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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

リアルト橋

2000年の大聖年の年から6年間、ヴェネツィアの語学学校に通いました。仕事がありましたので、年に精々2~3か月間でしたが、レベル1から始まりました。現在のコロナ騒ぎで学校はどうなったでしょうか。伊語の学校には外国人しか学びに来ません。国境は閉鎖状態で観光客もまばらなヴェネツィア! 市は観光客もいない状態で、市の美術館や博物館も閉鎖することにしたそうです。

学校から伊語の勉強を怠るな、と能くヴェネツィアに関する書物からの引用文をメールで送ってくれていました。その中に、リアルト橋についての引用文がありました。リアルト橋については以前にも何度か触れていますが、視点の異なることと文章が非常に難しかったので、譯の練習を兼ねて、蛮勇を奮って訳してみました。どういう人が書かれた文かは判りません。

「……1507年、十人委員会は、木製のリアルト橋を石製に取り換える意向を固めた。石製は3アーチで、中間に2橋台・2橋脚という、中央が通過出来る様に開かれた構造とされた(最初の石造製の構想)。有能な技術者がいたにも拘わらず、年月が経った。
カルパッチョのリアルト橋[カルパッチョ画の木造のリアルト橋(部分画)]  1527年から彫刻家で建築家のサンソヴィーノ(ヤーコポ・タッティ)がヴェネツィアに最終的に定住した。彼はサン・マルコ政庁の印刷者であり、サン・マルコ小広場を古代ローマ様式に再生させるためのクリエーターとして任命されていた。

貴族のアルヴィーゼ・ドナは航海に長けた愛好家だった。1537年、3アーチの橋のモデル(第4番目の構想)を既に完成させていた。1546年、十人委員会は以前にピエートロ・デ・グベルニに相談を持ち掛けていた。彼は塩と海洋庁の職長で、単独アーチの木造橋のモデル(第5番目の構想)でサンソヴィーノに重大な疑問を投げ掛けていた。

1551年には石造橋についての質問が元老院に強力に投げ付けられた。工事の監督官には、サンソヴィーノの支持者であったヴェットール・グリマーニとアントーニオ・カッペッロが選ばれた。
アルピーニ橋[サイトから借用。1569年バッサーノ・デル・グラッパに架橋されたパッラーディオの屋根付きの木造の“ヴェッキオ橋”、アルピーニ橋とか屋根付き故コペルト橋等呼ばれます]  竟にコンクールが公募された。ヴェネツィアのマエーストロやイタリア各地の人が公募に応じた。サンソヴィーノ以外にもバルバロ兄弟に支持されていたヴィチェンツァ出身のパッラーディオも応募した(バルバロ兄弟の、ダニエーレはアクイレーイアの貴族で、パッラーディオの挿画入りの、ウィトルウィウスの『建築について』の知的翻訳者であり、マルカントーニオはドミヌスの施政官、サン・マルコ収入役で、サンソヴィーノ図書館[サン・マルコ図書館]完成に尽力した)。
……
街を美しくしたいという通常の目的には橋も含まれていたが――それは特にサン・マルコ地区を変えたいということが中心であった――パッラーディオの構想はそれまで知られていなかったが故に、無に帰した。彼は観念的、象徴的、水力学的な発想の時期にいたのかも知れない。
……
パッラーディオはその時、出向で遠くにいたのであったが、必要な場合は、事に対して批判的にもなって、自分の論文にリアルト橋の3アーチという野心的な構想を導入していた。木造ということは部分的な修復が可能という、十人委員会の認めていたことのために後々まで彼の心に残っていた。
Palladio[パッラーディオ、サイトから借用]  彼のその悲しむべき状態の前で、元老院は新しい橋を完璧に遂行するために、3人の監督官を任命することを決めた。橋の輪郭は大評議会が大衆的見地から認めるものとなるかも知れなかった。
……
1587年[この年再度の公募が行われました]12月28日、前例にはなかったような手続きで、政府の役人達は最初の相手に、更に質疑に応じることの出来る全専門家に向き合った。9つの関係する質問があり、それは安全性、費用、建造の難度、高さ、通行人や船の利便性、潮の流れ、障害物、埋め立ての危険度、橋の美観だった。そのデッサンが監督官の家に張り巡らされていたので、現在我々は職人衆の証言内容が判るのである。

質疑に応じて、ヴィチェンツァの建築家の、パッラーディオの弟子であったヴィンチェンツォ・スカモッツィもコンクールに参加[師のパッラーディオの死は1580年]し、“コンクールに参加”と署名したように、それは戦いであった。

スカモッツィ(同じ様にマルカントーニオ・バルバロに支持され、援助されていた)によれば、3アーチと水流の川床中間部に埋め込んだ2本の橋脚で橋を建造することが必要だった。古代ローマの建築家が教えているように、正しい教えは長期となる建造期間中に結果が出るのである。単独アーチの橋という考えは、未開人の意見であって、橋は偏に橋台の堅牢度に委ねられる。故に、その橋の強度の持続は短期間だけの事である。[直ぐに崩れるの意]

リアルトのために、彼は中間の2つの橋脚の中央に完全な半円形の大きなアーチを提案した。河岸上の橋台と共に2つの小さなアーチを支えるだろう。
……
アントーニオ・ダ・ポンテ像[ダ・ポンテ像、サイトから借用]  18世紀の研究者によると、3アーチという解決策を持つヴィンチェンツォ・スカモッツィの案が元老院に選ばれるはずだった(1587年)としている。17世紀と19世紀の歴史家は、提出された色々の案について仄めかしているが、選択としては単独アーチのアントーニオ・ダ・ポンテ案が考慮された(彼は建造現場の監督だった)としている。
[アーチ1個案が選ばれる結果になりました]
……
実際の建造作業と共和国の政府機関の、危険を能く知った配慮が失敗を阻止した結果となったが、困難な過程は大きな橋が失敗作になった可能性もあった。しかしそれは、大運河の川床に支えられた訳でもなく、中断なしに大きなアーチで大運河を跨越し、泥濘に打ち込まれた橋台の重さの圧力に堂々と耐え、潮の流れや巨大船も危険なく上向下降させ、大理石の舞台、というよりモニュメンタルな背景、言わずと知れた水の大通りを、隠すことなく正しく設定したからである。
ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』鳥瞰的リアルト橋[左、ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』] それは直ぐ様、ヨーロッパ中に知れ渡った。……」
 ――ヴェネツィア学院送付の文章から

各国の語学生で成り立つ語学学校です。コロナ禍中、人の行き来が途絶えれば、生徒はゼロ、経営破綻は目に見えています。日本の日本語学校も同様でしょう。懐かしい先生方の顔が目に浮かびます。何とも成す術はありません。下手な訳文、申し訳ありません。
  1. 2021/01/08(金) 23:20:43|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィアの橋: 嘆きの橋

M. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話伝説』(Newton Compton editori、2007.10)に溜息の橋についてのお話があります。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』嘆きの橋「総督宮殿と新牢獄舎を結ぶイーストラ(Istria)半島石製の宙空に浮かぶ橋。スキアヴォーニ海岸通りのパーリア(麦藁)橋から、その優雅さを愛でることが出来る。1600年代、新牢獄舎建設の注文で作られることになった。元々は総督宮殿の1階に秘密の場所として必要だったもので、当時は不十分なものになっていた。

建築家アントーニオ・コンティーンが、脱走出来ないように最高の安全を目指して、宙に浮かぶものとしてデザインし、起訴のために囚人達が牢獄から司法官の部屋へ移動する便のために造られたに違いない。

橋は2階にあり、宙に浮いて完全密閉状態で、内部の廊下は二つで、別々独立しており、一方は入館用、他方は出館用で、両側に夫々窓がある。

溜息の橋の伝説は、ロマンチックな文学が発端である。今や牢獄の役目は完全に終わった。囚人がどんな運命かは定かではないが、橋を渡る時、多分最後の機会だろう、それはラグーナであり、自由であり、はたまた、パーリア橋の袂で、涙滂沱で彼を待つ恋人の姿を、小さな窓から目にして、溜息を吐くに違いない、そんな人口に膾炙した伝説の結果でもあるだろう。

初めてこの街を見れば、欲求を一つ表現しなければならないと思うように、この橋は、何十もの繰り返されるイメージと共に、今や何世代にも渡って、人口に膾炙した伝説と共に、執拗に続くヴェネツィア認識のシンボルの一つとなった。」

2012.07.21日に書いたブログジョン・ラスキンでも触れましたが、イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンは溜息の橋の設計者をアントーニオ・ダ・ポンテとしているそうですが、実際はダ・ポンテの甥、上記のアントーニオ・コンティーンだそうで、ダ・ポンテのリアルト橋建設に協力し、ダ・ポンテが新牢獄舎の建築を頼まれた時、その橋〝溜息橋″の設計はコンティーンに任せたのだそうです。

尚、溜息の橋の命名についての考察は、2014.01.22日のブログ鳥越輝昭先生を、ご参考までに。
  1. 2015/10/01(木) 00:05:49|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィア憲法橋(カラトラーヴァ橋)

2008年に渡橋出来るようになった憲法(カラトラーヴァ)橋は、出来た直後から御難続きです。建造祝賀会は当時の市長カッチャーリさんが行わないと言明、カラトラバ氏が文句を言っていると新聞にありました。また直後、車が橋を渡ったり、バリア・フリーのための工事、雨が降ると滑りやすくなる苦情等々、補修工事が続いています。
カラトラーヴァ橋市民にはこんな橋、撤去してしまえとさえ言う人もいます。市の担当者の涙ながらのインタヴューも見ました。しかし便利にはなりました。このため市はカラトラバ氏への支払いの一部を、補修費用に充てるとして凍結したという記事も読みました。昨日のLa Nuova紙は次のようなことを書いています。

「 経費の高騰、破毀院はカラトラバの上訴を破棄[日本の最高裁に当たる破毀院の破棄の判決は下級裁判所に差し戻しということ]
――スペインのスター的建築家である、ヴェネツィアの憲法橋の設計者は、ヴェーネト会計院に建造修復費用の高騰等で調査下にある。裁判官は、カラトラバは仕事の責任者であり、質問に答える義務がある、と――

スペインの建築家サンティアゴ・カラトラバ(最も有名な建築家の一人)は、ヴェーネト会計院に、目下発生中の損害のために起きた裁判を終わらせたいと求めていたが、その上訴は破毀院で退けられた。会計院は大運河の“第四の橋”の修復費用増大による損害賠償として、400万ユーロを彼に要求していた。ヴェネツィア市はこの問題あるプロジェクトにサインしていたのである。上級裁判所の警告は、カラトラバはこの建造の仕事の責任者であった、と。」

カラトラーヴァ橋については、2007.10.24日のカラトゥラーヴァ橋や2008.02.22日の大運河をご参照下さい。

共和国時代の1545年、サン・マルコ図書館(Biblioteca marciana)がサンソヴィーノの手で殆ど完成を見た時、突如崩壊し、失敗を許さないヴェネツィア政庁は彼を獄門に下しました。その時、ティツィアーノやアレティーノが強く弁護してくれたそうです。出獄出来たのは、自分の費用で再度図書館を完成させるというのが条件だった筈です。
  1. 2014/09/23(火) 16:00:58|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィアの橋(2)

一番豪華なリアルト橋に対する、一番貧弱な橋として、欄干もない橋がカンナレージョ(Canalegio)区にあります。ヴェネツィア本島で唯一と思われる欄干のない橋の例です(アルセナーレの中は海軍の敷地ですので、一般人は入れませんからそこは確認されていません)。
悪魔の橋[知られた事ですが、トルチェッロ島にも通称《悪魔の橋》という欄干のない橋が残されています。]

リアルト橋からフォンダコ・デイ・テデスキ大通り(Salizada del Fontego dei Tedeschi)を鉄道駅へ向かって、どこまでも(ヌオーヴァ大通りを通過)道なりに真っ直ぐ行きます。四つ目の運河(Rio de S. Felice)を渡ったところで、運河沿いの道(教会運河通り(Fdm. de la Chiesa))を右へ曲がって直進します。ミゼリコルディア運河(Canale de la Misericordia)の手前で道は左折しますが、その右手に欄干のない釘橋(Ponte Chiodo)があります(三つの一番上の地図では最下部中央で文字がごちゃごちゃして判り難いです)。
キオード橋(左図最下部中央部)近辺地図
駅に向かうヌオーヴァ大通り中心の地図
         リアルト橋近辺地図この橋は映画にも何度か取り上げられています。デヴィッド・リーン監督の『旅情』(1955)ではキャサリン・ヘップバーンとロッサーノ・ブラッツィの恋がようやく実り、2人は夜を過ごしに橋を渡ってある館の中へ入っていきます。夕方で薄暗く判り難いのですが、ヴェネツィアに行くようになり、再度映画を見てみますとそれはこのキオード橋でした。
[この映画『旅情』には原作となった戯曲があるとかで、それは『ウェスト・サイド物語』の原作者アーサー・ローレンツ(Arthur Laurents―本年5月没)作『カッコーの季節(The Time of the Cuckoo)』というお芝居で、ハロルド・クラーマン演出でブロードウェイでヒットしたものだそうです。]
キオード(釘)橋キオード橋また独映画『逢いたくてヴェニス』(ヴィヴィアン・ネーフェ監督)では、女主人公のエーファは亭主の浮気相手の女の夫(弁護士)を拳銃で脅し、不倫の2人がいる筈のヴェネーディヒ(ヴェネツィア)にやって来ます。弁護士は水恐怖症のために、この欄干のない橋は這ってでしか渡ることが出来ません。

かつてヴェネツィアには欄干のない橋が数多く見られ、例えば拳骨橋やサンタ・フォスカ橋なども欄干はなく、殴り合いの乱闘の末、運河に多数の人が転落しています。運河に落下した人は戦列から離脱する決めになっていたそうです。
アントーニオ・ストーム画『拳骨戦』ガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』[左はアントーニオ・ストーム画『拳骨戦』、右はガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』]  ヴェネツィアをハプスブルク・オーストリア帝国が支配下に置いていた19世紀、オーストリア政府は欄干を積極的に取り付けさせたそうで、鉄製の欄干にはオーストリア風のデザインを取り込んだ欄干が数多く見られると言います。

オーストリア軍はヴェネツィアでの移動の便のために、本土とヴェネツィア島との間のリベルタ橋(1846年完成)を始め、大運河にアッカデーミア橋とスカルツィ橋を架橋しました。その鉄の橋は、大運河にヴァポレットが就航することになった時、橋桁が低すぎて運航不能のために取り壊されて、新しいアーチ形の橋が架けられました(アッカデーミア橋については2010.04.17日のアッカデーミア橋に書きました)。
[リベルタ橋に沿って架橋された車用の橋は、1933年ウンベルト・ファントゥッチの設計で架橋されました。]

E.&W. エレオドーリ『大運河』(1993)によれば、
「スカルツィ橋は1858年、オーストリアによって架けられた鉄の橋が大運河の通行に適さなくなり、建築家エウジェーニオ・ミオッツィによって代わりの橋が1934年架橋された」とあります。
故スカルツィ橋Alvise Zorzi著『Venezia ritrovata 1895-1939』(Arnoldo Mondadori Editore、1995.09)から写真を借用しました。キャプションは次のようです。「スカルツィ教会とサンタ・ルチーア鉄道駅前の、1858年オーストリア占領時代、Neville とかいう人に作られた鉄の橋(ガブリエーレ・ダンヌンツィオは《大運河を侮辱するオーストリアの橋》と言っている。1934年まで機能した)」。写真からかつての鉄道駅とその前の広場の様子が判ります。
スカルツィ橋前の賑わい「レガッタの日の大運河の最終地点の模様。一番奥に Neville とかいう人の設計の、オーストリア人が手掛けた銑鉄製の悪名高い橋は、丸でニワトリの鶏小屋である。」 かつての旧サンタ・ルチーア教会(鉄道駅)とスカルツィ教会近辺の様子。
ヴィゼンティーニの 新しいスカルツィ橋[左、ヴィゼンティーニ版画の『サンタ・クローチェ教会(現パパドーポリ公園)からスカルツィ教会への景観図』から、スカルツィ橋のなかった時代の様子が判ります。]  「Nevilleとかいう人の、今や死刑を宣告された橋の傍らに、地元の技師エウジェーニオ・ミオッツィの最新の橋がある。」
  
「11月2日の故人の日、ラグーナから立ち上ってくる靄、そしてヌオーヴェ海岸通り(Fdm. Nove)と死者の島サン・ミケーレ島を結ぶ船の長い長い浮橋を包む霧の中は、既に冬景色である。菊の香りが辺りに強く漂い、お菓子屋は故人の日に食べる甘い空豆形のお菓子やアーモンドを並べる。程なくやって来る11月11日のサン・マルティーノ(聖マルテイヌス)の祝日のためのパンペパート菓子やマーマレードも店頭に現れる。」
サン・ミケーレ島への船の浮橋[モノクロ写真とそのキャプションは全て、Alvise Zorzi『Venezia ritrovata 1895-1939』(Arnoldo Mondadori Editore、1995.09)から借用したものです。かつてサン・ミケーレ墓地にお詣りのために、こういう浮橋が架けられたことを初めて知りました。]

You Tube にla Venezia che fuというサイトがあります。かつてのヴェネツィアをモノクロ写真で見ることが出来ます。
  1. 2011/08/20(土) 00:02:03|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィアの橋(1)――リアルト橋

ヴェネツィアの事ばかりに感(かま)けていますと、時に衝動的に日本の事について読んでみたくなります。特に日本的なものと思って、日本浪漫派の作家、保田與重郎の名作『日本の橋』を読んでみました。

彼については来日イタリア人文芸評論家ロマーノ・ヴルピッタ氏が、中公叢書『不敗の条件――保田與重郎と世界の思潮』(中央公論、1995年2月10日)を直接日本語で書き、刊行しています(ヴェネツィアで1972年死んだエズラ・パウンドと保田を並べて論じた章もあります。彼は京都鳴滝の身余堂に保田を訪ねて行ったようです。かつて新学社の雑誌『イロニア』に書かれた保田與重郎論は興味深いものでした)。
ロマノ・ヴルピッタ著『不敗の条件』『イロニア』『日本の橋』を読み進める内に、「……岩橋が羅馬の石造橋となり、蔦橋が近世の鐵の吊橋となるまで、架橋は羅馬人の唯一の歴史的獨占事業とさへ思はれる。……」、そしてまた「……歎きの橋と歌はれた、ヴェニスの町の幽囚者と死刑者を渡すための橋のやうに深い代々の詩人の驚異の情緒を織りこんだ橋は求める方が無理である……」(『保田與重郎全集』第四巻(講談社、昭和六十一年二月十五日))等の文章に遭遇すると、結局は『伊賀越道中雙六』の《落ちつく先は九州相良》ならぬ、イタリア・ヴェネツィアとなってしまいます。

ヴェネツィアの橋で、誰でもイの一番に挙げる橋は言わずと知れたリアルト橋でしょう[ヴェネツィアには400以上の橋があるそうです。アルセナーレ内は国有地なので計測されていないとか]、美しさの点でも古さ[総督宮殿前のパーリア橋は大運河以外の架橋で一番古く1360年の物だそうです]の点でも。またイタリアの橋の中では知名度においても、フィレンツェのポンテ・ヴェッキオと双璧をなすでしょう。E.& W. エレオドーリ著『大運河』(1993)はリアルト橋について次のように記述しています。
カナレット『サン・マルコ湾から見たサン・マルコ潟岸』[カナレット画『サン・マルコ湾のモーロ(サン・マルコ桟橋)とスキアヴォーニ湾岸』部分、のパーリア橋。その奥に溜め息の橋(保田與重郎は《歎きの橋》と書いています)が少し見えています。カナレットの時代(1700年代)、溜め息の橋はまだ世界には知られておらず、バイロンが詩に歌ってから(1800年代)その知名度が爆発的に増したようです。]

「最初、一部が船で支えられた簡単な橋であった。現在の鉄河岸(Riva del Ferro)には元々ヴェネツィア造幣所が置かれていたため、《貨幣橋》と呼ばれていた。それは1170年に作られたのであるが、伝説によれば、総督ミキエールが2本の高い円柱をオリエントから運ばせ、それを垂直に立て起こしてサン・マルコに立柱したのが、この橋の建造家バラッティエーリであったという。

マリーノ・モロズィーニ総督時代、杭柱を基礎にした橋の建設が指令され、1265年に出来た。1310年バイアモンテ・ティエーポロとその仲間の陰謀が発覚し、ティエーポロ一味は逃亡したが、それを総督の兵士が追い、逃亡者によって破壊されてしまった。

続く橋はやはり木造で、フェッラーラ侯爵の結婚式の行列をもっとよく見ようと詰め掛けた群衆の重みで、1444年崩れ落ちてしまった。カルパッチョはその時代の橋を描いている。両岸に固定され、船の通行が出来るように中央部は跳ね橋になっていた。

最終的に石で架橋されたのは、第6番目の橋であった。1500年代中多くの建築家がプロジェクト案を提出した――フラ・ジョコンドからミケランジェロ、サンソヴィーノ、パッラーディオ、ヴィニョーラまで――その結果建設は、1588年アントーニオ・ダ・ポンテに委ねられた[彼に協力したのは彼の甥 Antonio Contin だったそうです]。

完成には3年[1588~91]掛かった。先端の基礎部分の強化に1万2千本の杭が打ち込まれ、25万ドゥカートの費用が掛かった。1591年に新設の、決定版の橋の落成式が行われた。両側の4ヶ所に記念碑が残されている。
カルパッチョのリアルト橋カナレットのリアルト橋の西側カナレットのリアルト橋ミケーレ・マリエスキ画『リアルト橋の眺め』
ルーカ・カルレヴァーリス画『リアルト橋』ヴィゼンティーニのリアルト橋ヴィゼンティーニ『東側のリアルト橋』[上左はカルパッチョのリアルト橋(部分)、上中左はカナレットの『大運河とリアルト橋を西から見る』、上中右はカナレットの『大運河とリアルト橋を南から見る』、上右はミケーレ・マリエスキの『リアルト橋の眺め』、下左はルーカ・カルレヴァーリスの『リアルト橋』、下中はアントーニオ・ヴィゼンティーニの『西側のリアルト橋』、下右はそのヴィゼンティーニの『東側のリアルト橋』(下、中右の版画は、上、中左右のカナレットの絵をヴィゼンティーニがそれぞれ板刻した物)]

橋は長さ28.7mの単一アーチ、高さは7.5mで、12のシンメトリックなアーチ形がそれぞれ両側に配置された上に、冠を被った形である。橋の中央に向いて店が開かれており、元々は銀行や金融事務所が置かれていた。そして現在は活気ある商店が並び、観光客で溢れかえっている。

リアルト橋の下の大運河右岸はワイン河岸(R. del Vin)と呼ばれるが、ここにはかつてヴェネツィアで消費されるあらゆる種類のワイン、アルコール類の倉庫が置かれていた。カルパッチョの絵の中で、飲み屋の主人が大運河に係留した船の前で、酒樽を洗っている姿を見ることが出来る。左岸は鉄河岸(R. del Ferro)と炭河岸(R. del Carbon)である。」
リアルト橋[完成したのは総督パスクァーレ・チコーニャ(1585~95)時代で、当時この建設案は技術的観点から見て、無謀ともいえる大胆なものと考えられ、パッラーディオの弟子だったヴィンチェンツォ・スカモッツィ等は崩れ落ちるに決まっている、と陰口を叩いたそうです。今やヴェネツィア建築のシンボルとなっています。]

一般に河川の右岸左岸は、川上から海に向かって左が左岸と呼ばれる筈です。例えばパリのセーヌ川左岸はソルボンヌのあるカルティエ・ラタン側であることは知られています。ヴェネツィアでは? ここの文章ではサン・マルコ湾に向かって右を右岸と言っています。私が屡々参照させて頂いている Daniele Resini の『Venice. The Grand Canal』は、鉄道駅に向かって右を右岸と言っています。決まりはないのでしょうか。
ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』[ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』] 今年度のヴェネツィア展でこの絵が展示されていましたので、掲載してみました(2011.11.26日)。
  1. 2011/08/13(土) 00:03:56|
  2. ヴェネツィアの橋
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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