イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(39): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

以前、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto』(LIZARD edizioni、1997.11.)というヴェネツィア・ガイドでリアルトからザッテレ海岸までの街案内をしましたが、今度はアッカデーミア美術館からジュデッカ島まで歩きます。出発は右岸(de ultra)のアッカデーミア橋です。
Corto Sconto 旧、鉄製アッカデーミア橋現在のアッカデーミア橋[中、鉄製の旧橋、右、現在の木製の橋] 「橋上から素晴らしい景観を楽しめる木造の大橋を降りよう。この橋はかつて鉄製で、町で遭遇する全ての鉄製の橋と同じく、オーストリア人の占領時代、彼らによって造られた。橋前にカリタ大同信会館(scuola)があり、それは貧者援助に捧げたスクオーラで、ヴェネツィア最古(1260年)であり、6大同信会館のうち最重要なものであった。
元インクラービリ養育院[現在美術アカデミーはインクラービリ養育院に移りました] 今日、アッカデーミア美術館の在所で、美術研究所(アカデミー)が創設された(1750年)後、1807年創立された。美術アカデミーは脇のゴシック式大門のラテラーノ司教座聖堂参事会員修道院内に設置されている。

人は全世界の区々のコレクションの中でも失われてしまった素晴らしいあらゆる財産に対してノスタルジーを抱くのだが、この蒐集された絵画作品を鑑賞しようとやって来る、文化参観の生徒達の行列が譬えなかろうと参観の価値はあるのである。ここで我々は絵を愛で、美的センスを学ぶ。これこそ全ヴェネツィア絵画を特徴付けるものである。

その名はベッリーニ、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレット、ティエーポロ、カナレット、グァルディであり、大運河の日々の生活を描いた、以前にも触れたことのある絵画、我らの大のお気に入りの作品『十字架の聖遺物の奇跡』と共に聖ウルスラ(Orsola)に捧げた、ヴィットーレ・カルパッチョの一連のずば抜けた作品群である。
十字架の奇蹟[カルパッチョ画『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』]   通常芸術についてであるが、他の地方で起きた事と異なって、ヴェネツィアでは詩歌は花咲かなかったとして記憶されているのは興味深い。1400年代末、ヨーロッパのどこの地よりも書籍が印刷されたのであり、実際的な現代の書籍を発明したのは事実である。しかし1700年代のデカダンスも知って欲しい、ゴルドーニ、ゴッズィ、バッフォ、ダ・ポンテがいた。
[ダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョの3大詩人はフィレンツェが育てたのですが、書籍については今まで色々に触れています。次のブログ2011.06.11日ヴェネツィアの印刷・出版(1~4)等をご参照下さい。ゴルドーニやバッフォ等についてもあちこちで触れました。]

ヴェネツィアでは、映像、造形美術、建築、モード、そして風景を支配し、全てを現実の汎神論的ヴィジョンで包む色と光が常に支配していた。人間とそれを取り巻く自然は比類なく不思議なハーモニーで溶け合った。例えばジョルジョーネの『嵐』の中で、左の兵士を見ると、彼を包む風景の繁茂した葉群と彼は不思議と溶解し合ったかのように見える。
ジョルジョーネ『Tempesta(嵐)』アッカデーミア美術館ジェンティーレ・ベッリーニ『サン・マルコ広場の祝祭行列』veronese-レヴィ家の饗宴[左、ジョルジョーネ『嵐』、中、ベッリーニ『サン・マルコ広場の祝祭行列』、右、ヴェロネーゼ『レヴィ家の饗宴』(サイトから借用)]  しかしこの絵の傍に立てば、ピアッツァ広場を正確にリアリスティックに描いたジェンティーレ・ベッリーニの『サン・マルコ広場の祝祭行列』(1496年)と生命を吹き込む人間性、そしてサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会にドメニコ会士の修道院食堂に最後の晩餐として描かれたが、検邪聖庁裁判で検閲され、芸術家の自由の保護に関しては嘆かわしい結果の後、若干の変更、『レヴィ家の饗宴』と題名を変えた絵画、ヴェロネーゼの巨大な《晩餐》を見るにつけ、ヴェネツィア絵画の合唱のような局面が思い起こされるのである。
カナの[ルーヴル美術館にある『カナの婚礼』]  もう一つの絵に関して次の事を思い起こそう。サン・ジョルジョ教会の食堂に置かれた巨大画布(その部屋は正にこの絵が置けれるように設えられた)は、ナポレオンによって強奪され、現在はパリのルーヴル美術館にあり、移動すると壊れるという言い訳で未だ返還されていない。
[パリでこの絵を見た時は、感動よりも腹立たしさが先に立ちました。ヴェネツィアと長年争っていたジェーノヴァの持ち物だったコルシカ島(仏語Corse)生れのナポレオン(Napoleone)に略奪された絵です。またニッツァ(現ニース)地方等もナポレオン3世の要求で、イタリア統一を認める代償に、カヴールはフランスに割譲せざるを得ませんでした。私のフィレンツェの友人は測量士で、伊国建国150周年記念の会に招かれ、国が作ったA全版のイタリア地図(会の記念品)に興味があるだろうと、送ってくれました。その地図は世界地図と異なり、コルシカ島もニッツァも空白になっています。見る度に不思議な感慨があります。]

この美術館を後にして、右折して橋近くまで行き、更に二つ目の通り(ノーヴァ・サンタニェーゼ通り)を右へ折れ、その通りを越す(ここの左手に有名なフリウーリのスリッパを見ることが出来る)。右手にピッシーナ・ヴェニエールその先にピッシーナ・サンタニェーゼがあり、泉の前にマドンナの家があり、1630年猖獗を極めたペストの恐ろしい発生を思い出させる家のファサードが顔を出す。

ノーヴァ・サンタニェーゼ通りを橋まで、更にサン・ヴィーオ広場まで進む。運河通りにレストラン“Cantinone Storico”がある。キエーザ通りを進むと終り近くにマルチグラフの工房ギャラリーがあり、そこでフーゴ・プラットの2枚のグラフィック・ポスターが誕生したのである。1枚はイギリスの手榴弾兵を扱ったものであり、もう1枚はコルト・マルテーゼのものであった。 ……」 (40に続く)
ヴェロネーゼの家[ヴェロネーゼの家(サイトから借用)――私がヴェネツィアで語学留学を3ヶ月に渡って初めてしたのは、大運河に面した旧モチェニーゴ館のアパートを借りてのことでした。館の脇門からモチェニーゴ・ヴェッキア通りを抜け、サン・サムエーレ大通りに出ると直ぐ左の3337番地の建物に次のようなプレートが掛かっていました。《Paolo Veronese/ pittore sovrano di Venezia/ trionfante maestro immortale/ per mutare di secoli dimorò/ lungamente in questa casa e vi/ morì. IL XIX APRILE MDLXXVIII》。この家に、ヴェロネーゼが長い間住み、ここで亡くなった事を知りました。以来前を通る度に見上げたものでした。その故か、この辺りは画廊など絵画関係の事務所も多いと聞きました。当然彼の檀那寺サン・セバスティアーン教会にも行かねばなりません。]
  1. 2018/06/21(木) 03:56:54|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(38): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「この度の街案内の最後のセクションにやって来た。特にプラットに親しまれたサン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教会[Mendicoliは、Mendigoliの表記もあるようです]である。相当古く創立(7世紀)され、リアルトの、施しで生きる貧しい信者の所謂“頑固な迷信家(Pinziocchere)”が助けを求めたサン・ジャーコモ教会のように、メイン・ファサードに1400年代のポルティコ(近年改装された)がある。
サン・ニコロ・デイ・メンディーコリ[写真はサイトから借用] 内部には、何世紀にも渡る改築が積み重なった痕跡が見出せる。12世紀のビザンティン様式のコーニスのような非常に古い部分から、16世紀のオルガンやカルミニ教会のものに酷似した木製の羽目板細工で飾った中央身廊の佇まい等、後世の造作にいたるまで。現前する作品中、ヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネと聖ニコラウスを象徴する、ボン工房の1400年代の美しい木彫を見逃さないよう心しよう。しかしこの絵画と彫刻の向こうにも我らを魅了して止まない総合的な美しさがある。

小広場を出るとヴェーネト=ビザンティン様式の鐘楼(12世紀)に気付く。運河の向こうには以前、綿紡績工場があった。今はカ・フォースカリ大学の建築と化学工業の学部の一部の建物が建っている。

サン・ニコロ橋を渡り、テレーゼ運河通りを右へ行き、同名のテレーゼ橋まで行く。橋を越え右折し、先ほど通った左側の運河通りまで行き、その通りを今度は逆行する。アンゾロ橋まで行くと、木彫の色付けしたキリスト像(15世紀)を祀る古い小さな祭壇がある。そこを過ぎ、キエーザ大通りを通り、左に曲がるとアンゾロ・ラファエールの少し土地の高まった広場がある。広場中央には教会の前、古いオステリーア“Trattoria Anzolo Rafaele”がある。

未だ観光客に荒らされていない、この古い地区を後にして、サン・セバスティアーン広場に移動する。ここに聖セバスティアヌスに献堂した15世紀の教会が建っている。ここにはパーオロ・ヴェロネーゼの一連の興味深い絵画作品がある。その上彼はここに葬られている。

入ると直ぐ右に聖ニコラウスに捧げた、ティツィアーノの署名のある小さな祭壇画がある。大祭壇右の礼拝堂のパルマ・イル・ジョーヴァネの作品も見逃せない。しかしここへの訪問の価値は(15.30~17.30分の開館の時間帯であれば)、ヴェロネーゼ作品にあるのである。彼はこの教会のために色々な場面で、本当に美しいフレスコ画や板絵を描いたのだった。
[現在は入場料が必要で、時間に関係なくヴェロネーゼ作品が鑑賞出来るはずです。
また教会入口前の運河前に立って前方を見ますと、運河の向こう正面に、アメデーオ・モディリアーニが画学生時代ヴェネツィアの美術学校に通っていた時、下宿していた建物があります。2009.10.31日のヴェネツィアと日本で触れています。]

さて、橋を渡って、それぞれの宿、住居、ペンション、あるいは友人の家へと帰ろう。目の前には長い真っ直ぐな道がある、それは橋を越えるとサン・バルナバ広場まで続いている。更に前方トラゲット通りの終りでゴンドラが現れ、対岸のサン・サムエーレ広場に運んでくれる。あるいはまた1番船のヴァポレットがリードまで続く大運河の各停留所へと運んでくれる。
[この長い通りは、Calle Longaと言い、日本の伊国大使館が長かった方が帰国され“富士山”というB&Bをこの通りでやられています。私が歩いた中で今一つ長いと思った通りは、カンナレージョのCalle de la Testaで、この通りのアパートから通学しました。]

それとは別の選択肢として、多分もっと楽しい方法は、橋から右折し、サン・バゼージョ運河通りを行くと、食事やお喋りに古いスタイルのオステリーア“da Toni”がある。サン・バゼージョ広場を抜けてこの運河通りの終りで、ザッテレ運河通りに出る。対岸にラグーン・スカイラインのイギリス風ムリーノ・ストゥッキーが見える。
[サン・バゼージョ広場からザッテレ運河通りまでの通りは、Cl. del Vento(風の通り)という名前で、仏国の詩人アンリ・ド・レニエや伊国のディエーゴ・ヴァレーリが歌っています。2009.05.30日のアンリ・ド・レニエと2014.04.16日のディエーゴ・ヴァレーリで触れています。]

右手にはレストラン“San Basilio”が、マリッティマ海岸に向かう小さな橋の前にある。もう少し先に海岸通りに沿って、非常に流行っている小さなレストラン“Riviera”がある。目の前は我が家へ帰宅するためのヴァポレットの停留所である。」 (終り)
  1. 2018/04/29(日) 00:59:30|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(37): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「ソッコルソ運河通りを行こう。ここから少し行った所に17世紀のバロック様式の堂々たる建物、文芸の保護者だった裕福な一家のゼノービオ館がある。ここに景観画家ルーカ・カルレヴァーリス(1665ウーディネ~1731ヴェネツィア)が住んだ。彼はローマでヴァンヴィテッリの影響を受け、カナレットにカーメラ・オスクーラ(暗室)の使い方を教えたのは正しく彼だったと思われる。カナレットはそれを芸術的に発展させた。

ゼノービオ館は、続いてアルメニア人のメキタル修道会の所有となり、1850年にはコッレージョ(寄宿学校)となり、現在でも60人ほどのアルメニアの若い学生が居る。管理者に丁寧にお願いすれば、入館が許され、かつて町で最も美しいとされた庭園の一つを見学出来るだろう。ここにはコルト・マルテーゼも友人のトカツィアンに会いに訪れたことがある。今では図書館になった庭の奥の建物で、何時間も寛いでお喋りしたのだった。

サン・マルコの裏手に隠れたようにある1600年代の小さな教会を持つアルメニア人共同体は、次第に成長し、1717年にはハンセン病患者の収容所が以前建っていたため、放擲されていたサン・ラッザロ島を政庁から住んでよしと貰い受けた。この庭園を後にして、運河通りを行くと、ソッコルソ橋の前にサンタ・マリーア・アッスンタの保護所とオラトーリオが建っている。
ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』[ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』、米国マサチューセッツ州ウースター美術館蔵] ソッコルソ(救急・救護)の名の救護所は、1593年高級娼婦であり、閨秀詩人であったヴェローニカ・フランコの要求で建てられたもので、老若の娼婦が収容された。君主(仏国のアンリ3世)や文学者の間では著名な彼女は、彼女に肖像画を捧げたティントレットの愛人でもあった。
[ソッコルソとヴェローニカ・フランコについては、2007.11.03日のVeronica Francoと2010.09.18~2010.10.09日のヴェローニカ・フランコ(1)ヴェローニカ・フランコ(4)(1~4)で触れています。参考にして下さい。]

ソッコルソ橋の向こうに居酒屋“Da Codroma(ダ・コードゥロマ)”がある。右手のグァルディアーニ軒下通りを抜けると、同名の小広場があって、その中央に1500年代の八角形の浮き出し飾りのある切り石で作られた井桁がある。その壁面一回りには、15世紀の建築的な要素のテラコッタが嵌め込まれている。それらの中ではイストラ半島産の石の二つの浮彫りが際立っており、一つは花のモチーフのもの、もう一つは狐と鸛の民話(14~15世紀)を表す非常に馴染み深いものである。

引き返して、右側の運河通りのブリアーティを行こう。それはここに工場を持っていた、有名な水晶細工の製作者である。このジュゼッペ・ブリアーティはボヘミアで3年生活し、水晶製作技術を学んだ後、町に帰ってきた。1730年には、ムラーノ島に小さな工場を作った。この新しい秘術であらゆる物を作った: 花、果物、人物像、動物、テーブルセンター、小庭等をそんな熟練技術で製作し、洗練されていき、いち早く有名となった。

この事が直ぐに他のガラス製作者の嫉妬を呼び、ある夜鉄砲を持って攻撃され、殺されたくなければ立ち去れと脅かされた。こうして彼はここに越してくる許可を得、活動を続けることが出来た。

オリエント的なインスピレーションで作られたゴシックの素晴らしい透かし細工のある、1300年代後半のアリアーニ館の傍を通る。運河通りを端まで行き、この地区を抜けて行く。この辺りはマリッティマ海岸に近い位置故、ガリバルディ大通りについて以前触れたような雰囲気が、何年もの間存在していたが、結局この地域は、普通の人々紛れて密輸業者が少なくなかったし、山師がこの辺りを徘徊していた。

ここには綿紡績工場や少し先にはタバコ産業が集中していた。こうしてこの街案内の最後の行程に入って行く。 ……」 (38に続く)
  1. 2018/04/24(火) 23:11:01|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(36): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「ここを後にすると右手にサン・パンタローン教会がある。内部の天井に、目を見張る巨大な画布の絵(イタリア最大―総督宮殿のティントレットの最大の物は板絵です)がある。ヴェネツィア人ジャン・アントーニオ・フミアーニが25年間(1680~1704)掛かって描いたもの。彼はここに葬られた(1710―制作中に足場から転落死したそうです)。有名な遠近画法の効果に溢れた絵画は、人生の最重要な時と聖パンタレオヌスの重大な瞬間を描いている。
サン・パンタローン教会[サンタ・マルゲリータ橋からの写真はサイトから借用] この教会を後にしてサンタ・マルゲリータ橋を渡ると、サンタ・マルゲリータ広場である。ここには学生っぽさに溢れたお祭り騒ぎ的、屈託のない雰囲気が漂っている、という事は大学が程近くにあり、そうした場所が広場の周りには色々広がっている。謂わば我らがカルティエ・ラタンなのである。バール、カッフェ、ビヤホール、軽食堂、朝から夜遅くまで、一人ぼっちである事は出来ない。
サンタ・マルゲリータ広場の屋台広場に入ると、右手、現在は無くなってしまった教会、1600年代の大理石の欠片がふんだんに残る、その鐘楼の上半分を切り取って出来た建物の前に、石の美しいドラゴンのため、Ai Do Draghi と呼ばれる最初の小さなバール(Baretto―ここで元気回復の美味しい飲み物が飲める)がある。

左には小さな小広場に通じる軒下通りがある。そこには小麦粉を売る商館があり、その前に壁で塞がれた柱廊があって、かつて堂々として魅力的な井桁が目立っていた。

広場では魚と野菜の市場が開かれる。セレニッスィマが設置した、カステッロ区のターナ運河通りやリアルト魚市場の、販売の魚の最小の大きさを記した石版があるが、それとはまた別の物がここにあることに気付く。これは広場中央のヴァロテーリ(毛皮製造業者)同信会館の小さな建物壁面に嵌め込まれたもの。以前はジェズイーティ広場にあったもので、そこから持ち込まれた。ここでは信者会に崇められた聖母の大理石の浮彫りが置かれた。左手先方には“Antico Capon”のオステリーアがあり、右手には“il Caffèがある。

ここで一服しよう。戸外のテーブルに腰を下ろし、周りを取り巻く生活の匂いに魅了されながら、何か美味しい物でも飲もう。目を上げると、背後の右手の家は、ヴェネツィアではかなり珍しい事だが、トスカーナ風の突き出した屋根を持つ家である。この場所の前の角には、新しいビヤホールがあって、夜遅くまで店を開き、騒々しい若者達の溜まり場である。

更に進んで角の裏に、サルデーニャ料理の店、“L'Incontro”があって、そうした場所は無くなることはないのだが、この町はミゼリコルディア運河通りとそれに続くオルメズィーニ運河通りと共に益々活気をなくしているのか。この広場は夜にもまた訪れたい。

“Il Caffè”と右手の1300年代の瀟洒な家の間には、フォースコロ=コルネールの美しい小館があり、そこを後にしてこちら側を進んでいくと、カルミネ教会の1300年代の美しい大門に向かって漫画とファンタジー専門の書店“Solaris”がある。

右手にロンゲーナのファサードで覆われ、ティエーポロの9点の画布を収めるカルミネ同信会館がある。美術研究所の入っていた元修道院のある広場を通り抜けて、ソッコルソ運河通りを行こう。 ……」 (37に続く)

[私がこの広場を初めて見たのは1994年でした。2000年の大聖年にはこの広場にある語学学校に3ヶ月以上通い、以来2006年まで毎年数ヶ月ずつ、この広場まで通学しました。お店等随分変わりました。ここに書かれている事は私がここで呼吸する以前の事のようです。通学以後も、店等変化はあるようです。2012.01.21日にサンタ・マルゲリータ広場(1~3)を書いています。

例えば学校の真向かいにあった書店は美術本等割引で売っていましたが、店のドナートさんは現代のコンパニーア・デ・カルザ・イ・アンティーキのメンバーで、カーニヴァル時期、このグループの催しの事を教えて呉れました。語学校直ぐ左前の仮面師グェッリーノ・ロヴァートさんもそうで、ロヴァートさんはフェニーチェ劇場再建、最後の美術的仕上げを担当されましたが、お二人とも今ではこの広場でお目に書かれません。2011.02.12日のカーニヴァルでコンパニーア・デ・カルザ・イ・アンティーキについて触れています。

語学校下のバールは、偶々旧マダムに広場で出会った時、中国人にこの店を売ったと言って、懐かしがってくれました。学校の10.30の休憩時にはこの下のバールや向かいのカッフェ・ロッソがコーヒー・タイムでした。ある日喉が渇いて、スプリッツ・コン・ビッテルを注文すると『ダーメ。授業が終わってからよ』と叱られてしまいました。

現在はその店がなくなってしまいましたが、広場南のカルミネ大同信会館真向かいに骨董屋さんがありました。ここでカナレットの景観画をアントーニオ・ヴィゼンテーニがモノクロ版画にしたものを買いました。版画用紙にはヴェネツィア製であることを示す“V”の字が透かしで入っています。ヴェネツィアおたくにとっては宝物です。2012.10.13日にアントーニオ・ヴィゼンティーニについて触れました。] 
  1. 2018/04/19(木) 23:55:10|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(35): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「この壮麗な教会を後にして、後陣に沿って右へ廻り、サン・ロッコ教会へ向かう。聖ロクスに捧げられた教会は別にしても、町のまた一つの宝石、サン・ロッコ大同信会館が聳えている。その遺体が教会に祀られているこの聖人は崇拝され、疫病やペスト等から守護されるよう祈願され、毎年8月16日大祭が行われていた。政庁の高位高官の来駕のために広場に大きな天蓋が設置され、古い作品や新しく描かれた絵画作品が館のファサードに掛けられたものである。
サン・ロッコ大同信会館[写真はサイトから借用] 同信会館はボンとスカルパニーノの手になる(2人の芸術家が相手のプロジェクトに介入して融合させることが出来たのだと気付いてみれば、それは素晴らしいことである。事実ファサードの下の部分は、中央の装飾的扉口は別にして、ボンの作品であり、上階と扉口はスカルパニーノの手になる)が、建築は1515年に始まった。そしてそれは正に会館のために一連の絵画を描いたヤーコポ・ティントレットの勝ち取った勝利だと思われる。ローマのサン・ピエートロ大聖堂のスィスティーナ礼拝堂を飾る壮麗な作品群とある人が比較していたほど、著名なのである。

しかし我々は、この傑作群について君達に説明する仕事は他の人に任せて、先を急ごう。そして同信会館の左の脇道カステルフォルテ通りから同名の広場へ行く。ここで左折し、同信会館下の軒下通りを抜け、我らが友、プラットに大変愛されたそこの小さな橋を渡る。広場に前の運河に面した2階の窓が風見や風車、複雑な装置であってほんのちょっとした風が通るとそれが動き始め、通行人にとっては楽しいお祭りなのだった。

残念ながら今では数年前から、こうした昔ながらの思い付きは取り払われてしまい見られないが、埃まみれの天井も姿を消した。自動装置の悲しい終焉である。

いずれにしても目線というものは非常に暗示的であり、ちょっとしたファンタジーの断片も失われていくことに対するノスタルジーがある。次なる出会いに赴こう。ビザンティン皇帝である。

渡橋し、デイ・プレーティ・オ・デル・ピストール(パン屋)通りとの交差点まで直進しよう。右手に学生達の溜まり場“Caffè Blue”があるが、左折し、更に右折し、サン・パンタローンと通りの終りまで行く。そこで左手のカ・アンガラーン小広場へ入ってみよう。町でも今まであちこち移動してきた彫刻の一つがここにある。ビザンティン皇帝像(12世紀のコンスタンティノープル作品)である。ワシントンのダンバートン・コレクションに類似の物がある。
アンガラーンの像[サイトから借用]  研究者によると、イサキオス2世(Isacco Ⅱ Angelo―1185~1195)か、あるいは彼の弟のアレクシオス3世(Alessio―1195~1203)ではないかという。他の研究者は10世紀の物で、賢帝と呼ばれた文人皇帝レオ6世(Leone VI detto il Saggio o il Filosofo―866~912)であると主張している。

壁面に掛かるこの素晴らしい円板がどこへ行ってしまうのか、あるいはソロモンの小さな鍵(Clavicola di Salomone―レメゲトン)という宝物を秘匿してしまう神秘の中で、何とかしてこの古い円板が立ち戻って来はしないかと、ミスティックな心持でこの小広場を後にしよう。 ……」 (36に続く)
[ヴェネツィアの館の門等の上に掲げられて、よく見掛けるこうした浅浮彫りを、“Patera(パーテラ)”と言います。]
  1. 2018/04/11(水) 19:16:02|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0
次のページ

カウンタ

カレンダー

05 | 2018/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア