イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア室内合奏団(インテルプレティ・ヴェネツィアーニ)(5)とドイツ人商館

本日、伊文化会館アニェッリ・ホールでの、ヴェネツィア室内合奏団のマチネ・コンサートを聴きに行ってきました。彼らの来日コンサートは何度目になるのでしょうか。イ・ムジチを遥かに越していることでしょう。来年でインテルプレティ・ヴェネツィアーニ合奏団を結成して30年記念(1987年結成)となるそうです。
ヴェネツィア室内合奏団 1ヴェネツィア室内合奏団 2ヴェネツィア室内合奏団 3私がこのグループを初めて聞いたのは、1994年サント・ステーファノ教会ででした。1996年にはサン・サムエーレ教会で聴き、2000年にリアルトのサン・バルトロメーオ教会でチェロ奏者のダーヴィデさんと口を利くようになるまでは、ヴェネツィアの色々な楽団を聴きまくっていました。私にとって、フリードリヒ・ニーチェが言うように、ヴェネツィアとは音楽の代名詞でした。

サン・ヴィダール教会に拠点が定まり、ダーヴィデさんは奥さんのクラウディアさん(彼女が教会に張り付いて、楽団の入場券やCDの販売等を一手に引き受けていました。団長コニョラートさんの妹さんだそうです)を紹介してくれ、座席等をいつも確保して頂いていました、愛息のマリアーノ君の誕生による引退までは。

インテルプレティ・ヴェネツィアーニ(ヴェネツィア室内合奏団)については、今まで次のように触れて来ました。2008.07.15日のインテルプレティ・ヴェネツィアーニ(1)から、インテルプレティ(2)インテルプレティ(3)インテルプレティ(4)と。今年は町田市民ホールとか銀座ヤマハホールとか5ヶ所での公演だそうです。
フォンテゴ・デイ・テデスキまた10月1日ヴェネツィアでは日本でも知られたヴェネットーンが、リアルト橋のフォンテゴ・デイ・テデスキ(旧郵便局)の内部を改造して店をオープンすることが、La Nuova紙で取り上げられていました。ヴェネツィアの新名所の誕生でしょうか。
追記: 10月2日の《La Nuova》紙からフォンダコ内部屋上からオープンした内部と屋上からの眺め
  1. 2016/10/01(土) 23:40:01|
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インテルプレティ・ヴェネツィアーニ(ヴェネツィア室内合奏団)(4)

昨日イタリア文化会館で行われた、ヴェネツィア室内合奏団の演奏会に行ってきました。昨年に続き、3年連続の来日です。昨年はチェロ奏者のダーヴィデ・アマディーオさんはヴェネツィア本拠地の留守を守り、来日はなかったのですが、今年は来てくれました。
ヴェネツィア室内合奏団 表ヴェネツィア室内合奏団 裏当日の演目何年か前の横浜コンサートの時は、奥さんのクラウディアさん(団長のコニョラートさんの妹)同伴で、父君のコントラバス奏者ジャンニさん、ヴィオラ奏者の姉上ソーニアさんらを含めた演奏会でした。今回演奏会が始まる前、文化会館前の路上でばったり出会い、お喋り出来ました。

演奏はアントーニオ・ヴィヴァルディの『ラ・フォッリーア』で始まり、珍しくどよめきとスタンディング・オヴェーションで終わりました。私自身も大変感動しました。始まりの曲、ヴィヴァルディの『ラ・フォッリーア』をサン・ヴィダール教会で、ダーヴィデさんを中心に演奏する動画が Youtube にあります。次をどうぞ、ラ・フォッリーア
馬上の聖ヴィタリスサン・ヴィターレ(S.Vidal)教会祭壇画、カルパッチョ画『馬上の聖ヴィタリス』。この祭壇画前で彼らは演奏します。

数年前ヴェネツィアで、アッカデーミア橋を降りて、サン・ヴィダール教会前に差しかかった時、教会内部に眼をやると、祭壇で練習中のダーヴィデさんが気付いて手を振って呉れました。その後彼らの練習をずっと見ていました。練習風景を入口から見学してもいいのです。思い起こせば彼らの演奏を聞き始めて、今年が20年目となります。1994年、サント・ステーファノ教会で初めてこのグループを聴きました。前の席にいたフランス人夫婦が《Magnifique !》と叫んでいました。その2年後にはサン・サムエーレ教会で聞くなど長い歴史となりました。

インテルプレティ・ヴェネツィアーニ(ヴェネツィア室内合奏団)については、2012.09.25日のヴェネツィア室内合奏団等で今まで数回触れました。
  1. 2014/10/05(日) 03:42:09|
  2. 音楽
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シャンソン

今日の新聞を見ていましたら、仏国シャンソン歌手のイヴェット・ジローが97歳で亡くなったそうです。1955年に初来日し、’99年まで毎年のように来日した親日家だったそうです。厚生年金ホールのコンサートを思い出します。御茶ノ水駅前に、“ジロー”というシャンソン喫茶店がありました。イヴェットさんの冥福を祈ります。
ジローイタリアお宅になる前、第2外国語で仏語を勉強していた私は、近年パリに行った時、確認したいと思って見に行った、アポリネールのミラボー橋のことを思い出します。彼女の唄『ミラボー橋』を聞いていたからでした。歌詞を暗唱していたので、川面を見下ろしながら口遊みました。彼女の唄Le pont Mirabeaudを Youtube でどうぞ。

その他シャンソンと言えば思い出す歌手が彼女以外にもあります。前にもちょっと触れましたジョルジュ・ブラッサンス、そしてレオ・フェレらです。パリについてはパリ(1)、ブラッサンスについてはYoutubeの去年の雪、今いづこを、参考までにどうぞ。

今でもよく聞くコラ・ヴォケール(Cora Vaucaire)は、私にとってシャンソンのザ・ベストです。新宿・伊勢丹前にあったアート・シアターで見た映画『かくも長き不在(Une aussi longue absence)』の中で、イタリア出身という役柄でイタリア訛りの仏語を話すアリーダ・ヴァッリの女店主と浮浪者ジョルジュ・ウィルソンが彼女の喫茶店で、ジュークボックスの音楽でダンスをするシーン。流れる歌は、コラ・ヴォケールの唄『Trois petites notes de musique』です。私にとって、最高の仏映画でした。YouTube で、コラの歌をどうぞ。Trois petites notes de musique、日本題『小さな三つの調べ』。 

その他ムルージー(彼の小説が戦後翻訳され、素敵でした)、ジャン=ロジェ・コシモン、シャルル・アズナヴール等、聞きました。アズナヴールは聞くたびに、何故か映画『Tirez sur le pianiste』が思い出され、『Que c'est triste Venise(悲しみのヴェニス)』を聞きながら、思いをヴェネツィアに馳せます。Youtube でQue c'est triste Veniseをどうぞ。
  1. 2014/08/10(日) 17:07:09|
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ジョー・バルビエリ・トリオのコンサートと山上渡展

昨5月2日、伊文化会館でのジョー・バルビエリ・トリオのジャズ・コンサートに行ってきました。ナーポリ出身のシンガー・ソングライター、ジョーらによる、何故か私が大好きだったトランぺッター、チェット・ベイカー没後25周年記念と謳ったものだったので、逃す訳にはいきません(You tubeでChet Bakerをどうぞ)。ジョーの歌とギターを中心にしてチェットのナンバーが演奏されました。
Chet lives!Chet lives!チラシジョーの甘い声でチェットの唄を思い出させてもらい、久し振りに心からジャズに堪能しました。アントニオ・フレーザのピアノも素晴らしかったし(絶妙のアドリブがありました)、ルカ・アクィノのトランペットは最初チェットのパツラの再来と思わせ、後半、息を吸いながらの長時間息継ぎなしの演奏などで聴衆を沸かせました。そのため今年もまた青山のブルーノートにやって来るらしいラッパの名手ファブリッツィオ・ボッソを聞きに行かねばと思ったことでした。

帰宅前、新宿のヴェネツィアン・レストラン“イル・バーカロ”でワインの立ち飲みをしていると、隣で飲む3人の青年とお喋りが始まり、そのうちのお一人が現在ゴールデン街(街は外国の人で溢れ返っています)のバーで絵の展示をしているということで案内して頂きました。山上渡さんという絵描きさん(アーティスト)で、3階までの狭いバーの壁面一杯に小さな絵が大量に展覧されていました。細密な表現の世界は素晴らしいものでした。
WATARU YAMAKAMIYAMAKAMI チラシ絵の鑑賞後そのバーに腰を下ろして酒を飲みながら、もう一人の絵描きさんとイタリアの事などお喋りをしました。ヴェネツィアは面白い町ですね、という話から、彼の作品がジェーノヴァのエドアルド・キヨッソーネ美術館[お雇い外国人キヨッソーネが日本で収集した日本の美術工芸品が中心の美術館]に展示されているとかで、半田真規(はんだまさのり)さん(アーティスト)と名前を教えて頂き、今度イタリアに行った時には必ずキヨッソーネ美術館に寄りますと約束しました。

そんな事から、次回のイタリア行の旅程が浮かんできました。好きな作家チェーザレ・パヴェーゼの町トリーノから、日本美術のキヨッソーネ美術館の町ジェーノヴァ(エドアルドは東京で亡くなり、青山霊園に墓があるそうです)、美しい景観のチンクェ・テッレから更に南下し、友人の仏人ベアトリスが今度働く町と言っているチヴィタヴェッキアへ。彼女は“サムライ”の銅像があったと言って、メールで支倉常長の写真を送ってくれました。常長が1613年10月28日に石巻の月浦港を出帆して400年が経っています。2013.11.27日支倉常長について触れました。
太平洋横断地中海渡航ベアトリスが送ってくれた銅像の説明用、太平洋の航跡(左)と地中海世界での旅の軌跡の地図の写真[追記: スペイン到着前、キューバのハバナにも立ち寄ったそうで、ここに常長の銅像があるそうです]
そして私が日伊協会で初めて伊語会話を教わったレナータ・フィカーラさんは南端のレッジョ・ディ・カラーブリア出身で、イタリアで伊語を勉強するならレッジョに来なさいとこの町を勧められました。以前イタリア国内での日本対決と言われたパルマの中田英寿選手、また中村俊輔選手が属していたレッジーナはここレッジョのチームでした。対決の試合の時はパルマに見に行ったことがあります。トリーノからレッジョまで色々の町を訪ねながらイタリア縦断の旅を実現させたいものです。
[山上渡さんや半田真規さんの活動のご様子は、PCで検索すれば知ることが出来ます。]
  1. 2014/05/03(土) 19:34:05|
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ヴェネツィアのリヒャルト・ヴァーグナー(2)

ヴェネツィアの音楽● コンタリーニ・ダッレ・フィグーレ館(Palazzo Contarini dalle(delleとも) Figure): 1880年10月、ヴァーグナーはここに滞在した。豪華な調度品類に囲まれて『パルジファル(Parsifal)』の作曲を続けた。夜、偶には Joseph Rubinstein(露人、リストの弟子)のピアノ伴奏で、アリアを幾つか友人を前に歌ったものである(コージマは書いている。「彼の声は驚くほど澄んでいた。《トリスタンはどこへ行くのか(Wohin Tristan geht)》を歌った時には、私の心は千々に引き裂かれるほどであった。」)。あるいはまた、彼自身がベートーヴェンの曲を幾つか弾いた。
 
● ジュスティニアーン=ブランドリーン館(P.Giustinian-Brandolin――ドルソドゥーロ区ジュスティニアーン通り): 1858年8月30日~1859年3月24日までヴァーグナーは滞在した。「広い寝室に隣接する素晴らしいサロンを私は借りた。そこに鞄を持って来させて、8月30日のその夜、私は自分に言った、今やヴェネツィアに住んでいる。」

一冬まるまる過ごしたが、「そのアパルトマンは薄暗く、寒々としたものだった。」(2階の下の中2階を彼は借りたのだった)。そこでしょっちゅうストーブと悪戦苦闘しながら、『トリスタンとイゾルデ(Tristan e Isotta)』の第2幕を作曲した。そして『パルジファル』の作曲に取り掛かった。夜にはしばしば、音楽家の友人達に作曲したばかりの箇所を聞かせたものである。

● マリピエーロ館(P.Malipiero――サン・マルコ区マリピエーロ大通り): 1882年ヴァーグナーは家族同伴で、友人のシュライニツ一家に会いに来たものである。時にはピアノを演奏したり、自分の作品のアリアを歌ったりした。

● 造船所(Arsenale): 1882年4月24日ヴァーグナーは、門前に置かれた4匹のライオン像の一つに魅了された[それはギリシアの古代都市ピレウス(Pireo)から持って来られた一番大きな物]。コージマに言った。「このライオンは僕のヴォータン(Wotan――『ニーベルングの指環』の神々の支配者)だ。」

● パパドーポリ公園(Giardini Papadopoli): ヴァーグナーはヴェネツィア滞在時、ここに家族と共によく散歩に来たものだった。《鸚鵡と花壇》が好きだった。

● サン・ミケーレ島(Isola di S.Michele): 1883年の灰の水曜日[カーニヴァル最終日の翌日、四旬節の最初の日。この日は司祭が信者の額に改悛の印として灰を付ける習慣があるという]に、ヴァーグナーは自分のゴンドリエーレにこの墓の島に連れて行ってくれるように頼んだ。そしてここに来て気分が悪くなった。直ぐに彼はサン・ミケーレの小さな教会に連れて行かれ、僧侶達に介抱された。

● リアルト橋(Ponte di Rialto): ヴァーグナーはリアルト橋を渡る時は、脇の階段を通ることにしていた。というのは肉屋の店頭にぶら下げられた肉が不気味だったからだった。[階段が3筋あり、真ん中の階段を挟んで商店が2列向き合っていますが、現在は土産物屋しか開いていないこの橋に、当時はそうした肉屋さんもあったようです。]

● サン・マルコ大同信会館(Scuola Grande di S.Marco): 1876年9月25日ヴァーグナー一家はこの病院を訪れた。そしてこんなにも美しいホールに病人達が診察にやって来ることに心を打たれた。[メンディカンティ養育院の音楽活動は、既に1世紀も前に終了しており、当時は本当の病院(現在、市立病院)となっていました。]

● サンタ・ルチーア鉄道駅(Stazione-Ferroviaria S.Lucia): 1883年2月16日、ジュゼッペ・コンティーン・ディ・カステルセプーリオはヴァーグナーの眠る棺にドイツ語によるスピーチで弔辞を述べた。その棺は特別列車でドイツに送られるのである。透明なガラスの蓋を被せられた棺の中に収められた遺体は、月桂冠と棕櫚の葉で飾られたヴァポレットで運ばれて来た。黒い喪装で飾られたゴンドラが沢山付き従った。 ――A.ボーヴァ『Venezia―I Luoghi della Musica』(Scuola di Musica Antica Venezia、1995)より
葬儀用ゴンドラ[H.C.R.Landon e J.J.Norwich 著『VENEZIA――Cinque secoli di musica』(Rizzoli)やアリス・ソコロフ著『コージマ・ワーグナー』(猿田悳・森住衛訳、音楽之友社)はヴァーグナーの遺体は写真のようなゴンドラで鉄道駅まで運ばれた、としています。]
  1. 2014/03/19(水) 00:01:15|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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