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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのカーニヴァル 2021年

今日の新聞に、リオのカーニバルが中止になったとありました。
カーニヴァルカーニヴァルは暦年の宗教行事の一つです。人が集まるイヴェントが取り止めになったということで、例年行われていたように、各家庭内ではそれぞれの謝肉祭を楽しんでいたはずです。

ヴェネツィアのカーニヴァルの日程も近付いてきました。PCのサイトには、旅行社等の記事で2021年のヴェネツィアのカーニヴァルの予定が発表されています。ヴェネツィアの公式サイトにも昨年の内に公式の行事予定が発表されていました。

しかしこの1月4日付の《ラ・ヌオーヴァ》紙は、縮小された形で、イヴェントは定員制でやるか、Web上でやればOKとしていましたが、23日付では明確に人の集まるイヴェント、館での舞踏会等、サン・マルコ広場や通り等での人出を発生させる一切を禁じ、催しはonlineで発表するように、保健局のお達しです。市にとっては大打撃のようです。

NHK・TVで、昨年のヴェネツィア・カーニヴァルが、ヴェーネトで感染者はまだ僅か、しかし死者1名の報の直後、日曜日から中止になった時のフィルムを見たことがあります。主催者達は大変悔しい思いをし、今年のカーニヴァルに賭けていたと思いますが、昨年以上に残念な結果になってしまいました。このコロナ禍はいつまで続くのでしょうか。

1月21日のヴェネツィアの様子(早朝?)を撮られたMarco ScarpielloさんがupされたYoutubeから ヴェネツィア 1月21日。コロナ禍以前であれば、この明るさの朝早き時間、運河には沢山の船の動きが見られ、通りでは多くの人々が足早に歩き、サン・マルコ広場は既に観光客の姿があり、活気ある街を感じたものです。カメラに映し出された街を見ると、かつて泊ったことのあるホテルの場所にはシャッターが下り、ホテルの看板がありませんでした。
  1. 2021/01/23(土) 23:49:52|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴァポレットを待ちながら

年に2~3か月、数年に亘って伊語の勉強のために通学したヴェネツィア学院から、未だにヴェネツィアに関する本等の抜粋を読むようにとメール便で送ってきます。相当溜りました。その中から最近のものを訳してみます。ピエルルイージ・アレッサンドリという人の文章です。

「……ザッテレでヴァポレットを待ちながら……
ヴェネツィアでは他でもない、リード島で慣例になっている事があった。時に土曜日か日曜日の事であるが、父親とのテニスの試合で、サンタ・マリーア・エリザベッタ教会の方に向かって、ヴァポレットに乗った。偶然にそのルートを選ぶということではない。

その頃、スポーツクラブのあったエクセルスィオールの停留所にヴァポレットから直接降りることが出来たかも知れなかったが、僕達甘い物好きの人間のいつもの習慣があって、そこでは果物やクリーム、チョコレート……他所にはない独特の、素晴らしいジェラートを売っているティッタというアイスクリーム屋が大通りにあって、避けて通れないのであった。

ティッタは大サッカー選手で、大狩猟会の旅では父の友達であり、彼は甘い物好きが立ち寄ることが出来るように保証付きの物を提供していて、行くと挨拶を交わし、お喋り(ciacoe―ヴェ語)し、次回の大掛かりな狩猟の予想をしながら、二人の欲求を充分に満たしてくれた。

レジにはティッタの奥さんが居て、何時も金銭の受け渡しなど会計には気を付けていた。長く、ちじれた白髪で、首には黒いビロードのリボンを結び、太陽を浴び過ぎて日焼けした皺の多い顔に、ジプシー風の二つの濃紺の眼が際立っていた。

その目付きが突き刺すような鋭さだったので、僕は見られると、その視線に耐えられなくて、耳にぶら下がったブルボン王朝風のド派手な耳飾りにただ目をやっているだけだった。

その後の年月、リード島は友達や女の子達と心配することなど何もなしに過ごせる夏の夜の場所となった。夏の特別の時と言えば、それはレデントーレの夜。毎年正確に7月の第3土曜日のことである。
レデントーレの花火大会[以前の“ラ・ヌオーヴァ紙”からの借用]  灼熱のラグーナとなる花火(foghi―ヴェ語)が終わり、砂浜へ向かって船で出発し、焚火を燃やし、西瓜を切り、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、バッティスティ、デ・アンドレをギターで歌い、夜明けを待ったものだった。

曙光が射し始めるや全員入水する。僕達は少々ほろ酔いで、自分達の人生に夢中であり、時にはこんな風に遍歴放浪して、羽目を外し、自由なのだ!

『52番線です!  ピアッツァーレ・ローマ(ローマ広場)、フェッロヴィーア(鉄道駅)方面です、注意して下さい、ゆっくりですよ!……』 突如甦る記憶が、ヴァポレットが停留所にぶつかる衝撃で消えていく。 」
『レデントーレの夜』ジュデッカ島側から見た、peate船上の浮橋(昔の写真から)[左、ガブリエール・ベッラ画『レデントーレの夜』、右はジュデッカ運河に架けられた、レデントーレ教会への peate 船上の浮橋(ジュデッカ島側から見た、昔の写真。サルーテ教会のクーポラやサン・マルコの鐘楼も見えます)。この浮橋を渡ってレデントーレ教会にお参りします]  私の初めてのレデントーレの夜は1990年代の事でした。ヴェネツィアの友人の知り合いがジュデッカ島に設置したテーブルに寄せて頂き、foghi 最後まで楽しませて頂きました。皆さんはその後リード島に渡り、日の出を拝して帰るんだとのことでした。懐かしい思い出です。今年のコロナ禍でのお祭りはどうだったのでしょうか。
  1. 2020/09/17(木) 15:50:12|
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ヴェネツィアのカーニヴァル(5)

(続き)
「 《行き過ぎと制限》
カーニヴァルは、仮装することで自らのアイデンティティを完全に隠蔽してしまうことを全ての人に許すことになった。その事は、何かが行き過ぎになってしまうということは避けようがなかった。仮装を悪用して良からぬ事を次々と思い付き、仕出かすのだが、それは犯罪となるものだった。

このため当局は、乱用や欺瞞的な利用、或いは正統的でない仮装に対して、繰り返し、制限、禁止そして重罪という通達を発した。事実、特に夜間、闇に紛れた仮装で、結局は知られてしまうことになったが、ひったくりや盗み、または迷惑行為のような各種の犯罪を犯してしまうのは容易いことであった。既に1339年2月22日には夜陰に仮面で町を歩き回ることに対して、禁令が布告されていた。

かなり一般化した乱用としては、秘所に入るのに偽装して女装したり、教会や修道院に入るのに僧侶服を着用し、破廉恥な行いや修道女との放蕩行為に及ぶ男達である。1458年1月24日の通達はその目的に適ったもので、聖域に仮面で入ることを禁じ、それは、multas inhonestates(破廉恥な罰則)を科されないようにする目的であった。

安全が行き渡った期間は、護身用に武器や危険物を簡単に隠せるタバッロのような大きなマントや色々な仮面の着用が広まったことに由来すると言えよう。しかしそれを定着させた公式文書が沢山あり、他人の安全のために何か凶器を身に纏うことの禁令を引き続き再確認していた。こうした犯罪の刑罰は非常に重く、厳しい刑罰として財産刑としての罰金と、ガレー船で何年も船を漕がせるぞ、という警告としての懲役刑があった。

売春という職業は、元々あって欲しくない職業でありながら、共和国の内部では許容せざるを得ないものであった。時に嘱望され、ヴェネツィア人や外国人に求められながら、堕落と風俗紊乱の源と考えられたが、梅毒の感染源と思われた。このため娼婦は、厳しい抑圧の下にあり、酷な課税下にあった。しかし娼婦は仮面との交流がスムーズで、決められた掟の下、仕事に励むことが出来た。それ故最終的に、かなり厳しい法律で娼婦の仮面は禁じられた。

厳しい罰則以外にも、ピアッツェッタの2本の柱の間で晒し者にされ、鞭打ち刑でサン・マルコ広場からリアルトまで晒され、共和国外への4年間の追放刑があった。

賭博場が普及したため、仮面を被ったある賭博師が債権者から逃れるため、ある無名の人を搾取したという記録がある。1703年にはこうした場所へ仮面を被って赴くことは完全に禁じられた。

その後1776年には既婚の夫人が劇場に仮面を付けずに出掛けることは、名誉のために禁じられた。

1797年の共和国崩壊後、個人の館でのパーティやカヴァルキーナやフェニーチェ劇場での舞踏会を除いて、仮装は禁止となった。結果として、何世紀も続いたこの歴史的カーニヴァル行事の精神的支柱が直ぐに崩れ始めた。行事が次第に消えていった。

 《現代のカーニヴァル》
1797年にナポレオン軍がヴェネツィアを占領し、その後オーストリア軍が進駐し、チェントロでは長い間、人民の反乱や混乱を怖れてカーニヴァルは中断していた。ただブラーノ島やムラーノ島では低調とは言え、ある種の熱気で曲りなりにも継続していた。

2世紀後の1979年、何世紀も続いていたカーニヴァルが、燃え尽きた灰燼の中から蘇った。ヴェネツィア市が経済的にバックアップし、フェニーチェ劇場やヴェネツィア・ビエンナーレや旅行協会等の幾つかの市民団体の企画や人力のお蔭である。 ……」 (以下の現代の記述は省略です)
  1. 2019/01/03(木) 04:08:32|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアのカーニヴァルについて(4)

(続き)
「 《天使の飛翔(Il volo dell'Angelo)》
町が行う色々の催し物やスペクタクルの中でも、15世紀半ばのカーニヴァルで、度胆を抜くような特別のイヴェントが行われた。トルコから来た若い軽業師が、錨でピアッツェッタの岸壁に釘付けした船からサン・マルコ鐘楼の頂上の鐘撞き堂まで張った長い綱の上を、狂喜する群衆の喚声の中、平衡を保つ竿だけで辿り着いたのだった。下りは総督宮殿のバルコニーに降りると、総督からお褒めの言葉があった。
ガブリエール・ベッラ画『ピアッツェッタでのカーニヴァルの最終木曜日の祭』[ガブリエール・ベッラ(1730~1799)画『ピアッツェッタでのカーニヴァル最終木曜日の祭』。かつてのカーニヴァルでは、拳骨橋で殴り合いをしていたニコロッティとカステッラーニはその闘いで死者が出、市に戦いを禁じられ、人間ピラミッドで力を競い合うようになったのだそうです。]
このスペクタクルの成功後、直ぐにトルコ人の飛行(Svolo del turco)と呼ばれ、このイヴェントはカーニヴァル最後の木曜日(Giovedì Grasso)にだけ行われ、同じ高い技と何年も色々に変化した形でその後に続く公式の催し物として、要請され計画された。

長年このスペクタクルは同じ名前で呼ばれ、テーマによって種々の危険な技や変化を、勇気を持ってその手腕を発揮したので、若いヴェネツィア人が新しい試みに取り組むこともなく、プロの綱渡り芸人だけが出演していた。

続く何年もの間に区々の変化があり、人に羽根を付け、綱に輪を通してその人をぶら下げ、その人を綱を高速で引き揚げ下ろすという出し物が想定されるまでになり、Volo dell'Angelo(天使の飛翔)という新しい名前が考案された。この選ばれた人は総督宮殿のロッジョーネに下降し、最後に総督からお褒めの金品を手渡されるのが習わしとなった。芸は大胆勇敢に進化発展し、集団的な飛翔等、ますます難しい出し物となった以外に、曲芸師達が動物や舟、色々な形の出し物を企画するショーもあった。

1759年この見世物に悲劇が襲った。ある時、曲芸師が地面に落下激突し、観衆が恐怖に戦いた。多分この大事件が元で、このようなイヴェントは禁止になった。その時から計画は、曲芸師はその綱の道中は木製の大きな鳩に変更され、鐘楼から出発し、観衆には花や紙吹雪を振り撒くという展開となった。

このイヴェントの初めから天使の飛翔は、Volo della Colombina(小鳩の飛行)となった。このようなイヴェントは、セレニッスィマの一千年の歴史の末期に至り、他の恒例の行事やスペクタクルの大部分がそうであったように、長期間中断したのである。

 《コンメーディア・デッラルテの仮面》
『妻はこっち、夫はあっち
気の向いた方へ、それぞれ赴く
皆、誘われた所へ走っていく
賭け事する人、踊る人』 (カルロ・ゴルドーニ)

カーニヴァルは、町の個人の劇場で催される、増加していく秘密のスペクタクルに弾みを付けた。そのイヴェントは、ヴェネツィア貴族の一家が資金を出して催されることがよくあり、彼らは大芸術家や真のプロの演技者に、ますます凝った、念入りな上演を委託する必要を感じていた。

個人の館でのこうしたスペクタクルは、最初は貴族の限られた観客だけに提供されていた。1500年代半ば頃、こうした芸術的なものの発展と要望に従って、ヴェネツィアでは庶民の観衆にも開かれた数多くの小劇場が開場した。

1600年代初頭、町の内外で評価されたプロの芸術家達で構成された劇団の数が増え、質が向上し、舞台芸術と職人の手仕事である衣装と仮面の喜劇演劇の世界と結び付いた活動が発展した。数多くの、才能豊かな劇作家が出現し、名を馳せ、ますます洗練され、複雑な作品を上演した。

コンメーディア・デッラルテの定義は、正にヴェネツィアで生まれたのであり、劇作家で台本作家であったカルロ・ゴルドーニが、1750年に遡る、その年コンメーディアの中に喜劇作品を導入したのだった。 ……」 (5に続く)

[2009.09.26~2009.10.17日にカルロ・ゴルドーニ》(1~4)について触れています。]
  1. 2018/12/27(木) 00:28:29|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアのカーニヴァルについて(3)

(続き)
「 《マリーア祭[La festa delle Marie(複数マリーエ=マリーア達)の祝祭]》
このヴェネツィアの非常に古い祭りは、その始まりについては今でも議論の的であり、1039年からのニュースが残っており、それが関連付けられた時の多分943年頃、導入され、カーニヴァル期間中続いた。

2月2日の聖母マリアのお清めの祝日に、ヴェネツィアでは花嫁の授福式の日を祝う風習があった。その日サン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂で、町で最も貧しく美しい少女の中から選ばれた12人の少女の結婚式が集団で祝福されたのである。この花嫁達の持参金の構成要素に貢献するために、ヴェネツィア貴族の家庭が金品贈与等で参加し、総督は少女達に街の宝物の中から素晴らしい宝石や黄金を貸すことが慣習だった。

ヴェネツィア総督と貴族の面前で行われる豪華な結婚式の後、花嫁達はサン・マルコ広場まで行列に付き添われて行った。総督宮殿に到着すると少女達は、宮殿のレセプションに丁重に招待してくれた総督からお褒めの言葉を戴く。続いて行列はブチントーロ船に乗船し、陽気な市民達の数多くの小舟に付き添われて、リアルトに向けて大運河を進み、更にサンタ・マリーア・フォルモーザ教会に至って、そこでまた別の厳かな式典が行われた。

943年、ピエートロ・カンディアーノ3世の総督時代、結婚式の最中、皆の驚く中、ストラ(Istra)半島の海賊が教会に押し入り、arcelle(櫃)と呼ばれる豪華な長持の箱の中に収められた持参金の宝石類等は元より、花嫁ごと全てを略奪したそうである。

最初、何が起こったか信じられない思いで、間違った噂からの混乱の後、勇敢なヴェネツィア人達が直ぐに海賊の追跡に取り掛かり、錨を上げ出航準備、総督を頭に追跡隊を組織した。カーオルレ近くで海賊に追い付き、攻撃して皆殺しにし、12人の乙女達と貴重な金銀を取り戻した。
Veneto地図現在のカーオルレ[現在のカーオルレ海岸、サイトから借用]  総督はこの卑劣な連中が誰にも悼まれる事の無きよう、死体が埋葬されないように全死体を海底深く沈めるよう、命じた。その上、この血生臭い話が生じた場所を乙女の港(Porto delle Donzelle)と命名することに決め、現在でもそう呼ばれている。

それ故この海賊退治のお蔭で、その事を祝うべく、毎年行うマリーア祭を挙行することが決定された。ヴェネツィアで最も美しい乙女の中より、各区(6 sestieri)から2名、この機会に改めてマリーアと命名されたのか、祭りは12人を選ぶことから始まった(多分略奪された少女の多くがマリーアだったか、或いは聖母マリアのお清めの祝日からこの名になったかである)。貴族の家庭が招待され、この娘達をもっと王女様らしくするために、衣類や調度品、宝石類を少女達に授ける役を請け負った。

マリーア達の行列は、町のリーオ運河を行く船で経巡るように進み、ヴェネツィアの主だった教会で宗教行事に参加し、市民が催す舞踏や音楽、茶菓等の接待パーティに参加した。マリーア達に接触することが出来るということは、珍しい、高価な装飾品を身に着けた素晴らしい美女達を近くから目にするヴェネツィア人や外国人にとって、一つのチャンスである以上に、縁起が良いと考えられた。

1272年には9日間も繰り返し続き、特に政庁や貴族の出費となる多額の費用を抑えるために、マリーア達の人数が最初は4人、更に3人と減らされた。予期せぬ改変でその精神と主たる本質を冒すまでになり、時と共に更に変化変更が生じた。

祭りが女の美しさを見たいあまりに偏向したことを修正したい(というより宗教的伝統に立ち戻りたい)と、当局はマリーア達を木造の人形に変更することを決めた。この変化は、当然の如く市民の反対に遭い、直ぐに人形に石や野菜の集中砲火が始まった。そのため1349年に、人形に物を投げてはならないという法律が発せられた。

Maria de tola(板のマリーア)という表現は、特別の機会に貨幣に鋳造されたが、“冷たくて胸のない女”のタイプとして嘲笑的にヴェネツィア語に導入され、今日でも嘲りとして使われている。マリーア達のお祭りは何年も続いたが、次第に廃れていき、ヴェネツィアがキオッジャ戦争に巻き込まれた1379年廃止された。公式の行事としては、サンタ・マリーア・フォルモーザ教会に総督が年に1度訪問するだけであった。

1999年、形態は変わってしまったが、色々のヴァリエーションを伴って約600年後、公式に蘇った。 ……」 (4に続く)
マリーア祭行列[蘇ったマリーア祭(写真はサイトから借用)――Wikipediaのマリーア祭は上記のようですが、2009.01.24~2009.02.07日に『Leggende di Venezia』(Edizioni Helvetia s.a.s)からマリーア祭》(1~3)について書きました。]
  1. 2018/12/20(木) 06:33:32|
  2. ヴェネツィアの行事
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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