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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのカーニヴァル(5)

(続き)
「 《行き過ぎと制限》
カーニヴァルは、仮装することで自らのアイデンティティを完全に隠蔽してしまうことを全ての人に許すことになった。その事は、何かが行き過ぎになってしまうということは避けようがなかった。仮装を悪用して良からぬ事を次々と思い付き、仕出かすのだが、それは犯罪となるものだった。

このため当局は、乱用や欺瞞的な利用、或いは正統的でない仮装に対して、繰り返し、制限、禁止そして重罪という通達を発した。事実、特に夜間、闇に紛れた仮装で、結局は知られてしまうことになったが、ひったくりや盗み、または迷惑行為のような各種の犯罪を犯してしまうのは容易いことであった。既に1339年2月22日には夜陰に仮面で町を歩き回ることに対して、禁令が布告されていた。

かなり一般化した乱用としては、秘所に入るのに偽装して女装したり、教会や修道院に入るのに僧侶服を着用し、破廉恥な行いや修道女との放蕩行為に及ぶ男達である。1458年1月24日の通達はその目的に適ったもので、聖域に仮面で入ることを禁じ、それは、multas inhonestates(破廉恥な罰則)を科されないようにする目的であった。

安全が行き渡った期間は、護身用に武器や危険物を簡単に隠せるタバッロのような大きなマントや色々な仮面の着用が広まったことに由来すると言えよう。しかしそれを定着させた公式文書が沢山あり、他人の安全のために何か凶器を身に纏うことの禁令を引き続き再確認していた。こうした犯罪の刑罰は非常に重く、厳しい刑罰として財産刑としての罰金と、ガレー船で何年も船を漕がせるぞ、という警告としての懲役刑があった。

売春という職業は、元々あって欲しくない職業でありながら、共和国の内部では許容せざるを得ないものであった。時に嘱望され、ヴェネツィア人や外国人に求められながら、堕落と風俗紊乱の源と考えられたが、梅毒の感染源と思われた。このため娼婦は、厳しい抑圧の下にあり、酷な課税下にあった。しかし娼婦は仮面との交流がスムーズで、決められた掟の下、仕事に励むことが出来た。それ故最終的に、かなり厳しい法律で娼婦の仮面は禁じられた。

厳しい罰則以外にも、ピアッツェッタの2本の柱の間で晒し者にされ、鞭打ち刑でサン・マルコ広場からリアルトまで晒され、共和国外への4年間の追放刑があった。

賭博場が普及したため、仮面を被ったある賭博師が債権者から逃れるため、ある無名の人を搾取したという記録がある。1703年にはこうした場所へ仮面を被って赴くことは完全に禁じられた。

その後1776年には既婚の夫人が劇場に仮面を付けずに出掛けることは、名誉のために禁じられた。

1797年の共和国崩壊後、個人の館でのパーティやカヴァルキーナやフェニーチェ劇場での舞踏会を除いて、仮装は禁止となった。結果として、何世紀も続いたこの歴史的カーニヴァル行事の精神的支柱が直ぐに崩れ始めた。行事が次第に消えていった。

 《現代のカーニヴァル》
1797年にナポレオン軍がヴェネツィアを占領し、その後オーストリア軍が進駐し、チェントロでは長い間、人民の反乱や混乱を怖れてカーニヴァルは中断していた。ただブラーノ島やムラーノ島では低調とは言え、ある種の熱気で曲りなりにも継続していた。

2世紀後の1979年、何世紀も続いていたカーニヴァルが、燃え尽きた灰燼の中から蘇った。ヴェネツィア市が経済的にバックアップし、フェニーチェ劇場やヴェネツィア・ビエンナーレや旅行協会等の幾つかの市民団体の企画や人力のお蔭である。 ……」 (以下の現代の記述は省略です)
  1. 2019/01/03(木) 04:08:32|
  2. ヴェネツィアの行事
  3. | コメント:2

ヴェネツィアのカーニヴァルについて(4)

(続き)
「 《天使の飛翔(Il volo dell'Angelo)》
町が行う色々の催し物やスペクタクルの中でも、15世紀半ばのカーニヴァルで、度胆を抜くような特別のイヴェントが行われた。トルコから来た若い軽業師が、錨でピアッツェッタの岸壁に釘付けした船からサン・マルコ鐘楼の頂上の鐘撞き堂まで張った長い綱の上を、狂喜する群衆の喚声の中、平衡を保つ竿だけで辿り着いたのだった。下りは総督宮殿のバルコニーに降りると、総督からお褒めの言葉があった。
ガブリエール・ベッラ画『ピアッツェッタでのカーニヴァルの最終木曜日の祭』[ガブリエール・ベッラ(1730~1799)画『ピアッツェッタでのカーニヴァル最終木曜日の祭』。かつてのカーニヴァルでは、拳骨橋で殴り合いをしていたニコロッティとカステッラーニはその闘いで死者が出、市に戦いを禁じられ、人間ピラミッドで力を競い合うようになったのだそうです。]
このスペクタクルの成功後、直ぐにトルコ人の飛行(Svolo del turco)と呼ばれ、このイヴェントはカーニヴァル最後の木曜日(Giovedì Grasso)にだけ行われ、同じ高い技と何年も色々に変化した形でその後に続く公式の催し物として、要請され計画された。

長年このスペクタクルは同じ名前で呼ばれ、テーマによって種々の危険な技や変化を、勇気を持ってその手腕を発揮したので、若いヴェネツィア人が新しい試みに取り組むこともなく、プロの綱渡り芸人だけが出演していた。

続く何年もの間に区々の変化があり、人に羽根を付け、綱に輪を通してその人をぶら下げ、その人を綱を高速で引き揚げ下ろすという出し物が想定されるまでになり、Volo dell'Angelo(天使の飛翔)という新しい名前が考案された。この選ばれた人は総督宮殿のロッジョーネに下降し、最後に総督からお褒めの金品を手渡されるのが習わしとなった。芸は大胆勇敢に進化発展し、集団的な飛翔等、ますます難しい出し物となった以外に、曲芸師達が動物や舟、色々な形の出し物を企画するショーもあった。

1759年この見世物に悲劇が襲った。ある時、曲芸師が地面に落下激突し、観衆が恐怖に戦いた。多分この大事件が元で、このようなイヴェントは禁止になった。その時から計画は、曲芸師はその綱の道中は木製の大きな鳩に変更され、鐘楼から出発し、観衆には花や紙吹雪を振り撒くという展開となった。

このイヴェントの初めから天使の飛翔は、Volo della Colombina(小鳩の飛行)となった。このようなイヴェントは、セレニッスィマの一千年の歴史の末期に至り、他の恒例の行事やスペクタクルの大部分がそうであったように、長期間中断したのである。

 《コンメーディア・デッラルテの仮面》
『妻はこっち、夫はあっち
気の向いた方へ、それぞれ赴く
皆、誘われた所へ走っていく
賭け事する人、踊る人』 (カルロ・ゴルドーニ)

カーニヴァルは、町の個人の劇場で催される、増加していく秘密のスペクタクルに弾みを付けた。そのイヴェントは、ヴェネツィア貴族の一家が資金を出して催されることがよくあり、彼らは大芸術家や真のプロの演技者に、ますます凝った、念入りな上演を委託する必要を感じていた。

個人の館でのこうしたスペクタクルは、最初は貴族の限られた観客だけに提供されていた。1500年代半ば頃、こうした芸術的なものの発展と要望に従って、ヴェネツィアでは庶民の観衆にも開かれた数多くの小劇場が開場した。

1600年代初頭、町の内外で評価されたプロの芸術家達で構成された劇団の数が増え、質が向上し、舞台芸術と職人の手仕事である衣装と仮面の喜劇演劇の世界と結び付いた活動が発展した。数多くの、才能豊かな劇作家が出現し、名を馳せ、ますます洗練され、複雑な作品を上演した。

コンメーディア・デッラルテの定義は、正にヴェネツィアで生まれたのであり、劇作家で台本作家であったカルロ・ゴルドーニが、1750年に遡る、その年コンメーディアの中に喜劇作品を導入したのだった。 ……」 (5に続く)

[2009.09.26~2009.10.17日にカルロ・ゴルドーニ》(1~4)について触れています。]
  1. 2018/12/27(木) 00:28:29|
  2. ヴェネツィアの行事
  3. | コメント:0

ヴェネツィアのカーニヴァルについて(3)

(続き)
「 《マリーア祭[La festa delle Marie(複数マリーエ=マリーア達)の祝祭]》
このヴェネツィアの非常に古い祭りは、その始まりについては今でも議論の的であり、1039年からのニュースが残っており、それが関連付けられた時の多分943年頃、導入され、カーニヴァル期間中続いた。

2月2日の聖母マリアのお清めの祝日に、ヴェネツィアでは花嫁の授福式の日を祝う風習があった。その日サン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂で、町で最も貧しく美しい少女の中から選ばれた12人の少女の結婚式が集団で祝福されたのである。この花嫁達の持参金の構成要素に貢献するために、ヴェネツィア貴族の家庭が金品贈与等で参加し、総督は少女達に街の宝物の中から素晴らしい宝石や黄金を貸すことが慣習だった。

ヴェネツィア総督と貴族の面前で行われる豪華な結婚式の後、花嫁達はサン・マルコ広場まで行列に付き添われて行った。総督宮殿に到着すると少女達は、宮殿のレセプションに丁重に招待してくれた総督からお褒めの言葉を戴く。続いて行列はブチントーロ船に乗船し、陽気な市民達の数多くの小舟に付き添われて、リアルトに向けて大運河を進み、更にサンタ・マリーア・フォルモーザ教会に至って、そこでまた別の厳かな式典が行われた。

943年、ピエートロ・カンディアーノ3世の総督時代、結婚式の最中、皆の驚く中、ストラ(Istra)半島の海賊が教会に押し入り、arcelle(櫃)と呼ばれる豪華な長持の箱の中に収められた持参金の宝石類等は元より、花嫁ごと全てを略奪したそうである。

最初、何が起こったか信じられない思いで、間違った噂からの混乱の後、勇敢なヴェネツィア人達が直ぐに海賊の追跡に取り掛かり、錨を上げ出航準備、総督を頭に追跡隊を組織した。カーオルレ近くで海賊に追い付き、攻撃して皆殺しにし、12人の乙女達と貴重な金銀を取り戻した。
Veneto地図現在のカーオルレ[現在のカーオルレ海岸、サイトから借用]  総督はこの卑劣な連中が誰にも悼まれる事の無きよう、死体が埋葬されないように全死体を海底深く沈めるよう、命じた。その上、この血生臭い話が生じた場所を乙女の港(Porto delle Donzelle)と命名することに決め、現在でもそう呼ばれている。

それ故この海賊退治のお蔭で、その事を祝うべく、毎年行うマリーア祭を挙行することが決定された。ヴェネツィアで最も美しい乙女の中より、各区(6 sestieri)から2名、この機会に改めてマリーアと命名されたのか、祭りは12人を選ぶことから始まった(多分略奪された少女の多くがマリーアだったか、或いは聖母マリアのお清めの祝日からこの名になったかである)。貴族の家庭が招待され、この娘達をもっと王女様らしくするために、衣類や調度品、宝石類を少女達に授ける役を請け負った。

マリーア達の行列は、町のリーオ運河を行く船で経巡るように進み、ヴェネツィアの主だった教会で宗教行事に参加し、市民が催す舞踏や音楽、茶菓等の接待パーティに参加した。マリーア達に接触することが出来るということは、珍しい、高価な装飾品を身に着けた素晴らしい美女達を近くから目にするヴェネツィア人や外国人にとって、一つのチャンスである以上に、縁起が良いと考えられた。

1272年には9日間も繰り返し続き、特に政庁や貴族の出費となる多額の費用を抑えるために、マリーア達の人数が最初は4人、更に3人と減らされた。予期せぬ改変でその精神と主たる本質を冒すまでになり、時と共に更に変化変更が生じた。

祭りが女の美しさを見たいあまりに偏向したことを修正したい(というより宗教的伝統に立ち戻りたい)と、当局はマリーア達を木造の人形に変更することを決めた。この変化は、当然の如く市民の反対に遭い、直ぐに人形に石や野菜の集中砲火が始まった。そのため1349年に、人形に物を投げてはならないという法律が発せられた。

Maria de tola(板のマリーア)という表現は、特別の機会に貨幣に鋳造されたが、“冷たくて胸のない女”のタイプとして嘲笑的にヴェネツィア語に導入され、今日でも嘲りとして使われている。マリーア達のお祭りは何年も続いたが、次第に廃れていき、ヴェネツィアがキオッジャ戦争に巻き込まれた1379年廃止された。公式の行事としては、サンタ・マリーア・フォルモーザ教会に総督が年に1度訪問するだけであった。

1999年、形態は変わってしまったが、色々のヴァリエーションを伴って約600年後、公式に蘇った。 ……」 (4に続く)
マリーア祭行列[蘇ったマリーア祭(写真はサイトから借用)――Wikipediaのマリーア祭は上記のようですが、2009.01.24~2009.02.07日に『Leggende di Venezia』(Edizioni Helvetia s.a.s)からマリーア祭》(1~3)について書きました。]
  1. 2018/12/20(木) 06:33:32|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアのカーニヴァルについて(2)

(続き)
「……カーニヴァルの衣装がますます普及していったことで、ヴェネツィアに新たに生まれたものというのは何もなかったが、正に仮面と仮装の使用そのものが次第に広まっていったということはあった。1271年からの仮面製作、その教習所や作る技術の記述が残っている。粘土や張子材料、石膏、薄紙等の材料の特殊な使い方のための道具製作が始まった。

型を作った後の仕事は、色を塗り、絵を描いたり、刺繍したり、飾り玉を付けたり、羽毛を挿したり、のような特別の飾りを施し、終了する。所謂、仮面装束は職人達がますます華美に、洗練された様式と仕上げで仮面を製作し、そしてヴェネツィアの古文書館に保存されている1436年4月10日の法規で判るように、その製作法は広く知られていたのである。

特に18世紀から流行し、現在でも着用されている古い時代のカーニヴァルの中で、非常にポピュラーだった仮装の一つは、何と言ってもバウッタ(ヴェ語、bauta)である。この装束(衣装)は典型的にヴェネツィアのものであり、男女を問わず着用し、黒い三角帽子(tricorno)の下に付けられる、larva(妖怪)と名付けられた白い独特の形の仮面で作られるもので、暗いくすんだ色のマント、タバッロ(tabaro)を纏って完成である。
賭場の胴元[ピエートロ・ロンギ画『賭場の胴元』(1757)中、背後の左の女性2人はモレッタ仮面、中央の男性はバウッタ仮面]  バウッタはカーニヴァル中、広く利用されたが、劇場や他のパーティ、女性とのデート時等、自由に口説いたり、口説かれたりする時、完全な匿名性が保証された。この目的のために、この仮面の独特の形は顔から外さずとも飲食を可能にした。
gnaga[サイトから借用] その時代の、別の特徴的な仮装はニャーガ(gnaga)であった。男にとっては簡単に女装する仮装で、いとも容易く着れ、寧ろ普通に利用された。普段着の婦人衣として作られた物で、牝猫の姿をした仮面で、普通は牡猫を入れた籠を腕に下げる。この人物は庶民の小女として振る舞い、金切り声のような、人を嘲るように猫の声[日本語でも“ニャーゴ”ですね]を発する。時には、幼児の格好をした他の男達を引き連れ、乳母を演じる時もある。

それに比して多くの女達は、モレッタ(moreta)と呼ばれる仮装をする。それはくすんだ色のビロード地の小さな仮面から成り、デリケートに作られた小さな被り物、衣類と洗練されたベールから成る物ある。モレッタは喋らない。というのは仮面の内部に付けられたボタンを口に咥えて顔に固定するからである(この意味で物言わぬ小間使い―servetta muta―とも呼ばれている)。

 《お祭り》
カーニヴァル期間中は、ヴェネツィア人の活動と仕事は二の次となるり、祝祭行事、お巫山戯、楽しみ、そして町のあらゆる場所、特にサン・マルコ広場、スキアヴォーニ海岸通り、街の主要な全ての広場で催されるスペクタクルに彼らは自分達の時間の多くを割いた。

あらゆる種類のアトラクションがあった。奇術師、軽業師、楽士、踊り手、動物使い、色々な見世物師は奇抜で飛んでもない衣装で、あらゆる年齢、社会階級の各種の人々を楽しませた。行商人はあらゆる物、季節の果物から贅沢な織物まで、香辛料から遠国、特にオリエントから到来する食品に至るまで何でも売った。ヴェネツィアはマルコ・ポーロが絹の道を通過したかの有名な旅の時代から、緊密で貴重な商業関係を築いていたのである。

広場での大イヴェント以外に、直ぐに個人の家や劇場、町のカッフェで小規模の出し物やあらゆる種類の催し事(違反したものが非常に多かった)が行われた。ヴェネツィアの豪華な館である居宅では、華麗な仮面舞踏会が豪奢に延々と行われ始めた。

しかしヴェネツィアのカーニヴァルが最も光り輝き、知名度が最高になったのは18世紀のことで、当時の全ヨーロッパで熟知され、高評価で観光的魅力となり、何千ものお祭り騒ぎ好き観光客の憧れの地となった。

悪名高いアバンチュールの主人公、この時代最も有名な人物の一人、ジャーコモ・カザノーヴァをヴェネツィアで見るのはこの時代のことである。非常に多作のヴェネツィア人作家であり、当時のヴェネツィアの放蕩無頼の最大のスポークスマンとして能く知られた。
カザノーヴァと想定画[アレッサンドロ・ロンギ画のカザノーヴァと想定される肖像画(1774?)、サイトから借用]  今日でもこの悪評高い軟派男は引用されるが、非常に猥らなパーティに参加したお蔭で、神話的なまでの人物像を創り上げた。それは猥褻なまでの情話や彼が無節操な人生で出遭った、信じがたいまでの“お話し”に書かれており、どこに向かうのであろうとアバンチュールであり、スキャンダルであり、しかし活気に満ちた楽しさなのである。 ……」 (3に続く)
  1. 2018/12/13(木) 00:04:10|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアのカーニヴァルについて(1)

例年の如くまた、ヴェネツィアのカーニヴァルの時季が近付いて来ました。来年のこの移動祝祭日は2月23日~3月5日(martedì grasso)だそうです。現代のカーニヴァルはTVやPC等、色々な媒体で紹介されます。昔はどうであったか、英語のWikipediaの項目や日本語翻訳機能もあります。例によって伊語の下手な翻訳練習(誤訳の場合、通報頂ければ幸甚です)で、イタリアの《Carnevale di Venezia》から紹介してみます。
tre mascheretre travestimenti「ヴェネツィアのカーニヴァルは、ヴェーネトの州都で毎年のように行われる町の祝祭行事である。世界各地の謝肉祭の中でも能く知られ、高評判の移動祝祭日である。その始まりは非常に古い。最初の記録は1094年の総督ヴィターレ・ファリエール時の記述に遡る。その中で民衆の喜びが語られ、カーニヴァル(Carnevale)という言葉が初めてそこに引用されたのだった。

寡頭政治時代のヴェネツィアでカーニヴァルの導入はセレニッスィマも普通にそれを必要としたことにもよるが、人民に、特に最も下層階級に楽しみや祝い事にすっかりのめり込むことの出来る期間を許すことが古代ローマで既に行われていたのと同様に、その期間ヴェネツィア人も外国人も音楽や踊りに羽目を外して、お祭り騒ぎをするために町中に繰り出した。

仮面を付けることと衣装を着けることで、その人の匿名性が保証され、社会的不満が均等化され、当局や貴族階級が隠し立てもしない嘲り行為まで正当化されるようになった。そうした各種の容認が社会全般で大目に見られ、ヴェネツィア共和国内で不可避的に生じる緊張感や不和等の、思いもよらない捌け口と考えられ、一般倫理と市民としての公共の秩序のような問題に厳しく歯止めを掛けるものだった。

 《古い時代のカーニヴァル》
ヴェネツィアのカーニヴァルを民衆の祝祭と宣言した最初の公式記録は、ヴェネツィア元老院が四旬節前の日を祝祭と表明した1296年の法令である。この期間、そして続く数世紀、カーニヴァルは時にその行事が10月1日に始められるようなことがあったにせよ、12月26日から灰の水曜日までの7週間続いた。

 《仮面と衣装》
仮面と衣装を着けた市民は、自分のアイデンティティを完全に隠し、階級、性、宗教といった自分の個人性をこうしたやり方で無にしてしまうことが出来る。各人は新しい衣装と変装した姿を基本に、態度や行動を決定することが出来る。このため、この新顔達が擦れ違う時に発する挨拶はいつも極簡単に、“Buongiorno, siora(signora) maschera !”である。

身分を隠して集団でこうした変装をしての楽しい社会参加は、かつてそうであったように現在でもカーニヴァルの本質である。それは日常の習慣や自分についてのあらゆる偏見や批難陰口から解放され、あっけらかんとした期間だった。人々は皆、大きな仮面舞台に出場した訳である。そこでは演じる者も見る者も、色々な色で飾られた姿形のユニークな一大行列の中に溶け込んでいた。 ……」 (2に続く)
  1. 2018/12/06(木) 09:46:25|
  2. ヴェネツィアの行事
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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