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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの民話: 魔女と黒猫

下のような2ユーロ硬貨をご覧になったことがありますか。硬貨に刻まれた年号から、2017年にヴェネツィアで催された事に関する硬貨ではないかと思われます。サン・マルコ寺院が刻まれています。何かをを記念したのでしょうか。
2ユーロ、表2ユーロ、ヴェネツィア[左、2ユーロ表、右、その裏面――表のユーロ地図はイギリスが抜けたので、変更になるでしょう。]

以前にも紹介した事のあるM. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007)から、《La strega e il gatto nero(魔女と黒猫)》を紹介します。
ヴェネツィアの神話と伝説「サンタ・マルタ地区に住む若い船頭の話である。長年働き、苦難の末、ある額の貯えをすることが出来、若い恋人と結婚することが出来たのだった。まる1年も経たずにこの結婚で、可愛い男の子を授かった。若い二人は幸福至極となり、この神からの授かりものを地上の最後の赤子でもあるかのように、可愛がり、キスし、腕で抱き締めた。

しかし半年経った時、子供は具合が悪くなり、少しずつ容態が悪化し、死に至った。

この若い両親の悲しみ、息子を失った苦悩、尽きせぬ涙は想像に難くない。幸いなことにその悲しみは三月も続かず、若い妻は再び妊娠した。出産は滞りなく進み、可愛い次男が誕生し、長男の死という悲しみを忘れさせた。残念な事に6か月後に病が起こり、この幼い命は尽きてしまったのである。

母親は更なる命の喪失の苦しみのため、丸で気が狂ったようになったが、夫が直ぐに慰撫した。しかし時は進み、若い妻は再び身籠り、三男が生まれた。この子も可愛く、愛らしかった。二度と葬式はしないようにと、息子の世話には時を惜しまず、育児に全力を尽くした。それ故、息子を独りにするということは殆どなかった。睡眠時のみが母親の気の休まる時であり、また家の事や家族の事に携わった。

しかし限りなく注意を払っていたにも拘わらず、この度も充分でなかったのか、この三番目の息子が6か月を経た時、衰弱を始めたのである。恐怖に襲われて気が違ったようになった母親は息子を助けるべくあらゆる手段に全力を尽くし、評判の医者を呼び、可能な限りの薬を飲ませ、持てる全財産を使った。しかし子供は回復しない。

見誤るような事態にならないよう、揺籃の傍に敷いた藁布団の上で縮こまったように、子供を見守りながら夜を過ごした。ある日の真夜中、子供が泣くのを聞き、眼を開けてそちらを見ると、揺り籠に黒猫がおり、猫は気付くと直ぐ様部屋の外に逃げて行った。

妻は直ぐに夫を呼びに行って、その不思議な出来事を知らせた。漁師はその話にうんざりしたが、何が起きたのかよく知りたいと思い止まって、次の夜、子供を隠して様子を見ようと決めた。

こうして次の夜、用心のために暖炉からよく尖った焼き串を用意した。丁度真夜中、子供が泣くのが聞こえた。見ると、黒猫が揺り籠にいた。で、焼き串を摑むと怒りに任せて猫に襲い掛かった。猫は揺り籠から跳び下りて、電光石火逃げ出した。獣は余りにも素早く、何も出来なかった。ただ焼き串を投げ付けると左の前肢を擦っただけだった。

翌朝若い妻が子供の様子を見に行くと、明白に良くなっているのが見て取れた。喜んで、仕事に出掛けようとしている夫にその事を告げた。その後隣のアパートに住む姑(madonaヴェ語=suocera伊語)の所に行った。大声で姑を呼んでも、返事がない。更に呼び、ドアを何度も叩いた。すると奥から非常に微かな声が聞こえ、調子が悪いから帰ってと答えた。

ちょっと心配になり、若妻はその言葉を無視して、中へ入ると姑はベッドで上掛けを顎の下辺りまで引いて寝ていた。もっと上まで上掛けを引き上げるように勧めたが、動く気配はなかった。おやつを置いたが、敷布の下から手を出そうともしない。昨夜の事を話しても喜ぶ気配はなかった。若い女は到頭姑を独り残して、立ち去った。

昼食に夫が帰宅した時、若妻は彼にお母さんの具合が悪くて、何も食べないし動こうともしないと言った。二人は家を出ると、母親のアパートに行った。挨拶をして、具合はどうか尋ね、スープを差し出した。しかし母親は動こうともせず、寝床から腕も出さなかった。若い夫は普段にないこの態度に不審を抱き、突如母親の上掛けを剥ぐった。と、病人の左手は血で汚れた襤褸切れで包まれていた。

《ここ、どうしたの? 何が起こった?》母に尋ねた。《何でもないよ、怪我しただけ》彼女が答えた。《見せて》こう言うと母の手の包帯を剥がした。

ビックリ仰天だった。腕の傷は鋭く尖った物で抉られたように深く、煤けた煤煙で汚れていた。《悪魔の女! もう判ったぞ。俺の息子を二人も殺したんだ》

もう母親を絞め殺さんばかりった。しかし女の涙と哀願で、結局出来なかった。結局、この女は今まで自分の母であったし、能く知られているように、やって来た事を再度やることは二度とないだろうからである……見付かった魔女は二度と妖術を使うことは出来ないのだ! 」
 ――M. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』から
  1. 2020/12/29(火) 20:49:14|
  2. ヴェネツィアの伝説
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所謂《ゲットー》について

今までヴェネツィア或は違った土地の“ゲットー”について触れてきました。特にはヴェネツィアのゲットです。2016.05.19日のユダヤ人や2016.06.09日のゲットで触れました。ヴェネツィアのゲットの語源が違うと言う本が現れました。今はこの説を全面的に信じています。

アリス・ベッケル=ホー著『ヴェネツィア、最初のゲットー』(木下誠訳、水声社、二〇一六年三月一五日)は、例えば私が信じていた、そこが鋳造所(gettoジェット―ヴェ語getoジェート)であった島をゲットと呼ぶようになったという説を根拠なしとして否定しています。次をご覧下さい。
ヴェネツィア、最初のゲットー「……1516年に、元老院は《ユダヤ人を町の中で隔離し、サン・ジローラモ小行政区の小島に移送する決定》を行った。そして、三月二十九日に、政令が公布され、《ユダヤ人は全員、サン・ジローラモの近くのゲットー所在の一群の家に集まって住む》ことを命じたが、この文言はリッカルド・カリマーニが引用した最初の版のもので、やや後に、それは《サン・ジローラモの近くのゲットーにある一群の家々》と訂正された。
……
このジェトもしくはゲト(g(h)eto)という語が示す場所は、ヴェネツィアで慣例となっていたように、コントラーダ(小行政区―行政上の下位区分)――この場合、カンナレージョ地区(セスティエーレ)(ヴェネツィアの六地区の一つ)の中にあるサン・ジローラモ・コントラーダ――への所属によって場所が画定される既存の街区(カルチェ)であり、おまけに、そこには、その街区がユダヤ人に譲渡された時にはすでに建物があってヴェネツィア人の住民が住んでいたにもかかわらず、いったいなぜ、その語は、ユダヤ人の定住の後にしか現れないのか?
……
ヴェネツィアはそのために、あらゆる外部からの干渉を排除した経済商業政策を確立し、きわめて早い段階から、唯一の人間の手に絶対的権力が握られる危険を制限した(ドナテッラ・カラビが明確にしたように、《総督(ドージェ)政府は、複数の権力の関係と均衡と保証の緊密な網の目の上に築かれた共和制政体である》。

Al.ル・マッソンは、こう記している。《あらゆる公職に就き、いかなる勲章も求めず、自分の名にいかなる称号も付けなかったヴェネツィアの貴族たちは、事業を指導し、国家に献身的に仕え、国民の頭脳であると同時に腕でもある特権以外の特権は手に入れなかった。[……]すべては民衆のためだが、何も民衆によってなされるのではない、というのがこの貴族階級のモットーだった。》さらに、アルヴィーゼ・ゾルジは《ヴェネツィアの文化においては、専制君主のための場はなかった》と断言している)。

そして、最後に、ヴェネツィアは、ビザンティン帝国の最良の伝統に従って、外国人商人の居住を促進し、適切な司法官職を作って彼らの結社を管理するとともに保証したのである。《共和国は、自らの周縁性を意識して、人々を引き寄せる極、必ず通過せねばならない場所、商品を一時的に降ろす寄港地、首都の商業交易の活気あふれる中心地という評判を常に強く求めてきた。》

自らの利益をよく考えて守りながらも、ヴェネツィアは、その町の威信と富に魅かれてやって来るあらゆる種類の外国人を常に断固として、名高い歓迎の態度でもって扱ったが、彼らがその町に魅かれたのは、その場所で商売を行い、豊かになり、要するに他のどこよりも――すなわち、戦争と追放によって自分たちが追われた国々よりも――良い生活を送る可能性がそこにはあったからでもある。そうでなければ、なぜあれほどの外国人の流入があったのだろうか?
……
ゲットーはと言えば、ドックについて見たように、それはフォンテゲットー(fonteghetto―イタリア語のフォンダケット(fondachetto)の後半部分にほかならないことは明らかである。フォンテゲットーは、アラブ語のフォンドゥク(fonduq)の直接の借用語であるフォンテゴ(fontego)の指小語で、外国人の共同体に住居として割り当てられた委譲地――隊商宿型(キャラバンサライ)の――を意味する。ラビのヴェルトハイマーが立てた仮設は、それゆえ、あらゆる仮説のうちで、もっとも真実に近かったのである。……」

現在《ゲットー》という言葉は押し込まれて隔離されたマイナーな空間が普通イメージされます。そうでなければ、ヘブライの言葉で疎外とか隔離とかマイナーな意味合いの言葉から発生した等の発想はなかったでしょう。ヴェネツィア以外の地では、《ゲットー》はイタリアでもアルプスの北でも強制収容所的な閉ざされた場所だったのでしょう。ヴェネツィアのゲット内部は明るい、自由な空間だったようです。

それはドイツ人商館やトルコ人商館が残っているように、商館(フォンテゴ――Fontego dei Tedeschiのように)は商業の場所であり、宿舎であったので、指小辞の-ettoを付けたユダヤ人達のヴェネツィア語のFonteghettoも商売のハレの場であり、慰安の我が家だったのでしょう。ゲット入口に門衛が置かれたことは彼らの大きな財産が守られることにもなりました。そうでなければ、拳骨橋の殴り合いにヴェネツィア人と一緒になって参加し、楽しむなどということは起こらなかったでしょう。リボルノのユダヤ人の歴史を勉強しなければと思った事でした。

訳者は巻末の訳者解題で次のように述べています。
「……ゲットーを《鋳造所》《隔離》《離縁状》《格子》《小地区》と見るか、《倉庫》《宿舎》と見るかは、ゲットーを否定的なものと捉えるのか肯定的なものと捉えるのかという二つの世界観の戦いを反映しているのである。……」と。

[1938年頃、ゲット人口は約1200人位だったそうですが、ナチとファシストに追われるように米国等に逃げ出しました。私が初めてここを訪れた1994年には片手位の家族しかユダヤ人はいないのではないか、と言われました。商店など皆無で閑散と明るい広場でした。現在500人以上の人が舞い戻って来て、キッパ帽を被ったり、黒いユダヤの上下スーツと山高帽で正装した人々が闊歩し、商店も出来て賑わいを見せています。かつての商館的なゲットの雰囲気で世界にヘブライを発信している感じです。ここは強制収容所的《ゲットー》ではなかったのです。Youtubeの《Storia del Ghetto a Venezia(ヴェネツィアのゲットの歴史)》が参考になります。]
  1. 2017/05/18(木) 00:05:36|
  2. ヴェネツィアの伝説
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サン・マルコ小広場の、第三の円柱

総督ヴィターレ・ミキエール2世(1156~72)時代、オリエントから高い円柱が3本到来し、陸揚げ時、1本が海中に落下し、陸揚げされた2本は、木造のリアルト橋の建造者ニコロ・バラッティエーリが、現在あるようにサン・マルコ小広場に立柱したそうです。その水没した1本を甦らせたいという願いが動き始めたようです。昨年暮れのLa Nuova紙を訳してみました。
3本の円柱「 ヴェネツィアの伝説の、サン・マルコの第三の円柱の調査開始
――歴史と伝説によると、1172年サン・マルコ湾に水没した: 文化財保護局はトモグラフィー(X線による断層写真撮影法)調査にOKを出す。Molo(サン・マルコ岸壁)前のサン・マルコ小広場のマゼーニョ敷石にセンサーを――

ヴェネツィアの文化財保護局は、次週初め(この記事は12月10日付)にはパーリャ橋とマルチャーナ図書館間の区間のトモグラフィー調査を容認する予定である、それはヴェネツィアの潜水夫の長のロベルト・パドアーン自身に提起された。円柱は実際存在するのであり、約7m下の泥濘の中で、ラグーナの底の密な粘土に包まれ、カラント層に触れた所に埋まっている事を証明したいがためであるという。

要員達と数ヶ月前から会合と幾つかの評価を重ねた後――パドアーンは、パードヴァの統合工学の会社であるIcorestとの協力関係にあるが、この会社は地名や地球構造学的証明、地震学的追及をしており、そして土地電磁気調査、環境モニター監視、土地・水深測量のもう一つの会社、モルガンsas社とも協力し合っている――文化財保護局は自由な調査への道を拓くだろう。

非浸蝕性の調査である。非浸蝕性という事であれば、差し当たり、サン・マルコ岸壁前の灰色のマゼーニョ敷石の間隙に電気センサーを設置することであり、文化財のための経費(全ては個人的なもの)は齎さないものであり、第三の円柱の存在の確認の次には、サン・マルコ岸壁前の海底の考古学的観点からも、新しく有用な要素を提供出来る、ということである。

建築家エマヌエーラ・カルパーニ率いる文化財保護局のOKが公式のものになり次第、公共事業へ権限を有する二人の評議員ルチアーナ・コッレとフランチェスカ・ザッカリオットによって、事業への市の認可が与えられるだろう。しかし市長ルイージ・ブルニャーロは既に、もしモーロ岸壁の底に第三の円柱が実際に眠っているとするならば見たいものだ、と興味を表明していた。だから障害は無いに違いない。

パドアーンは述べている。《円柱は存在する》と。ラグーナや大洋の海面下の何十年に渡る経験者、司令官パドアーンは慎重この上ないが満足している。浸蝕性の工事や汚染の危険なく水に沈んだ土台部を救うために、コンクリートの代わりにアクリル樹脂を使用するという手法の創案者は、スキアヴォーニ海岸通りのホテル・サヴォイア・エ・ヨランダで実験済みだった。

《文化財保護局が我々のやり方にOKすれば、市は我々と歩を共にすると信じている》とパドアーン。《我々は調査を開始出来るし、如何なる障害もなしに、パーリャ橋からマルチャーナ図書館までの海岸通りで夜間も進行出来るだろう。そしてその全区間のマゼーニョ敷石の隙間に電気センサーを張り巡らし、地下の弾性の音波の伝播の速度を記録し分析出来る。こうして円柱の位置と大きさが明確に判明し、我々は自信を持って目標に向かって前進出来る》。

我々は回収作業で協力してくれるスポンサーも得ているし、公式に始まった時には、彼らは名を知られることになるだろう。
…… 」

将来サン・マルコ小広場に三本の円柱が見られるかも知れません。その端緒が開かれました。

新年明けましておめでとうございます。今年もヴェネツィア関連話を書き続ける予定です。
  1. 2017/01/01(日) 08:00:38|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ヴェネツィアの伝説: ノーヴェ海岸通りの7人の魔女(3)

(続き)
「一番若い魔女が一人残って、ニコロは言い訳がましく声を掛けながら彼女に近付いた。彼女は理解が早く、直ぐ様この若い運搬人が何を望んでいるか、悟るが否や、満面に笑みを浮かべ、熱烈な一目惚れに陥ったのだった。即座に愛を告白して二人は結婚した。
フォンダメンタ・ノーヴェ海岸アノニムス[左、フォンダメンタ・ノーヴェ海岸地図、北対岸に墓の島サン・ミケーレ。右、画家不明『1708年のノーヴェ海岸の凍結』]  新郎新婦の間には、“平穏な”結婚生活は長くは続かず、娘は次第に激しくニコロを夜の外出に誘い、友達らとオステリーア(食事処)に繰り出し、明るい月光の下、気晴らしにニコロを夜の散歩に連れ出した。

彼に対してこんなに思いやりのある妻に出会って最初は幸福だった。更にはこうしたニコロに対する変わらぬ思いはますますミステリアスな色合いを帯び始めた。《恋人でも出来たのか? 彼女と一緒に居たい夜に、僕を外に連れ出すのは何故?》。

ある夜、12月24日の金曜日という、魔女には特別の日、食卓に釘付けになって、梃でも動こうとしなかった。《僕は外には行かないよ。家に居るよ。君がする事を見ていたい!》 何か心配になった若い魔女は彼を言い包めようとしたけれど、丸で功を奏しなかった。ニコロは頑として動こうとしなかった。

その時魔女の娘が言った。《いいわ、私がやってる事知りたいなら、一緒に来て頂戴。この呪文を一緒に唱えて〝Corpo de su, corpo de zo(体を上へ、体を下へ)″って、夜12時になった時、驚いては駄目よ。》 厳然たる静寂の中、鐘楼の鐘の音が12ヶ鳴るのを待った。12番目の音が消えようとした時、ユニゾンで唱和した。《体を上へ、体を下へ》。

と、突如、壮麗な王宮の宴の大広間が現出した。そこには特に顔を仮面で包んだ、エレガントな素晴らしい装いの沢山の人々が集っていた。魅力的な音楽が辺り一面に鳴り響いていた。制服姿の小姓達が飲物やデザートを運び、皆は笑いさんざめき、幸せそうだった。

《でも、あの人、誰?》 ニコロが叫んだ。《テースタ・ドーロの薬屋さんだ、ほれ、ご覧、アヴォガドーロ弁護士さん、産婆のジョヴァンナさん、サン・サルヴァドールの仕立て屋さん、サン・ザッカリーアの修道女の看守さん、収入役のドルフィーンさん、ナヴァジェーロ船長だ。でもよく見ると皆悪魔や魔女だ。でも今まで誰かそんな事言った人いるんだろうか?》。

ニコロは驚愕のあまり口をアングリさせて、ホールの真ん中で棒立ちで佇んでいた。そこでは沢山のカップルが音楽の名手達の甘美な演奏に優雅に踊り回っていた。

その時、長身で洗練された、目も髪も黒々として、口と顎に長々とした鬚髯を蓄えた一人の紳士が彼に近付いてきた。快い芳香が漂い、特別の香気を発散させていた。強烈とも言える香だった。《ニコロ君、こちらへお出で。君と話がしたいんだ。》 その未知の人が言った。しかし彼は、それが誰なのか分かっていた。ベルゼブ(魔王)その人だった。

《君の奥さんは真の花ですよ。才能もあり、将来は大貴婦人となられますよ。で、君にはお望みなら、お教え出来ますよ。》 ニコロはその新しくやって来た人物を目を皿にして見詰めた。しかし彼の望んでいる事は、この悪魔が直ぐに立ち去ってくれることだった。《閣下、全く以って、閣下に対して私が何をなすべきか判っていないのです。》 この荷物運搬人は言い逃れを言った。

《来なさい、ニコロ君、書斎まで付いて来なさい。金貨を一山差し上げよう。これさえあれば、君の花嫁に素晴らしい生活をプレゼント出来ますぞ。それにもっと幸福になれること、請け合いだ。》 金貨の山が舞い込んだ。そんな物、見た人いるのか? ニコロは考えた。でも僕に何を望んでるんだ?

《ニコロ君》 悪魔は続けた。《約束をこう決めよう、私は君にこの金貨を差し上げよう。》 こう言って上着のポケットからポケット一杯のお金を取り出し、人が腰を下ろしているソファーの前の低いテーブルの上にぶちまけた。《怖がらずに、君はこの契約書にサインして呉れたまえ。心配することは何もないよ。事は全て君の死後の事だから》。

それは悪魔がニコロの心を買い取るという恐ろしい契約だった。《嫌です。そんな事受けられません。あなたのような悪魔に魂を売るよりは、惨めな貧乏人として一生を全うする方がずっとましです。僕の愛しの魔女ちゃんは僕がするようにきっとします。何時も口にしているように僕を愛しているなら、この生活に直ぐ慣れますよ。》 こう言うと呪文を順逆に唱えた。《体を下へ、体を上へ》 その瞬間、自分の家の台所に居た、傍らに若い妻を従えて。

二人は抱き合い、永遠の愛を誓った。ニコロは忘れる事なく、次の日のクリスマスの日、サン・トロヴァーゾ教区の司祭で有名な祓魔師の所に行って、あった事全てを話した。その時司祭は、その若い女を邪悪から解放するには悪魔祓いの呪文で事を行う必要があると言った。魔女の魂を持つ女を解放するには、あるいはニコロがもしそうしたいなら、その魂の分離の瞬間、彼でもやることが可能だ、と。

ニコロは若妻が眠りに落ちる時を待たねばならなかったことだろう。口からか鼻からか毒虫が飛び出すまで、徹夜で彼女に付き添っていると、分離の瞬間があった。その時魔女は黒蠅となって死んだような少女の魂の抜け殻から飛び出した。その時ニコロは黒蠅が2度と戻らないように、娘の鼻の孔と喉を蠟で蓋をしなければならなかった。夜明けの太陽の曙光と共に娘はデーモンから完全に解放され、新生の命と共に目覚めた。

ニコロはこんな風にやり遂げたのだった。新郎新婦は苦楽を共にして自分達の明るい人生を歩んだ。娘は名前を変えたいと、聖処女のようにマリーアと呼ばれることになった(いかなる悪魔も神の母の聖名を持つ女には対抗出来ない)。そして全ヴェネツィアの中で最も善良で賢明なる女となったのだった。」 (終り)
  1. 2016/08/04(木) 00:04:53|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ヴェネツィアの伝説: ノーヴェ海岸通りの7人の魔女(2)

初期化してPCが直りました。 ウインドウズ10にUPしたのが原因かも知れません。――[続き]を続行します。

「幾晩かサンピエロータの船首の隙間に蹲り、帆と横静索の下に身を潜め、魔女の到来を待っていた。4晩の間、彼の待機は虚しく、5番目の夜、あの妖術使いの一団が乗船して来た。畏怖に囚われ、動かないようにしても、ニコロは恐懼に打ち震え、小さく小さくなっていた。

舵取りの魔女が例の決まり文句を唱えた。《一番手開始、二番手開始、三番手開始……》 と、七番手まで進んだ。しかし今回は舟は動かず、飛翔しなかった。《どうして?》 舵を握る老魔女が叫んだ。《何故、この(sta)阿呆な舟は動かないの?》 ニコロは震え始めた。今、多分魔女達は中を覗き込んで彼を見付けるかも知れない。しかし幸運なことに舵手はどうでもいい事を話し始めた。

そして《一番手開始、二番手開始、三番手開始……》 と、今回は八番手までいった。八番目で舟は動き始め、舵を握る老魔女は次のように付け加えた。《私は考えたんだよ、畜生女めが、お前達の誰かが妊娠したんだよ、誰にも判らんが……》 皆は笑って、お互いを探るように見、誰が身重なのか知ろうとした。そして人間が聞いたこともないような悍ましい言葉で、止めどなくお喋りを始めた。

舟は船首を南に取り、静かにスピードを上げ、飛んで行った。こんなに素晴らしい運行はかつてなかった。目的地に到着するのに約2時間だった。その時魔女達は、色々の形や大きさの船が一杯繋がれた大きな開廊の、船を隠すように守られた場所に舟を舫って、直ぐ様舟を降りた。

その時点でニコロは勇を鼓して隠れ処から出ると、周辺を見回した。そこはオリエントの大きな町の港だったが、どこだろう? 彼も舟から下りると身を潜めて土の固められた広い道を進んだ。よろよろ歩く2人の見知らぬ人とすれ違い、ここはどこか訊いた。しかし2人は返答もしなかった。

その時再度、周りを見ると、一つの教会に気が付いた。何度も聞いていた話のお陰で、サン・マルコの教会のように理解され、結局それがどこか判った。何と、何と、そこはエジプトのアレクサンドリアだった。
棗椰子[棗椰子、サイトから借用] その時近くにあったナツメヤシから実の付いた小枝をちぎり取って上着の下に隠した。それから急いで元の道を引き返し、サンピエロータに乗って帆の下にうまく隠れ、7人の魔女の帰りを待った。待つも程なくして女達はお喋りしながら笑いこけて帰って来た。もしかしたらそれは魔女達の安息日の宴のようなものであったのか、あるいは悪魔達と何か約束でも交わしていたのか。

舟に乗り、自分の場所に腰を下ろすと、仲間を率いる老魔女が例の呪文を唱え始めた。《一番手開始、二番手開始、三番手開始……八番手開始》 そして高らかな声で嘲笑いながら付け加えた。《あんた達、猥らな女が一人、子供を孕んだんだ。》

約1時間半の飛行で、サン・マルコ広場の大鐘楼が直ぐに突然現れた。ヴェネツィアに帰還したのである。舟はフォンダメンテ・ノーヴェに停まって通常通り繋がれた。魔女達は下船すると立ち去った。

ニコロも降りると、この旅の戦利品、今までこの町では未見で、新鮮な未熟の棗椰子の小枝を握り締めた。それは彼の驚天動地の旅を証明する証だった。こうして皆彼の話を信じた。神父は彼の舟を聖水で清めに行き、以来魔女には使われることはなかった。

ブラーノ島では同じような話が伝わっており、詳細には異同があるが、本質は同じである。舟は輸送の人の物ではなく、漁師の物であり、当然ブラーノ島に係留された。魔女の数も7人ではなく12人である。飛行の呪文も、当然13番まで数え、飛行はエジプトのアレクサンドリアではなく、コンスタンティノープルである。この二つのもののオリジナルのヴァージョンはどういうものか、誰も正確には知り得ない。

あるヴァージョンによれば、この伝説から派生したものがあるかも知れないと言っておかねばならない。事実若いニコロは彼の舟を使った7人の魔女達の中に、ほっそりと元気溌溂した表情で、然るべき部位はちゃんとした曲線美を備えた、好感の持てる、一番若い魔女に気付いていたようである。こうしてエジプトのアレクサンドリアへの飛行後、帰還した夜、立ち去るのではなく、少し打ち解けた気持ちを抱いて魔女達に付いて行こうと決めた。」 (3に続く)
  1. 2016/07/27(水) 00:00:00|
  2. ヴェネツィアの伝説
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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