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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

イザベッラ・テオトーキ(4)

(続き)
「1807年、2、3ヶ月後イザベッラは1冊の本『I Ritratti(あの人達)』を出版した。この本は当時のヴェネツィアの文化面について、生活上の貴重な証言であり、彼女の最も重要な友人達のプロフィールの足跡である。その中には当然フォースコロもいる。今や確固たる詩人であり、長編詩『I Sepolcri(墳墓)』もまた、イザベッラの本と同時にその行く末の光を見るだろう。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』ウーゴに向けた文章の結論は読むに値する。《彼は自分の才能でそれを受け入れることが出来るのだ、ということがないならば、彼には自分を取り巻く存在が馴染み易いものではなかったと思われる。過ち、友人達の心にとってはそれは苦々しかったように、彼の心には同程度に甘美なものであったのだ。》

しかし我々も極ありふれた仕来りに従わざるを得なかったし、若いフォースコロの〝練習船”での役割の中での聡明なイザベッラを見たのだった。それは譬えそうした役柄の中での役割を過小評価するつもりがあってもであるが。あるいは少なくともその疑いを仄めかすつもりがあっても、ということでもある。

多分2人を評価し、2人の友情を認めた人々が沢山いたことは避けられないことであったし、フォースコロは確かに有名で、魅力的な人物であるが、我々は2人の事を思い違いしていた。

先ずウーゴに対する彼女の感情は恋愛感情よりもっと寛容なもので、長続きするものであり、情熱よりもっと長持ちするものであった。別れて以後10年は持続したのであった。1824年12月9日にフォースコロはロンドンに10年間亡命していた。彼に手紙を書いている。《私を愛して、お願い……さようなら、愛しい人、我が最高の天才よ、さようなら》

そしてイザベッラは若さ故の大騒ぎであったが、マリーンと離婚し、アルブリッツィと秘密裡に結婚し、異常で信じがたい事であるが、新婚旅行はサリンベーニを同伴した。性欲異常者でも身持ちが悪い女という訳でもなかったのだが。

当時ヴェネツィアで支配的だった勝手な衣装を着るという、そうした風潮に染まり、それに喜びを見出し、一人だけではなかったが、そうした階層の女であった。そしてとりわけ教養のある、インテリだった。
イザベッラ・テオトーキ掲載した肖像画は際立って心理的な繊細さとドキュメンタリーな価値を結び付ける作品であるが、それ以外にイザベッラは誠実に文化というものを示した著作を発表している。二つの手紙『アルフィエーリのミッラについての書簡』から『ヴィットーリア・コロンナの生涯』まで。更に20年代英語に訳された『アントーニオ・カノーヴァの彫刻と彫塑の作品』、続いて『大理石に彫られたキリスト降架とエーレナの頭』『ジュスティーナ・レニエール・ミキエールの肖像』である。

それ故、イザベッラは自分のサロンに通っていた高名な知識人達を見え透いたスノビズムで手厚く歓待することを抑えていた訳ではなかっただろう(即ち、コップ一杯のチョコレートやレモネードのために彼らも通っていた訳ではないだろう)、しかし彼女は今や存在することを止めてしまった“一つのヴェネツィア”の中で、文化という生活を存在可能な唯一の形態としてヴェネツィアに与えることを知っていた。 」
  1. 2019/11/17(日) 23:05:30|
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イザベッラ・テオトーキ(3)

(続き)
「そしてフォースコロは? 1796年10月からフォースコロは1806年まで“聡明なる”イザベッラに会わなかった。会ったのは長引いたフランス滞在後で、4~6月中旬、2ヶ月ほどヴェネツィアにいた時のことである。会わなかった理由は彼にははっきりしていた。それはイザベッラの予期しなかった新しい結婚である。

新しい結婚が祝われたばかりで、婚姻外の関係は避けたいのは彼女の方だったろう(セバスティアーノ・サリンベーニは別にして)。彼も多分そうであっただろう。失望したのは誰か、苦しみは、苦々しさは! 頭に浮かんだのは何か? 

要するにこのためにあり得たのは、少年達が1796年の7月という月には、酔いを覚ますようにヴィッラ送りになったということである(イタリア維新時の伝記作家達が考え出したように、ヴェネツィア警察の監視下に置いたということではないだろう)。

ところで真実に正鵠を射ておこう。1806年ヴェネツィアの母の元に戻った時は、そこに少しは滞在しなくてはならず、18世紀の伝記作家が書いているように、時々母に手紙を書いて自分の状況を知らせるという、お愛想をする以上に、非常に優しく慇懃であった、とは言えないだろう。

だからフォースコロは1806年の春、プレガンツィオールにバカンスに行った。プレガンツィオールはメーストレとトレヴィーゾやテッラーリョを繋ぐ街道の中間にあり、そこには今でもアルブリッツィ家の人々が美しくはないが豪華なヴィッラを持っていた。そして現在はトレヴィーゾ県に属している。

当然イザベッラは友人達をそこに招いたし、他の季節はヴェネツィアの館でのようにサロンを保持していた。寧ろ彼女の"garçonnière(一人部屋)"(当時は"casino"と呼ばれた)で、チコーニャ通りの奥、フレッツェリーアにあった。

プレガンツィオ―ルでは芳香馥郁たる春には何かロマンチックな出来事が起きたに違いない。我々はその時季の手紙、短い書簡を2通確保している。それはあらゆる書簡の中でもユニークなもので、その中で認められた詩はイザベッラに向けたものでお前と語りかけ、二人の間にはある関係、一つはプライベートというより、より親密なものであり、もう一つは公的なものであることが知れる。

その一つは1806年の4月か5月、学徒達から送付されたもの、もう一つは“月曜日9時”の日付で、光り輝くあの5月のある月曜日、二人(28歳の彼と47歳の彼女)の間に愛が花開いたと考えられる(あるいは若いフォースコロの秘めたる恋は何年もの後、正に初めて開花したのだ。それまで愛の夢は紙上にのみ記されていた?)。

この手紙を見てみよう。最初の手紙には危険と思わせる文章はない。ただ"tu(お前)"だけで、出会う日の指示のみ。《お前に3時頃会いに行く、多分その前に》。しかしランデヴーの作法を考えれば、この"tu"は非常に意味深である。とりわけ中身は恋愛関係が単に明示的である。《冷淡で、お前の事から放心状態だった僕を許して。僕は全てお前のもので、お前が心の中の全てなのに……》。そして暇乞い。《さらば、わが天使。僕を愛して下さい。もし僕がお前を愛しているようにではなくとも、お前を愛しているほどに。Alle due(この意味が判りません―2時に、二人に、我々に……色々考えられます)。僕は健康を取り戻すでしょう――僕の心はこうではないのに》

そして3番目の手紙。ミラーノに出発し、ヴェローナに到着してから書かれた詩。この時は改めて“あなた”を使って(le dà del voi)、テッラッリョにあるプレガンツィオールのヴィッラ・アルブリッツィの庭での散策中のことを語っている。《あなたにお願いがあります。時にはあの道も歩き、前の水曜日のあの時間、我々が辿った木陰を探し、あの場所であなたの友の名を時には呼んで欲しい》。

あの樹が見たのは一体何だったのか? 捥ぎ取られた接吻、約束、愛の表白? 単なる打ち捨てられた時なのか、重要性はないだろう。《もし愛が、未だに優柔不断な子供騙しみたいなものであるなら、才能や美辞麗句の無駄遣いが、最初に座るべき席を押し退け、心からもそれを追い払うのです》。月曜日9時の日付の手紙の中で書かれ、明確には出発の数日前に書かれたのです。そんな可哀想なウーゴなのでした。 ……」 (4に続く)
  1. 2019/11/11(月) 13:51:22|
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イザベッラ・テオトーキ(2)

(続き)
「しかし、1800年代の歴史家達を憤慨させたに違いないし、またその事については概ね何も語られていないが(1900年代の人もまたそうである)、しかし今日では全く無関心に放置されている、その精神的エロチシズムという問題、この問題は別にしても、イザベッラは文化面でその功績大なるものがあったのである。

彼女のサロンはいわゆるヴェネツィア知識人全てに、またヴェネツィアに一時滞在する外国人に開かれていた。彼女の伝記作家がこのサロンに通った人々の名前、スタール夫人からジョージ・バイロン、アントーニオ・カノーヴァからウォルター・スコットのような名前に追加する時、間違いようはなかったし、譬え名前を拵えたとしても騙されるということはなかった。しかし何年もの間、聡明なるイザベッラの元を訪ねようとヴェネツィアの土を踏んだ重要人物はなく、アルブリッツィ家の夏のレモネード、あるいは冬のドーナツ型ciambella菓子(buzzolai)でチョコレートを飲むような栄誉に一度も浴したことのない階層あるいは知性あるヴェネツィア人もいなかった。

この上流であり、国際人であるという階級は、譬え他の階級にとっては到達すべき目的地と考えられ、また野心満々なフォースコロのように才能豊かな青年にとっては、出発点と考えられたに違いなかった。特に民族のお蔭とするならば、それは殆ど家庭の問題であった。というのは、母がギリシア人であり、父がイザベッラのようにコルフ島生まれで、“海の向こうのヴェネツィア人”であったからである。二人は幼い時から知られた存在であったことはあり得たし、フォースコロの父アンドレーアは少々無分別で、女性の魅力には丸で無関心な男であった。

カノーヴァやバイロン卿、スタール夫人、ヴィンチェンツォ・モンティのような多くの優れた人達、サロンに風格を与えた人達の間で、最も頻繁に通った、高名な人と言えば、疑いもなくメルキオッレ・チェザロッティと――いわゆる――イザベッラの心を獲得した中ではフォースコロの最後のライバルとなったイッポーリト・ピンデモンテであった。
イッポーリト・ピンデモンテ[ピンデモンテ像、サイトから借用]  しかし忘れてならないのは、ウーゴがイザベッラより18歳若かったにしても、イッポーリトは8歳年上であり、彼女に平安を、更には青年が与えることのない、また彼女がそれを期待してもいなかった愛情あふれる安泰感を与えることが出来たことである。

その上ピンデモンテは、後に『オデュッセイア』の巧みな翻訳で有名になるのだが、ヴェネツィアでサンタ・マリーナに素晴らしいパラッツォを持っていた。そこでイザベッラのサロンに能く現れ、ヴェローナ近くのアヴェーザのヴィッラがナポレオン軍に略奪破壊された後は、特にそうだった。
チェザロッティ[メルキオッレ・チェザロッティの肖像、サイトから借用]  チェザロッティに関しては、パードヴァ大学のギリシア語とヘブライ語の教師であり、文献学者、評論家、詩人であったが、同時代人や後世の人々にとってよく知られたことは、スコットランド人ジェイムズ・マクファーソンの1763年刊の『オシアンの詩、古代ケルト人の詩歌』の翻訳であった。ジェイムズはそれを古いゲール語の歌の翻訳であると見せかけた(偽書)のだった。チェザロッティの翻訳は成功を収めたが、生存中に4版重版を重ねたのがその証である。

それらの版は次に続くイタリア文学に明白な影響を及ぼし、『オシアン』はアルフィエーリ、モンティ、レオパルディ、そして当然フォースコロにインスピレーションを与えた。

しかし精励すべき研究等の仕事で、パードヴァに引き留められたに違いなく(彼はこの町で1730年生まれたのであり、1808年パードヴァ近くのセルヴァッツァーノのヴィッラで亡くなった)、多分イザベッラのサロンへの訪問はそれほど頻繁ではなかっただろう。何故なら譬えうまくいったとしても、1730年生まれだから、今やかなりのお歳であったし、その当時パードヴァ~ヴェネツィアの旅は、短距離とはいえ、望めば“ブルキエッロ号”があったものの、旅というものは常に旅である。 ……」 (3に続く)
  1. 2019/10/18(金) 22:50:28|
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イザベッラ・テオトーキ(1)

これまで何度か紹介した、ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女 愛とその意義――カテリーナ・コルナーロからペギー・グッゲンハイムまで』(Corbo e Fiore Editori、2005.10)に、Isabella Teotochi(イザベッラ・テオトーキ)という女性が紹介されています。どんな女性でしょうか?
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』イザベッラ・テオトーキ[『イザベッラ・テオトーキ像』イタリアのサイトから借用]  「《僕はあなたを心と眼の底に刻印して常にあなたと共にいます。今朝はあなたの事を書き連ねているので、他の日の朝よりずっと快適です。》1795年の春のある日、ウーゴ・フォースコロはイザベッラ・テオトーキに向けてこんな風に書き送った。

イザベッラはイッポーリト・ピンデモンテがいつも彼女をそう呼ぶように、聡明なるイザベッラであり、バイロン卿が彼女を呼ぶようにヴェネツィアのスタール夫人であるが、非常に造詣の深い『ヴェネツィア人の商業史』の著者であり、歴史研究家であり、〝陰気で重苦しい”貴族、カルロ・アントーニオ・マリーンと結婚した。その後1796年3月離婚し、貴族のジュゼッペ・アルブルッツィと再婚した。

しかし彼の両親はその事を知りたがらなかったので、その再婚は秘密の結婚となり、イザベッラは新婚旅行を新夫でない人物と出発した。しかしそれはヴェネツィア軍の司令長官のジョヴァンニ将軍の息子で、古代ローマの歴史家タキトゥスの熱心な読者であったセバスティアーノ・サリンベーニという古い友人であった。二人はフィレンツェに行き、ヴィットーリオ・アルフィエーリと出会い、ローマでは彫刻家カノーヴァ宅に行った。
ウーゴ・フォスコロフォースコロは関係がないのか? フォースコロは高々18歳で、正確にはイザベッラの年齢の半分ほどで、人々は彼に愛の手解きをしたのは彼女ではなかったか、と言っている。多分この貴族の女性のサロンで、家族同然であったに違いないからである。そして少なくともヴェネツィアではその幸運な年月、サロンから寝室までの歩みは簡単だっただろうからである。

ヴェネツィア人はイオニア起源の町を併合していた。彼はザキントス(Zante)島で生まれた(古くはZacintoと呼ばれた)。父はヴェネツィア人、母はギリシア人である。

彼女は、サンミキエーリが素晴らしい城塞を築城したためそう呼ばれるのだが、〝イタリアの番兵(Sentinella)”としての快適な島ケルキラ(Corfù)島に1760年生まれた。少女時代は他の人物、ドメーニコ・ピッツァーノに恋をしたこともある。フォースコロもまた当時殆ど少年に近かった。彼は後に自分の事を話してやりたかった。当時色々な港にいたボナパルトと共に、リード島の港に無理強いをする仏船を沈めてやろうと思っていたのだが。

今や海軍士官だったが、イザベッラは彼が好きだった。しかし〝身体の医師”である父親、貴族のアントーニオは片意地になって敢えて彼女をマリーンに嫁がせた。マリーンもまた海軍にいた。コルフ島で艦隊を指揮していた(ヴェーネト海軍の中では容積トン数の少ない艦隊の司令艦長はsopracomito[ガレー船の艦長]と呼ばれた)。

結婚式は1776年10月10日に行われた(彼女はやっと16歳で、成熟した姿に描かれた肖像画から判断するに、息をのむ美しさだったに違いない。兎に角大変な美しさだった。彼の方は30歳だった)。

数年後、その間に生まれた息子ジャンバティスタを連れて、新夫妻はヴェネツィアに行くべく乗船した。19年後の再婚時の旅行に、その2度目の夫の代わりに付き添った人であったらしいセバスティアーノ・サリンベーニと知り合い(?)になった夫妻であった。何というおかしな人生であったことか。 ……」 (2に続く)
  1. 2019/10/11(金) 02:59:55|
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フラ・マーウロ(マーウロ修道士)

カマルドリ会修道士でマーウロ僧という人がヴェネツィアにありました。マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori)に《ルチーフェロから夢を盗んだ僧》というお話が載っています。ルチーフェロとは魔王サタンが神に反逆して堕天使となる前の名前だそうです。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』「ヴェネツィアのサン・ミケーレ島(今日、市の墓地)の修道院で長い年月修行し、色々の必需備品を備えた自分の工房で、中世地図学の最大の功績として仕上げられたもの、それは有名な巨大な平面球形図であるが、その製作者カマルドリ会修道士のマーウロ会士についてはあまり知られていない。

彼自身、彼の姓も生涯も知られておらず、神話的で伝説となった絵が残されたのである。地図製作者、地理学者としての自分の仕事に相当な認識を持っていたので、彼自身が存命中にも拘わらず、彼の名誉のために正にメダルに鋳造され、ヴェネツィア当局が“比類なき天地学研究者”の称号を授けたということは確かなことなのである。ブレンタ川の水流を転換する研究をする水理委員会にも参加した。1459年、年老いての永眠であった。

彼の地図工房では熟練した協力者の手助けがあり、特に彼が直接接触した船乗りや旅行者のニュースや話のお陰で、驚くべき世界地図を描き、今日、国立マルチャーナ図書館に保管されている。

しかし貧しい僧侶であったように、旅をしたこともなく、常にサン・ミケーレ修道院に籠り、自分の地図を描いていたのであろうか? 伝説の影響下にあるその答えは、彼は夢に描いた自分の地図の線を引くことが出来たということである。しかし注意しなくてはならない。彼自身の夢ではない。ルチーフェロ自身のものであった。[ルチーフェロ(ルシフェルとも)とはサタンと同一視される反逆天使の名]

事実僧は、自分の島の上の悪魔(ルチーフェロ)の夢を集中させる特殊能力の持ち主で、空が特に曇っている時、その夢を雲に投影させることが出来た。それ故、フラ・マーウロは夢を制御する法を見出して、夢を通して、当時殆ど知られていなかった世界の果て(境界)を知る法を発見し、嵐の続く時化の時、雲に映える周辺部や色調を読むことが出来た。 」

マーウロ修道士については、2010.12.25日の修道士マウロの地図で触れました。ジェイムズ・カウアンがフラ・マウロを主人公に書いたフィクションです。彼の世界地図(Il mappamondo di Fra Mauro)とはどんなものでしょうか?
修道士マウロフラ・マウロの世界地図[マーウロ修道士の像と地図。実際は北は下に描かれているそうです(ここでは判り易く天地逆に――Wikipedia《Fra Mauro》のサイトから借用)
「国立マルチャーナ図書館の古いサン・マルコ図書室に向かう連絡通路の階段の第2セクションの右上に際立つのは、中世地図学の最大の記念碑の一つ、カマルドリ会修道会士マーウロ僧の堂々たる世界地図(mappamondo)である。平面球形図(東西は大きい196cm、北南はより小さい193cm。平面は少々省略した形の)は、情熱的な地図製作者と彼の協力者によって、今日市立墓地である島、サン・ミケーレ島の修道院の静寂の中で、1459年頃完成するのに約20年を要した。

特に多くの宣教師、旅行者、船員、探検家との接触があり、知られた全ての世界とコミュニケートし、1500年代のヴェネツィアの地理学者で作家のジョヴァン・バティスタ・ラムーズィオの指示に従って、先行する古い地図を辿るように、また支那からマルコ・ポーロが齎した似たような平面球形図を利用して実現した。

世界地図は板の上に糊付けされた羊皮紙の上に描かれ、その時代の地理学的、人類学的知識の体系を表している。そして同時代の多くの海図のように、南が上で、北が下を向いている。明らかに当時よく知られていた幾つかの地方は能く書かれ、作図されている(全ヨーロッパ、全地中海)。一方アフリカやアジア、この遠くの地域は能く知られていなかったから、時に精確さにおいて少々物足りない。

同様にこの地図が完成した時、クリストーフォロ・コロンボの航海はまだなされておらず、今日新世界として有名な大陸は、当時想像的仮説の段階であったから、アメリカは描かれていない。

主たる地域や全ての装飾的要素である特徴的なミニチュアの挿絵は大変美しい(装飾的要素とは色々な地域の境界を示す並木、暈した色による曲りくねった川、ファンタスティックな海の生物が現れてくる波打つ海)。それらは興味津々のものとなっている。

世界地図はポルトガル王アルフォンソ5世に贈られたもので、コピーが作られたが、譬え存在したとしても、失われてしまったのである。」
  ――マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007.10)

マルコ・ポーロに学んだフラ・マーウロはズィパング(Zipangu)を書いたそうですが、今に残る世界地図は、Zimpagu(ズィンパグ)となっているそうです。フラ・マーウロの協力者Andrea Bianco(アンドレーア・ビアンコ)が彼の地図をコピーしたものが今に残り、その時、写し間違えたのかも知れません。日本人として、何か複雑な感懐を覚えます。
  1. 2019/09/19(木) 13:21:32|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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