イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ローマ行

チヴィタヴェッキアの後、ローマに行きました。ローマに着いて先ず最初に訪れた所は、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂のあるヴェネーツィア広場近くにある、イル・ジェズ教会でした。以前この教会に行ったのは『地球の歩き方 ローマ』の昔の版に、長崎で殉教した26人の絵があるとあり、この教会右脇の部屋に入ると誰もおられず、暫くして一人の僧侶が見え、拙い伊語でその事を尋ね、見せて貰えないかと懇願すると、その奥の扉を開けてくれました。
イル・ジェズ教会イグナティウス・デ・ロヨラ元和大殉教大殉教部分[左、イル・ジェズ教会、中左、イグナティウス・デ・ロヨラ(伊式イニャーツィオIgnazio de Loyola)、中右、元和大殉教図、右、元和大殉教図部分]
今回その部屋は絵葉書や宗教書を売る売店の形になっており、常駐の人がいました。以前にも見せて頂いたのですが…、とお願いすると簡単に奥の扉を開けて、内部を案内して説明してくれました。昔見た絵を失念しており、改めて再確認するものでしたが、それは26殉教者の物ではなく、1622年9月10日の、秀忠による長崎西坂における、55人にも及ぶ《元和の大殉教》という日本最大の殉教者を出した死刑の模様を描いた物でした。
元和の大殉教図[サイトから借用]  パウルス・ミキ他レオナルドゥス・キムラ達チヴィタヴェッキアの日本聖26殉教者教会の基になる絵がここにあると思い込んでいたのはそんな訳でした。以前見た島原の5殉教者磔刑図の事を尋ねると、それは現在修復中でここにはないとの事でした。その代わりに《Martirio di S. Paolo Miki, Givanni Coto e Giovanni Kisai in vari periodi in Giappone》(上図中)という絵が掲げられ、売店には《Martirio del Beato Leonardo Kimura con altri quattro cristiani a Nagasaki il 18 nov. 1619》(上図右)と、かつてと様変わりして、日本の殉教者の絵だけが掲げられていました。日本人必見です。
予約アドレスその後ガイドにあるように、支倉常長のフレスコ画があるという大統領官邸パラッツォ・クィリナーレに行きました。大門前で護衛をするカラビニエーリに、どうすればコラッツィエーリの間(Sala di Corazzieri) に入れるか、尋ねると、官邸広場前の右回りの坂道(階段ではない)を下って行く途中の左に《15A》の番地があるので、そこで予約するようにと言われました(休日休み)。事務所に行くと、5日先まで予約は一杯と言われ、日数がなく諦めましたが、PCで予め予約するアドレスを教わりました(上携)。
支倉常長他政宗の夢 常長の現[左、サイトから借用。右から、ルイス・ソテロ、支倉常長、後列右から、山城国の滝野嘉兵衛、摂津国の伊丹宋味、尾張国の野間半兵衛、支倉の書記・小寺外記 [支倉常長については以前のブログ支倉常長もご参照下さい] 尚、常長の洗礼名はスペインで受洗したのでDon Felipe Francisco Faxicura(羅典式Philippvs Franciscvs Faxicvra〔羅典語のVは「ウ」音〕、伊語式Filippo Francesco Faxicura)となるようです。
以前TVで、カメラが入ったボルゲーゼ宮殿の、ある壁面の支倉常長の肖像画を、案内のボルゲーゼの青年が《日本人!》と指差したのを見た記憶がありますが、昨年その絵が修復なって、来日し、東博で短期間展示されました。その絵の在所(ボルゲーゼ美術館?)を確かめることもなく帰国しました。

ローマでチェックオフする時、ホテルのsimpaticaな受付の女性に、次回イタリアに来るとするとどこに行きたいか?と問われ、シチリアと答えるとSciciliaとはどこかと問われ、えっ?と思ったのです。つい日本語式発音になっていたんですね。改めてSicilia(スィチーリア)と返しました。大変反省しました。

今ローマへ行かれると、トゥレーヴィの泉やスパーニャ階段は修復のために近寄れません。また、もしかするとサン・ピエートゥロ大聖堂も大行列のために、その日、遅く並んだ人は入堂不可能になるほどの大観光客です。出来るだけ早朝に並ぶしかないようです。
[ 今回フィレンツェでは大聖堂の周りを入場者が巨大行列していましたが、ヴァティカンでも広場の外側を超巨大行列がぐるり取り巻いていました。入場制限していますから、列の前進は殆ど見えません。巨大というレベルを遥かに超えた観光客の遅く並んだ人はその日入場出来ず、徹夜して次の日を待つのかな、と思いました。偶々レストランで隣り合った日本人は、今朝7時から並び、10番ぐらいだったと言っていました。日本にさえ来る観光客が増加し、世界は大旅行ブームに突入したのか、という感想を持ちました]
  1. 2015/10/22(木) 00:43:58|
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チヴィタヴェッキア行

ヴェネツィア・フィレンツェの後、10月6、7日チヴィタヴェッキアに滞在しました。チヴィタヴェッキアという町をご存じでしょうか? イタリア映画好きの人はご存知かも知れません。『スプレンドール』(1989)や『イル・ポスティーノ』(1994)の、ナーポリ生まれの名優マッシモ・トロイージ(享年42歳、息子役)がマストロイアンニ(享年73歳、父親役)と共演した映画『Che ora e`?(バールに灯ともる頃)』(1989)の舞台となった町です。二人の名優は既に故人です。懐かしいです。

この町は先ず、長谷川路可画伯が修復した日本聖二十六殉教者教会で日本では知られているでしょう。私がかつてローマのイル・ジェズ教会で見た磔刑図が、『地球の歩き方 ローマ』に26殉教者の絵とガイドされてあり、今までそれを信じ込んでいました。当然長谷川画伯はそれを参考にこの教会を修復・描出されたものと思い込み、ブログを書いてきました。それは間違いで、イル・ジェズ教会の絵は、1622年の《元和の大殉教》と言われた、秀忠の命で長崎西坂で火刑と斬首で亡くなった55人の信者達の絵だそうです。
聖殉教者教会パンフ1聖殉教者教会パンフ2パンフ内側1パンフ内側 日本聖殉教者教会裏面一方聖26殉教者の方は、1597年日本初、長崎西坂で磔刑により殉教者を出した時のものを、路可画伯がこの教会に描かれました。それは支倉常長が1615年ローマに向けて下船した地であったことが画伯の頭にあったからでしょう、祭壇天井に常長の肖像が描かれていました。
聖26殉教者教会祭壇支倉常長像また港近くグリエルモ・マルコーニ通りリヴォルノ門傍の広場に支倉常長の銅像があり、彼が太平洋を渡り、メキシコを横断し、大西洋を越え、スペインからローマへ至り、再び帰国して行った道程も石碑に刻まれてありました。現在この町は、常長が船出した石巻市と姉妹都市となっています。常長は3・11のように1611年の大津波で大被害を受けた東北を、メキシコとの貿易で再興したいという伊達政宗の意向を受けて太平洋を渡ったのだそうです。
支倉常長銅像碑文常長の航跡支倉常長が1615年10月18日、ローマを来訪するために上陸したのがイタリアの港町、チヴィタヴェッキアだったということで、1613年10月28日(慶長18年9月15日)に石巻の月浦湊を出立して2年後の事でした。今年の10月で400年記念になります。チヴィタヴェッキア市のサイトに次のような事が掲載されていましたので、訳してみました。

「10月18日はヨーロッパへの日本の最初の使節が、ローマを目指してチヴィタヴェッキア港に上陸した記念日である。オドアルド・トーティ博士の書『チヴィタヴェッキアの歴史』の中で語られているように、仙台藩の大名、伊達政宗の使節であり、家来であった支倉常長は、教皇庁に赴くためにイタリアの地を踏んだ。教皇庁ではパウルス5世がクィリナーレ宮に招いた。この歴史的な使節は、コラッツィエーリの間で今でも見られるフレスコ画がその証明となっている。そこには日本人支倉常長とフランチェスコ派神父ルイス・ソテロが描かれている。

今日ローマのヴィットーリオ・エマヌエーレと名付けられた通りを長い行列で進み、聖庁に招じ入れられた。ヨーロッパ人が日本人に出会った最初の事であり、この時を祈念しながら丸2年の旅をした。石巻・月浦港から1613年サン・ファン・バウティスタ号(S.Giovanni Battista)に乗船して出発した。太平洋横断、パナマでガレオネス(Galeone)船下船、大西洋横断のためパナマ地峡を徒歩で進み、スペインのサンルカル・デ・バラメーダ(Sanlucar de Barrameda)に着。その後各地を経て、チヴィタヴェッキアに到着した。

古いガレオン船(Galeone)と同大の船の再建は、支倉常長の派遣に触発されて全ての町の長ら参加の下、1993年石巻で始まった。それは2011年この地方を襲った破壊的な大津波にも耐えた。今や我々は準備万端である。彼らはチヴィタヴェッキアに姉妹都市提携で派遣されて来た。我々は日本の姉妹都市と連絡を取った。2012年10月11日、市長ティデーイは石巻市長に書簡を送り、この古くからの絆を維持進めることを再確認した。

来年2013年の重要記念日を待ちながら、今年は文化的行事を鑑み、この記念日を祝うだろう。その日は支倉常長が日本を出発して400年なのである。他の町の同郷人も記憶しているだろうが、1991年10月18日ここで行われたもの、個人的にはまた一つのパレードを胸に懐いている。1615年には仙台からの侍達がマルコーニ通りを行進したのだが、その時彼らは長旅の後、古い絆の火を再度点火しようと望んだのだった。

姉妹都市提携は先ず我々の心に生きている。かくも異なった、遠国の人と文化的友好関係を強めようという意志と興味を持って、ヨーロッパ共同体の姉妹都市事務局長のジャン・ベレットは言う: 多くの人がカンパニリズモの中にあって、狭い料簡に閉じ籠ったままである。こうした殻を壊し、他国との類似の競争意識を破ることが必要である。必要なのは、市民が広がっていく世界認識の中で地域の生活を強化しながら、目覚める事。これが姉妹都市提携の最終目的である。」
  1. 2015/10/17(土) 00:08:00|
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パリ(2)

ルーヴルで見たイタリア絵画は、イタリアで見たイタリア絵画とはまた異なった雰囲気で、感動の連続でした。特に非道のナポレオンがヴェネツィアから略奪して持ち去った、そして未だに返還されていないヴェロネーゼの大作『カナの婚礼(婚宴とも)』、ルーヴル最大のこの絵画にようやく出会えた時は至福の一時でした(出来ればヴェネツィアのサンタ・マリーア・マッジョーレ教会修道院で鑑賞したかった)。
カナのカナの婚礼それに比すと、同じ部屋のこの絵の対面に展示されていた『モナリザ』は、頑丈なガラス・ケースで保護され、護衛付きで、6~7メートル遠くから見ることを強制され、ガラスが反射して観賞に堪える設置になっておらず、ルーヴルが誇る至宝の誇示といった趣でした。
スティーン雪のチュイルリー公園を横断して見に行ったオランジュリー美術館の小品達は、全て親しみの持てる simpatici のものばかり。モディリアーニ、スーティン、アンリ・ルソー……。気に入ったスーティンのものを1点掲げます。
チュイルリー公園再度チュイルリーの雪を踏み締め縦断し、リヴォリ通りに出ると向かい側に噂に聞いていたガリニャーニ(Galignani)という書店がありました。書店の歴史について何か本があるかと聞くと、オルディナトゥールで検索すればある筈ですよ、という店員さんの返事で、帰国してからパソコンを開きました。以下がこの書店の歴史です。
ガリニャーニ書店「ガリニャーニ書店は、多くの読者に書籍を提供するために、発明されて間もない印刷機を、その初期から使用したことで知られる。1520年代初め、シモーネ・ガリニャーニはラテン語文法書をヴェネツィアで出版した(最古の《ガリニャーニ本》として知られる)。

しかし彼らの大成功は1597年出版のPTOLEMAEUS(プトレマイオス)による『地理書』であった。それは16、17世紀における超ベストセラーであった。ガリニャーニは結果的には各種の出版物の再版を重ねていった。

18世紀の終り、ブレッシャ近郊生まれのジョヴァンニ・アントーニオ・ガリニャーニは、経済的に落ち目となったヴェネツィアを後にして、先ずロンドンに向かったが、直ぐにパリに赴き、1801年ヴィヴィエンヌ通り(2区)に書店と共に、英語本の読書室を開いた。その間にも出版活動は続いた。

更に日刊新聞『ガリニャーニのメッセンジャー』の創刊、大陸での英語話者社会へのリファレンスの創設があった。この新聞に寄稿した当時の何人かの著名な作家、そして彼らの著書はガリニャーニから発刊された(バイロン、ワーズワース、サッカリー、スコット…)。書店は1856年リヴォリ通りに店を移し、現在に至る。

1882年ヴィリアン・ガリニャーニは死に際して、甥のシャルル・ジャンクール=ガリニャーニに会社を譲り、現在その直系が店の経営に携わっている。20世紀初め、新聞と印刷所は廃止、独軍占領下では英語本のストックが許されず、アンドレ・ジャンクール=ガリニャーニは芸術本のコーナーを始めた。 ……」
マルセル・プルースト(21歳)2009.07.25日から3回に渡ってプルーストのヴェネツィア文学に表れたヴェネツィア――プルースト(1~3)を書きました。今回オルセー美術館でプルーストの肖像画を撮ることが出来ましたので、その絵を掲げたいと思います。ジャック=エミール・ブランシュが1892年に描いたプルースト(21歳)です。
  1. 2010/01/30(土) 00:06:50|
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パリ(1)

急に思い立ってパリに行ってきました。初めてのパリは雪でした。真っ白に凍て付いたモンマルトルの坂道を,足を滑らせながら歩き回りました。サクレ・クール寺院前の広場からパリを見下ろしても、降雪で煙り、あまり展望は利きません。
雪のモンマルトルLa rue Norvins, Montmartre サクレ・クール寺院前からパリを望む中央の絵は、左の写真と同じアングルでユトリロが描いたもの『La Rue Norvins, Montmartre』(東京富士美術館蔵)であることを知り、感動を新たにしています(2014.05.10追記)
真っ白のリュクサンブール公園の雪をキュッキュッと靴で鳴らしながら、リュクサンブール宮殿を眺めていると、突如蘇った言葉がありました。「Mais ou' sont les neiges d'antan.」という、かつてシャンソンで聞き、口ずさんだこともある放浪の泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンの『遺言集』の一詩《その上の貴婦人を讃えるバラード(Ballade des Dames du temps jadis)》のルフラン《さはれ、去年(こぞ)の雪、今いづこ》です(ブラッサンスの r の音を響かせたシャンソンが思い出されます。Youtubeでブラッサンスのシャンソンをどうぞ。去年の雪、今いづこ
リュクサンブール公園リュクサンブール公園を横切り、オデオン座からサン・シュルピス教会を覗いた後、サン・ジェルマン・デ・プレに出ました。ジャン・ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワール等が屯していたというキャフェ《フロール》や《ドゥ・マゴ》を横眼で見ながら、サン・ジェルマン・デ・プレ教会に入りました。教会裏にはフュルスタンベールという大変古雅な美しい通りがあり、ドラクロワが住んでいたことを知りました。
フュルスタンベール通り更に進んでビュシ通り10番地にはアルテュール・ランボーが住んでいたというので、詩人の痕跡を探して歩きました(ヴェルレーヌの家は程近いパンテオン裏にあるとか)。テレンス・スタンプ主演の『ランボー:地獄の季節(Una stagione all'inferno)』(監督Nero Risi)というランボーの生涯を描いたイタリア映画を思い出していました。
ビュシ通り10番地ジャン・マリ・カレ著『地獄の遍歴者』(江口清訳、立風書房、1971年10月20日発行)によりますと、
「テオドール・ド・ダンヴィルは放浪詩人のためにビュシ街に学生部屋を借り受け、彼の細君がそこにベッドを運んだ。ランボーはこの夜の宿にたどり着くと、虱だらけの服をいそいで脱ぎ、汚れたシャツを取り去って、それらを一まとめにすると、隣人の驚き騒ぐ中を素っ裸になって窓に近寄り、包みを窓から通りへ投げ捨てた。」
それからしばらくして、そのパリの初宿からモンパルナス墓地脇のカンパーニュ・プルミエール街に、彼の後援者達が金を出し合って屋根裏部屋を借り受けてくれたのだそうです。

ビュシ通りからサン・ミシェル広場に至るサンタンドレ・デザール通りの脇道、passage prive' で始まるコメルス・サンタンドレ通りにパリ最古と言われるキャフェ《プロコープ》がありました。割栗石が敷き詰められたその凸凹の通りは歩きにくく、いかにも古さを感じさせます。ヴォルテール、ルソー、ボーマルシェ、バルザック、ヴェルレーヌ、ディドロ、ダランベール等、文学者達が集まり、談論風発の議論を闘わせたのだそうです。
[シチーリア人 Francesco Procopio dei Coltelli(パレルモ出身)が1686年作ったこのカッフェは、Come'die Francaise の役者の溜り場となり、その後直ぐに文学者や芸術家の集うキャフェとなったそうです。ヴェネツィアにコーヒーを飲ますカッフェが誕生したのは1683年。現在まで存続するカッフェ・フロリアーンが出来たのは1720年。世界最古のキャフェとは《プロコープ》なのでしょうか。]
キャフェ・プロコープコメルス・サンタンドレ通りからジャルディネ通り、レプロン通り、セギエ通り等サンタンドレ・デザール通りの脇道は、中世の面影を残す通りと言われているそうです。

後日、雪も消えてから行ったギュスターヴ・モロー美術館で私が見た物とは――彼がイタリア旅行中に模写したダ・ヴィンチ等のイタリア絵画が、書斎などに飾られていましたが、最上階の大広間正面にカルパッチョの原寸大の『聖ゲオルギウス(S.Giorgio)の勝利』の模写絵があったのです。それはヴェネツィアのサン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館の天井下に描かれた、聖ゲオルギウスが竜を退治する様を描いた、私の大好きなカルパッチョの傑作の一枚だったのです。その余りに正確な模写故に、彼のカルパッチョに対する思いの程が伝わってきます。
ギュスターヴ・モロー美術館 ギュスターヴ・モローの模写 ギュスターヴ・モロー画『ヴェネツィア』そして右は、この美術館のモロー自身が描いた『ヴェネツィア』。聖マルコを表すライオンに寄り添う、都市ヴェネツィアを象徴する女性像。背後はサン・マルコ寺院のクーポラと思われます。モローもヴェネツィアを愛したに違いありません。
  1. 2010/01/23(土) 00:05:51|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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