イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ラグーナ・ヴェーネタ(ヴェネツィア潟)の自然(2)

ヴェネツィア潟の自然の変化について6月23日のLa Nuova紙が次のような記事を載せていました。

「 ペッレストリーナとリード島で海月警報。《危険はない、ラグーナは〝海″になりつつある》
――自然史博物館のルーカ・ミッザーンは《潟は海化しつつある、驚くに当たらない》 黒鯛や海亀、更に海豚や鮪、巨大化した海藻まで。植物相、動物相に変化が――

ラグーナの生態系が変化しつつある。この何年もの間、最早、秘密ではなくなった。特に近年、漁師や潜り愛好家は変わってしまった海域とますますその空間を占め始めた海域の間にヴェネツィア潟の変化を見ている。先週リードやペッレストリーナの海岸でいわゆる〝海の肺臓″と呼ばれる海月が撮影された。しかしここでは気候の変化は見られないのである。《気温の上昇とか水の清澄化は事を説明する短絡的なやり方である》 とヴェネツィア自然史博物館館長ルーカ・ミッザーンは言う。《言うべき事、完全に理解すべき点は沢山ある》。

◎この変化をどう説明するか?
《この15年、色々の局面で変化を見た。モーゼ計画の動くダム工事、海岸前の殆どに soffolta(沈むダム壁)を作ることでさえ、潟の入口から入る水の流れを変えた。運河用の掘削で運河を作り、その結果、かつては泥と砂の潟を愛していた動物の海域が、岩礁の間で棲息する他の動物に取って代わられようとしている。海の海胆まで増え続けている》

◎環境変化について、問われる海の生物学とは?
《確かに有用な例証や情報は収集している。原因は多々であり、気候から水の流れまで、気温から他の動物を捕食する食肉動物(非食肉動物も)まで。しかしそうした考えが全て実行可能という訳ではない》

◎ヴェネツィア潟はその総体で危険地域?
《〝海″の湾となりつつあると言える。環境変化は近年増加したということ》

◎例は?
《舌鮃に似た passarini(単数passarin)をヴェネツィア人はよく知っているが、この魚は潟から姿を消した。mormora(鯛科の魚)はかつて殆どどこでも遊泳していた。今や真鯛ばかりが数多く見られる。真鯛の大群は甲烏賊の数を減らす。甲烏賊は真鯛の大好物なのである。我々はこの事に気付いた。……この2年のふた夏に現れた海豹について考えてみると、ある冗談が生まれたが、それは真実なのである。アドリア海では鯨や海豹は全く普通ではないが、出現するようになった。更に毒針を持つ死滅した(と思われていた)種属の例まで再発見され、大騒ぎになった》

◎かつて吃驚して叫んだ海豚はどこでも見られるようになった
《環境は連続して変化しつつある。海藻について考えれば十分である。10年前潟で、sargasso(ホンダワラ属の海藻―Mare dei Sargassi[サルガッソ海]とは北大西洋、西インド諸島北東の海藻の多い海域)を見た人がいただろうか。今やヴェネツィアの海岸通りや島に沿ってどこでも見られ、2、3mにも伸びている。4、5mにも及ぶ日本の海藻と同様の話であり、海底から海面まで広がっている。干潮の時見て考えて欲しい……》
セルジョ・フェーミオ[失神した鱸を手掴みしたセルジョさん(2016.04.09)] ◎最近何か気付いた特別な事など
《潟内や外のsoffoltaの間で捕れたgrongo(穴子)、castagnola、sarago(アフリカチヌ)について考えている。冬でさえbranzino(鱸=伊語spigola)は更に多く見かけるようになった。そして今やプロの漁師になった人々がいる。しかしサンタ・マリーア・デル・マーレの沖合い、潟の真ん中の水中数mの所で、数ヶ月前、200㎏・2m長の鮪が捕れた》
……(後半略)」
海豹[大運河の海豹(2013.06.21)] 2008.10.19日に潟の自然を書きました。更に過去の《La Nuova》紙上のラグーナ・ヴェーネタの動物についての記事を幾つか紹介します。海豹飛魚海亀海豚等。
  1. 2016/06/28(火) 16:01:45|
  2. ヴェネツィアの自然
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ヴェネツィアの大干潮

ヴェネツィアのアックァ・アルタ(高潮)は有名ですが、それと同じように大干潮もあります。昨日の新聞La Nuova紙は、次のようなニュースを報じています。
座礁した船「 朔望(月の満ち欠け=満月新月)による干潮: 10艘あまりの船が座礁
――満月のこの数日、ラグーナでの航行は浅瀬に船が座礁して、悪夢となり果てる危険あり。錨を上げる前になすべき事――

月と貴方。しかし夢は悪夢となり遂せる。この数日満月による潮の満ち引きは、過大か過小の問題を引き起こす。ラグーナを訪れ、朔望による潮の満ち引きの極点に遭遇した釣の愛好家達はそれを目にした。即ち、今日日のような満月新月では、満潮最高点、干潮最小点は、上弦下弦の月の時に比して極めて著しい。 ……」と。

アックァ・アルタ現象が回数等最高を示すのは、もうすぐやって来る11、12月で、日々の干満の差は120cm程と言われています。2008.02.29日のブログヴェネツィアの街では、干潮に触れました。
  1. 2015/09/01(火) 15:50:04|
  2. ヴェネツィアの自然
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ヴェネツィアの今: 鳥と人

昨日のヴェネツィア・ニュース紙La Nuovaは、次のような事を語っています。

「 サン・マルコ広場で鷗への注意勧告。鷗、旅行者を襲う

サン・マルコ広場では鷗は容易く餌を見付けられる、それは何か食べようと食料を広げている人に向かって飛んでくる鳥に対する警戒警報である。地元の新聞はサン・マルコのカッフェやサン・マルコ広場協会に出されている警告についてルポしている。

ヴェネツィア語で“cocai'(鷗―単数cocal)”の問題について触れているが、その"cocai"は以前から捨てられたゴミから餌を探したり、リアルトの魚市場で清掃員がその後始末、ゴミの排除をする前に、魚のワタを漁るのに慣れっこになっている。皆よく知った事だが、今や益々鳥の危険性が問題になってきている。

彼らの嘴は、考慮の域をはみ出して、鋭利な大鋏といった物になってしまった。商店主達は言っている、食料を大量に手にし、15世紀の新プロクラティーエ館の階段に腰を下ろし食事する旅行者の増加によって、危険度が増した、と。全ては、嘴にとって手ごろな大きさの食糧を大量に目の前に広げる真似などしない品位に、意を致す気色もないことにある。 」

ヴェネツィアのラグーナ(潟)は、鳥の楽園です。その事について2008.10.19日に潟の自然を書きました。鳥と人との共存共営は何かが過剰になると難しいということなのでしょうか。

サン・マルコ広場では、鳩の蝟集に市が音を上げたのか、広場で鳩の餌の販売を禁じました。また私が出席した市庁舎での結婚式では、式場となったコルネール・マルティネンゴ・ラヴァ館から新郎新婦が大運河前に登場すると、皆が一斉に白い米を頭から振り掛けます。突如その時、頭上から鳩の大群が米に向かって突撃してきたのです。彼らの間にはこの人間の習慣は知れ渡ったことのようで、彼らは屋上の屋根で待機していたのです。これほどまでの鳩の群れが米に集中的に突進してくれば、新郎新婦ならずとも驚愕です。

私の妻が友人とヴェネツィアを二人旅した時のこと、とあるレストランの外テーブルで食事中、鷗の群れが料理に向かって飛んできたそうです。外のカメリエーレが直ぐ様、白いナプキンを手に、取って返すと傍に立て掛けてある棒にナプキンを挟んで振り回し、追い払ったそうです。そういう道具はヴェネツィアには必需品のようです。

こんな事情からラグーナ傍のマルコ・ポーロ空港では、鳥によるエンジン・トラブル、バードストライクを避けるために、次のような手法を取り入れているそうです。イタリアの鷹匠の活躍はLa Nuova 2をご覧下さい。鷹が小鳥たちを追い散らします。

またラグーナ・ヴェーネタにはフラミンゴが飛来します。そんな記事もどうぞ。《フラミンゴ
  1. 2014/07/07(月) 18:01:32|
  2. ヴェネツィアの自然
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ヴェネツィアのフラミンゴ

昨日のヴェネツィアの新聞La Nuova紙を読むと、8月10日の次のような記事がありました。
フラミンゴ「 トルチェッロ島、ラグーナにフラミンゴの群れ
――フラミンゴ(紅鶴)の一群がトルチェッロ島近辺のラグーナに適応して、鳥たちは巣作りに励み、夏季を過ごす

フラミンゴの大群がラグーナ北のトルチェッロ島傍で確認された。僅か10人強の住人しかいないトルチェッロ島で、唯一農業を営むパーオロ・アンドリック氏によって、その周辺は守護されている。この鳥たちの優美さを不朽のものとすべく、チェーザレ・セント(©Cesare Sent)氏が写真を提供された。」

追記: La Nuova 2によれば、159羽の雛が確認されたそうです。
  1. 2013/08/12(月) 01:19:16|
  2. ヴェネツィアの自然
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ラグーナの氷結

初めてミゼリコルディア湾でスケートをする絵を見た時のことです。ラグーナ(ヴェーネタ潟)が氷結するなどとは思いもしなかったので、あり得ない風景と一瞬思い込んでいました。色々ヴェネツィア関連の本を読み、分かってくることがありました。G.タッシーニの『ヴェネツィア興味津々』の著作からG.ニッサーティが抽出した『ヴェネツィア奇聞』の中で《Il Ghiaccio del 1788-1789》と題して凍結したラグーナの話を語っています。
『1708年に凍結したラグーナ』『凍結したラグーナ』左、作者不詳『1708年に凍結したラグーナ』(『華麗なる18世紀イタリア ヴェネツィア絵画展』図録)より、右、Battaglioli Francesco の弟子『1788年に凍結したラグーナ』(『ヴェネツィア展』図録)より。
「ガッリッチョリ(Galliccioli)は共和国の初めから1796年までの、ヴェネツィア人を苦しめた主たる寒波を表に纏めた。しかしながら1788-89年の寒波を忘れないで欲しい、その寒さは真に厳しいもので、ラグーナ全体が凍り付いた。だからヴェネツィアとメーストレの間、あるいはヴェネツィアとカンパルト(メーストレの郊外)の間が、徒歩は勿論、馬車や牛車という重い車でもお互いに行き来が出来た。

レーヴィ医師はその時の思い出を語っている。《大勢で楽しく行ったり来たりして、人々が氷を踏み付け、動き回って重量を掛け、はっきりとした道が出来て、夜間でもカンテラを持って迷うことなく歩き回ったものである。その道では小屋掛けかあるいはテントが張られ、オステリーアのような食べ物屋が出現した。

道では子供達がボール遊びやコマ遊びをするのが見られたし、多くの人が氷の堅牢度を試して、氷の上で温めてみたり、火を燃やしてみたり、ガンガン氷を叩いてみたり、またあるいはヴェーネト人の陽気さを大袈裟に現して、先ずニコロッティ達が人間ピラミッドを組み立てたり、更に1789年1月15日には軍隊訓練と称してモレスカ踊り(モリス・ダンス)を披露したりした。それらは真に熟練した巧みなものであった。》

このような場合、ヴェネツィアと本土との間の関税は中止されたので、パンやワイン、肉類は町で自由に売られた。しかし事故というものは起こらざるを得ないというか、災難は付き物であった。あるならず者が夜、サンタ・カテリーナ広場の食堂でしたたかに酔っ払い、翌朝ヌオーヴェ海岸通りで凍え死んでいるのが見付かった。

サン・レオナルド教会の僧は、歩いてサン・セコンドに行きたかったのだが、人の通りから外れた場所を通ったがために、氷結の非常に脆弱な場所で溺れ死んだ。ワイン樽の運び屋が夜間酔って氷下に転落し、自分の体を引き上げられなかった。

ある司祭はラグーナの中にあるアンコネッタ(祭壇の聖母像等の板絵を収める場所)の聖母マリア像に接吻したいと思ったのだが、道から外れるや氷の中に嵌ってしまい、頭から閉じ込められてしまった。上に残されていたのは唯一、三角帽子(tricorno)だけだった。またある夫人も、いわゆるミゼリコルディア湾(Sacca della Misericordia)を横断したいと思い、氷に嵌ってしまった。が、運よく救い上げられた。

1788-89年の凍結はノヴェッロが作曲したカンツォーネで、またヴィエーロが彫った2枚の版画と、もう一つグレーゴがデザインし、スカッターリャが陰刻した版画で人々に記憶されている。」
 ――G.Nissati『ヴェネツィア奇聞』(Filippi Editore Venezia)より

またこの時の寒さについて、ジョヴァンニ・ディステーファノ著『ヴェネツィア史(Atlante storico della Serenissima 1600-1797)』(Supernova)は1788年12月30日の項で次のような記述をしています。
ヴェネツィア史 1600-1797「1788年12月30日: 水の流れが速いジュデッカ運河を除いて全ての運河が凍結した。この現象は1789年1月9日まで続くだろう。そして年代記作者は次のように記す。即ち《夥しい降雪を伴って、月半ばから際立ち始めた今冬の異常なまでの極寒のため、我がラグーナの水は凍結するに至り、この日にメーストレからあるいは逆にこの海洋都市から色々の人達が氷の上を徒歩でラグーナを渡り始めている。》

ラグーナは将来何度も凍結することになる。即ち1800年代には、1808、1809、1811、1820、1864の各年。部分的に凍った厳寒は1830、1858、1880年である。」
  1. 2013/02/02(土) 00:01:51|
  2. ヴェネツィアの自然
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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