イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(4) 

(続き)
「“カタログ”の中で低額の娼婦の傍で(210人中79人の娼婦は1スクードで満足している。《セルヴィのエーレナ・ロッサ》は正に0.5スクードであり、そんな人が4人いる。《アゼーオ橋のキアレッタ・パドヴァーナ》《サント・アポナールのラウレッタ・カヴァルカドーラ》《カステッロのルグレーティア・モルテジーナ》《ピストールの真ん中のマリーン通りのマリエータ・ヴェレーラ》で、彼女達に客は欲しがるものを与えることが出来る)、当時のお金を稼げる可能性に関して、全く些細な幸運を求める少女達に客達は出会うのである。

20スクード稼ぐ《サン・トーマ[San Thoma―当時はS.Tomàではない。サント・ステーファノもSan Stefanoと言われたりした]のチェチーリア・カラッファ》から、25スクードのリーヴィア・アッザリーナや、実に30スクード要求する《サンタ・ルチーアのパウリーナ・フィーラ・カネーヴォ》までいる。

トゥッリア・ダラゴーナに関しては、1535年に刊行された“娼婦料金表”は“カタログ”印刷時に指導的役割を果たし、出版意向と類似の実用性を込めて編集されたということではないけれども、7スクードの額を彼女に割り当てている。譬えジョヴァン・バッティスタ・ジラルディ・チンツィオが言うように、彼女が一晩過ごした独人から100スクードも稼いだことがあったにしてもである。彼女の立場に立てば、空想ではあるが、アントンフランチェスコ・ドーニは贅を尽くした、素晴らしい館に共に宿泊したかった美女の一人の好意を得たいがため、最高額として25スクードを提示した。

ヴェローニカについての浩瀚で資料豊富な研究書の著者アルトゥーロ・グラフは、彼女の職業が明白であるにも拘らず、“カタログ”においては、その能力があるのに彼女の要求する額が余りに低いので、“手引書”の著者の中に誹謗するような意味を感じ取っている。

問題となることは殆ど重要でないが、“カタログ”が1566年と思われるように(確かにそれは1570年以前であるが)本当に出版されていたならば、我らが高級娼婦詩人はその若い年齢からしてまだ駆け出しであったに違いない(彼女は多分1546年に生まれた)。しかしそれは彼女の人生で、より以前に記録された職業的、文学的成功からは程遠いものであった。

18世紀初頭、愚かしさが頂点に到達する。G. カノーニチ・ファッキーニの「15世紀から現代までの文学における、有名イタリア女性の伝記的側面」は、《この美しい、能弁で輝く女性は……若い年頃で書くという喜びと文化の、正に愛の隠れ家を作り上げていた。若い身空で未亡人となり、引き篭もり、文学に専念する……》。

もっと用心深く言えば、前世紀のヴェネツィアの博識なるネストルである、エマヌエール・チコーニャは、この職業の際どい話は避けるようにしていた。そして断言した。《ヴェローニカは独特の美しさを持った女性だった。だから沢山の恋人達がおり、彼らにかなり喜んで身を捧げた》。
[ネストル(Nestore)はトロイ戦争におけるギリシア軍の最も賢明な長老。]

ヴェローニカを、彼女自身とは違った人間であるとする、洗練さに欠ける試みの前では、改心後は品行方正に生活すると称賛するといった風に彼女に関わってきた、1700年代の唯一の評論家、ジョヴァンニ・デッリ・アゴスティーニ師の試みは殆ど悲愴的とも言える。

もう一人のセッテチェントの碩学フラミーニオ・コルネールによって、受容された伝承を基にすれば、彼女は聖ゲオルギウス(S. Giorgio)への祈願として、悔いた娼婦を収容する《救護の慈善院》を創立したかったのである。それは最初トレンティーニに設置され、その後サン・トロヴァーゾ教区に、それもサンタ・マリーア・カルミネ教会からほど遠からぬ所に設置された。

このため直ぐに次のように言われた。1570年11月1日に書かれた彼女の第2の遺言状の中でヴェローニカは、相続人が自分より前に死んだ場合は、自分の財産は次の人に贈られる。即ち《善良な若い娘に贈る。しかしこの仕事を捨てたいと思う娼婦が二人見つかったなら、それに値するか、修道女になるなら、その場合はその二人の娼婦を受け入れ、若い娘は止める》。

そして1580年に、総督とセレニッスィマ政庁に見せるための《秘密のaricordo(形見)》を書いていた。その中で、救護院あるいは収容所の設立を提案していた。そこでは生活を変えたいと望んでいる娼婦をその子供共に受け入れることが出来るのである。しかし《秘密のaricordo(遺言)》にも書かれていることであるが、その中でフランコは、自分の相続人のための年500ドゥカートの年金と引き換えに彼女自身が提案した企画の実現を申し出ており、彼女の進言のお蔭で掻き集めることの出来る金額を引き出せるのである。その《秘密の遺言》は救護院の古文書館に存在し、チコーニャに出版された文書の余白のメモから判るように、公にされなかった。

そして正にこの考えから、その後そうした機関が奏効的に設立される芽が吹き出す可能性があっても、想像であるが、ヴェローニカはその組織とその発展に積極的に参加するということはなく、そこから身を引いていたのである。……」 (引用終り)
  1. 2018/06/01(金) 00:05:41|
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書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(2) 

(続き)
「《書簡》の美しき著者は、5年前弱、《セレニッシモな我が殿御で御座せられ、尊敬措く能わざるマントヴァとモンフェッラートの公爵》に捧げた《第三詩集》を出版した詩人でもあるが、その捧げられたグリエルモ・ゴンザーガは、ルネサンスがこの地に留まり、多様化するのを見たのであり、量においても質においてもヴェネツィアはローマに張り合った、恋愛商売という軍団に属していた。
ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』[ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』、米国マサチューセッツ州ウースター美術館蔵]   即ち高級娼婦とは、売春の中でも選りすぐりの階級であり、1500年代に正にヴェネツィアで栄えた、洗練され、享楽的な文化のオリジナルな表現であり、その時代は最も熱っぽく、肉欲的で、繫栄した季節であった。そして彼女自身が正にその手紙の中で説明しなければならなかったように、儲けは多いが危険も多い、その仕事の中で成功したということ、その事を特にセンセーショナルな出来事として示している。

即ちフランス王であり、且つポーランド王であったヴァロワ家のアンリ3世の1574年7月18日から28日の間の、ヴェネツィア共和国表敬訪問の機会に、レーパント戦勝後の沈滞した国家の威信の強化にその存在そのものが貢献する賓客を、セレニスィマ共和国は幻惑しようとの目的で催した祝宴の渦の中で、彼女、ヴェローニカと丸一晩過ごせるよう、彼に身柄を任せられるよう求めたのであった。

そしてヴェローニカは、彼女達の席順の第一位にランクされるという名誉に満足し、王のような奉仕で報いられ(彼女の料金が《カタログ》の倹しい2スクード金貨に比べてかなり増えたことは確かである。第24代ヴァロワはリアルトまでの散歩中、貴金属店で素晴らしい宝石を鏤めた錫杖を手に入れるのに、平然と26000スクードも支払うようなタイプの人間だった)、素晴らしいこの贈物を手にする王、即ちティントレットに描かせた彼の肖像画にペトラルカ風の2篇の飾り立てたソネットを添えて、返礼とした。

また職業、この仕事についてヴェローニカは隠そうと思っていないどころか、逆だった。その態度は事実上、《腐敗して》《醜悪で》《卑猥な》等のカテゴリーに属する状況以上のもので(世界で最古の職業についてのモラリストの言葉は、最もエレガントな意味の中でも責めや非難といった用語が夥しいが)、結局は他の全ての事以上に一つの文学的な事件であったし、現在もあり続けている、そうした事の嚆矢となった。

詩を書いた高級娼婦については、ヴェネツィアとローマで大成功したヘタイライ(Etera―古代ギリシアの高級娼婦、一般の娼婦はポルナイ)だったトゥッリア・ダラゴーナを始めとして、既に他所でも存在した。しかしこの世界へのはっきりした彼女の登場は、あらゆる事を考慮に入れてもそれは平穏なものであったし、後悔していますと喪服用の黒ベールで身を隠したりとか、弁解がましい態度で身繕いしたり等しない詩人ヴェローニカに対する純粋の共感が、ある批評家以上に根底にあったのだが、他の批評家から手厳しく非難される原因でもあったように、モラリスト的偏見に満ちたものであった。そして時間の経過と共に、全く弱まっていきそうにない興味が持たれてしまう始まりだった。

上で述べた偏見がために生じた、その世評がいかなる時点まで広まっていくのか、あらゆる真実や根拠に対して、ヴェローニカの職業を隠蔽し、変装させようとする多くの努力が試みられた。博識のヴェネツィア人ジュゼッペ・タッスィーニよって出版されたものは、現在では基本となる、ヴェローニカについての最初のヴァージョンで、その題名で、この女流詩人を《ヴェネツィア娼婦》と規定した。

それは他の研究者のリアクションを活発に惹起し、少々いい加減ではあるが情熱的に取り組んだジャンヤーコポ・フォンターナは、ヴェローニカは決して娼婦などではなく、ただ変わった主婦であっただけで、夫婦の倫理に関しては、やや軽率であった、と支持し難い論文で述べている。

仏王アンリの訪問についてもフォンターナは、《汚らわしくも悍ましい娼宅に、アンリ3世を受け入れるなど許されもしなかったし、ティントレットが肖像画を描いて、最初から携えてきて彼女と共に過ごすなどなかった》と断言した。
Cortigiana veneziana[以下の引用に誤訳があると思えますので、原文を図版として掲げます] そして結論として《社会や文学に貢献した人から月桂冠を奪取しない……天賦の才の価値を駄目にするほどのものではない、誰にもある人間の弱さというものを赤裸々にはしない……謝意を持って敬意を表すべき名前の人から聖なるベールを手荒に剥ぎ取らない……外国語の読書で壊れてしまった美的センスを持って生きていかねばならない悪徳の巣窟で、愚か者達に求められても協力しない。
しかしかくして、売春が文学となっていく……》 ……」 (3に続く)
  1. 2018/05/18(金) 09:24:58|
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文学に表れたイタリア――ニッコロ・アンマニーティ

先日8月30日の新聞に第70回の《ベネチア映画祭開幕》の記事が出ました。それによりますと、日本からは宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』が出品されるそうです。審査員には坂本龍一氏が招聘され、その審査員長にはベルナルド・ベルトルッチ監督が選ばれ「私が求めるのは驚きのある作品だ。金獅子賞は非常に重く大切な賞。私の希望を超えるものが受賞すればいい」と期待を寄せているそうです。

遅蒔きながらこの8月末ベルトルッチ監督が10年振りに手掛けた映画『孤独な天使たち(Io e te)』を見ました。私が今まで見たベルトルッチ監督作品と言えば、『殺し』(1962)に始まって、『革命前夜』(1964)、『暗殺の森』(1970)、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(1972)、『1900年』(1976)で、『ルナ』(1979)、『ラストエンペラー』(1987)、『シェルタリング・スカイ』(1990)、『リトル・ブッダ』(1993)等は見ていません。
『孤独な天使たち』『孤独な天使たち』裏この映画(2013)は、友達もいない、自閉症気味の少年ロレンツォが母親に嘘を言って閉じ籠った地下室に、偶々異母姉のオリヴィアが闖入し、あまり良く知らなかった、薬中毒のその姉と地下室という密室で容赦ない関わりを持ち、次第に外の世界への目線が拓けていくという過程が描かれていますが、私にとって『1900年』のイメージが強過ぎるのか、今回の『孤独な天使たち』はベルトルッチ監督のまた一つ違った側面を見たように感じました。
『孤独な天使たち』本この映画の原作『Io e te』。原作者のニッコロ・アンマニーティ(Niccolo' Ammaniti――1966.09.25ローマ~  )について、訳者である、ヴェネツィア大学日本語科で日本語教師をされている中山エツコさんは『孤独な天使たち』(河出書房新社)の《訳者あとがき》の中で、60年代生まれの作家達、カニバリズムの若者達の一人で、暴力と血に塗れたスプラッター作品を書くカンニーバレ(食人族)の一人だと紹介されています。
『Io non ho paura』アンマニーティ・インタビュー 1アンマニーティ・インタビュー2また彼には映画『ぼくは怖くない(Io non ho paura)』(2004年日本公開)の同名の原作[『ぼくは怖くない』(荒瀬ゆみこ訳、早川書房、2002年12月、ヴィアレッジョ賞受賞)]や本書があるように、「実際、《アンマニーティはふたりいる》などとも言われるほどに、著者は主にふたつの対照的な傾向の作品を発表してきている」のだそうです。以下にこの小説から若干の引用をしてみます。

「ぼくは不安で息もできなかった。ぼくは落書きの字や絵でいっぱいの塀に身をもたせかけた。どうして学校へなど行かなければならないのだろう。どうして世界はそういうふうになっているのだろう。生まれて、学校へ行き、仕事をして、死ぬ。そういうのが正しいなんて、いったい誰が決めたのだろう。違うふうに生きることはできないのだろうか。原始時代の人間みたいに。ラウラおばあちゃんのように。

おばあちゃんが子どものころは、家で学校をやった。教師が家まで通ってきたのだ。どうしてぼくも、そういうふうにできないのだろう。どうして、ぼくのことを放っておいてくれないのだろう。どうして、ほかのみんなと同じでなければならないのだろう。どうして、カナダの森のなかでひとりで暮らすことができないのだろう。
……
ぼくは言葉を返せず、頭を低くして黙っていた。いったいぼくにどうしろって言うんだ? 姉貴ですらないんだ。ぼくは彼女のことなど知りもしない。ぼくは誰にもやっかいをかけたりしないのに、どうしてこいつは僕を煩わせるんだ? ぼくの巣のなかにウソの約束をして入りこみ、そして今は出ていかないと言いはる。
……
ぼくはうんざりした仕草をし、恥ずかしがりながらも踊りだした。ああ、これだ。ぼくのいちばん嫌いなこと。踊ることだ。
でも、その夜はぼくも踊った。そして踊りながら、なにか新しい感じが、生きている感じがしてきて、ぼくは息の詰まる思いだった、何時間かしたら、ぼくはこの地下室から出るだろう。そしてまた、すべてが前と同じに戻るだろう。

それでも、ぼくにはわかっていた。あのドアの向こうに世界が待っていることが。ぼくもみんなのひとりのように人と話ができることが。なにかをしようと決め、そしてそれをする。ぼくは出発できるはずだ。寄宿学校に行くことだってできる。部屋の家具を替えることだってできる。 ……」
  ――ニッコロ・アンマニーティ著『孤独な天使たち』(中山エツコ訳、河出書房新社、2013年2月28日)より
  1. 2013/09/03(火) 12:05:42|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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