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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの女: 初の女性ジャーナリスト、エリザベッタ・カミネール―Elisabetta Caminer(4)

(続き)
「しかし『百科全書新聞』は、情報と知識の雑誌であるのみならず、常識人にスキャンダルを引き起こすような攻撃性も兼ね備えた雑誌で、ヴェネツィアやヴィチェンツァの聖職者や保守主義者層に大いなる敵対者を生み出した。
エリザベッタ・カミネール[エリザベッタ・カミネール・トゥッラ像、サイトから借用]  クレメンティーノ・ヴァンネッティへの手紙で、エリザベッタは憤慨のあまり吐露している。≪……怒った僧侶達は私と街で出会うことがあったにしても、決して私に手を差し出すようなことはないようにと同盟を結んだのでした。ある僧侶など説教壇から、小女が編集する新聞などを読む人を救うなどという事は大いなる疑問であると聞こえよがしにさえ言いました。≫

また歴史家のマリーノ・ベレンゴは、次のようにコメントしている。≪『百科全書新聞』がその年月の間、保守主義者の間に引き起こしたスキャンダルは確かに人々を驚かすことはなかった。当局の原則を動かすような攻撃は、同時に全ての最前面に押し出された。それは神学から権利まで、文学から経済まで、植民地支配者の奴隷制擁護政策から封建領主やヴェーネトの大土地所有者の横柄な態度まで、といった全ての面の最前である。≫

1777年いつもしている署名 E.C.T.で、チラシを発行しなければならなかった(この頭文字は彼女の記事や翻訳の多くに使っているもの)。そして敵対者の攻撃に応えるために≪"百科全書新聞”のために≫のタイトルで、≪この紙葉の著者は……自分の会社を勿体ぶって誇張する気など毛頭ありませんし、会社が慈悲を求めていると嘘を言うとか、知識社会は必要不可欠だ……等言い募る気はありません。販売の、あるいは愛そのものの公共の場では作品の称賛は致しません。会社は書物を書くには若くもない作家を賛辞したり、卑屈に著述するような人は推薦はしないということは能く理解しています。≫

1790年から一人で編集していた。しかし敵対者の増加で、経済的にもはっきりと困難が生じた。しかし彼女は強い信念で耐えた。≪無遠慮な護教論者が羞恥のあまり、どんなに震えようと―≫と彼女は書いている。≪私達はこのために、私達の機関の基本中の基本にただ従うことではなく、それは役に立つこと、即ち私達の多数の読者の喜びであることでした。≫

特に1794年末頃、彼女が経営していた、夫所有のトゥッラ印刷所を売却するにあたって、彼女が気を付けなければならない事は自分の健康状態のことだった。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』しかし彼女が罹患した肺腫瘍のためこの2年間、彼女を苦しめる激しい苦痛にも関わらず、新聞には情熱をもって熱心に力を注ぎ続けた。死の数か月前、1796年6月7日、科学者ラッザロ・スパッランザーニ(スパッランツァーニ?)に手紙を書いた。≪ベッドに寝た切りになって2か月ほどになります。日々の熱と痛み。あなたに全ての事を書きたい。それなのに、御免なさい、私に約束して下さった本の抜き書きだけです。≫ 」 (終わり)
  ――ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィアの女(Donne veneziane―amore e valori)』(Corbo e Fiore Editori)から

["noi no ci asterremo per questo……"という文が出てきました。動詞の活用形を含めて辞書で調べましたが、近似のastergere(汗等を拭う意)では、意味も語形も違い過ぎます。手当たり次第に調べてみると、astrarre/astrarsi da(超然としている)が、活用形も意味もこの文に合っているようで、これを使用しました。この本、こんな固有名詞のスペルもあるのかとか、誤植に違いないとかがあったりして、納得がいく、あるいは正鵠を得るまで時間が掛かったりしますが、勉強にはなります。]
  1. 2020/08/30(日) 17:17:38|
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ヴェネツィアの女: 初の女性ジャーナリスト、エリザベッタ・カミネール―Elisabetta Caminer(3)

(続き)
「1772年は彼女の生涯で重要な年である。ヴィチェンツァの医師で自然主義者のアントーニオ・トゥッラと結婚し、ヴィチェンツァに住むことになった。トゥッラはゲーテにも評価された偉大な才能の持ち主だった。ゲーテは書いている。≪トゥッラ医師は優しさと同時に機敏さを兼ね備えた人物である。自由にしかし謙虚そのもので語りたいのだが、彼の言葉は精確無比且つ気高い優しさそのものである。≫
『モーロの手紙』[ロンギ画『モーロの手紙』]  しかしヴィチェンツァへ引っ越しても、彼女の生活も興味も前通りである。『Europa letteraria』誌の仕事は続くが、この雑誌の名前を『Giornale enciclopedico(百科全書新聞)』と変えた。初めは父との共同経営だった。その後刮目すべき1777年、所有権をヴィチェンツァに移動し、二人の重要な人物を指導者に参画させた。

一人はアルベルト・フォルティス、彼は元聖アウグスチノ修道僧で自然科学の研究者、既に1769年から『Europa letteraria』誌に目立った貢献をしていた。そしてもう一人は弁護士のジョヴァンニ・スコーラ、彼は裁判史や事件の多くを扱うことになる。一方エリザベッタは哲学的な論題に興味を向け続けたし、発表された作品は、校訂された作品からヒントを取り出せる、益々世に貢献するオリジナルなものへとなっていった。

しかし表題の変更は興味の増大を表すと共に、エリザベッタの意図を意味し、はっきりと啓蒙主義に対する愛を表明していた。事実、『百科全書新聞』はジョヴァン・バッティスタ・ヴィーコの思想で、ヴェーネトの状況を黄土色にするだけでなく、コンディヤック(Condillac)、ダランベール(D'Alembert)、ルソー(Rousseau)、ヴォルテール(Voltaire)、エルヴェシウス(Helvetius)、ロック(Locke)の書物や思想を普及させ、それ故この雑誌でアルプス以北の文化の感覚論的、物質論的な傾向に対して特別の注意を払っていた。

その上扱われた材料、これはまた別のタイトルの変更の理由であるが、アルベルト・フォルティスが、ジョヴァンニ・スコーラの後任となり、雑誌が『新百科全書新聞』と改名した後、もっと幅広く科学的題材にまで関心を寄せて、文学というものの領域を拡大した。

しかしエリザベッタ・カミネールは、モンティからピンデモンテ、またチェザロッティからパリーニまでのイタリアの最も有能な科学者、文学者と書簡の交換、招いたり招かれたりを続けた。
イザベッラ・テオトーキ[『イザベッラ・テオトーキ像』イタリアのサイトから借用]  ヴェネツィア女性ジュスティニアーナ・レニエール・ミキエールやイザベッラ・テオトーキ・アルブリッツィ、ヴェローナ女性スィルヴィア・クルトーノ・ヴェルザらと愛情溢れる友情で結ばれていた。 ……」 (4に続く)
  1. 2020/08/25(火) 23:50:58|
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ヴェネツィアの女: 初の女性ジャーナリスト、エリザベッタ・カミネール―Elisabetta Caminer(2)

(続き)
「彼女の教育学に対する興味については、それが、問題提起をするという事と啓蒙時代の価値観とに深く繋がった彼女の特別の感性の検出器の役をしていたとして強調すべきであるが、それは知識がもっと広く普及すれば人類はより良いものになるという根拠がなくもない確信であり、母親の役目は子供達の教育の、結局は将来の人類教育の主となる柱となるので、当時第一に、女性の教育に対して特別の心配をしていた。
pietro chiari『カルロ・ゴルドーニの肖像』Carlo Gozzi[左、ピエートロ・キアーリ像(サイトから借用)、中、カルロ・ゴルドーニ像、右、カルロ・ゴッズィ像] 
また演劇界については、キアーリ、ゴルドーニ、カルロ・ゴッズィ間の敵意に満ちた批判の現場にいた。ゴッズィはバレッティに向けたある手紙の中でその事に対して自分の不快感の全てをぶちまけているが、特にゴッズィとはそれほど相当激しく燃えた論争をしたのだった。≪新聞で俺の演劇作品は、支離滅裂な化け物、バラバラな場面だらけのあほな下書き原稿、台詞が書かれていない、侮辱に満ちたお楽しみ、最小の考慮にも値しない作品、と扱われた。≫と。

しかしエリザベッタは、全てに応えている。≪Donna Serpente と Re Cervo……[『蛇女』『鹿の王』他はゴッズィ作品]では放棄されてしまった、今日見られるイタリア演劇、そして更に同じような他の下品さや道化っぽい役、そして自惚れ、狂信、愚かさでイタリアは羞恥心だらけ、といったものは、印刷出版の世界にも蔓延してきている。≫

しかしそれとは別に、ゴルドーニの改革の明確に革新された点を把握することが出来て、“比べようのないゴルドーニ”の側に基本的に立ったのである。≪その喜劇は人々に理性を取り戻させたのであった。しかし冷静で、論証的な説得力ある厳しさで導かれた、『Ventaglio(扇子)』の批評の中でのように、幾つかの行きすぎ、幾つかの抑制を率直に批判することも出来た。それは1世紀以上後に『mancò a Goldoni il coraggio della riforma』を書いたフランチェスコ・デ・サンクティスの論評に先立つものであった。

結局演劇の世界でも彼女は時を過ごしたのであり、日常生活によって引き起こされる事件や人物と共にある中産階級の環境の中に概ね置かれた、いわゆる“larmoyante(ラルモアヤント)”のコメディーの普及に決定的な貢献をした。そしてその世界で彼女の偏愛がゴルドーニ風の作品のある部分に対する偏愛へとなっていったのは当然であった。
[la comédie larmoyante=18世紀に流行したお涙頂戴劇(コメディ・ラルモアヤント)。]
『地理の勉強』[ロンギ画『地理の勉強』]  しかし“ラルモアヤント”コメディーは、心を揺さぶり、涙を誘うジャンルのものである。そしてそこではゴルドーニからのエリザベッタの離脱が始まるのである。ゴルドーニは皮肉っぽく悲しみを包み隠すことが屡々だったし、今やそこまで近付いているロマン主義には彼の思いが投射されていた。 」 (3に続く)
  1. 2020/08/20(木) 23:55:31|
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ヴェネツィアの女: 初の女性ジャーナリスト、エリザベッタ・カミネール―Elisabetta Caminer(1)

以前ヴェネツィア新聞≪Gazzetta Veneta≫紙を創刊した編集者ガースパロ・ゴッズィについて触れましたが、今回紹介するのは≪Giornale Enciclopedico≫紙を創刊し、編集経営、印刷した史上最初の女流ジャーナリスト、エリザベッタ・カミネール(1751.07.29ヴェネツィア~1796.06.07オルジャーノ)です。PC上にはWikipedia、Treccani、Enciclopedia delle donne等紹介がありますが、ここでは以前にも紹介したBruno Rosada著『Donne veneziane―amore e valori』(Corbo e Fiore Editori)からです。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』Elisabetta Caminer Turra[カミネール像、Wikipediaから借用]  「もしこの人が男子であれば、我々はその思考の奇特な現代性、更には想像力豊かで活気に満ちたその行動力に吃驚するかも知れない。しかし正しく女性なのであった。1700年代のヴェネツィアの状況で、他にも第一流の女子が見られるのは確かである。大アマチュアとしての人物像が恒常的に存在する、ということでもなければ、一人のみということでもない。

しかしエリザベッタ・カミネールという人物は、一つの領域、より詳しく言えば、ジャーナリスティックな編集という、まだ当時それ程知られていない領域で、慎重な起業家戦略で文化的な面と大衆的な面の仕事を統合することが出来たのであり、この世紀では初の女性であり、能く考えれば、続く世紀の中でも非常に珍しい女性であったのである。

彼女には唯一有利な点があった。“血筋”というものがあったのである。父ドメーニコは、ガースパロ・ゴッズィの≪ガッゼッタ・ヴェーネタ(Gazzetta Veneta)≫を引き継いだ≪新ガッゼッタ・ヴェーネタ(La Nuova Gazzetta Veneta)≫を1762年に興した人だった。そして翌年≪Diario Veneto(ヴェネツィア日誌)≫を創刊し、5年後には≪Europa letteraria(ヨーロッパ文学)≫、1777年には編纂者ジョヴァン・バッティスタ・アルブリッツィから≪Il nuovo Postiglione. Novelle dal mondo(新御者。世界のニュース)≫を手に入れた。

エリザベッタは1751年7月29日生まれた。≪Europa letteraria≫に書き始めたのはまだ17歳になったばかりで、1年の"見習い”の後、雑誌には事実独りで執筆したが、それは楽しそうで魅力的な文体で、特に大いなる思慮分別を示して、人を説得して止まない良識と博識多才が光った。

歴史家マリーノ・ベレンゴ(Marino Berengo)が書いている様に、『約言したり文を形成するのに低調な文体には決して与しなかった』が、『文化面で異説を唱える炎を燃やす』術は知っていた。そして人々が雑誌の黄ばんだ頁を1頁ずつ捲りながら気付くことが出来るようにと、彼女は哲学から科学(当時それ程時代遅れになっていなかった)にまで、また歴史から文学にまで目を光らせ、最終的な鍛錬では、ヨーロッパの色々な国の最新の産品についての素晴らしい知識まで得ていたのである。

『私の新聞は…』と彼女は書いている。しかしそれには父が署名している。『他の新聞の最良のもの、特に外国種の、最良の文学新聞から取捨したものであり、それは取材費の節約のためなのだが、文学者達の奮闘努力のお陰であった。しかし提供出来る、全ての新刊本の情報の掲載を欠かすということはしなかった。』

ともあれ20年強に渡って間断なく、特に区々の仏語作品の翻訳を刊行し続けたが、それは仏国から文化的にも倫理的にも好意あるメッセージが届けられていたこともあって、その事に能く精通していたのである。こうして男女同権主義的著作の沢山の翻訳を提示し、仏語のみならず英語著書、ジャンリス夫人(Madame de Genlis)、Lembert、その他アヴァンギャルドな作家の著作が彼女の翻訳でイタリアに出回ったり、彼女の論文で周知となった。 

20歳の時、4巻の『現代演劇翻訳作品(Composizioni teatrali moderne tradotte)』を上梓し、更に2年後には6冊を刊行した。それは英語、西語、露語、丁語の演劇作品であり、仏語からは2年の間に夥しい数の教育学の本を訳した。その少し後の1781年は、スイスの詩人サロモン・ゲスナー(Salomon Gessner)の独語詩を翻訳している。 ……」 (2に続く)
  1. 2020/08/14(金) 16:28:05|
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ヴェネツィアのバッフォ家

『ラスト・ハーレム』という映画があったそうですが、私は見ていません。オスマントルコ末期、イタリアからハーレムに売り飛ばされた少女の話だそうです。そのような運命を辿ったヴェネツィア共和国の少女の実話があります。エロチック詩人ジョルジョ・バッフォが『Un della mia famegia per Levante/ Con so muggier insieme, e con so fia....(東邦に向かう我が一族の一家は/ 妻と娘を同伴し……)』とソネットに謳った Cecilia Baffo の話です。2016.12.08日の町案内(13)等のブログで、バッフォ については数回触れています。

バッフォ家は、Wikipedia によればキプロス島のパフォス(Pafo)出身で、パルマに越し、その後メーストレに移り、827年にはヴェネツィアに移住したそうです。特に聖職に拘ってその方面で活動し、サン・セコンド島にはサン・セコンド教会、カンナレージョ区にはサンタ・マリーア・マッダレーナ(S. M. Madarena)教会を建てたそうです。伝説によれば、この教会傍に自分達の要塞を作ったらしいです。

黄金文書への記載は、ある人は1297年のセッラータ以前に、既に大評議会議員だったとし、この子孫は12世紀から記録が残るそうです。またある人はジェーノヴァ戦争時やティエーポロ謀反時には、明確に貴族として選ばれていたとしているようです。
『ヴェネツィア人物事典』今迄何度か触れてきた、この有名なヴェネツィア語詩人のジョルジョ・バッフォはチェチーリア・サグレードと結婚し、娘が一人あったのですが、そこで一家は消滅したようです。M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』によれば、チェチーリア・バッフォの一生は次のようだったそうです。
ヌール・バヌー[サイトから借用]「 スルタン夫人(C.1525ヴェネツィア~1583.12.07イスタンブール)となる。

チェチーリア・ヴェニエール或いはチェチーリア・ヴェニエール=バッフォともいう。パロス(Paro)島の総督だったニコロ・ヴェニエールと大セバスティアーノ・ヴェニエールの従妹だったヴィオランテ・バッフォの間に出来た娘で、1537年攫われたのだが、それはオスマントルコの、赤髭とよばれた海賊Khair ad-Dîn(ハイール・アッディーン)に彼の島で襲われ、コンスタンティノープル(Costantinopoli)に鎖に繋がれて運ばれた時のことで、スルタン・セリム(Selim)2世のハーレムに売られたのだった。

しかしスルタンは直ぐにこの美しい少女にすっかり惚れ込んで、イスラム教に改宗させた後、自分の嫁に選んだのだった。名前もNûr Bânû(ヌール・バーヌー(光を守る者の意)と改め、愚か者(lo stolto)と呼ばれたセリム2世の最愛の妻[ハセキHaseki]となり、ムラト(Murat)3世の慕われる母[母太后Valide]となった。

結婚し、続いて母となる事により、彼女の政治的影響力と権力は巨大になっていき、サリム2世が没した時もムラト3世が権力の座に就いた時も変わらなかった。スルタンの母は息子によって有徳の人として常に事は聞き届けられ、尊敬された。

駐在する全ての外国大使達は、彼女に贈り物する時、より珍しい高価な物を競い合ったし、人民は彼女を慕い、宦官や腹心の部下、護衛達に囲まれて20台の馬車の行列でイスタンブールの見える道を通る時にはお辞儀をし、喜びの叫びを上げるのだった。母国ヴェネツィアとの関係も常に良好で、手紙や贈り物の交換が能くあった。

1583年12月7日亡くなった。サンタ・ソフィアのモスクの前の霊廟に夫の隣に埋葬された。彼女の思い出としてあるのはイスタンブールにある、素晴らしい"Yeni Valide Camil"(偉大なる母の新しいモスク)の建立にある。これは1597年、息子スルタン・ムラト2世によって建立された。 」

バッフォ家には今一人、名を遺した人がいます。M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』から紹介してみます。
スルタンの妻[サイトから借用]「 Dorilla Baffo(1530ヴェネツィア~1605イスタンブール)、スルタン夫人となる。

コルフ(Corfù)島のヴェネツィア総督の娘で、極めて美しい才媛だった。13歳の時、大トルコのハーレムをより豊にするためにと、オスマントルコ帝国の首都で捕らえられた。マホメット教に改宗した後、他でもないムラト(Murat)3世その人に嫁ぐまでほんの2年しか経っていなかった。こうした恋の絡み合いにムラトの母、チェチーリア・ヴェニエール=バッフォが無関係であったはずはない。彼女は母方の血筋ではあるが、バッフォ一族に繋がっていたからである。

彼女は一男メフメト(Mehemet)を儲け、息子はメフメト3世として帝国の王位に就いた。

彼女(Sâfiye Sultanと呼ばれ、純粋なるものの意である)の姿は、トルコ皇帝を西欧社会に近付けようとして、第一人者として遂行した外交関係のお陰にも寄るのだが、彼女が長い全生涯を掛けたほどの苦労ある仕事だったという、非常に重要なものであった。実際、故郷ヴェネツィアとの関係強化のみならず、イギリス女王エリザベスとの書簡の密なる交換も彼女に寄るものである。女王はブリテン島とトルコの最初の貿易を実現することになる。当時フランスの王座を支えていた、マリー・ド・メディシスとも別の密なる関係を築いた。

1605年刺客の手で刺されて死亡した(データは明白でない)。依頼人はジェーノヴァ人だったのではないか、と思われる。彼らは、憎むべきライヴァルには打撃を与え、商業活動では自分の同国人に便宜を与えた、このヴェネツィア女を憎んでいたからである。

モスクは彼女のための、Cairo[勝利者の意?]のAl-Malika Safiyya と呼称が奉献された。 」

この本は上記のように彼女の名前をDorilla (他の資料はソフィーア"Sofia")とし、生年も他の資料の1550~1605/1619と違います。死の模様も描写が違います。トルコの資料は死を1605.01.または1619.11.としています。他のテキストと初期の経歴等も異なります。また英語のWikipediaはヴェネツィア人ではないのでは、としています。過去の事を掘り起こすのですから、色々な考え方があるということでしょう。バッフォ家関連ということで訳してみました。
  1. 2020/07/27(月) 09:42:23|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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