イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの女性: ペギー・グッゲンハイム(3)

(続き)
「父方の祖父マイヤー・グッゲンハイムは原産地からの織物の輸入業を始めようと、1848年7人の息子達とスイスからアメリカへやって来ていた。しかし銀、銅の採掘と、その冶金の業界で財を成していた。セリグマン家はアメリカで最も重要な金融業者だった。両家とも金の稼ぎ方はもとより、それをどこでどのように使うかも熟知した人達だった。

マイヤーの息子の一人マレーはペギーの伯父でもあるが、ニューヨークの貧しい人達のために歯科診療所を設立した。別の伯父ダニエルは、科学芸術活動促進のためにグッゲンハイム基金を設立した。一方ソロモンは自分の名前と同名の財団を持つ博物館を設立し、また別の兄弟シモンは、芸術文化振興を促進し、価値あるものにするためにグッゲンハイム・メモリアル基金を息子のジョン・シモンの思い出のために設立した。

ペギーの父ベンジャミンはあまり芸術文化には向いていなかったが、彼の死は大変高貴で、高潔な行為であり、隣人愛の範を垂れるものであった。1912年4月15日タイタニック号の沈没で死んだのだった。英雄的な最期だったと伝えられる。というのは紳士として自己犠牲を示し、ある夫人に救助艇の自分の席を譲ったのだった。そして最後まで自分の義務を尽くしたと妻への伝言を頼んだ。

この悲劇が届いた時、ペギーは20歳前だった。遺産は相当なものだったが、伯父達の計り知れない規模の財産ではなかった。だから彼女は働くことを決め、ある図書館に勤め、芸術家達と付き合った。

しかし生まれながらの持参金は、譬え教育と経験によって形作られ、強化されたにしても、あるレベルには届かなかった。図書館で彼女は美術畑の人達を知り始め、美術作品制作の生きた実際を直ぐ傍らで見るようになっていた。

1920年、22歳の時、ヨーロッパに向けて乗船した。目指す先はパリである。彼女が呼吸しているのは美術界であるのは明白だが、伝説的なパリの芸術家コミュニティの魅力は、彼女を魅了して止まなかったのである。パリでは働く必要はなかった。結局厳密な意味においても必要という観念をニューヨークでも持たなかったのである。
ペギー画像[マン・レイの撮ったペギー] 彼女は多くの芸術家達のど真ん中で、熱狂的に、自由奔放に若さを生きた。その中で有名になったのである。偉大なるマン・レイの著名な写真は、コンスタンティン・ブランクーシとマルセル・ドュシャンと共に彼女を表現している。しかし[ジェーノヴァ湾に面した]ラパッロで出会った詩人エズラ・パウンド以外、彼女の友人達はノヴェチェントの芸術家なのである。

1938年には到頭ロンドンのコーク街へ行き、画廊を開いた。1月の最初の展覧会はジャン・コクトーのデッサンであった。更にヴァシーリイ・カンディーンスキイのイギリスでの最初の展覧会、それとイヴ・タンギーの展覧会があった。
マックス・エルンスト[マックス・エルンスト『花嫁の着衣式』] 第二次世界大戦は彼女をニューヨークに連れ戻し、コレクションを戦禍から救った。そしてニューヨークでも“Arts of This Century”という画廊を開いた。そしてその間も彼女のコレクションは増えていった。即ち、ピカソ、マックス・エルンスト(1942年に結婚した)、マグリット、サルヴァドール・ダリ、クレー、シャガール、ムーア、カルダー、ジャコメッティである。

そしてジャクソン・ポロックを見付け出した。彼はペギーに24時間態勢(夜も昼も)で雇われる前に、ニューヨークで伯父ソロモンの博物館の大工として雇われていたのだった。」 (4に続く)
  1. 2017/09/21(木) 00:03:37|
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ヴェネツィアの女性: ペギー・グッゲンハイム(2)

(続き)
「……タンクレーディ・パルメッジャーニ(画家としては簡単にタンクレーディと通称)は偉大な画家だった。19世紀芸術の革新的欲求にひどく敏感に反応し、心の情動、愛、苦しみにも深く突き動かされた。1964年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した。それはいくつかの成功の後に到達した目標地点だった。

そしてタンクレーディは、1964年9月27日、テーヴェレ川に身を投げた。彼はこの時期、ペギーと同棲していた。しかしその同じ時期、画家ローレンス・ヴェイルとの初婚で生まれた長女ペギーンも女流画家となり、ヴェネツィアに住んでいた。若い二人の間に恋愛関係があったと“言われている”(ペギーに関わる事で、何度“と言われている”と言われることか!)
ペギーン・ヴェイルヴァイル[左、ペギーの長女ペギーン・ヴェイル、サイトから借用。右、ペギーン・ヴェイル画『大運河で』]  多分これは多くの事、タンクレーディの自殺や3年後のペギーンの早過ぎた死、等を説明するやも知れぬ。彼女の死にも自殺という重しが大きく圧し掛かっているからである。《愛と死という血の繋がった兄弟は、運命的に未来を左右するだろう》とレオパルディは書いた。このケースの場合のように、時にそれは真実である。

しかしここではロマンティックな要素など何も見出すことが出来ないのである。勿論ペギー・グッゲンハイムの偉大さは“恋”の冒険の中にある訳ではない。そんな事、考えないで頂きたい! この世では、何よりも恐ろしいライバル達に出会うだろう。それは何も美術界だけではない。

しかし芸術的な素質については特別に注意して、常に愛人を選ぶという事を知る必要がある。本当のところ彼女の付き合う男達の大部分は、最初の夫ローレンス・ヴェイルから2番目の夫マックス・エルンスト(もう一人の自殺者であった)まで、概ね彼女の多くの愛人は芸術家であったが、それは大芸術家であったのだ。

ポロックから……と手当たり次第に名前を連ねることは出来るかも知れないが、目撃者はいない。更に彼女の友達の画家達何人が、真に彼女と共にベッドまで辿り着いたのか我々は知らないのである。何人かの人の言葉に、賄賂のように甘く擽るような言葉があるかも知れないのだが。

ある人が言っている、ペギーは絵の収集家というより、画家の収集家だった、と。そして他の人も安易に告発的言質を投げ掛けている。ペギーのような大マネージャーの手に掛かれば、ジョットのような人間でも最終的にはヘボ絵描きとなるのだった。

そして多分芸術上のあらゆる規範を壊し、それぞれに評価を認めたノヴェチェント(20世紀)芸術のように、1世紀も経てば、ペギー・グッゲンハイムのようなある権威の側から市場に投げ掛けるものは、それ自体、高評価の証明書であり、自ずと正統化の証しとなった。しかし彼女の認定は、正しいお手本というよりは、正確で根拠のある、非常に信頼に足るものであった。

そして彼女の独創性、彼女の素晴らしい直感についてであるが、彼女は自分の愛を、それは多分唯一のものであり、勿論の事、慎ましいハニカミ屋にして、節操のある“愛”をヴェネツィアに贈ったのである。確かに多くの観点から言って、それは彼女の生来の独創性に溢れたものであった。

この点において、ペギーはグッゲンハイム家の血筋の中でも、母セリグマンの側にとっても栄えある子孫であったし、1世代という時を経た今、極貧から絢爛たる富裕まで体験した二つの家は、ペギーの言葉に従えば、正にアメリカ叙事詩の中で、移り変わるエピソードを正確に定義したのだった。芸術や文化への愛、芸術愛護の素質は一家全員が身に帯びたものだった。 ……」 (3に続く)
  1. 2017/09/14(木) 00:05:25|
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ヴェネツィアの女: ペギー・グッゲンハイム(1)

今までも何度か引用させて頂いている、ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女 愛とその意義――カテリーナ・コルナーロからペギー・グッゲンハイムまで』(Corbo e Fiore Editori、2005.10)で、最後に登場する女性ペギー・グッゲンハイムという、ペギー・グッゲンハイム・コレクションを立ち上げた女性について。

グッゲンハイムという発音はドイツ語式でしょうか、ヴェネツィア人はグッゲナイムと"H"を発音しません。初めてこのコレクションに向かった時、途中土地の人に《グッゲンハイム・コレクションへはこの道でいいですか?》と尋ねると、ちょっと不審そうに間を置いて《お前の言うのは、グッゲナイム・コレツィオーニのことか。だとすれば、この道で Va bene.》と。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』ペギー[写真はサイトから借用]  「ペギー・グッゲンハイムはヴェネツィア女だろうか? その名前から判断すれば、そうだとは全く思われない。 しかも誕生の地だってそうではない。だがしかし"Sìー"、ヴェネツィア女性なのである。1898年8月26日、ニューヨーク生まれは明確そのもの。喋る調子、生き方は全くアメリカ的である。

しかし彼女には何かがある。ヴェネツィア女達について語るこのお話の中で、ヴェネツィア女として彼女を語ることは可能である。ヴェネツィア女ペギー・グッゲンハイムは1962年2月6日、名誉あるヴェネツィア市民権を与えられたというお役所的な理由からだけでなく、更にはより情動的動機からもヴェネツィア人なのである。

ペギー・グッゲンハイムはかつて書いたことがある。即ち《ヴェネツィアは正に我が大いなる"愛"である。この世でヴェネツィア以外、他のいかなる地であれ、私はそこで幸せであり得るべからざるのである。この地に常住したいのだ。》 だから"愛のヴェネツィア女"、我々は彼女をこうも呼べるだろう。

それはあらゆる意味での愛なのだ。それは町にとっても、ある幸運な住民にとっても、更に彼女の比類なき美術のコレクションを鑑賞しようとヴェネツィアを目指し世界各地から訪れる我らが区々の友人達にとっても、である。

ペギーは単なる美術品の大収集家だったのではなく、経営的な意味においても特別な才能も持ち合わせ、愛に焦がれる情熱家だった。私は思い出す: 私の女友達や彼女のアメリカの女友達が私に語った、彼女に対する誹謗中傷のことを。 : もし本当だとすれば、いかにもありそうに思えることは確かである。

欣喜雀躍して1000番目の恋が彼女の人生にやって来たある時期、私の女友達が解説するように、憧憬の余り狂い死にしそうだと妹に直ぐ様電話したらしい。多分彼女には羨望の思いもあったのだろう。ペギーは自分から愛することも出来たし、自分を愛させることも出来た。自らを抑制して、しっかりした、ある種の共感というものを輝かせることも出来た。

しかし時に愛は悩み苦しみを与える。タンクレーディ・パルメッジャーニ(芸術家としては単にタンクレーディ)は偉大な画家だった。19世紀芸術の革新的欲求にひどく敏感に反応し、心の情動、愛、苦しみにも深く突き動かされた。1964年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した。それはいくつかの成功の後に到達した目標地点だった。そして…… 」 (2に続く)
ヴェネツィアが燃えた日今まで何度か紹介したジョン・ベレント著『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(高見浩訳、光文社、2010年4月25日)が、ペギーについて詳しく触れています。
  1. 2017/09/07(木) 00:05:36|
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マリーン・サヌード(Marin Sanudo――伊語Marino Sanuto)

前回も触れ、今までも何度か触れてきたマリーン・サヌードの生涯について、マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton Editori、2006.11)から紹介してみます。
『ヴェネツィア人物事典』「歴史記述史家、年代記作者(1466.05.22ヴェネツィア~1536.04.04ヴェネツィア)
サヌードの裕福な一家の最も重要な一員である。少なくとも11世紀からはヴェネツィア史の中では確定した一家であり、13~14世紀生きたマリーン・サヌード・トルセッロ(初代il vecchio)の子孫として区別するために、il giovane(ジュニア)と呼ばれた。

元老院議員であり、歴史記述史家であって、サンタ・クローチェ区に在住し、その建物は市民のための穀物が保管されていたのでそう呼ばれた、メージョ(Megio=伊語miglio、粟、穀類の意)運河通りに面していた。

1500年を挟んでヴェネツィア生活の優れた年代記作家として、ヴェネツィアの1496~1533年の政治、経済、軍事を始め、日々の事、個人的な事、風俗習慣に渡ってあらゆる出来事を微に入り細を穿って58巻の日記の形で書き留めた。この日記(驚異的な著名なヴェネツィア語で書かれており、出版は漸く20世紀になってからだった)は、ヴェネツィア史の研究者にとって無尽蔵のニュースの源泉であり、何世紀にも渡って、この現実の町の歴史のあらゆる瞬間に関する詳細なニュースを得ようとする時、この潟の街の歴史家達はこの日記に鋭意専心してきた。
[ヴェネツィア語とは――現在では方言と処理されますが、ウンベルト・エーコはバーカロの中で国語というものについて述べています。現在でもヴェネツィア語のコミュニティーがブラジルやメキシコに構築されているそうです。]

しかし作品の読み易さ、取り込まれたデータの豊富さと興味深さが、単純な読者をも熱中させ、その中に限りない、詳細な細部に至るまで見出させ、読者を巻き込み、薫陶していった。

サヌードは他の重要な文学作品の作者でもある。その中には『歴代総督伝』『De situ et magistratibus urbis Venetae』『ヴェーネト地方内陸部旅行記』、これらはヴェネツィア史にとっても重要な作品である。しかしサヌードは詩や劇作品においても教養豊かで洗練されており、確かに知名度はあまりないが、芸術的才能は際立ったものがあった。

彼の収集癖、文学に対する熱い思い、洗練された書き手といった性格は、彼を手稿本や印刷本の豊富な図書室を作り上げることに向かわせた。1530年頃には地勢図、都市図、地図類以外に約6500冊を数えた。こうした驚異的な図書室は、当時のインテリ達に大変評価されたが、残念なことに、《単に貧しいというよりも、年老いて、病身で、貧しい紳士》(1531年経済的援助を求めて、その時十人委員会に向けて彼自身がそう書いた)は、年に金貨150ドゥカートの終身年金を得たかもしれないのに、祖国の歴史的記憶の研究と追及に注いだ長い年月の間に背負い込んだ負債の清算のために全書籍を売らざるを得ない事態に立ち至り、その多くが露と消えたのだった。」

『ヴェーネト地方内陸部旅行記』は英国の古文書学者ロードン・ブラウンが1848年パードヴァで最初に本にしたそうですが、ブラウンはヴェネツィアに到来し、英国関係の古文書を調べる中で、サヌードを知り、もっと知られるべきだと周知活動等をしながら、ヴェネツィアで亡くなったようです。2009.12.05日のブログダーリオ館でブラウンについて触れました。

『Diarii di Marin Sanudo 1466-1536』は1879~1902年、ヴィゼンティーニによりヴェネツィアで本になったそうですが、監修者には次の名前が挙げられています。Rinaldo Fulin、Federico Stefani、Niccolò Barozzi、Guglielmo Berchet、Marco Allegri。この中のGuglielmo Berchet(グリエルモ・ベルシェ)という名前は、米欧回覧使節の岩倉使節団が1873年にヴェネツィアに到着し、東洋学者グリエルモ・ベルシェの案内で古文書館に行き、支倉常長や天正遣欧使節の日本文のヴェネツィアへの挨拶状を発見した、という話を思い出すのですが、その当人でしょうか? 岩倉使節団については、2010.10.16日の久米邦武をご参照下さい。
  1. 2017/08/24(木) 00:57:24|
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天正遣欧使節(10)

世界文化社の『家庭画報』2017年3月号に次のような特集記事が掲載されていました。即ち「誌上初、ヴァチカン教皇庁図書館の至宝を特別公開」として、特集《天正遣欧少年使節団の書簡》という大変貴重なものでした。
天正使節書簡天正遣欧少年使節については、私のブログでも2008.03.21~2013.11.27日天正遣欧使節》(1~9)と触れてきましたが、その内容とこの雑誌で書かれていることに齟齬があるようです。カトリック大辞典(冨山房)を始め、新異国叢書5の『デ・サンデ版 天正遣欧使節記』(泉井久之助、長沢信寿、三谷昇二、角南一郎訳、雄松堂書店、昭和44年9月30日)、ルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳注、東洋堂、1942-49年)、三浦哲郎著『少年讃歌』(文春文庫)、松田毅一著『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)等、少年使節の行路はリヴォルノに上陸、西海岸沿いにフィレンツェからローマへ、教皇に謁見し、突如の教皇逝去のためローマに2ヶ月滞在後、東海岸沿いにイタリア各地を経巡って、ヴェネツィアに至り、更にミラーノを経てジェーノヴァから船出し、スペインから帰国の途へ、というのが大まかな行程だったようです。

「……1582(天正10)年に長崎を出発し、1585年にフィレンツェに入った使節団は、各地を歴訪した後、ヴェネチアに到着。サン・マルコ広場で祝典行事が催されるなど大歓迎を受けたといいます。その後ローマにて教皇グレゴリウス13世との謁見を果たした彼らは、ヴェネチアに宛てて謝意を綴った書簡を送ります。日本語の原文と訳文、4名のサインも書き込まれた貴重な《感謝状》。現地で購入したと思われる洋紙に、筆と墨汁を用いて、滞在時のお礼と、彼らが見聞したことを日本で披露し布教を約束する内容が書き綴られています。……」とこの雑誌に書かれています。

雑誌の編集部の文章を逆に、2ヶ月のローマ滞在の感謝状をヴェネツィア滞在10日間に書き送ったとすると、時間的にも合致して来ます。ヴェネツィア政府に布教の約束をする必要は皆無です(教皇庁にはする必要があります)。ヴェネツィアに送られた感謝状がローマにある(その逆も)、ということは両市互いに殆どあり得ない事と思われるのです。誤訳があったのか、編集部の不勉強か、何かがあったとしか私には思えません。《ヴェネチア宛て…》ではなく、ヴェネツィアからローマへの礼状でしょう。

先日も読売新聞でヴェネツィアの観光客の数を「2004年―175万人、2014年―260万人」と書いていました。La Nuova紙によりますとヴェネツィアのベッド数は35000だそうで、ツイン(2人)が基本ですが、一人旅や延泊もあるので、平均365日の4分1、90日に90人が宿泊したと仮定して、ホテルで約300万人(多過ぎるか?)。その他未登録のアパートやB&B、ヴェネツィアに泊まれず、近隣のホテル等に宿泊した人々を含めて、船舶、バス・車、電車で到着する1日の観光客は宿泊数の何倍にもなるそうなので、2000万程度になるのでは、と言われているそうです。いずれにしても、鳥取県境港市が水木しげる効果で観光客が200万を越したと喜んでいた時私が訪れた時の人出とは比べものになりません。

事ほど左様に、人は間違いを引き起こすものであり、誤解・書き間違いはもとより、間違った文献を再び書き写すことも屡ですから(私のブログでも間違いを起こし、後でこっそり訂正しました)、私も心しなければ、と思う次第です。

それは例えば、2008.08.31日の私のブログパードヴァ大学で、パードヴァ大学の解剖教室の設計者を、有名な解剖学者のアンドレアス・ヴェサリウス(オランダ人)と書いたのですが、実際はアクアペンデンテのファブリキウス(伊名ジローラモ・ファブリーツィオ)が1594年に作った物であることを後に知り、赤面して書き改めました。

また他の例では、日本ウィキペディアの《支倉常長》の項で、彼はスペインから陸路でローマに行ったと書かれています。彼は地中海を海路でスペインからローマに行く途中、嵐に遭い、フランスのサン・トロペ港に避難し、仏国の土を踏んだ最初の日本人として、戦後発見されたサン・トロペ侯爵の書簡が翻訳され、明らかになりました。そして伊国のチヴィタヴェッキア港に上陸します。彼らが石巻の月ノ浦港を出発してから400年記念の年2015年、私はチヴィタヴェッキアに行き、彼の銅像やら彼らが辿った道筋が石に刻んであるのを視認しました。こういうオープンのウィキペディアの間違いをインプットされると、信じた人は悲劇です。
[チヴィタヴェッキアについては、2015.10.17日のチヴィタヴェッキア行をご覧下さい。]
  1. 2017/06/01(木) 00:09:41|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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