イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(4)

(続く)
「ヴェネツィアに帰還したピエトロ・ベンボは、ありとあらゆる礼を尽くして迎え入れられた、と書き記しているのは、もちろんマリン・サヌードである。
Palazzo Sanudoサヌードの家1サヌードの家2サヌードの家3[左、『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』vol.1,2 (Piero Pazzi, Tipografia del Centro Grafico di Noale)のサンタ・クローチェ区の1頁、サヌードの家が1757番地とあります。左中、サン・ジャーコモ・ダ・ローリオ広場北、運河の北にメージョ橋があり、左にサヌード館が見えます。右中、テントール通りを西へ、メージョ橋があり、中央にサヌード館が。右、1757番地の建物。Marin Sanudoは伊語ではMarino Sanutoと表記されます。]

1530年9月、『日記』には、《三千ドゥカートの報酬を得て何も書かずに没した》ナヴァジェーロの後任として、《詩神たちの共通の父》が選出されたと書かれている。12月、図書館の引継ぎにあたり、サヌードはこう記している。ベンボが《ラテン語のヴェネツィア史を執筆する任を負った。前任者アンドレア・ナヴァジェーロは、三千ドゥカートの報酬とさらに毎年二百ドゥカートの年収を得ながら何も書かなかった》。

要するにわれらの年代記作者はまたもや戦いに敗れたのである。選出されたベンボ――ライバルとしてはあまりにも巨大な権威である――に咬みつくことはできなかったが、だからといって、依怙地な恨みつらみのなかで、何度も受けた不正を仄めかさないわけにはいかない。ただ執拗なまでに、哀れなナヴァジェーロに罪を着せるのであった。彼のすべての不幸の唯一の責任者であるかのように。
……
ピエトロ・ベンボは押しも押されもしない地位に君臨しつづけていた。ベンボは1532年の4月、つまり共和国史官となりニカイア文書を整理する任を引き受けてから間もなく、ヴェネツィアの誇りとなるべき図書館の創設に向けて決意をあらたにする。

そこでヴェットル・グリマルディと同盟を結んだのである。彼は高い教養をもつ有力な貴族で、革新派のアンドレア・グリッティ総督に近かった。総督としてもこの計画には賛成しており、あのローマ劫掠の後はとりわけ、ヴェネツィアにはこれらの遺産をしっかりと保護する義務があると考えていた。したがって図書館には、古代ローマ、古典古代とローマ帝国の刻印がなくてはならない。

四年後、図書館建設の責任者としてヤコポ・サンソヴィーノが任命される。ドイツ兵の襲来とともにローマを脱出した建築家で、ヴェネツィアに移っていた。造幣局やマルチャーナ図書館など多くの建築物を設計し、優れた手腕を発揮することになる。

これに関してベンボは厳格そのもので、貸し出し中の書物がもとの場所に収められるよう、ヴェネツィアの国外にまで容赦のない手紙を書き送っている。たとえば、1528年、マントヴァ大使ジョヴァン・バッティスタ・マラテスタに、エウクレイデスの写本が貸出されたが、それは手から手へとわたり、いまボローニャにあった。32年、ベンボはボローニャの行政官に手紙を書き、この写本を取り戻すことに成功している。ともかくすでにあまりにも多くのものが失われたのだ。

いずれにせよベンボは、信頼できるジョヴァン・バッティスタ・ラムーシオの協力を当てにしていたのである。だが古写本の貸出しについて有力貴族の何人かは、書記官が印刷者や外国使節と関係のある写字生に寛大すぎると言って非難しつづけていた。実際のところ、たとえばフランス大使ペリシエールは、十二名もの写字生を擁する正真正銘の筆写館を設置していたのだ。印刷者と写字生はまだ共存していた。 ……」
 
ピエートロ・ベンボについては、2012.01.14日のブログベンボ館でも触れています。
  1. 2017/08/17(木) 00:04:55|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(3)

(続き)
「16世紀を通して――たしかに16世紀だけではなかったが――ヴェネツィアは、流通する商品、文化、そして悦楽の代名詞だった。いつの時代も、この年は喜々として歓楽に向かったというのが決まり文句である。例えば裕福な遊女であったヴェロニカ・フランコのことは、今なお語り継がれている。ヴェロニカと文学論争を戦わせたマッフィオ・ヴェニエール大司教は、十一音節詩行で《ヴェロニカ、唯一無二の娼婦》と、かなりあけすけに彼女を咎めたものだ。
[ヴェローニカ・フランコについては、2010.09.18~2010.10.09日のブログヴェローニカ・フランコ(1~4)をご参照下さい。]

何千もの娼婦たちが伝説を残しているが、彼女たちの多くはカランパーネ地区に住み、テッテ{乳房}の橋に面した窓に立って胸をはだけ、男色に走る海の男たちを誘惑したのであった。観光客に洗われて水臭くなったとはいえ、カーニバルとその自由な習俗は残りつづけた。ジャコモ・カサノヴァのことは言わずもがなである。
Tete橋[写真の“乳房橋(ヴェ語ではponte de le tete)”はサイトから借用。尚、2008.06.27日のカランパーネ通りと2008.07.04日のストゥーア小広場で、“乳房橋”周辺のかつてのヴェネツィア赤線地帯について触れました。伊語の caranpana(身形のだらしない女)はこの“カランパーネ”埋立通りから来たようです。]

その輝きの頂点でヴェネツィアは、まるで寄せては返す波のように、セックスと金銭の流れの只中にあった。人々はますます自由奔放に暮らし、奢侈と風俗紊乱に対して引き締めをはかる共和国政府の再三の試みも空しく、条例の効き目もなく、多幸症的な傾向に引きずられるがまま、禁止は侵犯されつづけた。

未婚であろうが既婚であろうが、ヴェネツィア婦人は派手で積極的で機知に富んでいた。どのような法律をもってしても、彼女たちの陽気さ、魅力的なコケットリーを止めさせることはできなかった。

そういうわけで、彼女たちは髪の色を明るくするために、《ソラーナ》という縁ばかりの帽子をかぶり、屋上テラス――屋根の上に架けた木造のテラス――で何時間も陽にさらした髪を、葡萄と大麦が原料の抽出物あるいはカモミール水でつねに濡らしていた。帽子の目的は顔の白い肌を保護することだった。
[この木造の屋上テラスの事をヴェネツィアではアルターナ(altana)と言い、古くは lobia と言ったそうで、現在新しく設置することは禁じられているそうです。夏、Fabi さん宅のアルターナで飲んだビールの美味しかったこと。]

顔の皺や染み、肌の手入れや化粧に関する最初の出版物も、上記のような処置を推奨していた。ヴェネツィアの婦人たちは、肌をますます白く滑らかにするため、牛乳に浸して柔らかくした肉片を顔に貼りつけたのであった。外出するとなると、顔にはさらに、キプロスの粉を塗るのを忘れてはいけないし、頬には、ハエとも呼ばれた付け黒子も必要だった。サン・パンタロンの界隈へ行けば何でも買えたものだ。それが流行だったのだ。

近頃また彼女たちは、みみたぶに穴をあけ、繊細な金の輪に純白の真珠を嵌めたものを吊るしはじめた。汚らわしい《ムーア人の風習》とマリン・サヌードは軽蔑を込めてかたっているが、ヴェネツィアの婦人たちは、銀の締め金に貴石を散らした豪華な帯を締めた上、耳飾りまで付けだしたのである。彼女たちが快楽と贅沢に走るのを抑えることは不可能だった。 
……
怪しげな女たちの社会的地位をもち上げるためには、すでにピエトロ・アレティーノの書物があった。愛に関する洗練をきわめた対話、ベンボの『アソロの人々』のパロディである。女たちが語りあう『六日間』で、ナンナは、娘のピッパにいかにして立派な娼婦となるかを、この職業の筆舌にしがたい詳細にいたるまで、母親らしく懇ろに教え諭している。
ラジオナメンティピエトロ・アレティーノの肖像[ピエートロ・アレティーノの翻訳作品には、『ラジオナメンティ』(結城豊太訳、角川文庫、昭和五十四年六月三十日)や澁澤龍彦文学館1『ルネサンスの箱』中、『好色談義(六日物語)(抄)』(河島英昭訳、筑摩書房)があり、彼についての『ティツィアーノ ピエトロ・アレティーノの肖像』(フランチェスコ・モッツェッティ著、越川倫明+松下真記訳、三元社、2001年11月15日)があります。尚、ヴェネツィアのアレティーノについては、2012.01.14日のブログボッラーニ・エーリッツォ館もご参照下さい。]

すでにお分かりの読者もいらっしゃるはずだが、ヴェネツィアの方言で書かれた作者不詳の五幕の喜劇、韻文の幕間劇も備えた『ヴェネツィア婦人』のことである。おそらくは靴下同盟の誰かが、余興のために制作した作品と思われる。制作年代は1535年の終わりから38年のあいだと考えられている。年代を推定させるさまざまな状況証拠のなかでも、とりわけ重要なのは、本作品についてマリン・サヌードが何も述べていないことだった。
『ヴェネツィア女』[作者不詳『La Veniexiana(ヴェネツィア女)』(ジョルジョ・パドアーン監修、Marsilio Editori、1994.01)は、左頁伊語、右頁ヴェネツィア語の左右対称の形の本で出版されています。サヌードの日記に記されていないという事はサヌード没(1536.04.04)後の事らしく、このドラマの発見後、イタリアの百科事典にも項目として掲げられているように著名な作品のようです。その事について2008.07.20日のブログヴェネツィア映画で触れています。]

だがわれわれの濃厚に官能的な《本当の出来事》の登場人物は、身分の低い下賎な者たちではない。それどころか、この喜劇の主人公二人は――未亡人と若妻、彼女たちがひとりの若い兵士の逞しい肉体を奪いあう――、ヴェネツィアでも評判の良い裕福な貴族の家柄に属していた。

1520年代に上演された数多くの作品をサヌードは語っている。ビッビエーナの『カランドリア』、アリオストの『カッサリア』、マキャヴェッリの『マンドラゴラ』、ルザンテの初期作品など……。『マンドラゴラ』――《フィレンツェに住む老いた医師とその妻、子どもができずに云々》――は、1522年2月にクロセキエーリの修道院で上演された。そこでは実験的な演劇がよく取りあげられ、貴族も商人も庶民も1マルチェッロ払えば観劇できた。サヌードにしたがえば、『マンドラゴラ』は満員御礼で、《あまりに多くの人が入場したので、第五幕を演じることができないほどだった。》

ヴェネツィア市民生活の完璧なバロメーター、サヌードは、あらたな現象に立ち会っているのだ。 ……」 (4へ続く)
  1. 2017/08/10(木) 00:09:58|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(2)

(続き)
「数か月前からヴェネツィアでは、トッレザーニ印刷所の件でさまざまな噂が飛び交っていた。老アンドレアが没すると、突然、印刷所の動きがすっかり停止してしまったのである。ともかく出版活動の一切が中断していた。カルパントラの司教ヤコポ・サドレートは、かなりの出費をして、学識あふれる彼の『詩篇第九十三註解』をフランスからジョヴァン・フランチェスコ・トッレザーニに送り、印刷の仕上がるのを待っていた。

しかし応答がない。彼は何度もベンボ――もちろん即座に援助を約束して、後の始末は秘書のコーラ・ブルーノに任せた――や、グッビオの司教フェデリーゴ・フレゴーゾ――ベンボやカスティリオーネらの友人であり、『宮廷人』出版の際には惜しみなく援助をしている――に手紙を書いた。

けれども無駄であった。月日は流れ何も起こらない。この袋小路が、教会の検閲によるのかヨーロッパ随一の印刷所の怠慢のせいなのか、それもはっきりしなかった。そういうわけで、サドレート司教は、長いあいだ静かに待ちつづけた後、この『註解』をリヨンの印刷所へと回したのである。

明らかにサン・パテルニアンの印刷所には何か重大な異変がおきていた。仮借ない剣の刃が沈黙のうちに砥がれていたのだ。続く月日に麻痺状態の本当の原因が明らかになる。遺産相続の問題であった。

[サン・パテルニアーンについて――前回の(1)で触れましたように、アルド・マヌーツィオは最初サン・ポーロ区のリーオ・テラ・セコンド(セコンド埋立通り)に印刷所を開いたそうです。建物正面に羅典語の碑が掲げてあります。後トッレザーニの娘マリーアと結婚し、旧サン・パテルニアーン教会裏に越したようです。そこにギリシア語で語り合うクラブ、アルディーナ・アッカデーミアを開きます。マニーン広場の“ヴェネツィア信用金庫”とでもいった銀行の壁面に彼の碑があります。銀行建物はヴェネツィアに似つかわしくない現代建築で評判が良くないようです。アルドが葬られたサン・パテルニアーン教会は1810年倉庫になり、1848年を記念してダニエーレ・マニーンの銅像を建てるため広場として広げられた1869年壊され、現マニーン広場となりました。マニーン広場からサン・ルーカ広場への道はリーオ・テラ・サン・パテルニアーンと旧教会名が残され、その通りにその碑を見ることが出来ます。マニーンの銅像は長年住んだ運河向こうの我が家を見下ろしていますが、マニーンの生家は、上記アルドのセコンド埋立通りのサンタゴスティーン広場に近いアストーリ通りどん詰まりにあります。最近登る事が可能となったボーヴォロ階段はマニーン広場の傍です。2011.12.10日のブログでもマニーン(2)について触れています。]

すべては1515年の1月、他界する一月前にアルド・マヌーツィオが書いた遺言中の一言――この事件を担当する判事は完全に有効な言葉と認めるだろう――にかかっていた。すなわち、アンドレア・トッレザーニとアルドとのあいだで未分割の財産について、《五分の一がわたしに属する》という言葉である。彼、つまり彼の遺族、彼の子どもたちは、トッレザーニの全財産の五分の一を所有するわけだ。

アルドの妻マリア、つまりアンドレア・トッレザーニの娘が後見人となり、子どもたちが小さいあいだは、不動産、出版活動、高い評価を受けている商標、つまり全財産を老アンドレが管理していた。だが彼が亡くなると、まさに文字通り決算の時が来る。トッレザーニとマヌーツィオの第二世代が衝突する時が来たのである。まもなく誰もが心の内をさらけ出して不満を爆発させ、和解は困難になった。
……
パオロ・マヌーツィオ青年は、父親――三歳の時に死亡した父親の記憶は何もなかったが――の遺言を執行すると従兄たちに告げ、相続人の名において、ジョヴァン・フランチェスコ・トッレザーニのやり方がアルドの商標を曇らせていると憚りもなく言った。ともかく、財産はまだ分割されておらず、ジョヴァン・フランチェスコとその放埒な兄フェデリーコには、父親アルドの財産の五分の四が与えられるはずだ。

不公平なことだった。トッレザーニ家はすでにマヌーツィオ家よりかなり裕福だったが、出版業におけるアルドの才能と技術がなければ、トッレザーニはこれほど豊かにならなかったであろうし、このように高い評価を得ることもなかったであろう。 ……」 (3に続く)
  1. 2017/08/03(木) 00:06:04|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
  3. | コメント:0

ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(1)

以前2011.06.04日~のブログアルド・マヌーツィオ(1~4)でヴェネツィアの印刷・出版について触れました。その当時の歴史的事実を元に、当時の出版文化をフィクシャスに描いた一種の小説というか、ドキュメントがあります。ラウラ・レプリ著『書物の夢、印刷の旅――ルネサンス期出版文化の富と虚栄』(柱本元彦訳、青土社、2014年12月10日)です。
書物の夢、印刷の旅「古典の発見――まず第一にギリシア、そして次にローマの文学――を目的とする明確な企画が、その他無数の印刷者からアルドを隔てていた。そして極めて洗練された入念な装幀によって、またたくまに押しも押されもしない最高の印刷者となったのである。さらに、イタリック体の導入、小型判、頁番号、句読点法、出版の文化的意図を宣言する前書きなど、印刷物に堂々とした存在感を与えるこうしたすべてのことが、普及の促進につながった。マヌーツィオは、どのような人々が読者になるのかを心得ていたのだ。

それだけではない。おのれの企画に活力を注入するため、アルドはヴェネツィアの文人たち、互いに友人同士でもある彼らを身辺に集めていた。ラムーシオ自身もそのひとりであったし、いまや群れをなすイタリア人文主義者たちの先頭に立つピエトロ・ベンボ、博識のアンドレア・ナヴァジェーロなど、他にも大勢いた。印刷待ちの書物の監修を毎回のように彼らに任せ、その意見には進んで耳を傾けたものだ。

ほどなくしてアルドのカリスマ性は誰もが認めるところとなった。ロッテルダムのエラスムスでさえ、1508年、ようやくにして辿り着いたボローニャ大学――古典古代の文化を訪ね歩く彼のイタリア旅行の最も重要な滞在地――から、純粋に尊敬の思いをこめて手紙をしたため、しばらく前にパリで印刷された彼の作品、『アダジア』の出版をアルドに請うたのであった。

その同じ年に承諾の返事を受け取ったエラスムスは、ヴェネツィアのアルドの家にしばらく滞在し、ローマ古典文学の何冊かを監修することになった。アルドが創設したギリシア・アカデミーに通い、高名な印刷所を中心に集まる数多くの文化人たちと交流を深めたのである。エラスムスはまさに、『アダジア』のこの版によって大きな名声を得ることになる。それまで彼の名は、ごく少数の宗教学の専門家に知られていたにすぎなかった。文献学的に正しい聖書を出版するという壮大な計画を語ったからである。

1515年2月6日、病に倒れて何か月もたたない内にアルド・マヌーツィオが亡くなった。享年およそ六十五、かなりの年齢になってから結婚したマリアとのあいだに、小さな子どもが四人残された。マリアの父親は、アソラの印刷者アンドレア・トッレザーニ、つまりアルドの長年の仕事仲間である――例によって例のごとく共同事業者の関係を強化するための結婚だった――。マリン・サヌードは、都市の重大事件を扱う年代記にこの別離のための頁を割き、葬儀の細部にも触れている。
マヌーツィオの碑アルド・マヌーツィオの碑サン・パテルニアーンの地面に置かれた地図[左、マヌーツィオは最初リーオ・テラ・セコンドに印刷所を創設しました。中、サン・パテルニアーン教会裏に印刷所を移しました。右、現在のマニーン広場に彼が葬られたサン・パテルニアーン教会がありました(写真のようにマニーン銅像下に当時の地図があります)。尚、2007.10.31日のエミリアーナ書店、2007.12.13日のサン・パテルニアーン埋立通り等もご参照下さい。]
取るに足りないような些事にも注意を怠らない彼は、わずかな言葉で的確に、サン・パテルニアン教会でおこなわれたアルド・マヌーツィオの告別式を描写している。アルドが生涯をかけて作りつづけた多くの《書物が棺の周囲に》置かれ、厳粛な葬儀だったが、洗練された演出にも欠けてはいなかった、と。

サヌードのこの十数行の文章のなかに、《アソラの印刷者アンドレアの娘婿》マヌーツィオは生前《多数の献本》をおこなったという記述がある。そして自分もまた《数多くの作品》の献呈を受け、ポリツィアーノのラテン語文献やオウィディウスの『変身譚』などを手にしたと書いている。彼の心のなかには抑えきれない不満が染みついていたが、『日記』のこの言葉を読めば分かるように、少なくとも一度は満足の気持ちを味わったのである。

葬儀の機会に、年代記作者サヌードは、かつて受けた評価に返礼するつもりだろうか、アルドを《最高の文人》だったと読んでいる。ともかく現実主義者のサヌードは、アルドの遺体が、最後の旅路に就くその時まで、薄気味の悪い安置所の暗がりに置かれていたことも書き漏らしていない。 ……」 (2に続く)
RamusioAsola[上記に"ラムーシオ""アソラ"があります。Ramusio、Asola と思われますが、Dizionario d'Ortografia e di Pronunzia(Edizioni RAI)によれば、図版のように《ラムージオ》《アーゾラ》と読むようです。イタリアのPCサイトの辞書"Treccani"も同じようにSを濁る指定をしています。固有名詞は特に正確を期したいものです。尚、2013.08.31日のアレッサンドロ・マルツォ・マーニョも参考までに。]
  1. 2017/07/27(木) 00:06:51|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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クシシトフ・ポミアン著: ヴェネツィアの『コレクション』(4)

(続き)
「以上の伝統的な博物館は、したがって、われわれが革命的と呼ぶもうひとつのタイプ(第二のタイプ)に属する博物館とは、いくつかの点で異なっている。革命的タイプとは、政令によって作られ、国家がもとの所有者たちから没収したさまざまな起源の作品を集めたもので、それらの作品とは何の関係も持たない建物、一般には宗教施設を転用し改装して博物館としたものである。このタイプは、ヴェネツィアではアカデミア美術館によって代表される。
コレクションこれは10年間の準備とジャンアントニオ・セルヴァの指揮による古いいくつかの教会と愛徳学校とラテラノ参事会修道院の改築のあと、1817年8月10日、盛大に開館式が執り行われた。展示された絵画は大部分がさまざまな教会や修道院に由来するものであった。もちろん最初に、絵画や古代彫刻の石膏模型からなる美術アカデミーのコレクションが核になっていたことは確かである。それらはフィリッポ・ファルセッティ神父の所有で、1805年にオーストリア政府によって買い取られてしまっていた。
[愛徳学校と訳されている施設――カトリックの対神徳(virtù teologali)にfede(信徳)、speranza(望徳)、carità(愛徳)があります。Scuola di Caritàはヴェネツィアで言われている《同信会館Scuola》のことでしょう。アッカデーミア美術館は同じ場所にあったカリタ教会、カリタ修道院、カリタ同信会館を纏めて、美術アカデミーと美術館に変更されました。カリタは固有名としてカリタ同信会館と訳すと分かり易いでしょう。]

一方、1816年のジロラモ・モリンの遺贈以来、アカデミア美術館はいくつかのコレクションの寄贈を受け――とりわけ1838年のジロラモ・コンタリーニによる188枚の絵画の寄贈がある――、またいくつかの作品の購入によって内容を豊富にしたが、それはまた、のちに問題にする他の二つの公共博物館形成タイプに関係することである。

しかしながら、やはりアカデミア美術館の設立の起源にあるのは、中央集権的で、近代化を促進する国家権力である。絵画館を持った新しい美術アカデミーを設立するという1807年2月12日の政令は、1803年にボローニャとミラノのアカデミーに出した法令をただヴェネツィアに適用するものであった。

この領域において、オーストリアはイタリア王国によって始められたと思われる政策を遂行したのである。政府は、地方都市を犠牲にして王国の首都を特権化するというその本来の目的のために、芸術作品を配置していたのであった。したがってヴェネツィアの絵画はミラノのブレラ美術館に送られていた。ブレラ美術館には全ての地方《流派》のもっともすぐれた代表者の最高の作品を集めようとしたと思われる。

それに対して各地方の《流派》は、それぞれの出身地の博物館でもっと詳細に展示される必要があった。これはアカデミア美術館のコレクションがもともと非常に均質なものである理由を説明してくれる。交換によって他の作品を獲得しようという試みにもかかわらず、そこに収められているのはヴェネツィア派の作品だけであった。
……
ヴェネツィアばかりでなく一般にヨーロッパとアメリカにおいても、以上に述べた二つのタイプ、つまり伝統的タイプと革命的タイプは、少数の博物館によって体現されているにすぎないと思われる。なぜならヴェネツィアで頻繁に(他のいたるところでというわけではないにしろ)見られる博物館は、町に恩恵を与える人物を表す古語(évergéte)から形容詞を作って《恩恵者的(évergétique)と呼ぶことができる第三のタイプに属しているからである。

それは実際、個人コレクションの創設者が、死後、コレクションを公衆の役に立てるために、故郷の町や国家や教育・宗教施設に寄贈するものである。近代ヨーロッパではないにしても、ヴェネツィアにおいて最古のこのタイプの博物館は、考古学博物館である。これはジョヴァンニ・グリマーニとドメニコ・グリマーニのそれぞれ1523年と1587年の寄贈に由来するもので、16-18世紀を通じて何人かのヴェネツィアの蒐集家の遺贈によって補充された。

サン・マルコ大聖堂の宝物庫や十人委員会武器庫に比べて、これは新しいタイプの公共博物館であり、16世紀にはサン・マルコ大聖堂の図書館の控室に作られたが、この図書館もまたある恩恵者(エヴェルジェット)によるものであった。

この博物館はその起源において新しいものであったばかりでなく、とりわけその内容において新しいものであった。つまり、珍品(キュリオジテ)や聖遺物やその材質のために貴重な品物ではなく、古代人の芸術作品がそれ自体として集められたものであったのだ。
……
公共博物館の第四の形成タイプは、他に適当な言い方がないので、商業的(コメルシアル)とでも呼んでおきたい。それは、ひとつの組織(アンスティチュシオン)によって作られた博物館のことで、その組織が博物館を構成する作品もしくはコレクション全体を購入する場合である。

こうしたことが最初に起こったのは、ヴェネツィアでは近代美術館であり、国際芸術ビエンナーレの期間中に展示された作品を購入することによって作られたものである。二番目は東洋博物館であり、これは19世紀末にバルディ伯爵アンリ・ド・ブルボン=パルムによって作られたコレクションに由来する。このコレクションはバルディ伯爵の死後、あるウィーンの古美術商に売られ、第一次大戦後、オーストリアからの賠償の一部としてイタリアに返還されたものである。

この商業的タイプの博物館でもっともよく知られているのは、いうまでもなく大英博物館であり、1753年に英国議会の決議により、ハンス・スローン卿の遺言執行人から2万リーヴルで購入されたコレクションに基づいている。周知の事実なのであえて強調する必要はないが、博物館はその起源がどのようなものであれ、寄贈だけでなく購入によってもそのコレクションを補充している。

作品の購入には間接的な場合もあり、たとえば博物館が考古学の発掘作業を組織したり資金を出したりして、発掘された品物を自身のコレクションに加える場合がそれにあたる。
……
個人コレクションはヴェネト地方においては他の場所よりも早く出現した。最古の二つのコレクションは14世紀後半にさかのぼる。15世紀初めには少なくとも6人のヴェネツィアの蒐集家がおり、そのうちの2人はクレタ島に住んでいた。この時代において、ヨーロッパで蒐集家の数がこれよりも多かった町は、11人が知られているフィレンツェのみであった。

1世紀後、ヴェネツィアにはすでに数十人の蒐集家がいた。そして16世紀後半には、フランドルの古銭学者で版画家のユベール・ゴルツィウスが、ヴェネツィアの古銭蒐集家25人の名前を挙げた一覧を作っている。ゴルツィウスの番付によれば、それは、イタリアではローマ(71人)、ナポリ(47人)についで3番目であり、以下ジェノヴァ(17人)、ミラノ(16人)、フィレンツェ、ボローニャ、パドヴァ(11人)と続く。

17世紀末にマルティノーニは31人の蒐集家に言及している。しかしゴルツィウスの場合と同様、それはおそらく、もっと人数の多い集団の、目に見える一部分にすぎないようだ。もっともその正確な数値を出すのは不可能であるが、ヴェネツィアの古文書が埋蔵している何千もの目録に関する研究を積み重ねることによって、いつの日かそれは可能になるだろう。 ……」
  ――クシシトフ・ポミアン著『コレクション――趣味と好奇心の歴史人類学』(吉田城・吉田典子訳、平凡社、1992年5月13日)より

[追記: 前回マンフレディニアーナ絵画館(Pinacoteca Manfrediniana)について触れました。例えばLibreria marcianaをマルチャーナ図書館とか言いますが、Museo del '700 venezianoをヴェネツィア18世紀博物館と言うように、聖マルコ図書館と形容詞形でなく言うのが訳なのでしょう。その伝で言えば、Federico Manfredini侯爵(1743~1829)の収集作品を基に出来た絵画館ですから、マンフレディーニ絵画館というのが訳と思われます。]
  1. 2017/07/13(木) 00:04:00|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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