FC2ブログ

イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィア

平川祐弘著『藝術にあらわれたヴェネチア』(内田老鶴圃、昭和三十七年十月二十日)という本を2011.05.07日のブログ《ヴェネツィア本》(1)で紹介しましたが、その中に次のような文章がありました。
「ヴェネチアを語るには美にたいする鋭敏な感受性を必要とする。雰囲気を感じる肌と、それを伝える筆とを持たねばならない。」

ルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』を見、塩野七生さんの『海の都の物語』を読み、この町に憧れ、1994年の秋、初めてミラーノ・マルペンサ空港に降りました。ミラーノを2日観光、ミラーノ・リナーテ空港からヴェネツィアに飛び立ちました。当時はプロペラ機でした。ヴェネツィアではテッセラ空港からアリラグーナの船便でサン・ザッカリーア桟橋着。初のヴェネツィア入市が一応船(トーマス・マン著『ヴェネツィアに死す』には及びも付きません)ということで感激一入でした。丸1週間滞在し、すっかりこの町の虜になりました。1996年からも切れ目なくヴェネツィアです。

2000年からは、仕事のない月を選んで2~3ヵ月ずつアパートを借り6年間、伊語の勉強でヴェネツィア学院に通学しました。午前中はイタリア語勉強、午後はヴェネツィア街歩きということです。初めて借りたアパートが大運河に面したモチェニーゴ・ヴェッキア館だったこと、そしてこの館でジョルダーノ・ブルーノが館主ジョヴァンニ・モチェニーゴの裏切りで異端審問所に捕まり(1592)、ローマのカンポ・デイ・フィオーリで火刑(1600.021.17)により焼死した、その400年記念日当日(大聖年の2000.02.17)この館に滞在していたことが油を注いだようで、語学院通学は6年間も続きました。ヴェネツィアに行くと必ず顔を出すバールやバーカロも出来ました。

ヴェネツィア滞在中にローマ、スィエーナ、フィレンツェ、ボローニャ、パルマ等ほか、都市歩きもしました。それ以上に頻繁にヴェーネト各地は訪ね歩きました。“gita palladiana”といった趣です。そんな中で友人達のガイド役も幾つかやりました。イタリアが初めての友人達の目線は素直で、既に色かぶれの私の色目とは異なり、新しい発見があったりしました。

ヴェネツィア行の中でも、歌川豊春(1725~1814)の『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』という遠近法を表現した浮絵の手本となった、アントーニオ・ヴィゼンティーニの『Prospectus ab Sede S. Crucis ad P. P. Discalceatos.』の実物を骨董屋で見付け、手に入れた時の嬉しさは格別でした。
カナレットの元のスケッチサンタ・クローチェの景観ヴィゼンティーニの『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊鐘響図』[左から、カナレットがデッサン(ウインザー城蔵)し、そしてその完成画(サイトから借用、ヴァージョンが色々あるようです)。更にそれをアントーニオ・ヴィゼンティーニが銅版画にし、その版画が江戸時代オランダ人(?)により日本に齎され、歌川豊春がそれを浮絵(prospettiva遠近法)の勉強のために模写したという経緯のようです。]

2007年に始めたヴェネツィア・ブログも10年を越し、かつて書いたもの、翻訳したものを読み返してみると、当然の如く誤りや思い違い、誤訳があり、嫌になります。その上引用し過ぎで、著作権上、越権行為と思われるやり過ぎが多々あると思われます。それ以上に誤訳というものは害毒です。“鋭敏な感受性”を欠いた者には、“それを伝える筆”力など生まれる筈がありません。誤訳行為は終りとしなければなりません。
  1. 2019/12/10(火) 08:12:09|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(46): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「この縄工場ではあらゆる種類の綱を作っていたが、今は個人所有となり、アクセスは出来ない。その墜先は、ロンガ・デ・ラッカデーミア・デイ・ノービリ通りで、直ぐ近くに貧乏貴族の若い子弟のための寄宿学校があった。サンテウフェーミア教会まで行くと、橋の向こうに歴史的にも有名なBarと兄弟的な店、Harry's Dolciがある。
                                  図ー5
図図ー1図ー4図ー3図ー6ここは北のフォンダメンテ・ノーヴェの海岸通りから見るラグーナ風景と異なって、もっと静かで、潟的であり、この島に滞在するように招くという事は、また全く別の感慨があるものである。この地域は外洋に近く、牽引船も前を通り、他所の島々に向かう大きな船が我々を旅に誘う。左手のMulino Stukyの赤レンガの大岸壁を見ていると、このネオゴシック建築で丸でイギリスに居るかのようである。
[2012年1月13日ジーリョ島傍で座礁横転し、死者32人の事故を起こした巨大豪華客船コスタ・コンコルディア号を思い出します。あんな巨船が狭いジュデッカ運河を通るのは恐ろしい感じで、反対運動する人の気持ちはよく判ります。《La Nuovaの紙面に度々登場します。]

リーオ・サンテウフェーミア海岸通りを行き、左折し、ロンガ・デ・ラッカデーミア・デイ・ノービリ通りと交わるサン・コーズモ広場に向かい、右へ曲がって進み、左のデントゥロ小広場へ向かうとコルティ・グランディ通りへ入る。すると17世紀の長い建築物の前に出る。見本帳に描かれたような煙突の見本が13基も建物上に見られる。
煙突この古い民家を後にして、再度運河通りへ出、右折する。ピッコロ橋を渡越し、次の橋まで進むと右手にエルベ通りがある。お腹でも空いたなら、ここに、テラスが運河に面した小さなレストラン“All'Altanella”がある。ジュデッカの友人に招かれた時、年老いたMitterand(仏国第21代大統領?)も憂き世を逃れてこのオアシスにやって来たものである。この美味処と別れ、再び運河通りに引き返そう。

ロンゴ橋を跨越し、我らが歩みを進めて行くと、クラリッセ・デッラ・サンティスィマ・トゥリニタ修道院の脇を通り、壮麗なレデントーレ教会に辿り着く。1576年の黒死病の猖獗の終焉が到来し、救世主に祈願の聖堂としてアンドレーア・パッラーディオの設計で建築が始まり、1592年に献堂されたもの。教会の食堂の骨組みには、木材とレーパントの戦いに参加した軍船の骨格が使用された。
[パッラーディオは1580年に没したため、教会完成まではリアルト橋の建造者アントーニオ・ダ・ポンテが後を引き継ぎ、完成させました。またヴィチェンツァのテアートロ・オリンピコも彼の没後は、設計図を持つ息子のスィッラにパッラーディオの弟子のヴィンチェンツォ・スカモッツィが大協力して完成させました。完成直後の開場公演はソフォクレース作『オイディプース王』で、舞台装置にテーバイの町がスカモッツィにより設置されましたが、それは評判を呼び、そのまま壊されず現代に残ったものを目にすることが出来ます。テアートロ・オリンピコについては2008.04.18日の天正遣欧使節で触れています。
コンペでスカモッツィに勝ったダ・ポンテ設計の石のリアルト橋は、現在ではヴェネツィア建築の模範とも称されていますが、コンペに敗れたスカモッツィは、こんな橋直ぐに崩れ落ちると嘯いていたそうです。]

クローチェ橋を越渡し、運河通りを進む(オステッロ・デッラ・ジョヴェントゥとレストラン“Iguana”の傍を通過)。そしてサンタ・マリーア・デッラ・プレゼンタツィオーネの修道院と教会の場所へ至る(この建物もパッラーディオの手になる)。古くは貧しい少女達のための学院として機能したため、ズィテッレ(独身女性)教会と通称し、彼女達はその仕事として取り分け刺繍に携わった。現在では、各種展覧会を挙行する文化センターであり、大きな庭園がある。

丁度教会前にサン・ジョルジョ島に行くヴァポレットの停留所がある。その島に渡るとここにはベネディクト修道会の研究センターがあったが、古くは“糸杉の島”と呼ばれ、現在でも、1950年代ジョルジョ・チーニ財団創設後、研究センターとなっている。
サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会[サン・ジョルジョ島に掛かる二重虹。サン・マルコ鐘楼から]  サン・ジョルジョ教会はパッラーディオの作品である。実際、彼の設計になる3教会、レデントーレ、ズィテッレ、サン・ジョルジョがサン・マルコ小広場から観望すると一列に並んでいる。

元修道院の寮(128mの長さ)、ロンゲーナの図書館、有名なレフェットーリオの食堂、美しいキオーストゥロの中庭、背後にある庭園、南ラグーナの静かさは我らの街歩きを完璧なものにしてくれる。またもう一つの美しいイマージュ、サン・マルコ広場の甃のレース模様を我々に共感させてくれるのである。」 (終り)
Venezia-Teatro-Verde-Fondazione-Cini[サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会鐘楼上から眺めるサン・マルコ広場がまた美しいのです。我々日本人にとってこの島が関わりを持っているのですが、それについては2009.10.31日のヴェネツィアと日本の関係で触れました。この島の奥の庭園内にあるテアートロ・ヴェルデの野外舞台で能楽のヨーロッパ初の公演が1954年にあったということです。]
  1. 2018/08/09(木) 00:10:41|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:2

ヴェネツィアの街案内(45): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「ジュデッカ島に行くには、ジェズアーティ教会前の停留所から82番線のヴァポレットに乗るのだが、教会内部のティエーポロのフレスコ画を見忘れないで欲しい。
[82番線は現在はなく、ザッテレ海岸通りのZattere停留所からSan Zaccaria方面行き、或いはSpirito Santo停留所からPiazzale Roma方面行きに乗れば、次の停留所はジュデッカ島のPalanca停留所です。]

かつてこの島は、spina longa(長い棘or魚の骨)と呼ばれたが、それは長い形故であって、Zudeca[古名]からGiudeccaになったと思われる。庭園や菜園がこの長い島の一番の特徴で、ルドヴィーコ・ウーギの1729年の植物が存在する。彼はその独特の花壇の様子を正にマニアックなほど詳細に記録している。
 
庭は個人の物で立ち入りは出来ないが、かつては外国渡来の植物が花咲き、色々の植物園の情報が貰えたが、残念ながら今はない。そこでは航海者や旅人が地球の遠隔地より持ち帰った珍しい薬草や植物が栽培育成されていたのである。マドンナ・デッロルト教会傍のパトゥロール庭園(現在消滅)には、180種類の薔薇が栽培されていたという。

緑の生い茂るこの島の話に戻ると、1529年ミケランジェロはヴェネツィア式の浮華虚飾に満ちた儀式に嫌気が差して、それから逃れようとこの島に避難した(リアルト橋を石で作るプロジェクトを提案した時の事らしい)。今では無くなってしまった屋敷や邸宅は色々の尊敬さるべき貴紳を招いたのであったが、中でもダンドロの館(サン・ジョルジョ島の直前の)に到来した有名人がいる。彼は羨望という後光に包まれた"Mamugnà(マムニャ)"という名前で有名な、キプロス島の錬金術師マルコ・ブラガディーンで、銀を金に変換することが出来ると思われていた。

人々の信じ込み易い性格を嘲笑う当時の民間のソネットが残っており、この人物が町で惹き起こした驚嘆にも拘らず、結局“哀れなマムニャ”は幸せな最期を迎えることが出来ず、1年後バイエルン公の客人としてあった時、化けの皮を剥がれ、金の“魂”を取り出すこと等出来ないとされ、調査もいい加減なまま斬首された。
[下掲の書『魔法』(K.セリグマン著、平田寛訳)に、「……錬金術師たちは、物質の魂を抽出しようと苦心していた。かれらはこの抽出物を使って、鉱物にふしぎな効果をあげようと望んだ。」とあります。]

他にも信じ難い人物が、その人柄と持てる秘術でヨーロッパを魅了しながら経巡ったが、それはカリオストロと称したヴィンチェンツォ・バルサモである。彼はペッレグリーニ侯爵と自称し、1788年素晴らしい奥方と共にこの島にやって来た。この島で短期間に奇跡のような事を成し遂げ、人々の好奇心と共に検邪聖省の関心も呼び起こしてしまい、直ぐに他の島に移動した。

出入り禁制の尼僧院や文学と哲学のアカデミー等では、その心地よい庭園の木陰でヴィーナスとキューピッドの像の下に腰を下ろし、人里離れた、この一種のラグーナの桃源郷で不躾な目を逃れ、浮気を楽しみ、色事に耽る。

今では、1800年代末から1900年代初頭の産業革命後の変化で、とりわけ島はその表情を変えた。沢山あった邸宅は、放棄された建築的な工場建築やワイン倉庫の残骸の間、島の南側に長い緑地帯が保存されていたにも拘らず、崩れ落ちてしまった。ニット工場ErionやビヤホールDreher、Junghans(ヴェ語式―ユンガンス)からScalera Film撮影所(ここで“Il ladro di Venezia”やヴィスコンティの『夏の嵐(Senso)』の幾つかのシーンが撮影された)まであり、それはコンヴェルティーテ運河通りに位置するコンヴェルティーティ祈祷所の背後にあった。

そしてこのようにconvertite(回心した)と呼ばれた訳は、前非を悔いる元娼婦や罪人になった女性達を集めたためであった(現在は女性刑務所となっている)。このOratorio(祈祷所)は、最初の司祭はヴァルカモーニカから来た司祭だったが、数年後、単に保護すべきだった迷える子羊(信者)20数人を蔑ろにしたため、サン・マルコの2本の柱の間で斬首された。

ここから右へ抜け出し、数メートル進むと、英国の画家ジェフリー・ハンフリーズの住んだ家の窓の下を通る。フーゴ・プラットの友人で、彼らの共通の最初のスタディオのあった場所である。その先、鉄格子の門の背後に、古い縄工場があるが、このアメリカのキャニオン渓谷のように長々しい区域は、この島を末端まで真っ二つに断ち切っているのである。 ……」 (46へ続く)
錬金術図像大全ルネサンスの魔術思想魔法[ここで触れた錬金術等に関する書を読んでいます。興味があれば読んでみて下さい。サルーテ教会の建築者バルダッサーレ・ロンゲーナの思想の根源にはこうしたカバラ的・錬金術的(?)発想があったのでしょうか。]

イタリアのサイトに、細部を知れば興味津々のこのカリオストロについて簡単な生涯を書いたものがありましたので訳してみます。
「カリオストロ伯爵とは、パレルモで1743年6月2日生まれた稀代の詐欺師ジュゼッペ・バルサモの偽名である。父は幼少時亡くなり、家族は彼が宝石商になることを望んだが、本人はその職業が好きではなかった。それ故ファテベネフラテッリ修道院に委ねられた。そこも自分の居場所にあらずと、彼は逃げ出し、メッシーナに行った。

そこで、師となったAltotasから化学の秘密[錬金術] を学び、他国を旅することになる。マルタ島やローディ、バルカン半島を旅し、エジプトへも行ったらしい。貴族を名乗り、幸先良く、正直者から金を巻き上げた。大金を携え、イタリアへ戻り、ローマに滞在した。偽証明書で大祈祷師として更に稼いだ。降霊術等の心霊会を組織したことが原因で教皇庁から追放され、ヨーロッパを歩き回ることとなり、詐欺師としてのキャリアを積んだ。

イギリスに行き、大フリーメーソンとなったが、脱税が元でロンドンから逃亡せざるを得ず、ローマに帰った。魔術師であり錬金術師としての彼の評判は役に立たず、妻に告訴されて服役し、サンタンジェロ城の獄門に下った。何年か後、ロッカ・ディ・サン・レーオの城塞監獄に移送され、1795年8月26日発作を起こして亡くなった[この記述では彼の面白さは判りません]。」
  1. 2018/08/02(木) 12:08:59|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(44): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「この橋は渡越せず、このままゲラルディーニ運河通りを進み、通り終りでスポルカ・デ・レ・パツィエンツェ(Sporca de le Pazienze)通りへ左折する。更にその先をロンガ通り方向へ左折。この通りに小さなレストラン"La Furatola(フラートラ)"がある。
Fujiyama[ furatola(ヴェ語)は、Pizzicagnolo(ピッツィカーニョロ―惣菜屋)等の小さな店の事。このロンガ(Longa)通りで、日本の伊大使館職員を長年されていた方が帰国され、Bar と B. & B.を《富士山(ふじやま)》と言う名前で経営されています。通りに《Fujiyama》の看板が目立ち、語学校帰り時、Tea roomに何度か寄りました。日本国での《表彰状》等も店内に貼られ、1度泊めて頂いたこともあります。]

右のトゥルケッテ通りへ曲がる所まで進むと、その角にバーカロ"Da Piero"があって、内部にビリヤードの台が置かれている。その少し先にも改築されたばかりで、とても親しみの湧くバーカロ"Da Sandro"もある。そしてこの角を右折してTurchette通りを進む。ここには古くトルコ人(Turco)用の監獄としてサン・ロッコ信者会に属した収容所があった。修道女達はこうした少女達を気遣い、改宗させるための準備をし、最低でも持参金を与え、ヴェネツィア共和国という異質の文化状況に、これらの少女達が解け込むようにした。

オスマントルコとの海戦でヴェネツィア海軍に捕まったハーレムの女達は全てここにやって来た。しかしこの通り名の起源には別のより"hard"な説もある。それはトルコ人処女、特に娼婦は男に着飾らせられ、トゥルケッテ橋の袂の家で彼女達の商売に従事させられたというものである。橋を越え、ボルゴ運河通りを進む。道を進むこと半ばで、ロカンダ(安宿)“Da Montin”がある。
[語学学校の課外事業で、午後希望者には伊語聞き取りの耳の訓練のためにマルコ先生と街歩きをしながら、建物等の説明を受けました。この橋の左に建つ家についてそんなトルコ関連の話を聞きました。ヴェネツィア街歩きの楽しさを知ったことでした。
ロカンダ・モンティーン中央の赤っぽい絵が画伯の物またロカンダ・モンティーンについては、ロカンダとして営業をしているとの話を聞き、Fax して尋ねたことがありました。現在は宿の営業は止め、レストランをしているので食べに来て下さいとのことで、2度ほど食事に行きました。最初の時、壁に展示されたある絵の前に案内され、この絵を知っているかと問われ、絹谷幸二画伯の物があると聞き知っていたので、その旨答えました。2度目の時はここに日本人がよく食事に来るようになったらしく、部屋の中央に配置替えになっていました。2010.11.27日の文学に表れたヴェネツィアで画伯について触れています。画伯はアッカデーミア美術学校に留学され、ボローニャの画家ブルーノ・サエッティの元でアフレスコ画(画伯は伊語式に"affresco"と発声されます)の研究をされたとのこと。サエッティのヴェネツィアの工房はサン・ヴィダール広場に面した2864番地にあり、《太陽と希望の画家ブルーノ・サエッティ(1902~1984)はここで仕事をした。ヴェネツィア市、1981.08.31》という碑があります。画伯の絵は中央の赤っぽい絵柄の物。]

オンニッサンティ運河に出るまで運河通りを進み、そこで左折し、プラットにとって非常に懐かしい運河通りに面したフランス領事館を越えて進む。こうしてサン・トゥロヴァーゾ広場に到着、ここはある日、コルトがヴェネツィアの猫協会と口を利いた所である。教会の周りを回ってみると、教会の向こうに街でも最高に美しい、ブランドリーン館の緑の庭園がある。ファサードがサン・トゥロヴァーゾ運河に面して大学の建物となっている。

かつてこの緑のオアシスは、人々に愛された外国渡来の珍しい植物で有名で、1545年、パードヴァ大学植物園の植物育成に協力していたアントーニオ・ミキエールの所有になるものであった。右手の橋を渡る前に、1925年に作られたこの館のファサードの、ブラス家によって設えられた、非常に興味深い一連の神盃と建築的な浮彫りを見過ごさないこと。
「Cantine del Vino gia` Schiavi」ジャ・スキアーヴィ橋を渡り、バーカロ"Da schiavi"で一休みしよう。
[このバーカロ"Cantine del Vino-già Schiavi"は、NHKのヴェネツィア街歩き番組でこの近辺を通る時には必ずと言っていいほど撮影されていました。squero等、近所を歩く時は立ち寄りましょう、しかし典型的なバーカロはBarと違い、バーカロの最古参《ド・モーリ》でのようにコーヒーはありません。]

右へナーニ運河通りを進もう。ゴンドラの修復もする、素敵なスクエーロ(ゴンドラ造船所)を対岸に見る。これはこの建築・建造という世界の中で何か山野的な雰囲気を醸し出している非常に絵画的な一郭である。そしてここを通り掛かった多くの画家達によって不滅の景観となった。

ザッテレ海岸通りに戻ってくると、バールやジェラート屋がのんびりするようにと誘ってくるが、直前にある、左の停留所からジュデッカ島に向かってヴァポレットに乗船しよう。 ……」 (45に続く)
  1. 2018/07/26(木) 00:50:26|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街案内(43): アッカデーミア橋からジュデッカ島まで

(続き)
「ニコでジェラートを味わった後は、ジェズアーティ教会脇のジェズアーティ埋立通りへ右折する。コルトが『ヴェネツィアの御伽話』の中でステーヴァニとガブリエーレ・ダンヌンツィオ率いるファシスト隊に遭遇するサンタニェーゼ広場脇を通る。アントーニオ・フォスカリーニ埋立通りを行き、ラルガ・ピザーニ通りへ左折し、その先を右へ、直ぐに左の狭いピストール通りへ入り、プリウーリの海岸通りへ抜け出ると、右へ曲がってマラヴェージェ(ヴェ語白粉花の意)橋まで行く。この名前にはここに住んでいた“マラヴェージャ”一家の記憶が刻まれている。

しかしこの橋の仇名にはお伽噺的伝説がある。その内の一つは一晩でこの橋が架設されたのだが、それは無名の人々の手によるものであったということであり、工事を始める前に近所に建設資材を運んでおいた物を使用したという用意周到さであったということである。

橋を渡り、対岸のトレッタ通りへ入る。更にその先に続く、2番目のトレッタ通りの終り近くに、小さな橋の先にオステリーア“Ai vini padovani”、“Ai Fioi”としてよく知られたレストランがある。
[Toletta(ヴェ語Toleta)とは伊語Tavoletta(小さな板)のことで、この運河沿いの通りはかつては運河に長い板を渡して橋代わりにしていたのでしょうか。“Ai fioi”は語学学校ヴェネツィア学院の生徒は学生証を提示すると割引があると言われ、何度か食事しました。書籍の割引は語学学校裏の、ヴェネツィア大学前の書店が可でしたが、このトレッタ通りの書店(下で記述あり)でも何度か本を購入しました。]

“Ai Fioi”に寄らないならば、右のチェントプレーレ通りからチェルキエーリ通りへ向かおう。そこには桶を締める輪っかの職人の工房があった。その先左にコマール小広場に通じる軒下通りがある。その隠れた一画は素晴らしい。ちょっと引き返し、小さなオステリーアの前を通り、スクエーロ(ゴンドラ造船所)運河通りを行き、スクエーロの小橋を渡り、トレッタ運河通りへ出る。

この橋の直ぐ左にトレッタ書店がある。我々の興味を引く何かについての割引本を見付けるのは造作もないことである。立ち寄ってみる価値は十分にある。もし寄り道が嫌ならば、橋を右折し、ロンバルド橋を越え、カジーノ・ヴェニエールについて以前話した個人のリドッティ(賭博等の遊興場)のあったカジーン・デイ・ノービリ(貴族の館)の軒下通りを抜ける。

こうしてサン・バルナバ広場に出る(ここは、かの有名な英雄物語の第三話で地下からやって来たIndiana Jones(日本ではインディ・ジョンズ)が抜け出してきた広場)。ここには選りすぐりの音楽レコードを置く小さな店やヴェネツィア式贅沢を味わうべく、カッフェがある。運河に沿って左へ行くと、神話的なプーニ(拳骨)橋の傍の運河に、船上、販売台に果物や野菜を並べた八百屋がある。
サン・バルナバの八百屋さん キオード(釘)橋[右、米映画『旅情』でも撮影されたカンナレージョ区のキオード(釘)橋――広場脇のサン・バルナバ運河に、『旅情』でキャサリーン・ヘップバーンが落ちたシーンは有名です。この映画は『ウエストサイド物語』を書いたアーサー・ローレンツのドラマ『The Times of the Cukoo』の映画化で、ヘップバーンは大量の予防薬を飲んで運河転落を敢行したのだそうです。ヴェネツィア本島唯一の欄干のないキオード橋等まで、ヴェネツィア名所を隈なくシーンに収めた映画で何度も見ました。その故か、ヴェネツィアは飛び込みを禁止しているのですが、後を絶ちません。7月9日のLa Nuova紙は罰金450ユーロと書いています。]

この橋の名前は、ここで行われていた古い習慣を思い起こさせる。9月からクリスマスの日まで、町の二つの地域の党派の戦いである。Castellani派(カステッロ区の住民)とNicolotti派(サン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教区の住民、ヴェネツィアでも貧しい人々)。後者は貧しい漁民達で、死亡税なるものを制定したため、“死の司教”と呼ばれたカステッロ[大聖堂があります]の司教を14世紀暗殺した後、激しい対抗意識を燃やしていたと思われる。人民の半分の命を奪った1346年のペストによりこの聖職者が稼いだ富に怒り心頭で、彼の10番目の王国、あの世に彼を送ってしまえと考えたのであり、こうしてカステッロの住民の怒りも燃えたのだった。
アントーニオ・ストーム画『拳骨戦』ガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』[左はアントーニオ・ストーム画『拳骨橋の戦い』、右はガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォースカ橋の棒戦』]  橋の上に登ってみると、橋の隅に大理石の4つの足型を見ることが出来る。闘いを始めるために勝負相手の位置が設定されており、欄干はなく、このためある者は、相対する両岸に蝟集した観客の笑いや嘲笑を引き起こしながら、運河に飛ぶように落下すること、しばしばである。

こうした闘いはここだけでなく、この対立する二つの地域が1年に一度、正に野戦のようにぶつかった。1705年の血塗れの闘いでは、群衆と狂乱の中で、死者さえ残された。以後この闘いは決定的に禁止された。 ……」 (44に続く)
[拳骨橋の戦いについては、2008.05.02日の拳骨橋の戦い(1)と2008.05.09日の拳骨橋の戦い(2)で触れています。その他カンナレージョ区の、ヴェネツィアの知恵袋だったパーオロ・サルピの銅像が建つサンタ・フォースカ広場に架かる同名の橋やレオーニ小広場近くのサン・ズリアーン教会裏の戦争橋(ponte de la guera)でも闘いがあったようです。]
  1. 2018/07/19(木) 02:21:21|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:2
次のページ

カウンタ

カレンダー

06 | 2020/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア