イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: グリッティ館他

コルネール小館を更に右へ進むと、右隣にグリッティ館があります。E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を語っています。
グリッティ「16世紀の終わり頃、建てられた後期ルネサンス様式の建物で、ノービレ階中央に露台付きの三連窓がある。グリッティ家は"新しい"家族(家系)の一つで、初期から護民官として活動を行ってきた。そして1200年からの活躍の歴史が史書に明らかである。1400年代には家系が途絶えた。
[ヴェネツィアの上流貴族は"古い"と"新しい"家系に分けられ、新しい家系(case nuove)はバルバリーゴ、ドナ、フォースカリ、グリマーニ、グリッティ、ランド、ロレダーン、マリピエーロ、マルチェッロ、モチェニーゴ、モーロ、プリウーリ、トゥレヴィザーン、トゥローン、ヴェニエール。一方古い家系(case vecchie)は二つに区分され、一つはバドエール、バゼッジョ、コンタリーニ、コルネール、ダンドロ、ファリエール、ジュスティニアーン、グラデニーゴ=ドルフィーン、モロズィーニ、ミキエール、ポラーニ、サヌード、もう一つはバロッツィ、ベレーニョ、ベンボ、ガウリ、メンモ、クェリーニ、ソランツォ、ティエーポロ、ザーネ、ゼーン、ズィアーニ、ゾルズィの各12家となっているようです。]

他の貴族の全ての家系のように、セレニッスィマに有能な政治家を送り込んだ。中でも最も重要なのは、ルネサンス期の典型的な人物、アンドレーア(1455~1538)であった。
ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』[ティツィアーノ画『アンドレーア・グリッティ像』]  他国語を数多く話し、教養豊かであった彼は、また商業・軍隊・外交の領域で多様な才能を発揮した。肖像画で見るように体格的にも素晴らしく――そうした肉体派の一人として――ティツィアーノが描いた。晩年まで彼の人生を活気付けた女性達の強烈な恋人像であったし、彼が認知した庶出の息子達が何人もいた。

彼は長年ヴェネツィアから遠く離れた土地で生活してきた。特にコンスタンティノープルである。そこでスルタンの信頼を得ていたのだが、1497年セレニッスィマの情報提供者ということが咎としてあったのか、投獄されたのだった。しかし不興を買った訳ではなく解放され、1503年にはトルコとの和平交渉をする程だった。

50歳代になって祖国に帰り、重要な役職に就任し、1523年には功績で総督に選ばれた。しかしながら彼の庶出の息子達が原因で、その選挙への反対者が沢山いた。というのは元老院でアルヴィーゼ・フリウーリが、"この職はトルコで3人もの庶出の息子を作るような人間がいるべき状態にはないのだ"と、異議を唱えたからだった。

彼の総督在位期間、アンドレーアは海からの危機、即ちトルコからの危機に直面せざるを得なかった。更に陸からも全ヨーロッパを巻き込んだフランスとドイツの確執が押し寄せた。というより、むしろ総督になる前、彼はフランス人に投獄され、パリに連行されたが、こうした危険極まりない重大局面でも、何とか生き延びて来たのだった。

1525年に元老院全員が唖然としたことは、引き続く二つの公聴会で総督アンドレーアは、最初フランスへの大使を受理し、皇帝カール5世(Carlo Ⅴ)によりパヴィーア戦争で拘束されたフランソア1世(Francesco Ⅰ)のために熱い涙を、この人物に対して見せたことであった。直ぐ後にドイツ大使を引き受け、フランソア1世に対するカール5世の勝利を彼と共に喜んだ。

そして歓喜して元老院に報告したのである。彼は喜びに沸く人々と共に喜び、苦しみに悶える人々と共に涙する……と言った聖パウルスの言葉に忠実に従ったのだ、と。

強い、決断力のある性格であり、中でもかつて1172年許可され、彼の先任者誰も公に禁じようとしなかった、サン・マルコ小広場の2本の円柱の間での賭博を禁止したのである。

偉丈夫で精力旺盛、絢爛たる魅力の二枚目であった彼は、また大食漢でもあり、当時の人には、今日のように一般的ではなかった大蒜や玉葱に丸で目が無かったと言われている。彼は病気ではなく、串焼きにした鰻を鱈腹食べ過ぎ、83歳で亡くなった。」
ポラッコ館ホテル・カナル・グランデニーグラ館[中、写真中央、ホテル・カナル・グランデ]  グリッティ館を過ぎますと、倉庫に使用されている建物2棟、20世紀の住宅用の建築等2棟と続き、やはり20世紀建築のCasa Polacco があります。現在はこの建物は右のサン・シメオン・グランド広場からアクセス出来るHotel Canal Grande となっているようです。更に右の20世紀住宅を越えると大運河前が庭となったCasa Nigraとなります。
ジェノヴェーゼ館この建物は建築家ジョヴァンニ・サルディが1904年に建てたネオ・ゴシック様式の建物だそうです。ネオ・ゴシック様式の建物といえば、同じ左岸のサルーテ教会手前にある、サルーテ教会の景観を遮るように建つので評判の悪い、大きな建物ジェノヴェーゼ館(左写真――トゥリコーミ・マッテーイ、1892年建設。現在チェントゥリオン・パレス・ホテル)もそれです。
  1. 2017/07/20(木) 00:06:44|
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ヴェネツィアの建物: Palazzo Zen、 P.Corner等(ゼーン館、コルネール館)

マルチェッロ館を過ぎ、更に右に進みますと、ゼーン(ゼーノ)館となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように教えてくれます。

「ここには1849年のオーストリア軍の砲撃で破壊された古い建物が建っていた。その後、拡張され、再建された。建物は非常に簡素で入口大門とは際立って、上中央部の脇に置かれた長方形の窓がある。

ゼーン家は古い家柄で現在も存続し、著名な人物を輩出し、総督一名も出した。レニエーロ(1253~68)で、彼はレヴァントでジェーノヴァとの商業戦争を不誠実な行為として終りにしようと決め、敵対する相手に最初の戦いを開始した。
ゼン館海軍大司令官として、ヴェットール・ピザーニ以外にカルロ・ゼーンがいた。彼はある嵐の夜、自分の配下とヴェネツィア海軍の援助を得に駆け付けた。そして敗退するまで作戦を指揮し続けた。その時の事である、海兵達が気付いたのは。彼が咽喉に突き刺さった矢を、荒々しく引き抜いたので正に出血のあまり窒息死しかねない状況だったのである。

ヴェネツィアがジェーノヴァとの平和協定を結ぶために、傷が癒えて、栄光に包まれた彼を派遣して彼を称えた。続いて、彼は英国と仏国の外交使節となった。最後にまた、今度はテッラフェルマ(本土)でのパードヴァとの戦争に送られた。

しかしいかなる理由で、突如裏切りの罪で投獄されたのか分明でない。2年後自由の身になったが、哀れゼーンは輝かしい履歴にも拘わらず、寂しく引退し、我が家で生活することも拒絶された。

彼の死に際して、ヴェネツィアは彼の事を思い出したのである。彼を死装束に着替えさせた時、30にも余る傷で彼が苦しめられた瘢痕の多くは確かに酷いもので、彼の傍で戦った者達も気付かないものであった。人々は死後になってようやく、彼の偉大さに敬意を払い、葬列に加わったのだった。」

ゼーン館を過ぎ、更に右、2軒先に、ドナ・バルビ館があります。エレオドーリの『大運河』(1993)は次のように言っています。
コルネール館「17世紀の大きな建物で、非常に古い構造を利用して建てられたもの。ファサードの開口部である窓の配置が、普通でないことを示している。それぞれの階の窓は、右の四連窓から左端の一面窓へと、減少数でグループ化して配置されている。今日、教育監督局の所在地である。」

更に右の20世紀住宅の先に、コルネール小館がある。やはり『大運河』(1993)の記述に従います。

「16世紀後半の建物である。ルネサンス初期の優雅さと軽やかさを持っている。ファサードは非対称で、開口部は左に集中している。コルネール家、あるいはコルナーロ家は古い四福音史家(or福音書記者)家族の一家で、ヴェネツィアを立ち上げた基の家族である。非常に重要な一家で、共和国の生活には多大の影響を与えたのであり、大運河に建つ壮麗な建物の多くは、この名前と繋がっている。

[四福音史家家とはマタイ(Matteo)、マルコ(Marco)、ルカ(Luca)、ヨハネ(Giovanni)を称する、ジュスティニアーン、コルネール、ブラガディーン、ベンボの4家。因みに十二使徒、ペテロ(Pietro)、ゼベダイの子ヤコブ(Giacomo di Zebedeo)、ヨハネ(Giovanni)、アンデレ(Andrea)、ピリポ(Filippo)、ヤコブ(Giacomo)、トマス(Tommaso)、マタイ(Matteo)、シモン(Simone)、バルトロマイ(Bartolomeo)、タダイ(Taddeo)、イスカリオテのユダ(Giuda Iscariota、後マッティアMattiaに変更)を称する家は、コンタリーニ、ティエーポロ、モロズィーニ、ミキエール、バドエール、サヌード、グラデニーゴ=ドルフィーン、メンモ、ヴァリエール、ダンドロ、ポラーニ、バロッツィの12家。金色の長いストーラ(stola頸垂帯)を肩から膝まで垂らし、サン・マルコの騎士と世襲で称する権利を有する、騎士勲位を持つヴェネツィア三大名家は、コンタリーニ、クェリーニ、モロズィーニ。コルネール家はこのコンタリーニ家から出た家だそうです。]

1300年代コルネール家は、驚異的な財産を獲得した。スィニョリーア政庁は2人の兄弟にレヴァントで大々的に事業を遂行し、結婚すれば、“妻達が少しはお金を使う手助けをしてくれるから、そうするようにと勧めた”。

4人の総督を輩出した。その一人、やる気のなかったジョヴァンニ(1625~29)は、重い任務から遁れようとした。しかし共和国の財産のために、彼の肉体的精神的状態がそれに堪え得るなら、権力の座を行使するようにきっぱり要求された。傭兵隊長に戦場から退却するのか、お前は?ということである。哀れジョヴァンニはその暗に仄めかされた恫喝を悟って、総督の座に登ることを諦めたのだった。

しかしこの一家の名前が知られていたことは、譬え著名という事でないにしても、それはカテリーナ(1454~1510)の名前で明確である。コルネール家は塩とキプロス島での砂糖農園の専売権を得ていた。政庁の委員会に、島の為政者ルズィニャン家にたっぷりと財政援助をしており、ピスコピアの領地を与えられていた。

それ故驚くには当たらないのだが、17歳のカテリーナがジャック・ルズィニャン(Jacopo Lusignano)王に嫁いだのである。更に総督トローンは、この結び付きの月下氷人として彼女を“共和国のお気に入り娘“と呼ばせ、この結婚式に政治的お墨付きを与え、将来におけるヴェネツィアの優位性の基をキプロス島に築き上げた。

1年後ジャック王が没し、続いてカテリーナの産んだ息子が父の後を追った。豊穣であり、戦略的土地でもあるキプロス島での支配力を強めることを決めていたヴェネツィアが圧力を掛けたが、カテリーナは退位するつもりはなかった。

これはヴェネツィアの長い歴史の中でも、唯一の事であるが、一人の貴族が元老院の命令に従うことを拒絶した。筋から言ってもそれに従うことは、外れていたのだから、政庁は狡猾な策略を弄したということ。結局最終的には、強硬手段だった。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』アーゾロ案内ジェンティーレ・ベッリーニ『カテリーナ・コルネールの肖像』[左、ティツィアーノ画『カテリーナ像』、中、アーゾロのガイド、右、ベッリーニ画『カテリーナ像』]  それは1488年のある日、フランチェスコ・プリウーリ率いる武装した艦隊がファマグスタ(伊語Famagosta)の沖合に現れた。使者が女王にトルコ軍が島を攻撃する準備をしていると告げた。カテリーナはヴェネツィア生まれではなかった。他に方策がないと知り、自分の運命に従った。ヴェネツィアに威風堂々と戻され、彼女はクッションに王位の笏と王冠を置き、総督に渡し、アーゾロの地に引退した。そこは彼女に与えられたものであり、芸術家や文学者に囲まれて生活した。

総督コルネールに関する興味深い記述がある。ヴェネツィアでは、鬘のモードはコッラルト(Collalto)の地の誰かがフランスから持ち帰ったものだった。1668年十人委員会は、この風習に対する通達を出した。しかし当時から、各種意見や保守主義者の不平不満があったが、鬘は抑えようもなく広まっていった。ある歴史家はこんな風に嘆いている。“…1500人の鬘…作法を行使する時、彼らは信用され、部屋のドアが開けられる。そして婦人方や乙女達の奥まった深窓の扉も開けられる。彼らは同様に、厚顔無恥のキューピッドの恋の使者であり、善意は見てくれだけの破廉恥な女衒なのである。”

鬘を被る全ての人に税金を課した1701年の通達にも拘わらず、それを身に付けた最初の総督は、1709年のジョヴァンニ・コルネールであり、最後の貴族は1757年に亡くなったアントーニオ・コルネールであった。」

[カテリーナ・コルネールについては、2013.03.23日からカテリーナ・コルナーロ(1~3)で触れました。]
  1. 2017/06/15(木) 00:03:44|
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ヴェネツィアの建物: Ca’ Correr(カ・コッレール)他

トルコ人商館を右へ進み、サッカルド館を過ぎると、コッレール館です。E.& W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの館を次のように述べています。
カ・コッレール「1600年代の簡素で倹しい建築で、長方形のペアの窓が、玄関大門と上の露台付きのアーチの窓の脇に置かれている。コッレール家は非常に古い家柄で、既に9世紀には共和国政府の重職に就いていた。1297年の黄金文書に記載されており、そこから高位聖職者が輩出し、その中にはグレゴリウス13世(1406~09)となったアンジェロがいる。
[彼には苦行僧の面影が強かったそうです。この記述には間違いがあり、アンジェロ・コッレールはグレゴリウス12世となり、在位1406~1415年で、教会大分裂の混乱期の教皇でした。グレゴリウス13世(1572~85)は、天正遣欧少年使節に謁見し、ユリウス暦を廃し、グレゴリウス暦を採用したことで特に有名です]

彼は外交的才能が豊かであったが、総督としての能力はなかった。ヴェネツィア人は生来の用心深さと警戒心から、教会にべったり傾いた一家に属する人間を総督として選ぶようなことは先ずしなかった。譬え無関係の立場を維持する決意が表明されても、一人の貴族が宗教生活を選ぶなら、そのような人物は直ぐに元老院から追放されるし、高位聖職者の職務を引き受ける前に、ヴェネツィア人としては政庁の承諾を得る必要があったのだ。
[彼は1406年11月30日教皇に選出され、1415年教会の安定を願ってリーミニに隠棲、1417年8月18日レカナーティで亡くなりました。]

この館でテオドーロ・コッレールが1750年12月12日に生れた。彼は1830年現在サン・マルコ広場の新行政館にある、あの素晴らしい美術館を設立した。」

更にボーイア館(Boia=死刑執行人)等を過ぎて、ジョヴァネッリ館となります。『大運河』(1993)の記述は下のようです。
[かつてアパートを借りたテースタ通り、ラルガ・ジャチント・ガッリーナ通りから北へ入り、直ぐ左の角の6216番地の建物壁面に大きな顔の像が嵌め込まれており、1400年代死刑執行人が住んでいたと言われています。当時その像の口に、死刑になった人についてのコメントが挿し込まれたものだ、とか。このボーイア館にもそんな話があるのでしょう。]
ジョヴァネッリ館「恐らく15世紀半ばに遡る、中央に美しい四連窓があるゴシック建築である。オリジンはフォスカリーニ家で、ジョヴァネッリ家が1700年代、後を継いだ。現在は国鉄の事務所が入っている。ジョヴァネッリ家はハンガリーで鉱山業を営み裕福になった、ベルガモ出身の一族である。その功績で貴族に叙された。

その後ヴェネツィアに到来し、1668年の黄金文書に記載された。“お金”で貴族になったのである。共和国には3人の著名なサン・マルコ財務官を送った。」

そしてサン・ザン・デゴラ運河やリッツォーリ館等を越して行きますと、マルチェッロ小館となります。[サン・ザン・デゴラ(S.Zan Degorà=伊語San Giovanni Decollato(サロメによって首を刎ねられた聖ヨハネの意)教会が奥にあります]。『大運河』(1993)は次のように言っています。
マルチェッロ小館「ノービレ階(主人達が使用する階)が唯一つの小さな建物である。その階は中央のセルリアーナ式一面窓に楣式(まぐさ)構造の軒蛇腹が内接してアーチ枠で支える一面窓が両脇に置かれている。17世紀の建物では普通の事であるが、建築はその世紀半ばに始まった。

マルチェッロ家は栄えある古代ローマ起源の、同名の一族である。一家からは2人の総督が出ている。第2代総督テガッリアーノ(717~726)であり、初代・2代2人の内のこの2番目は、ヴェネツィアがビザンティンから政治的に自由になる前、バシレウス皇帝の是認を受けていた。そしてニコロ(1473~74)である。

しかしこの一家がヴェネツィアに輩出した数多い著名な将軍や政治家の中で、その名が燦然と光り輝くのは2人の兄弟音楽家の栄光故である。アレッサンドロ(1684~1750)と更に有名なベネデット(1686~1739)である。

ベネデットはマッダレーナ運河のマルチェッロ館で生まれた。いかなる貴族であったか、ベネデットの生活は共和国の政治に向けられていた。事実彼は重要な職務を熟した。ポーラ(スロヴェニアのPula)の施政長官、そして四十人委員会の仕事、それ故音楽は彼の単なる趣味(情熱)だった。

誇りの中に彼を駆り立て、彼を暗中模索から引き摺り出したのは、父親だった。ある日、既にヴァイオリンの名手だったアレッサンドロがお客達の前で演奏し終わった後、父がベネデットに言った。「お前だって、楽器の収集家ぐらいにはなれるよ」と。

この時以来、この若者は兄に劣らぬ姿を示したのだった。複雑にして、相矛盾する楽曲、生き生きとしてファンタジックな想像力でありながら、内向的でメランコリックな着想、彼はいくつかの作品、今日でも評価され演奏されるオーケストレーションされた楽曲や称賛さるべき詩編歌を書いた。

彼は鋭く、辛辣な評論家としても登場する。彼は芸術的霊感と呼べるに値するやり方で恋をした。ある夜、窓辺を近所の人数人が乗った船が通りかかった。その中に素晴らしい声の娘がいた。ベネデットにはその音楽は、自分の目指すものと同じと思えた。そこで下へ降りて、ゴンドラの人々と合流し、歌手を知った。彼女をレッスンし、結婚することになる。

ある日、相当後の事だが、教会にいた時、墓石が倒れ、彼は膝から穴に倒れ込んだ。起き上がったが、彼の少々特異な性格から、この事件が強迫観念になり、言うに言えない警告となってしまった。このため音楽を捨て、宗教書に没頭するようになった。53歳で亡くなったが、その時ブレッシャの財務官で、青年時代の病が悪化したのだった。

彼の遺書は相続人や子孫に音楽に携わることを禁じている。」
[マルチェッロについては、2008.12.27日のサンタンジェロ劇場や2014.08.14日のマルチェッロ館等、色々触れてきました。Youtubeにマルチェッロの有名なオーボエ協奏曲があります。この作品は現在兄アレッサンドロ作と同定されているそうです。]
  1. 2017/06/08(木) 00:05:46|
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ヴェネツィアの建物: Palazzo Bellon Battagia(ベッローン・バッタージャ館)他

カ・トゥローンを更に右へ進むとベッローン・バッタージャ館となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように言っています。
メージョ倉庫他「海軍最高司令部のシンボルである2柱の方尖塔が見えるので、それと分かる建物である。館はバルダサーレ・ロンゲーナが1645~48年に建てた物で、それ以前にあったゴシック様式の建物を改築したもの。規模を縮小したにも拘わらず、装飾的要素が豊富で、バロックのファサードを特徴付けている。

即ち、浮き出た曲線のティンパヌムは区切られて、コンポジット式の扶壁柱で支えられ、壁面を活気付ける木目模様や大理石の二つの大きな紋章で2階窓の枠取りを構成している。内部は19世紀に再び手が加えられ、ジュゼッペ・ボルサートとジョヴァンニ・バッティスタ・カナールのフレスコ画が保存されている。

今日、イタリア貿易振興会が入っている。

バッタージャ家はロンバルディーアから到来した一家で、スフォルツァ家と縁続きであり、1500年頃貴族を許された。その時ピエートロ・アントーニオはクレモーナ城の城主であったが、セレニッスィマ共和国の要塞を任されていた。その機会にヴェネツィアは彼に大運河の館を与えた。

この一家から多くの著名な軍人が輩出し、ジェローラモは1667年カンディア(クレタ島の港)の施政長官であった。1604年ピエートロ・パーオロ・バッタージャは酷い不和のために兄弟のジャーコモを人手に殺させたが、その夜にはあるパーティから帰宅したのである。」

その右隣はメージョ(Megio=伊語miglio(粟)、biada(飼葉)の意)倉庫です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような説明をしています。

「15世紀の建物で、粟や飼葉等、即ち広い意味で穀類の貯蔵倉庫として共和国が使用した。何世紀もの間に、1階の三つの大門と上の階の、3層のアトランダムに置かれた小さな窓がある簡素なファサードの素の煉瓦の赤い色がくすんで来た。全て白い大理石が打ち込まれた、狭間胸壁仕上げで洗練され、中央にはセレニッスィマ共和国のシンボルである有翼のライオンを彫った大きな大理石の板が置かれている。

共和国には、穀類が充分足りている事を確認することは日常的な必須事項であった。それ故、係の執政官は常に在庫量をチェックしていた。飢饉の酷いある期間には、いつもの無遠慮な現実感覚で、彼らは正に穀物獲得のためには海賊行為にまで赴いたのであった。」
[ヴェネツィアの穀物倉庫については、2013.02.23日の飢饉や2014.03.26日の小麦倉庫で触れています。]

更に右はトルコ人商館(Fondaco[=ヴェ語Fontego] dei Turchi)です。今度はR.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)の記述を借ります。
トルコ人商館「今日トルコ人商館として知られるこの館を、1200年代ヴェーネト=ビザンティン様式で建てさせたのは、一人の商人貴族であったペーザロ領事のジャーコモ・パルミエーリという人物だった。

オリエントや西欧の商品、大量の生姜や胡椒の袋、中国絹やイングランド布の梱を大きなガレー船が着岸して、陸揚げが可能なためにわざわざ作らせたと思われる。1381年共和国が手に入れ、フェッラーラ侯ニコロ・デステに、キオッジャ戦争の時に彼が示した忠誠のために与えた。その時以来、館はエステ家の一種の流動的財産となり、関係に罅が入るとセレニッスィマは押収し、改善されると戻された。

こうして1483年、フェッラーラは後背地に領土拡張政策をするヴェネツィアに反対し、1509年にはカンブレーの反ヴェネツィア同盟に加わった。共和国は著名な外国の訪問客とそのお付の家来を歓待するのにこの建物を利用した。

1438年2月のフェッラーラ宗教会議の折、ビザンティン皇帝パライオロゴス公ヨハンネス8世(Giovanni Ⅷ Paleologo―在位1425~48)が、2ヶ月以上の船旅でコンスタンティノープルからギリシア正教会総主教と650人以上の聖職者に付き添われ、館に宿泊した。

館にはパンドルフォ・マラテスタ[リーミニの狼と呼ばれた、リーミニ領主シジズモンド・パンドルフォ・マラテスタ]、ヴァラキア王[古代ダキアDaciaと呼ばれたルーマニア南部の王]、ポルトガルのペドロ卿――女達をバルコニーに呼び出すように喇叭手やファイフ奏者が前触れ役で奏し街を回った――ハプスブルク公フリードリヒ3世(Federico Ⅲ d'Asburgo)、アンジュー公ルネ(Renato d'Anjou)、ポーランド王妃ボーナ・スフォルツァ等が宿泊した。

17世紀初めになって、トルコ人が滞在するためやって来た。その時、新しい所有者であった総督アントーニオ・プリウーリ(1618~23)が、トルコ商人に貸すことを決めた。政庁が何年も前から考えていたことは、トルコからだけでなく、コンスタンティノープルの君主に従う、あらゆる地方からやって来る商人、事業家、色々事業を企む人々を一つの場所に纏めて、集めたいと考えていた。

門と窓はイスラムの習慣で閉じられ、モスクと風呂が設けられた。しかしキリスト教徒の女や若者の入館の禁止は、トルコへの偏見が執拗だったことを示している。オリエントとの交易が下火になり、商品数が減少し、結果賃借料の利益が減り始めた。建物の状態も悪化し、1732年には建物の崩れも大きくなった。トルコ人は1838年まで住み続けた。最後のサッド=ドゥリズディとかいう人物は、マニーン家がペーザロ家から遺産として得たこの建物から、出て行かざるを得なかった。

1860年以来、市の所有となり、博物館となった。最初はコッレール市立美術館、続いて自然史博物館である。」
  1. 2017/05/25(木) 00:02:49|
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ヴェネツィアの建物: プリウーリ・ボン館他

サン・スターエ教会を右へ進むと、プリウーリ・ボン館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように紹介しています。

「13世紀終わりか14世紀初めに遡る、小さいながら興味深い建物である。高く持ち上がった1階大門(一部は塗り込められて壁になった)のヴェーネト=ビザンティン様式からゴシック初期様式への推移が理解されるが、2階の五連窓に真似た、5ヶのビザンティン式の大門は上部が屈曲し、一種の尖塔状である。
プリウーリ・ボン館プリウーリは“新しい”家系の一家で、ヴェネツィアに著名な司法官や軍人を輩出した。現在も存続する一族である。バルバリーゴ家としてプリウーリの2人の兄弟は、続いて総督宮殿の王座に就いた[マルコ(1485~86)、アゴスティーノ(1486~1501)の事]。

最初のロレンツォ(1556~59)は大変な威信と権力を得たが、父親は不幸にも息子の邪悪さが心配のあまり、死んでしまった。彼の後任となったのは弟のジローラモ(1559~67)で、彼は正に熟慮の人であり、元老院の多数から尊敬された。というのは彼自身慎重で、冷厳な人物であり、貴族階級に対し、厳しい姿勢を貫き、人々は、彼は彼の一族の一人の非行に対して責任がある、そういう一家の一員であるとは考えなかった。3番目の総督アントーニオ・プリウーリは教養ある法曹家だった。」

プリウーリ・ボン館の右隣は、バッキーン・デッレ・パルメ館前部に庭があり、更にその右はドゥオード館です。エレオドーリの『大運河』は次のように述べています。

「14世紀終わりから15世紀初めにかけてのヴェネツィア・ゴシック建築の変遷の様相を示す、屋根裏部屋を持つ小さな建物である。ピアーノ・ノービレ(2階)の中央に屈折したアーチの美しい四連窓が開け、露台が突き出して、両脇に一面窓を従えている。1階と中2階は次の世紀に模様替えされた。左隣には壊れたコンタリーニ館の庭(バッキーン・デッレ・パルメ館前部の事)がある。

ドゥオード家については1000年代から史料があり、数多くのキャプテン達が何世紀にも渡って一家の名声を高めた。1704年、ピエートロの死が大きなスキャンダルになった。修道女の嫉妬のために、パーオロ・ドナに殺されたのだった。」

更に右隣はトゥローン館です。前掲書の記述を借ります。
ドゥオード館ほか「16世紀終りのルネサンス様式の美しい建物である。この建物以前の、非情に古い建物の上に建てられた。トゥローン家が10世紀にサン・スターエ教区に属すると確認されて以来のことである。ファサードは露台で強調され、柱の上のアーチとなった大きな五連窓[写真で見る限り、四連窓に見えます]で、2階、3階の中央に開けている。そして一面窓で両脇を固めた[四連窓の両脇に一面窓、更にその両脇に一面窓がバランスを外してあるように見えます]。現在は建築大学が入っている。

トゥローン家はヴェネツィア起源の“16護民官家”の一家である。裕福で影響力のある一家であったが、トルコとの戦争に凄まじい量の血を注いだ一家でもあった。総督ニッコロ(1471~73)は優秀な政治家で、当時17歳だったカテリーナ・コルネールがキプロスのルジニャン王ジャック2世との結婚に際しては大変面倒を見た。この重要な島とヴェネツィアの合法的な合併を画策し、事実そうなったのだった。

彼は市民達から珍しい贈物を貰った。それは、“トゥローン総督閣下は性悪だが善人だ”、という呼称である。彼はサンタ・マリーア・デイ・フラーリ教会に葬られ、墓の彼の像は主祭壇の左に置かれた。大きな口髭を目にすることが出来るが、それは彼の一人息子が死んだ時、生えるに任せ、永遠の喪に服する印として決して剃らなかったものである。

トゥローン家の権威と富は斯くも大きなものであったので、1775年皇帝ヨーゼフ2世のヴェネツィア訪問の折には、自分の館にお招きし、豪華な晩餐会の後、有名なパーティを催す栄誉を許されたのだった。サン・スターエ教区のトゥローン家は1800年ヴィンチェンツォで血筋が途絶えた。」
  1. 2017/05/11(木) 00:21:53|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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