イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

『遥かなるルネサンス』展―これが、天正遣欧少年使節がたどった、イタリアだ!!

私の居住する八王子市の、東京富士美術館で開催されている『遥かなるルネサンス』展に行ってきました。天正の四少年遣欧使節がイタリアで辿った跡を検証する展覧会です。私がヴェネツィアに行った時仄聞し、その後色々知ることとなった彼らの事績を思い起こさせて頂き、感動を新たにしました。彼らについてこれまで、2008.03.21日の天正遣欧少年使節(1)から、2017.06.01日の天正遣欧使節(10)までとか、2014.10.18日の寺崎武男展等で天正の4遣欧使節の事を書いてきました。
遥かなるルネサンス遥かなる、図録[左、パンフレット、右、図録]  今回の展覧会は少年使節達の行動を再確認させてくれました。展覧は彼らが行動した順序、上陸したリヴォルノから乗船したジェーノヴァへの行程に沿って、中心地ごとに関連した書状や絵画等が展示されていました。
ヴェネツィアに関する事で言えば、上陸して直ぐピーザのメディチの城に招かれ、晩餐会の舞踏会でトスカーナ大公フランチェスコ1世妃ビアンカ・カッペッロに誘われ、伊東マンショが踊ったそうです。彼は戦に向かう勇気を鼓して舞踊に臨んだそうです。大公妃は元々ヴェネツィア貴族の娘で、フィレンツェの若者と恋に落ち、フィレンツェに駈け落ちした前歴を持ちます。ヴェネツィア人とダンスをした第1号がマンショでした。
フランチェスコ1世ビアンカ・カッペッロビアンカ[左、フランチェスコ1世、中、ビアンカ大公妃(来日したヴァージョン)、右、同じビアンカ大公妃(富士美術館所蔵―以前このブログでもこの絵を紹介しましたが、このアッローリ工房のヴァージョンを所蔵する富士美術館でこの展覧会が開催されたのも宜なるかなと思われます。今回この二つが並べて展示されていました。]
 
ローマでは教皇グレゴリウス13世が彼らの到着を心待ちにしていました。この教皇は現在のグレゴリウス暦を制定した教皇として夙に有名ですが、彼らに謁見して18日後(4月10日)に没してしまいます。コンクラーベがあり、シクストゥス5世が選出され、新教皇も彼らを謁見しました。3月22日~6月03日のローマ滞在後、イタリアを経巡り帰国の途に就きます。
グレゴリウス13世 ITALIA[左、グレゴリウス13世] 左図のような行程を経て、6月26日ヴェネツィアに到着しました。ヴェネツィアでの行動は次のようです。
ニコロ・ダ・ポンテ[パルマ・イル・ジョーヴァネ画『総督ニコロ・ダ・ポンテ像』サイトから借用。遣欧使節に謁見時、95歳。謁見直後の7月30日没。]
「6月26日=誓願修舎の客室に一泊。夜、教皇使節来訪。
6月27日=ヴェネツィア総大司教、ドイツ皇帝大使及び諸国の大使・貴顕の来訪。市内数ヶ所の聖堂を訪問。
6月28日=総督ニコロ・ダ・ポンテの謁見式が総督宮殿で。日本服1着、刀1振、短刀1振贈呈。その後、武器室、第十参議会[十人委員会の事?]室、宝庫を参観。昼食後ムラーノ島のガラス工場を見学。
6月29日=この日は聖ペテロと聖パウロの祝日であったが、毎年聖マルコの祝日(6月25日)に行われる習わしであったヨーロッパでも著名な豪奢な行列がこの日に延期された、それを参観。
6月30日=大会議室にて歓迎会。
7月1日 =教皇使節の宴会。 
7月2日 =聖母御訪問の祝日でミサを聞き、天主堂で聖体拝領。
7月3日 =造船所、リードの2城塞を訪問。
7月4日 =政庁に告別に赴く。大会議室に彼らの姿を記念に残すことになり、ティントレットに描かせた(マンショの物だけが完成した)。昼食後政庁は一行に贈物をした。=《高価な象牙製の十字架4個、美麗に彩色された鏡4面、立派な種々の硝子器の入った美しい函(硝子器が500個以上)、濃紅色天鵞絨の織物2反、グラン染織物2反、濃紫色琥珀織物2反、繻子2反、金襴の織物2反(1反は濃紅色、他は薔薇色でヴェネツィアで最も珍重される絹地であり、色合いであった)、金襴錦織物2反》。
7月5日 =サンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館を来訪、ヨハンネス(希語式バシレイオスBasilios)・ベッサリオン(羅典語式Johannes Bessarion――伊語式ジョヴァンニ・ベッサリオーネGiovanni Bessarione)枢機卿の残された聖遺物を拝観。ヴェネツィアを発つ。」 ――ルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳注、東洋堂、1942)より
伊東マンショ今回も来日した、ドメーニコ・ティントレット画の伊東マンショのこの肖像画は、前回発見直後来日し、国立東京博物館で短期間展示されました。その展覧に合わせてイタリア文化会館で、この絵を所有したトゥリヴルツィオ財団の方を始め、ヴェネツィア大学の美術の先生方の講演がありました。2016.05.21日のブログ伊東マンショでその辺の事情を書きました。
マンフレディアーナ天正遣欧使節の碑彼らがヴェネツィアに来訪した事を受けて、その旨が1585年の碑に残されています。最初それは彼らが訪れたサンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館に置かれていましたが、カリタの教会、修道院、同信会館がアッカデーミア美術学校と美術館に模様替えになった時、碑は近くのサルーテ教会左隣のSeminario patriarcale の中庭に移されました。ここの門は普通は閉ざされいて一般公開の状態ではなかったのですが、最近ここの蒐集品がマンフレディーニ絵画館(Pinacoteca manfrediniana)としてオープンしたので普通にアクセス可能となりました。私はまだ再確認していませんが、門を入ると中庭で左前方、入口左にそれはありました。

彼らは6月29日は豪奢な行列を見たのですが、サン・マルコ寺院でアンドレーア・ガブリエーリの歓迎のミサ曲を聞いています。それは『四つの合唱隊による16声のグローリア(Gloria a sedici parti, con quattro cori separati)』(1587刊)という大曲でした。アンドレーアはその年の8月30日全力を使い果たしたように亡くなっています。かつて彼の没年月日は辞典等曖昧でしたが、近年古文書が見つかったようです。ヴェネツィアでも東京でもCDが探せませんでした。私は未聞ですが、この大曲を聞かれた方があるのでしょうか。
  1. 2017/11/06(月) 01:00:07|
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カラヴァッジョ展

現在、上野の国立西洋美術館で『カラヴァッジョ展』を03.01日から06.12日までやっているのは周知のことです。そんな訳で、昨夜金曜日夜(04.08)、NHKTVの『光と闇の画家 天才カラヴァッジョの謎をイタリアに追う』を見ました。聞いているとアナウンサーが、ミラノ生まれのカラヴァッジョ、と言っていました。私がクレモーナからベルガモへ電車で行った時、途中の駅カラヴァッジョで停車しました。隣の婦人に、もしかしてこの町は画家カラヴァッジョの生誕地ではないかと問うと、そうだと言って、次の停車駅トレヴィッリョで下車されました。土地の人の感じでした。

記憶違いはよくあることなので、イタリアのWikipedia を覗いてみました。ミラーノ生まれと書いてありました。固有名詞の検索時、私が愛用しているサイト、Treccani では、ミラーノの近くではありますが、ベルガモ県のコムーネで、Michelangelo Merisi, il detto Caravaggio(通称カラヴァッジョ)の生誕地とありました。国立西洋美術館のサイトを見ると、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョとなっているのは、カラヴァッジョが生誕地であることが明確であるからと思われます。

何年か前、ボルゲーゼ美術館に予約してローマへ行くとお目当てのベルニーニはあったのですが、カラヴァッジョは1点残して日本等へ出張中でした。去年暮れもナボーナ広場傍のサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会のカラヴァッジョのカッペッラの前だけは沢山の人集がしていました。カラヴァッジョ人気が大変なものであることを思わせました。このTreccani のサイトで、東京でのカラヴァッジョ展について触れていましたので訳してみました。
法悦のマグダラのマリア「カラヴァッジョと彼の後継者(彼と敵対する画家も含め)は、現在日本に引っ越している。日伊国交樹立150周年記念展に招かれた、その名も高き大使達であり、両国の関係はSol levante(日出ずる国)とイタリアの人民との間に"永遠の平和と恒常的友情"を願って、1866年8月25日条約が締結された。

東京国立西洋美術館での"カラヴァッジョとhis times: friends, rivals, enemies展"はロンバルディーア派の作品11点――1606年の"Maddalena in estasi(法悦のマグダラのマリア)"を含み、それは最近、美術史家Mina Gregori(ミーナ・グレゴーリ) によって彼に帰属したが、彼女はオランダ人コレクターの収集品から割り出した――、更にカラヴァッジョの作品と会話を交わしたその時代の画家の作品50点あまりである。

展示の流れはカラヴァッジョの作品中心に、テーマごとに分けられた(5テーマ=光、静物、幸運、断首、"この人を見よ")。彼の作品の周りに彼によって試みられた描法や図像的革新に光を当てた他の画家達の作品が取り囲み、それは別の感性で受け入れられ、また拒否された。

それは彼らから距離を置いたイタリアやヨーロッパの画家――バルトロメーオ・マンフレーディ、リーベラ、アルテミズィーア・ジェンティレスキ、グェルチーノ、オランダ人ヘーリト・ファン・ホントルスト、スィモン・ヴーエ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールらである。

更に展示のあるセクションでは、彼の非常に個人的な面、ある意味、彼の苦しかった生涯の知られざる面を見出すことの出来る貴重な資料の展示もある。即ち、個人的な争い、ジョヴァンニ・バッリョーネ(同時代の画家)を侮辱した名誉毀損裁判、銃器携帯許可証不所持による逮捕、賃貸借料支払いの困難さ、逃亡せざるを得なかった1606年の殺人に至るまでの資料である。

東京のカラヴァッジョ展は、日伊国交樹立150周年記念を祝う、数ある文化交流行事の一環である。5月にはローマのアーラ・パーチス(アラ・パキス)で土門拳写真展、6月にはクィリナーレのスクデリーエで日本仏教彫刻傑作展、7月には北斎、広重、歌麿展がミラーノのパラッツォ・レアーレで開催予定である。」

私はまだ未見ですが、連れ合いの足が都心まで耐えられるようになる(?)5月末までお預けです。
カラヴァッジョ展カラヴァッジョ展、裏1カラヴァッジョ展、裏2追記: 今日(04..21)カラヴァッジョ展を見ました。図録の巻頭でロッセラ・ヴォドレさんが、カラヴァッジョ家の人々はカラヴァッジョからミラーノに出て来た人々で、ミケランジェロ・メリージはミラーノに生まれ、ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョと呼ばれるようになったと書かれています。彼自身はミラーノ生まれが正しいそうです。
  1. 2016/04/10(日) 00:00:10|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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