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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの18世紀(3)――(その5)

(続き)
「かつらは初めて現われたとき十人委員会(コンシーリオ・デイ・ディエチ)によって厳禁されたにもかかわらず、一八世紀後半にはほとんどあらゆる人びとが利用していた。そして一七五七年にアントーニオ・コッレールが《八四歳で自分自身の髪のまま》死去したとき、彼は《かつらを用いない最後の貴族(パトリツィオ)》であったと評された。……」
ヴェネツィア上ヴェネツィア下「かつらが礼式上(ド・リゲール)必要であるならば、地位のある貴族(パトリツィオ)たちは黒の官服を着ただけで戸外を歩くことはもはやできないと感じた。この官服はゆるやかな、ひだの入った、幅広の袖の礼服であり、ひざまづいた嘆願者がいまなおこの袖口に接吻したのである。……」

「女性も髪粉を振ったかつらをつけたが、普通戸外ではかつらはティエーポロの絵に描かれているような、リボンの飾りのある大きな帽子で覆われてしまい、帽子は果実や木の葉、蝶、さらには剝製の鳥で飾られた。……」

「このようにごたごたと大きく結い上げた髪からときどき小さな虫が出てくるのが見られた。大きな髪の下では、貴婦人の化粧もたいへんなものであり、頬と頬に、さらには鼻と唇にまでつけぼくろをつけた。そしてつけぼくろをつける位置によって独自の意味と名称があった。……」

「貴婦人の多くが、奢侈禁止法を厳守して、つねに黒字の服を着たことは確かである。ヴェネツィア婦人は、ヨーロッパの他の首都に住む女性ほどパリの流行をありがたがらないという、フランス人ダ・ラ・ランドの意見に同意する観察者はいくらかいた。しかし彼と同時代の人びとのなかには、ヴェネツィア人はこの法律を愚弄できる場合にはいつでもそうする気持ちがあるのだという見解を述べている者が数人いる。……」

「社交場のなかには会員制クラブの方式で経営されているものもあり、普通、社会的背景と趣味を同じくする人びとが会費を払って会員となった。このような社交場の一つは三〇〇名以上の会員を擁していた。一八世紀末には、全部で一四〇の社交場が国家審問委員会(インクイジトーレ・ディ・スタート)に知られており、委員会はその数を制限し、庶民が入会しないよう全力をつくして説得した。……」
『ロザルバ・カッリエーラ自画像』[ロザルバ・カッリエーラ自画像]  「肖像画家・細密画家のロザルバ・カッリエーラのような才能に恵まれたヴェネツィア婦人は少なかった。この画家は活動期のほとんどをヴェネツィアで過ごし、ホラス・ウォルポールからマンチェスター伯にいたる外国人訪問者たちの肖像画を描いた。ルイーザ・ベルガッリのように、(夫のマントとかつらで体をあたためて)マダム・デュ・ボカージュの『アマゾーン族』の翻訳に着手する覚悟のある婦人は少なかっただろう。……」
[ロザルバ・カッリエーラについては、2013.06.08日のロザルバ・カッリエーラで触れました。]
グァルディの絵画?[ピエートロ・ロンギ画『奥方が目覚めるとチチズベーオが‥』、イタリアのサイトから借用]  「愛人の伊達男(カヴァリエーリ・セルヴェンティ)を従えた貴婦人たちがいる。彼女たちは彫像のようにこちこちになって座り、賛美の言葉をかけられるのを待っている。愛人が肩ごしに溜め息をついて足元にひざまずく。別の男がお茶を渡し、ハンカチを拾い上げたり、手に接吻したり、腕を貸そうとしたり、秘書、従僕、調髪師、芸人の役を演じたり、あるいは彼女をちやほやしたり、犬のようにあちこちあとについてまわる。」
[チチズベーオ(cicisbeo=cavaliere servente)については、2018.10.04日のチチズベーオ》(1)と2018.10.11日のチチズベーオ》(2)で触れました。]
ヴェローニカ・フランコの肖像[コッレール美術館のヴェローニカ・フランコの肖像]  「もっとも羽振りがいい高級娼婦は上流階級の婦人と同じほどぜいたくに凝った衣装を身にまとっていた。こうした娼婦があふれるほどいる通りがある、とサー・トマス・ニュージェントは読者に教えている。彼女たちは来る者はだれでも皆迎え入れ、《きわめてはでな色の服装で、乳房をあらわにして、顔は紅を塗りたて、入口や窓際に一〇人あまりかたまって立ち、客を誘っていた》。」
[高級娼婦だったヴェローニカ・カッリエーラについては、2010.09.18日にヴェローニカ・カッリエーラ》(1~4)で触れました。]  

「カザノーヴァは生まれ故郷ヴェネツィアの修道女についてほぼ同じことを書いている。彼は彼女たちが愛人として魅力的であろうと考えた。彼が出会ったひとりはほれぼれするほど肉感的な女であったが、彼女は男性の肉体と同時に女性の肉体をも楽しみ、彼がそれまでに知っているどの女性よりも大きな興奮を与えてくれた。……」

「しかし、真の召命を受けた献身的な多くの修道女たちがいたことは疑うことのできない事実であり、このことはもっとも高額の持参金を持たせる余裕のある貴族(パトリツィオ)の娘たちがもっぱら修道女として入ったデッレ・ヴェルジニ修道院のような貴族的な女子修道院についても言えることであるとしても、また一八世紀末ころには女子修道院における規律がめだって厳格になっていたことも事実であるとしても、ヴェネツィアでは宗教や聖職者というものがあまり謹厳なものとは受け取られなかったのである。しかしヴェネツィアがどこから見ても信仰心のあつい都市であることに変わりはなかった。……」 (引用終り) 

追記: イタリアのコロナウイルス感染者は増え続けています。一つにはドゥエ・バーチの挨拶習慣も影響しているでしょう。ヴェーネト州では2月29日(土)から69名増えて、3月1日(日)には265名が陽性で、その内入院患者は64名と。因みにヴェネツィアは19名が陽性だそうで、カーニヴァルを日曜日で途中中止したのですが、あの混雑の中では感染の可能性は大きかったと思われます。

ヴェネツィア共和国は黒死病が入国することを恐れて、アドリア海から入港する船を港外に40日間(quarantena)留め置き、ペスト感染を防ごうとしていました。この quarantena という言葉が各国に伝わり、検疫という言葉が出来ました。今回のカーニヴァルではヴェネツィアはこの故事を思い出したことでしょう。1630年のペスト猖獗は菌が陸地から来た人経路だったそうです。
  1. 2020/03/01(日) 22:43:04|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(3)――その4

(続き)
「完全な静寂はヴェネツィアの賭博場でも見られた。貴族達が胴元で、物音といえば、トランプを両手に半数ずつもって切る音、持ち主が変わるときに硬貨とカウンターがチリン、チリンと鳴る音だけであった。賭博の規制を意図して、一六三八年にマルコ・ダンドロに、サン・モイゼ教会の近くの自邸に公営の遊興場(リドット)を開設する許可が与えられた。
グアルディ『リドット』.[『ヴェネツィアのリドット』(左、フランチェスコ・グァルディ、下左、ピエートロ・ロンギ画集、下中左、下中右、下右、ロンギのリドット画)] 
ピエートロ・ロンギ画集『ヴェネツィアのリドット』Il ridotto賭場の胴元この邸館はその後大幅に増築されて、大きな部屋一〇室をもつことになり、各室にはテーブルがいくつか備えられ、バッセッタやファラオーネからパンフィル、タロッコ、ビリビッソやツェッキネッタにいたる、あらゆる賭け勝負が行なわれた。このような賭博室の一つで、由緒あるモーロ家出身のある男が長年の間胴元をつとめた。彼は負けを支払うときも勝ちを受けるときも穏やかで冷静な表情を変えないことで有名であった。……」

「おおくの有名な貴族家門が賭博で没落したのちに一七七四年、大評議会(マッジョール・コンシーリオ)は七二〇対二一で公営遊興場(リドット)の閉鎖を議決し、建物は政府の官庁へ転用された。実はこの法律が通過すると予想していた議員はほとんどいなかった。多くの議員が賛成票を投じたのは、こうして賭博反対の意を示したところで、自分自身の楽しみが損なわれることはなかろうと確信していたからである。……」

「賭博はあまりにも強固に定着していたので、簡単に廃止することはできず、、公営遊興場(リドット)が開設されていたときと同様に、その後もヴェネツィアのいたるところで、邸館にある私営遊興場(リドット)で行なわれた。……」
[賭博熱については、2019.08.19日のヴェネツィアの賭博等で触れました。]

「貧しい人たちもまた貪欲に賭博に興じた。あまりに寒くて、あるいは雨天のため天水槽のおおいを賭博用の台に使えないときは《海難救助員宿泊所》の裏手のような場所があった。これは一七八二年に政府が閉鎖したクラブであるが、それまでは召使い、給仕、その妻や友人らがしばしば訪れた。

賭博はまた居酒屋、、床屋、そして市中の多数の葡萄酒酒場(マルヴァジエ)で行なわれた。葡萄酒酒場では労働者たちがベンチに座って、乾いてかたいヴェネツィアのパンをムシャムシャ食べながら陶器の瓶からエペイロス産葡萄酒(マルヴァジーア)をすすった。

さらに賭博に興じる人びとを見ることができる場所は、粗末な葡萄酒がスープと魚のフライとともに出される店として知られ、暗くて煙で黒くなったフラトーレであり、お客がウエハースに入れた泡立てクリームを食べる店であるペストリーニであり、葡萄酒とガルバ(渋い味のブランデーの水割り)とともに食べ物も買うことができ、物品を質に入れることができ、《遊蕩を目的として》部屋を借りることができるマガッゼンであり、そしてコーヒー店であった。

コーヒー店は、文人たちが集まる《カッフェ・メネガッツォ》や政府役人が贔屓にする《カッフェ・デイ・セグレターリ》から、コルフ島出身のある男が経営者で濃く甘いトルコ風コーヒーで有名な《カッフェ・クアードリ》や昔の《ヴェニス・トライアンファント》で一七二〇年にフロリアーノ・フランチェスコーニが引きついだ《カッフェ・フロリアーン》にいたるまで多種多様であった。

これらのコーヒー店のほとんどで経営者は新聞、官報、ときには書物さえも提供した。書物は、ヴェネツィアでは他のイタリア都市と比べて安く、他の地方では発禁処分となっている出版物ばかりでなく、優れた印刷の古典や現代文学を、書店のみならず市場の屋台店や街頭の呼び売り商人からも容易に買うことができた。

ほとんどすべてヴェネツィア方言で書かれた新聞『ガッゼッテ』は、どこにでもあった。掲載されている記事は、ニュースと噂話、調理法と園芸や家庭での修理の心得、売り物と探し物のリスト、書評と劇評、商取引の報告、そしてのちに二〇世紀初頭の『ガッゼッティーノ』に見出すことになるような記事であった。……」

「たいていの新聞は、詩人を自称した、ときに金のために売文家となる連中が編集していた。彼らはヴェネツィアに無数に存在する文学協会のいずれかに属していた。たとえばグラネッレスキ協会、すなわち金玉アカデミー(その紋章は爪に二つの睾丸をつかんだ〝ふくろう”であった)、ヴェントゥロージ協会、インペルトゥルバービリ協会、インペルフェッティ協会、シレンティ協会、アドルニ協会(寓話を書いた)、メッカニーチ協会(専門は猥褻文学)、あるいはアッカデーミア・デッリ・インフェコンディ(その入会資格は著述遮断、すなわち心理的要因から著述不能になっていることが要件であるので、入会以前に著作のある人はいなかった)などである。
[有名なグラネッレスキ協会については、2012.05.26日のダンドロ・ファルセッティ館で触れています。》

著述によって生計をたてている者はほとんどいなかった。……詩人のドメーニコ・ラッリは《実際に飢え死にした》と言われた。実際、ゴルドーニのように成功した多作の作家でさえ貧窮のうちに他界したのである。……」 (その5に続く)
[ゴルドーニについては、2009.10.10日のカルロ・ゴルドーニ》(4)等で触れています。]

追記: パードヴァ在住の人がコロナウイルスで亡くなったのはニュースで読んでいました。ヴェーネト州の感染者が25人にもなり、ヴェネツィア在住の88歳の老人が2人入院の結果、感染陽性が判明し、急遽ヴェネツィアのカーニヴァルは日曜日で中止の事態となりました。ホテルは40%程度しか今年は埋まらなかったと聞きましたが、25日のmartedì grassoまで続く予定だったカーニヴァルも突如中止となれば、観光客は直ぐヴェネツィアを去って行くでしょう。
  1. 2020/02/23(日) 17:37:30|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(3)――(その3)

(続き)
「賭博場(カジノ)で夜を過ごした貴族たちは、就寝前に大運河の河岸に係留された船へ果物を買いに行った。……貴族たちが床に就くころ、商人たちは会計室に入り、法律家たちや政府の役人たちはデスクに向かって座り、九時から一時まで仕事を続けた。

良心的な貴族たちは責務を遂行するために敏速に到着して怠け者の仲間を赤面させた。大評議会(マッジョール・・コンシーリオ)は――議員総数は一八世紀初頭の一七三一名から一七六九年には九六二名に減少していた――毎日、夏季には八時より正午まで、冬季には正午より日没まで開会し、例外は二つだけあった。無欠席を自慢できる議員もいた。十人委員会(コンシーリオ・デイ・ディエチ)と国家審問委員会(インクイジトーリ・ディ・スタート)はしばしば終日仕事を続けた。……
codeghe [codeghe] 夜間に市の大部分が闇に閉ざされたのは従来と変わらなかった。いくつかの小路(カッレ)では、照明といえばちらちらするランプ一つだけ、あるいは祠堂を照らす蠟燭の光しかなかった。もっとも一七一九年以後は商店主は一般に店舗の外にランプをつるすようになった。しかし一七三二年以前には多くの街区で街灯はまれであり、それ以後でさえコデーゲと呼ばれる松明持ちをやとって、暗い街路を通りつるつるすべる橋を渡るときに道を照らしてもらう歩行者がまだいたのである。

しかしヴェネツィアの街路は、照明は悪かったけれども、いまではヨーロッパの他の大部分の都市よりも安全であった。これは一つには国営造船所(アルセナーレ)の砲手(ボンバルディエーレ)や船板のすきまに詰め物をする槇皮職人(カラファート)のおかげであった。彼らに要請して、謝肉祭期間に街路を行進する武装市民からなる民兵隊を援助してもらうことができたからである。
……
国事犯監獄への恐怖、そしてそこでの秘密の刑罰や拷問への恐怖は容易には消えなかった。人びとは、歯や舌を引き抜く道具や頭蓋骨を砕く道具について、また国家査問委員会の猛毒について、こわごわ小声で話した。……十人委員会の監獄はいまも存在したが、そのいずれかに犯罪者が投獄される可能性はきわめて小さかった。……統領宮殿の一階の、《井戸(ポッツィ)》と呼ばれる牢獄、つまり暗く水があふれた独房のなかで囚人がかつては乏しい食物をねずみと奪い合った土牢に投獄されたり、これほど恐ろしくないが、溜め息橋(ポンテ・デイ・ソスピーリ)から入り、パラッツォ運河を見下ろすカロメッティ・ディ・クアットロの独房にさえ投獄されることは、あまり考えられなかった。
……
十七世紀にあった一八の公営劇場のいくつかは閉鎖されていたけれども、その後他の劇場が建造されたり拡張されたりして、一七九二年五月、フェニーチェ劇場(テアトロ・ラ・フェニーチェ)のこけらおとしの際には、この劇場のライヴァルは七または八であった。ほぼすべての劇場が貴族の所有であり、もっとも人気の高い劇場は、イタリアの他の地方では休演となる金曜日をふくめて、毎晩満員となった。そのため、市民に人気のあるいくつかの芝居やオペラの上演中には、ガスパレ・ゴッヅィが言ったように、市中の個人の家はすべて貸家かと思われる状態になった。

豪華な道具立てと独創的な舞台装置をともなう芝居がもっとも熱烈に歓迎された。そればかりか、外国人が観察して仰天したのは、役者たちに対する明白な無関心ぶりであった。観客はしばしば大騒ぎしており、仲間同士でしゃべり、賭博をし、接吻をし、冗談を言い、叫び、口笛を吹いた。ゴンドラの漕ぎ手は古くからの慣習でしばしば無料で入場を認められ、座席越しにたがいに大声をかけ合った。

仕切り席の若い貴族たちは、《極端に下品(マッシマ・インデチェンツァ)》な服装の情婦を連れており、蠟燭の燃えさしやリンゴの芯を落とし、下にいる人びとの頭に唾をはきかけた。比較的大きな劇場では、四列の仕切り席の最上段の席では、しばしば男女の情交場面が見られた。場内が静まるのは、有名な詠唱が歌われるとき、人気ダンサーが肌を露出させた衣装で熟練した踊りを見せるとき、あるいは受けがよいコメディアンが一時的に注目を集めるときであった。
……
交響楽団や音楽学校(コンセルヴァトーリオ)における演奏は静かに傾聴されたので、劇場の場合とは著しい対照をなしていた。四つの慈善院、インクラービリ、メンディカンティ、オスペダレット、ピエタに収容された女子の孤児たちは、ヨーロッパでは比肩するもののない手がたい音楽教育を受け、彼女たちが催す音楽会は参加した人びとすべてを魅了した。

……イギリスの音楽学者チャールズ・バーニーは一七七〇年代にヴェネツィアに滞在したが、彼のように判断力のある外国人はヴェネツィア人のパフォーマンスの趣味のよさ、識別力、技量を激賞し、またゴンドラの漕ぎ手の歌の魅力を誉めそやした。……

ヴェネツィアは早くも一六世紀初めにアドリアーン・ヴィラールトの影響のもとにマドリガルの作曲と個人的な楽奏の中心地として指折りの存在となっており、その世紀の中ごろにはヴェネツィアはヨーロッパの楽譜出版の中心地であった。音楽における市の名声は、一五六四年にジュゼッペ・ヅァルリーノがサン・マルコ寺院(バジリカ)の聖歌隊指揮者(マエストロ・ディ・カッペッラ)に任命されて以来高まっていた。彼は最初の器楽合奏団を編成し、歌唱や奏楽を市の教会(このうち一〇〇以上の教会にオルガンがあった)においてだけでなく同信組合(スクオーラ)においても奨励した。

音楽は、一六〇三年に聖歌隊指揮者となったジョヴァンニ・クローチェの時代に、そしてサン・マルコ寺院のオルガン奏者、作曲家であり、一七世紀初頭にヴェネツィアに留学した多くの外国人学生たち数人の師であったジョヴァンニ・ガブリエーリの時代に、引きつづいて隆盛をみた。
クラウディオ・モンテヴェルディモンテヴェルディの墓[左、モンテヴェルディの本、右、モンテヴェルディの墓、フラーリ教会正面左のカッペッラにあります。サイトから借用] しかしヴェネツィアの作曲が一つの流派として円熟期に入ったのは、一六一三年にヴェネツィアに来て、死去するまで三〇年間を過ごしたモンテヴェルディの時代であった。いまやオペラが盛んになりはじめ、モンテヴェルディ自身ヴェネツィア最初のオペラ劇場サン・カッシャーノ(カッスィアーノ)劇場のためにオペラを作曲したばかりでなく、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロやサン・モイゼのオペラ劇場やノヴィッシモ劇場のために作曲した。
新カッスィアーノ劇場前[世界初のオペラ劇場、旧・新サン・カッスィアーノ劇場前テアートロ小広場。建物のあった所は現在、アルブリッツィ館の庭となっています]  これらの劇場のために、そしてその後の劇場――サン・サムエーレ、サンタンジェロ、サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ、そしてサン・サルヴァトーレの劇場――のために、つねに新しい作品の需要があり、一七、一八世紀を通じてとどこおりなく供給された。
ガルッピ像[ブラーノ島B. ガルッピ広場のガルッピ像] 上演されたのは、ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリ、ジョヴァンニ・パイジエッロとニコロ・ヨンメッリ、ニッコロ・ピッチンニ(orニコーラ・ピッチーニ)とブラーノ島生まれのバルダッサーレ・ガルッピ(インクラービリ音楽学校の聖歌隊指揮者となった)、ドメーニコ・スカルラッティらの作品である。……」
  1. 2020/02/17(月) 00:00:00|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(3)―その2

(続き)
「……宗教的祭典もいまなお世俗的祝祭と同様に見ごたえがあった。ヴェネツィア市民が毎年楽しみにしている祭典が二つあった。疫病からの救済を神に感謝するために建造された二つの教会、レデントーレ教会とサルーテ教会の祭りであった。
ヴェネツィア上ヴェネツィア下七月の第三日曜日のレデントーレ教会の祭日には、運河に教会まで小舟をつないだ浮き橋がかけられた。群衆はフォンダメンテ・デッレ・ザッテレから統領(ドージェ)と総理府(シニョリーア)の役人たちに続いて花で覆われた橋を渡り――この慣習は今日もこのままである――その夜は明け方まで祭りが続き、彩色カンテラの下で歌い、踊り、花火の閃光の下でモーレ・デル・レデントーレと呼ばれる桑の実を食べ、夜明けが近づくと、日の出を見物するためにリード島へ漕ぎ出した。
『レデントーレの夜』サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用[左、ガブリエール・ベッラ画『レデントーレの夜』、右、1939年以前のサルーテ教会のponte votivo] 
過去数世紀にわたってそうであったように、クリスマス、復活祭、聖体祝日、昇天節には宗教上の祭典が催され、サン・マルコ広場では工芸品の大市が開かれた。……」

「キリスト昇天祭(フェスタ・デッラッシェンシヨーネ)には、幾世紀にも及ぶ歴史をもつ海との結婚のために、儀典用御座船(ブチントーロ)に従ってあらゆる種類の船がラグーナを渡った。御座船が小広場に帰着するまで教会の鐘が鳴り、礼砲が打ち上げられた。統領と随員たちは統領宮殿の宴会の間に入り、そこではテーブルが整えられて中央にはムラーノ島のガラス製の飾り杯(アルツァータ)、砂糖と蠟でできた凱旋門や城、そしてドラゴンが配されていた。

ついで一二月二六日の聖ステファヌスの祝日に長い謝肉祭(カルネヴァーレ)が始まった。……」

「昼間は市のいたるところで芸当や見世物があり、闘牛や気球のり、仮装パレード、熊いじめ、拳闘や格闘技の試合、笑劇や人形芝居、宙返り曲芸師の、ゴンドラの漕ぎ手の、そしてカステッラーニ党とニコロッティ党の軽業の妙技が披露された。彼らは《ヘラクレスの力業(フォルツェ・デールコレ)》と呼ばれる驚くほど敏捷な離れ業によって、小広場や大運河でたがいに肩の上にのる演技を見せ、大運河の場合には船のなかに立って肩に厚板をのせて均衡をとりながら、雛壇式にしだいに高くなり、ついには人間のバリケード全体がくずれて、叫び声と笑いのなかを海中へ落ちてしまうのであった。……」
ガブリエール・ベッラ画『ピアッツェッタでのカーニヴァルの最終木曜日の祭』[ガブリエール・ベッラ画『ピアッツェッタでのカーニヴァル最終木曜日の祭』] 「謝肉祭の最終日の真夜中になると、サン・マルコ大聖堂(バシリカ)とサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会の鐘が鳴って、今年の楽しいお祭り騒ぎは終わったことを告げ、最後の花火がシューと音をたてて大運河のなかへ落ち、群衆は広場(カンポ)から歩いて家路につき、人々が去ったあとの舗道は、ポンペーオ・モルメンティの言葉によれば《リボン、衣服がちぎれた切れ端、羽毛、紙吹雪、オレンジの皮、カボチャの種》が散乱していた。」
……
「翌朝、夜が明ける一時間前に教会の鐘が鳴り、早朝の祈祷(マットゥーティン)の時を告げる。そして夜警が統領宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)から行進して去って行くと、サン・マルコの鐘のとどろくような音色マランゴーナがふたたび響きわたる。その後まもなく玄関の扉が開いて労働者たちが短い仕事着を着てゆったりしたズボンをはいた姿を現わし、幾人かは仕事場へ向かう途中で足をとめてミサを聞き、あるいは街角の祠堂で急いで祈るのであった。

まもなく街路は鋳造工場、陶器製造所、ガラス製造所へ向かう労働者たちであふれ……。 ……」 (その3に続く)
  1. 2020/02/08(土) 13:03:32|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ヴェネツィアの18世紀(3)―その1

ヴェネツィアについて書いた本に、クリストファー・ヒバート著『ヴェネツィアVenezia』上下(横山徳爾訳、原書房、1997年5月10日)というのがあります。私の関心のある18世紀について、次のような事を述べています。
ヴェネツィア上ヴェネツィア下「……旅行者の数は年ごとに増加した――ドイツ人、フランス人、ポーランド人、スペイン人、とりわけイギリス人である。実際レイディ・メアリー・ワートリー・モンタギューが選んだ言葉を使えば、イギリス人は定期的な『洪水のように殺到した』。彼女は一七三九―四〇年に、そして一七五〇年代と一七六〇年代にヴェネツィアで数か月を過ごしたが、グランド・ツアーの途中に謝肉祭(カルネヴァーレ)に合わせてお供の家庭教師とともにヴェネツィアへ到来する同胞青年たちの行状を腹にすえかねていたのである。」
……
「外国人向けにはおびただしい数の快適な下宿(ペンシオーネ)があり、すばらしいホテルもいくつかあった。そのなかには《国王》屋(アルベルゴ・レアーレ)、《フランスの紋章》屋(スクード・ディ・フランチャ)、《イングランド女王》屋(レジーナ・ディンギルテッラ)、《騎士道》屋、《乙女》屋(ドンゼッラ)、《三人の王様》屋(トレ・レ)、《白獅子》屋(レオン・ビアンコ)などがあり、最後のホテルには一七六九年に皇帝ヨーゼフ二世がお忍びで、一七八二年にはロシアのパーヴェル・ペトローヴィチ大公が滞在した。これらすべてのホテルで食物はおいしく、一八世紀が経過していくにつれて食事は高価になったけれども、イタリアの他の都市に比べると値段は高くなかった。」
……
「《ヴェネツィアで見られるような、あらゆる種類の、数多くのすばらしい祝祭、式典、民衆の娯楽はヨーロッパのどこにもない》と、あるフランス人の旅行者は書いている。催し物には、往古の繁栄を記念するためばかりでなく旅行者を引き寄せる意図があったが、毎年恒例の行事もあり、必要に応じて催されるものもあった。統領(ドージェ)の選挙は歳月が経過しても華麗さを少しも失わなかった。

マルカントーニオ・ジュスティニアンの後任としてフランチェスコ・モロシーニが統領に選ばれたときには、儀典用御座船(ブチントーロ)に盛装した役人や貴族がおおぜい乗り込み、同じように入念に飾りたてた小型船を何十隻も従えて、リード島に向かった。

そこでは新統領が御座船の到着を待ち受けていた。彼は御座船で運ばれて小広場まで戻り、大きな凱旋門の下を通過して、周囲で海豚が口から葡萄酒を貝殻のなかへ吹き出しているネプトゥーヌスの像のそばを歩いて、窓から大きな幟やダマスク織りが掛けられている統領宮殿(パラッツォ・ドゥカーレ)へ近づいた。巨人の階段(スカーラ・デイ・ジガンティ)を上りつめたところで戴冠されることになっていた。祝典は三日間続き、街路に出た民衆は仮面をつけ、客人たちが舞踏会や晩餐会、賭博パーティ、仮面舞踏会に参加するために邸館のなかへ姿を消した。」……
ナーニ館での宴[『ナーニ館での宴』―Clemens August von Köln。カ・レッツォーニコ館蔵。サイトから借用]
「一七〇八年のデンマーク・ノルウェー国王、一七四〇年のポーランド国王、一七六四年のヨーク公、一七六七年のヴュルテンベルク公、一七七五年の皇帝ヨーゼフ二世、一七八二年のロシアのパーヴェル・ペトローヴィチ大公と教皇ピウス六世、そして一七八四年のスウェーデン国王の訪問は、すべてこのような祝典によって祝われた。一七五五年の、ケルン大司教・選帝侯であるバイエルン公クレメンス・アウグストの訪問は、ジュデッカ島のパラッツォ・ナーニで催された豪勢な宴会によって注目され、この宴会はピエトロ・ロンギの流派に属する画家によって描かれている。」 (その2に続く)

  1. 2020/02/01(土) 15:15:37|
  2. ヴェネツィアの歴史
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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