イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(11): サン・マルコ広場

今までヴェネツィアの中心サン・マルコ広場について、余り触れてきませんでした。古本屋で買ったLeone Dogo編集『Questa strana Venizia』(Novara、1971)というガイドブックに、サンマルコについて簡単な紹介があるので訳してみます。
Veneziaサン・マルコ広場 1500年前、ヴェネツィアは存在していなかった。少なくとも“この”ヴェネツィアは存在していなかった。しかし繰り返される蛮族の侵入から逃れるため、ラグーナ(潟)の中に逃げ場を求めた、多くの政治的難民としてのヴェネツィア人の古い先祖達は存在していた。ある種の同盟で結ばれた小さなセンターが、ラグーナの島に幾つも発生した。人々は特に漁業の収益と塩の販売で生活した。

今やヴェネツィアを起ち上げた、これらの島のグループはこうしたセンターの一つを形成した(Rivo Alto[羅典語Rivus altus―非常に深い運河]と呼ばれた島)。門の前に舫った舟があり、木と籐や葦で出来た垣のボロ屋が点在し、運河に架けた木の小さな橋、野生動物が到来出来るような階段もまだなく、耕された畑に囲まれて貧弱な礼拝堂や小さな教会があり、平らな地では雌羊や乳牛が飼育されていた。

塩田として囲われた区域は仕事に活気があった。運河岸のここかしこには、潮流のゆっくりした流れで動く粉挽きの水車の姿があった。これは紀元655年にヴェネツィアに来て見れば、凡そそこに現出している風景であった、あるいはまた755年に。

修道女の果樹園――サン・マルコ広場なのか? 当然サン・マルコ広場にはそうしたものはない。このエリアには運河と水溜りが走り、近くのサン・ザッカリーア修道院の修道女の所有になる樹木の生い茂る brolo[ブローロ―果樹園]が広がっていた。
[総督宮殿の辺りは brolo、brogio (ヴェ語、果樹園)と呼ばれ、サン・ザッカリーアの修道女の所有でした。12世紀、総督宮殿が増築して建てられた時、彼女達はその地を総督に譲ったので、総督が年に一度復活祭の日曜日、サン・ザッカリーア教会に表敬訪問をする仕来りが生まれたそうです。
総督宮殿下のアーケードは broglio(伊語)とも呼ばれ、大評議会で採決する前、票集めのためにあのアーケード空間でひそかに票の売買が行われるのが毎度のことだったようです。そのため imbroglio(伊語、ペテン)という言葉が生まれました。オペラ等でごたごたや陰謀の場をインブローリオと言ったりします。]

809年カール大帝[シャルルマーニュ](伊語Carlo Magno)の息子ピピン(Pipino)が大軍を率いてリード島を平定した(当時そこにヴェネツィア政庁があった)。しかし彼の軍がザッテレまで来るとラグーナの水が退潮し、泥濘が罠となって足を取られ、二進も三進も行かなくなった。“水の穴”に足が嵌まり、文字通り全てが沈んだ。

ピピン軍は面目丸潰れで、何の成果もなしに退却したのである。ピピン軍の成果皆無の敗退で、ヴェネツィア人は自分達の中心地を、リードからより安全と思われるリアルトに移すことに決めた。それ故サン・ザッカリーア修道院のバデッサ座下の同意を得て、総督達は、現在総督宮殿が建っている場所に彼らの住居を建てた。
[サン・ザッカリーア教会には洗礼者ヨハネの父、聖ザカリアの遺体が祀られています。この遺体はビザンティン皇帝レオ5世(813~820)が友情の印として、ヴェネツィアに贈与したものだそうです。ヴェネツィアには聖マルコやシラクーザの聖ルキアの遺体が現存します]

その代りバデッサ座下は権力の象徴としての角の形をした総督帽を、総督が年に一度修道院に表敬訪問する時、彼にそれを手渡し、着飾って貰うという特権を得た。

木の教会――20年ほど後、2人の冒険好きのヴェネツィアの商人が、エジプトのアレクサンドリアの教会から福音史家聖マルコの遺体を盗んでヴェネツィアに持ち帰った。その時まではラグーナの人々の守護聖人は、ドラゴンを制圧した聖テオドリウスであり、その何年も前の事、ビザンティンの将軍ナルセス(Narsete―ベルサリオス将軍の後任)の兵士達が、修道女の有名な《果樹園(brolo)》にお堂を建立したのだった。ヴェネツィア人は勿論の事、守護聖人の役を聖テオドリウスから聖マルコに変更する事を決めていた。

新しい守護聖人の栄えある教会が、数年後総督の《城》の直ぐ傍に建造された。それは当時ヴェネツィアの全ての建造物がそうであったように木の教会で、976年僭主化していた総督に抗議した人民が、総督の館に近い教会に火を放ち、焼失したのだった(この総督ピエートロ・カンディアーノ4世は逃げ出そうとしていたところを、教会玄関で腕に抱えた幼い息子もろ共虐殺されてしまった)。

新総督ピエートロ・オルセーオロ1世はより美しい、未だかつて見た事もない物を再建した。彼は国家財産に全てを注いだ聖なる男だった。だから自費で建てようとし、直ぐ傍に貧しい巡礼者のための施設(救貧院)さえ建てたので、聖地を目指す全ヨーロッパからの夥しい人間がヴェネツィアに詰め掛けた。
[エルサレムへの巡礼行はヴェネツィア或いはマルセーユから船で行く便が有名でした。ヴェネツィアでは船の出航までの期間、巡礼者達の扱いに色々策を練ったようです。言わば、当時からヴェネツィアには観光業が存在したようです。]

現実のサン・マルコ寺院は1063年に完成した。

広場の生成――セバスティアーニ・ズィアーニはサン・マルコ広場にその景観を与えた総督である。彼の在任中(1172~78)、《バドエール運河》を完全に埋立て、広場を広げた。この運河は古い“brolo”の真ん中を流れており、プロクラティーエ・ヴェッキエ(旧収入役館)と呼ばれた建物が左に建てられた。総督ズィアーニは“総督城”も新しく、もっと美しいものにしようと考えた。

1500~1600年の間に広場と小広場は決定的なその姿を形作る事になった。時計の塔が建ち上がり、サンソヴィーノ図書館(総督宮殿前)、プロクラティーエ・ヌオーヴェが姿を見せた。1902年崩れ落ち、“come'era e dov'era(元あったように)”と再建された鐘楼を別にして、新しい建造物はフランス軍占領下に作られた、いわゆるナポレオン翼である。それは1500年代建築のサン・ジェミニアーノ教会を壊した跡に建てられた。」
  1. 2017/10/19(木) 00:53:37|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(21)

(続き)
「この広場ではサン・ポーロ広場やサント・ステーファノ広場でのように、古くは闘牛の祭が行われていた(実際、とりわけ牛伝説があったのである)。周りには素晴らしい館が建っているが、それはプリウーリ館であり、ドナ館であり、ヴィットゥーリ館であり、かのマリピエーロ・トレヴィザーン館である。1800~1900年代に公妃ハッツフェルトの所有で、国際色豊かな、人気の文学サロンを主宰した。

この住居の傍に、ルーガ・ジュッファ(Ruga Giuffa)橋があり、記憶によれば、Julfa(or Culfa(アルメニア―アゼルバイジャン)から来たアルメニア商人の事であるが、古い資料ではGagiuffaという名前は、gajufusから、そしてダルマティアのgejupkaから来ており、ジプシーを意味している。ここからgaglioffo(悪党)という言葉は来ているだろう。これらgajuffosというのは、あたかも助けを必要としている善男善女、の振りをしている連中である。病院や修道院、同信会館等を回って、寄付を乞うのである。
カナレット『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)[左、カナレット画『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』、奥にフォルモーザ教会が見える。右、パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)]  この教会の内部は7世紀に作られたが、M.コドゥッチによって再建(1492年)され、聖バルバラに捧げられたヤーコポ・パルマ・イル・ヴェッキオの多翼祭壇画のあるボンバルディエーリ(砲手)同信会館の教会である。

教会背後はクェリーニ小広場に、クェリーニ・スタンパーリア財団があって、蔵書豊富な図書館、絵画の注目すべきコレクションがある。ここの収集品について触れるのは止めて、唯一ヴェネツィアの生活を描いた、ガブリエーレ・ベッラの興味深い69点の作品(1700年代半ば)があることに触れておこう。

サンタ・マリーア・フォルモーザ広場に戻り、カッフェで一服し、周りの景観にうっとり等したくないなら、鐘楼を後にして、プレーティ運河通りへ出て、直ぐ最初の橋を横切り、次の橋の上に建つゴシック式の素晴らしいアーチを眺めよう。そしてパラディーゾ通りへ入る。これは扶壁を備えた建物の二つの翼に挟まれた中世の面影を残す通りであり、通り終りにもゴシックのアーチがある。
[一階軒下の梁を支える桁が露出した様子が興味深い通りです。日本の組物の一手先(ひとてさき)のような雰囲気です。これが中世の面影でしょうか。]

この通りにヴェネツィアとその伝統文化について専門に書かれた本の編集出版のフィリッピ書店がある(フィリッピ氏はウーゴ・プラットをよく知っていた)。この魅力的な通りを後にして、サン・リーオ大通りを右へ行こう。その右手には、13世紀の小館がペアーで建っている。サン・リーオ広場にはビヤホール“オランデーゼ・ヴォランテ”がある。
パラディーゾ通り Poeta LibertinoPietro Buratti『Elefanteide』ジュゼッペ・タッスィーニ『ヴェネツィア興味津々』[左、サイトから借用。右3点、フィリッピ書店出版の本、ここでジュゼッペ・ボエーリオの『ヴェネツィア語辞典』等買いました]  広場は右にそのまま置いて真っ直ぐ行き、サンタントーニオ橋を越え、ビッサ通りをサン・バルトロメーオ広場に出るまで進む。今や足を休め元気回復する時である。選択肢は様々で刺激的だ。即ちゴルドーニの銅像を背にして右の通りを選べば、テントール小広場に出、バーカロ“アイ・ルーステギ”がある。
[バーカロについては、2011.12.24日のバーカロ(1~3)で触れました。]

これには選択が色々、右へ行けば、エキゾティックな料理が好みの向きには中華飯店“アル・テンピオ・デル・パラディーゾ”、そしてヴェネツィアの新しい世代の夜のランデヴー用に典型的なバーカロ“アッラ・ボッテ”がある。

もしこうしたカオスがお好みでない方は、近くのビッサ通りの歴史的総菜屋、永遠の鰯入りのモッツァレッラ・イン・カッロッツァ[モッツァレッラ・チーズのはさみ揚げパン]のある歴史的総菜屋(月曜休み)に逃げ出そう。

この近辺で、狭いボンバゼーリ通りの一角の背後に、町でも歴史的なレストランがある。ウーゴ・プラットのお気に入りのレストランであった“アル・グラスポ・デ・ウーア”である。現在では経営が変わって終ったが、かつてはグイード・モーラの伝説的レストランであり、氏は特別の機会には店を閉め、友人達のために夜の7時前には決して終わる事のなかった素晴らしい午餐を用意した。芳香馥郁たる料理からはあらゆる種類の美味なるものが立ち上り、高揚感とシャンペンに満たされて最高気分になり、陶然として軽やかに幸せな心地で“グラスポ”から外へ出ると、それはもう“ウーゴ・プラット王”の時代であった。

この店で“パヴィーア”とかいう人がカメリエーレとして働いていた。彼はマエーストロに昇るまで、コルト・マルテーゼに彼の一面を描いてくれるよう、紙とマーカーを差し出した。プラットは細緻な絵を描いたが、それは女性の美しいお尻であった。事は何年も続き、ある年、コルトの自画像を描いてもらえないという、パヴィーアの不平不満にマエーストロは、彼に次のような事を思い出させて納得させようとした。彼が彼の英雄の像を手にしていないのは本当だが、その代わり今や世界でも第一のプラットのお尻のコレクターであり、いつの日かこの特異のコレクションで思い出されるに違いないことは確実である、と。 ……」 (終り)
  1. 2017/05/04(木) 00:05:23|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(20)

(続き)
「教会の大門を後にして、マドンナ小広場へ行き、最奥を左へ曲がり、フェルツィ河岸通りを鉄の橋まで行く。橋は登ってみるだけで越さない。更に左へ行き、ボテーラ[Botera=Bottaio(伊語、樽職人)]小広場を見付けよう。しかしヴェネツィアの公式名でなく、ここを訪れ思い出す方が楽しい。ウーゴ・プラットのファンタジーと有名な所謂“スコンタ・デッタ・アルカーナ小広場”にその時居るということで、そこから、ツァー(ロシア皇帝)の失われた驚くべき宝物や革新的モンゴル、素晴らしき王妃達、残酷無残の好戦的支配者達についてのマルコ・ポーロのお話、コルト・マルテーゼ風の中国とシベリアの素晴らしい冒険旅行を始めるのである。
[Corte Sconta detta Arcanaとは、Hugo Pratt著のマンガ・シリーズ”Corto Maltese”の中の『ヴェネツィア物語』(Favola di Venezia)中で名付けた《神秘と呼ばれる隠されたコルテ》のこと。]

ここには魅惑的な調和で12世紀以来の建築的要素が入り混じっている。コルトがその時代を知ろうとした時、目前の壁面に日時計(長時間)を見たのだった。隠れた小さなオアシスが我々を魅了し、町の何と美しい一角であるか思い出させ、今や目にする事が可能だったはずのことは閉ざされている。……

この不思議な一角を後にして、河岸通りに戻り、最初の通りを左へ行こう(ヴェニエーラ小広場)。そして再度広場へ戻り、右へ曲がり、ザニポーロ大通りを行く。この通りには居酒屋アル・バローンがある。老いたカード師達の屯する所である。左手には先ほど述べた教会の後陣が見える。古い資料によれば、ここには弓や石弓の練習用の的が以前からあって、少年コルト・マルテーゼにとって普通に親しんだ地域だったことを付け加えておきたい。
オスペダレット教会[オスペダレット教会、サイトから借用]  右には仏語書の書店がウーゴ・プラットに向けて小さなショーウインドーを向けていた。左にはバルダッサーレ・ロンゲーナのオスペダレット教会の、巨人と怪人の彫像のバロック様式のファサードが迫ってくる。“バルバリーア・デ・レ・トーレ”通りへ向かう。この名前はここに材木倉庫があったことを思い出させる。トーレ(tole)とはtavole(板)のこと。
ヴェネツィア地図[サン・ザニポーロ大通りに続くバルバリーア・デ・レ・トーレ通り左の6673番地の4階と屋根裏部屋に、カザノーヴァが恋人フランチェスカ・ブスキーニと、ヴェネツィアに帰郷した後年1782年9月まで住みました。これが彼のヴェネツィア最後の滞在です。]
この名前全体は、多分この板がベルベル人向けの物であったという事実に基づくか、あるいはここで板の毛羽が削られた、即ち鉋で削られたということかも知れない。1000年頃の史料が存在する。ギリシアの皇帝が、ヴェネツィアの材木とサラセンの鉄の交易に対して文句を付けているのである。

ここ左手に食堂“バンディエレッテ”がある。仮面に興味があるなら、この遂先の左に随一のものがある。そして最も熱心な工房であり、20年ほど前、古い型を見付け出し、古典的でファンタスティックなタイプの仮面を作り始めた。そして町に影響を与え、急速に支持者を集めて、大中小、各種の仮面には巨大な物まで作る店まで現れて、そんな仮面屋のない通りはヴェネツィアにはないというほどまでになった。この店の右の古い浮彫に気付いて欲しい。これはライオン穴に投げ込まれたダニエーレ(5世紀の浮彫)を表している。
[旧約聖書のダニエル書にある、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルの話から。essere nella fossa dei leoni(虎穴に入る)。ダニエルは無事に救い出されます。]

もし仮面に興味が湧かないなら、その代り通りが狭くなるが右へ曲がり、ムアッゾ通りからムアッゾ小広場まで行こう。そこにはゲットの建物同様に町でも最も高い建物があり、その一家の建物(17世紀)は一種の摩天楼のように聳えている。11世紀のビザンティン式の美しい柱頭が見られる。

軒下通りを抜け、橋を越え、カッペッロ家の1500年代の美しい館側を行く。この館は現在時にコンサートに使われる。右の狭いサン・ジョヴァンニ・ラテラーノ河岸通りへ曲がり、狭い通りを進んで、更に先の折れ曲がった同名の河岸通り名が終わる所で、左のテッタ通りへ曲がり、同名の橋を越す。左手に格安の宿泊所となっているヴァルデージ館がある。

右へ曲がると、ロンガ・サンタ・マリーア・フォルモーザ通りである。この通りに双子のような場所、“アル・マスカロン”と“ラ・マスケレータ”がある。時には“マスカロン”で一休みして、料理を待つのもいい。流行りの店の一つなので、前もって予約をした方がベターである。

食事を楽しみ、美味しいワインで気分一新して、ヴェネツィアでも大広場の一つである広場まで通りを進もう。サンタ・マリーア・フォルモーザ教会があり、素晴らしい鐘楼は丸でお菓子職人の細工のようである。」 (21に続く)
[サンタ・マリーア・フォルモーザ広場については、2010.09.18日のヴェローニカ・フランコに図版資料があります。]
  1. 2017/04/27(木) 00:04:28|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(19)

(続き)
「左の素晴らしいファサードは、サン・マルコ大同信会館のものである。現在は市民病院である。
[連れ合いは語学学校通学時代、突然目が充血して真っ赤になり、ここで色々診察やら検査をして貰ったことがありました。結局何が原因だったか、分からず仕舞いに終わったのですが、ヴェネツィアに滞在する旅行者は無料だということで、あり難いことでした。面白かったのは、院内にはバールがあって、ワインも楽しめるということで、日本とは丸で発想が違っています。]

総督ニコロ・マルチェッロのモニュメントも総督アンドレーア・ヴェンドラミーンのドキュメント(1493年)同様に、ピエートロ・ロンバルドと彼の工房が息子トゥッリオの協力もあって製作した作品である。

ピエートロ・ロンバルドと二人の息子トゥッリオとアントーニオの建築で、建築家のGiov. di Ant. Buora(オステンソ生まれのジョヴァンニ・ブオーラ・ディ・アントーニオ―1450~1513)の協力を得た。その後上部の改装ではマーウロ・コドゥッチ、後背部の増築ではヤーコポ・サンソヴィーノの手が入った。

多色大理石や遠近法を思わす浅浮彫の手業は大いに称賛され、入口の側柱のだきに近付いてみると、1400年代より後の物と思われるが、帆船を引っ掻いて描いた跡がある。それは詳しく言えばサン・マルコ寺院の第2大門の柱に描かれて見ることが出来るものであり、コルト・マルテーゼが非常に愛したもので、親しい人には必ず伝えていた。

(残念ながらこれらの引っ掻き絵は、現在では修復工事、もう少しラディカルに言えば、市の浄化作業の中で殆ど全て姿を消した。石という物の見方、また扱い方というものは何時見直しが始まるのだろうか)。

隣の壮麗な教会[サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会、ヴェ語ではサン・ザニポーロ教会]はドメニコ会士に属しており、1430年に献堂された。しかし約200年もの長きに渡って、僧達は御勤めをしてきた。ゴシック式とルネサンス式の間の1400年代建造の入口の大門は、その堂々たるファサードが完成にまで至らなかったということを告げている。使用されている大柱はトルチェッロ島から持ってきたもので、そちらは今は蛻の殻である。

外部には、9世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の盃と棺(1249年の総督ジャーコモ・ティエーポロと1275年の息子の総督ロレンツォ・ティエーポロの)があり、教会に入堂するというよりは、恰も大霊廟に入廟する感がある。ここには総督や優れた人達を祀る厚葬の壮麗なドキュメントがある。ピエートロ・ロンバルドの傑作は、多分総督ピエートロ・モチェニーゴ(1476年)のドキュメントであろう。しかしマルカントーニオ・ブラガディーンの名誉ある、素晴らしいドキュメントも見ることが出来る。
[マルカントーニオ・ブラガディーンについては、2016.06.23日のブログブラガディーンをご参照下さい。]

聖ウィンケンティウスに奉献された政治的なるものは、最初ヴィヴァリーニに、その後ベッリーニの作と同定されたが、全作品がリストアップされるまで長く掛かった。ここにある葬送の作品群は結局、セレニッスィマの眠れる歴史だということである。聖カテリーナ・ダ・シエーナの足下の少々不安になる聖遺物の事を思い出してみよう。

この格別の建築物の、素晴らしい多色のステンドグラスの向こうにあるのは、括目に値するヴェッロッキオのバルトロメーオ・コッレオーニの銅像という奇跡のような作品を、恰も我々のために準備して、思い出させようとするかのように広場中央に騎馬像があるということである。ヘルマン、ヘッセは彼の旅ノートの中で、町の繊細で音楽的な美と対照的な尊大な美というものについて語っている。
[H.ヘッセについては2014.02.05日のヘルマン・ヘッセ(1~3)をご参照下さい。] 

この素晴らしい馬の鋳造はマドンナ・デッロルト教会近くのある小広場で、アレッサンドロ・レオパルディの監督の下、行われたが、その小広場はそれ以後、コルテ・デル・カヴァッロ(馬小広場)と呼ばれることになった。この動物の乗馬利用が1500年頃殆ど姿を消したことに触れるのは楽しいことである。もっと言えばヴェネツィア人の馬の乗り手を嘲笑う機知ある詩句が存在するのである(この町の車の運転手に対しても同じようにそれがある)。
[修道女の車とヴェネツィア・ナンバーの車には、若葉マークの車のように近付くなと言われているそうです。]
コッレオーニコッレオーニはヴェネツィアが雇ったベルガモ人傭兵隊長だった。死に際して、多額の遺産を遺し、それ故彼はサン・マルコ広場に銅像が建てられることを望んだ。幸運な事にその意志は聞き届けられず、この広場が選ばれた。セレニッスィマはフィレンツェ人彫刻家アンドレーア・ヴェッロッキオに委託した。彼は型と蝋を用意したが、1428年突然の死に襲われ、製作半ばに終わった。その時点でヴェネツィア人鋳造家アレッサンドロ・レオパルディが後任となって仕事を終わらせ、非情に美しい台石を仕上げた。

この広場の魅力を楽しませようと、この広場にはずらりカッフェが並んでいて、我々に一休みするよう招いている。……」(20に続く)
  1. 2017/04/20(木) 00:07:01|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(18)

(続き)
「海岸通りを引き返し(この通りは1766年12月20日の大嵐で、殆ど壊れたのだが、完全に修復された)、ドナ橋の方へ向かおう。町のこの辺りは、色々な競技が楽しまれている。ラケット競技(テニス)、既に触れたサッカー競技、ボッチェ競技(ボウリングに似たベタンク)、劇場(最近小さいけれど素敵な物が開場した)があり、ある家等でトゥルッコ・ダ・テッラ(trucco da terra)が遊ばれた。

そして更に、多分サン・ミケーレ島墓地の整備(1808~26)のために、この辺りはロマンティックというか物寂しい雰囲気を帯びることになった。フリードリヒ・ニーチェが『曙光(伊語訳Aurora)』の執筆のために滞在したのは偶然のことではなかった。
[後で述べますテースタ通りの奥、海岸傍にベルレンディスという通りと小広場があり、6296番地にニーチェは部屋を借りたのではないか、とされています。この辺りはかつてサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場があった場所だったそうですが、私がテースタ通りにアパートを借りた頃は廃墟の感じでした。2010.03.20日のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場を参考までに。]

橋を越えて行くと、右手にドナ館がある。豊かな貴族の住居であり、内部には多数の芸術作品や家族の古文書的な資料が豊富である。入口の、レーパントの戦いに参加したガーレア・ドナの二つのランタン(ヴェ語Fanò―ランプ)は大変目立つ。左の船着き場からは、サン・ミケーレ島、ムラーノ島、マッゾルボ島、ブラーノ島、トルチェッロ島、ヴィニョーレ島、サンテラーズモ島へ船が通う。

ロマンティック精神にお勧めは、船に乗ってサン・ミケーレ島に行き、コルボー男爵、ディアギレフ、ストラヴィーンスキーの墓を訪ねることである。その待ち時間にカフェ・アルジュバジョに寄ってみよう。
[コルボー男爵については、2009.06.06日のウィリアム・ロルフを、ディアギレフ、ストラヴィーンスキーについては、2007.11.14日のサン・ミケーレ島をご覧下さい。尚ここに眠る日本人については、2012.06.16日の鷗外独逸日記を、墓地については2010.08.14日のサン・ミケーレ墓地をご覧下さい。]

サン・ミケーレ島は墓地に改変される前、カマルドリ会[聖ロムアルドゥスが1012年、アレッツォ山中カマルドリで開いたベネディクト一会派]の修道院で、セレニッシマ時代、重要な共和国の研究センターであった。島の探索は次回に回したければ、橋を渡り、最初の通りを右へ行くと道のどん詰まりに、ティツィアーノの家前の小広場を囲む壁の前に出る。

右へ曲がり、直ぐ左のピエタ通りへ入り、更に左へ曲がると、ティツィアーノ小広場に出る。ここにかの有名な画家が住んだ。この家は君主や王侯、各種芸術家を招いた(芸術家の中でも、ヤーコポ・サンソヴィーノやリアルトに住んだピエートロ・アレティーノはせっせと通った)。続いてここにコルト・マルテーゼが住んだ。公表された文書では彼はこの地区の事は語っていない。

この小さな小広場を後にすると、古い居酒屋“ラ・フォスカ”の傍に出る。この古い居酒屋のある、一風変わって楽しげな小広場と別れ、左の通りを最奥フーモ通りまで行く。そこで 右へ曲がりペストリーン小広場へ向かう。そこに二つの食堂が続いて現れる。2番目は“チェーア食堂”で深緑に覆われており、町でも最も美しい井桁(18世紀)がある。

左へ向かいステッラ広場とヴィドマン小広場を斜めに突っ切り、運河まで行く。左にアーケードがあり、右を見るとプラットが“ノスタルジーの橋”と呼んだ橋がある[パスクァリーゴ橋、orヴィドマン橋の事だろうか]。このアーケードの軒下通りを抜け、ずっと左を辿って行くと橋の袂に居酒屋“Da Alberto”がある。橋を越え、ラルガ・ジャチント・ガッリーナ通りを行くと長いテースタ通りと交差するが、テースタ通りにプラットの家族は住んだ(興味を持って忠実に、右へ行き、2本目を左へ行くとフォルノ通りとなり、左の最初の門が巨匠の家の入口だった)。
「ダ・アルベルト」バーカロ・アル・ポンテ[左、ダ・アルベルト、右、アル・ポンテ] 交差地点まで戻り、カヴァッロ橋へ向かうと橋の袂に、その誘惑から逃れようとしても、あなた方を待ち受けているのは、小さいけれど、大変愛想のいいバーカロ“アル・ポンテ”である。橋を越えると街で最も美しい広場[ヴェ語ではサン・ザニポーロ広場]の一つがある。左手にはサン・マルコ大同信会館があり、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会前には広場中央に、世界でも最も美しい、ヴェッロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』がある。
サン・マルコ同信会館コッレオーニ[左、サン・マルコ大同信会館、右、コッレオーニ騎馬像。語学校通学のためにテースタ通りにアパートを借りた時、このバーカロ“ダ・アルベルト”やカヴァッロ橋の袂の“アル・ポンテ”に通いました。またヴェネツィアの傭兵隊長コッレオーニは自分の財産を共和国に遺すに当たって、サン・マルコ広場に自分の銅像を建てて呉れるように言い残したそうですが、実際にはサン・マルコ大同信会館前だった訳です。]

美というものを目の当たりにすれば、芸術的宇宙を夢見させ、切磋琢磨させるのにその事が芸術家を手助けするというのは確かな事である。……銅像の背後にコルネール館に属していた16世紀の井戸がある。この素晴らしい広場はサン・マルコ広場同様、町を代表する場所であり、総督の各種の儀式、厳粛なる葬儀が挙行された。」 (19に続く)
  1. 2017/04/13(木) 00:07:37|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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