イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

4世紀後、解決したメーディチ家のミステリー

旧聞に属しますが『Il Giornale』紙の『2006年12月24日(日曜日)――Cronache17』 に《4世紀後解決したメーディチ家のミステリー》という記事が載りました。ヴェネツィアの友人Fabiさんが切り抜きを送ってくれていました。以前、彼女はメーディチ家のミステリーを解明するための科学者のグループが組織されたと、メールを呉れました。5年経ちそれを訳してみます。
[『メジチ家の墓をあばく』(ドナテッラ・リッピ、クリスティーナ・ディ・ドメニコ著、市口桂子訳、白水社、2006年6月30日)という本も発刊されています]。
『Il Giornale』紙面 『Il Giornale』の拡大紙面 「メーディチ家の暗部の中で最も悪辣に術策を弄したものの一つについて、再び書かれた。フランチェスコ一世と彼の二番目の妻ビアンカ・カッペッロの、Poggio a Caiano のメーディチの別荘での死は、マラリアによるものではなく、かなりの量の砒素を盛られてのことだった。

420年前から公式の歴史が語っていることは、本当のところは、違っているのではないか――2人ともマラリアに感染して死んだ、それも片方の死が前者の死から11時間後だった――それは沢山の文学を生み、伝説も各種あまたある。

今や科学的確証を得た。毒殺である。『British Medicale Journal』紙上に掲載された記事でそれは明らかにされている。その紙上著者達――法廷毒物学のフランチェスコ・マーリ、エリザベッタ・ベルトルそしてアルド・ポレッティーニ、薬物歴史学のドナテッラ・リッピ――は、大公夫妻の死の経緯を再構成している。その死が、メーディチ家フェルディナンド1世が権力の座に上り詰める道筋を切り開いたのである。

あらゆる角度からこの宮廷の暗部を検証してみると、このいきさつの中には1人の容疑者、2人の犠牲者、そして当然ながらその犯行動機が見えるのである。

最初の妻ジョヴァンナ・ダウストリアからは大公フランチェスコ1世は嫡男の男の子を授からなかった。唯一の小公子ドン・フィリピーノは5歳にもならない内に亡くなった。本当の所、男の子は存在していた。アントーニオという名で、若い時からよく知られていたヴェネツィア貴族のビアンカ・カッペッロとの間に、誕生していたのである。

1578年ジョヴァンナ・ダウストリアが亡くなると、フランチェスコはビアンカとの関係を《正式にする》ことに決めたのである。彼女は直ぐに新大公夫人となり、息子はドン・アントーニオとして公式に《認知され》、唯一正式の後継者(嫡男)となった。

しかしこうした事全てが、フェルディナンドには不快極まりなかった。権力というものが、彼の手から遠ざかっていくことが恐怖であったのである。そこから自分とメーディチの王冠との間に横たわる、あらゆる障害物を《排除しよう》という決意が生まれた。

毒薬を盛ったのだが、多分誰もそれに気付かず、大公夫妻は病に倒れ、11日後亡くなった。《事件の隠蔽》工作は施されたが、色々の疑惑がフェルディナンドに集中した。

フランチェスコ1世の遺体はフィレンツェに運ばれ、懇篤に葬られた。一方、大公夫人の遺体は未だに明確でない場所に埋葬された。しかし彼等の内臓は検死後、ヴィッラ・メーディチ近くのボニスタッロの小さな教会に埋葬された。

そしてドナテッラ・リッピが2005年5月に発掘に行くまで、それはそこにあった。彼女は自然な有機物の外観を持つ、その証拠物件を発見したのである。事はかくの如くであった。

というよりむしろ、粉々になった、その乾き切った濃密な三つの物質は、正に致命傷になるに充分の砒素の染み込んだ人間の生物的証拠物件であることを示していた。

それだけではなかった。三つの証拠資料――人間の肝臓の分子構造と互換性のある分子構造を持っていた――は、男と女という二つの異なった個人の物であることを示していた。男から採取された DNA は、フランチェスコ1世の顎髭の皮膚に付いていた髭の断片から、その特定された物と酷似していた。

それは《ディエチ・プロジェクト》の期間中、フィレンツェのメーディチの礼拝堂での古病理学調査で、2年前採取されていた物だった。

それ故科学者達は、ボニスタッロで見付かった証拠資料は、事実フランチェスコ1世の臓器の一部がここにもたらされたのであると仮説したのでる。フランチェスコとビアンカの内臓はボニスタッロに一緒に埋葬されたのであり、女のサンプルは同様に砒素が高い数値を示していることから、論理的推測は、大公夫人の遺物であったということである。即ち彼女もまた夫と共に毒殺されたということである。」

フィレンツェ大学薬物歴史学教授ドナテッラ・リッピへのインタヴュー
「●どういう手法を使用しましたか
《文学的源泉は数多く、何年もよく知られていることでした。それを全て証明しました。特別な事を推理しました、それは証拠能力が高いと思われたのです。即ち死とその検死の後、2人の臓器がボニスタッロのサンタ・マリーア教会のクリプタに埋葬されていたということでした。その事は1500年代末史料で確定出来ました。私には探偵の才があったようです。》
●結果は?
《山のような屑資料を引っ張り出し、何度も何度もふるいに掛けました。二つの小さな金属の十字架が残りました。それは、その出所は正しい、という確信でした。しかし私にとって興味深かったのは臓器が残っていたということでした。》
●見付けたのですか?
《勿論です。三つの小さな断片です。一番大きなのはハシバミの実の大きさでした。ジャン・ガストーネのクリプタで見付かったそれは、私には全部同じように見えました(2004年の再発掘期間中のこと、ndr(編集者注))。その時私は直感しました。成功した調査活動が私に合理性を与えてくれたのです。》」
  ――『Il Giornale』(2006.12.24)から。
ビアンカ・カッペッロの館ビアンカ・カッペッロの館ビアンカ・カッペッロの館 フェルディナンド像左3点は、マッジョ通りの、夫の弟に毒殺されたビアンカ・カッペッロが住んでいた館、右の銅像は、至聖アンヌンツィアータ広場の、兄大公夫婦を毒殺してフィレンツェ大公に成り上がった、フィレンツェを睥睨するフェルディナンドの像。

ビアンカ・カッペッロの館のあるマッジョ通りに行くサンタ・トリーニタ(S.Tri`nita――伊語として成熟する前のラテン語風のスペル)橋を、日本の翻訳ガイドはサンタ・トリニタ(S.Trinita`――三位一体)橋と、またヴァザーリの回廊脇にある聖女フェリーチタ(S.Feli`cita)の教会サンタ・フェリーチタをサンタ・フェリチタ教会(S.Felicita`――幸福)と改変しています。このブログでこうした誤りや誤訳を出来るだけ冒さないようにとは思っているのですが……。

追記: 2010年に更なる発見があったようです。次のサイトを検索して見て下さい。
Malaria was the killerトリーノの医学者の調査で、フランチェスコの遺体からマラリアの致死因子が検出され、結果的に毒殺説が否定されています。
  1. 2011/07/09(土) 00:03:04|
  2. ヴェネツィアの墓
  3. | コメント:2

ヴェネツィアでの墓参

11月1日は諸聖人の祝日(I Santi)、11月2日は故人の日(I Morti)で、11月は云わば日本のお盆のような墓参りの月です。そんなこともあってヴェネツィアに行ってきました。

この4月、マリーノ氏が亡くなったと夫人のMさんがメールを呉れました。直ぐには行けなくて、今月になってしまいました。糖尿病の薬が原因で半身不随になったマリーノさんの介護に、彼女が何年も奮闘していた姿はヴェネツィアに行くたびに目にしました。頭が下がる思いでした。

彼はサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教区に生まれたのですが、現在は住んでいたリード島のサン・ニコロ教会脇の墓地に眠っていました(ユダヤ人墓地が隣接しているそうです)。ご冥福を祈ります。

何度か日本にまで電話を呉れたパーオラさん! 彼女はメーストレ(Mestre)の奥のスピネーア(Spinea)に住んでいましたが、昨年亡くなってしまいました。一人息子のジャーコモさんが手紙を呉れたのですが、今回初めて電話連絡が出来、彼女の墓に案内して貰うことが出来ました。ヴェーネトのミラーノ(Mirano――有名なMilanoではありません)近くのキリニャーゴ(Chirignago)の教会裏の墓地で、御亭主と長男と一緒に眠っていました。ご冥福を祈りました。

肝臓を悪くし、足にチアノーゼ反応も出て歩行も困難になり、冬には日本のホカロンで足を暖めてくれるように何度か送りましたが、肝臓は益々悪化し、死に繋がったようです。

'77年、消防士をしていた彼女の夫と長男が消火の終わった船の船倉に点検に入ったところ、船が突如爆発して2人一緒に亡くし、以後次男を一人育ててきたのです。パーオラさんの事を思うと涙してしまいます。

お二人の墓参りの後、ヴェネツィアのサン・ミケーレ島にも墓参に行ってきました。以前にも触れたことがありますが、日本人の墓があると聞いていたからです。島の最南端の第2チェレーザのー角に緒方惟直の墓はありました。墓守の人の案内で辿り着けました。

『ヴェネツィアと日本』(石井元章著、ブリュッケ社、1999年10月23日刊)によりますと、1873年ヨーロッパで初めてヴェネツィアに日本語学校が出来、6人の先生が赴任し、第2代の教師として緒方洪庵の10子、緒方惟直が赴任し、当地で結婚し、エウジェーニアという娘も生まれたそうです。しかし25歳の若さ(1853~78)で亡くなってしまいます。墓を見ているとジーンとしてきます。
緒方惟直の墓 『ヴェネツィアと日本』この本によりますと、先生方とは吉田要作(1873~76)、緒方惟直(1876~78)、川村清雄(1878~81)、長沼守敬(1881~87)、伊藤平蔵(1887~88)、[中断: 1888~1908]、寺崎武男(1908~09)の6人で、日本語学校はその中断期を含め、1909年まで37年間存続したそうです。この学校が現在のヴェネツィア大学の日本語学科に繋がってきたのでしょう。墓碑銘の《緒方維直、1855~1878》との誤記は明治期の混乱を思わせます。

米欧回覧の使節団長の岩倉具視がヴェネツィアの東洋学者グリエルモ・ベルシェの案内で、フラーリの古文書館で天正遣欧使節や支倉常長(彼はヴェネツィアに実際には行かなかったようです)のもたらした挨拶状を発見したこと等、マルコ・ポーロの昔から、日本とこの町との不思議な因縁を感じます。

JI さん、《サン・ミケーレ島》へのコメント、有難うございました。

追記=2010.08.29日にパウンド(2)とサン・ミケーレ島でサン・ミケーレ島についてもう少し詳しく調べてみました。 
  1. 2008/11/29(土) 01:06:50|
  2. ヴェネツィアの墓
  3. | コメント:4

Isola di S.Michele(サン・ミケーレ島)(I)

イタリアでは、11月1日は諸聖人の祝日(i Santi)、2日は故人の日(i Morti)で、日本のお盆のようにこの日を中心に墓参をします。その数日後、語学学校が休みの日曜日に、サン・ミケーレ島に詣でてみました。

北のラグーナ沿いのヌオーヴェ海岸通り(Fondamente Nove)のヴァポレットの停留所近辺では、この時期だけなのか(?)、日曜日も花屋さんが開店していました。サン・ミケーレ島にも花屋さんがあると聞いたので、手ぶらで乗船すると菊の花などを抱えた人達をちらりほらりと見掛けます。

次のサン・ミケーレ島の停留所で降りると、桟橋から墓場入口まではアックァ・アルタ(acqua alta、高潮)でかなりの深さに冠水しており、通れるように板が渡してありました。11月、12月は毎年アックァ・アルタでかなり水位が上昇するのです。

この墓島は、昔はヴェネツィア本島のあちこちに散らばっていた墓を、ナポレオンの命令で一箇所に集めることになり、この島とサン・クリストーフォロ(S.Cristoforo)島との間を埋め立て、一つにして1827年に誕生したようです。
サン・ミケーレ島墓地島の花屋さんで、根元を水入りの壜に漬けた真っ赤な薔薇2輪を買いました。音楽好きの私は、1本はストラヴィーンスキー、もう1本はディアギレフのためにです。ディアギレフはヴェネツィアに住み、バレエのプランを練り、パリ等でバレエ・リュッスの公演を行いました。そうしたバレエのために、彼はストラヴィーンスキーに作曲を依頼したのです。

ディアギレフはヴェネツィアで、恋人の男性ダンサー達に見守られながら亡くなり、この島のロシア正教徒が眠る一画に葬られました。

ストラヴィーンスキーがニューヨークで亡くなった時、自分を引き立て、世に送り出してくれた恩人ディアギレフの傍で眠りたいとの遺言があったらしく、遺体はヴェネツィアに運ばれ、ヴェネツィアで大変な葬儀が行われたことが、H.C.Robbins Landon、J.J.Norwich『Venezia--Cinque secoli di musica』(Rizzoli、1991) という本に書かれていました。

ストラヴィーンスキーの墓は案内の立札があり、それに教えられた区画で探すと、最奥に背の高い目を引く墓標があり、それがディアギレフのものでした。誰が捧げたのか、古ぼけたトウシューズが片方だけ置いてあり、持ってきた薔薇を捧げ、合掌しました。

右の少し離れた所に、ストラヴィーンスキーの真っ白の綺麗な平板石の墓が見つかりました。いつも誰かが掃除をして磨いている様子で、塵一つ落ちていません。妻のベラの墓が寄り添うように、同じく真っ白で並んでいます。薔薇を2輪しか用意しなかったのが悔まれました。

アメリカの詩人エズラ・パウンドもこの地で亡くなり、ここに葬られていると聞いていたので、別の区画を探しに行きました。結局発見出来なかったのですが、回っている最中、真新しい花やビニールに包んだ本などが置かれた墓が目に入りました。墓石には Joseph Brodsky と名前が刻まれており、生没年が、1940.5.24~1996.1.28となっています。

没年月日を見た時、ヨシフ・ブロツキーはヴェネツィアに居て、偶々フェニーチェ劇場の炎上した前日に亡くなったと思ったのですが、後で彼の『ヴェネツィア・水の迷宮の夢』(金関寿夫訳、集英社、1996)を読んでみると、ニューヨークで亡くなっています。

旧ソ連から亡命した(1972)ノーベル賞(1987)作家は死ぬ年まで、毎年ヴェネツィアを訪れた筈です。親類縁者の僅少の外国の地で亡くなった詩人をゆっくり眠らせるには、彼の愛したヴェネツィアにベッドを作って上げるのがいいと回りの誰かが画策でもしたのでしょうか、あるいはストラヴィーンスキーのように遺言が残されたのでしょうか(あと何本か薔薇を買ってくればよかった !)。
『ヴェネツィア』私の愛読書、この『ヴェネツィア・水の迷宮の夢』の原題は英語で『Watermark』、仏語版は『Acqua alta』、独語版は『Ufer der Verlorenen』、伊語版は『Fondamenta degli incurabili』だそうです。

明治時代、米欧を回覧した岩倉具視の一行がイタリア最後の訪問地ヴェネツィアに到着したのは、1873年のこと。イタリアで彼の一行に付き添った第3代駐日イタリア公使アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵と岩倉との話で、ヴェネツィアにヨーロッパ初の日本語を教える講座が開設されます(授業は仏語で行われたのだそうです)。

1909年(講座閉鎖)まで6人の日本人が先生として渡欧し、その内2代目教師緒方惟直は蘭学者緒方洪庵の第十子で、ヴェネツィアで亡くなり、ここに墓があるそうです。

私はまだ発見出来ずにいるのですが、入口の事務所で訊けば教えてくれると仄聞したので、次回のヴェネツィア行の時には、是非とも探してみようと思っています。

追記=サン・ミケーレ島については、2010.08.14日に文学に表れたヴェネツィア――パウンド(2)とサン・ミケーレ島で少し書き足しました。2008.11.29日の墓参と2009.11.07日のブロツキー(1)でも触れています。
  1. 2007/11/14(水) 00:07:58|
  2. ヴェネツィアの墓
  3. | コメント:4

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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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