があり、何本か見た作品の中に題名は記憶から抜け落ちてしまいましたが、ヴェネツィアが舞台だったものもありました。また例えば1986年の映画祭の作品を列挙してみれば、『マカロニ』(エットレ・スコーラ監督)『女たちのテーブル』(マーリオ・モニチェッリ監督)『女テロリストの秘密』(ジュゼッペ・ベルトルッチ監督)『ドレスの下はからっぽ』(カルロ・ヴァンツィーナ監督)等、12作品が上演され、『マカロニ』の上映ではエットレ・スコーラの舞台挨拶があったように記憶します。<br /><br />今回ナンニ・モレッティ監督『ローマ法王の休日』が上映されますが、モレッティと言えば熱烈なファンが沢山あり、次のようなファンクラブ冊子や映画会がありました。<br /><a href="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012041310591560b.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012041310591560bs.jpg" alt="ナンニ・モレッティ会報" border="0" width="78" height="111" /></a><a href="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204131100020c2.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204131100020c2s.jpg" alt="シネマ通信" border="0" width="79" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204131100553cb.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201204131100553cbs.jpg" alt="シネマ通信後記" border="0" width="77" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413110220fd0.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413110220fd0s.jpg" alt="モレッティ映画会チラシ" border="0" width="79" height="111" /></a>　　<a href="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413155040ac5.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413155040ac5s.jpg" alt="チネテーカ・イタリアーナ" border="0" width="79" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413155147bee.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-42.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120413155147bees.jpg" alt="無声映画" border="0" width="79" height="112" /></a><br />またイタリア文化会館で1980年代《チネテーカ・イタリアーナ》と題して数年間定期的に上映されていた映画の中に、ヴェネツィアを舞台にしたものもありました。記憶にあるのは、ルイージ・コメンチーニ監督(『ブーベの恋人』『天使の詩』等)の『カサノヴァ回顧録(ヴェネツィア人ジャコモ・カサノヴァの幼年期及び天職と青春体験)』(1969)です。少年時代のカザノーヴァの成長していく模様がヴェネツィアの現風景の中で描かれていました。<br /><br />同じカザノーヴァを描いても、フェデリーコ・フェッリーニ監督の『カサノバ』では現実のヴェネツィアの街は使われていません。我々が目にするのは想像力豊かなチネチッタのセットです。大変面白かったマーシャル・ハースコヴィッツ監督の『娼婦ベロニカ』では、アンリ３世がヴェローニカの家に訪れるシーン等、運河の場面が何度も登場しましたが、これもチネチッタのセットでした。ヴェローニカ・フランコについては、2010．09.18～10.09日に｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-173.html" target="_blank" title="文学に表れたヴェネツィア―ヴェローニカ・フランコ(1)～(4)">文学に表れたヴェネツィア―ヴェローニカ・フランコ(1)～(4)</a>｣で触れています。<br /><br />私が初めて映画の中でヴェネツィアの街を見たのは、高三の時、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の『夏の嵐』(1954)の中ででした。ずっと後にビデオ屋さんからテープを借りてきて見ると、完全に忘れていたヴェネツィアのシーンが少しずつ蘇ってくる思いでした。この映画の原作は、音楽家でオペラ『メフィストーフェレ』の作があり、ヴェルディの『オテッロ』『ファルスタッフ』の台本の協力者となったアッリーゴ・ボーイトの兄、建築家のカミッロ・ボーイトが書いた『Senso(感覚、官能とも)』です。2010.03.27日に｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-145.html" target="_blank" title="文学に表れたヴェネツィア――ボーイト">文学に表れたヴェネツィア――ボーイト</a>｣を書いています。<br /><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120331220225044.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120331220225044s.jpg" alt="夏の嵐(1)" border="0" width="83" height="111" /></a><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120331220345cfc.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120331220345cfcs.jpg" alt="夏の嵐(2)" border="0" width="86" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012033122044717c.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-12.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012033122044717cs.jpg" alt="夏の嵐(3)" border="0" width="84" height="111" /></a>2004年ヴィスコンティ映画祭パンフレットより<br />同じ頃、NHKラジオ第二放送で週一度午後ジャズやタンゴ、シャンソン(蘆原英了氏担当)等の音楽紹介の時間があり、ジャズ評論家油井正一氏が、モダン・ジャズを紹介しました。そこで初めてモダン・ジャズ・カルテットの音楽を聞いたのです。アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズが来日するずっと前のことで、まだモダン・ジャズという言葉が耳新しい頃でしたが、映画『グレン・ミラー物語』でジャズの洗礼は受けていました。それがＭ.Ｊ.Ｑ.の“No Sun in Venice”でした。<br /><br />ジョン・ルイスが、仏人監督ロジェ・ヴァディムの映画『大運河』用に、そのシノプシスだけを渡され作曲したもので、放送から何年も後に(1956年)東京でも一般公開され、このＭ.Ｊ.Ｑ.の『たそがれのベニス』を映画の中で聞きました。冒頭“The Golden Striker”が聞こえます。映画画面の始まりは、ヴェネツィアの当時既に映画館となっていたロッスィーニ・オペラ劇場前の劇場橋(P.del Teatro)からです。当時のこの近辺の賑わいが感じられました。劇場は現在は廃墟同然です。2007.11.17日に｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-12.html" target="_blank" title="Campo S.Luca">Campo S.Luca</a>｣と2009.01.03日に｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-75.html" target="_blank" title="サン・ベネデット劇場">サン・ベネデット劇場</a>｣と関連記事を書いています。You Tube で｢<a href="http://www.youtube.com/watch?v=NDjHsjAHuNc" target="_blank" title="The Golden Striker">The Golden Striker</a>｣をどうぞ(テーマは最後のアンサンブルです)。<br /><br />キャサリン・ヘップバーン主演、デヴィッド・リーン監督の『旅情』(1955)を見たのも同じ頃だったでしょうか。ヴェネツィアに行くようになり、このテープをビデオ屋さんから何度も借りて見ました。ヴェネツィアを見せるために、リーン監督のワザは大変なもので、ヘップバーンがサン・マルコ大聖堂を目にするに至る道程の描き方は本当に考え抜かれたものと感心しました。<br /><br />見る度に新しい発見があったりします。最近もヘップバーンとロッサーノ・ブラッツィの恋が成就し、一夜を過ごしにある館に入っていくのですが、ヴェネツィアに唯一残存する欄干のない橋として有名な《キオード橋》を渡って入館するという設定になっていました。2011.08.20日に｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-231.html" target="_blank" title="ヴェネツィアの橋(2)">ヴェネツィアの橋(2)</a>｣として、《キオード橋》と『旅情』の原作にも触れました。<br /><br />映画でも登場するサン・バルナバ運河の、船の八百屋さんは拳骨の橋の下にあり、日本でも知られていますが、昨年など船上が空でした。以前傍の語学学校に通っていましたので、時々帰宅途中ここで野菜や果物を買いました。特徴のある顔の男性(双子or兄弟？)が交代で店に居たので記憶にありました。船が空になり、直前の陸の八百屋を見ると特徴のあるその顔がありました。船での八百屋は辞めたのかなと思っていましたら、次のブログに出会いました。｢<a href="http://ameblo.jp/his-rome/entry-11194894368.html" target="_blank" title="船上の八百屋さん">船上の八百屋さん</a>｣をご覧下さい。<br /><br />ヴェネツィアの総督宮殿の、潟側の左の角の彫刻からカメラは左のサン・マルコ小広場へ向かってパンして行くことで始まり、終わりにはまた、カメラが小広場側から角の彫刻に戻っていくというカメラ・ワークで終わる映画、米人監督ジョセフ・ロージーの仏映画『エヴァの匂い』は、ジャンヌ・モロー演じるエヴァの悪女振りに驚嘆刮目しました。<br /><br />ジェイムズ・ハドリー・チェイスの『悪女イブ』(小西宏訳、創元推理文庫、1963年)を原作とするこの映画は、ジャンヌ・モローが若い時、詩人のジャン・コクトーに将来これを演ずるようにと『悪女イブ』を薦められていたのだそうです。長年胸に温めていたこの役を演じるモローは凄絶濃艶です。<br /><br />エヴァがヴェネツィアのある館の一室で、ベッドに寝そべって聞く、ビリー・ホリデーの歌う“Willow weep for me”には胸がじーんとなります。You Tube で彼女の歌を見つけました。そして長年彼女の歌のピアノ伴奏を勤めたマル・ウォルドロンが、彼女が亡くなった時、その死を悼んで作曲した“Left Alone”もありました。共演のジャッキー・マクリーンの咽ぶようなテナーサックスの叫びは胸に突き刺さります。You Tube でどうぞ。｢<a href="http://www.youtube.com/watch?v=cwWCXv8MwsY&amp;feature=related" target="_blank" title="Willow weep for me">Willow weep for me</a>｣と｢<a href="http://www.youtube.com/watch?v=E7lIffL3xaQ&amp;feature=related" target="_blank" title="Left Alone">Left Alone</a>｣です。  ]]>
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<dc:subject>映画</dc:subject>
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<dc:creator>ペッシェクルード</dc:creator>
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<title>文学に表れたヴェネツィア――ツルゲーネフ</title>
<description> 「本稿が考察の対象とするのは，大正時代の流行唄として知られる『ゴンドラの唄』（吉井勇詞，中山晋平曲）である。　この歌の冒頭に置かれた「&amp;#12349;いのち短し，恋せよ，少女」（今日ではしばしば「命短し，恋せよ乙女」と表記されることもある）という，いささかあざといまでに直截的な一節を覚えている人は少なくないと思われるが，この歌がもともと，島村抱月率いる藝術座（芸術座）によってロシアの文豪ツルゲーネフの小説
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<![CDATA[ 「本稿が考察の対象とするのは，大正時代の流行唄として知られる『ゴンドラの唄』（吉井勇詞，中山晋平曲）である。<br />　この歌の冒頭に置かれた「&#12349;いのち短し，恋せよ，少女」（今日ではしばしば「命短し，恋せよ乙女」と表記されることもある）という，いささかあざといまでに直截的な一節を覚えている人は少なくないと思われるが，この歌がもともと，島村抱月率いる藝術座（芸術座）によってロシアの文豪ツルゲーネフの小説『その前夜』（1860）が舞台化され，大正４年（1915）の帝劇公演において松井須磨子の主演で上演された際の劇中歌として生まれたことは，それほど知られていないのではなかろうか。<br />……」と相沢直樹先生は「山形大学紀要」第16巻3号に「『ゴンドラの唄』考」を書き起こされています。<br /><br />そして当時の新聞記事を次のように引用されています。<br />｢久しく各地を巡業して居た島村抱月氏等の藝術座員は今度暫く振りで東京へ戻つて來て此の廿六日から卅日迄の六日間の帝國劇場で華々しく新劇を開演する事になつた狂言は第一ツルゲエネフ原作 楠山正雄脚色 吉井勇作歌の悲劇「その前夜」。第二中村吉蔵作社會劇「飯」。第三オスカー、ワイルド原作 島村抱月 中村吉蔵合譯の新古典劇「サロメ」。<br /><br />俳優は例に依て松井須磨子、武田正憲等の顔觸であるが、最初の「その前夜」は、十九世紀中葉頃の露西亞を背景にして稍眼覺かかつた智識階級の生活状態を戯曲的に面白く描いたもので、女主人公はエレエナ。男主人公はインサロフと云て前者は理想的空想的な露西亞の懶惰に倦きて力強い現實を求めてゐる女性、後者はブルガリアの革命家で實際的の手腕家であるが夫が偶々相逢て遂に強い戀に落ち自由結婚する事になつた處折からブルガリアの風雲急を告げて革命の機運が來たので二人は露西亞を後に出發しヴエニスの客窓で便船を待つてる内、インサロフは不治の肺患が重つて志を抱いた儘死し、エレエナは一人寂寥の中に悲しい生を續けて行くといふ筋で、雪に埋もれたモスクワ郊外の別離、伊太利港の客舎邊は泣かせる。俳優も皆達者にやつてゐる。…」<br />とあり、当時の様子が想像されます。<br /><br />『決定版　ロシア文学全集　３』(ツルゲーネフ「父と子」｢その前夜｣「初恋」米川正夫訳、日本ブック・クラブ、1969年9月20日)の『その前夜』を読んで見ました。<br /><br />モスクワ郊外のヴィッラで恋し合う仲になったエレーナとインサーロフ(ブルガリア人)は、両親に隠れて結婚します。ブルガリアがトルコとの戦争で風雲急を告げ、愛国者インサーロフはエレーナ共に、ウィーンを経てヴェネツィア経由で帰国しようとします。<br /><br />｢……カナレッチイもグワルジイも(近代の画家にいたっては、今さらいうまでもない)あの銀色にふるえるデリケートな空気や、遠ざかるが如くみえて、しかも間近に感じられる遠景も、たとえようのない優美な輪郭の奏でだす驚くべき諧音、溶けて行くような色彩のコーラスも、画布に伝える事ができなかった。すでに己の生涯を終って、人生に打ち砕かれた人間は、ヴェニスを訪れても無意味である。それは青春時代におけるはかない空想の思い出のように、苦い味わいを蔵しているだろう。けれど、まだ生の力が湧き返っている人、自分の生活を平穏無事と感じている人にとっては、これほど甘味な都はないだろう。<br />[カナレッチイとグワルジイとは、Canaletto と Guardi のことでしょう]<br />……<br />　食後二人は劇場へ赴いた。<br />　劇場ではヴェルディのオペラが演じられていた。それは、正直なところ、かなり俗悪なものだけれど、もうあまねく欧州の劇場に広まって、ロシアでもよく人に知られている歌劇「トラヴィアタ」である。ヴェニスのシーズンはもう終っていたので、歌手はみな凡庸の域を脱しない連中で、誰も彼も根かぎりの声を出して、わめき立てていた。ヴィオレッタの役を勤めていたのは、あまり評判のない女優で、見物の冷淡な態度から見ても、大して人気はなさそうであったが、ある程度まで才能の閃きが認められた。<br />……<br />　インサーロフとエレーナの泊まっているホテルは、リヴァ・ディ・スキャヴォーニに面していた。二人はそこまで行き着かないうちにゴンドラを下りて、聖マルコ広場の附近を何度も往復した。無数に並んだアーチの下には小さなカフェーがあって、その前に呑気そうな連中がうようよ集まっていた。　<br />　<br />愛する人と一緒に、知らない町で知らない人たちの間を歩くのは、なぜか格別楽しいものである。何もかも美しい意味ありげに思われて、すべての人々にたいして、自分自身を充たしている幸福と平和を祈ってやりたいような気がする。……」<br />　――『決定版　ロシア文学全集　３』(ツルゲーネフ「父と子」｢その前夜｣「初恋」米川正夫訳、日本ブック・クラブ、1969年9月20日)より<br /><br />この直後、インサーロフは既にロシアで兆していた病、肺と動脈癌のためヴェネツィアの宿で客死します。イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(1818.11.09～1883.09.03)はロシアの Oryol に生まれ、パリ郊外の Bougival で亡くなりました。彼はヴェネツィアに行ったことがあるのでしょうか。<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120217144654563.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120217144654563s.jpg" alt="イワン・ツルゲーネフ" border="0" width="88" height="111" /></a>wikipedia から借用。ワシーリー・ペロフ画『ツルゲーネフの肖像』(1872)<br />ヴェルディがヴェネツィアで初演・再演した『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』については、2007.11.17日の「<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-12.html" target="_blank" title="Campo S. Luca">Campo S. Luca</a>」と2009.01.03日の「<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-75.html" target="_blank" title="サン・ベネデット劇場">サン・ベネデット劇場</a>」でも言及しました。フェニーチェ劇場での初演は不首尾に終わりましたが、翌年何の変更もなしに近くのサン・ベネデット劇場で再演し、大成功だったそうです。ヴェルディ自身も不思議がった手紙を残しています。 ]]>
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<dc:subject>言葉・文学</dc:subject>
<dc:date>2012-04-07T00:05:46+09:00</dc:date>
<dc:creator>ペッシェクルード</dc:creator>
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<title>文学に表れたヴェネツィア――吉井勇と森&amp;#40407;外</title>
<description> 吉井勇作詞、中山晋平作曲による歌謡に『ゴンドラの唄』があります。黒澤明監督映画『生きる』の中でも歌われました。You Tube にその唄がありましたので、次のサイトでお聞き下さい。「『ゴンドラの唄』」いのち短し、恋せよ、少女(おとめ) / 朱(あか)き唇、褪せぬ間に、 / 熱き血液(ちしほ)の冷えぬ間に / 明日(あす)の月日はないものを。……前々回掲載したロレンツォ・イル・マニーフィコの『バッカスの歌』について触れながら、
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<![CDATA[ 吉井勇作詞、中山晋平作曲による歌謡に『ゴンドラの唄』があります。黒澤明監督映画『生きる』の中でも歌われました。You Tube にその唄がありましたので、次のサイトでお聞き下さい。「<a href="http://www.youtube.com/watch?v=0xsqJnZcyi8" target="_blank" title="『ゴンドラの唄』">『ゴンドラの唄』</a>」<br /><br />いのち短し、恋せよ、少女<span style="font-size:x-small;">(おとめ)</span> / 朱<span style="font-size:x-small;">(あか)</span>き唇、褪せぬ間に、 / 熱き血液<span style="font-size:x-small;">(ちしほ)</span>の冷えぬ間に / 明日<span style="font-size:x-small;">(あす)</span>の月日はないものを。……<br /><br />前々回掲載したロレンツォ・イル・マニーフィコの『バッカスの歌』について触れながら、塩野七生さんが『わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡』(新潮文庫、平成二十二年五月一日)の中で次の事に言及しています。<br /><br />｢この推論の根拠は、ロレンツォのこの詩<span style="font-size:x-small;">(うた)</span>が、フィレンツェにとどまらずにヴェネツィアでも大流行し、ヴェネツィアではとくに、ずいぶんと後代になっても謝肉祭中は欠かせない歌になっていたという事実である。それを上田敏か誰か、ヴェネツィア旅行をした日本人の文人が聴き知り、日本にもどってきて話したのが、吉井勇にヒントをあたえた、とまあこんな具合である。『ゴンドラの唄』と題されたのも、ヴェネツィア経由であったからではないかと…。｣<br /><br />実は私は、『海の都の物語』の著者のこの意見を長い間、信じていました。最近森&#40407;外訳、アンデルセンの『&#21373;興詩人』を読み返し、何か疑問のような蟠りが仄かに芽生えてきました。それは次の&#40407;外の訳文です。<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201202171455183b3.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201202171455183b3s.jpg" alt="森&#40407;外" border="0" width="84" height="112" /></a>森&#40407;外像。「ヨコハマ経済新聞」サイトより借用<br />｢…我は艙板の上に坐して、藍碧なる波の起伏を眺め居たるに、傍に一少年の蹲れるありて、ヱネチアの俚謠を歌ふ。其歌は人生の短きと戀愛の幸あるとを言へり。ここに大&#27114;を意譯せんか。其辭にいはく。朱の脣に觸れよ、誰か汝の明日<span style="font-size:x-small;">(あす)</span>猷在るを知らん。戀せよ、汝の心の猷少<span style="font-size:x-small;">(わか)</span>く、汝の血の猷熱き間に。白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。來れ、彼輕舸の中に、二人はその盖<span style="font-size:x-small;">(おほひ)</span>の下に隱れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人の來り覗ふことを許さゞらん。<br /><br />少女よ、人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂ひ、波は相推し相就き、二人も亦相推し相就くこと其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猷少く、汝の血の猷熱き間に。汝の幸を知るものは、唯々不言の夜あるのみ、唯々起伏の波あるのみ。老は至らんとす、氷と雪ともて汝の心汝の血を殺さん爲めに。」<br /> ――『&#40407;外全集　第二巻』(岩波書店、昭和四十六年十二月二十二日)「&#21373;興詩人」より<br /><br />この『ゴンドラの唄』について渉猟してみました。PC上で相沢直樹先生が『山形大学紀要第16巻３号』に「『ゴンドラの唄』考」を書かれたものが掲載されています。その中で大正５年(1916)５月に『新演藝』誌上に発表された吉井勇の公開書簡「松井須磨子に送る手紙」が引用されていました。<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120217145556adb.gif" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120217145556adbs.gif" alt="吉井勇" border="0" width="79" height="111" /></a>吉井勇像。高知工科大学「吉田研究室」サイトより借用<br />《「その前夜」が上場されるに就て、その脚色者である楠山君から唄を作る事をまれて喜んでそれを引き受けたのは無論友達の脚本と云ふ事もありますが、ひとつには又あなたに對する、憧憬もないではなかつたのです。この時作つた「ゴンドラの唄」は實を云ふと&#40407;外先生の「&#21373;興詩人」の中の「妄想」と云ふ章に、<br /><br />「其辭にいはく、朱の唇に觸れよ、誰か汝の明日あるを知らん。戀せよ、汝の心猶少く、汝の血は猶熱き間に、白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。來れ、彼輕舸の中に。二人はその蓋の下に隠れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人の來り覗ふことを許さざらん。少女よ。人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂て、波は相擁し相就き、二人も亦相擁し、相就くことは其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。」とあるのから取つたものですが、幸か不幸かその節が稍難しかつた爲めに、あまり流行せずに濟んでしまひました。》<br /><br />これは大正４年(1915)、島村抱月の藝術座がロシアのツルゲーネフの『その前夜』を舞台化し、帝劇で松井須磨子の主演で上演し、第４幕の「ヱ゛ネチアの町　大運河の岸」の場で歌われた劇中歌だったのです。<br /><br />イタリアに大変な興味を抱いていた、デンマークの詩人アンデルセン(正しくはアネルセン)は、当然ロレンツォ豪華王の『バッカスの歌』は読んでいたでしょうし、イタリアを経巡り、ヴェネツィアに行った時、そういう耳でヴェネツィアの歌も聴き、『&#21373;興詩人』を完成させたに違いありません。2011.07.16日に<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-224.html" target="_blank" title="文学に表れたヴェネツィア―アンデルセン">文学に表れたヴェネツィア―アンデルセン</a>を書きました。　　　 ]]>
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<dc:subject>言葉・文学</dc:subject>
<dc:date>2012-03-31T00:01:48+09:00</dc:date>
<dc:creator>ペッシェクルード</dc:creator>
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<title>フェリーチェ・ベアート</title>
<description> 　 右はフェリーチェ・ベアートの自写像　　　｢フェリーチェ・ベアトの東洋｣展に行ってきました。５月６日まで恵比寿の東京都写真美術館でやっています。2010.02.06日に「イタリアと日本との関わり」としてフェリーチェ・ベアートを書きましたが、その時参考にした10年前の資料とこの展覧会のデータが大分変わっています。主だった変更を図録解説から抽出してみました。10年の歳月の間に新しい発見があったようです。フェリーチェ
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<![CDATA[ <a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012032223222291c.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012032223222291cs.jpg" alt="フェリーチェ・ベアートの東洋" border="0" width="79" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120322232333dc1.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120322232333dc1s.jpg" alt="パンフレット、裏面" border="0" width="79" height="112" /></a>     　 <a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120323123946509.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120323123946509s.jpg" alt="フェリーチェ・ベアート自写像" border="0" width="85" height="112" /></a>右はフェリーチェ・ベアートの自写像　　　<br />｢フェリーチェ・ベアトの東洋｣展に行ってきました。５月６日まで恵比寿の東京都写真美術館でやっています。2010.02.06日に「イタリアと日本との関わり」として<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-140.html" target="_blank" title="フェリーチェ・ベアート">フェリーチェ・ベアート</a>を書きましたが、その時参考にした10年前の資料とこの展覧会のデータが大分変わっています。主だった変更を図録解説から抽出してみました。10年の歳月の間に新しい発見があったようです。<br /><br />フェリーチェ・ベアート[Felice(幸福な)Beato(最高に幸せ)という大変めでたい名前]は、実際には1832年(旧資料は34年にコルフ島生)ヴェネツィアに生まれたそうですからヴェネツィア人です。当時のヴェネツィアは10年間のフランス領有後、オーストリア軍が1814年に再度進駐していました(～66年)。34年頃、両親に連れられてヴェネツィア共和国時代はヴェネツィア領だったコルフ(現、ギリシアのケルキラ)島に移住し、成長します。ヴェネツィア共和国が1797年ナポレオンに滅亡させられる等ナポレオン嵐後のヨーロッパの政治的再編を目指し、全体会議は一度も開かれず舞台裏の饗宴外交(映画『会議は踊る』の舞台となった)で事を決めた、1814～15年のウィーン会議の結果、コルフ島はイギリス保護領となっていました。彼は後にイギリス国籍を取得します。<br /><br />写真家となってからの行動は知られています。日本で実業家の才ありと錯覚して写真家を辞め、事業に失敗して無一文となり、1884年には日本を後にしました。10年以上前の資料では離日後の軌跡が明確ではありませんでしたが、1887年にはビルマ(現、ミャンマー)に写真家として再登場し、ビルマのマンダレーに落ち着きます。今回の展覧会ではビルマ時代の作品も多数展示されています。マンダレーでは写真スタジオと土産物屋を開業し、木製・金属製・象牙製などのビルマの土産物も販売し、当時インドの一州として観光地となっていたマンダレーの観光客の人気スポットとなったそうです。<br /><br />ビルマを去り、イタリアに戻り、ベルギーにいた姉妹にも会い、フィレンツェに居を定め、1909年1月29日この地で亡くなったそうです。激動の時代をグローヴァルに活動して、流浪の人生を送ったフェリーチェの出生・死亡記録等を見つけ出した人々に感動しました、データの背後で姿は見えませんが[生死のデータの発見は2009年]。<br /><a href="http://blog-imgs-37.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20110106201636e15.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-37.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20110106201636e15s.jpg" alt="『フェリーチェ・ベアート』(フェデリーコ・モッタ出版刊)" border="0" width="79" height="112" /></a>    　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203232302326f6.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203232302326f6s.jpg" alt="楽器を演奏する芸者達" border="0" width="149" height="107" /></a><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203232304168fc.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203232304168fcs.jpg" alt="茶屋の前の護衛役の日本人役人" border="0" width="89" height="111" /></a>左はイタリアで出版されたベアートの写真集。手彩色写真左、演奏する芸者達。右、茶屋前の護衛役の役人    <br />ヴェネツィアのアッサッシーニ埋立て通り(Rio tera' dei Assassini)の古本屋さんで上携の本を見つけ、購入していました。この本屋さんは日本関係の本を結構並べています。この本には、チャールズ・ワーグマンの｢日本での生活｣や外国人の目に映った「フェリーチェ・ベアート時代の横浜｣等のエッセーの中に、Dietmar Siegertの『日本のフェリーチェ・ベアート』という長文のエッセーがありましたので、冒頭の部分を訳出してみました。<br /><br />｢1863年５月21日と28日の“China Mail”通信の旅行者名簿から、フェリーチェ・ベアートがボンベイ・香港・上海航路便で、1863年６月日本に到着したことが知られる。彼の横浜滞在の最初の確証はチャールズ・ワーグマンが1863年７月13日の“Illustrated London News”に発表した報告で得られる。《日本の役人達が私の絵や友人のＢ氏(フェリーチェ・ベアート)の写真を見に、私の事務所に集まってきた。》<br /><br />ベアートとワーグマンは阿片戦争中の1860年、支那で知り合った。ワーグマンが戦争終結後“Illustrated London News”のイラストレイター且つ正式の通信員として日本に派遣された、その一方でベアートは、ロンドンで戦争写真売却のため、一度ヨーロッパに戻った。<br /><br />彼らの商業的結び付きである“Beato＆Wirgman, Artists＆Photographers”社が香港で毎年発表される戸籍公報の横浜編に、1864年初めて取り上げられた。会社の所在地は、横浜の外国人居留地区24番地の建物に1867年まであった。<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203231450011c6.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201203231450011c6s.jpg" alt="横浜外国人居留地図" border="0" width="150" height="104" /></a>　　<a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120325200836d3f.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120325200836d3fs.jpg" alt="横浜の丘から見た港のパノラマ" border="0" width="149" height="105" /></a>左、濱繪圖面。右、横浜の丘から見た、外国人居留地の見える港の風景<br />横浜に到着後直ぐに、軍隊を退役したキャプテンだった英国の画家チャールズ・ワーグマン(1832～91)は、1862年“The Japan Punch”誌を創刊した。それは典型的に英国式の、インスピレイションをカリカチュアしたもので、当時広い人気を博した。<br /><br />ワーグマンはどこへでもスケッチ帳を持参し、道や人物を描き、風俗習慣を深く観察し、税関や船の係留場で出会った興味深い出来事に目を凝らしている。フェリーチェはまだ異国人に知られていないこの国の色々な地方をドキュメントした日本における最初の外国人写真家であった。長崎でも旱魃の時、旧市街の浅瀬の川床や港、出島や新しく生まれた外国人居留地を写真に収めた。<br /><br />街の上にある丘に昇り、姉妹の夫のジェイムズ・ロバートソンに教えられたテクニックでパノラマな景観を撮した。２～５個のショットで構成し、伝統的なパノラマの画面の超ワイドな画型の中に、平面図法的技法で組み合わせたそれ(パノラマ写真)は、旅行写真のパイオニアであり、プロとしての能力と芸術家としての資質を最高に表している。<br /><br />ベアートの写真に付けられたキャプションから富士登山したことが分かる。オランダ総領事のGraeff van Polsbroek(グラーフ・ファン・ポルスブルーク) は、ベアートと彼の仲間、パークス夫人と招待客を引き連れたハリー・パークス卿ら全員で富士登山に参加した。パークス夫人はこの骨の折れる試練に耐え、勇気を示したただ一人の貴夫人だった。登攀途中ベアートは、ディルク・デ(Dirk de)・グラーフ・ファン・ポルスブルークの護衛役(日本人)らとお茶を飲みに入った料亭、富士山麓の須走(洲走)村を撮影した。しかしそこには、この企画を検討出来る写真情報がない。<br /><br />この種の遠出が危険を伴わずに行われるのは、いつもという訳にはいかなかった。外国人嫌いや侍の敵愾心を燃やす者のヨーロッパ人への攻撃は日常茶飯事だった。1864年11月ベアートとワーグマン、彼らの仲間の一行は鎌倉で辛くも襲撃から逃れたことがあった。<br /><br />11月19日横浜を出発した。金沢で一泊し、20日と21日は鎌倉にいた。有名な鎌倉八幡宮や巨大な青銅の大仏像の写真の中に、ベアートやワーグマンの姿も認められる。翌日の11時頃、江の島到着前、英国横浜駐屯歩兵第20連隊のボールドウィン少佐とバード中尉に出会った。ベアートは彼ら二人と長話をした。<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120323193504950.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120323193504950s.jpg" alt="鎌倉八幡宮とベアート達" border="0" width="143" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120323193348d56.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120323193348d56s.jpg" alt="鎌倉大仏とベアート達" border="0" width="145" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012032319373388e.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/2012032319373388es.jpg" alt="清水清次の晒し首" border="0" width="149" height="90" /></a>左は鎌倉八幡宮のベアート達、中は鎌倉大仏前のベアート達、右はベアート撮影の清水清次の晒し首<br />数時間後、藤沢の旅籠で一服し、一行は二人の英国将校が鎌倉(鶴岡八幡宮前の襲殺だという)で暗殺されたことを知った。ベアートはその後、暗殺者清水清次の処刑の模様をカメラに収めた。[清水の仲間、武州浪人間宮一も後に捕まり斬首された。]<br /><br />ベアートが商港から遠く離れた日本内部で、来日初期に見たものは少数の人に記憶されている。幕府は10マイル以上内陸に入り込むことは外国人には禁じていた。その禁令に対しての唯一の対応策は、外交団のグループに潜り込むことであった。スイス公使エメ・アンベールは、江戸での撮影活動は容易くないと書いている。<br /><br />“我々の右側には薩摩藩の鬱蒼とした、素晴らしい庭園が広がっている…。左側には有馬藩の屋敷を取り囲む高い塀が伸びている…。ベアート氏はこの長閑な景色を撮影しようと準備していた。その時二人の藩の役人が気付き、しようとしていることを止めるよう、口喧しく言い募った来た。Metman は自分達の希望を認めてくれるよう、先ずあなた方の主君の意向を伺って来てくれるよう懇願した…。<br /><br />数分後役人は帰ってきて、主人は屋敷の一部たりとも撮影することは禁ずると言っている旨告げた。ベアートは深々と頭を下げ、撮影器具を片付けるように仲間達に言った。役人達は満足して引き上げていった、彼らが屋敷に入った隙に写真家は既に２枚のネガを撮っていたことなど疑いもせずに。<br /><br />我々の護衛役(日本人)は、写真のことには無関心だったが、ベアートの権謀術数には全員賞賛の意を表した。”<br />……」<br />　――『Felice Beato―Viaggio in Giappone 1863-1877』(Federico Motta Editore、 1991.09)より<br /><br />先日再放送されたＮＨＫテレビ『知られざる決断～尾張藩・徳川慶勝』で、尾張藩主徳川慶勝が写真の技術を独学し、機材を取り寄せ、自ら薬品を調合して、独り貴重な写真群を歴史に残した話は感動的でした。フェリーチェが日本で活躍していた幕末にこんなお殿様がいたとは大変な驚きです。 ]]>
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<dc:subject>写真</dc:subject>
<dc:date>2012-03-24T00:00:40+09:00</dc:date>
<dc:creator>ペッシェクルード</dc:creator>
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<title>言葉(2)――暗唱・朗読</title>
<description> かつてアントワーヌ・ド・サンテグジュペリの『Le Petit Prince』(最近沢山の和訳が出版、題名も区々です)を初めて読み終えた時、コロムビア・レコードから出ていたジェラール・フィリップ朗読のレコード(王子役はGeorges Poujouly)を聞きました。彼の仏語の美しさに感動しました。その伊語訳を You Tube で検索してみますと、『Il Piccolo Principe』の定番訳なのか、ジェラール・フィリップの朗読と同じ構成の朗読が見付かり、聞
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<![CDATA[ かつてアントワーヌ・ド・サンテグジュペリの『Le Petit Prince』(最近沢山の和訳が出版、題名も区々です)を初めて読み終えた時、コロムビア・レコードから出ていたジェラール・フィリップ朗読のレコード(王子役はGeorges Poujouly)を聞きました。彼の仏語の美しさに感動しました。<br /><br />その伊語訳を You Tube で検索してみますと、『Il Piccolo Principe』の定番訳なのか、ジェラール・フィリップの朗読と同じ構成の朗読が見付かり、聞いています。訳文とは言え、美しい伊語ではないでしょうか。<br />｢<a href="http://www.youtube.com/watch?v=hkxbmBDalbk" target="_blank" title="Il Piccolo Principe">Il Piccolo Principe</a>｣　 このサイトで伊語朗読が聞けます。<br /><br />「Il piccolo principe se ne ando`a rivedere le rose. “Voi non siete per niente simili alla mia rosa. Voi non siete ancora niente", disse. “Nessuno vi ha addomesticato e voi non avete addomesticato nessuno. Voi siete come era la mia volpe. Non era che una volpe uguale a centomila altre. Ma ne ho fatto il mio amico e d'ora e` per me unica al mondo."<br /><br />“Voi siete belle, ma siete vuote", disse ancora. “Non si puo` morire per voi. Certamente, un qualsiasi passante crederebbe che la mia rosa vi rassomigli, ma lei, lei sola, e` piu` importante di tutte voi, perche` e` lei che ho innaffiata. Perche` e` lei che ho messa sotto la campana di vetro. Perche` e` lei che ho riparato col paravento. Perche` su di lei ho ucciso i bruchi(salvo due o tre per le farfalle). Perche` e` lei che ho ascoltato lamentarsi o vantarsi, o anche qualche volta tacere. Perche` e` la mia rosa."<br /><br />E ritorno` dalla volpe. “Addio", disse. “Addio", disse la volpe. “Ecco il mio segreto. E molto semplice: non si vede bene che col cuore. L'essenziale e` invisibile agli occhi. E` il tempo che tu hai perduto per la tua rosa che ha fatto la tua rosa cosi` importante." “Tu diventi responsabile per sempre di quello che hai addomesticato. Tu sei responsabile della tua rosa……."<br />日本語訳は次の本の頁をご覧下さい。  <br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201201281612357b2.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201201281612357b2s.jpg" alt="内藤濯訳『星の王子さま』" border="0" width="104" height="112" /></a><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201201281613359c2.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201201281613359c2s.jpg" alt="内藤濯訳『星の王子さま』から" border="0" width="150" height="109" /></a><br />イタリアでも子供達がこの定番訳(?)を暗唱して、楽しんでいるに違いありません。小学生時代、森&#40407;外の『&#21373;興詩人』の冒頭を暗唱しようと何回か挑戦したのですが、漢字の読みやカタカナ表記のローマ地名が難しかったのでしょうか、暗記出来ずに終わりました。<br /><br />いいだ・もも著『神の鼻の黒い穴』(河出書房新社、昭和四十一年四月二十五日)の中に次のような小咄が載っていました。｢聖金曜日の晩のこと、カラブリアの山賊たちが火を囲んで丸く坐っていました。そのとき、仲間の一人が言いました。〈おい、ベッペ、お前は話をたくさん知っているから、なにかいい話を聞かしてくれないか〉そこでベッペは胴間声で話しはじめました。《聖金曜日の晩のこと、カラブリアの山賊たちが…》……｣と延々と話が繰り返されるという小咄です。<br /><br />伊語の勉強を始めてから、面白がって中身を多少変え、この小咄を暗唱用に訳してみました。伊語クラスの忘年会の時、何かやれと言われ、これを披露しましたが、受けませんでした。それが次です。<br />《C'erano una volta alcuni banditi in una certa montagna in Calabria. Una sera fredda del venerdi` santo, stavano seduti per terra in cerchio attorno al fuoco, bevendo vino. Uno di loro allora disse: “Dai, Beppe, sei bravo a raccontare. Perche` non ci racconti qualcosa di bello?" E subito dopo comincio` a narrare con una voce rauca. 《C'erano una volta……. 》…….<br /><br />しかし結局いつでも暗唱出来る語句は、伊語を始めて最初に覚えた、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコ(豪華王)が、カーニヴァルのために書いたと言われる『バッカス(酒神)の歌(Trionfo di Bacco e di Arianna―ディオニューソス(バッコスとも)とアリアドネーの勝利)』の冒頭の４行のみです。<br />[テーセウスのミーノータウロス退治に協力したアリアドネーは、ナクソス島(エーゲ海キクラーデス諸島最大の島)に彼と共に遁れますが、彼女は彼にこの島に置き去りにされます。そこへディオニューソスが来て彼女に恋をし、妻としました。結婚の贈り物に与えられた王冠は星座に変えられたと伝えられます。それ故古代この島は、ディオニューソスとアリアドネー信仰の中心地だったそうです。1207～1566年はヴェネツィア共和国領でした。2007.10.21日に｢<a href="http://pescecrudo.blog122.fc2.com/blog-entry-2.html" target="_blank" title="アリアドネーの糸(Il filo d'Arianna)">アリアドネーの糸(Il filo d'Arianna)</a>｣を書いています]<br /><br />Quant'e` bella giovinezza  （若さとは何と麗し）<br />che si fugge tuttavia!      (そは疾く過ぎゆく）<br />chi vuol esser lieto, sia:  (幸望む人、さ、あれ）<br />di doman non c'e`certezza.  (明日<span style="font-size:x-small;">（あした）</span>には確たるものなき故）<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201201281614548a5.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/201201281614548a5s.jpg" alt="ロレンツォ・イル・マニーフィコ" border="0" width="149" height="109" /></a><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120128161540210.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/20120128161540210s.jpg" alt="『バッカスの歌』" border="0" width="150" height="109" /></a><br /><br />  ]]>
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<dc:subject>言葉・文学</dc:subject>
<dc:date>2012-03-17T00:05:29+09:00</dc:date>
<dc:creator>ペッシェクルード</dc:creator>
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<title>言葉(1)――唱え詞・遊び言葉</title>
<description> 幼年期から少年期に掛けて耳に入ってきた、遊びに纏わる言葉や童唄、呪文の類は何十年経っても記憶装置に固着しているようで、ふとした弾みに口に上ってきます。先日も『鐘の鳴る丘』の主題歌が口に付いて出て来、第一番全部が空で歌え、何とも甘く懐かしいような不思議な心地になりました。呪文、唱え詞、童言葉と言われるものに、例えば「ちちんぷいぷい、ごようのおんたから」「げんまんげんまん、針千本」とか、「鬼さんこちら
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<![CDATA[ 幼年期から少年期に掛けて耳に入ってきた、遊びに纏わる言葉や童唄、呪文の類は何十年経っても記憶装置に固着しているようで、ふとした弾みに口に上ってきます。先日も『鐘の鳴る丘』の主題歌が口に付いて出て来、第一番全部が空で歌え、何とも甘く懐かしいような不思議な心地になりました。<br /><br />呪文、唱え詞、童言葉と言われるものに、例えば「ちちんぷいぷい、ごようのおんたから」「げんまんげんまん、針千本」とか、「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」「ここまでお出で、甘酒進上」、また「かっちゃん、かずの子、にしんの子」「みっちゃん、みちみち、うんこたれ…」、そして「夕焼け小焼け、あーした天気になーれ」と願い事して、履いている下駄の片方を足指から蹴っ飛ばし、下駄の表裏で明日の天気を占ったり。<br /><br />少年時代過ごした故郷で、面子遊び[田舎ではペッタイと言いました]を学校の砂場等で始める前、最初にメンコを波打つ砂上に張る時、「ジンジョウ、イッペンタン、カマトル」と宣言して始めました。意味は波打った砂の上で、メンコがどういう危険な状態にあっても位置を直そうと触れば、その札は対戦相手の物になるという不文律です。「尋常に、勝負、勝負！」。<br /><br />紙芝居の『桃太郎』で、一番最後の「めでたし、めでたし！」の終了の言葉に、「いっちがむかしがつっさけた」とあり、その口調の良さで今でも口が叫びます。<br /><br />イタリアにも子供の遊びの時に唱えられる、音調の良い言葉(eufonia)、語呂合わせ的な口吟む遊び言葉があり[早口言葉等は、語学テキストなどに掲載されているのを何度か見ました]、メモっておいた幾つかがあります。書き写し間違いの語句もあるかも知れませんが、列挙してみます。<br /><br />先ず隗より始めよ、<br />『アリ・ババと四十人の盗賊の物語』から宝物の詰まった洞窟を開く呪文―「開け、胡麻！(Apriti, sesamo―アープリティ・セーザモ)」。(宝の山に入りながら、手をむなしゆうしてけえるのか……)<br /><br />｢かごめ、かごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるとかめがつうべった、うしろの正面だーれ」という童戯の時に口吟まれる文句はイタリアにも同じような意味合いのものがあって、以下がそれだそうです。「Giro giro tondo, casca il mondo, casca la terra, tutti giu`per terra.…… (回れ、回れ、輪になって回れ、世界が倒れて、地球も落ちて、全ては崩れる)」<br /><a href="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/girotondo.gif" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-15.fc2.com/p/e/s/pescecrudo/girotondos.gif" alt="Giro-tondo" border="0" width="120" height="111" /></a>絵はPCのGiro tondoのサイトから借用。You Tube で検索すると歌も聞くことが出来ます。次です。<a href="http://www.youtube.com/watch?v=A7O6muqf_so" target="_blank" title="Giro-tondo">Giro-tondo</a><br />遊技の中で、何かを決める時にジャンケンで決定することは多いでしょう、日本式ジャンケンは morra cinese と言い、｢bim, bum, bam」と掛け声を交わします。<br />また、鬼さん誰にしようかな？　という時の唱え詞は「Pimpiripettannuse, pimpiripettappa`―ピンピリペッタンヌーゼ・ピンピリペッタッパ」と唱えるそうです。<br />同じように遊びでの順番を決める時、｢Ambaraba` cicci cocco`.(アンバラバ・チッチ・コッコ) Tre civette sul como` che facevano l'amore con la figlia del dottore, il dottore si ammalo`. Ambaraba`…)」というのもあるそうです。<br /><br />言葉遊びとして、｢Il baco del caro del malo. Il beco del cero del melo. Il bico del ciro del milo. Il boco del coro del molo. Il buco del curo del mulo.」があると、ナターリア・ギンズブルグの小説にありました。<br /><br />｢Abracadabra―アブラカダブラ｣　病魔を追い払う時等に用いる逆三角形に書かれた呪文。<br />｢Balabin balaba`―バラビーン・バラバ」　よいしょ、こらしょ！<br />｢Cucu`, cucu`, eccomi!―クク・クク・エッコミ！」　居ない、居ない、バー！ <br /><br />トランペット奏者の演奏は、｢Turum tum tum, turum tum tum, teretete` teretete`, retete` retete`……｣<br />ロッシーニのオペラの中には次のような不思議な音が沢山出て来るそうです。｢cra cra, bum bum, din din tac tac｣、｢zitti zitti, piano piano｣、｢misipipi pipi pipi｣、｢zuma zumi zuma zumi｣ [「クラクラ、ブンブン、ディンディン・タクタク｣は、ロッシーニが作曲家 Carlo Coccia の作曲の遅れで急遽1813年４月末代役を頼まれ、同年５月22日ヴェネツィアのサン・ベネデット劇場(この劇場の所有者は土地を所有するヴェニエール家に追い払われ、他の場所にフェニーチェ劇場を造ることになります)でロッシーニ自身の指揮で初演され、大成功を収めた作品『アルジェのイタリア女』の中で歌われました]<br /><br />さてどん尻に控えしは磯風荒れえ小ゆるぎの、……<br />「例によって例の如し」　≪Rieccoci alle solite≫<br />「成るように成る(ケ・セラ・セラ)」　≪Sara` quel che sara`(Chissa` che cosa ci riserva il domani)≫<br />「賽は投げられた」　≪Il dado e` tratto(Alea iacta est)≫<br />「王手！」　≪Scacco al re!≫<br />「まさか！　もうどうしようもない」　≪Ma va!  Non ce la faccio piu`≫<br />「万事休す！　詰んだ！」　≪Tutto e` perduto!  E' scacco matto!≫<br />「後は野となれ山となれ(行方が分からなくなった)｣　≪Chi s'e` visto s'e` visto.≫(持ってけ泥棒)<br />「それが人生だ！」　≪Questa si` che e` vita!≫<br />「喜劇は終わった！」　≪La commedia e` finita!≫[ルッジェーロ・レオンカヴァッロ作のオペラ『道化師(I Pagliacci)』の中の最終場面で、カーニオが呟く最後の台詞]<br /> ]]>
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<dc:creator>ペッシェクルード</dc:creator>
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