イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

クシシトフ・ポミアン著: ヴェネツィアの『コレクション』(1)

ヴェネツィアで収集された各種の物、例えば彫刻、骨壺、浮彫、碑文、箪笥、メダル、カメオ、指輪、ランプ、フィブラ、花瓶、蝋燭立て、十字架、香炉、聖遺物容器、祭壇飾り、聖体器、聖杯、楽器、鎧、鍵、籠手、馬用面頬、短銃、矛槍、剣、鉄砲、槍、角笛、版画、花瓶、自然物、とりわけ絵画です。

古代から色々なコレクションがあり、ヴェネツィア(ヴェーネト)とパリのコレクションについて述べた『コレクション――趣味と好奇心の歴史人類学』(クシシトフ・ポミアン著、吉田城・吉田典子訳、平凡社、1992年5月13日)という本があります。
コレクション「アポストロ・ゼーノ(1668~1750)の書簡を調べると、メダル・コレクションの成立を跡づけることができる。つまり値切るための交渉、真贋の吟味(なぜなら市場には偽造や不正取引のメダルが出回っていたから)、専門家への照会、交換である。1708年に創設されたゼーノ・コレクションは、1726年には約5900点のメダルを収蔵しており、そのうち700点はギリシア、700点は金、1400点は銀、1000点は大型ブロンズ、1600点は中型ブロンズ、800点は小型ブロンズであった。

ゼーノと同様ヴェネツィア人であったオノリオ・アリゴーニ(1668~1758)は、メダルを求めてイタリア全土を25回も旅行した。彼は1740年頃にはおよそ20000点のメダルと、それに他の古代遺物――分銅、ランプ、壺、エジプトの小彫刻、護符、供犠の道具――を集めた。けれども、メダルと古代遺物に関してもっとも立派な収穫をあげることができたのは、東方においてであった。

それを示しているのがジャンアントニオ・ソデリーニの例であって、彼は初めエジプト、聖地、トルコ、そしてギリシアの島々、さらには軍隊の指揮を取っていたザーラ(ザダル―アドリア海に面した現ユーゴスラヴィアの港町。15世紀から18世紀までのヴェネツィア領)への旅行を通して、その立派な陳列室を整備したのだった。

同じようにマルカントニオ・ディエードは御用商人(プロッヴェディトーレ)をつとめていた軍隊から戻って、ゼーノに自分の《無数の》メダル、彫刻、碑文、浅浮彫、壺などを見せて驚かせた。ヴェネツィアでは、ギリシアや東方から戻ってくる旅行者がメダルを持ち帰ることがよく知られていた。そこで好事家は、たとえばスポンがその楽しい経験を味わったように船が到着するとそこに買い求めに来たのだった。
……
それから20年間の空白がやってくるが、そこに1630年のペストの影響を見ないわけにはいかないだろう。なるほど、ピニョーリア[PignoriaはSignoriaと同様、ピニョリーアと発音するでしょう]のことを知っていて、その図書室とコレクションの記述を行ったジョヴァンニ・フィリッポ・トマシーニ(1595~1655――Tomasiniはヴェネツィアではトマズィーニ)なる人物がいて、ジョヴァンニ・デ・ラザーラと交際していた。

けれどもこの種のまれな事実だけでは、17世紀初頭の世代と、世紀後半にやってくる世代――その首領はセルトリオ・オルサートである――とのあいだに橋を架けることができない。オルサートはイレーネ・マントヴァ・ベナヴィデス(アンドレアの妹)の夫で、先祖からのコレクションの最後の管理者であり、碑文研究におけるチェルキアーリの師匠であって、ヴェネト地方で古代碑文に関心を持つ全ての人に影響を及ぼした。彼はジョヴァンニ・デ・ラザーラの友人で、他のイタリア都市や外国の多くの学者、古代遺物蒐集家たちと書簡を交わしていた。

彼に直接間接に師事した弟子のなかでは、カミーロ・シルヴェストリが筆頭格で、オルサートの築いた碑文コレクションを受け継ぐことになった。それはパドヴァからロヴィーゴに移され、カミーロの息子カルロ・シルヴェストリによって、音楽愛好家アカデミー博物館のためにマッフェイに売られ、そこでニケソーラの大理石と一緒になった。

カミーロ・シルヴェストリの非常に広範な交際の網目の中には、ジュラントニオ(ジャンアントニオの事?)・アヴェロルディ、ジョヴァンニ・マルツィオ・チェルキアーリ、シャルル・パタン、カルロ・トルタ、アポストロ・ゼーノ、シピオーネ・マッフェイといった、われわれがすでに出会った何人かの人物がいる。この最後の二人は――といっても、彼らだけというわけではないが――好奇心と古代遺物学の伝統を、遠く18世紀にまで延長したのである。……」 (2)に続く

この分厚いA5版の濃密な内容の本を要約するのは私には丸で無理です。次回は中心となる絵画のコレクションについてです。
  1. 2017/06/22(木) 00:27:14|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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書籍「ヴェネツィアの放浪教師」(6) 

(続き)
「……パドヴァ大学は、一二二二年にボローニャから学生と教師が移住したことによって成立した。一三世紀中葉にはパドヴァの町が僭主性専制下におかれ、大学も低迷していたが、一四世紀にはパドヴァの実権を掌握したカッラーラ家の庇護の下で著しい発展を遂げ、ボローニャと並び称されるほどの大学になっていた。
『ヴェネツィアの放浪教師』ヴぇネツィアは、一四〇五年にパドヴァの町を征服してからは、この大学をヴェネツィア共和国唯一の大学と位置づけて、重要な教育的機能を担わせることになる。
……
一四〇五年にパドヴァを征服したヴェネツィアは、パドヴァ側の要請に応えて、《パドヴァのコムーネの規約と良き習慣を遵守し、……大学が確保されること》を保証した。そして、翌年の一四〇六年四月には、《すべての学部が有能にして充分な教授を持っているか、大学の発展と拡張のためにどの程度必要なものがあるか》を視察するための政府調査団を派遣する。

この大学整備を目的とする視察の根底には、パドヴァ大学の経済的有用性にたいする評価、すなわち、大学の発展がヴェネツィアに新しい利益をもたらすという認識があった。多数の学生たちが市内商業において無視できない消費者グループを形成していたことに加えて、ドイツ人などさまざまな遠隔地の出身者は、ヴェネツィア商業にとって交易を拡大する機会を提供すると考えられたのである。いわば、政治的動機によってカッラーラ家が保護育成したパドヴァ大学は、一五世紀以降、経済的動機によってヴェネツィアが発展させることになった。

この調査団の報告に基づいて、一四〇七年には、ヴェネツィアは矢継ぎ早に大学施策を発表している。まず、著名な外国人教師を招聘して教育面での充実をはかろうとする。そして、ヴェネツィア市民は、少なくともイタリアで勉学する場合には、パドヴァ以外で学んではならないという、他大学勉学禁止令を発布した。

これには違反者に五〇〇ドゥカートもの多額の罰金が課せられ、ヴェネツィア市民がパドヴァで学ぶように強制するものであった。さらにまた、すでに占領していたヴィチェンツァとトレヴィーゾの町に存在した大学を閉鎖して、パドヴァ大学をヴェネツィア唯一の大学として育成する方針を打ち出したのである。

ただ、このような一五世紀初期の大学政策が、すぐに効果を表わしたとは言い難い。領土拡張にともなう混乱や、断続的に猖獗を極めていたペスト、招聘した著名教師の怠慢など、大学の繁栄を阻害する要因が存在し、大学は常に不安定な状態におかれていた。

このような悪条件を克服して大学に繁栄をもたらすために、ヴェネツィアは一四二〇年には大学改善委員(reformatores)というものを設置して大学改革に取り組み、高額給与による著名教師の招聘や、他大学勉学禁止令などを核とした大学興隆政策を繰り返していく。

その結果、かつてないほど多数の学生がヨーロッパ各地からパドヴァに参集し、宗教的束縛から自由な学問的雰囲気の下で、医学を中心とした世俗学問の発展が起こって、やがてヴェサリウスやハーヴェイを生む近代医学揺籃の地となるのである。 ……」  (引用終わり)
  1. 2016/01/28(木) 00:05:17|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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書籍『ヴェネツィアの放浪教師』(5)

(続き)
「……ヴェネツィアの社会構造を考えるうえで第一に留意しておかなければならないことは、ヴェネツィアの貴族層が他の国のような封建領土に基づいた土地貴族ではなく、商業上の利益を背景として法的権利を獲得した特権階級であって、参政権をはじめとする諸権利を含む完全市民権を有する商人貴族であったことである。
『ヴェネツィアの放浪教師』したがって本来、彼らは子弟の教育を基礎教育の後は商業実務に携わることによっておこなっていた。ところが、大評議会をはじめとするすべての政治機構を独占し、これらの公務に参加することが彼らの義務でもあり、またステイタス・シンボルともなっていた。そこで、政治的な公務を遂行するためには、商人的な実務教育以外の教育が必要となったのである。

ことに、一五世紀前半にヴェネツィアは、イタリア本土への内陸侵攻策を進めて、ミラノ近郊のベルガモ付近まで領土を拡大した。こうして、新たに獲得した内陸部の領土を統治する人材の養成が国家としても必要になっていた。従来も、国政や海外領土の統治の専門家を必要としたとはいえ、海上交易によって富を蓄積したヴェネツィアにとっても最も必要な人材は海事外交専門家であったといってよい。

しかし、一五世紀になってからは、この海事外交専門家に加えて、彼らとは性格の違った内陸領土の統治専門家の必要性が増大した。いうまでもなく、海事や外交と違って内陸部の支配都市の統治は、ローマ法に基づく市民法と、その影響を受けた教会法などを社会的基盤とした都市社会を統治するということに他ならない。そのための法学の知識を、当時の支配者層であった貴族層は必要としたのである。

貴族たちが強い法学部指向を示したのは、このためであった。彼らは、国政に参加してヴェネツィアの舵取りをする必要があり、そのためには法学の知識が不可欠であった。とりわけ、貴族の中でも富裕な者ほど法学に集中していたのは、富裕な貴族であればあるほど切実に法学の知識を必要としたためである。

貴族が独占した職務は、大評議会を基礎とした元老院や各種委員会組織の職務以外に、領土下の行政職として、各国大使、支配下の各都市のポデスタなどがあり、それぞれの都市の重要度に従って序列化され、貴族の富裕度に応じて割り当てられていた。つまり、富裕な貴族ほどより重要な職務を担当しなければならなかったのである。そのために、富裕な貴族ほど強い法学部指向を持ったのであった。 ……」 (6に続く)
  1. 2016/01/21(木) 00:02:29|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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書籍『ヴェネツィアの放浪教師』(4)

(続き)
「一四四三年には大評議会が前述の書記官庁の学校を設立して《文法、修辞学、及び書記官職を営むに適した他の知識と筆記法》を教授させた。現実に、この年に一二名の学生が選ばれて、勉学のための給与が支給されている。これらの学生は、給与が支給されている点からして、書記官庁の官吏に準ずる扱いであったようである。
『ヴェネツィアの放浪教師』しかし元老院は《多くの者が学校に通わないし、通おうともしない》と判断して、より多くの学生がこの学校で学ぶように、一四四六年に学校の設置を再度布告した。その結果、給与支給なしに自発的に学ぶ学生が増加し、彼らは無償で学校に通えることになったのである。

この学校は、明確に書記官庁の官吏養成のための学校として設立されている。それも、一定の数の学生には給与が支払われているから、少なくとも設立当初は、書記官庁付属学校の性格を持っていたといえるだろう。しかし、元老院は書記官庁により多くの人材を供給するために、給与なしだが無償で教育を受けられる学生にその門戸を広く開放した。

こうして、多数の人材を書記官庁に供給する教育機関として書記官庁の学校が機能するようになったのである。もちろん、すでに述べたように、官吏になるには市民層でなければならなかったから、この人材養成が市民層を対象にしたものであったことは確かである。

それも、文法や修辞学などの教授内容を見る限り、中級官吏以下の養成を目的にしたものであった。法学知識が必要であった上級官吏は、すでに見たようにパドヴァ大学で養成していたのである。したがって、この学校の設立によって初めて、ヴェネツィアは中級官吏以下の官吏養成に公的に着手したことになるのである。

さらに元老院は、この書記官庁の学校に加えて、一四六〇年に《詩・雄弁術ないし歴史・人文学》を教える文学の学校を設立した。この学校は書記官庁の学校の上級講座の性格を持ち、ヒューマニズム的教養を教授するものであった。市民層だけでなく貴族の子弟などもそこで学んでいたが、この文学の学校は、基本的に中級から上級の官吏に教養を与えるものであったといえるだろう。
……
さらにまた、商人タレンティが一四〇八年設立した論理学と哲学を教えるリアルトの学校にたいして、一四四五年に政府は教師給与の支出を決定し、学校を公立化している。この学校は、すでに述べたように、商人層の知的教養を高めるために設立され、大学の教養諸学部程度の知識を与えたが、生徒たちは社会階層による制限を受けず、貴族から庶民に至るまでそこで学んでいた。

結局、一五世紀の半ばの二〇年ほどの間に、ヴェネツィアは三つの公的な学校を設立したことになる。一四世紀以前にはほとんど教育を統制しなかったヴェネツィアが、一五世紀初期に獲得したパドヴァ大学にたいする保護育成策と並行しつつ、急速に公的学校を設立・整備したことには注目される。それまで教育の自由放任主義に従っていた都市国家が、方針を転換して公的学校の設立による教育整備をおこないはじめたことを端的に示しているからである。 ……」 ――(5)に続く
  1. 2016/01/14(木) 00:03:40|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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書籍『ヴェネツィアの放浪教師』(3)

(続き)
「ヴェネツィアの社会を考えるときに何よりも重要な事実は、際だった現実性とその現実性からもたらされる世俗性である。強大な交易都市国家を動かしていた《ヴェニスの商人》たちは、商業上の利益をあらゆるものに優先させた。それが国益につながった。だからこそ、国益にそわないとなると、たとえ教皇庁の要求であってもガンとして受け入れなかったのである。
『ヴェネツィアの放浪教師』すでに述べたように、町の中心にある聖マルコ教会は、ドージェの個人的な礼拝堂にすぎず、司教座聖堂は中心部から離れた町の東端にあった。この事実は、ヴェネツィアの政治・経済の際だった世俗性を象徴的に表わしているのである。

政治権力から教会権力が排除されていたために、たとえヴェネツィア市民であろうとも、いったん聖職者になったら、一切の政治・行政上の公職には就けなかった。それゆえ、他の都市と異なって、貴族層で聖職者になろうとする者は著しく少なかったのである。

一四世紀から一五世紀にかけてのヴェネツィア社会は、四つの階層から成り立っていた。貴族(nobili])、市民(cittadini)、庶民(popoli)、そして聖職者(clerici)がそれである。このうち、聖職者はすでに述べたように政治・経済的には重要な役割を果たしていない。庶民層というのは非熟練労働者、職人、商店主などである。

貴族に次ぐ地位を占めた市民層は、二世代以上にわたって市民権を持つ名誉ある旧市民(cittadini originarii)、書記・公証人組合加入権を持つ市民(de intus)、市外商業権を認められた市民(de extra)、などに細分化されていた。そして、このうち旧市民と書記・公証人グループだけが、書記官庁(Cancelleria)や裁判所の官吏になることができた。

つまり職業という観点からすれば、市民層は、ヴェネツィアの行政官職を独占した官僚層と、商人層、そして医師や弁護士などの専門職層にわかれていたのである。

問題は貴族層である。ヴェネツィアの貴族を、封建国家における土地貴族のように考えると、ヴェネツィア社会を理解できなくなってしまう。彼らは、土地貴族ではなく、いわば政治貴族であった。商人たちの中から、政治に参画する権利を有する者のみが貴族とされたのである。

ことに、一二九七年に、過去四年間に大評議会(Maggior Consiglio)のメンバーであった家系に属する者のみが貴族とされてからは、彼らは閉鎖的な貴族階層を形成した。以後、一三八〇年のジェノヴァとの戦役で、財政的に貢献した三〇家系があらたに貴族に列せられたのを除いて、トルコとの戦役で貴族の特権を売却するようになる一六四六年まで、貴族層は完全に閉鎖されていた。

その議員資格によって貴族層を特徴づける大評議会は、ヴェネツィアの国会の下院に相当した。大評議会のメンバーからさらに上院(Senato)の議員が選出された。これは、古代ローマ風に訳せば元老院で、ヴェネツィアの最高議決機関であった。

上院議員と同様に、首相にあたるドージェとそれを支える六人の閣僚や、勇名を馳せる検察情報機関である十人委員会も、大評議会から選出されたから、大評議会こそヴェネツィア政治の要であった。貴族層は、この大評議会を中心とする政治機構を独占していたのである。 ……」 ――(4)へ続く
  1. 2016/01/07(木) 01:17:20|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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