FC2ブログ

イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア街案内: サン・マルコ区(1)

6番目の区サン・マルコ区の紹介です。図版関係はサン・マルコ区をご参照下さい。

「ここは“権力”としての館が数多くある区であり、最も有名で、観光客に人気のある、エレガントな区である。この区を観るには始めたい場所からで良い、カンナレージョから“フォンテゴ・デイ・テデスキ”橋を渡橋するか、ヴァポレットでサン・ザッカリーア停留所まで来て始めるか、等々色々。

カンナレージョ区からリアルト橋を経て、サン・マルコ区へ足を進める。ピウス10世大通り(S.Z. Pio X)のサン・バルトロメーオ教会側に“聖なる薬”即ち“黄金の頭”の薬種商の看板は正にそのもので、その“聖なる薬”の秘法を温存している所があるが、それはそれを読めない人や簡単にそれを認識出来ない人には有用であるし、その直ぐ下には、前の区で説明した theriaca/teriaca(蛇等の毒消しとして使われた古代のテリアカ薬)についての記述の断片を読むことが出来る。

ここから200mも行かない所、サン・サルヴァドール広場に同名の教会がある。是非見ておきたい絵画のみならず、1年に3度行われる特別の催しのためにも訪れる価値がある。それは12月25日~元旦、復活祭の日曜日~次の日曜日、8月6日(キリストの変容の祝日)~8月13日である。劇場でのように教会内部の様子の変更があり、ティツィアーノの素晴らしい絵画が銀の祭壇に置かれる。水平方向に5つの要素で描かれた、類稀の傑作で14世紀末に遡るものである。

この教会入口左のファサードに気付いて欲しいのだが、1849年8月6日サン・マルコ共和国に対する爆撃で、オーストリア人に銃で撃ち込まれた弾痕がある。

[サン・マルコ共和国とは; 1797年5月12日大評議会で蒼ざめた総督ルドヴィーコ・マニーンはナポレオンの要求全てを受け入れる事を提案し、賛成512X反対20:棄権5で可決し、1000年以上続いたセレニッスィマを終焉させ、5月16日戦わずして仏軍が市を占領するがまま放置しました。仏軍はアルセナーレに侵入し、ブチントーロ船の甲板上の物を切り刻み船を破壊し、サン・ジョルジョ島で燃える物全てを焼尽する等、ヴェネツィアはナポレオンの略奪し放題でした。以後フランス、オーストリアの支配下となります。1848年当時のオーストリアの支配を退け、3月22日ヴェネツィア市民の蜂起で“サン・マルコ共和国”が建国されました(サン、モイゼ教会前の大通りがその記念の三月二十二日大通りCalle Larga XXII Marzo です)。

その立役者となった、ユダヤ系ダニエーレ・マニーンを統領にニッコロ・トンマゼーオ等が新共和国を立ち上げました。このサン、マルコ共和国は一年ほどでオーストリアに再度潰されます(1849.08.22)が、この1848年はヨーロッパ中に革命の嵐が吹き荒れた年でもありました。この共和国の記念に2人の銅像が広場に建立されています。トンマゼーオはサント・ステーファノ広場、ダニエーレ・マニーンはマニーン広場です。マニーンの銅像は自分が長年住んだ運河向こうの家を見下ろしています。これをマニーンの生家と書いている人がいます(『イタリア・ユダヤ人の風景』(岩波書店刊)が、生家はサンタゴスティーン小広場傍のアストーリ通り(Ramo Astori 2313番地)最奥にプレートが掲げられています。
ダニエーレ・マニーンの生家ダニエーレ・マニーン像マニーンの住んだ家トンマゼーオ【左、サンタゴスティーン小広場傍のアストーリ通り奥にある彼の生家。中左、住んだ我が家を見るダニエーレ像、中右、彼が住んだその家、右、サント・ステーファノ広場のトンマゼーオ像。この像の背後に積まれた本をヴェネツィア人はcagalibri(糞本) と腐しています。彫刻家フランチェスコ・バルザーギがmilaneseの故でしょうか。細事については2007.11.22日のダニエーレ・マニーン(1)等をご参照下さい。】

不思議な縁で、ユダヤの名前メディーナ(Medina)だったダニエーレはルドヴィーコ・マニーンに敬意を表して、マニーンの名を貰いますが、軟弱だったフリウーリ人ルドヴィーコ・マニーン総督の汚名を彼が雪ぐ結果となりました。]

大運河に沿ったカルボーン運河通り(Riva del Carbon)を進もう。カ・ロレダーン(市役所)が、二つの興味深いものを保存している。左の二番目の円柱の上方に、パイプを咥えた男の像が刻まれている。それはビアージョという名の漁師の興味深い伝説を思い出させる。

もう一つは、この館のカルボーン通り(Calle del Carbon)側の壁面に碑が掲げられて、歴史上初めて大学を卒業した女性エーレナ・ルクレーツィア・コルナーロ・ピスコーピアが、1646年ここで生まれた事を示している。残念な事だが、この事が歴史の本から忘れられたか、記述されたことがない。
[エーレナ・ルクレーツィア・コルナーロ・ピスコーピアについては、2012.05.05日のロレダーン館や2012.05.19日のコルネール=ロレダーン・ピスコーピア館等で、その人となりに触れています]

更にサント・ステーファノ広場に向かおう。ヴェネツィアの魅惑的な場所の一つである、旧サン・パテルニアーン広場(現、マニーン広場)のように。この広場はヴェネツィアでも最も大きな、静かで魅惑的な広場の一つである。我々が探しているのは、ある商店(2800番地)の前にある。それは、上記したテリアカ薬という聖なる秘薬を調合する大釜を設置するための、三つの補強用の丸い凹が残る敷石がある。 ……」 (2に続く)
  1. 2021/04/18(日) 22:35:06|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィア街案内: ドルソドゥーロ区

今度はドルソドゥーロ区の紹介です。写真はこのサイトをご覧下さい。

「この区は正しく、dorso(背)+duro(固い)という地名の場所が他の地区より湿地が少なかったことを示すという土地の地形から来たものと思われる。要するにこの区は、ローマ広場、サンタ・クローチェ区、サン・ポーロ区と来れば、その意味するところが判ろうというものである。住宅地域的だが、美術館、古物商、有名なカ・フォースカリ大学があって学生が多いお陰で書店等に特徴がある(ヴェネツィアの建築家カルロ・スカルパの知られざる作品であるマーリオ・バラット講堂が興味深い。見学したい人は、“cafoscaritour@unive.it”にアクセスして予約が取れれば可能)。他の区より素晴らしいのは、我々の“宝探し”の旅のお陰で、特徴的で興味深い場所を紹介出来ることである。

ローマ広場からやって来ると、近くの特徴あるトレ・ポンティ(三つ橋―フォンダメンタ・コッセッティ地区)は直ぐに我々の注意を惹く。ここが我々の第一目的地である。フォンダメンタ・ブリアーティのドルソドゥーロ2530番地は、非常に魅力のある建物であるカ・ゼノービオ・デッリ・アルメーニの直前にある。この建物はカ・フォースカリ大学の分校が入るカ・ブリアーティである。

ここの庭内には、発見された古い遺物が置かれている。2500年前の Capo Sunio の円柱である[これはギリシアのアッティカ半島南端の岬、スーニオン岬から来た円柱のことです。現在も岬上にポセイドーンの神殿があり、12本の円柱が残っているそうです]。柱上に置かれた獅子は最近の物。しかし円柱はかつてポセイドーン神殿にあったもの故、カーポ・スーニオの円柱と呼ばれている。
カルミニ同信会館[イタリアのサイトから借用。右の白い建物はカルミニ同信会館。奥のカルミニ教会は側面をサンタ・マルゲリータ広場に向けています。]  そこから200mほど前方に、バロック様式の特徴的なファサードを持つカルミニ教会がある。サンタ・マルゲリータ広場に向いた脇のファサードには、善悪の闘いの中世的なシンボルがある。12世紀のギリシアの大理石の盃5つには動物が描かれている。ヴェネツィア・ガイドを読むと、約1000の盃、11~12世紀に彫られた、戸外に置かれた彫像があるという。
サン・バルナバの八百屋さん興味津々の商店を見てみよう。サンタ・マルゲリータ広場の隣のゲラルディーニ運河(サン・バルナバ広場の)に係留された船、日曜日は避けて午前中皆で出向こう。そこには船に設えられた台で果実や野菜が売られている。
[船の八百屋さんは他にもあって、カステッロ区のガリバルディ通り(埋め立てられた道)の奥の埋め立てられていないサンタンナ運河でも船の八百屋さんが来ます。ドルソドゥーロ区のサン・トロヴァーゾ運河のゴンドラ造船所の対岸でもサンテラーズモ島の農家の人が契約すると定期的に採れたての野菜を運んでくれるのだそうです。]

ドルソドゥーロ区を更に進むとアッカデーミア美術館(ヴェネツィアやヴェーネト地方の最良の美術品を収集した国立美術館)に着く。その前の橋から先端に向かって素晴らしい展望であり、サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会が聳え立ち、そこが次なる目的地である。
税関岬この教会はバルダサッレ・ロンゲーナ(1596年末ヴェネツィア~1682.02.18ヴェネツィア――生年は1597/98も見かけました)によるバロック建築の傑作と考えられており、彼はヴェネツィア共和国のイタリア人建築家・彫刻家で、その時代最も有名な代表的芸術家の一人であった。

私の考えでは、どの方向から眺めても格段に美しい寺院であるということ。サン・マルコ広場からでさえも、この建物に注意が向かざるを得ないのである。そしてドルソドゥーロの方を向けば、プンタ・デッラ・ドガーナ(税関岬)に気付かされる。

教会に話を戻すと、何故この教会を我々の“宝探し”に入れたのか?――ガイドを読むと、この教会のカバラ的、摩訶不思議の建築要素に魅了されるからである。この教会は1630年のペストの猖獗から遠ざかることが出来たことを聖処女マリアに感謝の意を込めて建てられたが、8という数字(救済と希望のシンボルであるが故に聖なる幾何学としてこの数字が使われた)と11という数字(力のシンボルである)に結び付けることの出来る方策が講じられて建築されている。

なされた研究によれば、ヴェネツィアの長さの単位ピエーデ(35.09cmの長さ)を使って、この寺院は正しく“8”と“11”の二つの数字を効果的に使って建造されたと推定される。」

[サルーテ教会の神秘のカバラ的要素については、2018.07.05日の街案内でも触れています。]
  1. 2021/04/11(日) 23:25:36|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィア街案内: サン・ポーロ区(3)

(続き)
「……我々の“宝探し”の旅の次なる目的地への楽しい散策は、ヴェネツィアで2番目に大きな広場サン・ポーロ広場通過時、丁度クリスマスの小屋掛けした市場(mercatino)やスケート・リンクを見る事になる。色々特徴ある店を眺めながら進んで行くと、内部を覗くことの出来る玄関前の広い空間(アンドローネ)のある館、チェンタンニ館(サン・ポーロ区2794番地)がある。ここはカルロ・ゴルドーニが1707年誕生の居宅で、現在は演劇博物館になっている。今は時間がないので入館しない。
演劇博物館[ゴルドーニの家初訪問時、入口等が改装改築中。売店等もなく至って簡素な設え]  この区での我々の最終目的地はサンタ・マリーア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会である。現在は拝観料が必要である。鐘楼はヴェネツィアでも高い部類の一つで、ゴシックのシトー派修道院の様式で建てられた。身廊が3本、礼拝堂後陣7つが内部に素晴らしい作品としてあり、是非とも拝観しよう。

アントーニオ・カノーヴァ(1757ポッサーニョ~1822ヴェネツィア)の記念碑は有名である。ここには中世的な象徴的芸術から、神話的そして石工的な象徴的芸術に至るまでの知られざるシンボルが納められている、これはこの教会の内部にあっても注目を集める類稀な美しい作品であり、我々の好奇心を掻き立てるのである。我々の関心は他の傑作(ドナテッロやサンソヴィーノ等を含め)絵画から、木製の内陣席や素晴らしい彫像にまで及ぶ。カノーヴァについては、2020.07.10日のアントーニオ・カノーヴァで触れています。
『Bacari』の本[ヴェネツィアで購入したバーカロ本]  現在能く目にするバーカリの一つにさえ一瞬たりとも立ち寄ることなしに、サン・ポーロ区を後にするという態度は、言語道断である。民俗学的にもそうした場所であり、この区独自のやり方で、この町の特徴の一つでもあるこうした店に入ってみよう。魅力満点の、古くて典型的な場所、バールと食堂とワイン屋を足して2で割ったような店、バーカロは、一種の軽食、有名な“摘み(チケーティcicheti―伊語cichetti)”のために出会う場所であり、今日では“happy hour”とか“apericena(アペリティフのための夕食)”とか呼べるかもしれない。

要するに、飲み且つ食べるということ。通常は立ったまま、バーカロによっては、小さなテーブルが用意されている店もある。

ド・モーリ通りのカンティーナ・ド・モーリ(サン・ポーロ区429番地)へ行ってみよう。ヴェネツィア最古の店である。あちこちにガラスの大瓶が置かれて、独特の雰囲気であり、銅製の大鍋が天井から吊り下げられ、店内に広がった淡い明かりで寄り掛かれるカウンターが浮かび上がり、客達は有名な“切手(francobolli)”(小さなサンドイッチ)、バッカラ(干し鱈)の載ったカナッペや他の典型的なスペチャリタ(摘み)、そして当然美味のワイン(オンブラ)を注文出来る。
Do Moriの鍋《ド・モーリの鍋のコレクション》  [バーカロ/バーカリについては、今迄何度も触れていますが、2011.12.24~2012.01.07日のブログバーカロバーカロ3(1~3)でヴェネツィア全市に広がる店について触れました。ヴェネツィア街歩きすると決めた日は、まずカンティーナ・ド・モーリのプロセッコを一杯引っ掛けてから開始すると決めていましたので、能くここのプロセッコのお世話になりました。カーニヴァルの街歩きの時、街で買った銀色の頭髪を被って行くと、髪が乱れてるよと、小父さんに後ろ側のビニール髪を少し鋏で整髪されたこともありました。
ルーガ・リアルト《ルーガ・リアルト入口》  私がヴェネツィアでアパート生活をした時、能く通った店は、リアルトのルゲータ・デル・ラヴァーノ通りの“ルーガ・リアルト”(サン・ポーロ692番地)でした。この店は私が初ヴェネツィア行した時、入った“Letizia”というレストランでした。その後数年して“Ruga Rialto”に変わり、レティーツィアが戻って来たと言われたそうです。能く行くので、MarcoとGiorgioの経営者とも知り合いになり、奥がレストランで、“ネーロ(イカ墨)”等美味しいです(ペスカリーアが日曜は休みで仕入れがなく、月曜はネーロなし)。

ここで“ケ・オーラ・ゼ?”(今何時のヴェ語)を教わり、妻に教えると、他の店で使ったところ、“このジャッポネーゼ、ヴェネツィア弁喋る!”と大笑いされていました。ヴェネットーンのデザイン学校で学んでいたキョウコちゃんが、作品の展覧会をここの壁面を使ってやったこともあり、そんな庶民的な店です。リアルトにはそうしたバーカロ(バーカリ)が沢山あります。]
Antico Dolo《アンティーコ・ドーロ入口―ここで食べたパスタは格別に美味しかった!》  マルヴァズィーア酒を味わいながら恋人を待つカザノーヴァが通ったに違いないことが当時の文献で読むことが出来る。また別の摘み、ヴェネツィアで過ごす別の夕べを求めて、ルーガ・リアルト778番地の最も古いヴェネツィアのバーカリの一つであるアンティーカ・オステリーア・デル・ドーロでも体験してみよう。昔ながらの味の小さな飲食店は、良質のワインと共に美味しいスナック摘みを提供して呉れる。

ヴェネツィアで生きる喜びを与えるバーカリ巡りは類稀の体験なのである。 」
  1. 2021/04/04(日) 18:03:26|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィア街案内: サン・ポーロ区(2)

大分前のヴェネツィアの新聞で、1600年前に始まったこのコムーネが、コロナ禍のために訪れる人も無く、危機に瀕していると悲鳴を上げていましたが、PCのVENEZIAのサイトに次のような文章がありました。
《Secondo il Chronicon Altinate (XI secolo) il primo insediamento a Venezia sulla Riva Alta (Rialto) risalirebbe al 25 marzo del 421 con la consacrazione della chiesa di San Giacometo sulle rive dell'attuale Canal Grande: studi recenti hanno però dimostrato che San Giacomo di Rialto è assai più tarda, risalendo alla metà del XII secolo[22].……》[下線部]

伝説によれば421年3月25日にコムーネ・ディ・ヴェネツィアは始まったということです。言わばヴェネツィアの紀元節は3月25日だということです。そのためか中世ヴェネツィアの1年間の始まりは3月だったようです。そんな訳で、Youtubeに“Anniversario di Venezia”の黙々とした動画がありました。Buon Compleanno Venezia(誕生日おめでとう)をご覧下さい。
(サン・ポーロ区街案内の続き)
「……リアルト橋の堂々とした姿そして美しさに無関心でいることは難しい。有名な建築家何人かがリアルト橋のコンペに参加した: ミケランジェロ、パッラーディオ、スカモッツィ、サンソヴィーノ等。しかし彼らは退けられ、アントーニオ・ダ・ポンテが選ばれ(打って付けの名前である)、彼が橋の建造をすることになる。径間(橋の両脚の間)が単独の橋は、交通量の多い大運河を難無く航行出来た。1591年に工事は完成した。
ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』[ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』]  リアルト橋の悪魔の伝説を読むと、名も知られていない他の橋の時にも聞かれることであるが、このヴェネツィアの橋に魅了されるのは、彼の類稀な洗練と壮大さであり、橋内部に並ぶ商店のエレガントさである。写真でも撮ってご覧なさい。リアルト橋をどんなカメラ・アングルで撮っても満足出来るものとなること請け合い!

大運河沿いを歩き、マドンナ通り574番地へ。目線を上げて進むと、“典型的な扶壁”を見付けることになる(レストラン・マドンナ傍)、即ち建築用の補強として、家の上階を広げることの出来る支えとしての梁桁である。これは木材で他の物を作ったり、寸法を守るための基本である。これはイストラ半島石で作られた扶壁の効力のために彫り込まれた例と思われる。

サンタポナール広場に来ると、ここはヴェネツィア発見の旅での宝探しにやって来る、小ぢんまりと魅惑的な空間である。サンタポナール教会を見上げると、ファサード左に“1252番地”が高みにあり、識別し難いが“冠を戴いた四聖人(Claudio, Castorio, Sinforiano, Nicostrato)”の高肉彫り像がある。事実この建物は、石工(tajapiera=伊語tagliapietre)の同信徒会とその守護聖人達の在所である。

しかし我々が探しに行くのはマドンナ通りの軒下通りの端に置かれた“眠れる教皇の木製の高肉彫り”像である。思い出される挿話、あるいは伝説(嘘を書いた筆者もいる)は、教皇アレクサンデル3世が皇帝フリードリヒ赤髭王との平和条約に署名のため、ヴェネツィアに向かった時、陰謀を恐れて、道の途中で眠らざるを得なかった。真実に非ずと書いた筆者もおり、ヴェネツィアの興味深いこの一角については他に特別の話も保存されている。

軒下通りであちらの方向に向かったり、眺めたりすれば、こんな風に眠れる教皇を納めた壁龕の花束の陰に隠れたテンプル騎士団の姿として、新しいテンプル騎士団の銘文に気付くだろう。壁面に彫られた軒下通りの十字架は、ヴェネツィアの十字架なのである。……」

*上記“石工”について: A fianco della chiesa, all'imboccatura della calle del Campaniel, vediamo un edificio dove tra due finestre dell'ultimo piano si scorge un bassorilievo che rappresenta i quattro Santi Coronati. Sotto la data «M . DC . LII» e sotto ancora su due righe
«SCOLA DI TAGIAPIERA».
La Scuola riuniva gli scalpellini, lapicidi (detti anche tajapiera) e per un certo tempo anche gli scultori. Venne istituita nel 1307 ed era ospitata nella chiesa di San Giovanni Evangelista dove possedevano un proprio altare. Per entravi a far parte bisognava superare una prova d'arte che consisteva nello scolpire una base attica, iniziando dal disegno preparatorio fino all'opera compiuta su pietra.
Nel 1515 lasciarono San Giovanni Evangelista per trasferirsi in questo edificio a Sant'Aponal, nella cui chiesa ottennero nel 1602 di avere una tomba di fronte al proprio altare dedicato ai quattro Santi Coronati. La pala d'altare rappresentava naturalmente i quattro santi ed era stata dipinta da Andrea Schiavone (circa 1515-1563).
I quattro Santi sono ricordati con i nomi di Sinforiano, Claudio, Nicostrato e Castorio: erano degli scalpellini, o scultori convertiti al cristianesimo, i quali si erano rifiutati di scolpire per l'imperatore Diocleziano la statua di una divinità pagana, e per questo motivo furono messi a morte; sono detti "coronati" perché con il loro sacrificio ricevettero la corona del martirio.
と、http://giandri.altervista.org/0401/A/465Aponal.html というサイトが記しています。
  1. 2021/03/28(日) 23:03:28|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィア街案内: サン・ポーロ区(1)

街案内に従って、サン・ポーロ区を歩きます。図版関係はこちらをご参照下さい。

「サン・ポーロ区はサン・マルコ区に次いで大きく、暗示的な魅惑・魅力に富んだ区であり、工房(有名な、独特のカーニヴァルの仮面を美しく展示する店等)や土地の職人芸による物品で特徴があり、通りに面した飲食店[有名なバーカロ(単)/バーカリ(複)]は言うまでもない。

この特徴ある区を歩き回る時、テッテ(乳房)橋に遭遇する。目を閉じてファンタジーに身を委ね、16世紀のこの場所が実際に存在する事を思い起こしてみよう。そこでは11000人の娼婦がヴェネツィアで、それもこの橋から数歩の所で春を鬻いでいたのである(そこには現在レストラン"Antiche Caranpane"がある)。娼婦達は客の気を引くために乳房を露出していた。
[私はこの橋近くのストゥーア小広場にアパートを3ヵ月借りて語学学校に通いましたので、その時知った事を私なりに書いてみます。
語学校に行く時、乳房橋の前を毎日通るのですが、この橋の向こうにカ・ボッラーニ小広場があって、そこがかつて遊郭だった所と言われています。当時ヴェネツィアでは男色が流行ったそうで、イタリアでは珍しく国民皆兵国家だったヴェネツィア共和国は兵隊の数の減少を恐れて男色者を見付ければ灰に焼却し、娼婦には乳房を露出して男を誘う事を奨励したそうです。橋の名はその事の名残と言われています。
ストゥーア(小広場)は16世紀の公衆浴場を指すヴェネツィア語だそうで、人々はそこに魚の目治療等に訪れていたそうですが、カ・ボッラーニの直ぐ傍故、影響を受け、カ・ボッラーニともども赤線地帯となったと言われています。レストラン“アンティーケ・カランパーネ”に関連して、2008.06.27日のカランパーネ埋め立て通りで触れています。ご参照下さい。]

思い出して欲しいのは、ヴェネツィアは詩人にして作家であったジャーコモ・カザノーヴァでも有名であること。彼は1700年代のヴェネツィアの類稀な女誑しで放蕩者であった。この区で見付かる、そうした挿話は偏に民俗学的な特徴として理解されるだろう。

サンタ・クローチェ区、あるいはサンタ・マリーア・マーテル・ドーミニ教会からサン・カッスィアーノ広場を通り、我々のサン・ポーロ区の“宝探し”の第1目的地に至る。精彩に富み、賑々しく、活気あるリアルト市場(午前中のみ)は、民俗学的にも市場というものが提供する、忘れ難いヴェネツィアの一角である。

しかし我々はガイドが教えてくれる独特の場所を探しに行こう。魚市場の柱頭、あるいは実際の魚市場の新ゴシック式の建物にある興味深いもの。そのスタイルで騙されやすいが、実際には古い建物ではなく、1907年に遡る、その特徴ある柱頭、円柱、彫られた物を見てみよう。大運河方向の新魚市場の側面を見落とさないように。
ペスケリーア販売出来る魚の大きさを記したプレートがある。これはかつて機能していたものであり、現在も漁獲出来る魚の寸法として機能している。ペスケリーア(魚市場)のファサードの上を見ると、チェーザレ・ラウレンティ(1854.11.06メーゾラ~1936.11.08ヴェネツィア。イタリアの画家)の作品がある: “サン・マルコの獅子”と“漁師、聖ペテロ”。
樽の入口[サイトから借用]  リアルトのアルコ通り、迷宮のような通りの中程の456番地に非常に興味深い入口がある。注意して下の方を見ると、少しずつ入口の枠が広がっているのに気付く。それは樽を押し込むための“穴”であった。“樽の入口”として記憶されているが、余りにも奇天烈……本当だろうか? ガイドによると、ヴェネツィアにはフォンダメンテ・ノーヴェ近くのジェズイーティ教会直前に自分達の同信会館を持つ“樽職人信徒会(confraternita dei Boteri)”があった。

サン・ポーロ区551番地には――リアルト・ノーヴォ広場(公衆浴場傍の)――壁面に、樽の浅浮彫がある。それは樽職人信徒会の標章である。また553番地には桑の木が描かれているが、それはこの地区に絹織物業者の事務所があった故、それが彼らの標章だったからである。 ……」 (2に続く)

ペスケリーア(魚市場)については、2016.04.07日のヴェネツィアの建物でも触れています。ご参照下さい。
  1. 2021/03/22(月) 23:08:18|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0
次のページ

カウンタ

カレンダー

03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

リンク

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア