イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――カルロ・ゴルドーニ(4)

ゴルドーニの伊語訳された『回想録』(Biblioteca Universale Rizzoli 版)を読んだ時、前にも書きました、カザノーヴァとのある関係が記してあり、興味深いことでした。それは、当時彼が台本を提供していたイメール(G.Imer)一座で、カザノーヴァの母親ザネッタが喜劇の中の若い恋人役を演じる、優雅でとても演技力のある女優だった、という一節です。
『Memorie』『Carlo Goldoni』また『回想録』の他の場所では、ヴィヴァルディについて触れています。彼はサン・サムエーレ劇場の所有者、貴族のグリマーニに頼まれてアポーストロ・ゼーノとピエートロ・パリアーティ共作のオペラ『グリゼルダ』の全体を縮めたり、歌手や作曲家の意向に添うようにアリア等の歌う場所の変更など、板に乗せるために必要な処置を講ずるために、作曲者のヴィヴァルディの所に行ったのでした。

その挿話の中で、彼がアンナ(ゴルドーニはマッダレーナと書いています)・ジローの声の細いことを言うと、ヴィヴァルディは自分の生徒の悪口を言わないでくれと旋毛を曲げ、台本を見せようとはしませんでした。しかし彼がその場でしてみせた一部の改訂の素晴らしさに驚いて、ジロー嬢を呼んで彼に全体の手入れを頼んだのだそうです。

彼はヴィヴァルディをヴァイオリニストとしては優秀だが、作曲家としては凡庸だと手厳しく書いています。このオペラは1735年にサン・サムエーレ劇場で公開されたそうです。

『回想録』は述べています。彼の喜劇が主に上演されたのは、ヴァポレットのサンタンジェロ停留所傍のサンタンジェロ劇場とサン・サムエーレ教会右脇から、カザノーヴァが生まれたマリピエーロ通りを通り越した先にあるサン・サムエーレ劇場だったそうです。

そのサンタンジェロ劇場で1748年のカーニヴァル中に喜劇『抜け目のない未亡人(Vedova scaltra)』がジローラモ・メデバック一座によって初演されました(当時のカーニヴァル的賑いは12月26日~四旬節前まで、キリスト昇天祭~6月19日、9月1日~11月30日と続いたのだそうで、どの頃のことを言うのでしょうか)。

「第三幕 最終場(舞台は三幕ともヴェネツィア)
パンタローネ、ロンバールディ博士と前記の人たち(ムシュー・ル・フロー、ルネビーフ閣下、ボスコ・ネーロ伯爵、ロザーウラ、エレオノーラ、マリオネット)

……
パンタローネ  夜会の方の進み具合はいかがですか?
博士  一体ドン・アルバロ様に対して何をやらかしたのですか。アルバロ様はイタリアの女という女の悪態を口をきわめて罵って出て行かれましたが。
ムシュー  パンタローネ様、博士様、僕の大事な舅のお父様、尊敬すべきお義兄(にい)様。僕がこの美しい令嬢の愛を獲たという喜びを皆様にもわかちもつということが出来るよう、僕がお二人を優しく抱きしめることをお許しください。
パンタローネ  なんだと、これは初耳だぞ?
博士  父親であるこの私に何も言わずにか?
ロザーウラ  お二人の結婚をきちんと取り決める前には、お父様にお話し申しあげるつもりでございました。こうして一晩の夜会のうちに二組の結婚のお話がまとまりました。わたくしはボスコ・ネーロ伯爵様と妹はムシュー・ル・ブロー様と。なにか御反対の御異議はございますか?
博士  私はいつも娘のおまえに万事まかせていた。おまえがうまくやったと思うなら、私は反対しない。
パンタローネ  (ひとりで)≪ここで取り乱してはならん。こうなってしまった以上、進んでこの事態を良しとして引き受けるとしよう。≫ 私はエレオノーラ様と結婚したかったが、御本人が喜んで承諾なさるというのが私の希望でした。私にお気がなかった以上、致し方ない。あきらめても損をしたわけではない。なにしろあの方は私を絶望で死なせたかもしれないのだから。
ムシュー  パンタローネ様に万歳!
閣下  あの方はまるでイギリス人そっくりの理にかなった考え方をなさいますな。
ロザーウラ  こうしてわたくしの目論見はみな目出度く結末に達しました。こうして二人は、一人は後家、一人は生娘と、共にあやうく婚期を逸する身の上でしたが、無事に身を固めることが出来ました。正直に申しますと、わたくし確かに抜け目なく立ちまわりました。しかしずるさはしても、世間の掟とか人様の名誉にそむくことは一切いたしませんでした。ですから皆様、たとい拍手喝采はなさらずとも、大目には見ていただけるかと存じます。そして多分、きっと皆様はこのわたくしを羨ましいとひそかに思っておいでのことかと存じます。 ――喜劇の終り」
  ――『抜目のない未亡人』(平川祐弘訳、岩波文庫、1995年8月18日発行)
『抜目のない未亡人』この芝居は、エルマンノ・ヴォルフ=フェッラーリ(1876.01.12ヴェネツィア~1948.01.21ヴェネツィア)が、1931年ローマで同名のオペラを発表しています。ヴェネツィア生まれの彼は、その他『Le donne curiose』『I quattro rusteghi』『I campiello』等ゴルドーニの戯曲からオペラを作曲しているようです[rusteghi=伊語rustici(田舎者達)]。

ゴルドーニの戯曲は色々な作曲家の関心を呼び、オペラに作曲されています。同じヴェネツィアのブラーノ島生まれで仲の良かったと思われるバルダッサーレ・ガルッピとのコラボレーションは、『L'Arcadia in Brenta』『Il mondo della luna』『Il mondo alla roversa』『Le virtuose ridicole』『La calamita` de' cuori』『Il filosofo di campagna』等あります。

クリストフ・グルックには『Tigrane』、ニッコロ・ピッチンニには『La Cecchina, ossia La buona figliuola』(成功作)、ヴォルフガング・モーツァルトには『La finta semplice』(マルコ・コルテッリーニによる改作)、ジュゼッペ・サルティには『Fra i due litiganti il terzo gode(漁夫の利)』、トンマーゾ・トラエッタには『Buovo d'Antona』『Buona figliuola』、ヨーゼフ・ハイドンには『Lo speziale』『Le pescatrici』『Il mondo della luna』等々と彼の戯曲が使われています。

『ゴルドーニ喜劇集』(齊藤泰弘訳、名古屋大学出版会)が2007年に発行され、次の戯曲が訳出されているそうですが、私は未読です。内容は『骨董狂いの家庭、あるいは嫁と姑』『コーヒー店』『宿屋の女主人』『小さな広場』『恋人たち』『田舎者たち』『新しい家』『別荘狂い』『キオッジャの喧嘩』だそうです。
  1. 2009/10/17(土) 00:01:56|
  2. ヴェネツィアの演劇
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文学に表れたヴェネツィア――カルロ・ゴルドーニ(3)

18世紀のヴェネツィアはかつての栄光の時代の残照の中で、頽唐する輝きを見せますが、前世紀と特徴的に変化した様相の一つに、作家や作曲家、画家達が国外に出掛けて行ったことがあります。戦争もなく、平和な時代だったと思われますが、やはり17世紀よりは貿易活動も鎮静化し、国力が衰えてきたことが背景にあったと思われます。

ゴルドーニは彼の改革運動に反対の立場を表明するP. キアーリやC. ゴッズィとの争いに敗れた形で、パリへ逃れました。カザノーヴァは脱獄でこの町を後にしますが、一度は許されて帰郷します。結局はボヘミアのドゥックスで貴族の図書館の司書をしながら亡くなりました。

ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749チェーネダ(ヴィットーリオ・ヴェーネト)~1838ニューヨーク)はヴェネツィアでの荒れた生活が災いして追放され、ウィーン、ロンドン、アメリカと落ち延びていった形です。ニューヨークで彼の台本によるモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』等の上演を企画し、アメリカ初演(1817)の記録を残しています。この3人は回想録を残しました。

ヴィヴァルディはヴェネツィアでの人気が落ちたと思ったのか、皇帝カール6世を頼ってウィーンに行きますが、頼みの綱の皇帝が死去、貧窮の中に亡くなりました(1741年)。哀れなことに無縁墓地に葬られたことが判明したのは、200年後のことでした。

ジャンバッティスタ・ティエーポロ(1696~1770)はヴェネツィアを後にした後、1767年から亡くなるまで、マドリードで王宮の天井画を描いたりしていました。カナレット(1697~1768)はヴェネツィアで亡くなりましたが、1746~56年ロンドンに滞在して、英国の景観画を描いています。

ゴルドーニの1750年の作品『コーヒー店』(3幕)の牧野文子氏の日本語訳があります。コーヒーは当時のモダンな流行で、まだ庶民が誰でも飲めるほど安くはなく、生活に余裕のある人だけのものだったようです。

塩野七生著『イタリア異聞』(新潮社、1982年7月15日発行)の《大使とコーヒー》の章によりますと、1585年トルコ帝国駐在大使ジャンフランコ・モロジーニが故国に「トルコ人は cave'e と呼ばれる種から取った、煮え立っている黒い色をした飲物を飲むのです。この飲物は飲む人の頭をはっきりさせる効果があるとか」と報告書を送っているそうです。

暫くしての帰国時、モロジーニはその種を持ち帰り、少しずつこの魅惑的な飲物はヴェネツィアの上流社会に広まります。そして1638年サン・マルコ広場の回廊の一画に、ヨーロッパで初めてのコーヒー店が開店し、それを切っ掛けとして直ぐにヴェネツィアでコーヒー店の流行が始まったそうです。

サン・マルコ広場に1720年にフロリアーノ・フランチェスコーニ(Floriano Francesconi)によって始められたカッフェは、日本のTVインタビューに店の代表のジュゼッペ・ウルソッティ氏が、「ヴェネツィア式の言い方[語尾の o の脱落]で、フロリアーンと呼ばれるようになった」と答えていましたが、現代まで延々と続く世界初のカッフェであることはよく知られています。
[2012年追記――ヴェネツィアのコーヒー文化は直ぐパリに飛び火し、キャフェ文化の華はパリで開花します。パリのコメルス・サンタンドレ通りのキャフェ《プロコープ》はシチーリア人フランチェスコ・プロコーピオが1686年に開業したもので現在も続いています。ここが最古のコーヒー店なのでしょうか。]

劇作家や役者達が集まるので有名だった、劇場近くの《メネガッツォ》というコーヒー店はゴルドーニも常連だったそうで、カナレットやロンギ等の画家達もこの店に出入りしたとか。

イタリアでは、かつて淑女がカッフェに入るのははしたないと考えられて、ローマやフィレンツェのカッフェに入っている女性は、外国人か淑女ではない女だったと言われています。しかしヴェネツィアにはそんな偏見はなかったようです。
『ゴルドーニ傑作喜劇集』「コーヒー店(三幕)=三幕とも変わらず、舞台は同じヴェネツィアの小さな広場――第一幕
舞台面は建物に囲まれた四つ辻のある小さな広場で、その正面に三軒の店があり、手前が幾らか広い往来になっている。中央にコーヒー店、右手に床屋、そして左手に賭場でもある娯楽店が並んでいる。それらの店の上には、手前の道路を見下ろす窓をもった娯楽店に属した小部屋が幾つかある。俳優は、この二階の小部屋に上がって、窓から顔を出したり往来を見下ろしたりすることが出来る。床屋の側に、道をはさんで踊り子の住んでいる家があり、娯楽店の側には、実際に開けたての出来る扉と窓のついた宿屋が見える。
第一景  リドルフォ(コーヒー店主)、トラッポラ(コーヒー店給仕)、その他の給仕たち

リドルフォ   さあ、みんな、しっかり、 ちゃんとやるんだぞ。敏速かつ丁寧に、綺麗にしてお客さんたちを迎える用意をするんだ。普通お店のひいき客ってのはな、そこの店のサー ビスのよしあしで決まるんだからな。
トラッポラ  旦那さん、本当いいますとね、こんな朝早く起きたんでは、 わっしの性に合わんのでして、何もやれませんよ。
リドルフォ  だがな、やっぱり早く起きなくちゃならん。みなさんにサービスをしなくちゃな。旅に出掛けていく人たちは、朝早くからやってくる。働くもんや船乗り、水夫たちはな、みんな朝早くから起きるからな。
トラッポラ  人夫らふぜいがコーヒーを飲みにやってくるなんて、ほんとに笑わせられますよね。
リドルフォ  誰もがな、他人のすることを一応はやってみたがるもんだよ。そいつがひところは、あのブランディだったのが、近ごろではコーヒーが流行ってるってわけだ。
トラッポラ  毎朝わっしがコーヒーを運んでいくあの家の奥さんね、あの人いつもわっしに薪をちょっとだけ買ってきてくれと頼むんです。それでいて、高くてもやっぱりコーヒーは飲みたがるんですよ。
……」
  ――『ゴルドーニ傑作喜劇集 扉/コーヒー店』(牧野文子訳、未来社、1984年6月8日発行)

この本の《あとがき》がゴルドーニ最期の模様について触れています。フランス革命の犠牲者となったフランスの詩人アンドレ・シェニエ(1762~94)の弟ジョゼフ・シェニエは、公衆指導委員会の委員の一人でした。1792年7月25日以後、王女達の伊語教師としての給与を停止され、困窮の極みにあったゴルドーニのために、彼は年金を贈与する案をフランス革命議会で通過させ、その吉報を彼自身ゴルドーニに届けたのですが、時既にして遅し、ゴルドーニはその生涯を閉じていたのです。

ジョゼフが、第二の故国としてフランスを愛した詩人ゴルドーニを我がフランスは忘れてはならないと言って、フランス国民革命議会で弁じていた丁度その時刻頃に恐らく息を引き取っただろうという話が伝わっているそうです。結局年金は妻のニコレッタが受け取ることが出来ました。

作曲家ジャン・フランチェスコ・マリピエーロ(1882.03.18ヴェネツィア~1973.08.01トレヴィーゾ)は、ヴェネツィアに育った故か、『三つのゴルドーニの喜劇』というオペラで、この『コーヒー店』『不平たらたらのトーデロ氏』『キオッジャのいざこざ』の三つを纏めたオペラを作っています。
  1. 2009/10/10(土) 00:05:06|
  2. ヴェネツィアの演劇
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文学に表れたヴェネツィア――カルロ・ゴルドーニ(2)

ヴェネツィアのレストランで偶々席が隣り合ったことで簡単な会話を始め、フィレンツェに来ることがあったら電話しなさい、と電話番号を頂き、結局言葉に甘えてそのアルフォンソご夫妻のお宅に伺った時、昼食の席でその時頭にあった日本公演のフェッルッチョ・ソレーリの演技に感動したことを話しました。

アルフォンソさんはフェッルッチョと同じ町内に生まれたと言われ、彼がその町内のバールでコーヒーを飲んでいる時に同席したことが何度もあると、彼と同町内出身であることは誇らしい、という口調で彼の事を何か話してくれました。ますますコンメーディア・デッラルテにのめり込んでいく要因でした。

初めてヴェネツィアに赴いた時、先ず訪れたい場所がありました。マルコ・ポーロの家、カ・レッツォーニコ(18世紀美術館)とスタンパーリア美術館、そしてカルロ・ゴルドーニの生家(演劇博物館)でした。色々道を尋ねながらどうにか辿り着くことが出来ました。工事中で足場等が組んでありましたが、2階の玄関を開けて、入場は出来ないかと尋ねると意外にもOKの返事でした。

現在ではあの当時とすっかり博物館の様相が変わってしまいましたが、昨年訪れた時もゴルドーニの芝居のDVDを見せて頂き、奇妙に興奮していました。しかし売店で買ったゴルドーニの演劇のDVDは未だにどうやっても開けません。

『ゴルドーニ劇場』(田之倉稔編訳、晶文社、一九八三年九月一五日)には『二人の主人を一度に持つと』と『ヴェネツィアのふたご』の訳があります。『二人の主人を一度に持つと』の原作の登場人物は次のようです。
『ゴルドーニ劇場』パンタローネ・デ・ビゾニョージ、クラリーチェ(パンタローネの娘)、イル・ドットーレ・ロンバルディ、シルヴィオ(ドットーレの息子)、ベアトリーチェ(男装のトリノ人、フェデリーゴ・ラスポーニ)、フロリンド・アレトゥージ(トリノ人、ベアトリーチェの恋人)、ブリゲッラ(旅館の主人)、ズメラルディーナ(クラリーチェの女中)、トゥルッファルディーノ(ベアトリーチェとフロリンドの召使い)、旅館のボーイ、パンタローネの召使い、ポーター2人、食事の時のボーイ数人が登場人物ですが、当然これにアルレッキーノが加わります。

アルレッキーノはベルガモのキャラクターですが、ストレーレルはピッコロ座の演出ではベルガモ弁ではなく、ヴェネツィア語を話すように変更したようです(テクストの変更はその他にもあるようです)。舞台は勿論ヴェネツィアです。

「第一幕
第一場 パンタローネ家の部屋。パンタローネ、ドットーレ、シルヴィオ、ブリゲッラ、ズメラルディーナ、パンタローネのもう一人の召使い

シルヴィオ  さあ、ぼくの右の手をお取り下さい。この手といっしょにぼくの心もさしあげます。(クラリーチェに右手をさしのべる)
パンタローネ  さあ、もう恥ずかしがらずに、お前も手を出しなさい。そうすりゃふたりは婚約したことになる。すぐその次は夫婦というわけさ。
クラリーチェ  はい。シルヴィオさん、どうぞわたしの手を。まちがいなくあなたの妻になることを誓います。
シルヴィオ  ぼくも誓います。君の夫になることを。(ふたりは手を合わせる)
ドットーレ  結構結構。やっとこぎつけた。もう後へ引き返すことはあるまい。
ズメラルディーナ  <ああ、うらやましい話! まったくあたしまで結婚したくなってしまうわ。>
パンタローネ  (ブリゲッラと自分の召使いに)君たちはこの二人の婚約成立の立会人ということにしてもらいたい、娘のクラリーチェとドットーレ・ロンヴァルディ氏のご令息シルヴィオ君のな。
ブリゲッラ  (パンタローネに)ええ、よござんすとも。そんな晴れがましいことをさせていただいて、むしろお礼がいいたいくらいです。
パンタローネ  そうだろう。わたしも君の結婚の立会人になった。だから君にも娘の結婚の立会人になってもらおうというわけだ。それに友人連中に声をかけたり、親戚を招んだりするのは嫌だったのでね。先生もまったくわたしと同じ性格でいらっしゃる。すべて大騒ぎせず、つつましくなさるのがお好きなんだ。内輪で会食をし、楽しむ。そうすれば誰からも迷惑をこうむることはない。(クラリーチェとシルヴィオに)どうだ、うまいやり方とは思わんかね、そこのおふたりも。
…… 」
  ――『ゴルドーニ劇場』(田之倉稔編訳、晶文社、一九八三年九月一五日発行)より  
  1. 2009/10/03(土) 00:01:28|
  2. ヴェネツィアの演劇
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文学に表れたヴェネツィア――カルロ・ゴルドーニ(1)

この7月の初め、フェッルッチョ・ソレーリ(1929.11.06フィレンツェ~  )がまた来日しました。今回で4度目の訪日と思われます。出し物は1997年に亡くなったジョルジョ・ストレーレル演出の、カルロ・ゴルドーニ作『二人の主人を一度にもつと』です。
ミラノ・ピッコロ座ピッコロ座としては1979年、99年そして今回の世田谷パブリックシアターと3度目です。私が初めて彼の舞台を見たのは、1995年鎌倉芸術館大ホールで行われた、《フェリュチョ・ソレーリと「アルルカンと仲間達」》が演じた、ピッコロ座とは別ヴァージョンのゴルドーニ作『2人の主人を一度に持つと』でした(これはゴルドーニがパリに行き、1764年3月4日にテアトル・イタリエンヌで上演した『アルルカン――二人の主人を持つ召使』だったのでしょうか?)。
アルレッキーノ「アルレッキーノ」  コメディア・デラルテ「コメディア・デラルテ」95年そして前回の99年の新宿文化センターでの公演時にはトンボを切ったりして、その若々しく激しい動きで見せたテンポの速い演技は、やはり今回79歳という年齢では影を潜めた感があったものの、よく計算された切れの鋭い円熟した演技は、やはり期待通りで楽しいものでした。

ストレーレルの演出ではゴルドーニの戯曲は解体的に改められ、ベルガモ出身のアルレッキーノの言葉もヴェネツィア訛りに変更するなど、ゴルドーニのテクストとは相当離反しているようです。しかし彼の緻密に計算し尽された演出による演劇ですから、即興性など皆無の筈ですが、即興性やラッツィ(lazzi)を言葉に頼らず肉体で表現したかつての喜劇集団であったコンメーディア・デッラルテとはこんなものであった、ということを納得させてくれました。

カルロ・ゴルドーニの生涯をガルザンティ(Garzanti)のウニヴェルサーレ事典から拾ってみます。

「喜劇作家(1707.02.25ヴェネツィア~1793.02.06パリ)。法学を学ぶ。俳優のジュゼッペ・イメールやジローラモ・メデバックの一座と付き合い、弁護士を放棄してしまう。1748~53年はヴェネツィアのサンタンジェロ劇場、1753~61年はサン・ルーカ劇場のために戯曲を提供した。

1751年だけでも喜劇を16作品書いた。彼の成功はピエートロ・キアーリやカルロ・ゴッズィの反目を引き起こした。1762年コメディ・イタリエンヌの座長としてパリへ赴いた。

彼はコンメーディア・デッラルテの粗筋(canovaccio)に代わるものとして、文章化された喜劇として作品を提出し、現実の人物を登場させることで演劇の改革を試みた。彼の作品のオリジナリティは、現実世界と舞台との複雑な相互関係の中に見られる。彼は豊かで、理路整然とした言語表現を駆使して、啓蒙主義的理想を程よく吸収した作品を書いた。

彼の作品は150ほどあり、一番古いもの(1743~49)に、『二人の主人を一度に持つと』(1745)を舞台的な遊びとして提示している。そして性格劇的な『粋な女』(1743)、『抜け目のない未亡人』『素直な娘』(1749)。心理的に深める追究は続けられ、『パメーラ』『嘘つき男』『コーヒー店』(1750)、『宿屋の女主人』(1752)、そしてヴェネツィア語での作品が続く。

彼の傑作としては『小広場』(1756)、『恋人達』(1758)、『田舎者達』(1760)、『不平たらたらのトーデロ氏』『キオッジャのいざこざ』『避暑地三部作』(1761)、『カーニヴァル最後の一夜』(1762)。

パリに行ってから書かれたものに、『扇』(1764)。更にフランス語で書かれたものに『気立てのいい気難し屋さん』(1771)がある。『回想録』はフランス語で残した。」
[『不平たらたらのトーデロ氏』のトーデロ(トーダロも)は伊語の名前テオドーロのヴェネツィア式の言い方で、サン・マルコ小広場の2本の円柱の上の、竜を退治する聖テオドールスも、ヴェネツィアではサン・トーダロと呼ばれているようです。]
『カルロ・ゴルドーニの肖像』2001.03.24~05.27日の《華麗なる18世紀イタリア ヴェネツィア絵画展》で初来日したアレッサンドロ・ロンギ画『カルロ・ゴルドーニの肖像』。初ヴェネツィア行の時、《ゴルドーニの生家(演劇博物館)》で観ることが出来ましたので、《ヴェネツィア絵画展》での再会は contentissimo でした。
  1. 2009/09/26(土) 00:04:10|
  2. ヴェネツィアの演劇
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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