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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの国家異端審問官の用心深さ

前回の話の中に登場したヴェネツィアの国家異端審問官について、G. ニッサーティは『ヴェネツィア奇聞』の別の場所でその逸話を紹介しています。
『ヴェネツィア奇聞』「この問題について、ある仏人作家が一つの挿話を判り易く書いているが、それは真実であったかどうか?だが、その時代の事を能く捉えており、有名な審判がどのような考え方で下されたか、を示している。

この町に観光でやって来たある仏人貴族が、相当額のお金を入れた緑色のカバンを盗まれた。この事を訴えたが、その時は何も発見出来なかった。そのため、最初はヴェネツィア政府のだらしなさに公然と文句を言っていた。しかし出立する事にした。

メーストレまで行った時、彼のゴンドラが他のゴンドラに行く手を阻まれた。そのゴンドラにはある要人が乗船しており、彼は、数日前相当額のお金の入った緑色のカバンを盗まれたのはあなた様でしょうかと、尋ねてきた。然り、と肯定の返答を聞くや、足で布を押しやると、手にカバンを握った死体が現れた。その様子から、直ぐ外国人と知れた。
Grewembrock死体に目をやって要人は言った。《ご覧のように、正義が成就致しました。あなた様はお金を受け取られ、出発なされて下さい。また我らが国へ足を運ばれますよう、ご再考下さい》と。 」

またイタリアの《3人の国家異端審問官Tre inquisitori di Stato》というサイトは次のような話を掲げています。
「《Inquisitori di Stato》《Inquisitori contro la propagazione del segreto》《Supremo Tribunale》等と称される機関は、十人委員会を補佐する役を持つ共和国の司法機関で、国家機密の漏洩を見張る役職だった。

最初は十人委員会によって、特別にそして時々であったが、繰り返し設けられた機関であった。1539年9月20日以来、この機関は共和国の常設の司法機関となった。審問官は3人で十人委員会と同等の権力を与えられ、十人委員会が命名したものである。

次のような特徴を持つ、即ち、赤服を着る審問官はセレニッスィマ政庁の代表として6人の総督相談役の中から選出され、2人の黒服を着る審問官はDecenviri(10人の十人委員会)の中から選出された。投票が一致すれば自動的に確定裁定となり、極秘だったものがオープンになった時、公然と大評議会に知られることになった。
密告口[Boeche de Leon、サイトから借用]  秘密裡の判決の実施は、伝統に従えば、オルファノ運河と呼ばれる運河の傍のラグーナの水の中で、夜間溺死させられることを予想するようなものである。訴訟手続きの開始は十人委員会や他の多くの司法府のように、Boche de Leonと呼ばれる特別の箱に投げ込まれる密告の蒐集から始まるのが、屢々であった。 」
  1. 2018/11/08(木) 00:04:26|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアのゲット

少し前のブログ(05.19)で、ヴェネツィアのゲットについて触れました。ヴェネツィア人は何年もの間ラグーナの中の島を苦労して埋め立て等をしながら、潟の上にヴェネツィアの街を立ち上げていきました。そんな苦労を知らないユダヤ人に、ヴェネツィア人は2つの島を与え、永住を許可しました。郊外に幾らでも土地のある本土側と土地空間に限りのあるヴェネツィアの違いはそこにあります。G. ディステーファノ著『ヴェネツィア史』(Supernova、2010.02)の〝1516年3月29日″の項は下のように書いています。
[ヴェネツィアの語学校で伊語勉強中、バールの人に「どうして日本人は〝ボンジョルノー″とか語尾を伸ばすの?」と諫められました。確かに歌手カルーソーとか伸ばす癖があります。ヴェネツィアでは〝ゲット″ですが、日本人は〝ゲットー″と伸ばしますね。]
ヴェネツィア史Campo%20del%20Ghetto%20Nuovo,%20Venezia「1516年3月29日=元老院は、町のゲットと通称される区域に全ユダヤ人を集めると言うザッカリーア・ドルフィーンの提案を承認した。《ユダヤ人は全て、サン・ジローラモ傍のゲットの家の中庭に集まって住むべきなのである。そして辺りを一晩中うろつかないようになすべきは、それぞれそう呼ばれるように小さな橋(ponteslo)のある古ゲット側からと、同じく2つの門が出来たもう一方の側とから出入りされ、その門は朝マランゴーナ(アルセナーレの職人達を仕事場に向かわせるように、週日夜明けと共にサン・マルコの鐘楼で鳴らされる鐘音)で開門され、夜は12時に閉門される。それはユダヤ人から任され、我々の組合(Collegio)に相応しいと思われる賃金を支払われた4人のキリスト教徒が管理する》と。 

それ故通達はユダヤ人をゲットに隔離することが予想された。城壁を作り要塞島にする(城壁は作られなかった)、水門の城壁(窓を塗り潰すことはなかった)、門の鐵柵は夜には締められ、朝はマランゴーナの鐘の音で開門した、サン・マルコ鐘楼の鐘は町の生活に規律を与えるもので、人々を目覚めさせ、アルセナーレの職人達を仕事場に呼んだ。日暮れには十人委員会の船がゲット島の周りを警戒に回った。

Ghettoという言葉は、geto(ジェート―鋳造)に由来し、3月29日の通達の投票後3日の内に最初にゲット入りしたドイツ系ユダヤ人が、"g"の発音を〝グ音″でしたことによる。Getoあるいはgettoは、隣接した鋳造場を意味し、鐵を溶かし、大砲を鋳造したりしたが現在未使用で、というより大雑把に言えば廃棄場の略称であった。カンナレージョのGeto Nouvo(新ゲット)が、周りの建築中の残滓やGeto Vecchio(古ゲート)に置かれた鋳造場のスラグの残滓の捨て場であったからである。
[gettare(鋳造する)、getto(鋳造―ヴェ語geto)。ユダヤ人の〝ゲット″の発音に合わせてこの島をgheto ghettoと綴る]

宗教上の軋轢のためユダヤ人[外国人として、経済力という背景があった?]を隔離する、疎外するという考えはヴェネツィア的ではない。ヴェネツィア人はただ彼らを管理するために境を設けたかった、商館の商人達がするようにである。彼らを密な監督下に置ける限定空間を設けただけのことだった。ドイツではユダヤ人は町の中心に定住することは出来なかったので、別な場所に向かい、《迫害され、殺され、追い払われて、ヴェネツィアに避難所を見出した》のだった。独系、西系、伊系、東方系……のユダヤ人だった。

大多数がサン・カッスィアーン、サン・スティーン、サン・ポーロ、サンタ・マリーア・マーテル・ドミニ地区、あるいは町の商業活動の中心であるリアルトの大国際中心地の裏手の住みたい場所に住んでいたユダヤ人達との間に境界を設置するという決定は、フランチェスコ・ダ・ルッカが火付け役だった。彼は1514年貴族の許可を得て、ヴェネツィアのユダヤ人の取調べ会社を開いたのである。

ユダヤ人を移動させるという考えは翌1515年には熟したので、今やその提案、あるいは大評議会に提示されたその一部は貴族のジョルジョ・エーモによって読み上げられ、ユダヤ人達は最高に不当な仕打ちだとした。エーモはジュデッカ島に閉じ込めることを提案したが、むしろ全員がムラーノ島に越していいと言っていたユダヤ人の要望で、彼らを邪悪だと非難していた十人委員会委員の別の貴族ザッカリーア・ドルフィーンによって再び取り上げられた決定を先送りした。

コンスタンティノープルではユダヤ教徒もイスラム教徒も城壁で囲まれた自分達の区域を持っているように、彼らを閉じられた空間に置く必要があった。こうしてゲットに送り、跳ね橋で隔離することが決定した。ゲットではユダヤ人は《中古品店や担保銀行》を開いた。しかし1525年追い出され、再びメーストレに戻らねばならなかった、1533年には永遠に居住してよしと再認されることになるが。

しかし新ゲット島は全ユダヤ人を収容するには不十分の広さだったので、キリスト教徒の不動産所有者(ユダヤ人には家の購入は認められなかった)は、家を高くし、8階まで存在する。続いて1560年には、新ゲットに古ゲットが追加されることが決定され、3年後の1563年には隣接地に配置された全20住居として新々ゲットが開かれた。

その間に鋳造場は引っ越しをしていた。ゲットには4000人の住民がいたが、21世紀には500人に減少した。1797年以降ユダヤ人は最早住まいは強制されていない、町中に散らばり、自分の家を購入出来た。……
1516年[デ・バルバリの地図には、1500年には既に城砦のようなゲットが描かれています。1516年との整合性はどうなのでしょうか。]  この古い空間は、かつては町の周辺だったが、基本的に記憶に留める場所、尊敬し訪問に値する場所、また重要な観光地となり、ヴェネツィア観光の中心の一つとして、出身地が同じそれぞれのグループに一つあるスコーラ(教学館)あるいはシナゴーグ(教会堂)が建っている。1528年のスコーラ・グランデ・テデスカ、1532年のスコーラ・カントン、1541年のスコーラ・レヴァンティーナ、スコーラ・スパニョーラはB. ロンゲーナによって改築され、また1575年のスコーラ・イタリアーナがある。」

私が初ヴェネツィア行をした1994年、ゲットに住むユダヤ人家族は6家と言われ、広場には丸で人気がありませんでした。近年ゲット広場に行くと、キッパ帽を被った人や山高帽から上下服まで黒で正装したユダヤ人等色々見かけ、賑わった風に変わってきています。今やこの広場はユダヤを世界のユダヤ人に発信する震源地となったのではないでしょうか。

ヴェニスを書いた作品として『ヴェニスの商人』(シェイクスピア作、1588年頃)は有名ですが、ユダヤ人がゲットに移住することを強制された1516年から70年経って、ユダヤ人が堂々とリアルトで金貸しを営み、商業の事が分かっていない、ヴェネツィア商人落第生の〝ヴェニスの商人″を描き、一休さんの頓智話程度の裁判劇でヒットラーのようにユダヤ嫌いを表明したシェイクスピアという英国作家のこの作品!

ある年のヴェネツィアのコンサートで、写真を撮って上げた3人の旅行者は、後ろの席から日本人と見て態々写真を撮って呉れと声を掛けて来たイスラエルの人。帰国して現像してイスラエルに写真を送ると、一月後ほどして大きな荷物が届きました。イスラエルの現在を撮った、大判で分厚い写真集でした。最初伊語で文章を書き、英語に逐語訳して送った結果でした。イスラエルの国の一端を知りました。

1516年ユダヤ人がヴェネツィアに定住することが法律で認められ、今年が500年記念年です。《La Nuova紙にその事についての記事があります。
プリーモ・レーヴィそのイスラエルが嫌で、トリーノのアパートで5階から身を投げた、ポーランドのオシュヴィエンツィム(独語アウシュヴィツ)を生き延びてイタリアに帰国したプリーモ・レーヴィ。杉原千畝の事、昨秋パリの、ヴェネツィアのソルボンヌ留学生ヴァレーリアさんが殺された同時多発テロもありました。中東の夜明けはあるのでしょうか。
  1. 2016/06/09(木) 00:03:19|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアのユダヤ人

このガイドの特集に《ヴェネツィアのユダヤ人》という囲み記事があります。百科事典等にはゲットにユダヤ人を押し込めたのは1516年3月29日の通達によるとありますが、このガイドの筆者は1527年の事としています。

昔の事ですので色々異なった考え方があるようです。ある独文学者の本で、ユダヤの〝疎外″を意味する言葉がゲートで、そこから〝ゲットー″が始まったとする意見を読んだこともありました。このガイド本の考えを読んでみます。
Sinagoga_grande_tedescasinagoga1[シナゴーグ(ドイツ大教学館)、現在は博物館。サイトから借用――ヴェネツィア人にはシナゴーグ(教会堂)だとは言わず、ヴェネツィア人の同信会館(scola)のように教学館(scola)だと言っていたのでしょうか?] 
「海の支配を開始して以来、ヴェネツィアは数多くの外国人を受け入れ、歓迎したが、数多の人々と交易し、またサン・マルコの旗印は有効な擁護となることを意味するようになったので、他の人々に支援保護も提供した。これらの事は全て起源の古いことであり、亡命者に由来するものであった。こうしてヴェネツィア人は多くの異教徒を受け入れたので、町の発展に価値ある貢献となったようである。

その共同体は、ギリシアのものと同様に当然の如く夥しい数があり、ヘブライのものであったし、現在もそうである。時に受け入れられ、時に拒絶された。宗教的な熱中度に応じて、ユダヤ人が数多くヴェネツィアに定住した。12世紀以来セレニッスィマ共和国は、当時彼らが他の共同体に認められていたように、ある場所を提供することを決めた。こうしてユダヤ人が住み付いていたので、後にジュデッカと呼ばれることになるスピナルンガ島が許された。

1500年代半ば頃、元老院はカンナレージョのある島を許可した。そこには最終的にアルセナーレに移動する前の、セレニッスィマの鋳造場があった。そこでは鉄を溶融して大砲を鋳造(gettavano)していた。こうして、getto(ジェット―鋳造)という言葉の発音違いから、ghetto(ゲット)という最終的な共通語となった。
[アシュケナージ達(ドイツから下りて来たユダヤ人)は"ge"を〝ゲ″と発声し、ヴェネツィア人が彼らに合わせて"ghe"と表記したのでしょう]

しかし他の由来として、ghettoは分離を意味するタルムード本の"ghet"に由来するとか、ヘブライの中世タルムード学者の言う、宗教放棄を意味する"get"とか"gita"に由来すると断言する向きもある。……最初のコミュニティにやって来たのは、東方と西方のドイツ系ユダヤ人で、改宗せざるを得なかった可哀そうなマラーノ(Marrano)達も含まれる。
[1492年のスペインの財産略奪目的のユダヤ教徒追い出しはマラーノ(西語のマラーノは豚、キリスト教に改宗したユダヤ人の事)も含まれました]

共和国は決してユダヤ人に優しくはなかったが、彼らが他に抜きん出ている分野、商業活動や医療行為を自由に許した。しかしゲットの門の閉鎖とかキリスト教の祝祭の時は街を歩き回らない等の制約があった。

にも拘らずゲットは繁栄し、拡大の仕方も見付かった、と言ってもそれは建物の高さのことである。空間が必要だったので、ユダヤ人達はヴェネツィアの通常の階に更に更に上へと階を重ね、大胆にも信じ難い高さの建物を建てたのだった。
[ヴェネツィアの軟弱な地盤にも拘わらず、最高9階が存在したとか言われています]

結局ヴェネツィア政庁は、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)は作らないという約束で、街のゲット島地区以外にもユダヤ人地区を作ることを許した。その地区は5つを数え、シナゴーグはないが、schola(スコーラ、scolaとも―教学館)と呼ばれる物はあった。最も古いのが1528年のドイツ大教学館。続いて4館、1532年のカントン教学館、1575年のイタリア教学館がゲット・ノーヴォ地区に、1538年のレヴァント教学館、1555年のスペイン教学館がゲット・ヴェッキオ地区に出来た。

スペイン・シナゴーグは1654年バルダッサーレ・ロンゲーナによって再建されたもので、最も大きな物であった。レヴァント教学館の外側の建造物もロンゲーナに帰属する。一方内部は、著名な木彫彫刻家アンドレーア・ブルストローンにより、1600年代末バロック式の修復の手が入った。」

[gheto(ゲート―伊語ghetto)の語源については、2017.05.18日の所謂《ゲットー》の引用が大変参考になります。]
  1. 2016/05/19(木) 00:05:31|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィア総督(5): ピエートロ2世・オルセーオロ(2)

(続き)
「……この船団派遣は大成功であった。即ち、ピエートロ2世は巧みにナレンターニ人を分断するように攻め、要塞を孤立させ、結局飢えのために屈服させた。帰還の船旅で、総督の船団が休息に立ち寄った各町々は恐れ慄き、ヴェネツィアに服従することを誓った。こうしてイストラ半島とダルマツィアはヴェネツィアの保護領となり、ピエートロ2世オルセーオロは、dux Venetorum et Dalmaticorum(ヴェネツィアとダルマツィアの総督)という称号を帯びることになった。
『ヴェネツィア人物事典』この勝利が齎した価値とは、その時以後誰もアドリア海でヴェネツィアの優位に反論を唱える者がいなかったということを言えば、評価は歴然としている。ヴェネツィアにとっての危険と言えば、アドリア海以外の、ジェーノヴァ共和国やオスマントルコ帝国等の力だった。

この船団派遣を思い出すために、更に毎年キリスト昇天祭の祝日、総督と司教、全評議員が記念すべき儀式を祝うために、栄えある船(ブチントーロ)に乗り、リード港の前まで進むという事があった。こうしてよく知られる海との結婚式、またはセンサのお祝いが生まれたのである。
海との結婚式2[現在行われている〝海との結婚式″の模様(La Nuova紙から借用)。2013.04.27日の海との結婚式もご参照ください。]
ピエートロ2世は、バーリをサラセンから解放(1003)するという、また更なる偉業もあり、聖マルコをヴェネツィアの守護神にする(1004)という決定的な選択をした。

1009年9月に亡くなり、15歳の息子オットーネが直ぐに彼の仕事を継いだ。しかし、総督職を世襲王朝にしたいというあらゆる試み同様、今回も失敗。二人の子供は宗教上の重職を受け、ヴィターレはトルチェッロとオルソの司教となり、1045年死んだ。三番目のジョヴァンニはトルチェッロの司教、続いてグラードの総大司教となり、1006年ペストで死んだ」
bacino Orseolo《オルセーオロ》の名前は、現在ヴェネツィアではサン・マルコ広場のコッレール美術館へ上る階段左、直ぐに運河の見える、ゴンドラの舫う溜まり場になっている所[サイトから借用の写真]がBacino Orseolo として特に有名です。 

ヴェネツィア共和国はこの頃を持って、礎期が終わり、地理上の発見、新航路の開拓等により地中海貿易がメインから外れて行く時期までの期間、セレニッシマの発展最盛期に突き進んでいくのです。
  1. 2016/03/17(木) 00:46:51|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィア総督(4): ピエートロ2世・オルセーオロ

ピエートロ2世・オルセーオロ(在位991~1009、ca961ヴェネツィア~1009ヴェネツィア)について、M.ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori、2006)の紹介は次のようです。
『ヴェネツィア人物事典』「ピエートロ・オルセーオロ2世は、991年から1009年までヴェネツィア共和国第26代総督であり、あらゆる時代の中でも、その職務において最も令名高くして天才的なヴェネツィア軍指導者として重きをなした。ピレネーの修道院に引き籠るため総督職を退位したピエートロ・オルセーオロ1世の息子であり、トリブーノ・メンモを廃位させた人民会議が、彼を総督に選んだ時991年には当時まだ30代という若さだった。

総督就任初年度からピエートロは獅子奮迅の働きを見せると共に外交的には用心深さを示した。即ち、ビザンティンとサラセン、神聖ローマ帝国の若いオットー3世との間を巧妙に乗り切り、ローマ帝国の復興を夢見た。そして結局、息子をビザンティン皇帝の姪に、もう一人の息子を神聖ローマ帝国皇帝の義妹との結婚に漕ぎ着けた。
[このピエートロ2世の息子ジョヴァンニについて面白い挿話がありますので次をご覧下さい。食(1)、フォークについて

しかし彼の最も重要な偉業は、999年か1000年(正確な日付は不明)船団の派遣であった。996年既に彼は、アドリア海沿岸を荒らし回るスラヴ海賊narentani[ナレンターニ人とは、その頃クロアティアのネレトヴァ川(Narenta)周辺に住んだスラヴ人で、この辺り島嶼部を含め、Paganiaと称したそうです]撲滅のための船団を指揮しており、クロアティアのヴィース島(Lissa)で海賊を打ち破った。
サン・マルコ旗[《サン・マルコ獅子旗》イタリアのサイトから借用。右の6ケの長細いひらひらは6セスティエーリ(区)を示します] しかし海賊は、ダルマツィアへ逃れ、現地の住民を圧迫したので、彼らはヴェネツィアに助けを要請した。総督はその機を逃さず、ビザンツの承認を得るや、二回目の大船団のトップとしてキリスト昇天祭の日、出港した。幾つかの史料によれば、この時初めてサン・マルコの獅子旗が翩翻と翻った、という。 ……」 (続く)
  1. 2016/03/10(木) 00:01:07|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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