イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

フェリーチェ・ベアート

フェリーチェ・ベアートの東洋パンフレット、裏面   フェリーチェ・ベアート自写像[右はフェリーチェ・ベアートの自写像]   
《フェリーチェ・ベアトの東洋》展に行ってきました。5月6日まで恵比寿の東京都写真美術館でやっています。2010.02.06日に《イタリアと日本との関わり》として 《フェリーチェ・ベアート》 を書きましたが、その時参考にした10年前の資料とこの展覧会のデータが大分変わっています。主だった変更を図録解説から抽出してみました。10年の歳月の間に新しい発見があったようです。

フェリーチェ・ベアート[Felice(幸福な)Beato(最高に幸せ)という大変めでたい名前]は、実際には1832年(旧資料は34年にコルフ島生)ヴェネツィアに生まれたそうですからヴェネツィア人です。当時のヴェネツィアは10年間のフランス領有後、オーストリア軍が1814年に再度進駐していました(~66年)。34年頃、両親に連れられてヴェネツィア共和国時代はヴェネツィア領だったコルフ(現、ギリシアのケルキラ)島に移住し、成長します。ヴェネツィア共和国が1797年ナポレオンに滅亡させられる等ナポレオン嵐後のヨーロッパの政治的再編を目指し、全体会議は一度も開かれず舞台裏の饗宴外交(映画『会議は踊る』の舞台となった)で事を決めた、1814~15年のウィーン会議の結果、コルフ島はイギリス保護領となっていました。彼は後にイギリス国籍を取得します。ウィキペディアフェリーチェ・ベアトが参考になります。

写真家となってからの行動は知られています。2010.02.06日のイタリアと日本の関わり(1)をご参照下さい。そして日本で実業家の才ありと錯覚して写真家を辞め、事業にも失敗して無一文となり、1884年には日本を後にしました。10年以上前の資料では離日後の軌跡が明確ではありませんでしたが、1887年にはビルマ(現、ミャンマー)に写真家として再登場し、ビルマのマンダレーに落ち着きます。今回の展覧会ではビルマ時代の作品も多数展示されています。マンダレーでは写真スタジオと土産物屋を開業し、木製・金属製・象牙製などのビルマの土産物も販売し、当時インドの一州として観光地となっていたマンダレーの観光客の人気スポットとなったそうです。

ビルマを去り、イタリアに戻り、ベルギーにいた姉妹にも会い、フィレンツェに居を定め、1909年1月29日この地で亡くなったそうです。激動の時代をグローヴァルに活動して、流浪の人生を送ったフェリーチェの出生・死亡記録等を見つけ出した人々に感動しました、データの背後で姿は見えませんが[生死のデータの発見は2009年]。
『フェリーチェ・ベアート』(フェデリーコ・モッタ出版刊)  楽器を演奏する芸者達茶屋の前の護衛役の日本人役人[左はイタリアで出版されたベアートの写真集。手彩色写真左、演奏する芸者達。右、茶屋前の護衛役の役人]
ヴェネツィアのアッサッシーニ埋立て通り(Rio tera' dei Assassini)の古本屋さんで上携の本を見つけ、購入していました。この本屋さんは日本関係の本を結構並べています。この本には、チャールズ・ワーグマンの《日本での生活》や外国人の目に映った《フェリーチェ・ベアート時代の横浜》等のエッセーの中に、Dietmar Siegertの『日本のフェリーチェ・ベアート』という長文のエッセーがありましたので、冒頭の部分を訳出してみました。

「1863年5月21日と28日の“China Mail”通信の旅行者名簿から、フェリーチェ・ベアートがボンベイ・香港・上海航路便で、1863年6月日本に到着したことが知られる。彼の横浜滞在の最初の確証はチャールズ・ワーグマンが1863年7月13日の“Illustrated London News”に発表した報告で得られる。《日本の役人達が私の絵や友人のB氏(フェリーチェ・ベアート)の写真を見に、私の事務所に集まってきた。》

ベアートとワーグマンは阿片戦争中の1860年、支那で知り合った。ワーグマンが戦争終結後“Illustrated London News”のイラストレイター且つ正式の通信員として日本に派遣された、その一方でベアートは、ロンドンで戦争写真売却のため、一度ヨーロッパに戻った。

彼らの商業的結び付きである“Beato&Wirgman, Artists&Photographers”社が香港で毎年発表される戸籍公報の横浜編に、1864年初めて取り上げられた。会社の所在地は、横浜の外国人居留地区24番地の建物に1867年まであった。
横浜外国人居留地図  横浜の丘から見た港のパノラマ[左、橫濱繪圖面。右、横浜の丘から見た、外国人居留地の見える港の風景]
横浜に到着後直ぐに、軍隊を退役したキャプテンだった英国の画家チャールズ・ワーグマン(1832~91)は、1862年“The Japan Punch”誌を創刊した。それは典型的に英国式の、インスピレイションをカリカチュアしたもので、当時広い人気を博した。

ワーグマンはどこへでもスケッチ帳を持参し、道や人物を描き、風俗習慣を深く観察し、税関や船の係留場で出会った興味深い出来事に目を凝らしている。フェリーチェはまだ異国人に知られていないこの国の色々な地方をドキュメントした日本における最初の外国人写真家であった。長崎でも旱魃の時、旧市街の浅瀬の川床や港、出島や新しく生まれた外国人居留地を写真に収めた。

街の上にある丘に昇り、姉妹の夫のジェイムズ・ロバートソンに教えられたテクニックでパノラマな景観を撮した。2~5個のショットで構成し、伝統的なパノラマの画面の超ワイドな画型の中に、平面図法的技法で組み合わせたパノラマ写真は、旅行写真のパイオニアであり、プロとしての能力と芸術家としての資質を最高に表している。

ベアートの写真に付けられたキャプションから富士登山したことが分かる。オランダ総領事のGraeff van Polsbroek(グラーフ・ヴァン・ポルスブルーク) は、ベアートと彼の仲間、パークス夫人と招待客を引き連れたハリー・パークス卿ら全員で富士登山に参加した。パークス夫人はこの骨の折れる試練に耐え、勇気を示したただ1人の貴夫人だった。登攀途中ベアートは、ディルク・デ(Dirk de)・グラーフ・ヴァン・ポルスブルークの護衛役(日本人)らとお茶を飲みに入った料亭、富士山麓の須走(洲走)村を撮影した。しかしそこには、この企画を検討出来る写真情報がない。

この種の遠出が危険を伴わずに行われるのは、いつもという訳にはいかなかった。外国人嫌いや侍の敵愾心を燃やす者のヨーロッパ人への攻撃は日常茶飯事だった。1864年11月ベアートとワーグマン、彼らの仲間の一行は鎌倉で辛くも襲撃から逃れたことがあった。

11月19日横浜を出発した。金沢で一泊し、20日と21日は鎌倉にいた。有名な鎌倉八幡宮や巨大な青銅の大仏像の写真の中に、ベアートやワーグマンの姿も認められる。翌日の11時頃、江の島到着前、英国横浜駐屯歩兵第20連隊のボールドウィン少佐とバード中尉に出会った。ベアートは彼ら2人と長話をした。
鎌倉八幡宮とベアート達鎌倉大仏とベアート達清水清次の晒し首[左は鎌倉八幡宮のベアート達、中は鎌倉大仏前のベアート達、右はベアート撮影の清水清次の晒し首]
数時間後、藤沢の旅籠で一服し、一行は2人の英国将校が鎌倉(鶴岡八幡宮前の襲殺だという)で暗殺されたことを知った。ベアートはその後、暗殺者清水清次の処刑の模様をカメラに収めた。[清水の仲間、武州浪人間宮一も後に捕まり斬首された。]

ベアートが商港から遠く離れた日本内部で、来日初期に見たものは少数の人に記憶されている。幕府は10マイル以上内陸に入り込むことは外国人には禁じていた。その禁令に対しての唯一の対応策は、外交団のグループに潜り込むことであった。スイス公使エメ・アンベールは、江戸での撮影活動は容易くないと書いている。

“我々の右側には薩摩藩の鬱蒼とした、素晴らしい庭園が広がっている……。左側には有馬藩の屋敷を取り囲む高い塀が伸びている……。ベアート氏はこの長閑な景色を撮影しようと準備していた。その時2人の藩の役人が気付き、しようとしていることを止めるよう、口喧しく言い募った来た。Metman は自分達の希望を認めてくれるよう、先ずあなた方の主君の意向を伺って来てくれるよう懇願した……。

数分後役人は帰ってきて、主人は屋敷の一部たりとも撮影することは禁ずると言っている旨告げた。ベアートは深々と頭を下げ、撮影器具を片付けるように仲間達に言った。役人達は満足して引き上げていった、彼らが屋敷に入った隙に写真家は既に2枚のネガを撮っていたことなど疑いもせずに。

我々の護衛役(日本人)は、写真のことには無関心だったが、ベアートの権謀術数には全員賞賛の意を表した。” ……」
  ――『Felice Beato―Viaggio in Giappone 1863-1877』(Federico Motta Editore、 1991.09)より

先日再放送されたNHKテレビ『知られざる決断~尾張藩・徳川慶勝』で、尾張藩主徳川慶勝が写真の技術を独学し、機材を取り寄せ、自ら薬品を調合して、独り貴重な写真群を歴史に残した話は感動的でした。フェリーチェが日本で活躍していた幕末にこんなお殿様がいたとは大変な驚きです。
  1. 2012/03/24(土) 00:00:40|
  2. ヴェネツィアの写真
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イタリアと日本の関わり(2)――アドルフォ・ファルサーリ

アドルフォ・ファルサーリ(1841~98)が日本に姿を見せたのは、フェリーチェ・ベアートから10年後の1873年のことで、それもやはり横浜でした。彼は勉強家で写真の技術を書物に学び、来日10年後の1883年に横浜で写真館を開きました。

その場所は、フェリーチェ・ベアートの写場を引き継いだオーストリア人写真家ライムント・フォン・シュティルフリート男爵(英語風にレイモンド・フォン・スティルフリートとも)、そして彼とヘルマン・アンデルセンの共同経営の後、ライムントの弟フランツのスタジオになっていた場所を譲り受けたものでした。
アドルフォ・ファルサーリ[《アドルフォ・ファルサーリ写真展》が2013.02.23~03.23日、イタリア文化会館で開催。彼の写真は写真展資料から。2013.02.11日追記] 在日イタリア商工会議所発行機関誌『Viste dalla Camera』の“Marzo/Aprile 2000”の“Anno 2 Numero 2”にリーア・ベレッタさんが《明治時代にレンズを向けて(2)――アドルフォ・ファルサーリ(Adolfo Farsari)》と題して、前回の続編を執筆しておられますので参考にさせて頂き、アドルフォの事を書いてみます。

アドルフォはヴェネツィアの北西、ミラーノに向かって60km 程の所にあるヴェーネト州のヴィチェンツァの町に生を享けました。この町は隣のパードヴァ生まれのルネサンス時代の大建築家アンドレーア・パッラーディオが定住し、彼の設計の建物が著名で、かつ旧ヴェネツィア共和国領(現ヴェーネト州)には、彼の手になるものが数多く残存しているため、以前イタリア語の先生にヴェーネトを旅すると言った時、「あなたは“パッラーディオの旅 gita palladiana”をするのか」と言われたことがありました。

アドルフはモーデナ陸軍士官学校に通った後、ナーポリでイタリア陸軍に入隊しましたが、借金が出来たため、家族に無断でアメリカへ渡航しました。米国では北軍に入隊し、南北戦争終了まで闘いました。その後ニューヨークの小金持ちの未亡人と結婚し、子供も生まれ、父親にはアメリカ生活は順調だと手紙に書いたりしているそうです。

その後1867年から音信不通になり、両親は死んだものと諦めていたようです。73年に所在が判明した場所は横浜でした。そして上記のフランツ・フォン・シュティルフリート男爵の写真館を全て譲り受け、写真家としての活動が始まります。

二度の火災で落胆のどん底に沈みましたが、商売は順調に進展し、80年代には写真に手彩色で描く技術を個人的に教えた職人を40人も抱える程の写真館に発展したのでした。

彼の写真の色には現在でも輝きがあり、その写真は着色の質の高さで直ぐそれと分かるものだと言われているそうです。彼自身は外国人旅行者に売る日本の土産写真を増やそうと、日本中を旅して回ったと言います。約100枚の感光板の在庫を抱え、受注で仕事をし、彼のために働く職人が作った漆の表紙のアルバムとして写真を製本したのです。

1887年ヴィチェンツァ時代に親交のあったイタリア海軍将校が横浜港に上陸しての出会いが切っ掛けとなり、ヴィチェンツァの家族との書簡のやり取りが再開し、姉のエンマとの密な連絡が続くことになりました。日本での仕事の事、日本の事、日本人の事、横浜での生活の事等が事細かに書き送られたのでした。

仕事はうまく行っていましたが、横浜での日本人写真家との競争は熾烈で、80年代、横浜に残留した外国人写真家は彼が唯一になるという状況でした。彼の成功は自らが発展させた手描きの着彩技術、誰も真似の出来ない技術のお陰でした。

1889年横浜を通り掛かった Rudyard Kipling という人はインドの新聞にファルサーリの事を書いているそうです。「最高の写真はサイゴンからアメリカに至るまで有名なファルサーリ商会で見付かる。ファルサーリは感じのいい、風変わりな、芸術家魂を持った人で、その作品の質のためにお金を払わねばならないのだが、彼の商品は払うだけの価値がある。通常彩色された写真は大抵の場合、酷いものだが、ファルサーリの彩色はその仕上がりがとてもよく、この素晴らしい国の光のトーンを蘇らせている。……」

彼は姉に帰国すると書きましたが、娘の《きく》だけを連れて帰ることは黙していたので、家族は彼の娘を見た時大変喫驚したと言います。再度日本に帰国するつもりはあったのかどうか、健康状態不調のまま、1898年57歳でヴィチェンツァ郊外で亡くなったということです。

アドルフォ・ファルサーリの写真については次のサイトでどうぞ: アドルフォ・ファルサーリ

話は変わりますが、1915(大正4)年ナーポリの国立東洋語学校(後のナーポリ東洋語大学)の日本語教師となった下位春吉という先生がいました。在伊中、第一次世界大戦に日本人としてイタリア軍に義勇兵として従軍し、最前線の勇猛突撃隊[グラッパでの塹壕戦は『戦場の一年』(エミリオ・ルッス著、柴野均訳、白水社、2001年7月22日発行)が詳しい]でガブリエーレ・ダンヌンツィオと知り合い、《塹壕の友》となったそうです。

戦後春吉は、ダンヌンツィオに日本への飛行を持ち掛けました。ダンヌンツィオはその気になり、準備万端が整い、1919(大正8)年7月先発隊のフェラインとアティエッロが飛び立ち、東京に無事着地、ヨーロッパと日本間の空路を初めて開拓したのですが、ダンヌンツィオとの飛行は、出発間際に中止されてしまいました(irredentismo の後遺症があったようです)。

そのお返しの意味があったのでしょうか、1925(大正14)年7月25日、朝日新聞社の初の訪欧飛行機《初風》《東風》の2機が日本を飛び立ち、同年10月27日、初めてヨーロッパの目的地ローマに着陸しました。

[追記=フェラインとアティエッロの記事について、名前や年代、その他に誤りがあるかもしれません。次のサイトもご参考までに第4回「神風号」までの航空史]

次のブログも参考までに。ヴェネツィアと日本との関係(1)(2)
2013.02.26日にアドルフォ・ファルサーリも書きました。
  1. 2010/02/13(土) 00:02:57|
  2. ヴェネツィアの写真
  3. | コメント:2

イタリアと日本との関わり(1)――フェリーチェ・ベアート

日本の土を踏んだ最初のイタリア人は、やはり天正時代ローマに伊東マンショら四少年使節を送り出したアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539.02.15~1606.01.20)でしょうか。彼はキエーティに生まれ、パードヴァの《ボー》で学び、東インド巡察師として1579(天正7)年7月25日に来日しました[彼については『巡察師ヴァリニャーノと日本』(ヴィットリオ・ヴォルピ著、原田和夫訳、一藝社、2008年7月10日発行)が詳しいです]。
巡察師ヴァリニャーノと日本続いて、伊達政宗の命でスペインに向かった支倉常長のお付きの者として、グレゴーリオ・マティーアスは彼のお供で渡欧(スペインからイタリアへ)し、ローマに行った帰途時、体の調子を崩してジェーノヴァで待つ彼の代理で、ヴェネツィア共和国への贈答品を持参し、敬意の表明に行きました。ヴェネツィア出身の宣教師だったそうです。
Da Sendai a Roma[『仙台からローマへ』(Office Move刊、支倉常長の資料本)] 1643年に来日したパレルモ出身の宣教師ジュゼッペ・キアーラ(1602~1685.08.24)は捕らえられ、江戸に送られキリスト教を棄教しました。転伴天連(ころびバテレン)として宗門改役の監視の下、岡本三右衛門の名前と妻を貰い、十人扶持を給され、小石川の切支丹屋敷を出ることは許されず、83歳まで天寿を全う(?)したそうです(遠藤周作の『沈黙』のモデルの一人、ロドリゴ神父)。

1708年禁教令下の日本に渡来した最後の宣教師、シチーリア生まれのジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(1668~1715.11.27)は直ぐに拘束されて江戸へ送られ、小石川切支丹屋敷に幽閉されました。彼の尋問から新井白石が『西洋紀聞』や『采覧異言』を書いたことは歴史に知られています。
切支丹屋敷跡の説明書[地下鉄茗荷谷駅近くの文京区小日向一丁目24番地の切支丹屋敷跡の記念碑傍に左の説明書が置いてありました]
明治時代、日本政府がイタリアに文化・芸術面で教えを仰ぎ、ヴィンチェンツォ・ラグーザ、エドアルド・キオッソーネ、アントーニオ・フォンタネージ、ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペッレッティ等を《御雇外国人》として招聘したことはよく知られています。

この時代、イタリアでは蚕の病気のためイタリア養蚕業が大問題でした。来日し、内陸まで入り込んで日本の養蚕業の中心地を探し出し、健康な蚕卵紙を購入してイタリアに持ち帰り、最初の経済関係を築いたのはロンバルディーア州の蚕卵業者だったそうです。以来多くの蚕卵業者が日本の土を踏んだと言います。そんな歴史的背景を元に、アレッサンドロ・バリッコが『絹』(鈴木昭裕訳、白水社、1997年5月発行)という小説を書いています。

その明治時代、岩倉具視らが米欧を回覧した時、アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ駐日イタリア全権公使がイタリアでは彼らに付き添ったそうですが、その後継公使となったラッファエーレ・ウリッセ・バルボラーニが1877~81年の公使の任務を終えて帰国した時に、日本のお土産として持ち帰った、日本全国に及ぶ名所旧跡等を当時の写真技術で写した写真集がイタリアに残されていました。それが『大日本全国名所一覧――イタリア公使秘蔵の明治写真帖』(監修マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章、平凡社、2001年6月25日発行)として刊行されています。
大日本全国名所一覧これは明治初期の北海道から小笠原諸島までを、1268枚の各地の景観や建物等の写真で日本全国を網羅したもので、大変貴重なものが数多く含まれているようです。この写真集は単なるスーヴニールの領域を超え、バルボラーニ公使がどういう理由でこれを手にし、持ち帰ったのか判然とはしないようです。私はこの本のディ・ルッソ氏の解説で、当時来日していた2人のイタリア人写真家、フェリーチェ・ベアートとアドルフォ・ファルサーリの名前を知りました(この写真集にはこの2人の写真は含まれていないそうです)。

フェリーチェ・ベアート(1834~1908?)は1863年に来日した写真家で、横浜を栄えある写真の町(下岡蓮杖らも活動していました)に活気付けた功労者の一人だそうです。また長崎にも何度か訪れ、現在NHKテレビの大河ドラマ『竜馬伝』が放映中ですが、その主人公坂本竜馬や高杉晋作らの写真を残した上野彦馬とも交流があり、日本の写真界を牽引した人物でした。

ベアートが誕生したのは、ヴェネツィア共和国時代はヴェネツィア領だったコルフ島(現ギリシアのケルキラ島)で、彼が生まれた1834年当時は、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814-15年――映画『会議は踊る』の舞台)の結果、イギリスの統治下に置かれることになり、イギリス領だったので、彼の両親はヴェネツィア人だったのですが、日本では英語式にフェリックス・ベアトと呼称されることが多いようです。

在日イタリア商工会議所発行機関誌『Viste dalla Camera』の「Gennaio/Febbraio 2000」の「Anno 2 Numero 1」にリーア・ベレッタ(Lia Beretta)氏が『Obiettivo sul Giappone Meiji: Felice Beato(日本の明治時代にレンズを向けて――フェリーチェ・ベアート)』と題したエッセーを書いていらっしゃいますのを参考にさせて頂き、彼について記して見ます。
『フェリーチェ・ベアート』(フェデリーコ・モッタ出版刊)[イタリア刊『フェリーチェ・ベアート』の写真集] 1970年代末、ニューヨークで『日本の写真1854~1905』という写真展が開かれ、その図録と共にフェリックス・ベアトの写真が出現し、また一方で《フェリーチェ・アントーニオ・ベアート》の写真とされる物も出回っていたそうです。

次第に判明してきたことは、フェリーチェにはアントーニオという兄がおり、2人とも写真家で、片やアジアで、片やエジプトでの同時期の写真が発表され、当時の交通手段では無理なことから謎であったようです。ようやく忘れ去られていた写真家の姿にフォーカスが絞り込まれるようになり、現在では彼は19世紀のアジアで活躍した最も偉大な写真家と考えられているそうです。

彼の写真家としてのキャリアは、妹マリーアの夫で写真家のジェイムズ・ロバートソンと共に赴いた1855年のクリミア戦争に始まるのだそうです。

1858年はセポイの乱のドキュメント、60年にはイギリス軍の後を追い、中国に移動、第二次アヘン戦争の英仏軍の公式カメラマンとなります。

アヘン戦争が終結すると、一緒に仕事をしていたジャーナリスト、チャールズ・ワーグマンが日本に渡ったその後を追い、横浜に到着、ワーグマンとの横浜でのコラボレーションが始まります。

絵心のあるワーグマンや日本の職人達の助けで、彼は手彩色のカラー写真を日本に導入しました。それはヨーロッパでは知られていた技法でしたが、普及はしていませんでした。日本では浮世絵の技術に長けた職人達の能力のお陰もあって、大成功を収めたそうです。

1866年、横浜大火で倉庫を全焼し、一からの出直しとなりました。1877年自分はビジネスの才ありと誤解し、写真館をオ-ストリア人ライムント・フォン・シュティルフリート男爵(日本では英語風にスチルフリートと書かれたりします)に譲ってしまいます。そして84年にはビジネスは立ち行かなくなり、無一文で日本を後にしたようです。

1910年以前、ビルマ(現ミャンマー)で亡くなったのではないかと言われています。彼の写真は次のサイトでどうぞ。《フェリックス・ベアト。次のブログヴェネツィアと日本との関係(1)(2)、そして天正のローマ使節(1)~(2)天正のローマ使節(3)~(5)も参考までに。

追記: 2012.03.24日、フェリーチェ・ベアト展を見に行ったことを書きましたが、その図録によればこの時のデータが相当、更新されていることが分かりました[ヴェネツィア生まれ等]。フェリーチェ・ベアートもご覧下さい。
  1. 2010/02/06(土) 00:00:36|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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