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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの賭博

かつてヴェネツィアで街歩きをしている時、サン・ポーロ区の流れから外れた静かな通りで、5、6人の男達が何かを取り囲むように立っていました。怖いもの見たさにちらちら見ると輪の中心に一人の男がカードを地面に張って、その度にドスの利いた声が周りから掛かります。賭博のようでした。見てはならないものを見ない振りしてゆっくり通り過ぎました。どういう展開になるか気になるところでした。

ヴェネツィアのハリーズ・バールがあるヴァッラレッソ通り(Cl. del Vallaresso)の左側にヴァッラレッソ・エーリッツォ館があり、E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を記述しています。
ホテル・モナコ他「装飾もない簡素な建物。現在はホテル・モーナコである。リドット・グランデの庭があった跡地に19世紀に建てられた建物。かつてRidotto Grande があって、1638~1774年間続いた公共の賭博場であった。」

アルベルト・トーゾ・フェーイ(Alberto Toso Fei)は『大運河の秘密(I Segreti del Canal Grande)』(Studio LT2、2010)の中でヴェネツィア人の賭博について紹介しています。
「古くは、賭博が許容されていたのは、サン・マルコ小広場の2本の円柱の間でだけであった。いずれにしても何世紀もの間に色々の禁令が発せられた。
[リアルトの木造の橋の建造者、Nicolò Barattieroは、オリエントから到来したサン・マルコ小広場の2本の円柱を今見るように立柱したことで知られていますが、そのご褒美にその2本の柱の間で、禁じられていた賭博をしてもよしというお墨付きを政庁から貰いました。総督セバスティアーノ・ズィアーニ(在位、1172~78)時代の事です。賭け事が好きだったようです。]

1254年: サン・マルコ寺院入口柱廊やファサード下のアーケイドでの賭博禁止。その後には、総督宮殿中庭や大評議会会議場周辺での賭博禁止。
1266年: 総督宮殿内では、総督の側近ら全員の賭博禁止。
1292年: 唯一許された遊びはチェスと二人でする西洋双六(バックギャモン)。全ての非合法の行為には25リラという罰金が科せられた。
1506~39年: 十人委員会は、excepto schachi, arco, balestra et ballo(チェス、弓、弩弓、舞踊以外)全ての遊戯を禁止した。
1600年代初頭: 政府は賭け事の蔓延を黙過出来ず、カーニヴァル中に限り[10月末からMartedì grasso(カーニヴァル最終日)まで]許可することになった。
1638年: 貴族マルコ・ダンドロがヴァラレッソ通り(Cl. del Valaresso)に公共の賭場 Ridotto Grande(リドット・グランデ)を開くことの認可を得た。《Ridotto(休憩場)》という言葉はこの種の建物の内部のしっくい装飾と共にあり、何年か前まで劇場で使用されていた。
グアルディ『リドット』. 『ヴェネツィアのリドット』賭場の胴元[『ヴェネツィアのリドット』(左、フランチェスコ・グァルディ、中・右、ピエートロ・ロンギ)。ウィキペディアから借用]   ここ Ridotto Grande にはジャーコモ・カザノーヴァが身内同然に出入りしていた。デンマーク王フレデリク(Federico)4世は、1708年当地滞在中――他の賭博者同様にマスクを被って――ある貴族から莫大な額の賭金を勝ったと言われている。正に大物然とした態度ながら、しかし立ち上がろうとした時、無様な振りをして、王は記録紙や賭け金などの載ったテーブルを引っ繰り返してしまった。そんな事をすれば全ては banco(胴元・親)の手に帰すことになる。」
  ――アルベルト・トーゾ・フェーイ著『大運河の秘密』より
カズィノ[読売新聞の囲み記事。2019.07.30]  この記事ですとヴェネツィアに公式“カジノ”が登場したのはやはり1638年のようです。ウィキペディアから“Casinò di Venezia”を訳してみます。
             
「ヴェネツィア最初の賭博場(世界最古)はサン・モイゼのリドット(Ridotto)で、1638年誕生した。1930年代末、リード島にカズィノ・ディ・ヴェネツィア(Casinò di Venezia)が出来た。1950年代にはチェントロ・ストーリコ(ヴェネツィア本島)のカ・ヴェンドラミーン・カレルジにも賭博場が開かれた。館は大運河に面しており、カズィノは現在も存続している。

1999年新しい賭場、カ・ノゲーラ(Ca' Noghera)が開店した。イタリアで初めてのアメリカ式のカズィノである。ヴェネツィアの二つのカズィノは町のチェントロ、大運河に面したヴェンドラミーン・カレルジ館であり、リヒャルト・ヴァグナーの最後の住処であった。そしてノゲーラ館はマルコ・ポーロ空港近くの5000m²の広さを有する近代建築である。」

現在、市の公式賭博場となっているヴェンドラミーン・カレルジ館の歴史については、2014.02.26日のブログヴェンドラミーン・カレルジ館で、またヴァーグナーについては2014.03.05日のヴェンドラミーン・カレルジ館2で触れました。尚、上記Nicolò Barattiero(ニコロ・バラッティエーロ、?~1181)について伊ウィキペディアは次のように書いています。

「イタリアの建築家兼技術者で、12世紀後半ヴェネツィアで活躍した。現代の歴史家は半ば伝説的人物と考えている。ロンバルディーア出身で、総督ヴィターレ・ミキエール2世(1156~72)統治下で、バルトロメーオ・マルファットと共にサン・マルコ鐘楼の一室を手掛けることでデビューした。その時木製の箱状の装置で物を巻き上げることの出来る滑車装置を考案した。それが塔の頂上まで物を運び上げることを容易にしたのである。
[この滑車の原理で、サン・マルコ小広場の2本の円柱を少しずつ起ち上げて立柱したのでしょうか?]

総督セバスティアーノ・ズィアーニ(1172~78)時代、暫く前、オリエントから運ばれて来て、サン・マルコ小広場に放置されていた2本の円柱を彼が立柱した(伝説によれば、陸揚げ中、潟に落ちた第三の円柱があるそうです)。年代記は告げている。結果が上出来だったので、ニコロはこの2本の円柱の間で賭場を開陳して良しとする認可を得た。彼の姓はそれに由来するとか。

2本の円柱の基礎部や柱頭を見ると、バラッティエーロのスタイルはビザンティン芸術の影響を受けていることが明らかである。ズィアーニと次の総督オーリオ・マストロピエーロ(1178~92)の統治下、木製だが、最初のリアルト橋を作った。それ以前はこの二つの河岸は船を並べた橋(ponte di barche―船橋)で繋がれていた。

彼は技術者、数学者、彫刻家として知られ、多くの優秀な弟子を育てた。」

この第三の円柱の捜索にヴェネツィアは動いているようです。2017.01.01日の次のブログをどうぞ。第三の円柱
  1. 2019/08/19(月) 09:23:24|
  2. ヴェネツィアの民俗
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ヴェネツィアのロット(Lotto)籤

ヴェネツィア人は賭博が好きだったようで、それについての記述は結構あるようです。2014.02.19日のバウアー・グリュンバルトや2016.11.10日のヴェネツィアの街案内等で触れています。また、Lotto(現在でも多くの都市で行われている富籤のようなもの)という賭け事が行われていたそうです。リアルト橋の建設の時には資金が足りなくて、このロット籤で資金を調達したという話を読んだことがあります。前にも紹介した『ヴェネツィア奇聞(Aneddoti storici veneziani)』(G. ニッサーティ著、Filippi Editore Venezia、初版1897)から紹介してみます。
[小学館の伊和中辞典によれば、Lotto籤とは1から90までの数字の中から2つの数字(ambo)、3つの数字(terno)、4つの数字(quaterna)、5つの数字(cinquina)の組み合わせを当てる賭け事、と。Bari、Cagliari、Firenze、Genova、Milano、Napoli、Palermo、Roma、Torino、Veneziaの10都市でruota(回転式抽選機)を使って抽選する、ものだそうです。]
『ヴェネツィア奇聞』「最初は政庁の許可を得て、次いで誰か著名な人物の監督の下、個人的に行われた。数字の抽出が行われた場所は、大抵の場合、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ(愛称サン・ザニポーロ)修道院で、そこの僧達の嫌々ながらの協力の元だった。サヌード(Sanuto)の証言によれば、ロット籤は罪であると説教壇から説教を垂れていたという。

1521年まで、ヴェネツィア市民のBambararaと呼ばれたジローラモ・フランコが主宰する、tappetoやspalliera、金のrestagnoの富籤が行われた。更に1523年までは、10ドゥカートの受け渡し証を持つ席料で、ジョヴァンニ・マネンティが采配した。

時々富籤所は政府の管掌となったが、それは政府の資金が戦争で激減した時だった。1525年6月10日の通達がその事を証明している。上記のジョヴァンニ・マネンティが引き受けて、サン・サムエーレ教区のカ・デル・ドゥーカ館で富籤を行ったのである。その政庁所有の館は現在では崩れ落ちてしまった。
サン・マルコとサン・ザニポーロ[ 写真はサイトから借用。左、サン・マルコ大同信会館(現在は市民病院)、右、サン・ザニポーロ教会。右端にアンドレーア・デル・ヴェッロッキオ作の『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が見える]  7月29日サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会隣のサン・マルコ大同信会館で籤引きが行われ、アゴスティーノ・ドルチェの息子アルヴィーゼが、4540の領収書のある籤を獲得した。

ピエートゥロ・アレティーノは彼の相棒であったこのジョヴァンニ・マネンティ宛に楽しい手紙を書いている。その文中、自分の頭上に降り掛かってくるあらゆる不運について仄めかしている。富籤をやると自分の将来が失望に満たされるのだ、と。この手紙は籤引きというものが、高い、飾られた演壇で行われ、その数字は現代でも殆ど同じように子供の手で引き出されるということを能く判らせてくれる。

後の世、1720年には、1traro(トゥラーロ)の富籤の領収書を見る。それは教会の再建のためであって、サンティ・スィメオーネ・エ・ジューダ・アポーストリ教区のマメーラと通称されたG. バッティスタ・モリーンが年に14回も僥倖を見たのだった。

14年ほど後には、ヴェネツィアに公共富籤が導入された。そして最初の籤引きは1734年4月5日に行われた。籤が入札で請負契約になり、関連事務所がボルゴローコ橋傍のサンタ・マリーア・フォルモーザに移り、一般にPonte dell'Impresaと呼ばれた。50人の職員がCaseletti とComputisti に分けられたが、それはチコーニャの手書きの表から判ることで、その事務所にはそれ用の祭壇のある部屋があって、聖処女マリアの像が掲げられ、崇拝されていた。

最初から年に9回籤引きが行われ、1758年には10回に増えた。続いて更に回数が増えて、儲けを町の街灯設置費用に振り当てた。

何か特別の富籤が行われたという記録がある。それは1796年12月30日に発表され、1797年1月14日に承認されたのだが、廃止されたサンタ・マリーア・デッラ・カリタの教会司祭館の財産を共和国の必要のためになされたロット籤だった。 」
  1. 2018/11/29(木) 05:12:59|
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ヴェネツィアの修道女の放蕩

G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』(Filippi Editore Venezia、2009)に、チチズベーオに関連して修道女の放蕩三昧が書かれています。
『ヴェネツィア奇聞』「修道女の放蕩というのは、その始まりの時から僧院に出入り禁止ということがなかったのだが、それは大変な事で、聖域に引き入れたい人を誰でも歓迎出来たのである。時には体の調子が非常に悪いという口実で、家族の元に何週間も帰る許可を得ていた。しかし帰宅する代わりに、近くの本土側へ愛人と行楽に行ったのである。

マリーン・サヌードが語っているのは、1509年チェレースティアの修道女達が、ファイフ(リコーダー)とラッパの奏でる音楽で一晩中一緒に踊った貴族の青年達の一団を大変褒めそやしていたという話である。そしてヴェネツィアの悪い風習が外部にも広がっていった。という事で、マリーノ・サヌート(Malin Sanudo)を読んでみよう:
《A di 6(Maggio 1519) la matina vene in col. il R. D. no Hieronimo di Porzia e. po di Torzelo, qual con li cai ebbe un'audientia in materia di monasteri di le contrade che sono postriboli.》
Francesco Guardiフランチェスコ・グァルディ[右、Francesco Guardi画『Il parlatorio delle monache a San Zaccaria(サン・ザッカリーア修道院の尼僧達の面会室)』  出入り禁止令が出ても、スキャンダルは絶えなかった。悪賢い女衒役の手で、うっとりするような目的を達成出来たのである。文献に見えるのは、彼女達の個室に隠れていて見付かった男の事、面会室に楽しみで赴くのに仮面を付けた尼僧の事、青年達がそこで催した宴会の事、その時格子窓の傍に座り、若者が格子から差し入れたストローでワイン・グラスから飲めるよう、そこに参加するのである。

ある尼僧達は、マリーア・デ・リーヴァ修道女のように自分達のdrudo(=cavalier servente)と変装して夜間外出し、色々のパーティに出掛けるということを勝手にやっていたのである。それは全て刑事裁判で見付かった。

上述の事以外にも、色々の作家が、修道女の俗服の事、正しい規律の欠如、そして近年にも(この本の初版は1897年)、全てとは言わないまでも、少なくともこの町の幾つかの修道院には無秩序があるということを嘆いている。 」
  1. 2018/10/25(木) 00:35:17|
  2. ヴェネツィアの民俗
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ヴェネツィアのチチズベーオ(3)

《Venezia Nascosta(隠れたヴェネツィア)》というブログに《I cicisbei veneziani, e l'amore a Venezia nel 700》というお話が、ヴェネツィアのチチズベーオについて語っていますので、更に紹介してみます。

「チチズベーイとかカヴァリエーリ・セルヴェンティはイタリア的現象で、外人達から酷く非難されたが、中でも仏人モンテスキューは、1728年イタリアを訪問、次のように書いた。《チチズベーオ達の事について私は、そこでは触れなかった。非常に滑稽で、馬鹿な国民が作り出したことである。将来に希望もない恋人達で、選ばれた貴夫人に対して、自由を犠牲にした犠牲者である。》

彼は高慢の高みで胡坐を掻いてチチズベーオの役割の意味を何一つ理解出来なかったし、1600~1700年代のヴェネツィアにも理解が及ばなかった人物である。この大思想家は奉仕騎士自体、貴夫人とその夫を利用出来る立場も、そのチャンスも、更にはゴルドーニが『骨董屋店』の中で、この様態を皮肉っていることさえ理解しなかった。
[モンテスキューのヴェネツィア滞在記については、2013.07.13日のブログモンテスキューで触れました。]

一人の女性をその外出の度に守護するために、カヴァリエーレとして生まれたチチズベーオは貴族階級の息子であった。しかし長男でない息子にとって遺産が全て長子にいくため、しかも社会参加の機会も所持金もないが故、将来の生計を確保することが出来る環境へ出入りしておくことが必要だったのである。この付添い人は家族の内、あるいは同じ財産程度の友人達の中から選ばれた。そしてその名前が結婚契約書に明記されることが善くあった。

彼の任務は朝から貴夫人に付き添うことで、朝化粧室に赴き、散歩や詩の朗読、音楽の演奏をする等、エスコートした。屢々、詩はアルカディアのイタリア文学から引かれ、ギリシア神話に則り、ペロポネーソス半島のアルカディアは牧羊神のパーンの土地であり、森の神の人気ない処女林のような家であり、森の精ドリュアースの、妖精ニンフ達の、自然の精霊達の庭園である。そこは屢々不滅の存在であるが故に、超自然なるものだけが住んでいた地上の楽園と言われた。
Casanova回想録カザノーヴァと想定画[左、『カザノーヴァ回想録』(伊語版)、右、Alessandro Longhi画のカザノーヴァと想定される肖像画(1774?)、サイトから借用。]  カザノーヴァは回想録の中で、ジャン・ヴィンチェンツォ・グラヴィーナとかフランチェスコ・ペトラルカとかピエートゥロ・メタスターズィオ(ピエートゥロ・トゥラパッスィのギリシア風の雅号)等の作家の文章を屢々引用し、教養ある、文学的な女性との情交を気晴らしに進めたと言っている。

食卓ではチチズベーオは貴夫人の脇に侍り、料理の肉を切り分けたり、夜には遊戯卓に近侍した。こうした貴夫人とチチズベーオの間には明らかに恋愛とかは存在しなかった。しかし貴夫人に対する慇懃な態度と男らしい配慮を示し続けることは、かつての騎士の古いやり方に従えば、貴夫人に身も心も投げ出した……その他、何もかも。
……
当然結婚というものは男女が色々に組み合わされた結果であり、貴夫人とチチズベーオが夫の暗黙の了解(implicito consenso)の下、彼らの間に恋愛関係を結んだということ、また他の関係を作るという事も自由だったということを排除すべきではないが、いずれにしても結婚の完全性として、取り分け家族の財産は強固に守られたのである。

チチズベーオ達にとってより適切な役柄とは僧侶であった(ジャーコモ・カザノーヴァは若くして神父になった)。そしてある人は修道士の義務の退屈さを軽減しようと、修道女に興味を持ったのである。ベネディクト修道院では貴族の娘は信仰には従っていたが、神父や聖職者との関係を発展させもした。事実、ある神父が残したこうした内容の修道院の記述がある。

ベネディクト会修道院について若干触れるとすれば、言って置かねばならない事がある。《フランス風に白で着飾り、本当に愛らしい装いをして、包み袋風の絹のコルセット(busto)、面前を覆う小さなヴェール、その下から巻き毛が覗き、見事に似合っている。胸部は半分も剥き出し(伊語scollato)、全体として尼僧というよりは妖精ニンフの装いである。》

ジャーコモ・カザノーヴァの事が思い出されるのはいつもの事であるが、ムラーノ修道院の尼僧、有名なM.M.との関係は有名である。スータンという修道服を着るつもりもなかった人々の淋しい運命、ヴェネツィアの通俗性、この町にしかない独特なこの状況、そして多分偽善の犠牲者であったのだが、生きた人々が住む生きた町……パラッツォやフェルツェが用意されたゴンドラの中で愛を貪り、生きる喜びを推し進めていった、しかしそれは残念な事にデカダンスの始まりであった。 」
felze[felze/felse(フェルツェ/フェlルセ=伊語)は、ゴンドラ等の上に用意された屋根のある客室、テント小屋のような物だそうですが、ヴェネツィア語ではfelce(フェルチェ)でしょうか?]
  1. 2018/10/18(木) 00:17:27|
  2. ヴェネツィアの民俗
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ヴェネツィアのチチズベーオ(2)

《ヴェーネトの歴史と芸術》というブログがヴェネツィア地方のチチズベーオについて語っています。

「チチズベーオ(cicisbeo)という言葉を発すると、今日否定的な人物像を想像する。事実この人物は、ヴェネツィアでは特に1600~1700年代重要な役目を帯びていた。cavaliere servente(奉仕する騎士)という言葉は仏人が言い出したのだが、戸外へ貴夫人に付き添ったりする、丁度うまく家族に選出された紳士の事なのである。
グァルディの絵画?[イタリアのサイトから借用。この絵は恐らくPietro Ronghiの数ある家族の肖像画の一つでしょう? ロンギとガブリエル・ベッラの絵を見る度に、一番興味のある1700年代ヴェネツィアの習俗を目の当たりにする思いです。] 
チチズベーオは貴族の息子で、通常は長男ではない家系(一般に長男が遺産を継ぐので、彼には経済的資力がない)で、社会と交際し、経済的手段なしでも、身の安定を図る機会を持とうとした。チチズベーオは家族や同じ家計程度の友人達の中から選ばれ、結婚契約書の中に名前が記された。

役目は朝早くから、貴夫人に付き添い、一日中近侍した。食卓では脇に座り、夫人のために肉を切り、好きな料理を取り分けて差し上げた。更にお遊びのテーブルに同伴した。彼には最も公式の役があった。貴夫人に対する“奉仕”の関係は有名だが、夫や家族との間も良好で、結局、貴族主人が自分の力を弁え、発展させる縁であり、知人網を広げていく力となる、それ以上に、夫人に対して敬いの態度を示して、支えとなっているということであった。

この風習は貴族だけのもので、稀に上流ブルジョワの例もあった。その場合は彼は日曜日のみ奉仕に出かけた。
……
記述がないにも拘らず、筆者にはこの役柄の人物は正にヴェネツィアが生み出したと思われるのである。17~18世紀のイタリアを概観すると、女性にとって本当に自由な環境がセレニッスィマ共和国には確かにあった。リーミニ司教区カマルドーリのアウグスティヌス修道会隠修士テオーフィロ・クリーニは、チチズベーオの事を否定的に語っている。チチズベーオを上流社会のあまりなる堕落と考え、教会はこうした社会政治的人物のためにあるものでは決してないのだ、と。
ゴルドーニの挿絵[ゴルドーニの戯曲の挿絵、サイトから借用]  チチズベーオはヴェネツィア生まれであるという別の証言としては、数多くのカルロ・ゴルドーニの作品がある。そこでは作家の喜劇の中心人物の中の一人であり、役を演じている。作家はこの状況の最も喜劇的側面を浮き彫りにしているのである。しかしその事は、謹厳実直なモラリストや、この風習に大いに戸惑いを覚えた、特に外国人達の非難の矢の的となっている、この風習についての知識を高める、更なる要素なのである。 …… 」

ヴェネツィアでの実例は、2013.03.09日のモーロ=リーン館でご覧下さい。
  1. 2018/10/11(木) 02:44:24|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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