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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア: 『失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語』

ヴェネツィアの作曲家アントーニオ・ヴィヴァルディについて、今迄何度か触れていますが、彼の作品が現代に蘇る過程を文芸作品にしたものがあることを知り、読んでみました。20世紀以前、パリでプレイエル等で定期的に開かれていた演奏会で能く演奏されていた曲に『四季』があったそうですが、曲名は知られていても作曲家の名前は忘れ去られていたそうです。そんなヴィヴァルディが復活したのは20世紀です。
失われた手稿譜自筆譜が発見され、世界的に蘇ったのです。フェデリーコ・マリア・サルデッリ著『失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語』(関口英子・栗原俊秀訳、東京創元社、二〇一八年三月二十三日)は、ヴィヴァルディがヴェネツィアを去り、ウィーンに向かった後、ヴェネツィアに残された弟のフランチェスコ達から物語は始まります。

自筆譜発見について、最終章《出典に関する注記》の中で著者は次にように言っています。
「……こうして二十世紀の出来事に至るわけだが、この時代については歴史的な証言が豊富に残されている。史実が空想を超えるというのは、しばしば起こることなのだ。一九二五年、ボルゴ・サン・マルティーノに建つサン・カルロ修道院サレジオ会士に、マルチェッロ・ドゥラッツォの貴重な手稿が寄贈された際、手稿は堆肥を運搬する荷車に積まれ、そのまま無造作に地面へ直接投げ出され、《ページがめくれ、湿気を帯びた》状態で山積みにされた。これは決して、聖職者に対する私の反感から生まれたほら話ではなく、アルベルト・ジェンティーリの娘であり音楽史家でもある、ガブリエッラ・ジェンティーリ・ヴェローナによる詳細な報告を典拠としている。

彼女は、一連の経緯について当事者たちにインタビューをした後、その内容を丁寧に論文にまとめている(トリノ国立図書館のフォア=ジョルダーノ・コレクション)。同修道院のサレジオ会士たちが、ドゥラッツォの寄贈書をかくも丁重に受け入れたあと、それをすべて売り払って荒稼ぎした経緯は、トリノ国立図書館の未整理の文書ファイルに保管された多くの書簡によって証言されている。

一方のサレジオ会士は、この重要な譲渡について伝える書類を一切保存していない。ペレーラは、ヴァルドッコの文書館に自ら調査に赴き、素晴らしい研究書《ヴィヴァルディ、第五の季節》にその成果をまとめている。これは、その大半が未発表の史料を活用しつつ、手稿譜の再発見に至る経緯を語った書籍である。
……
ルイージ・トッリとアルベルト・ジェンティーリの二人(とくに後者)は、一連の経緯における真の英雄である。今日の私たちがヴィヴァルディの音楽を知ることができるのは、二人の嗅覚と知性、そして公共の利益のために手稿譜を国有の財産にしようとした不屈の努力の賜物である。現代の聴衆が、ヴィヴァルディの音楽に耳を傾けるとき、二人の偉大な男の努力に思いを馳せることはほとんどない。

言ってみれば、私の本は彼らの功績に捧げられた、ささやかなオマージュである。トッリとジェンティーリ(さらに、ヴィヴァルディの発掘作業において重要な役割を果たした貴族にして司書、ファウスティーノ・クルロ侯爵)に関する記述はすべて、豊富な史料、手紙、当時の新聞記事などから抽出されている。ただし、ベルギー人のトラピスト修道士をめぐる謎かけのエピソード(ヴィヴァルディの発掘とはなんの関係もないものの、クルロ侯爵の内部で燃えさかっていた紋章学・書誌学への情熱をスケッチするには有益といえる挿話)には典拠があるのに対し、ジェノヴァ出張について書かれたクルロの日記は私の創作である。

とはいえ、クルロ自身が記した言葉や経緯が、私の《創作》の根拠になっている。クルロ侯爵の手による、タイプライターで書かれた詳細な報告書には、一九二七年十一月十一日から十七日の日付が入れられ、《“マウロ・フォア”コレクションを補完するその他の手稿を探すためのジェノヴァ出張》という題がつけられている。

統帥の前でトッリが文飾に満ちた大仰な演説を披露する場面でも、残念ながら、私の創作によるものは一切ない。あの演説は、フォア・コレクションの発見が公にされてから三年後に書かれた、トッリ本人による論説記事のなかの言葉であり、原文はさらに大仰で文飾に満ちたものである。基本的に、ジェンティーリ、トッリ、クルロと、彼らの通信相手とのあいだでやり取りされた書簡や電報は、先にも触れたトリノ国立図書館の文書ファイルに保管されている真正の史料からの引用である。……」

今迄ヴィヴァルディについては、2010.04.03日のヴィヴァルディとアンナ・ジロとか、2011.12.17日のティツィアーノ・スカルパ、また2008.07.15日のヴェネツィア室内合奏団、2013.10.12日の大島真寿美等で、色々に触れています。
  1. 2020/11/17(火) 00:10:49|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア: 小説『イタリア・ルネサンス Ⅰ ――ヴェネツィア』

塩野七生さんの小説『イタリア・ルネサンス Ⅰ ――ヴェネツィア』(新潮文庫、令和二年十月一日)の広告を見て、早速購入しました。この小説は朝日新聞社から出版された『緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件』を大幅改稿、改題されて、今度は文庫の形で出版されたようです。主人公のマルコとアルヴィーゼがヴェネツィアとコンスタンティノープルの間を行ったり来たりするので、ヴェネツィアらしい描写はあまり見かけませんでしたが、次のようなヴェネツィアならではの文章がありました。
イタリア・ルネサンス 1「ヴェネツィアが都市として形づくられたのも、潟の中でも地盤の強固な島の集まるリアルトと呼ばれる一帯で、この一帯にある島々を橋をつないでできたのが、今日でも見るヴェネツィアだ。だから、ヴェネツィアの運河は、はじめから運河としてつくられたのではない。もともと島の間をぬって流れていた水流が、両側をかためられることによって生かされ、運河となって流れているだけなのだ。

一見すれば一面の海にしか見えない潟の中にも、天然の水流が網の目のように通っている。その通りをよくすることは、船の運行のためだけではなく、衛生上でも重要な仕事だった。

川から流れ込む淡水は、意外と腐りやすい。これがよどんでくると、マラリアの温床になる。海からの潮の満ち干も考えて、潟の中の水が常に流れている状態にすることは、水の上に住むヴェネツィア人にとっては、至上の命令でもあったのである。

しかし、潟の中を流れる天然の水流にも、大型船も通れる水深十メートルもあるものもあれば一メートルにも満たない浅い水流もある。それだけでなく、満潮のときは海水におおわれてわからないが、干潮時には水面に顔を出す、浅瀬も多いのが潟の特徴だ。

これでは、少し油断すると、ゴンドラでも泥地にのりあげてしまうことがある。それで、ヴェネツィアの潟には、海中にずっと、水の杭が並んでいる。舟の航行可能な水路を示すためだ。だから、杭には、何メートルと、その水路の水深度も記されている。

敵が迫れば、これらの木の杭を引き抜くのだ。他国の人は、一面海に見える潟の中にもさまざまな深さの水流が流れているとは知らないから、大型船で攻めてきはしたものの、たちまち浅瀬にのりあげてしまう。敵船が動けなくなったのを見はからって、ヴェネツィアの小舟の船隊が襲い、敵を撃滅するという戦法だった。

現代のヴェネツィアは、本土との間が、鉄道と自動車道でつながっているが、これらがつくられたのは、二十世紀に入ってからである。それまでの一千五百年もの長い歳月、ヴェネツィアは、文字どおり、「海の上の都」であったのだった。

中世時代をもつ都市ならばどこにもある、市街地全体を囲む城壁は、ヴェネツィアにはない。海が、城壁であったからである。……」

現在の地図を見れば判ることですが、ヴェネツィアがした更なる事は、潟が陸地化しないようにブレンタ川を運河化し、シーレ川を直接外洋に出るように工事して、土砂が潟に流入しないよう大工事したことでした。この事で、シャルル8世時のフランスのヴェネツィア大使フィリップ・ド・コミーヌ(1494~95)が、大運河を《世界で最も立派な大通りであり、最良の技術で建築された家のある通りであり、都市の端から端まで続いていた》と感想を漏らしたほどのものの実現が可能になったのでしょう。
小説『ヴェネツィア』[『イタリア・ルネサンス Ⅰ ――ヴェネツィア』の見開き頁の例] 興味深い内容が書かれています。
  1. 2020/11/10(火) 00:22:54|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(6)

(『水都幻談』続き)
『世界名詩集大成』3巻 フランスⅡ「 館邸
  ――ア・ド・カラマン・シメー公爵夫人に――

そは夜ともならば、蒼白き大理石の低き正面の構えに、窓々の燈火あかあかとともりて、さながら幽霊屋敷なり。昼間は、宏壮にして古き未完成なる屋敷にすぎず、運河ぞいに、獅子頭の刻まれし、そが頑丈なる土台は立つなり。未完成ながら、固く接ぎ合わせし石材を利用し、中断せる普請のうち一階のみを生かせしなり。門よりは、錬鉄の格子戸ごしに、庭の茂みもうかがわれて、高き糸杉の一株、天に聳えたり。

テラスは、そが二段の盛土を水面すれすれにまで広げたれば、われ、そが石階に舟をつくること屢々なり。ここに住まえるはわが親しき婦人たちにして、この古家を人のためにも、己がためにも居心地よき住まいとせし人たちなれど、時にわれ、彼女たちを訪ぬべく格子戸をくぐらで、そこに立ち止まり、欄干に肱つきて、船の往来を眺めんとす。

太鼓腹のオベット船あり、軽快なる伝馬船あり、屋形をつけたる画舫あり。屋形は、長き裳裾に被われ、黒と金もて塗られたり。

このあかぬ眺めに何時までも浸りたけれど、人に見らるるにあらずやと不安なり。思わずふり返る。テラスには人影とてなく、ただかの馴染ふかき二つの像あるのみ。そは古の二人の少年を象どれるもの、服は十八世紀風にして、外套は半ずぼんの上にて開けり。締め金つきの靴をはき、縁の垂れたる帽子をかぶりて、純情可憐、いささか田舎じみたり。双の頬のぷっくりと膨らみたるもあどけなし。めいめいに消壺と提燈を手にす。而して、無言のまま、じっとわが方を見守るは、何ごとかわれに言わんとするものの如し。

さあれ、せんなしや、物言わぬ身の、持物のみにては、何をかわれに語り得ん。提燈が意味するは、日の短く、夜の長くなりしことか。かの火鉢にも似たる消壺のわれに教えんとするは、季節の移り進みて、夏も遠く去り、心地よき秋さえやがて終わらんとすることか。されば、今や赫(かがや)かしき陽光ともお別れなり。

かつては石に、水に、木の葉に、かくもゆたかに降り濺ぎしものを。かかることにあらずや、いたずら小僧共よ、君らの凍えし手と、君らが冬の持物のわれに言わんとするは。冬なりしか! されど、冬近きことは既にわれの知るところにあらずや。冬の気配は、とぼしくなれる光線にも、肌寒くなれる空気にも感じらるるなり。この欄干に絡める藤蔓の残りの枯葉をもぎ取るも冬なり。かの石の籠に盛りたる、彫刻の果実をわれに差し出すも冬にあらずや。風の音にも冬の声す。大潮の満ちて、運河を膨らますも冬なればなり。

かく、ヴェネチアは到るところ、うちふるう光線の中に冬を迎えんとす。然るに、など、かかる提燈や火鉢をわれに示さんとするや、あまりにも性急なる者共よ、君らのおせっかいが今さら何の甲斐あらん。

いな、いな、われ未だこの町を立ち去ることなかるべし。われはこの十一月の寒きヴェネチアをことさらに愛する者なり。濃霧につつまれて牛乳色せる、或いは、氷花に飾られて冷たき音たつる、かの瑠璃細工の如きヴェネチアは格別ならずや。雨とてもわれを追い出すことなかるべし。

入江の水鏡に映える空の色の、澄むとも濁るとも物かわ、庭の木の葉のことごとく飛び去らんとも、そは代赭(たいしゃいろ)色の、緋色の、鮮黄色のヴェールと変じて、秋のかたみの如くに水の面に散りしくにあらずや。

されば騒ぐなかれ、われとても何時かはこの町を去る身なれど、、日暮れて、ヂウデッカ寺のうえに上るかの三日月の、せめて美しき満月となるまで待つとせん。さればその夜の月は、君たちの影法師の、うつぶせに倒れて、君たちの面前にながながと伸びるを、そがヴェネチア風なる銀の面ごしに眺むることならん。 」
  1. 2019/11/30(土) 03:34:48|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(5)

2009.05.23日にアンリ・ド・レニエについて、ブログ水都幻談で触れました。実はこの《ヴェネツィア風物詩》というべき散文詩は、紹介した《序詩》以外は全て古体の雅文で訳されています。森鷗外が訳したアンデルセンの『卽興詩人』の雅文体に最近ハマっている私は是非この眷恋の地をこの文体で紹介したいと思った次第です。
『世界名詩集大成』3巻 フランスⅡ「 奇妙なる庭園
       ――ジェラアル・ドゥヴィルに――

こはただに大理石と水の都のみにはあらざるなり。庭園もまた数多く、緑なす樹木の土壁に囲まれたる、何故か知らねど、他所に求め得ざる、珍奇にして意外なる何ものかを具えたり。壁に護られて中にひそめる庭は、秘やかに閉(しず)もりかえりて、わずかに一樹の梢を、即ち、糸杉の先端を突き出せるに過ぎざるなり。

かかるヴェネチアの庭園を、われ、悉く知るよしもなけれど、名園の幾許かは知れり。ツァッテレ河岸には救済院の庭あり。庭を繞(めぐ)れる長き赤壁には、ところどころ、豊頰の愛神像かざられ、そが一つの如き、冠も髯も藤蔓なるはおかし。また格子造りの門扉ごしに、大運河を望むヴァンドラマン園あり。ヴニエ宮の庭もあり。この庭は、柵をめぐらせし二段の築山によりて、水上にまで伸び、二体の像は田舎者よろしく、また、かずかずの籠には石の果実が刻まれたり。

人目をさけて隠れんとする、さらに陰険なる庭もありぬ。かかる庭を訪ねんには、労をいとわず、辺鄙なる界隈まで足をのばして、この錯綜せる町の迷路の中に探さざるべからず。われはかかる庭園の一つを記憶す。そが名は忘れしも、サン=セバスチアノ寺の方にありき。そこを住まいとせる古き像は大方くずれたれども、英雄や、神々の像なりしならん。われは目を閉ずとも、汝を見る想いす、汝、グラデニゴ宮の小さき廃園よ。さてはまた、汝、カッペッロ宮のなつかしき苑よ……。

或るうららかなる日の夕刻を、われ、かしこにて過ごせしことありき。そは狭く長き庭にして、パラディオ風なる円柱の立ち並ぶ廻廊のあたりにて尽きたり。やせたる花々の花壇をくゆらせ、また、或る花壇には、柘榴の実のまるまると熟れて、えみわれたるありき。われ、幾年月をここに住みなれし心地して、いとも悠々と逍遙せり。

われの最も好むはヴェネチア園ならんも、もとよりそはダリオ宮の庭園を除きてのこと。げにこの庭は、正確なる方形にして、数条の小径にて整然と劃されたり。葡萄棚を支えたるは半身の莢状(さやじょう)せる女人の木造、顔かたち豊満にして歓喜にあふれ、乳房はふくらみ、腹は張り、臍(ほぞ)さえも判然と見ゆ。

彼女等が、葡萄の幹を、葉を、蔓を、房を支えいるさま、いとも誇らしげなり。彼方には、噴泉ありて、大理石の水盤に流れ落つ。そが音は、一滴一滴したたる毎に、いよいよ沈黙は増大し、沈黙を氾濫せしむかと見えたり。

ヴェネチアにはこの他にもなお多くの庭園あり。ヂウデッカ寺の庭の如きは忘れがたく、入江より望まば、そが木立もそが糸杉も見ゆ。われは嘗てそが中にまで足を運びしことありき。いとも広大にして、且つ、閑寂、久しき逍遙に適す。人ここにあらば、潮風を吸い、心に思うことを口にせざるを得ずして、自ずと低吟の意さえ動くほどなるに、これよりわれの語らんとする庭は、人その前に立つ時、そが驚異を心ゆくまで味わんがため、口を噤(つぐ)むを常とす。

ああ、げに奇妙なる庭かな。そが宏大にして微小なる、これにまさる奇異、これにまさる哀調の他にあらんや。そが複雑もまたそが奇異に劣らず。この庭を構成するは、対称的なる花壇なり。花壇を区分する小径なり。花壇を囲む柵なり。花壇を限る廻廊なり。而して、微小なる花々の噴出する無数の小さき瓶なり。この庭は童子の如くにして、永遠にかわることなし。季節の移りかわることもなし。

如何となれば、そは、悉くガラスにて造られしものなれば。芝生も、薔薇も、噴泉も、それぞれを模して、ありとあらゆる色ガラスが用いられしなり。然らば、この庭の滑稽にして愛すべき驚異の中を逍遙すとせば、そはただ目によるほかはなきなり。

往昔、貴族の食卓に飾られいし頃、ヴェネチアの貴婦人らの目は、そが精妙にして脆弱、且つ、突飛なる細工を楽しみしものならんも、この庭の今もなお博物館を訪るる人々を喜ばすこと古(いにしえ)とかわらじ。 」 (6に続く)

この『水都幻談』は、平凡社の文庫ライブラリーで『水都幻談――詩のコレクション』(1994.05刊)として再版されています。
  1. 2019/11/23(土) 17:35:16|
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ヴェネツィア本: 『ヴェネツィアの出版人』

ハビエル・アスペイティア著『ヴェネツィアの出版人』(八重樫克彦・八重樫由貴子訳、作品社、2018年5月30日)を読みました。西国人がヴェネツィアの出版人、アルド・マヌーツィオを主人公に、小説として描いた作品です。作者が想像力豊かに描いた、あくまでもフィクションの体裁です。
『ヴェネツィアの出版人』今までにも、小説風にアルド・マヌーツィオの事績に触れたドキュメント、ラウラ・レプリ著の『書物の夢、印刷の旅』(1~2)について触れています。一方ハビエルは、事実とされている事もフィクション化している面が多いようなので、アルドの実際を知ろうとすると、あまり参考にはならないだろうと思われます。あくまでも彼は物語の主人公なのです。

ベール
招待客らが何を噂しているかぐらい、私にだって想像がつく。新婚初夜に新妻を一人にするとは! 加齢による体調不良だなんて、怖気づいて書斎で震えてるんじゃないか?
彼らには想像すらできまい。
私の手元にいまだ出版されずに来た極上の本があろうとは知る由もなく、世間の夫たちは口を揃えて言うだろう。紙面に黒字で綴られた肉体にそそられるなどあるものかと。見当違いもはなはだしい。病気か死の瀬戸際でもない限り、それはあり得ることなのだ。若々しい肌の甘美な感触や、爽やかなリンゴの香り、肉体の崇高さを実感するには、見合った言語、適切な表現に直した上で、われわれの人生の書に取り込むだけでいい。

神の物質で綴られた完璧な文章は、脆い人間の肉体とは比較にならない永遠性を備え、強風に揺らぐことも浸食されることもない。そのことを私アルドは、身をもって痛感している。ヴェネツィアに住んで八年が過ぎ、九年になろうという時期になされた結婚式の日、自分がさらに年老いたように感じているからだ。

元はと言えば……あれさえなければ……。
忌まわしきアンドレア! 彼も、彼の妻も、二人の子供も、みんなくたばってしまえ!
私は最初から拒み続けてきた。私には不必要だ。ノーだ! 頼むからやめてくれと。

五十歳で結婚式など、たとえシビュラのご神託であっても、願い下げだ! 縁者びいきや家族ぐるみのつながりから、やっと解放されたと思ったのに。そんなものは私にはいらない。これまで一つひとつ積み上げ、地道に築き上げた末に得た自由を失い、他の家族らと同じように、トッレザーニの所有物になるのはご免だ。マリエッタの死がまだ胸を貫いた状態で、再び彼らの情緒ゲームに陥るわけにはいかない。

これから事あるごとに後継者、跡取りと口にしてくるつもりだろう。跡取りだって!? 自分が信念のない、誤植だらけの粗悪な写本になると考えるだけで気が滅入ってしまう。

だが、すべては宿命だった。その上よりによってちょうど今日、ベネデット・ボルドネの工房から二百以上もの挿画と飾り文字の見本が届いた。いずれも『ポリフィロの狂恋夢(ヒュブネロトマキア・ポリフィリ)』用、ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラが生前、私に託した二冊のうち唯一手元に残った本だ。手渡された挿し絵は、私がこの三年間、眠れぬ夜に抱いてきた夢想を具体的に表現してくれる。世の中の多様性を愛した友ピコの戦い、ポリフィロの戦いがようやく具現化する時が来た。彼が敗北し、われわれみなが敗北しつつある戦いだ。 ……」
  ――ハビエル・アスペイティア著『ヴェネツィアの出版人』(八重樫克彦・八重樫由貴子訳、作品社、2018年5月30日)より
アルド・マヌーツィオ『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』中面[左、アルド・マヌーツィオ。右、彼の出版した出版物の中で最も有名な『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』の中面[通称『ポリフィーロの夢』と言われるこの物語については、『澁澤龍彦全集』13巻(河出書房新社)の中の、《ポリュフィルス狂恋夢》の章で知ることが出来ます。(サイトから借用)―
―アルドが1499年出版した『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ(Hypnerotomachia Poliphili―ポリフィーロの夢)』は作者匿名の本で、この小説ではアルドの友人だったピーコ・デッラ・ミランドラ作としていますが、通常は装飾文字の折句から読み取れる、僧フランチェスコ・コロンナ作とされています。説は区々あるようです。『ポリフィルス狂恋夢』は澁澤龍彦の命名だそうです。この本の謎についての推理小説、イアン・コールドウェル、ダスティン・トマスン共著『フランチェスコの暗号』(柿沼瑛子訳、新潮文庫、2004.09.29)を以前読みましたが、近年この『ポリフィーロの夢』本体の訳が出版されたそうです。全訳『ポリフィルス狂恋夢』(大橋喜之訳、八坂書房)だそうです。]

[小説の中で、ドゥカート金・銀貨(ducato伊語―1284年からヴェネツィアで鋳造)を、ドゥカド金貨と書いていますが、ヴェネツィアでは Dogado と呼称し、もっと古くは Dugao と言っていたと、ボエーリオ著のヴェネツィア語辞典にあります。]
  1. 2019/01/30(水) 11:59:51|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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