イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ザネッタ・ファルージ(Zanetta Farusi)(1)

カルロ・ゴルドーニの『回想録』にも書かれた、ジャーコモ・カザノーヴァの母、ザネッタの事に興味が湧き、PCのイタリア百科事典(Treccani)を見ていたら、その項目がありました。2009.10.17日のカルロ・ゴルドーニや2011.04.16日のヘルマン・ケステンで少し触れました。あの時代、彼女の息子を含めヨーロッパを駈けずり回ったイタリアの自由人の生きざまが興味深いです。

「Farusi(Farussi)、Zanetta(Giovanna Maria―通称ザネッタ)――靴職人ジローラモと妻マルツィアの一人娘で、1708年の夏(Rasiによると1709年)、ヴェネツィアのブラーノ島に生まれた。ジャーコモ・カザノーヴァの回想録(p.27)の注記に従えば、16歳でその美しさは完璧だったとし、俳優、ヴァイオリン奏者、ダンサーであったガエターノ・カザノーヴァに出会った。彼は平凡な喜劇役者で、家を飛び出してある女優との乱れた関係の後、1724年ある特徴もない喜劇団とヴェネツィアにやって来て、サン・サムエーレ劇場で演じていた。

両親が言う“目付きが忌々しいコメディアン”(回想録1巻p.28)との結婚の同意を得ることに失望して、ファルッスィは自分を連れ出させ(駆け落ちし)、1724年7月、この俳優と結婚した。

父ジローラモの死で胸も張り裂けそうな思いをした後、多分1725年母マルツィアは娘が舞台には立たないという約束――カザノーヴァが注記しているように一般人と結婚した全ての役者は保証はするが守られたことのない約束――を得て、娘夫婦を許すことにした。1726年長男ジャーコモ誕生から1年後、彼女はロンドンと契約を結んだ夫に付いて行き、そこで親との約束はご破算になり、息子を母に預けて芝居を開始し、満足のいく成功を収めた。

1727年の夫婦の移動は不安定で、2番目の息子フランチェスコの誕生地についてある解説者はリスボンと言い、他の人はロンドンと言っている。

1728年はヴェネツィアにおり、ここでガエターノはサン・サムエーレ座の劇団員に新しく雇われた。彼女の舞台活動についての証言は見つからないが、カザノーヴァの回想録の一節が指摘しているように、ブラネッラの愛称を使って彼女は演じ続けた(回想録1巻p.29)。《1728年の暮れ頃、母は夫とヴェネツィアに戻り、喜劇女優となり、演じ続けた。》

1728~32年、3人の子供をもうけた。ジョヴァンニ・アルヴィーゼ(1728~98)、幼くして死んだ娘、マリーア・マッダレーナ・アウグスタ[或いはアントーニア(1732~1800)]である。1733年、後に生まれた息子は恐らく異父の子であるが、その名前は知られていない。

1733年12月夫の死で、彼女はジュゼッペ・イメール一座にザネッタ・カザノーヴァの名前で一番手の恋人役で入団した。カルロ・ゴルドーニはその年彼女を知り、“非常に可憐で有能な未亡人”と彼女を表現した。生き生きとした、センス抜群の、朗々たる演技力ある女優だった。

作曲家G・マッカーリとの共作があると書かれており、1734年12月『Belisario(ベリザーリオ―東ローマ帝国の将軍ベリサリウス)』でサン・サムエーレ座に登場した。瞳ちゃん役(pupilla―最愛の者)で大成功だった。イメール座の主たる役者達“3人の内、誰も音楽というものを知らなかった。ザネッタさえ音程はいい加減だったが、3人ともその生き生きした演技で観客に愛された”(Ortolani(オルトラーニ)、p.1225).

同じ人々が、イメール座のために書いたゴルドーニの“インテルメッゾ”を演じた。1735年のカーニヴァルの終り頃には大成功の出し物となった。それは『la Birba(ビルバ―ならず者)』だったが、一緒に演じられた悲劇『Rosmunda(ロズムンダ)』はそうはいかなかった。多分イメール座とうまくいかなかった事と、その公演が大変な収入になった事が彼女をヴェネツィアから去らせることになった。
ロズムンダ[サイトから借用。ランゴバルトの王アルボイーノは妻の王妃ロズムンダに殺される]  ゴルドーニの悲嘆は大きなものがあった。それは彼女の出発がある種、女優の喪失と思われたし、幕間劇(インテルメッゾ)は観客にとって舞踊と対比で考えられたからである。《……私にとって、ザネッタ・カザノーヴァの出立は大変関心を引くことであったし、彼女は喜劇の出し物の中で、2番手の女役以上に幕間劇中、考えられる空白を埋める存在だった》(ゴルドーニ『回想録』デル・ベッカーロ編、ミラーノ1965、p.171).

それはファルッスィが歌手としての才能はないものの、音楽劇の、特に演者として留まったという仮説をすれば、興味深い。 」 (2に続く)
  1. 2017/11/16(木) 00:24:24|
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ヴェネツィアの女性: ペギー・グッゲンハイム(4)

(続き)
「戦争が終わるとヨーロッパに戻った。そしてヴェネツィアに対する恋情が弾けた。今や夥しい量となったコレクションを置くに相応しい場所を探し、ヴェニエール・デイ・レオーニ館に展示するにも居住するにも値する地を見出したのだった。
ヴェニエール・デイ・レオーニ館建物は大運河に面して、アッカデーミア橋を越えてサン・マルコ湾の方へ向かうと直ぐ分かった。樹木の戦ぐサン・ヴィーオ広場とサルーテ教会の間、道半ばの位置、右岸でイストラ半島石で装われた白亜の建物である。

明らかに未完成の建造物である。多分資金不足を来たし、ある威厳さは備えているものの、1階部分しか建てられなかった。1700年代半ば頃、ボスケッティによるプロジェクトだった。コッレール博物館に木のモデルが保管されている。

ヴェネツィアにはヴェニエールの建物は色々ある。というのはこの裕福で令名の高い一家の分家は夥しいからである。3人の総督を生んだのである[アントーニオ・V.(1382~1400)、フランチェスコ・V.(1554~56)、セバスティアーノ・V.(1577~78)]。かつてちょっと離れた場所、サン・ヴィーオに別のヴェニエール館が建っていた。大運河のヴェニエール・ドッレ・トッレゼッレ(ヴェ語Toresele)館である。そこは広い庭がジュデッカ運河に届きそうなほど、広大な敷地であった。

1297年の大評議会の“セッラータ”によって貴族に参入した一家は、湿地を干拓し、澱んだ水をサンタニェーゼ(現在ここは陸地化)やサン・ヴィーオ運河に流し込み、今日Piscina Venier(ピッシーナ・ヴェニエール) と呼ばれる通りを造成した。この館は1800年代初頭、崩れ落ち、跡地は今日庭園となっている。
[ピッシーナ(piscina)とはヴェ語でpissina。運河等を埋め立てた広い道を指し、当時は泥濘んだ道だったのでしょうか。2010.02.27日にヴェニエール・デイ・レオーニ館について触れています。]

ペギーの事に戻ろう。彼女は戦後1946年の短い期間ヴェネツィアにいた。ここで彼女は2人の大画家ジュゼッペ・サントマーゾとエミーリオ・ヴェードヴァと知り合った。しかし1948年ヴェネツィア・ビエンナーレでコレクションを展示するために、自由にパビリオンを提供された(それはギリシア館だった)時、彼女のヴェネツィアに対するシンパシーが、大いなる愛に変貌したのだった。

こうしてヴェニエール・デイ・レオーニ館を獲得し、永続的にそこに移住し、コレクションを移し、そこで議論の余地のない、芸術の至高性を統治することになるのである。ここに30年留まった。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィアの女達』そして人が子犬の散歩で歩き回るように、彼女の内心を満たすのは、魅了して止まないcalli であり、campielli なのであった。そして1979年12月の曇った日、サン・ピエーロ広場(カステッロ)の病院に行こうと出掛けたのだった。
今、彼女の遺灰はペギー所有のヴェニエール・デイ・レオーニ館の庭に眠っている。」

[彼女は愛犬達とお気に入りの道や広場を散歩するのが好きだったそうです。今は彼女の愛した犬達と共に館の庭の一画で永遠の眠りに就いています。享年81歳。1898.08.26ニューヨーク~1979.12.23カンポサンピエーロ]
  1. 2017/09/28(木) 00:22:26|
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ヴェネツィアの女性: ペギー・グッゲンハイム(3)

(続き)
「父方の祖父マイヤー・グッゲンハイムは原産地からの織物の輸入業を始めようと、1848年7人の息子達とスイスからアメリカへやって来ていた。しかし銀、銅の採掘と、その冶金の業界で財を成していた。セリグマン家はアメリカで最も重要な金融業者だった。両家とも金の稼ぎ方はもとより、それをどこでどのように使うかも熟知した人達だった。

マイヤーの息子の一人マレーはペギーの伯父でもあるが、ニューヨークの貧しい人達のために歯科診療所を設立した。別の伯父ダニエルは、科学芸術活動促進のためにグッゲンハイム基金を設立した。一方ソロモンは自分の名前と同名の財団を持つ博物館を設立し、また別の兄弟シモンは、芸術文化振興を促進し、価値あるものにするためにグッゲンハイム・メモリアル基金を息子のジョン・シモンの思い出のために設立した。

ペギーの父ベンジャミンはあまり芸術文化には向いていなかったが、彼の死は大変高貴で、高潔な行為であり、隣人愛の範を垂れるものであった。1912年4月15日タイタニック号の沈没で死んだのだった。英雄的な最期だったと伝えられる。というのは紳士として自己犠牲を示し、ある夫人に救助艇の自分の席を譲ったのだった。そして最後まで自分の義務を尽くしたと妻への伝言を頼んだ。

この悲劇が届いた時、ペギーは20歳前だった。遺産は相当なものだったが、伯父達の計り知れない規模の財産ではなかった。だから彼女は働くことを決め、ある図書館に勤め、芸術家達と付き合った。

しかし生まれながらの持参金は、譬え教育と経験によって形作られ、強化されたにしても、あるレベルには届かなかった。図書館で彼女は美術畑の人達を知り始め、美術作品制作の生きた実際を直ぐ傍らで見るようになっていた。

1920年、22歳の時、ヨーロッパに向けて乗船した。目指す先はパリである。彼女が呼吸しているのは美術界であるのは明白だが、伝説的なパリの芸術家コミュニティの魅力は、彼女を魅了して止まなかったのである。パリでは働く必要はなかった。結局厳密な意味においても必要という観念をニューヨークでも持たなかったのである。
ペギー画像[マン・レイの撮ったペギー] 彼女は多くの芸術家達のど真ん中で、熱狂的に、自由奔放に若さを生きた。その中で有名になったのである。偉大なるマン・レイの著名な写真は、コンスタンティン・ブランクーシとマルセル・ドュシャンと共に彼女を表現している。しかし[ジェーノヴァ湾に面した]ラパッロで出会った詩人エズラ・パウンド以外、彼女の友人達はノヴェチェントの芸術家[アーティスト]なのである。

1938年には到頭ロンドンのコーク街へ行き、画廊を開いた。1月の最初の展覧会はジャン・コクトーのデッサンであった。更にヴァシーリイ・カンディーンスキイのイギリスでの最初の展覧会、それとイヴ・タンギーの展覧会があった。
マックス・エルンスト[マックス・エルンスト『花嫁の着衣式』] 第二次世界大戦は彼女をニューヨークに連れ戻し、コレクションを戦禍から救った。そしてニューヨークでも“Arts of This Century”という画廊を開いた。そしてその間も彼女のコレクションは増えていった。即ち、ピカソ、マックス・エルンスト(1942年に結婚した)、マグリット、サルヴァドール・ダリ、クレー、シャガール、ムーア、カルダー、ジャコメッティである。

そしてジャクソン・ポロックを見付け出した。彼はペギーに24時間態勢(夜も昼も)で雇われる前に、ニューヨークで伯父ソロモンの博物館の大工として雇われていたのだった。」 (4に続く)
  1. 2017/09/21(木) 00:03:37|
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ヴェネツィアの女性: ペギー・グッゲンハイム(2)

(続き)
「……タンクレーディ・パルメッジャーニ(画家としては簡単にタンクレーディと通称)は偉大な画家だった。19世紀芸術の革新的欲求にひどく敏感に反応し、心の情動、愛、苦しみにも深く突き動かされた。1964年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した。それはいくつかの成功の後に到達した目標地点だった。

そしてタンクレーディは、1964年9月27日、テーヴェレ川に身を投げた。彼はこの時期、ペギーと同棲していた。しかしその同じ時期、画家ローレンス・ヴェイルとの初婚で生まれた長女ペギーンも女流画家となり、ヴェネツィアに住んでいた。若い二人の間に恋愛関係があったと“言われている”(ペギーに関わる事で、何度“と言われている”と言われることか!)
ペギーン・ヴェイルヴァイル[左、ペギーの長女ペギーン・ヴェイル、サイトから借用。右、ペギーン・ヴェイル画『大運河で』]  多分これは多くの事、タンクレーディの自殺や3年後のペギーンの早過ぎた死、等を説明するやも知れぬ。彼女の死にも自殺という重しが大きく圧し掛かっているからである。《愛と死という血の繋がった兄弟は、運命的に未来を左右するだろう》とレオパルディは書いた。このケースの場合のように、時にそれは真実である。

しかしここではロマンティックな要素など何も見出すことが出来ないのである。勿論ペギー・グッゲンハイムの偉大さは“恋”の冒険の中にある訳ではない。そんな事、考えないで頂きたい! この世では、何よりも恐ろしいライバル達に出会うだろう。それは何も美術界だけではない。

しかし芸術的な素質については特別に注意して、常に愛人を選ぶという事を知る必要がある。本当のところ彼女の付き合う男達の大部分は、最初の夫ローレンス・ヴェイルから2番目の夫マックス・エルンスト(もう一人の自殺者であった)まで、概ね彼女の多くの愛人は芸術家であったが、それは大芸術家であったのだ。

ポロックから……と手当たり次第に名前を連ねることは出来るかも知れないが、目撃者はいない。更に彼女の友達の画家達何人が、真に彼女と共にベッドまで辿り着いたのか我々は知らないのである。何人かの人の言葉に、賄賂のように甘く擽るような言葉があるかも知れないのだが。

ある人が言っている、ペギーは絵の収集家というより、画家の収集家だった、と。そして他の人も安易に告発的言質を投げ掛けている。ペギーのような大マネージャーの手に掛かれば、ジョットのような人間でも最終的にはヘボ絵描きとなるのだった。

そして多分芸術上のあらゆる規範を壊し、それぞれに評価を認めたノヴェチェント(20世紀)芸術のように、1世紀も経てば、ペギー・グッゲンハイムのようなある権威の側から市場に投げ掛けるものは、それ自体、高評価の証明書であり、自ずと正統化の証しとなった。しかし彼女の認定は、正しいお手本というよりは、正確で根拠のある、非常に信頼に足るものであった。

そして彼女の独創性、彼女の素晴らしい直感についてであるが、彼女は自分の愛を、それは多分唯一のものであり、勿論の事、慎ましいハニカミ屋にして、節操のある“愛”をヴェネツィアに贈ったのである。確かに多くの観点から言って、それは彼女の生来の独創性に溢れたものであった。

この点において、ペギーはグッゲンハイム家の血筋の中でも、母セリグマンの側にとっても栄えある子孫であったし、1世代という時を経た今、極貧から絢爛たる富裕まで体験した二つの家は、ペギーの言葉に従えば、正にアメリカ叙事詩の中で、移り変わるエピソードを正確に定義したのだった。芸術や文化への愛、芸術愛護の素質は一家全員が身に帯びたものだった。 ……」 (3に続く)
  1. 2017/09/14(木) 00:05:25|
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ヴェネツィアの女: ペギー・グッゲンハイム(1)

今までも何度か引用させて頂いている、ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女 愛とその意義――カテリーナ・コルナーロからペギー・グッゲンハイムまで』(Corbo e Fiore Editori、2005.10)で、最後に登場する女性ペギー・グッゲンハイムという、ペギー・グッゲンハイム・コレクションを立ち上げた女性について。

グッゲンハイムという発音はドイツ語式でしょうか、ヴェネツィア人はグッゲナイムと"H"を発音しません。初めてこのコレクションに向かった時、途中土地の人に《グッゲンハイム・コレクションへはこの道でいいですか?》と尋ねると、ちょっと不審そうに間を置いて《お前の言うのは、グッゲナイム・コレツィオーニのことか。だとすれば、この道で Va bene.》と。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』ペギー[写真はサイトから借用]  「ペギー・グッゲンハイムはヴェネツィア女だろうか? その名前から判断すれば、そうだとは全く思われない。 しかも誕生の地だってそうではない。だがしかし"Sìー"、ヴェネツィア女性なのである。1898年8月26日、ニューヨーク生まれは明確そのもの。喋る調子、生き方は全くアメリカ的である。

しかし彼女には何かがある。ヴェネツィア女達について語るこのお話の中で、ヴェネツィア女として彼女を語ることは可能である。ヴェネツィア女ペギー・グッゲンハイムは1962年2月6日、名誉あるヴェネツィア市民権を与えられたというお役所的な理由からだけでなく、更にはより情動的動機からもヴェネツィア人なのである。

ペギー・グッゲンハイムはかつて書いたことがある。即ち《ヴェネツィアは正に我が大いなる"愛"である。この世でヴェネツィア以外、他のいかなる地であれ、私はそこで幸せであり得るべからざるのである。この地に常住したいのだ。》 だから"愛のヴェネツィア女"、我々は彼女をこうも呼べるだろう。

それはあらゆる意味での愛なのだ。それは町にとっても、ある幸運な住民にとっても、更に彼女の比類なき美術のコレクションを鑑賞しようとヴェネツィアを目指し世界各地から訪れる我らが区々の友人達にとっても、である。

ペギーは単なる美術品の大収集家だったのではなく、経営的な意味においても特別な才能も持ち合わせ、愛に焦がれる情熱家だった。私は思い出す: 私の女友達や彼女のアメリカの女友達が私に語った、彼女に対する誹謗中傷のことを。 : もし本当だとすれば、いかにもありそうに思えることは確かである。

欣喜雀躍して1000番目の恋が彼女の人生にやって来たある時期、私の女友達が解説するように、憧憬の余り狂い死にしそうだと妹に直ぐ様電話したらしい。多分彼女には羨望の思いもあったのだろう。ペギーは自分から愛することも出来たし、自分を愛させることも出来た。自らを抑制して、しっかりした、ある種の共感というものを輝かせることも出来た。

しかし時に愛は悩み苦しみを与える。タンクレーディ・パルメッジャーニ(芸術家としては単にタンクレーディ)は偉大な画家だった。19世紀芸術の革新的欲求にひどく敏感に反応し、心の情動、愛、苦しみにも深く突き動かされた。1964年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した。それはいくつかの成功の後に到達した目標地点だった。そして…… 」 (2に続く)
ヴェネツィアが燃えた日今まで何度か紹介したジョン・ベレント著『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(高見浩訳、光文社、2010年4月25日)が、ペギーについて詳しく触れています。
  1. 2017/09/07(木) 00:05:36|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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