イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

飢饉(2)

ジョヴァンニ・ディステーファノ『ヴェネツィア史 1400-1599』(Supernova)は1528年の項にこの飢饉のことについて次のように簡単に述べています。

「1528年: 《大飢饉は1568年にも繰り返されることになる。テッラフェルマ(本土)から大挙して貧民達が物乞いしながらヴェネツィアに押し寄せた。食糧倉庫の門前では余りの人に何人かが踏み躙られ、死んだ。貴族のジェローラモ・エメリアーニの慈善活動は際立っていた。1531年ソマースキ神父の要請の下、当局の無為の中、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会に人々を収容する活動を自ら買って出て、自分の財産で救護活動に励んだ。」

大運河左岸、サンタ・ルチーア駅に近い、トルコ人商館(Fontego dei Turchi)の左隣にメージョ運河を挟んで、メージョ倉庫(Depositi del Megio)という共和国の公共の穀物倉庫だった建物があります。G.Lorenzetti『ヴェネツィアとその入江』(1926)は次のように言っています。
メージョ倉庫左、メージョ倉庫、右、トルコ人商館
「1400年代のこの建物は、かつて公共の穀物倉庫であり、メージョ運河通り(Fdm.del Megio)に建っている。煉瓦による特徴的なファサードには狭い明り取り窓、階上には狭間飾りがあり、共和国が滅亡した時に剥がし取られた、シンボルの獅子像の痕跡が1900年代初頭まで残っていた。

現在の獅子像は、彫刻家カルロ・ロレンツェッティの作品で、モニュメント友の会の肝煎りによる現代の作品である。……」

Megio(ヴェ語)とはMiglio(伊語―粟、黍)のことで、穀類の意味。共和国は穀類が欠乏しないように常に気を配っていました。そのため専門の係官が貯蔵量を常にチェックし、飢饉の時には、市民に対する公平無私の、常々の現実直視の判断で、食糧調達のためには、海賊行為にさえ向かったようです。

ジョヴァンニ・ディステーファノ『ヴェネツィア史 1100-1399』(Supernova)の1322年の項には次のような話が載っています。この年にも飢饉があったのでしょう。

「1322年: 長い飢饉の後、食糧を大量に備蓄し、新しく発生する危機に対処し、更にパンの値段をコントロールすべく、Terranova 穀物倉庫が建てられた。しかしナポレオン軍占領中(1808~14)王の庭園を作るために取り壊されてしまうことになる。

新しい飢饉に対処するために、サン・グレゴーリオの古い塩倉庫が穀物倉庫に変えられた。多量の穀類を貯蔵する目的で、1400年代にメージョ倉庫(Fontego del Megio)が建てられた。そして建物は特に megio、製粉した穀類を蓄えるための物となったし、人民に抑えた価格で配給出来る公共のパンを製造するためにも使われた。

この倉庫(fontego)は、1559年の飢饉の時、公定価格を定め、闇市場を撃退するのにも有効だった。共和国は粟(miglio)の粉を毎日の一人分の量を無料で支給したのだった。」

テッラノーヴァ(Terranova)穀物倉庫があった場所は、現在サン・マルコ新行政官の南の、大運河に面した《王の庭園(Giardini Reali)》がその取り壊された跡です。ナポレオンは占領地を統治する執務室を新行政官に定め、その窓からの展望を遮る Terranova 穀物倉庫を取り壊させたそうです。ヨーロッパ最大の4棟の倉庫だったそうです。
王の庭園、左王の庭園、右fontego(伊語fondaco)はアラビア語の fonduq(住まい、一階の宿)から来たもので、ヴェネツィアでは商館や倉庫の意で使っているようです。
  1. 2013/02/23(土) 00:03:18|
  2. ヴェネツィアの災害
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ヴェネツィアの、飢饉(1)・ペスト

ヴェネツィアを襲った災厄として、地震、アックァ・アルタ(洪水)、ラグーナの凍結、火事等を書きましたが、飢饉やペストの襲来もありました。永井三明著『ヴェネツィア貴族の世界―社会と意識―』(刀水書房、1994年2月4日)によりますと、1527~29年に北イタリアを飢饉と黒死病が襲いました。カンブレー同盟戦争後のヴェネツィア共和国の最悪の時代だったようです。
『ヴェネツィア貴族の世界―社会と意識』「……飢饉は、収穫物を徴発したり蹂躙した侵入軍により引金をひかれたが、もとはといえばヴェネト地方は旱魃と洪水の大被害を受けていたのであった。しかも当時の国際情勢は豊作のオーストリア領から穀類を搬入することを許さなかった。
……
5月初めの5日間は昼夜をわかたず容赦ない激しい雨が降りつづき、ブレンタ川からの洪水はヴェネツィアの運河に真水を注ぎこんだ。ポレシーネ[アーディジェ川とポー川に挟まれたデルタ地帯のポレージネのことでしょうか?]全体が水没し収穫物は壊滅した。たとえとうもろこしが確保されたところで、洪水のため水車小屋での製粉は不可能であった。
……
ヴェネツィアは地方の飢えた農民をひきつけた。なぜならこの都市には、北イタリアや東地中海からの輸入食糧が集中したからである。ヴェネツィア自体が飢えた時は、東地中海からの食糧を北イタリアに移動するのを禁止した。中央ヨーロッパが切断された今となっては、救済の望みは海上からのみであった。したがってキプロス植民地からの穀物運搬船の役割は大きかった。

しかし1528年4月中ごろ、キプロスの食糧不足が急迫し、シリアで高価な穀物を買付けねばならなかった。あるいはアレクサンドリアからのとうもろこしや豆類の輸入がヴェネツィアの飢饉を緩和することになった。

1528年11月アレクサンドリアからの豆を満載した船が到着していらい、約半年間にわたって定期的に入荷した。にもかかわらず1529年6月17日、ヴェネツィアの倉庫は空になり、サン・マルコの倉庫の扉には《貸し家》Caxa d'Afitarと書かれていた。以上の飢饉の間のサヌート[ヴェ語=マリーン・サヌード]の『日記』はなまなましい描写を提供する。
……
1528年2月20日: 《たいへんなことを記録しなければならない。この都市の大飢饉を永久に記憶しておきたいものだ。この都市出身で街路でわめいている貧乏人は別として、連中はブラーノ島からやって来た。その多くは頭の上に衣類をのせ、手に子供を抱きかかえ、おめぐみを呼びかける。またヴィチェンツァやブレシア方面から多くの人々がやって来た。

おどろくべきことだ。ミサに出かけるなら、必ず10人もの貧民が慈悲を乞うのに出会う。なにかを買おうとして財布を開けば、貧民が小銭をねだる。夜おそく連中はドアをたたいて街路から叫ぶ。『腹がへって死にそうなんです』と。だが、これにたいして政府は何の手だても講じていないのだ》。

黒死病は飢饉の必然の結果だった。飢饉による栄養不良と、食糧を求めての人員の移動が伝染の原動と考えられよう。そして腺ペストは、奇妙なことに、貴族により大きな打撃を与えたという。……いずれにせよ黒死病のほかに、チフスと飢えが死亡者を増大させたはずである。……」 

この本の巻末のヴェネツィア年表から、ペスト・疫病の発生を拾い出してみました。
1343(ペスト)、1348(大ペスト)、1350(ペスト)、1357(ペスト)、1372(ペスト)、1382(大ペスト)、1388(ペスト)、1393(大ペスト)、1397(大ペスト)、1400(ペスト)、1424(疫病)、1427(疫病)、1428(ペスト)、1447(大ペスト)、1456(疫病)、1468(ペスト)、1484(大ペスト)、1485(疫病)、1506(熱病)、1510(ペスト)、1528(ペストとチフス)、1536(疫病)、1556(ペスト)、1575-76(大ペスト)、1630(~16ヶ月間)と大変な頻度の伝染病の発生です。

1575-76年の時には、沈静化を神に感謝してジュデッカ島にレデントーレ教会が建立されましたし、16ヶ月間続き死者4万6490人[ヴェネツィアの統計数字は10台までの正確さがあり、他の地方では100台だそうです]を出した1630年のペストの沈静化の際には、サルーテ教会が献堂されました。レデントーレ教会については、2011.03.05日のヴェネツィア年中行事(8)を、サルーテ教会については、2012.08.11日の文学に表れたヴェネツィア―パトリシア・ハイスミスをご参照下さい。
《飢饉》(2)に続きます。
  1. 2013/02/16(土) 00:03:10|
  2. ヴェネツィアの災害
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ヴェネツィアの火事

G.Nissati『Aneddoti storici veneziani(ヴェネツィア奇聞)』によれば火災の記述は次のようです。

「ヴェネツィアの火災の歴史は、428年の火事、リアルトのサン・ジャーコモ教会の建設を促す原因となったことに始まる。総督ピエートロ・カンディアーノ4世に謀反を企んだ人々が976年総督宮殿に放火した。

サンティ・アポーストリのダンドロ家から出火した1105年の火災は、幾つかの地域を炎に巻き込んだことで特に有名である。その、ほんの48日前の1月に発生した火事はザンターニ館から出火し、シーヴォス(Scivos)の年代記によれば16の島[ヴェネツィアは118の島から形成、と伊百科事典にあります]、ドルソドゥーロの殆ど全域が炎に包まれた。

16世紀の火災の中でも、1569年のアルセナーレの火災が際立っている。チェレスティーアの教会と修道院も灰になってしまった。また1574年の火災では総督宮殿を炎上させた。

17世紀にはサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロのバルバリーア・デッレ・トーレから出火した1683年と1686年の二つの火事がある。現在でも存在する Calle Prima と Calle Seconda del Brusa` という通り名で記憶されている。

前世期[本の執筆時は1800年代]には、1735年のサンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモの火事、1709年のターリャピエートラ小広場近くのサンティ・エルマゴーラ・エ・フォルトゥナート[サン・マルクオーラのこと]のものが有名である。この火事は本にも書かれたし、詩でも歌われた。

火事に関して共和国が公布した法律は色々ある。
1450年6月10日、ワイン樽の運び屋や娼婦らに消火に尽力するよう、罰金刑の名の下に命令を下した。1454年には教区司祭に、バケツや梯子、船その他を常備しておくよう依頼し、火勢を抑えるべく荷物の運び屋や山村出身者らに助力を受けるよう、全ヴェネツィア人に周知を図った。

1519年、予防と消火のために2人の行政官が選ばれた。1759年5月16日の通達では、全6区は消防長を持ち、職人達はその命令に従って行動すること、とある。1776年にはボナヴェントゥーラ・ベンヴェヌーティ製作の、ヴェネツィアで初めての吸い上げ式ポンプが元老院にお披露目された。そして1777年1月22日ようやく、常設の消防団が組織され、その長に技師で建築家のフィリッポ・ロッシが任命された。」

これらの火事の中から1686年6月2日の火事について、ジョヴァンニ・ディステーファノ『ヴェネツィア史 1400~1599』から訳出してみます。

「カステッロ区の Barbaria de le Tole のバルバリーア向けの木材倉庫から火事が発生した[バルバリーアあるいはバルベリーアとは、北アフリカの地中海側でエジプトの西端からサハラ砂漠を経て大西洋にかけて、紀元前からベルベル諸語の民族が住んだ、日本で言う、バーバリ地方のこと――Tole(ヴェ語)=tavola の複数]。

年代記作者は書いている。《火は猛烈な勢いで燃え上がり、24時間のうちにサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロの全地域からヌオーヴェ海岸通りまで燃え広がった。アルセナロッティが鎮火に駆け付け、貴族達も水を運んだ。そして人々は大火が鎮まることを神に願って、祈願行列を行った。》

この火事で何人か焼死し、70軒が焼失した。《1軒の家がその時運よく焼失を免れたと言われており、それは聖アントニウス[パードヴァのイル・サント教会の]の奇跡だ、とされている》。出火した場所は Corte del Brusa` として地名が伝承されている。」
地図地図『Calli, Campielli e Canal』では、上左丸数字62がサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会でその広場から東へサン・ザニポーロ大通り、Barbaria de le Tole 通りが走っています。その南にSc.Media A.Vivaldi(アントーニオ・ヴィヴァルディ中学校)を挟んで左に Calle del Primo Brusa`(1683年)と右に Ramo del Secondo Brusa`(1686年)があります。[Brusa`(ヴェ語)=brucciato(伊語―焼失)]。
フェニーチェ劇場前の消火活動炎上するフェニーチェ劇場(1)炎上するフェニーチェ劇場(2)フェニーチェ劇場焼失翌朝写真は1996年1月29日深夜のフェニーチェ劇場炎上から
  1. 2013/02/09(土) 00:44:41|
  2. ヴェネツィアの災害
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ヴェネツィアのアックァ・アルタ(2)

昨年暮、149㎝のアックァ・アルタがありました。イタリア・ウィキペディアによれば、アックァ・アルタ(高水・高潮)という言葉はヴェネツィア人が潮位が高くなる現象を言ったものが、伊語に取り込まれたものだそうです。近年は毎年のようにラグーナ・ヴェーネタ(ヴェーネト潟)に生起するこのアックァ・アルタ現象の原因を、ウィキペディアは凡そ次のように述べています。
サン・マルコでゴンドラを漕ぐこの地では毎日約12時間毎に干潮・満潮が1m程度の差で繰り返されています。この干満に第一に影響を及ぼす一つ、秋~春に南アフリカからシロッコ(季節風)が低気圧で吹き上がってくるのです。アドリア海入口のターラント海峡から海水をその強度と方向によって最奥部へ吹き寄せます。低気圧でも海面が上昇します。

10-11月イタリアでは豪雨を伴う嵐が吹き荒れることがしばしばで、各地の河川の氾濫が頻発し、北東部ではその大量の水がアドリア海に排出されますが、その頃北東風のボーラも吹き荒れ、それらの強風が排出された水をその強さと方向によっては最奥部の水の退潮を押し留めます。

また低気圧と共に、更に新月であれば太陽・月が一直線に並び、海水を引き上げます。こうした現象にラグーナ・ヴェーネタの閉じられた特殊な地形とが絡み合って、これらの現象が三役揃い踏みになるとアックァ・アルタが発生すると考えられているようです。

近年この現象が多発するようになったのは、対岸のマルゲーラの工業地帯が工業用水に地下水の汲み上げを何年も続け[何年か前に中止]、ヴェネツィア本島は地盤沈下したままであり、そこに地球温暖化のための海面上昇(eustacy 現象――伊語eustatismo)が拍車を掛けているのです。
ヴェネツィア人口推移『ヴェネツィア史』(クリスチャン・ベック著、仙北谷芽戸訳、白水社文庫クセジュ、2000年3月20日)の巻末表を参考にどうぞ。
サルーテ教会・税関岬近くに潮高を測る基準点が設置されており、サン・マルコ鐘楼傍にその値を電光掲示板に表示する設備がありました。そのポイントでの計測によりアックァ・アルタは3段階に分けられ、第1段階はサン・マルコ広場が海抜80㎝故なのか、80~109㎝(1897年に平均潮位として測定されたものから)。第2段階は110~139㎝。最高の第3段階は140㎝~。昨年11月4日の149㎝は最高位に区分されるものでした。次のヌオーヴァの新聞記事をどうぞ。時刻9.30には149㎝に達しています。La Nuova紙の、左のキャプションをクリックすると映像が見られます[上から3番目のキャプションはサン・マルコ広場で泳ぐ観光客のもの]。

ウィキペディアはかつてのアックァ・アルタがあった年を羅列しています。史上記録の劈頭を飾るのは、589年の《Rotta della Cucca(クッカの決壊)》のアックァ・アルタだそうで、Giovanni Distefano『ヴェネツィア史 421-1099』(Supernova)がその事に触れています。
ヴェネツィア史 421-1099「589年: パーオロ・ディアーコノ(Paolo Diacono)は『Historia Langobardorum』の中で、ヴェーネト地方の水路分布を変えてしまった壊滅的な大洪水(それは河川の保全管理がなされていなかった故でもあるのだが)について記述している。

ヴェローナ地方の地名でもある《クッカの決壊》のことである。それ以前にはエステからモンタニャーナを流れていたアーディジェ川がその流路を変え、そこから何㎞か南の地点を流れるようになり、その自然の痕跡が残っている。

年代記作者はこの北東地域やイタリア半島各地の記録された豪雨の模様について語っている。ノアの洪水時代にも増して起こったことであり、589年10月17日の大決壊とはなっているが、現代の研究者は11月の事ではなかったかとしている。

洪水で多大の人や動物の命が奪われ、ヴェローナの城壁が何ヶ所も壊れた。更に大小の道、ヴェーネトやフェッラーラ平野の畑の多くが破壊尽くされてしまった。ヴェローナでは洪水の高さは城外にあるサン・ゼーノ教会の上の窓にまで達した。

パードヴァではブレンタ川が集落の北東まで流路を変えたし、その流路がバッキリオーネ川に取って代わったのである。ピアーヴェ川は氾濫し、一部流路が変わった。ミンチョ川はアードリアを通過していたが、アドリア海からガルダ湖まで船で行くことが出来た。そして流路を変え、ポー川と合流してしまった。それがアードリアとこの港の決定的な没落をもたらした。

この地域が激しく分断されたために、どの地域の政庁もこの破壊の修復に取り掛かることが出来ず、水に沈んだ平野は何世紀も沼地・湿地と化し、事実ポレージネという地名はこの時に生まれた。」
 ――ジョヴァンニ・ディステーファノ著『ヴェネツィア史』より

当時はまだ現在のようなヴェネツィアは誕生しておらず、人々がラグーナの島に住み始めた頃だったようです[ラグーナに住む人々に言及した最古の、カッシオドルス書簡は538年]。洪水の水が全てラグーナに流れ込み凄い潮位で島々を全て水没させたに違いありません。

810年カール大帝の子ピピンの攻撃からヴェネツィアを救ったラグーナの浅瀬という地形を守るために、その後ヴェネツィアはラグーナに注ぐブレンタ、シーレ等の全ての河川はアドリア海に直接放水するように流路変えの工事を施し、ラグーナの陸地化を防ぎました。この工事はアックァ・アルタにはあまり関係なかったかも知れません。
[ヴェネツィア人は雨水を収集し、井戸で濾して飲料水にしていました。その井戸を塩水のアックァ・アルタが度々破壊しました。尚2008.10.26日のアックァ・アルタでアックァ・アルタの歴史について触れています。]
  1. 2013/01/19(土) 00:00:58|
  2. ヴェネツィアの災害
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ヴェネツィアの地震

2009年に大被害をもたらしたラクイラ地震の直前、安全宣言をしたために人的大被害が生じたとして、行政官2名、科学者5名が昨年10月禁錮6年の実刑判決を受けたことはまだ記憶に新しいことです。地震に安全宣言を出すなど不用意が過ぎると思いますが、その学者の態度に実刑判決を下す裁判というのは、それもあまりにも行き過ぎと思われます。

ジュゼッペ・タッシーニ著『ヴェネツィア興味津々(Curiosita` veneziane)』から、G.Nissatiが『Aneddoti storici veneziani(ヴェネツィア奇聞)』という本に色々話題を拾い出しています。その中に地震の話がありました。
ジュゼッペ・タッスィーニ『ヴェネツィア興味津々』『ヴェネツィア奇聞』[Nissati という筆名は Tassini の anagramma(字句転綴)のようです] 「ガッリッチョリが自分の『回想録』の中に記した、共和国時代に発生した地震は19回あったという。中でも1348年1月25日のものと1511年3月26日のものは最高に厳しいものであった。

1348年の時は年代記作者によれば、何千もの家屋や数えきれない煙突が崩れ落ちた。鐘は独り鳴り響き、大運河は水が一方の岸から他方へと何度も揺れ動いて川底が見えたりした。サン・シルヴェストロ、サン・ジョヴァンニ・エレモジナリオ教会の鐘楼は崩れ落ち、サンタンジェロとサン・ヴィターレ教会のクーポラ、カルミニ教会のファサードの上部が落下し、アルセナーレの二つのアーチも倒れた。

1511年の地震の時はもっと恐ろしかった。工場等の崩壊に加えて人的被害が加わった。この日元老院に集まった議員達は、議場の頭上がギーギー軋むのを聞き、慌てて逃げ出した。

サヌート(ヴェ語式―Sanudo)は言っている。《全員驚愕し恐怖にかられた。広場や道を走る人、お祈りを始める人、どうしていいか分からない人、そして多くの妊娠中の女性が恐怖のあまり、陣痛もなしに出産した。その中には艦長のトーマ・ティエーポロ氏の妻パンクラーティ・ジュスティニアーンの娘があった。》

その時点より少し前のこと、《それから夕方教区司祭達は、各地区で連禱行列を開始していた。2枝の燭台を携えた後ろの一団は手には蠟燭を持ち、連禱(リタニア)を唱えていた。その時見るからに手にしていた物が大揺れに揺れた。全員危険を察知した、何故ならこうした地震は何日か続くのが通弊だったからである。そしてその夜かなりの人々は船に、菜園に、畑に眠りに行った。地震が再度やって来ないなど、考えられなかったからである。》

翌朝貴族のアントーニオ・コンタリーニは政庁に現れ、これは我々が犯した色々の罪、特にヴェネツィア人が犯した数々の肉欲の罪のために天が懲らしめのために下した天罰なのだ、だから誠実かつ効果的な措置を講ずる必要があると言った。更に聖処女ニコペイアの像を掲げて、サン・マルコ広場で聖なる行列を執り行わねばならないと厳命した。」
 ――G.Nissati『Aneddoti storici veneziani(ヴェネツィア奇聞)』(Filippi Editore Venezia、1897)より
  1. 2013/01/12(土) 00:00:29|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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