イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

天正遣欧使節(10)

世界文化社の『家庭画報』2017年3月号に次のような特集記事が掲載されていました。即ち「誌上初、ヴァチカン教皇庁図書館の至宝を特別公開」として、特集《天正遣欧少年使節団の書簡》という大変貴重なものでした。
天正使節書簡天正遣欧少年使節については、私のブログでも2008.03.21~2013.11.27日天正遣欧使節》(1~9)と触れてきましたが、その内容とこの雑誌で書かれていることに齟齬があるようです。カトリック大辞典(冨山房)を始め、新異国叢書5の『デ・サンデ版 天正遣欧使節記』(泉井久之助、長沢信寿、三谷昇二、角南一郎訳、雄松堂書店、昭和44年9月30日)、ルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳注、東洋堂、1942-49年)、三浦哲郎著『少年讃歌』(文春文庫)、松田毅一著『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)等、少年使節の行路はリヴォルノに上陸、西海岸沿いにフィレンツェからローマへ、教皇に謁見し、突如の教皇逝去のためローマに2ヶ月滞在後、東海岸沿いにイタリア各地を経巡って、ヴェネツィアに至り、更にミラーノを経てジェーノヴァから船出し、スペインから帰国の途へ、というのが大まかな行程だったようです。

「……1582(天正10)年に長崎を出発し、1585年にフィレンツェに入った使節団は、各地を歴訪した後、ヴェネチアに到着。サン・マルコ広場で祝典行事が催されるなど大歓迎を受けたといいます。その後ローマにて教皇グレゴリウス13世との謁見を果たした彼らは、ヴェネチアに宛てて謝意を綴った書簡を送ります。日本語の原文と訳文、4名のサインも書き込まれた貴重な《感謝状》。現地で購入したと思われる洋紙に、筆と墨汁を用いて、滞在時のお礼と、彼らが見聞したことを日本で披露し布教を約束する内容が書き綴られています。……」とこの雑誌に書かれています。

雑誌の編集部の文章を逆に、2ヶ月のローマ滞在の感謝状をヴェネツィア滞在10日間に書き送ったとすると、時間的にも合致して来ます。ヴェネツィア政府に布教の約束をする必要は皆無です(教皇庁にはする必要があります)。ヴェネツィアに送られた感謝状がローマにある(その逆も)、ということは両市互いに殆どあり得ない事と思われるのです。誤訳があったのか、編集部の不勉強か、何かがあったとしか私には思えません。《ヴェネチア宛て…》ではなく、ヴェネツィアからローマへの礼状でしょう。

先日も読売新聞でヴェネツィアの観光客の数を「2004年―175万人、2014年―260万人」と書いていました。La Nuova紙によりますとヴェネツィアのベッド数は35000だそうで、ツイン(2人)が基本ですが、一人旅や延泊もあるので、平均365日の4分1、90日に90人が宿泊したと仮定して、ホテルで約300万人(多過ぎるか?)。その他未登録のアパートやB&B、ヴェネツィアに泊まれず、近隣のホテル等に宿泊した人々を含めて、船舶、バス・車、電車で到着する1日の観光客は宿泊数の何倍にもなるそうなので、2000万程度になるのでは、と言われているそうです。いずれにしても、鳥取県境港市が水木しげる効果で観光客が200万を越したと喜んでいた時私が訪れた時の人出とは比べものになりません。

事ほど左様に、人は間違いを引き起こすものであり、誤解・書き間違いはもとより、間違った文献を再び書き写すことも屡ですから(私のブログでも間違いを起こし、後でこっそり訂正しました)、私も心しなければ、と思う次第です。

それは例えば、2008.08.31日の私のブログパードヴァ大学で、パードヴァ大学の解剖教室の設計者を、有名な解剖学者のアンドレアス・ヴェサリウス(オランダ人)と書いたのですが、実際はアクアペンデンテのファブリキウス(伊名ジローラモ・ファブリーツィオ)が1594年に作った物であることを後に知り、赤面して書き改めました。

また他の例では、日本ウィキペディアの《支倉常長》の項で、彼はスペインから陸路でローマに行ったと書かれています。彼は地中海を海路でスペインからローマに行く途中、嵐に遭い、フランスのサン・トロペ港に避難し、仏国の土を踏んだ最初の日本人として、戦後発見されたサン・トロペ侯爵の書簡が翻訳され、明らかになりました。そして伊国のチヴィタヴェッキア港に上陸します。彼らが石巻の月ノ浦港を出発してから400年記念の年2015年、私はチヴィタヴェッキアに行き、彼の銅像やら彼らが辿った道筋が石に刻んであるのを視認しました。こういうオープンのウィキペディアの間違いをインプットされると、信じた人は悲劇です。
[チヴィタヴェッキアについては、2015.10.17日のチヴィタヴェッキア行をご覧下さい。]
  1. 2017/06/01(木) 00:09:41|
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(3)

(続き)
「ルイーザはフィウーメに発った。そして彼女を待つダンヌンツィオは、港の女歌手、リリ・ドゥ・モントゥレゾルと夜を過ごしていた――フェデーリチは更に書いている――彼女はかなり散文的な報酬で翌朝立ち去ったと、そしてそれがどのような報酬であったか我々は知りたいものである。

しかし我々はある事を知る、それはリリ(彼女の本名はリーナ)はペスカーラ出身で、暫く前からダンヌンツィオを知っており、友人の画家ミケッティのモデルをしたことがあるということである。

フィウーメでルイゼッラは、色々に忙しかった。先ずは音楽家としての、公開のコンサートでの演奏活動に勤しみ、更に多分自分の男への熱心な協力者として、賢明で十全な秘書活動をした。

しかし彼女の新しい生活は始まったばかりで、19歳にして、1938年3月1日の詩人の死まで彼の傍にあって注意深く、忍耐強かった。正しく彼は、数年後には彼女を丸で妻の如く扱った、封書の宛名に“ダンヌンツィオの女ルイーザ(donna Luisa d'Annunzio)”と。しかし彼女に与えた屈辱は大変なものがあった。彼の人生で唯一の失敗があり、滔々たる冒険的活動の結論として、1921年ルイゼッラとガブリエーレが隠棲した、ガルドーネ近郊のカルニャッコの豪勢なヴィッラ、ヴィットリアーレで、その20年足らずの間に100人近くの女性達がそこで過ごしたと思われるからである。事態は正しくこのようであった。

100人近くの女性達の中には、正式の妻のマリーア・アルドゥアン・ディ・ガッレーセ(Maria Hardouin di Gallese)、女流のポーランド人画家タマラ・ドゥ・ウェンピツカ(Tamara de Lempicka)、ヴェントゥリーナ(Venturina)やイーダ・ルビンステイン(Ida Rubinstein)のようなかつての恋人達である。

ルイゼッラの態度をはっきりと示す、日付のない手紙がある。《私のアリエール様、あなたのオフイスは整頓されていて、純白無垢の花があなたにお帰りなさいを言うためにあなたを待っています。朝食のために万全の準備をしておきました。ミサに行って、直ぐ帰ります。私の両腕は昨日の疲れの後も痛みはありません。その事に満足しています。あなたを抱擁します。ルイゼッラ》

アリエール=ガブリエーレなるイタリア男の集中するもの、一体何が好みであったのか。しかし彼女は彼に信じ込ませたのでもなければ、感謝の念を示したのでもない。全てはそれ相応の事であった。そして彼女は次のような事を書くことになる。《おちびさん、あなたの事を一杯考えてます、心配なんです。多分私の存在だけがあなたを落ち込ませているんです。決めるって事だけがあなたに残されたことです。貴方の重荷になるよりは、私が立ち去る方がいいのです。あなたの過ぎ去って行く日々がなくなる時、多分それはあなたには長いことではないと思われます。薔薇の花を摘んで来ました、あなたのためにです。私を許して下さい。それってあなたにとって多分過分な事と思われますが。》

彼女へのアリエールの返事がどんなものであったか、我々には分からない。しかしまた別の手紙の始めで想像することは出来る。《私のアリエール、こんなにも辛く、苦しい電報はもう待つことは出来ません。なぜこんな電報を寄越すのですか。ガルドーネの事務所に私が帰る事を望んでいらっしゃらないことは分かっていますのに。脅すような奴隷の尺度と考えられますのに。》
ルイーザ・バッカラルイーザ・バッカラ[右、サイトから借用]  ルイゼッラは彼女のアリエールより47年も長生きした。しかし彼の死と共にヴィットリアーレを遺された。とは言え、詩人の生存中に生きたと同じように生き、その時から奴隷の如く、そして隠遁生活を送った。何も求めず、何も得ることもなく、追憶と忘れられた存在として人生を過ごした。」

ガルドーネ近郊のヴィッラ・ヴィットリアーレについては、2013.10.26日のカジーナ・デッレ・ローゼ館で触れています・
  1. 2017/02/16(木) 00:07:33|
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(2)

(続き)
「戦争中、広場にあった参謀本部が前線の兵站基地となっており、町に残る数少ないヴェネツィア人や前線から離れて避難している人々、市民病院で回復を待つ数多の戦争傷病兵の楽しみのために、ピザーニ館のベネデット・マルチェッロ音楽院のホールで定期的に幾つかのコンサートが開かれた。そうした活動に尽力する高名な芸術家達に混じって、ルイーザ・バッカラの姿もあった。中でも多分一番若くて、一番無名だった。

そんな彼女について、ジーノ・ダメリーニは次のように書いた。《ヴェネツィア生まれの大変若いピアニストは、戦争が勃発する前、ベネデット・マルチェッロ音楽院の最大の新星だった。勉強のご褒美に、ソリストとしてのキャリアーを凱旋するような、特別豪華なやり方で始めることが出来たのだった。》

それから19歳の春がやって来る。フィウーメ(現リエカ)占領の年である。ルイーザはヴェントゥリーナ事件でComandante(司令官――ダンヌンツィオのもう一つの添え名)を知っている。“ヴェントゥリーナ”とは彼が最後に獲得したオルガ・ブルンネル・レーヴィに与えた名前(実は最後から2番目)であった。しかし当時、彼は自分の書いた初期ヴェネツィアの悲劇『船』を映画に撮るためにイーダ・ルビンステインに関わっており、彼女を蔑ろにしていた。

しかしその事は“NO”である。最後から2番目ではなかった。更にまたヴェントゥリーナとの愛の“歴史”の間、満足することのない愛の渉猟者は、マリーア・ルイーザ・カザーティ・スタンパ侯爵夫人アーダ・コラントゥオーニ(ネリッサ)とも、愛の“歴史”を作ったのだった。彼女はヴェニエール・デイ・レオーニ館に住み、後に女優エーレナ・ドゥ・ヴノロスカであり、アンナ・モロズィーニ伯爵夫人であるペギー・グッゲンハイムとして住むことになる。……

その事はヴェントゥリーナとの“歴史”が長続きしたことを示している。事実それは17歳の1月(or 1917年1月)に始まり、ダンヌンツィオの中では、愛の継続は裏切りの数で計測される(多分“愛の逸脱”と称したケースであって、“裏切り”というと言葉が仰々しく、厳し過ぎるかも知れない)。

ヴェントゥリーナは自宅にルイーザ・バッカラを少し音楽をしませんか、と招いた。夕食にはガブリエーレ・ダンヌンツィオもいた。その時彼は彼女をしげしげと見た。彼女に手紙、贈物、本、花と贈るようになった。暑い夏の間、彼らは何度も会ったが、フィウーメ事件の始まる数日前の事、サン・ヴィダールのヴェントゥリーナの家でかなり形式的な出会いだったようである。
ガブリエーレ・ダンヌンツィオダンヌンツィオ(D'Annunzio)に(彼女もD'Annunzioの“D”を、“d”と小文字で書いた)《紹介されたいとは思いませんでした――更に続けて――詩人の理想というものは私にもあります。知るということ、男性というものを知るにつけ、評判というものは下がってほしくないのです。それはヴェントゥリーナが私にしたある種の裏切りのようなもので、演奏するように私を家に招待し、d'Annunzioに会わせる事をしたのです。》

後日(1919年9月9日のこと)詩人は、攻撃に出発した。即ち、愛しい少女の友は画家のグイード・マルッスィグ[1885年トリエステ生まれ]と共にルビンステイン家の正餐への招待から始まるのである。招待状はlei (貴女)で書かれていた。続いて、もう一つの招待状が届き、それは彼女の家であり、voi (あなた方)と書かれていた。我々にはもう一つ、10月1日の招待状があり、それはフィウーメからで、tu (お前)で書かれている。

中身に疑いの余地はない。《今度お前にいつ会えるのか。小さな、黒っぽい顔はどこにいる? 若い、野性的なすじを刻む、銀色に輝く髪はどこに? いつ再会出来るのか?……休戦時にお前の抱擁、僕の抱擁を考えながら打ち震えている。熱情の最後の夜のこと。お前に会えるだろうか?》 ……」 (続く)
  1. 2017/02/09(木) 00:05:44|
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(1)

2016.08.25日のエレオノーラ・ドゥーゼ》(1~4)でドゥーゼとガブリエーレ・ダンヌンツィオの事に触れましたが、ダンヌンツィオの最後の恋人になったのは、ピアニストのルイーザ・バッカラ(1892.10.14ヴェネツィア~1985ヴェネツィア)だったそうです。Bruno Rosada著『ヴェネツィア女達――その愛と評価』(Carbo Fiore Editori)により、2人の足跡を辿ってみます。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィアの女達』「《彼女にとっては愛の歴史、彼にとっては一つの歴史》 ルイーザ・バッカラの生涯の最初の章はこうした題名で始まる。アントネッラ・フェデーリチはこの情熱的な女とガブリエーレ・ダンヌンツィオの関係をこう要約した。大体全員というか、彼の全員の夥しい愛人達をこの“神聖な詩人”は楽しませたという。この堂々とした男中心主義者に今後に残された、予想される愛人関係というものがかつてとそれ程かけ離れたものではなかったのではないか、と。実を言えばそれは“NO”であった。

ルイーザ・バッカラとの関係は違った愛だった。しかし違っていたのはそれだけではなかった。どんな女も、彼女ほど諦めと品位のある無視無欲と献身的な自己犠牲に満ち溢れた愛情を注いだ者はいなかったのである。

事実人々、ある文化水準に到達していない人々全てを含めて、ダンヌンツィオの文一行さえ読んだことのない人々もこの不撓不屈の誘惑者の抑えようのないエロティスムを知っている。しかし本当に多くの人がルイーザ・バッカラの名前を挙げるのを全く聞いたことがなかった。一方彼の女達の中でもエレオノーラ・ドゥーゼの名前を挙げるのをよく聞いたのである。

これはルイーザ・バッカラが無意味な人物であったということでは決してない。もし無意味な人物であったなら、ダンヌンツィオが興味を持つ筈がなかったからである。彼女は彼の傍に居て、彼に逆らうなんて1分としてなかったことだろう。と言うより約20年間、彼の仲間であった。ドゥーゼは大女優であることを止めなかったが、それは彼の幾つかの大作を演じるという利点が引き出せたからであったが、ダンヌンツィオにとってのバッカラは大ピアニストであることを止めていた。

しかし彼女のデビューは大したものであったし、満足のいくものであった。1902年のムラーノ劇場での最初のコンサートに同席してみよう。その時やっと10歳で、『Il padrone delle ferriere(鉄工所の親方)』の幕間に2曲演奏した。プロを呼ぶためには十分な資金のない人が、一少女に対して興味深くも満足のいく要請をしたに違いないのである。そして10歳からよく知られるように、詩人と出会う運命の19歳まで成功が続くだろう。特に15歳から18歳の期間、戦争(第一次大戦)があったと考えても、である。

イタリア国内を回っても、それほど多くのコンサートはしなかったが、戦争中もルイゼッラ(ルイーザは家族にこう呼ばれていたが、ガブリエーレはスミクラ(Smikra`)という、ギリシア語で正に“ちっちゃな(picolina)”を意味する愛称を好んだ)は、ソリストとして注目を浴びた。 ……」 (続く)
  1. 2017/02/02(木) 00:08:50|
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エレオノーラ・ドゥーゼ(4)

(続き)
「ダンヌンツィオとの関係が始まった時、エレオノーラはヨーロッパでも海外でも著名度は頂点にあった。そして彼女に更に与えてくれる人、彼女を更に受け入れてくれる人、2人の人物から求められていた。彼女こそダンヌンツィオの戯曲[『春の朝の夢』『ラ・ジョコンダ』『フランチェースカ・ダ・リーミニ』『死せる都』『イオーリオの娘』(イオーリオという名前はこの作品から有名となる)]を舞台に掛ける人だった。
ダンヌンツィオに夢中だった[ダンヌンツィオ。以前の展覧会チラシから] 彼女自身がプロデュースに出資し、海外での成功や批評への関心を請け負った。それにも拘わらず、1896年にはダンヌンツィオは『死せる都(La ville morte)』のフランス公演で、関心がサラ・ベルナールに行ってしまった。

1897年7月、ドゥーゼはフィレンツェ近郊の、憧れのセッティニャーノにカッポンチーナ(カッポーニ家の所有だった)と呼ばれた1400年代の古い、小さなヴィッラを“ポルツィウンコラ”と聖フランチェスコ風に名付けて(二人の内、誰がそう呼んだか分からない)借りた。この偉大な愛の月日に、創造的な発想が生まれた。

古代のクラッシック劇場のように、戸外での詩のための新しい劇場が誕生した。そしてこうした将来を見越した環境で、ダンヌンツィオは次のような作品を書いた。1897年『春の朝の夢(Sogno di un mattino di primavera)』、1898年『死せる都(La Citta` morta)』、1899年『ラ・ジョコンダ(La Gioconda)』、1899年『栄光(La Gloria)』、1901年『フランチェスカ・ダ・リーミニ( Francesca da Rimini)』。また1900年には、エレオノーラとの関係で霊感を得た『炎(Il Fuoco)』、『イオーリオの娘(La figlia di Jorio)』。

しかし最初の5作品は成功作ではなかった、というより、その費用を援助したドゥーゼにとって、経済的に悲惨なものだった。一方『イオーリオの娘』は評判が高く、ミラーノのリーリコ劇場で1904年3月2日板に乗った。しかし演じたのはドゥーゼではなく、イルマ・グランマーティカ(ルッジェーロ・ルッジェーリと)だった。彼女は病気だったと言われており、多分仮病だったに違いない。

事実、今や彼女は外国巡業で体が塞がっており、借金の経済的修復を迫られており、それを証明する仕事だった。今や聖なる詩人の生活の中に、侯爵夫人ディ・ルディニが登場していた。未投函のエレオノーラからガブリエーレへの長い手紙の下書きを読むと、《貴方は私を使っては投げ出す楽器に分類したわ。でも多かれ少なかれそんなあるもの、私とは人生の中のちょっとした何かなの。そこに深くて遠い何かを感じるわ。貴方には全てを話した――もう何もないわ。》

そして1917年9月23日『Taccuini(手帳)』の中でダンヌンツィオは書いた。《どんな女もギゾーラ[愛称。ダンヌンツィオが彼女の所に赴くとこう呼びかけた]のように私を愛しはしなかった、その前も後も。これこそが呵責の念に引き裂かれ、哀惜の思いで慰められる真実である。》 しかし彼女はこのフレーズを読んだことはなかった。『手帳』は1965年に出版されたから。彼女はダンヌンツィオとの破局後、すぐに演ずることを止めた。

数年後の1916年、唯一映画で演じた。グラーツィア・デレッダの小説の脚色である『灰(Cenere)』である。1921年舞台に戻り、1924年4月21日アメリカ、ピッツバーグ公演中、最後の巡業途上で客死した。

彼女はアーゾロに葬られた。その地で最後の年月、カノーヴァ通りの小さな館に住んだ。その壁面には詩人の言葉による碑が読める。
Asolo 1Asolo 2数年前マルコ・プラーガが書いた。《アーゾロは美しい、静かな、レースと詩の小さな町である。我が愛するヴェネツィアからさほど遠くない。そこには我が愛する、良き友人達が集っている。グラッパとモンテッロの間、ここは我が最後の老いの避難所である。この地に眠りたい、というか、思い出して欲しい。必要ならば言ってくれ。》 彼女は聞き届けられ、サンタンナ墓地に眠る。》 」 (終り)

ガブリエーレ・ダンヌンツィオについては2010.02.13日のイタリアと日本の関わり(2)や2013.10.26日のベンゾーン・フォースコロ館他等で触れました。 
  1. 2016/09/15(木) 00:03:31|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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