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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのマドンナ・デッロルト(Madona de l'Orto)教会(2)

(続き)
「……内部は、中央が特徴的な五角形をしている後陣の3ヶの礼拝堂に繋がる3本の身廊である。身廊はギリシア産の高価な大理石の5本の円柱が2列並び、そこから内輪の繊細な仕上げの、オジーブ式のアーチが始まり、その間が木製の鎖で結ばれている。天井も木製であり(中央身廊のなだらかな天井と両脇の傾斜した天井)、極く普通の格天井ではないことを示している。
マドンナ・デッロルト内部[写真はサイトから借用]  身廊と内陣には、アントーニオ・リッツォ、アレッサンドロ・ヴィットーリア、ジャンバッティスタ・チーマ・ダ・コネリャーノ、ジョヴァンニ・デ・サンティ(聖母の1400年代の奇跡的な表現で、上記のようにサン・マーウロの礼拝堂にある)、ジュゼッペ・サルディ、ダニエル・ファン・ダイク、二人のパルマのもの、そして当然であるが、ヤーコポ・ティントレットのオリジナルの傑作がある。

ティントレットについては、彼の亡骸、娘マリエッタと息子ドメーニコのものが眠っていることが思い起こされるが、教会から少し離れた場所に彼ら一家の美しい居宅を、今でも目にすることが出来る(モーリ運河通り3399番地)。

キリストの12使徒の彫塑作品については前回触れたように、ファサードの装飾壁龕の中に置かれているが、その中の一つは、イエスを裏切った使徒であるイスカリオテのユダを描いたのではないかという伝承である。不名誉、不誠実、金次第、裏切りといった否定さるべき感情を不朽のものにするといったことではないにしても、キリスト教芸術史の中でこうした主題を見付け出すのはかなり難しいので、これは真に珍しいことである。

それではこのような表現が一体どうして、こんなに豊かで重要な教会のファサードの装飾の中にあるのだろうか? その答えはこれを制作した彫刻家ピエルパーオロ・ダッレ・マゼーニェのモチーフの中を探す必要があるだろう。彼は正に悪魔宗派に属しており、悪魔礼賛の正統派だったと思われる。それだけでなく、芸術的能力に多大なるものがあったので、同じ魔王ベルゼブ(Belzebù)は、彼を地上の悪の王国の、創造の第一人者で最も権威ある者として明示したに違いない。

否定的で瀆神的イメージで汚された聖堂の建設は、全ての悪の力の統合本部としてのサタン(悪魔)の意向によるものであらねばならなかったであろう。そのために悪魔は若きピエルパーオロに、そのためにイエスが裏切られた30もの銀貨の一枚を渡したのであった。その一枚が、彫刻家の工房が準備しつつあった彫像の一体に窃かに埋め込まれねばならなかったのであろう。ダッレ・マゼーニェは裏切り者イスカリオテの姿を12使徒の像の一つに託して、正に仕事を進めたのであった。誰にもその事を知らすこともなしに、また誰もはっきりと何かを疑うことが出来ないように。

教会の建設と装飾の仕事が最終的に完了した時、ヴェネツィア当局の多くの部署に関わっていた司教の司宰で、厳かに献堂式が行われた。多くの人が参加した神聖なる儀式に、若き貴婦人イザベッラ・コンタリーニが参列した。彼女は天上界と意思が疎通する、そのような能力者として町でも有名であり、実際人々に聖なる人として敬われていた。

儀式の最中、彼女は若いピエルパーオロ・ダッレ・マゼーニェの前に進み出ると、落ち着いて声も高らかに彼を次のように叱責した。『あなたは到頭、やって来た、サタンよ。あなたはキリストに捧げられた聖域に対して尊敬の念を持たない。しかしあなたは知っている、神に対しても信徒達に対しても、枢要徳の《正義》があなたが赴く所にはどこへでもやって来る。それ故、何も出来はしないことを。』

人々が離れると、一種の火花放電のようなものが発し、人々の間に次から次へと広がっていった。ダッレ・マゼーニェはパニックに陥り、驚きも露に、全体重もろ共に若き預言者に身を躍らせた、彼女を黙らせようと、首を絞めに掛かったのだった。しかし傍近く居た助祭は悪魔に聖水を振り掛けた、そんな気概の持ち主だった。それ故、この彫刻家の心を完全に支配していた悪魔は、この悪魔に取り憑かれた男の体から直ぐ様退散したのだった。

ピエルパーオロ・ダッレ・マゼーニェは失神し、その後覚醒したが、全ての記憶が失われていた。ユダの顔立ちの像は、その内部にはイスカリオテから貰った貨幣はそのままあり、そこに残されているのである。

こうして聖金曜日の毎夜、その貨幣はエルサレムの方角に向かって飛び立つのである。この土地(Akeldamà―アケルダマのアラム語で言う《血の畑》)は、ユダが30貨という邪な銀貨で手に入れたもので、卑劣な代償で獲得したものであることが歴然としているのであるが。 」 (終り)

[Akeldamà とは、エルサレム近くの地名で、ユダがキリストを裏切って獲得した賄賂金で買った土地だそうですが、彼は真っ先にそこへ墜落して、身体が真中から裂けて、腸が流れ出してしまった、という哀れな死に様だったそうです(『使徒行伝』)。これでは信賞必罰天罰覿面的であり過ぎます。物事は単純に“勝ち(+)負け(-)”で色分けした方が判り易く、宣伝もし易いということは判るのですが。『ユダの福音書』とかいうものを読んでみたいものです。]
マンショ像正像[数年前、ドメーニコ・ティントレット画『伊東マンショ像』が発見されました。それは1585年、天正遣欧少年使節の4人がヴェネツィアを訪れた時、4人の像をヴェネツィアに残したいと、父ティントレットが当局に依頼され、マンショの像は完成したと伝えられ、しかし何故かそれはティントレット工房から出ることはなかったので、結局未発見、とされていたものでした。
その後息子ドメーニコが肖像画家となり、父の絵に手を加えて売りに出されて転々とし、近年にミラーノのトリヴルツィオ財団が入手し、詳細に調べた結果、伊東マンショ像と判明したそうです。画布裏に“1585”という数字と“MANCIO”とい文字が書かれていたそうです。それについては2016.05.21日の伊東マンショ像展で触れました。また詳しい研究書、『《伊東マンショの肖像》の謎に迫る: 1585年のヴェネツィア』(小佐野重利著、三元社、2017年4月21日)があります。]
  1. 2019/01/20(日) 19:47:59|
  2. ヴェネツィアの教会
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ヴェネツィアのマドンナ・デッロルト(Madona de l'Orto)教会(1)

マルチェッロ・ブルゼガーン著の『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007)が、マドンナ・デッロルト教会について述べていますので、そのご紹介ですが、この教会は近くに住居のあるティントレットが葬られたことでも知られています。彼の住いは地図中丸数字52番がそれで、それは1400年代の建物と言われています(地図左上隅、丸数字55がオルト教会)。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』カンナレージョ図「サンタルヴィーゼ教会近くの町の外れ、カンナレージョ区の最も外れた地域に設置され、古くは菜園や庭園が多く、かつて本土側からの商品の移動には関心が強かった場所に、この教会は建っている。

最初、聖域が聖クリストフォルス(S. Cristoforo)、即ち旅人、巡礼、商人、船頭の守護聖人クリストフォルスに捧げられたのは偶然なことではない。その後、教会前の菜園に置かれた像のために多くの信者に素晴らしいと言われ、途切れることのない巡礼行の目的地となり、1377年、聖母(Madona=伊語Madonna)に捧げられた。

寺院前部には狭いが同名の素晴らしい広場があって、それはイストラ半島石のような素晴らしい四角形の枠石の煉瓦で、ヴェネツィアでも舗装が施された古い場所だった。

教会は1365~77年に、1200年代からここに住む恭順な教団の修道士達によって建てられたが、パルマ出身の修道会長ティベーリオ・ティベーリの計画によるものだった。しかし崩れそうだと言われ、ヴェネツィアの大評議会の命令で、再建が行われ、1399年から完成へ向かっていた。1400年代のアーチ全ての工事が長引いたのだが、結果を見れば明白なように、ヴェネツィア・ゴシック建築の中でも最も意義深く、完成した例証となった。
マドンナ・デッロルト[サイトから借用]  ファサードは建築的品格を備えた正統的傑作で、バルトロメーオ・ボン作の大きな玄関門に特徴があり、ゴシック様式からルネサンス様式への推移を明確に示している(玄関門の3つの彫刻は、1460~64年に遡る。表しているのは『聖母マリアへのお告げ』『聖クリストフォルス』『お告げの天使(ガブリエル)』である)。

玄関大門の両脇の2つの大窓は、盛期ゴシックの最も典型的なヴェネツィア様式で実現された、両脇の小身廊と対応して開かれており、大変美しい。そして糸のような小柱で支えられた四連窓の形を取っており、細かい細工で仕上げられた、入り組んだ小アーチとなっている。その少し上には、丸い巨大な眼のような窓[rosone?]が浮き立つ様に際立っており、更にもう一つの小さな開口部がその上に位置している。

中央身廊の、装飾用の素晴らしいコーニスもまた印象が際立ち、屋根の勾配に沿って、両脇に伸びる2本の大きな壁柱と、2本の小身廊の飾りとしてのトランセンナの上を走る、宙空の優美な小アーチを持っている。そこには小円柱で区切られた一連の壁龕があり、その中には12人のキリストの使徒の像が鎮座している(それら全てダル・マゼーニェ工房の手になる)。
[トランセンナ(transenna)とは: 初期キリスト教建築で透かし細工や彫刻が施されている、内陣を囲む大理石や金属、また木製の格子をいうそうです。]

外部の装飾を仕上げている5棟の小礼拝堂の中には、ムラーノ島のサント・ステーファノ教会のファサードを飾る1700年代の同数の像が、1843年に置かれた。その5体の像はそれぞれ左から、《賢明》《愛徳》《信徳》《望徳》《節制》を表す。 ……」 (2に続く)
[カトリックの Virtù teologali(対神徳)には、fede(信徳)、speranza(望徳)、carità(愛徳)があり、Virtù cardenali(枢要徳)には、prudenza(賢明)、fortezza(剛毅)、giustizia(正義)、temperanza(節制)があるそうです。]
  1. 2019/01/10(木) 00:04:05|
  2. ヴェネツィアの教会
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11月21日: サルーテの祝祭

例年11月21日はマドンナ・デッラ・サルーテ教会の例祭です。ヴェネツィアの新聞Il Gazzettino紙は次のような記事を載せています。
canaletto madonna della salute[カナレット画『Ingresso del Canal grande』]  「 マドンナ・デッラ・サルーテ、総督の誓いを守るべく、何千もの巡礼者

3世紀以上毎年のように総督の誓いを信頼するために、今年もマドンナ・デッラ・サルーテ教会に何万の人が参詣した。それはヴェネツィア、メーストレ、更にイタリアやイストラ、ダルマティアのセレニッスィマ共和国の全領域の人々。サン・マルコの古い領土には、本日11月21日の時点で100以上の教会があり、マドンナ・デッラ・サルーテ教会へ巡礼行をするのである。

ヴェネツィアでは、クレタ島の現イラクリオン(Candia)からセレニッスィマの地に到来して崇拝されるマドンナ(聖女マリア)の聖母像“メゾパンディティッサ(Mesopanditissa)”の飾られる主祭壇の前で、総大司教フランチェスコ・モラーリャに祝福されるヴェネツィア最大の祭礼である。
Madonna[“メゾパンディティッサ(Mesopanditissa)”とは、1670年2月26日、総督となるモロズィーニ(この時の総督ドメーニコ・コンタリーニ)がクレタ島のカンディアから持ってきた聖母像で、サルーテの主祭壇の中央に飾られた物。]
サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用[1939年以前のPonte votivo] 午前中から人の流れは途絶えることなく、大運河上に渡河用に設置された、伝統的な船橋(ponte di barche)を渡越し、サルーテの大バジーリカに向かう。深夜まで人の流れは途切れることなく続くだろう。 ……」

サルーテ教会の祭礼の始まりについてはヴェネツィア年中行事で触れました。この日には伝統料理“カストラディーナ”を食べます。

  1. 2018/11/22(木) 13:22:55|
  2. ヴェネツィアの教会
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ヴェネツィアの建物: スカルツィ教会

鉄道駅から下ると、右はスカルツィ(洗足派修道士)教会です。この教会は Santa Maria di Nazareth o degli Scalzi 教会とも呼ばれ、バルダッサーレ・ロンゲーナの設計により、1654年から建造が始まったバロック様式の、身廊が一つの教会です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を述べています。
スカルツィ教会他「……ファサードは Giuseppe Sardi により1672~78年完成されたが、彼は上下2層に渡る対の2本柱とベルナルド・ファルコーネ作による壁龕に収めた彫刻による華やかな装飾でファサードに活気を与えた。

穹窿にはジャンバッティスタ・ティエーポロ画のフレスコ画があったが、1915年10月28日のオーストリア軍の砲撃で破壊されてしまった。

洗足派修道僧はヴェネツィアには1633年到来し、カルメリターニ(Carmelitani)修道僧と呼称された。ファサードはジローラモ・ガヴァッツァの寄進による。ヴェネツィア共和国最後の総督ロドヴィーコ・マニーンはここに葬られ、その墓石の平坦な表面に簡単に Cineres Manini(マニーンの遺灰)と書かれている。」

スカルツィ教会の右に登場するのはスカルツィ橋です。この橋については2010.04.17日のアッカデーミア橋や2011.08.20日ヴェネツィアの橋に書きましたように、1934年にエウジェーニオ・ミオッツィにより、大運河にヴァポレットが就航することになりオーストリア人が1858年に架けた鉄の橋では橋桁が低過ぎ、通行不能のためアーチの橋に造り替えられたものです。
新しいスカルツィ橋オーストリア人は、占領しているヴェネツィア内での軍隊の移動の便のために鉄製の橋を架設したのですが、この橋は見苦しい橋としてイタリア人には悪評だったそうです。今でも残る小運河等に架かるオーストリア・デザインによる鉄製の橋など、ヴェネツィア人は良く言いません。日本人にはどれがどれやら分かりませんが。
  1. 2014/04/23(水) 00:02:36|
  2. ヴェネツィアの教会
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ヴェネツィアの教会

初めてヴェネツィアに行き、ゲットを訪れたついでにその近辺、カンナレージョ区を歩き回った時、街角の壁面に貼られた標識(ヴェ語nizioleto)に"Canaregio"とあり、浅薄で慌て者の私は《イタリア人は相当いい加減だ》と短慮に早合点してしまいました。伊語 Cannaregio が Canaregio(ヴェネツィア式表記)と゛ n ゛が一字欠けていたからです。

その後ヴェネツィア行をした時、サンタ・クローチェ区のサン・ジョヴァンニ・デコッラート教会の前を通り掛り、持っていた地図とは異なり、教会前のプレートには S.Zan Degola` と書かれていることに気付いた頃から、ヴェネツィア語が気になるようになりました。

2度目の語学留学をした時は、カステッロ区の造船所の西側にあるド・ポッツィ広場傍のマーニョ通り(Calle Magno)にあるアパートでした。アパートの持主マッシモ先生に広場の名前の Do(ヴェネツィア語)=Due(伊語)と教わり、《二つの井戸広場》と分かりました。

因みにヴェネツィア語(伊語)で数字1⇒10を並べてみますと、uno(uno)、do(due)、tre(tre)、quatro(quattro)、sinque(cinque)、sie(sei)、sete(sette)、oto(otto)、nove(nove)、diese(dieci)だそうです。

サント・ステーファノ広場は言わば丁字の岐路に当たりますから、アジア人であることが明瞭な平たい顔の私にまで道を尋ねる旅行者がいました。隣のサンタンジェロ広場で擦れ違い様に訊かれたことがあります、この広場はサンタンジェロ広場ではないのか、と。

その中年の女性の指差す先には、壁面に "Campo S.Anzolo" と標識(nizioleto)が貼ってあります。彼女の手にするガイド本は仏語版のようでした。Angelo(天使)は伊語、Anzolo はヴェネツィア語で、同じ意味というつもりで説明すると、私の片言英語が理解出来たのか、彼女は Merci と去って行きました。

この2月ヴェネツィアの教会全てを巡ってみようと、東のサンテーレナ教会から西のサンタ・キアーラ教会まで、午前中であれば開いているかもしれないと歩いてみました。有料のものも含めて3分の2は入れたでしょうか(公共施設等に変わったものや消滅したものもあります)。ヴェネツィア語=伊語の形で、名称の違いのある教会名を列挙してみます。

Sant'Agiopo=S.Giobbe  Sant'Agostin=Sant'Agostino  Sant'Alvise=S.Lodovico  Sant'Antonin=Sant'Antonino  Sant'Anzolo=Sant'Angelo  Sant'Anzolo Rafael=Sant'Angelo Raffaele  Sant'Aponal=Sant'Apollinare
S.Bartolammeo=S.Bartolomeo   S.Basegio=S.Basilio  S.Beneto=S.Benedetto  S.Boldo=Santi Ubaldo e Agata
S.Canzian=S.Canciano/Canziano  S.Cassan=S.Cassiano  La Celestia=S.Maria Celeste
S.Domenego=S.Domenico  S.Dona`=S.Donato
S.Fantin=S.Fantino  S.Felise=S.Felice
S.Geminian=S.Geminiano  Gesuati=S.Maria del Rosario  Gesuiti=S.Maria Assunta  S.Gioachin=S.Gioacchino  S.Gorgon=S.Gorgonio martire
Sant'Isepo=S.Giuseppe     S.Lio=S.Leone
S.Marcilian=S.Marziale  S.Marcuola=Santi Ermagora/Ermacora e Fortunato martiri   
S.Maria del Carmine=S.Maria del Carmelo(パレスティナのカルメル山)  S.Maria Zobenigo=S.Maria del Giglio  S.Matio=S.Matteo  S.Moise`=S.Mose`
S.Nicoleto=S.Nicoletto  S.Nicolo`=S.Niccolo`
S.Pantalon=S.Pantaleone  S.Paternian=S.Paterniano  S.Polo=S.Paolo  S.Provolo=S.Proculo
S.Rasemo=Sant'Erasmo
S.Salvador=S.Salvatore  S.Sebastian=S.Sebastiano  S.Servolo=S.Servilio  S.Stae=Sant'Eustacchio  S.Stin=Santo Stefanino
S.Ternita=S.Trinita`  S.Todaro=S.Teodoro  S.Toma`=S.Tommaso apostro  S.Trovaso=Santi Gervasio/Gervaso e Protasio
S.Vidal=S.Vitale  S.Vio=Santi Vito e Modesto
S.Zan Degola`=S.Giovanni Decollato  S.Zangrisostimo=S.Giovanni Grisostomo  S.Zaninovo=S.Giovanni Nuovo  S.Zanipolo=Santi Giovanni e Paolo  S.Zorzi=S.Giorgio  S.Zuane Novo=S.Giovanni in olio  S.Zulian=S.Giuliano

S.Maria Gloriosa de' Frari 教会の frari(複数)は、frar(単数)=frate(修道士)またfratello(兄弟)の意味だそうです。
  1. 2008/09/07(日) 01:26:07|
  2. ヴェネツィアの教会
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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