イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

東京富士美術館

先日、八王子の東京富士美術館で大好きな伊藤若冲を展示しているというので行ってきました。最初に入室した常設展の方で私にとって予想外の絵を見ました。それは Alessandro Allori画『ビアンカ・カッペッロの肖像』(1572~87)です。ビアンカの肖像画が日本にあるというのは大変な驚きでした。
富士美術館チラシ表富士美術館チラシ裏  ビアンカ・カッペッロの肖像[東京富士美術館所蔵『ビアンカ・カッペッロの肖像』(アレッサンドロ・アッローリ(工房)画)]  ビアンカについては blog 天正のローマ使節 ヴェネツィアと日本との関係 バルバリーゴ・デッラ・テッラッツァ館 メーディチ家のミステリー 天正遣欧使節(9)等で触れてきました。資料によって筆者の彼女に対する評価が微妙に異なるのが分かります。今回は Marcello Brusegan『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton editori、2006)で、彼女の短かった生涯についてのご紹介です。

トスカーナ大公妃(1548ヴェネツィア~1587.10.20ポッジョ・ア・カイアーノ[Storia di Firenzeのデータ])

ビアンカ・カッペッロはイタリア後期ルネサンス期の最も興味深い女性の一人であるが、娼婦のような女、あるいは民間伝承的には魔女のような女として描かれるという、歴史上でもセンセーショナルに捏造された犠牲者である。

古いヴェネツィア貴族バルトロメーオ・カッペッロとペッレグリーナ・モロジーニ夫妻に生まれた。1563年、文字通り才色兼備の少女だったのだが、その階級にあるまじきことに、無一文で、彼女に釣り合う血筋もないフィレンツェの若者ピエートロ・ボナヴェントゥーリに恋をしてしまった。家族や町の反対があったにも拘わらず、その年の12月12日に結婚してしまい、子供を孕み、フィレンツェに駆け落ちしてしまった。

フィレンツェでもあまりに美人であったので、称賛者が絶えなかった。そうした男達の中にメーディチのフランチェスコ大公もあり、彼は見境もなく彼女にゾッコンとなり、彼女を身近に置きたいがため、ボナヴェントゥーリを自分の衣装係に任命し、彼女を王宮に招き入れた。

大公妃ジョヴァンナは若きライバルの出現に心痛のあまり、亡くなってしまい、フランチェスコとビアンカの幸せのための最後の障害がなくなった。またボナヴェントゥーリは殺された。二人はこうして婚礼を祝うことが出来、イタリアの全宮廷にその旨が知らされた。

ヴェネツィアはこのスキャンダルの初め、ビアンカと若者に死の宣告をしたが、その後大公との結婚が告げられるや、満腔の喜びを表明した。彼女の両親は最初は、かの貧しい商人との結婚を激しく拒絶したが、大公とのそれは心から祝った。

ヴェネツィアの元老院はビアンカ・カッペッロこそ《その幸運で自らを作り上げ、称賛に値するというよりは類稀なる性格でもって、真の、そして際立った共和国の娘となった》と宣言し、彼女の父と兄弟に“騎士”の位を授与した。そして祝鐘を鳴らし、イルミネーションで飾り、新大公妃の戴冠式が更に厳かであるようにと、素晴らしい使節団をフィレンツェに派遣した。

しかし悲しい歴史が彼女の頭上に色濃く渦巻いていて、娼婦的女だとする夥しい噂から逃れることは出来ないし、魔女だとする、悪意のある、いかがわしい評判の原因となっている。

1587年10月19日疫病に罹り、数日後ポッジョ・ア・カイアーノのヴィッラでフランチェスコが亡くなり、翌日若いヴェネツィアーナも夫の墓へと後を追った。大公夫妻の同時の死は、一般には大公弟のフェルディナンド枢機卿が、ビアンカのために調合した毒薬を夫婦が飲んだものと考えられている。フェルディナンドの意志でビアンカはサン・ロレンツォ教会の公共墓穴に葬られ、彼女の宮廷生活の痕跡は全て抹消された。
ビアンカ・カッペッロの肖像[『ビアンカ・カッペッロの肖像』アッローリ画別ヴァージョン。イタリアのサイトから借用。]
彼女の美しい肖像画の一つは、1572年頃アレッサンドロ・アッローリによって描かれ、フィレンツェのウッフィーツィ美術館に収蔵されている。」

この展覧会では、江戸末期来日したイタリア人写真家フェリーチェ・ベアート(1832年ヴェネツィア生、後英国籍獲得、1909.1.29フィレンツェ没)の写真工房で着色写真の修行をした写真家、日下部金兵衛の手彩色写真の数々も展示されています。
  1. 2014/05/10(土) 13:05:35|
  2. 絵画
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ヴェネツィアの鳥瞰図

娘が「好きな若冲を東博でやってるよ」と突然電話して来たので、慌てて東京国立博物館平成館に行ってきました。

伊藤若冲の『動植綵絵』のオンパレードでした。《皇室の名宝――日本美の華》と題した特別展で、御成婚50周年記念、御即位20年記念ということで宮内庁が所持する名宝の数々を展観したのでした。

『動植綵絵』は、若冲が相国寺に奉納したものですが、現在は天皇家が所持するものなので、こういう機会でなければ庶民は見られません。大変感動しました。

大変な人出で、とても絵を見る雰囲気ではありませんでしたが、それでも全然動かない人と人の間から絵の部分部分を見て回りました。今日は少し人が少ない、などの私語が聞こえたことからすると、何度も見に来ている人がいるようです。

若冲を見た後では、他の名宝は私にはどうでもいいようなものに感じられてしまいました。しかしそれらを見て時間を過ごしました。黒山の人だかりはこちらにはありません。
貝甲図池辺群虫図雪中鴛鴦図群魚図(蛸)紫陽花双鶏図閉館30分前に若冲の部屋に戻ると、人の姿が半減しています。館員に追い出されるまで若冲の絵の前にいました。私の好きな作品は、かつて出版されるや直ぐ購入した『奇想の系譜――又兵衛~国芳』(辻惟雄著、美術出版社、昭和45年3月1日発行)で知った『貝甲図』や『池辺群虫図』『雪中鴛鴦図』『群魚図(蛸)』『紫陽花双鶏図』等枚挙に遑がありません。

実は若冲の部屋に行く前に、『萬国絵図屏風』(8曲1双)という不思議な屏風絵を見ました。左隻の屏風は当時の世界地図を描いたもの、右隻は世界の都市図を描いたものでした(安土桃山~江戸時代、17世紀初期頃)。

説明によりますと、左隻の世界地図はオランダのブラウが1607年に刊行した大型の壁掛け世界地図、それを改訂したカエリウスの1609年版の世界地図等が原図になったと考えられるのだそうです。日本列島の形は大分違いますが、アメリカ南北大陸も描かれ、現代の地図に大分近くなっています。これらの絵は宣教師達が日本人に、将来西洋的な宗教画を描かせるための訓練として描かせたのではないか、と言われているそうです。

右の屏風絵は、平成8年の修理の際、『ローマ皇帝図集』に見られる皇帝図の下図が確認された、とかでポルトガルやインドのゴアをはじめ、ローマ、パリ、ロンドンなど世界の28の当時の都市が描かれているのだそうです。いずれにしても、これらの絵の元になったのはイエズス会の宣教師達が布教の道具として日本に持ち込んだものなのでしょう。

この都市図の中で私に直ぐ分かったのは、中ほどに描かれているヴェネツィアの鳥瞰図でした。魚の形で逆S字型の大運河が流れる図は、1572年刊の図(下に掲載)そっくりでした。もしかしてこの絵図が元になったのでしょうか。セーヌ川のシテ島らしきものが描かれたパリ(?)もありましたが、他は見当がつきませんでした。ヴェネツィアは当時も今もその形がそれほど変わっていないということです(島は拡張しようがないということ)。
『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊鐘響図』以前歌川豊春の『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』が、日本人がヴェネツィアを描いた第一号と書きました(2009.10.24)が、この屏風絵は更に古いものでした[直ぐ下のモノクロ図はヴェネツィアで1572年(右は1574年のもの)に出版された物、その右2図は今回展示の屏風絵です。絵柄が酷似しています]。2009.10.24日のヴェネツィアと日本との関わり(1)も参考までに。
ヴェネツィア鳥瞰図ヴェネツィア鳥瞰図万国絵図屏風ヴェネツィアやパリなど
  1. 2009/11/03(火) 00:01:24|
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Fondamenta Zattere(Z)(ザッテレ運河通り)

NHKイタリア語ラジオ講座のゲストとして出演されたミケーラ・フォースカリさんが、ヴェネツィア人のお好みの場所にザッテレ運河通りがあるとおっしゃっていました。

かつて旅行でヴェネツィアに行った時のある晴れた正午、この通りのレストランの前に置かれた外テーブルで、レデントーレ(Redentore)教会を眺めながら昼食をしていると、鳩にパン屑を与えていた隣のテーブルの中年の仏人夫婦が、TV で見たと言って英語で話し掛けてきました。

オッカイドー(北海道)で earthquake で大きな岩が落下、バスの上に落ち、児童が沢山死んだ、と。帰国して新聞を調べてみると、イタリアに到来して直ぐに、北海道で大きな岩がバスを直撃し、小学生らが死んだという記事がありました(1994.02.10日の北海道古平町豊浜トンネル崩落事故、死者20人)、地震ではなかったようです。

その仏人夫婦とは翌日散歩中、サン・マウリーツィオ(S.Maurizio)広場ですれ違い、今度は Bonjour! と声を掛けて別れました。嬉しいですね、こういう邂逅!

加藤周一氏は1983年、ヴェネツィア大学日本語学部のアドリアーナ・ボースカロ教授から客員教授として招聘され、大学の日本語・日本文学研究所で日本文学について、1年間(実際には8ヶ月)講じられたそうです。

『加藤周一著作集』(平凡社)のある巻の月報に、アドリアーナさんが書いています。その講義期間中のある日、加藤さんとザッテレ運河通りのレデントーレ教会を前にしたレストランで話された時、加藤さんからその著書『日本文学史序説』を伊語に訳して欲しいとの要望があったそうです。そして成ったのが、大部の『Storia della letteratura giapponese(全3巻)』。

加藤さんのヴェネツィアでの1年間の記録は、奥様の矢島翠さんの目から書かれた『ヴェネツィア暮し』(朝日新聞社、1987)として出版され、その後その書が平凡社ライブラリー(1994)として再版されました。その《ライブラリー版あとがき》から興味深い事を知りました。

サン・マルコ広場のコッレール美術館に展示されているカルパッチョの、かつて『二人の娼婦』と題されていた絵が、『二人のヴェネツィア女』と画題が変わったというのです。カリフォルニア州ロサンジェルスのポール・ゲッティ美術館にある、ヴェネツィアから来たと言われていた『ラグーナ(湾)での狩猟』と題された絵が、『二人の娼婦』(その前の題は知りませんが、ジョン・ラスキンが娼婦だと言い始めたと聞きました)の上部半分であり、切り離されたものであることが判明したのです。
『二人の娼婦』カルパッチョの『二人の貴婦人』『潟での狩猟』[右、『潟での狩猟』と『二人の貴婦人』を合成] 須賀敦子さんもこの絵のことを『地図のない道』(新潮社、1999)で書いておられます。上部の絵の百合の花と下部の絵の壷がぴったり一致し、その壷に描かれた紋章が貴族のトレッラ家のものであることが分かり、婦人達は貴族に違いないとなったのです。

1999~2000年にサン・サムエーレ広場(Campo S.Samuele)のグラッシ館で、この2枚のカルパッチョが並べて展観されました。

その時の新聞によりますと、紋章はトレッラ家のものではなくプレーリ家のもので、この一家は12世紀に消滅しているため、何故カルパッチョが消滅した家系の紋章を描いたのか、新しい謎が生まれたと記し、描かれた2貴婦人の目線の先に、切り取られたに違いない、更に左半分の絵を予測していました(Casseleria 通りのフィリッピ書店の店頭にその時の新聞のコピーが、長い間貼ってありました)。

2005年の夏には、アッカデーミア美術館で彼の特別展があり、ここの所蔵の聖ウルスラの連作以外に、各地から集められた彼の作品を沢山見ました。ヴェネツィアの人々はカルパッチョをこよなく愛しているに違いありません。

私もサン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館の聖ゲオルギウス作品を見て大変感動し、以来大ファンとなり、ヴェネツィアにある彼の作品を探して歩いています。キオッジャ(Chioggia)に行った時も、真っ先にサン・ドメーニコ教会の『聖パウロ(S.Paolo stigmatizzato)』に駆けつけました。
カルパッチョの『S.Paolo stigmatizzato』[カルパッチョ画『聖パウロ』(S.Paolo stigmatizzato, 1520)] リアルト橋近くのサン・サルヴァトーレ(S.Salvador)教会にある『エメイウスでの晩餐』という絵は、2004年頃カルパッチョ作品であることが同定されたそうです。相変わらず新発見があるようです。[2011年教会に入ってみますと《同定》の張り紙が剥がしてありました。]

Arianna(A) から始めて Zattere (Z)まで来ました。充電のため1ヶ月ほど休みます。
  1. 2008/01/19(土) 15:54:12|
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Pinacoteca Querini Stampalia(Q)

本土(terraferma)のトゥレヴィーゾ(Treviso)県に住むダーリオさんは、ヴェネツィア人の感覚は不思議だ、と言います。サンタ・マリーア・フォルモーザ(S.Maria Formosa)教会の"formosa"は、伊語で《豊満でセクシー》の意だから、信仰の対象たる聖母マリアの形容語としては奇妙(strano)だと言っていました。

言われて辞書を見ると、formosa は《女性が豊満な、肉付き良く均整のとれた》とあります。prosperoso《ピチピチした、血色のよい》と同義のようです。

ある本ではラテン語の formusus/a =伊語 bello, grazioso(優雅で美しい)がそのまま残ったのだと書いていました。前にも引用した Giuseppe Tassini 著『Curiosita` veneziane』は、聖母を俗語的に(volgarmente)に《S.Maria Formosa》と言っていた、からだとしています。

先頃、渋谷の文化村であった『ヴェネツィア絵画のきらめき』展で展覧された絵画に登場した美女達は、全て formosa で、prosperosa でした。かつては飢饉が多発し、庶民は飢えることが多く、痩せた人が当たり前の社会だったのでしょうから、ふくよかな女性は魅力的で、女性美=豊満ということになった、という文を読んだこともあります。

ヴェネツィア共和国政府は、大運河沿いに今に残るメージョ倉庫(Depositi del Megio)を設置していたように、庶民・市民のために食糧確保には大変気を使っていたようで、この倉庫の役人は食糧量には常に目を配り、必要とあらば買い付けに船を出したり、時には強引な海賊行為にまで及んでいたようです。この共和国政府の姿勢には刮目します。

サンタ・マリーア・フォルモーザ教会にある、パルマ・イル・ヴェッキオ作『聖バルバラと諸聖人』(1510頃)の聖バルバラは大柄で、まさに formosa な感じです。その凛々しい姿はヴェネツィア女性の理想美と言われているそうです。
カナレット『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)[左、カナレット画『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』、奥にフォルモーザ教会が見える。右、パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)]
この広場の東隣の一角にクェリーニ・スタンパーリア小広場(Campiello Querini Stampalia)があり、同名の美術館があります。前述した『ヴェネツィア絵画のきらめき』展で、来日したピエートロ・ロンギとガブリエール・ベッラの絵が多数展示されました。初めてヴェネツィアに行った時ここも訪れました。

今回の日本での展覧会も楽しかったのですが、初めての時は、自分はこれを見るためにここに来たのだ、という思いが込み上げてきました。ヴェネツィアの18世紀の風俗習慣に非常に魅了されていたからでした。

この美術館には、日本の仙台で客死した、ヴェネツィア生まれの建築家カルロ・スカルパ(1906~78)が整備した美しい庭園もあります。

夕方初めて訪れた時、ロンギとベッラの絵に満喫し、1700年代のヴェネツィアに陶酔していると、閉館間近、その入場券でコンサートも聴けますよ、と言われ出席しました。

広間に満席50脚ほどの椅子が並べられるプチ・コンサートです。直ぐ前に今夜の歌手の家族達が並び、幼い男の子が「マンマ!」と手を振ると隣のおじいちゃんにたしなめられていました。

リュートに合わせてのルネサンス歌曲のデュエットは、1時間足らずで終わりましたが、こういう催し事が定期的にここではあるそうです。こうしたヴェネツィア体験がこの街へのこだわりを強めていったようです。
  1. 2007/12/20(木) 00:11:09|
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Hotel(H)(ホテル・サン・マルコとホテル・ソフィテル)

初めてヴェネツィアに行った時、1週間滞在しました。最初の3日間泊まったホテルは、サン・マルコ広場の旧行政館(Procuratie vechie)の直ぐ裏、ファッブリ通り(Calle dei Fabbri)の入口にある、ホテル・サン・マルコでした。泊まった翌朝、サン・マルコの鐘楼の7時の鐘の音で叩き起こされました。頭上の鐘のように驚くほどの大音響でした。

後半4日間は、ローマ広場(Piazzale Roma)近くのパパドーポリ公園(Parco pubblico Papadopoli)隣、クローチェ運河(Rio de la Croce)沿いに建つホテル・ソフィテルに移動しました。そんな訳で、ヴェネツィアの東西を初体験ながら少しは歩き回り、多少ヴェネツィア街歩きの自信が湧いたような気がします。

ソフィテルの部屋のバルコニーからは、下のクローチェ運河、左端の大運河から右端のトレンティーニ広場(Campazzo dei Tolentini)まで見渡せましたし、廊下の反対側の突き当たりからは、裏のパパドーポリ公園の緑が目に和みました。

この公園は昔から公園だったのではなく、元々はこの地区の名前の起源となった、サンタ・クローチェ(S.Croce)教会があったのだそうです。しかし1810年、何故か教区教会としての役目が廃止され、民間の倉庫に転用され、建物そのものが崩れ落ちると、結局は市の公園となったようです。

このサンタ・クローチェ教会の在りし日の姿を日本人が描いていました。それが分かるまでに次のような経緯がありました。

友達となった仏人ベアトリスが、仏国で出版された大きな《浮世絵本》の中に、ヴェネツィアを描いた浮世絵があると見せてくれました。そしてその浮絵(うきえ、遠近法を使用した浮世絵)の手本となったカナレット(Canaletto、1697~1768)の都市景観画(veduta)を、彼女に案内されたサンタ・マルゲリータ広場(Campo S. Margherita)の一画にある骨董屋さんで見せてもらうことが出来ました。

この版画に使用された用紙は、ヴェネツィア人が着古した麻の衣類や麻の雑巾などから作られたのだそうです。新しい麻布で紙に加工するには、硬質過ぎて紙になりにくいということで、使い古して繊維の軟らかくなった物が求められました。当時はそうした古布を集め回るのが仕事の人もいたようです。その紙にはヴェネツィア製を示す《V》の字が透かしで入っていました。

帰国してその浮絵、歌川豊春(1725~1814)の版画のことを、ベアトリスの《本》に記されていた神戸市立博物館に問い合わせると、常設していないので、東京国立博物館(やはり常設していない)か、《アダチ版画研究所》で訊ねてみるように助言を頂き、アダチを訪ねてみました。そして当時の手法をそのままに再現して刷られた《複製》に、出会うことが出来ました。
『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊鐘響図』アダチで教えて頂いたことは、歌川豊春が明和期(1764~72)頃、外国の遠近法を学ぶために、このカナレットの絵をヴィセンティーニ(Vicentini)が銅版画にしたものを手本に模写した、ということでした。題して『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』です(Google のサイトで《浮絵 紅毛フランカイノ湊万里鐘響図》で検索すれば、当時の絵が見られます)。

この浮絵の手本になった絵の出自が判明(『カナル・グランデの景Veduta del Canal Grande』と題された作品)したのは、ケルンの日本文化館の岡野圭一氏のお陰だそうです。

頂いた資料のヴィセンティーニ(Vicentini)のことが知りたくて、イタリア文化会館の図書室で十数巻のイタリア美術史事典で調べさせて頂きました。"Vicentini" は存在せず、"Visentini"(ヴィゼンティーニ)が見つかりました。Antonio Visentini(1688~1782)は、美術、建築の教師をしながら、カナレットの景観画を銅版画(incisione)にする協力者だったそうです。
[Vicentini(ヴィセンティーニ)は思い違いだったようです。 ヴェネツィアでは“ヴィゼンティーニ(Visentini)”と発声します]。
ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館左の、カ・ドーロ館左隣の大運河に面するミアーニ・コレッティ・ジュスティ館は、彼の手になる建物のようです。また数年前出版された、ヴィゼンティーニの銅版画を38点集めた Dario Succi『Le prospettive di Venezia―Dipinte da Canaletto e incise da Antonio Visentini―』 Grafiche Vianello srl / VianelloLibri では、絵の中で右岸に正面を見せるサンタ・クローチェ教会の景観を描いたこの版画は、"Prospectus ab Sede S.Crucis ad P.P.Discalceatos" と題されています。

当時、現在の絵葉書と同じように、ヴェネツィアのスーヴニールとして、ヴィゼンティーニのエッチングは売られていたのだと思います。あるオランダ人がヴェネツィアで買い求めたこの絵は長崎の平戸に到着し、豊春の眼前に現れたのです。

このことから、ヴェネツィアを描いた絵画の日本人の第1号は、鎖国時代の歌川豊春であり、彼の浮絵は、北斎の激しい日本的パースペクティヴの礎を築いていたに違いないと思われます。

追記=2009.10.24日のヴェネツィアと日本との関わり(1)でこれらの版画について触れました。
  1. 2007/11/10(土) 00:16:59|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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