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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヤーコポ・ベッリーニ

ヴェネツィアのルネサンス絵画は、ベッリーニ一族からその名が高まるそうです。父ヤーコポ、長男ジェンティーレ、次男ジョルジョ。ジョルジョ・ヴァザーリの『ルネサンス画人伝』(白水社)は、3人の事を語っています。先ず父ヤーコポ(15世紀初期、ヴェネツィア~1470年頃、ヴェネツィア)から引用してみます。
ジョルジョーネヴァザーリ著「さて、ヴェネツィアの画家ヤーコポ・ベリーニはジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの弟子で、競争相手に、アンドレーア・デル・カスターニョに油彩の技術を伝授したドメーニコ(・ヴェネツィアーノ)を持っていた。このドメーニコがヴェネツィアの地からそとへ出て行ってしまうまで、ヤーコポの名は、本人がすぐれた画家になろうといくら努力を重ねても、さっぱり売れなかった。

対等に競い合える相手がこの町にいなくなって、ヤーコポの信用と名は上がる一方となり、腕のほうにも磨きがかかり、画業において当代随一の名声を得るにいたった。天は、絵画における名声がベリーニ一族ならびに子孫によって、いつまでも現状維持ではなく、さらに増大するよう望み給うたのか、二人の子供が授かった。

二人とも絵を大いに好み、かつまた輝かしい天才に恵まれていた。名を片やジョヴァンニ、片やジェンティーレという。ジェンティーレの名は、慈父のごとき師匠のジェンティーレ・ダ・ファブリアーノに父が抱き続けた優しい思い出にちなんでつけられている。二人の子供がある程度育つと、ヤーコポは自身で素描の基礎を熱心に教え込んだ。

しかし、両人とも父をはるかに追い越すのにそう長い時間はかからなかった。これには父も大喜びで、いつも両人を励ますことしきりであった。父は、競走して相手に負けぬよう全力をあげるのが自慢であるトスカーナの人たちの例にならって、画業の手引きを受けた順番に、まずジョヴァンニが父を凌駕し、次にジェンティーレが両者を越えるようになればよいと望んでいた。
聖母子(1455)[『聖母子』像、アッカデーミア美術館蔵、サイトから借用]  ヤーコポの名を高からしめた最初の仕事は、ジョルジョ・コルナーロとキプロスの女王カテリーナの肖像画であった。さらには、ヤーコポがヴェローナに送った『キリストの受難図』があり、そこでは多くの人物が扱われ、自画像も描いている。また、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ会堂(スクオーラ)にあるとされる『十字架縁起図』がある。ヤーコポはこれらの絵を、他の多くの作品同様、息子たちの手を借りて描き上げている。最後にあげた物語図はヴェネツィアの通例に従って画布に描かれている。

他の地方では一般に楓、一部には白ポプラと呼ばれる樹の板が用いられるが、ヴェネツィアでは稀である。この樹は主に河岸および水辺に育ち、質が柔らかで、絵具の乗りが実によく、のりではり合わせて合板にすると反りがまったくこないからである。しかしヴェネツィアにおいては画板は作られない。稀に画板を作ることがあれば、樅の木の板しか使わない。アーディジェ川を通してドイツ領から大量に運ばれてくる樅材が、ヴェネツィア中にころがっているためである。スラヴ諸国から充分の供給があるのはいうまでもない。

さて、ヴェネツィアでは画布を使うのがしきたりで、その理由としては、割れない、虫食いがない、好みのサイズの画布が得られる、あるいは別のところで言及したが、望みの場所へ手軽にごく安く送れるといったことがあげられる。……」 (小谷年司訳)
  1. 2019/06/21(金) 03:01:41|
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ジョルジョーネ(4)

若桑みどりさんの『絵画を読む』(日本放送出版協会、1993年3月1日)の時代は、未訳だったサルヴァトーレ・セッティスの『La ≪Tempesta≫ interpretata. Giorgione, i committenti, il soggetto』 (Einaudi Editore、Torino 1978)が『絵画の発明――ジョルジョーネ「嵐」解読』(小佐野重利監訳、石井元章・安達薫訳、晶文社、2002年11月25日)として出版されています。少し引用してみます。
サルヴァトーレ・セッティス『絵画の発明』「二人とも、彼らのこれまでの経験と人類の未来の歴史を少ない筆致で要約する《教訓的な風景》のほうを向いている。背景には、“快楽の園”であるその町がエデンの川を越えてはいまやいかなる人間も通わない橋の向こうに、塔や円柱、城壁に満ちた近寄ることのできないものとして存在する。

人類と蛇に呪いを宣告し、またそれを繰り返す“遠くからの声”としての雲を裂く稲妻が、町の上にも橋の上にも、遠くから脅かすように迫っている。それゆえ、アダムは身じろぎもせずに棒に寄りかかり、エヴァは小さなカインに乳を与えながら、産後の裸体をかろうじて茂みに隠しているのである。二人に挟まれた二基の折れた円柱は、人間の生の筋書のなかに――労働の苦労と出産の苦痛を伴って――入り込んでしまった《死》を表すエンブレムとなっている。

物静かで可愛らしいカインは、将来、彼が犯すことになる兄弟殺しをその独りだけのあどけない容姿のなかに予告している。それは、罪と神の懲罰からなる苦痛に満ちた道を通って人間が歩まねばならない道程なのである。

前景には、かろうじて見える程度に、蛇が油断のならない様子で地に身を隠しているが、この蛇こそ誘惑と原罪の原因であり、それゆえ、蛇もまた神の呪いに打たれ、《女》のかかとに踏みつぶされる運命にある。このため、神の厳しい言葉は、人類には同時に《言葉》の化肉と贖罪の約束となるのである。
……
『三人の哲学者』にとってと同様に、もし場面が――ベルガモのコッレオーニ礼拝堂やロベッタの一連の版画におけるように――《原罪》、《楽園追放》、そして、神の声と彼らやわれわれの運命に関するこの無言の瞑想を表現する一連の作品のなかにあったのならば、それはたちどころに理解しうるものとなるであろう。

したがって、これは物語の表示された《希釈》からでなく、想像された《希釈》から生まれた場面ということになり、それに対して、物語の続きの諸瞬間を示す――つまり蛇(《原罪》)、小木(《恥辱》)、稲妻(《呪い》)、アダム(《労働》)、エヴァ(《出産》)、円柱(《死》)、カイン(《犯罪》と《責め苦》)――があたかも《縮約》されたかのように、そしてそれにもかかわらず、《道徳的な》風景の中に完璧に溶け込んでいる。

神を稲妻に、蛇をかろうじて見えるような存在に《還元し》、《死》を折れた円柱で表し、《犯罪》をまだ純真なカインで表すことによって、ジョルジョーネは自らの絵が物語の諸瞬間の集積物になることを回避した。 ……」
  1. 2019/06/14(金) 02:33:59|
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ジョルジョーネ(3)

ジョルジョーネの『嵐』(ヴェネツィア、アッカデーミア美術館像)は、描かれた直後からその主題が判らず、色々の研究者が色々の説を述べているという作品だそうです、謂わば研究者の数だけ説がある訳です。私などは主題等判らずとも何故か作品に引き込まれてしまいます。
ジョルジョーネ『Tempesta(嵐)』アッカデーミア美術館……若桑みどりさんと言えば、『クアトロ・ラガッツィ――天正少年使節と世界帝国』(集英社、2003年10月30日)という大部の本を書かれ、傑作として頓に有名ですが、亡くなられる前、大分前の事、若桑さんがNHKでこの『嵐』に関わる諸説を紹介されたことがありました。それが本に纏められ、『絵画を読む――イコノロジー入門』(若桑みどり著、NHKブックス、1993年3月1日)として上梓されました。
クアトロ・ラガッツィクアトロ・ラガッツィ裏絵画を読む「……またやっかいなことには、一九四二年に発表されたこの絵のX線写真によると、作者ははじめ、男性が描かれている左の下の部分に、全裸の女性が川に足を浸しているところを描いていたことがあきらかにされた。つまり、作者ははじめ画面の左側に男性ではなくて、女性を描こうとしたということになる。このことをどう解釈するかによって主題の考え方がちがってくる。

たとえば、この事実をもとにして、作者は結局男でも女でもよかったのであるから、特定の主題には固執していなかった、ととる場合である。このような受け取り方をする学者のなかには、この絵には特定の主題はなく、やはり一種の風景画であったという結論にいたるものもいる。

また第二の種類の考え方は、作者は最初男女ではなく、《二人の女》によってなにかを表現しようとしたが、後にこれを男と女に変えたのだ、というものである。それは蓋然性が高い考え方で、これにもとづくと、バッコスの誕生という線は消えてしまう。そして、2人の女性像、いっぽうは川に足を浸した女で、いっぽうは大地にいて子供を養っている女という二人の女性像からなる主題が重視されてくる。

そこで、この当時流行していた《二人の女》の対峙する図像を探ってみると、まず浮かびあがってくるのが、《二人のヴィーナス》という図像である。すでに第二回で扱ったティツィアーノの『聖なる愛と俗なる愛』は、ジョルジョーネと同門、同時代の画家がこの二人のヴィーナスによって地上的な愛と天上的な愛を象徴させたことがあきらかになっている。

一九九一年に出版されたマルセラン・プレイネという学者の『ジョルジョーネと二人のヴィーナス』(邦訳なし)という本はこういう考え方をしたもので、単独の女性像は天上的なヴィーナスで、大地に座って子供に乳をやっている女性は豊饒のヴィーナスだと考える。そうなると、女性が抱いている子供はクピドということになる。
……
ここで消えた女のことをまた考え直してみると、あるいは、作者ははじめから男と女を描くつもりで、ただ、最初に女を左側に描いてみただけであったかも知れないという推論が成り立つ。この場合には、女は最初から子供をもっている必要はなかったということになる。制作の過程で作者は左に男性を、右に女性をおくことにし、さらに女性を子供を抱いて表わした方がいいと考えたかも知れない。

最初から男女が考えられていたとする説のなかで、もっとも緻密な推論を組み立てたのが、サルヴァトール・セッティスという学者の唱えた《アダムとエヴァ》である(『解釈されたテンペスタ』邦訳なし)。 ……」
  1. 2019/06/07(金) 08:53:27|
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ジョルジョーネ(2)

ヴェネツィア語では、Giorgioが Zorzo、Giorgioneが Zorzon(ゾルゾーン)なのだそうです。彼の短かった一生をM. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori)から紹介してみます。
『ヴェネツィア人物事典』Giorgione[自画像、サイトから借用] 「 ジョルジョーネ、画家(1477/78?カステルフランコ・ヴェーネト~1510.09.17ヴェネツィア)
ジョルジョ・ダ・カステルフランコはジョルジョーネと通称され、多分1477年(78年とも)?にヴェーネト州のカステルフランコに生を享けた。伝記的情報が乏しく、彼の人生を確信をもって再構成するのは難しく、正確なところは知る由もない。例えばヴェネツィアでジョヴァンニ・ベッリーニの弟子であったことはジョルジョ・ヴァザーリの証言によるものであった。

彼の絵画はアントネッロ・ダ・メッスィーナ、デューラー、レオナルドのような大画家の影響にまで遡るのだが、ヴェネツィア滞在中、色々な画家の絵画語法を取り入れた。潟の町で2つの重要な作品を描いた。一つの大作は今日では失われてしまったが、それは1507年か1508年と推測される総督宮殿の謁見の間に描かれたものであり、もう一つはドイツ人商館のファサードに描かれたフレスコ画群で、1508年に完成したが、今日アッカデーミア美術館に保存されている裸婦の断片一点が残るのみである。

彼に帰属する若き日の作品には、ワシントン国立美術館の“Adorazione dei pastori(牧人の礼拝)”や“Adorazione dei Magi(東方三博士の礼拝)”、“Madonna col Bambino(聖母子)”、“Giuditta(ユディト)”、“Laura(ラーウラ)”、“Prova del fuoco(モーゼの火の試練)”がある。

確証のある、彼に帰属する他の作品には、ヴェネツィア貴族マルカントーニオ・ミキエールの年記1525年と1543年の記述が記された作品、ヴェネツィアのアッカデーミア美術館の“La Tempesta(嵐)”とウィーンの美術史博物館の“I tre filosofi(三哲人)”、ドレースデン美術館の“Venere(眠れるウェヌス)”がある。

それらに比肩する作品に、恐らく1504年のカステルフランコ・ヴェーネトのサン・リベラーレ教会(ドゥオーモ)の“Pala di Castelfranco(玉座の聖母子と聖リベラーレと聖フランチェスコ)”やカリフォルニアのサン・ディエゴ博物館の“Ritratto virile(男の肖像)”がある。

ティツィアーノやセバスティアーノ・デル・ピオンボのような画家達に与えた彼の影響は、著しいものがある。ジョルジョーネは1510年の秋ヴェネツィアでペストのために亡くなった。

ヴェネツィアにある他の作品には、上記以外ではアッカデーミア美術館に“I santi Marco, Giorgio e Nicolò salvano Venezia dalla burrasca(時化からヴェネツィアを救う聖マルコと聖ゲオルギオス、聖ニコラオス)”、“Nudo di giovane donna(裸婦)”(1508年フレスコ画)、“Ritratto di vecchia(老婆)”、“Sacra conversazione(聖会話)”があり、サン・ロッコ大同信会館に“Cristo che porta la croce e manigoldo(十字架を担うキリスト)”、教皇庁神学校(Seminario patriarcale)に“Apollo e Dafne(アポローンとダプネー)”がある。 」

彼の絵は次の画像のサイト、Giorgioneで見ることが出来ます。
  1. 2019/05/31(金) 02:44:22|
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ジョルジョーネ(1)

フィレンツェのジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari、1511.07.30アレッツォ~1574.06.27フィレンツェ)が書いた評伝『ルネサンス画人伝(Le vite de' più eccelenti pittori, scultori e architettori)』(平川祐弘・小谷年司・田中英道訳、白水社、1982年4月2日)の中に、ヴェネツィアの画家の一人、私が好きでその生まれ故郷のカステルフランコまで行った、ヴェネツィアで活躍したジョルジョーネについて書かれています(その町にジョルジョーネ美術館(ジョルジョーネの家)がドゥオーモ傍にあります。彼のデッサン、楽しいです)。下にこの書から一部引用しました。
ジョルジョーネヴァザーリ著「レオナルドの作品によって、フィレンツェが大いに宣伝された頃と時期を同じくして、ヴェネツィアでは、その市民の一人の優れた才能が、この町の美しさに少なからざる貢献を成し遂げている。この人物は、市民たちの敬愛おくあたわざるベリーニ兄弟はおろか、それまでにこの町で画筆を取ったいかなる画家をも、はるかに抜きん出ていた。彼こそ、トレヴィーゾ領内カステルフランコに一四七八年生を享けたジョルジョである。当時のヴェネツィア統領はジョヴァンニ・モッツェニーゴで、同じく統領をつとめたピエーロの弟にあたる。

画家は大きな体と寛大な心の持主であったため、のちに大きなジョルジョすなわちジョルジョーネと呼ばれるにいたった。生れは卑しかったが、終生礼儀正しかった。ヴェネツィアに育ち、常に女性を愛するのを好み、笛狂(リュートきちが)いで、生前笛をとって歌わせれば、絶妙な演奏で、貴紳の催す楽曲の集いにしばしば召し出されたほどであった。
……
一五〇四年、リアルト橋のかたわらにあるドイツ人商館に大火が発生、火は商品もろとも商館を焼きつくし、商人に大きな損害を与えた。ヴェネツィア政庁は再建を決定し、以前より住み心地のよい、豪華絢爛たる設備をそなえた建築がすぐに落成した。ジョルジョーネの名が高まっていたため、建築責任者たちは談合の末、彼に彩色壁画の制作を委嘱することを決定した。

この町の目抜きの美しい場所に、ジョルジョーネをして想像力を存分に羽ばたかせ、すぐれた作品を制作させ、実力のほどを披歴させることになった。この仕事を手がけるにあたって、ジョルジョーネは、幻想のおもむくままに人間を描き、芸術上の表現にのみ心を砕いた。

事実、首尾一貫した筋書の物語も、現代古代を問わず人口に膾炙した人物も描き出していない。絵は私の理解を越え、人にきき正してみても理解している人は皆無であった。あちらに女が一人、こちらに男が一人と、勝手なポーズをしているだけなのである。一方は獅子の首を横にしたがえ、他方にはキューピッドの姿をした天使がかしずいている。一体これが何を意味するのか判断がつきかねる。

メルツェリーアの方に抜ける正門の上には、腰をおろした女が描かれている。下方には死んだ巨人の首があり、ちょうどユデトのように、首を剣先で持ち上げ、下にいるドイツ人と話を交わしている。女にドイツを象徴させようとしている以外には、何を表わさんとしたのか私には見当がつかない。

人物像のまとまりが良くなり、進歩の跡が歴然としているのは確かである。頭部、顔、肉体の一部はすぐれた表現で、色彩は生き生きしている。他人の作の真似ではなく、実際にモデルを見て描き上げようとしたことは、彼が払った努力のすべての点からみても明らかである。この建物は、商人が利用したり、公共の用をなすためよりも、ジョルジョーネの仕上げた作品によって有名になってしまった。 ……(小谷年司訳)」
ドイツ人商館[ヴェ語Fontego Dei Tedeschi] 色大理石でファサードを飾るのは大変な費用が掛かり、絵画の比ではないと言います(ダーリオ館のファサード等)。ドイツ人商館の壁面に彼がティツィアーノと二人で描いた壁画は、長年故に剥落し、その痕跡は現在はアッカデーミア美術館に僅かな断片が保存されているだけだそうです。上の“モッツェニーゴ”のスペルは Mocenigo(モチェニーゴ)、“メルツェリーア”は Merceria(メルチェリーア)でしょうか。あまり見かけない表記法です。彼についての伝説を、2011.11.05日のコンタリーニ・ダル・ザッフォ館》(1、2)で触れました。ドイツ人商館については2016.02.11日のドイツ人商館で。
  1. 2019/05/24(金) 09:39:35|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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