イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの橋: 嘆きの橋

M.ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話伝説』(Newton Compton editori、2007.10)に溜息の橋についてのお話があります。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』嘆きの橋「総督宮殿と新牢獄舎を結ぶイーストラ(Istria)半島石製の宙空に浮かぶ橋。スキアヴォーニ海岸通りのパーリア(麦藁)橋から、その優雅さを愛でることが出来る。1600年代、新牢獄舎建設の注文で作られることになった。元々は総督宮殿の1階に秘密の場所として必要だったもので、当時は不十分なものになっていた。

建築家アントーニオ・コンティーンが、脱走出来ないように最高の安全を目指して、宙に浮かぶものとしてデザインし、起訴のために囚人達が牢獄から司法官の部屋へ移動する便のために造られたに違いない。

橋は2階にあり、宙に浮いて完全密閉状態で、内部の廊下は二つで、別々独立しており、一方は入館用、他方は出館用で、両側に夫々窓がある。

溜息の橋の伝説は、ロマンチックな文学が発端である。今や牢獄の役目は完全に終わった。囚人がどんな運命かは定かではないが、橋を渡る時、多分最後の機会だろう、それはラグーナであり、自由であり、はたまた、パーリア橋の袂で、涙滂沱で彼を待つ恋人の姿を、小さな窓から目にして、溜息を吐くに違いない、そんな人口に膾炙した伝説の結果でもあるだろう。

初めてこの街を見れば、欲求を一つ表現しなければならないと思うように、この橋は、何十もの繰り返されるイメージと共に、今や何世代にも渡って、人口に膾炙した伝説と共に、執拗に続くヴェネツィア認識のシンボルの一つとなった。」

2012.07.21日に書いたブログジョン・ラスキンでも触れましたが、イギリスの美術評論家ジョン・ラスキンは溜息の橋の設計者をアントーニオ・ダ・ポンテとしているそうですが、実際はダ・ポンテの甥、上記のアントーニオ・コンティーンだそうで、ダ・ポンテのリアルト橋建設に協力し、ダ・ポンテが新牢獄舎の建築を頼まれた時、その橋〝溜息橋″の設計はコンティーンに任せたのだそうです。

尚、溜息の橋の命名についての考察は、2014.01.22日のブログ鳥越輝昭を、ご参考までに。
  1. 2015/10/01(木) 00:05:49|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィア憲法橋(カラトラーヴァ橋)

2008年に渡橋出来るようになった憲法(カラトラーヴァ)橋は、出来た直後から御難続きです。建造祝賀会は当時の市長カッチャーリさんが行わないと言明、カラトラバ氏が文句を言っていると新聞にありました。また直後、車が橋を渡ったり、バリア・フリーのための工事、雨が降ると滑りやすくなる苦情等々、補修工事が続いています。
カラトラーヴァ橋市民にはこんな橋、撤去してしまえとさえ言う人もいます。市の担当者の涙ながらのインタヴューも見ました。しかし便利にはなりました。このため市はカラトラバ氏への支払いの一部を、補修費用に充てるとして凍結したという記事も読みました。昨日のLa Nuova紙は次のようなことを書いています。

「 経費の高騰、破毀院はカラトラバの上訴を破棄[日本の最高裁に当たる破毀院の破棄の判決は下級裁判所に差し戻しということ]
――スペインのスター的建築家である、ヴェネツィアの憲法橋の設計者は、ヴェーネト会計院に建造修復費用の高騰等で調査下にある。裁判官は、カラトラバは仕事の責任者であり、質問に答える義務がある、と――

スペインの建築家サンティアゴ・カラトラバ(最も有名な建築家の一人)は、ヴェーネト会計院に、目下発生中の損害のために起きた裁判を終わらせたいと求めていたが、その上訴は破毀院で退けられた。会計院は大運河の“第四の橋”の修復費用増大による損害賠償として、400万ユーロを彼に要求していた。ヴェネツィア市はこの問題あるプロジェクトにサインしていたのである。上級裁判所の警告は、カラトラバはこの建造の仕事の責任者であった、と。」

カラトラーヴァ橋については、2007.10.24日のカラトゥラーヴァ橋や2008.02.22日の大運河をご参照下さい。

共和国時代の1545年、サン・マルコ図書館(Biblioteca marciana)がサンソヴィーノの手で殆ど完成を見た時、突如崩壊し、失敗を許さない政庁は彼を獄門に下しました。その時、ティツィアーノやアレティーノが強く弁護してくれたそうです。出獄出来たのは、自分の費用で再度図書館を完成させるというのが条件だった筈です。
  1. 2014/09/23(火) 16:00:58|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィアの橋(2)

一番豪華なリアルト橋に対する、一番貧弱な橋として、欄干もない橋がカンナレージョ(Canalegio)区にあります。ヴェネツィア本島で唯一と思われる欄干のない橋の例です(アルセナーレの中は海軍の敷地ですので、一般人は入れませんからそこは確認されていません)。[知られた事ですが、トルチェッロ島にも通称《悪魔の橋》という欄干のない橋が残されています。橋の様子はshinkaiさんのブログヴェネツィア、トルチェッロ島をご上覧あれ]

リアルト橋からフォンダコ・デイ・テデスキ大通り(Salizada del Fontego dei Tedeschi)を鉄道駅へ向かって、どこまでも(ヌオーヴァ大通りを通過)道なりに真っ直ぐ行きます。四つ目の運河(Rio de S.Felice)を渡ったところで、運河沿いの道(教会運河通り(Fdm.de la Chiesa))を右へ曲がって直進します。ミゼリコルディア運河(Canale de la Misericordia)の手前で道は左折しますが、その右手に欄干のない釘橋(Ponte Chiodo)があります(三つの一番上の地図では最下部中央で文字がごちゃごちゃして分かり難いです)。
キオード橋(左図最下部中央部)近辺地図
駅に向かうヌオーヴァ大通り中心の地図
     リアルト橋近辺地図この橋は映画にも何度か取り上げられています。デヴィッド・リーン監督の『旅情』(1955)ではキャサリン・ヘップバーンとロッサーノ・ブラッツィの恋がようやく実り、2人は夜を過ごしに橋を渡ってある館の中へ入っていきます。夕方で薄暗く分かり難いのですが、ヴェネツィアに行くようになり、再度映画を見てみますとそれはこのキオード橋でした。
[この映画『旅情』には原作となった戯曲があるとかで、それは『ウェスト・サイド物語』の原作者アーサー・ローレンツ(Arthur Laurents―本年5月没)作『カッコーの季節(The Time of the Cuckoo)』というお芝居で、ハロルド・クラーマン演出でブロードウェイでヒットしたものだそうです。]
キオード(釘)橋キオード橋また独映画『逢いたくてヴェニス』(ヴィヴィアン・ネーフェ監督)では、女主人公のエーファは亭主の浮気相手の女の夫(弁護士)を拳銃で脅し、不倫の2人がいる筈のヴェネーディヒ(ヴェネツィア)にやって来ます。弁護士は水恐怖症のために、この欄干のない橋は這ってでしか渡ることが出来ません。

かつてヴェネツィアには欄干のない橋が数多く見られ、例えば拳骨橋やサンタ・フォスカ橋なども欄干はなく、殴り合いの乱闘の末、運河に多数の人が転落しています。運河に落下した人は戦列から離脱する決めになっていたそうです。
アントーニオ・ストーム画『拳骨戦』ガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』左はアントーニオ・ストーム画『拳骨戦』、右はガブリエール・ベッラ画『サンタ・フォスカ橋の棒戦』

ヴェネツィアをハプスブルク・オーストリア帝国が支配下に置いていた19世紀、オーストリア政府は欄干を積極的に取り付けさせたそうで、鉄製の欄干にはオーストリア風のデザインを取り込んだ欄干が数多く見られると言います。

オーストリア軍はヴェネツィアでの移動の便のために、本土とヴェネツィア島との間のリベルタ橋(1846年完成)を始め、大運河にアッカデーミア橋とスカルツィ橋を架橋しました。その鉄の橋は、大運河にヴァポレットが就航することになった時、橋桁が低すぎて運航不能のために取り壊されて、新しいアーチ形の橋が架けられました(アッカデーミア橋については2010.04.17日のアッカデーミア橋に書きました)。
[リベルタ橋に沿って架橋された車用の橋は、1933年ウンベルト・ファントゥッチの設計で架橋されました。]

E.&W.Eleodori『大運河』(1993)によれば、
「スカルツィ橋は1858年、オーストリアによって架けられた鉄の橋が大運河の通行に適さなくなり、建築家エウジェーニオ・ミオッツィによって代わりの橋が1934年架橋された」とあります。
故スカルツィ橋Alvise Zorzi著『Venezia ritrovata 1895-1939』(Arnoldo Mondadori Editore、1995.09)から写真を借用しました。キャプションは次のようです。「スカルツィ教会とサンタ・ルチーア鉄道駅前の、1858年オーストリア占領時代、Neville とかいう人に作られた鉄の橋(ガブリエーレ・ダンヌンツィオは《大運河を侮辱するオーストリアの橋》と言っている。1934年まで機能した)」。写真からかつての鉄道駅とその前の広場の様子が分かります。
スカルツィ橋前の賑わい「レガッタの日の大運河の最終地点の模様。一番奥に Neville とかいう人の設計の、オーストリア人が手掛けた銑鉄製の悪名高い橋は、丸でニワトリの鶏小屋である。」 かつての旧サンタ・ルチーア教会(鉄道駅)とスカルツィ教会近辺の様子。
新しいスカルツィ橋「Nevilleとかいう人の、今や死刑を宣告された橋の傍らに、地元の技師エウジェーニオ・ミオッツィの最新の橋がある。」
ヴィゼンティーニのヴィゼンティーニ版画の『サンタ・クローチェ教会(現パパドーポリ公園)からスカルツィ教会への景観図』より
「11月2日の故人の日、ラグーナから立ち上ってくる靄、そしてヌオーヴェ海岸通り(Fdm.Nove)と死者の島サン・ミケーレ島を結ぶ船の長ーい長い浮橋を包む霧の中は、既に冬景色である。菊の香りが辺りに強く漂い、お菓子屋は故人の日に食べる甘い空豆形のお菓子やアーモンドを並べる。程なくやって来る11月11日のサン・マルティーノ(聖マルテイヌス)の祝日のためのパンペパート菓子やマーマレードも店頭に現れる。」
サン・ミケーレ島への船の浮橋[モノクロ写真とそのキャプションは全て、Alvise Zorzi『Venezia ritrovata 1895-1939』(Arnoldo Mondadori Editore、1995.09)から借用したものです。かつてサン・ミケーレ墓地にお詣りのために、こういう浮橋が架けられたことを初めて知りました。]

You Tube にLa Venezia che fu`というサイトがあります。かつてのヴェネツィアをモノクロ写真で見ることが出来ます。
  1. 2011/08/20(土) 00:02:03|
  2. ヴェネツィアの橋
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ヴェネツィアの橋(1)――リアルト橋

ヴェネツィアの事ばかりに感(かま)けていますと、時に衝動的に日本の事について読んでみたくなります。特に日本的なものと思って、日本浪漫派の作家、保田與重郎の名作『日本の橋』を読んでみました。

彼については来日イタリア人文芸評論家ロマーノ・ヴルピッタ氏が、中公叢書『不敗の条件――保田與重郎と世界の思潮』(中央公論、1995年2月10日)を直接日本語で書き、刊行しています(ヴェネツィアで1972年死んだエズラ・パウンドと保田を並べて論じた章もあります。彼は京都鳴滝の身余堂に保田を訪ねて行ったようです。かつて新学社の雑誌『イロニア』に書かれた保田與重郎論は興味深いものでした)。
ロマノ・ヴルピッタ著『不敗の条件』『イロニア』『日本の橋』を読み進める内に、「……岩橋が羅馬の石造橋となり、蔦橋が近世の鐵の吊橋となるまで、架橋は羅馬人の唯一の歴史的獨占事業とさへ思はれる。……」、そしてまた「……歎きの橋と歌はれた、ヴェニスの町の幽囚者と死刑者を渡すための橋のやうに深い代々の詩人の驚異の情緒を織りこんだ橋は求める方が無理である……」(『保田與重郎全集』第四巻(講談社、昭和六十一年二月十五日))等の文章に遭遇すると、結局は『伊賀越道中雙六』の《落ちつく先は九州相良》ならぬ、イタリア・ヴェネツィアとなってしまいます。

ヴェネツィアの橋で、誰でもイの一番に挙げる橋は言わずと知れたリアルト橋でしょう、美しさの点でも古さ[総督宮殿前のパーリア橋は大運河以外の架橋で一番古く1360年の物だそうです]の点でも。またイタリアの橋の中では知名度においても、フィレンツェのポンテ・ヴェッキオと双璧をなすでしょう。E.& W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はリアルト橋について次のように記述しています。
カナレット『サン・マルコ湾から見たサン・マルコ潟岸』[カナレット画『サン・マルコ湾のモーロ(サン・マルコ桟橋)とスキアヴォーニ湾岸』部分、のパーリア橋。その奥に溜め息の橋(保田與重郎は《歎きの橋》と書いています)が少し見えています。カナレットの時代(1700年代)、溜め息の橋はまだ世界には知られておらず、バイロンが詩に歌ってから(1800年代)その知名度が爆発的に増したようです。]

「最初、一部が船で支えられた簡単な橋であった。現在の鉄河岸(Riva del Ferro)には元々ヴェネツィア造幣所が置かれていたため、《貨幣橋》と呼ばれていた。それは1170年に作られたのであるが、伝説によれば、総督ミキエールが2本の高い円柱をオリエントから運ばせ、それを垂直に立て起こしてサン・マルコに立柱したのが、この橋の建造家バラッティエーリであったという。

マリーノ・モロジーニ総督時代、杭柱を基礎にした橋の建設が指令され、1265年に出来た。1310年バイアモンテ・ティエーポロとその仲間の陰謀が発覚し、ティエーポロ一味は逃亡したが、それを総督の兵士が追い、逃亡者によって破壊されてしまった。

続く橋はやはり木造で、フェッラーラ侯爵の結婚式の行列をもっとよく見ようと詰め掛けた群衆の重みで、1444年崩れ落ちてしまった。カルパッチョはその時代の橋を描いている。両岸に固定され、船の通行が出来るように中央部は跳ね橋になっていた。

最終的に石で架橋されたのは、第6番目の橋であった。1500年代中多くの建築家がプロジェクト案を提出した――フラ・ジョコンドからミケランジェロ、サンソヴィーノ、パッラーディオ、ヴィニョーラまで――その結果建設は、1588年アントーニオ・ダ・ポンテに委ねられた[彼に協力したのは甥 Antonio Contin だったとか]。

完成には3年[1588~91]掛かった。先端の基礎部分の強化に1万2千本の杭が打ち込まれ、25万ドゥカートの費用が掛かった。1591年に新設の、決定版の橋の落成式が行われた。両側の4ヶ所に記念碑が残されている。
カルパッチョのリアルト橋カナレットのリアルト橋の西側カナレットのリアルト橋ミケーレ・マリエスキ画『リアルト橋の眺め』
ルーカ・カルレヴァリス画『リアルト橋』ヴィゼンティーニのリアルト橋ヴィゼンティーニ『東側のリアルト橋』[上左はカルパッチョのリアルト橋(部分)、上中左はカナレットの『大運河とリアルト橋を西から見る』、上中右はカナレットの『大運河とリアルト橋を南から見る』、上右はミケーレ・マリエスキの『リアルト橋の眺め』、下左はルーカ・カルレヴァリスの『リアルト橋』、下中はアントーニオ・ヴィゼンティーニの『西側のリアルト橋』、下右はそのヴィゼンティーニの『東側のリアルト橋』(下、中右の版画は、上、中左右のカナレットの絵をヴィゼンティーニがそれぞれ板刻した物)]

橋は長さ28.7mの単一アーチ、高さは7.5mで、12のシンメトリックなアーチ形がそれぞれ両側に配置された上に、冠を被った形である。橋の中央に向いて店が開かれており、元々は銀行や金融事務所が置かれていた。そして現在は活気ある商店が並び、観光客で溢れかえっている。

リアルト橋の下の大運河右岸はワイン河岸(R.del Vin)と呼ばれるが、ここにはかつてヴェネツィアで消費されるあらゆる種類のワイン、アルコール類の倉庫が置かれていた。カルパッチョの絵の中で、飲み屋の主人が大運河に係留した船の前で、酒樽を洗っている姿を見ることが出来る。左岸は鉄河岸(R.del Ferro)と炭河岸(R.del Carbon)である。」

[完成したのは総督パスクァーレ・チコーニャ(1585~95)時代で、当時この建設案は技術的観点から見て、無謀ともいえる大胆なものと考えられ、パッラーディオの弟子だったヴィンチェンツォ・スカモッツィ等は崩れ落ちるに決まっている、と陰口を叩いたそうです。今やヴェネツィア建築のシンボルとなっています。]

一般に河川の右岸左岸は、川上から海に向かって左が左岸と呼ばれる筈です。例えばパリのセーヌ川左岸はソルボンヌのあるカルティエ・ラタン側であることは知られています。ヴェネツィアでは? ここの文章ではサン・マルコ湾に向かって右を右岸と言っています。私が屡々参照させて頂いている Daniele Resini の『Venice. The Grand Canal』は、鉄道駅に向かって右を右岸と言っています。決まりはないのでしょうか。
ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』[ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』] 今年度のヴェネツィア展でこの絵が展示されていましたので、掲載してみました(2011.11.26日)。
  1. 2011/08/13(土) 00:03:56|
  2. ヴェネツィアの橋
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アッカデーミア橋

ブランドリーン・ロータ館の右隣のアントーニオ・フォスカリーニ埋立通り(rio tera` Antonio Foscarini)[かつては大運河とジュデッカ運河は直線的に繋がっていたようです] を過ぎるともうアッカデーミア橋で、かつてのサンタ・マリーア・デッラ・カリタ教会の後陣が見える筈ですが、現在は工事中で網テントを被っています。アッカデーミア美術学校の本拠地がここから旧インクラービリ慈善院に引っ越しましたから、その跡地は美術館に衣替えされるのでしょうか。

アッカデーミア橋について『大運河』(1993)は次のように述べています。

「現実的な判断が出来て、先見の明のある人が、自分のプロジェクトを実現出来ないことがある、あるいはまた、その人が狭い了見の人に時に嘲笑される様を見たりする、という状況に遭遇するととても興味深い思いに捉われる。

『Cronaca Magna』によると1488年8月10日、市の施政官だったルーカ・トローンの要望で、大運河に橋を、一つはサンタ・ソフィーア広場から、もう一つはカリタ広場から二つの橋を架けようという提案が出されたことがあった。しかし全ての会議で笑い物にされ、投票に掛けられることもなかった。そのため何度も架け直されたリアルト橋は、ヴェネツィアで唯一の橋であり続けた。」
《サンタ・ソフィーア広場とリアルト市場を結ぶ橋は出来ませんでしたが、現在渡し舟(traghetto)があります。大運河に幾つかある渡しの中で、一番利用者の多いトラゲットだと思われます。カンナレージョ(Canaregio)にアパートを借りた時は、リアルト市場への買物時、必ず乗船しました。
魚屋のジャンニ知り合って10年以上になるリアルトの魚市場の角に位置する魚屋に勤めるジャンニ。魚の注文をすると、お勧めではない時は、よそ見して周りを窺いながら首を振り、よりおいしい魚があったりして、お勧めがある時はその魚を他人に気づかれないように指差して呉れました。魚や貝等の買物はよく彼の勧めに従ったものです。
ルンゴ貝[ジャンニに勧められて購入し、大変美味しかったルンゴ(長い貝の意)] そんな訳で定年で引退してしまった彼の先輩が、現役中NHKテレビ伊語講座の会話のシーンで登場し、彼の写真がテキストに掲載されたのを見付け、リアルト市場に「渡して」と持って行くと、「必ず渡すよ」と大変喜んでくれました。蛸のイボが2列あるのは polpo、1列のものは folpo と言う等、教わりました。

須賀敦子さんの『地図のない道』(新潮社、1999年10月30日発行)の中の《橋》の章で、「……あとは、五ヵ所から渡し舟が出ていて、たしか無料で客を対岸に運んでくれる。」と書かれています(ミラネーゼはこんな事を書きます。無賃乗船はいけません)が、私が初めて乗った時は300リラ、その後乗船時450リラ、更に700リラに値上がりし、現在(2008)は0.5ユーロで乗れます。いずれにしても、リラの時代は安過ぎるという感想を持ちました。数年前のNHKラジオ伊語講座のヴェネツィア編テキストには、150~200円と書かれていましたが、1ユーロが170円近くになっていた時のことでしょうか?》

「ルーカ・トローンの夢が実現するには4世紀以上の時を要した。事実、カリタ広場にアルフレード・ネヴァッレ(Alfredo Nevalle)技師がオーストリアのために英国の工場で造られた鉄の橋を架設した。それはヴェネツィアにナポレオンが課した仕事であり、1854年11月20日開通した。
旧、鉄製アッカデーミア橋現在のアッカデーミア橋 新しいスカルツィ橋[左は、旧鉄製アッカデーミア橋。中央は現在の姿。右は、排除される前の鉄製スカルツィ橋と現在の橋が並列している] しかしながら、1592年の昔に造られたリアルト橋はあらゆる必要を考慮して、かつ大運河通行の船舶の必要に則って計画されたものだったが、アッカデーミアのこの鉄橋とスカルツィ橋は、ひとえにオーストリア占領軍の移動の迅速さのためのものであって、公共の至便さ等は一切斟酌されていなかった。それ故かつての平坦で低い橋は大運河通航の障害になることが直ぐに判明した。

増加していくヴァポレットの自由な通行が可能なように、1900年その取替え工事が、エウジェニオ・ミオッツィ(Eugenio Miozzi)に与えられた。スカルツィ橋は1934年に完成した。アッカデーミア橋はある意味でその双子である筈であったが、資金不足に陥っていた。ミオッツィは諦めなかった。

ヴェネツィアの古い工法を復活させ、材木にタールで防水加工を施し、足に優しいのが特徴である木の橋を発表したのだった。それは当時は単なる一時しのぎの解決法と考えられていたが、ヴェネツィア人にとってこれ程までに親密で、大切な物となったので、石のアーチ橋に変えるなどとは考えられなくなっている。」
  1. 2010/04/17(土) 00:01:41|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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