イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(3)

(続き)
「《フラーリ聖堂の三連祭壇画》は、ベッリーニが教会内部の聖母と諸聖人を表した三番目の祭壇画であり、この絵をもって画家はある特定の問題に対する解決法を見出した。その問題とは、説得力のある自然主義的な方法で、間違いなく聖母に適しているがむろん屋内のものである聖堂という舞台の中に、浸潤する陽の光や外気の明るさをいかに描き出すか、ということである。
聖母[サイトから借用]  教会内部を聖母の舞台として用いる、というネーデルラントの着想をイタリアへ導入したとされるピエロ・デラ・フランチェスカは、光源の隠された日光に満ち溢れる、完全に閉ざされた教会内部を表現した(1472年頃)。この方法をアントネッロ・ダ・メッシーナが1476年に《サン・カッシアーノ聖堂の祭壇画》をもってヴェネツィアに伝えたことは疑いない。

だが彼がピエロと同じく、閉鎖された屋内を絵画化したのか、あるいは部分的に空の見える教会を創作したのかは不明である。ベッリーニは、このモチーフを扱った自身の最初のヴァージョン、つまりドメニコ会のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のために制作されたが今日では消失している《聖母》(1476年頃)において、壁のない聖堂という別の着想を試みた。……」
……
「ティツィアーノが初めてフラーリ聖堂のために制作した作品である主祭壇の崇高な《聖母被昇天》は、フラーリ修道院の院長ジェルマーノ・カザーレによって1516年に注文された。この年はちょうど、フランチェスコ会から穏健派の会士たちが離脱する時期にあたる。教皇レオ10世が1517年にこの修道会の分裂を承認して発した『イテ・ヴォス・イン・ヴィアネム・メアム(和合の大勅書)』は、同会をほとんどその創設時から苦しめてきた危機の終焉を告げるものであった。
聖母被昇天[サイトから借用]  つまり、16世紀初頭における会士たちの苦々しい気分や、1517年の教団の分裂に帰結することになる様々な出来事こそが、ティツィアーノの祭壇画と主祭壇そのものをジェルマーノが極めて公的に発注した歴史的、そしてまさしく心理的な文脈なのである。他方、その神学的および宗教的な文脈は、聖母の無原罪懐胎の議論における会士たちの勝利であった。

聖母の無原罪懐胎の問題は、カトリック信仰のもっとも根本的かつ深遠な争点について論じるもので、何世紀にもわたって神学上の議題であり続けた。すなわち、無原罪懐胎の祝日は1476年に認可されたが、その教義の布告は1854年を待たなければならないのである。中世とルネサンス期を通じて、議論は《修道会の方針》に沿って真っ二つに割れ、フランチェスコ会士たちが無原罪懐胎を断固として擁護したのに対し、ドメニコ会士たちはそれを声高に否認していた。……」
……
「ティツィアーノの《聖母》は1519年、キプロス島パフォスの司教であるヤコポ・ペーザロ(1464~1547)によって無原罪懐胎の礼拝堂のために注文された。このヤコポの祭壇は、ペーザロ家がフラーリ聖堂で無原罪の聖母に捧げた二つ目の祭壇にあたる。第2章で見たように、聖具室のペーザロ礼拝堂を飾る祭壇画の中で、ベッリーニが無原罪懐胎の祝日の典礼文をはっきりと引き合いに出していることを考慮すれば、この聖具室の礼拝堂が彼女に献じられていたことは間違いないからである。
ペーザロの聖母[サイトから借用]  しかしながら、フランチェスコ会に属するフラーリ聖堂の修道士たちは、ペーザロ家がこの二つの寄進を行うはるか以前から無原罪懐胎の祝日を祝っていた可能性が高く、またサルトーリの引用する文書記録によると、1361年には、本堂のペーザロ家の祭壇があるのと同じ場所、もしくはその近くに、無原罪懐胎を奉献対象とする礼拝堂が建っていたという。

1498年には無原罪懐胎同信会が、この団体の規則を記したマリエーゴラに記録されているとおり、フラーリ聖堂の修道士たちの承諾を得て設立された。この新たな同信会の礼拝堂は、今述べたのと同じ、14世紀にすでに無原罪のマリアへの崇拝に結びつけられていた場所に存在した可能性があり、またその場所は、15世紀の終り以降は継続的に無原罪懐胎に奉じられていたようである。

というのも、ペーザロ家の祭壇の前方に立つ、同家の紋章のついた支柱には教皇グレゴリウス13世がこの祭壇と無原罪懐胎同信会に贖宥を授けたことを記念する銘文が、1582年の年記とともに添えられているからである。……」
……
「……サヌートによれば、ヴェネツィアでは総督が聖母マリアに敬意を表し、《聖母にまつわるすべての日》にサン・マルコ聖堂でミサに参列したという。また、ヴェネツィア人たちは二つの主要なマリアの祝日を、この共和国の世俗的な大祝日として祝っており、さらに三番目の聖母の祝日は、ヴェネツィアにおいてとりわけ世俗的な含みを有していた。

まず、第一の祝日から述べると、ヴェネツィア人たちの主張するところでは、この国は421年3月25日受胎告知の祝日に創建されたため、《ヴェネツィアの誕生 Origo Venetiarum》は毎年この祝日に祝われた。ヴェネツィア暦では新年が3月25日に明けるが、これも同一の理由によるものである。

また、著しい政治的意味を持つ教会サン・マルコ聖堂では、聖母と大天使ガブリエルをかたどった浮彫りがファサードを飾り、そこでは彼らが、同じくこの都市の守護者である聖ゲオルギウスと聖デメトリウス、ヘラクレスにつき従われている。ヘラクレスは、ヴェネツィア人の起源に関係を持つとされる神話上の英雄で、二度にわたって姿を現す。

そして、受胎告知はリアルト橋にも表現され、こちらでは、ヴェネツィアの最初の守護聖人である聖テオドルスと、彼の後を継いだ聖マルコその人がマリアとガブリエルの傍らに位置している。そして、こうしたイメージが一段と明快な形で提示されているのが、ボニファチオ・デ・ピターティによって国庫財務管理者庁舎(マジストラート・デラ・カメラ・デリ・インプレスティーディ)のために制作された三連の絵である。

この絵では、大天使ガブリエル、ならびに受胎を告げられたマリアが左右のカンヴァスを占め、中央のそれには、父なる神がサン・マルコ広場に祝福を授ける様子が描かれている。つまり、こうすることで、ヴェネツィアの建国がキリストの受肉に譬えられているのである。

さらに、受胎告知がこの共和国の創建を思い起こさせるという理由から、ヴェネツィアでは必然的に、内陣アーチに伝統的に描写されていたマリアとガブリエルの図像――フラーリ聖堂の聖具室に見られる作例など――がそれ自体で、宗教のみならず政治とも深いつながりを持つことになった。

その上、こうした政治とのつながりもあって、ヴェネト地方では、イタリアの他のいかなる土地よりも一般的に受胎告知が墓碑――フラーリ聖堂の内陣に据えられた総督の墓二つを含む――において視覚化されていたのである。……」
  1. 2017/11/09(木) 00:50:34|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(2)

(続き)
「フラーリ聖堂は、ヴェネツィアと外国双方のそうした同信会によるパトロネージから多大な恩恵を受けた。1361年、ミラノ人同信会は、聖アンブロシウスと洗礼者聖ヨハネを奉献対象とする礼拝堂の寄進に同意している。また、1435年にはフィレンツェ人たちが、ドメニコ会のサン・ザニポロ聖堂に礼拝堂を建てるという当初の計画をわざわざ放棄して、洗礼者聖ヨハネと聖母に献じる自分たちの同信会をフラーリ聖堂で創立する許可を得た。
フラーリ教会[写真、サイトから借用]  このようにフィレンツェ人たちがフラーリ聖堂に寄進を行ったからこそ、ヴェネツィアに残る唯一のドナテッロの作品、すなわち彼が1438年に同国人のために制作した多彩色の木彫《洗礼者聖ヨハネ》は、この聖堂に収められているのである。……」
……
「すでに1290年代後半の法律制定が、ヴェネツィアの有力な一族からそうした世俗的関心を取り除くとともに、彼らの政治上ないし社会上の持続的な優越性を、少なくとも彼らが男子の跡継ぎをもうけることができる限りにおいて、事実上保障していたのである。その極めつけの法律は『セラータ』で、これは実際に、1297年における大評議会の『閉鎖』であった。

すなわち、大評議会の議員資格が、過去4年間に議員を輩出している一族の男子に限定されたのである。大評議会はあらゆる官職の候補者を供給する排他的な源であったため、その議員資格の限定は、政府のすべての地位と権力にまつわる資格の限定を意味した。1297年のこの法律制定をもってヴェネツィアの貴族階級は自らを生み出したのである。

そして、それから約200年がすぎた頃、ヴェネツィア貴族たちは『貴族としての自意識に極限までみがきをかける』べく、貴族の出生および結婚について記載されるいわゆる『黄金の書(リブロ・ドーロ)』を編纂し始めた。1506年8月31日に十人委員会によって定められた法令により、貴族の父親は出生を記録する義務を負った。加えて、1526年4月26日に公布された法律に従い、貴族の結婚についても登記の必要が生じたのである。

ラータの発布された時期に貴族であった一族の中には、後にフラーリ聖堂の主要なパトロンとなる家柄も含まれていた。ベルナルド家やコルネール家、ダンドロ家、フォスカリ家、ジュスティニアーニ家、マルチェッロ家、ミアーニ家、トレヴィザン家、トロン家、そして言うまでもなくペーザロ家がその例である。いやそれどころか、ヴェネツィア貴族のすべてとは言わないまでも大半は、様々な機会に様々な方法でフラーリ聖堂に寄進を行っていた。

イタリアの他の土地におけるパトロネージをしばしば特徴づけるものであった、自分の居住地の近くに建つ特定の教会への忠誠というしがらみから解き放たれていたヴェネツィア貴族は、立地に関係なく教会に寄進を行っていた可能性が高い。事実、スタンレー・ホイナツキが明らかにしたとおり、1376年の行政上の国勢調査[estimoエスティモ(市民や町の財産評価。その評価に基づく税金や貢納金の意)]は、ヴェネツィア貴族全体の76.9%がこの都市の二つ以上の地区[sestiere(六つの区のこと)]に名を連ねていたことを明瞭に示している。……」
……
「フランチェスキーナはピエトロ・ペーザロの未亡人であった。ピエトロは、ファンティーノの息子カローゾの甥にしてアンドレアの息子にあたる人物である。彼は1419年、アレッサンドロ・プリウリの娘アレッサンドラ、通称アレッサンドリーナと最初の結婚をした。この夫婦は、少なくとも四人の息子を含む数名の子供をもうけている。

その後、アレッサンドリーナは1427年に若くしてこの世を去るが、それ以前、おそらくは数回にわたる妊娠期間のいずれかに、万一のため遺言状を公証人に口述筆記させていた。遺言状は非常に簡潔で、埋葬場所については明記しておらず、アレッサンドリーナはその場所の決定を夫ピエトロら遺言執行者にゆだねている。

この最初の妻の死から一年後の1428年ピエトロは再婚した。その再婚相手こそが、サン・ベネット教区に住むニコロ・トロンの娘であったフランチェスカ、すなわちフランチェスキーナで、彼女はニコロ、ベネデット、マルコという三人の息子をピエトロにもたらした。そして、この三兄弟が、フラーリ聖堂におけるジョヴァンニ・ベッリーニのパトロンになるとともに、父よりも10年長生きした母を全面的に記念する、当初は聖具室礼拝堂を極めて豪華に飾り立てていたもののパトロンとなった。……」 (3に続く)
  1. 2017/11/01(水) 00:27:17|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(1)

ローナ・ゴッフェン著『ヴェネツィアのパトロネージ――ベッリーニ、ティツィアーノの絵画とフランッチェスコ修道会』(石井元章監訳、木村太郎訳、三元社、2009年3月31日)という本を読んでみました。
パトロネージ「ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂はまるで小宇宙のようである。この聖堂は壁の内側に、まさしく文字どおり、ヴェネツィア・ルネサンス美術の歴史を含んでいる。それと同時に、フラーリ聖堂の歴史は、13世紀の創設から1517年の分裂に至るまでのフランチェスコ修道会の歴史を縮約している。

この聖堂の祭壇や装飾に表されている神学上の問題と特別な宗教性は、フランチェスコ会特有の関心やこの修道会の性格を示すものであり、また一方では、ルネサンス期ヴェネツィアにおいて教会と国家のあいだに存在した独特な関係を暗示するものでもある。そして、今述べたことすべては、15世紀のヴェネツィア最大の画家ジョヴァンニ・ベッリーニと16世紀絵画の偉大な天才ティツィアーノ・ヴェチェッリオがフラーリ聖堂のために描いた祭壇画に具現されている。
[Frari(フラーリ、単数frar、ヴェ語)=伊語frate(僧)、fratello(兄弟)の意。ここではフランチェスコ会士のこと。]

そのうちの三点は、それらが当初から置かれることになっていた場所に今日も光彩を添えている。すなわち、ベッリーニの手になる聖具室の聖母の三連祭壇画と、ティツィアーノによる主祭壇の《聖母被昇天》、および左側廊の《聖母》である。現在ヴェネツィアのアカデミア美術館に収蔵されるティツィアーノの《ピエタ》もまた、もともとは同じ聖堂のために制作されたものであった。」
……
「その約一年後の1250年4月3日、助祭枢機卿にして教皇庁の遣外使節であったオッタヴィアーノによって新しい聖堂の礎石が置かれた。オッタヴィアーノは、この聖堂の建設を援助した者には140日の贖宥を与える、と宣言した。聖母被昇天を祝うために献じられたこの聖堂は、オッタヴィアーノが説明するように、聖母を奉献対象とするヴェネツィアの他の教会と区別するため、『サンタ・マリア・グロリオーザ(『被昇天の聖母』を意味する[ただし、本来は『栄光の聖母』の意])』と名づけられた。このフラーリ聖堂の奉献はまた、聖母マリアに対する聖フランチェスコとその弟子たちの深い信仰をはっきりと示すものであった。……」
……
「教皇によるパトロネージは概してフランチェスコ会を強力に後押ししたが、それは聖母に献じられたこのヴェネツィアの聖堂においても変わりはなかった。1249年3月25日のインノケンティウス4世による大勅書の発布から3年後には、フラーリ聖堂ならびに修道院の建設費用を負担した者に40日の贖宥を与えることが新たに承認されている。

また、インノケンティウス4世の後継者アレクサンデル4世は、1255年、1256年、1261年に公布された大勅書の中でいくつかの贖宥を認めるとともに、フランチェスコ、アントニウス、キアーラの三聖人の祝日におけるフラーリ聖堂への参詣に対して褒賞を授けることで、この新たなフランチェスコ会の聖堂をよりいっそう支援した。そして、これらの後も、贖宥の認可はさらに数多く続いた。……」
……
「フランチェスコ会士たちは15世紀後半、すなわち1517年のフランチェスコ会の分裂に先立つ約50年間に、もっとも大きな成功のいくつかを収めた。フラーリ聖堂の装飾の多くはこの時期に完成しているが、それらが少なくとも全般的には、公の賛意と奨励によって助成されていたことは疑いを容れない。

例えば、1475年にヴェネツィアの元老院は、聖フランチェスコの祝日が公的な祭典をもって祝われるべきものであると定めている。しかしながら、フラーリ聖堂をまさしく文字どおり、今日見ることのできる輝かしい記念碑へと仕立て上げたのは、教皇庁でもなければヴェネツィア共和国でも、またいかなる政府機関でもなく、むしろこの聖堂の民間のパトロンたちであった。これらのパトロンの中には、外国およびヴェネツィアの様々な同信会、ならびにサンソヴィーノの述べるような『貴族、平民を問わ』ない多数の寄進者たちが含まれる。

フラーリ聖堂の建設と装飾という大事業はほぼ完全に、そうした民間の寄進者たちによる貢献のおかげでなし遂げられたのであり、そこにヴェネツィア共和国からの支援はほとんどなかった。……」 (2に続く)
  1. 2017/10/25(水) 00:14:37|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(4)

(続く)
「ヴェネツィアに帰還したピエトロ・ベンボは、ありとあらゆる礼を尽くして迎え入れられた、と書き記しているのは、もちろんマリン・サヌードである。
Palazzo Sanudoサヌードの家1サヌードの家2サヌードの家3[左、『La bussola del viandante, ovvero Lo stradario di Venezia』vol.1,2 (Piero Pazzi, Tipografia del Centro Grafico di Noale)のサンタ・クローチェ区の1頁、サヌードの家が1757番地とあります。左中、サン・ジャーコモ・ダ・ローリオ広場北、運河の北にメージョ橋があり、左にサヌード館が見えます。右中、テントール通りを西へ、メージョ橋があり、中央にサヌード館が。右、1757番地の建物。Marin Sanudoは伊語ではMarino Sanutoと表記されます。]

1530年9月、『日記』には、《三千ドゥカートの報酬を得て何も書かずに没した》ナヴァジェーロの後任として、《詩神たちの共通の父》が選出されたと書かれている。12月、図書館の引継ぎにあたり、サヌードはこう記している。ベンボが《ラテン語のヴェネツィア史を執筆する任を負った。前任者アンドレア・ナヴァジェーロは、三千ドゥカートの報酬とさらに毎年二百ドゥカートの年収を得ながら何も書かなかった》。

要するにわれらの年代記作者はまたもや戦いに敗れたのである。選出されたベンボ――ライバルとしてはあまりにも巨大な権威である――に咬みつくことはできなかったが、だからといって、依怙地な恨みつらみのなかで、何度も受けた不正を仄めかさないわけにはいかない。ただ執拗なまでに、哀れなナヴァジェーロに罪を着せるのであった。彼のすべての不幸の唯一の責任者であるかのように。
……
ピエトロ・ベンボは押しも押されもしない地位に君臨しつづけていた。ベンボは1532年の4月、つまり共和国史官となりニカイア文書を整理する任を引き受けてから間もなく、ヴェネツィアの誇りとなるべき図書館の創設に向けて決意をあらたにする。

そこでヴェットル・グリマルディと同盟を結んだのである。彼は高い教養をもつ有力な貴族で、革新派のアンドレア・グリッティ総督に近かった。総督としてもこの計画には賛成しており、あのローマ劫掠の後はとりわけ、ヴェネツィアにはこれらの遺産をしっかりと保護する義務があると考えていた。したがって図書館には、古代ローマ、古典古代とローマ帝国の刻印がなくてはならない。

四年後、図書館建設の責任者としてヤコポ・サンソヴィーノが任命される。ドイツ兵の襲来とともにローマを脱出した建築家で、ヴェネツィアに移っていた。造幣局やマルチャーナ図書館など多くの建築物を設計し、優れた手腕を発揮することになる。

これに関してベンボは厳格そのもので、貸し出し中の書物がもとの場所に収められるよう、ヴェネツィアの国外にまで容赦のない手紙を書き送っている。たとえば、1528年、マントヴァ大使ジョヴァン・バッティスタ・マラテスタに、エウクレイデスの写本が貸出されたが、それは手から手へとわたり、いまボローニャにあった。32年、ベンボはボローニャの行政官に手紙を書き、この写本を取り戻すことに成功している。ともかくすでにあまりにも多くのものが失われたのだ。

いずれにせよベンボは、信頼できるジョヴァン・バッティスタ・ラムーシオの協力を当てにしていたのである。だが古写本の貸出しについて有力貴族の何人かは、書記官が印刷者や外国使節と関係のある写字生に寛大すぎると言って非難しつづけていた。実際のところ、たとえばフランス大使ペリシエールは、十二名もの写字生を擁する正真正銘の筆写館を設置していたのだ。印刷者と写字生はまだ共存していた。 ……」
 
ピエートロ・ベンボについては、2012.01.14日のブログベンボ館でも触れています。
  1. 2017/08/17(木) 00:04:55|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ラウラ・レプリ著: 『書物の夢、印刷の旅』(3)

(続き)
「16世紀を通して――たしかに16世紀だけではなかったが――ヴェネツィアは、流通する商品、文化、そして悦楽の代名詞だった。いつの時代も、この年は喜々として歓楽に向かったというのが決まり文句である。例えば裕福な遊女であったヴェロニカ・フランコのことは、今なお語り継がれている。ヴェロニカと文学論争を戦わせたマッフィオ・ヴェニエール大司教は、十一音節詩行で《ヴェロニカ、唯一無二の娼婦》と、かなりあけすけに彼女を咎めたものだ。
[ヴェローニカ・フランコについては、2010.09.18~2010.10.09日のブログヴェローニカ・フランコ(1~4)をご参照下さい。]

何千もの娼婦たちが伝説を残しているが、彼女たちの多くはカランパーネ地区に住み、テッテ{乳房}の橋に面した窓に立って胸をはだけ、男色に走る海の男たちを誘惑したのであった。観光客に洗われて水臭くなったとはいえ、カーニバルとその自由な習俗は残りつづけた。ジャコモ・カサノヴァのことは言わずもがなである。
Tete橋[写真の“乳房橋(ヴェ語ではponte de le tete)”はサイトから借用。尚、2008.06.27日のカランパーネ通りと2008.07.04日のストゥーア小広場で、“乳房橋”周辺のかつてのヴェネツィア赤線地帯について触れました。伊語の caranpana(身形のだらしない女)はこの“カランパーネ”埋立通りから来たようです。]

その輝きの頂点でヴェネツィアは、まるで寄せては返す波のように、セックスと金銭の流れの只中にあった。人々はますます自由奔放に暮らし、奢侈と風俗紊乱に対して引き締めをはかる共和国政府の再三の試みも空しく、条例の効き目もなく、多幸症的な傾向に引きずられるがまま、禁止は侵犯されつづけた。

未婚であろうが既婚であろうが、ヴェネツィア婦人は派手で積極的で機知に富んでいた。どのような法律をもってしても、彼女たちの陽気さ、魅力的なコケットリーを止めさせることはできなかった。

そういうわけで、彼女たちは髪の色を明るくするために、《ソラーナ》という縁ばかりの帽子をかぶり、屋上テラス――屋根の上に架けた木造のテラス――で何時間も陽にさらした髪を、葡萄と大麦が原料の抽出物あるいはカモミール水でつねに濡らしていた。帽子の目的は顔の白い肌を保護することだった。
[この木造の屋上テラスの事をヴェネツィアではアルターナ(altana)と言い、古くは lobia と言ったそうで、現在新しく設置することは禁じられているそうです。夏、Fabi さん宅のアルターナで飲んだビールの美味しかったこと。]

顔の皺や染み、肌の手入れや化粧に関する最初の出版物も、上記のような処置を推奨していた。ヴェネツィアの婦人たちは、肌をますます白く滑らかにするため、牛乳に浸して柔らかくした肉片を顔に貼りつけたのであった。外出するとなると、顔にはさらに、キプロスの粉を塗るのを忘れてはいけないし、頬には、ハエとも呼ばれた付け黒子も必要だった。サン・パンタロンの界隈へ行けば何でも買えたものだ。それが流行だったのだ。

近頃また彼女たちは、みみたぶに穴をあけ、繊細な金の輪に純白の真珠を嵌めたものを吊るしはじめた。汚らわしい《ムーア人の風習》とマリン・サヌードは軽蔑を込めてかたっているが、ヴェネツィアの婦人たちは、銀の締め金に貴石を散らした豪華な帯を締めた上、耳飾りまで付けだしたのである。彼女たちが快楽と贅沢に走るのを抑えることは不可能だった。 
……
怪しげな女たちの社会的地位をもち上げるためには、すでにピエトロ・アレティーノの書物があった。愛に関する洗練をきわめた対話、ベンボの『アソロの人々』のパロディである。女たちが語りあう『六日間』で、ナンナは、娘のピッパにいかにして立派な娼婦となるかを、この職業の筆舌にしがたい詳細にいたるまで、母親らしく懇ろに教え諭している。
ラジオナメンティピエトロ・アレティーノの肖像[ピエートロ・アレティーノの翻訳作品には、『ラジオナメンティ』(結城豊太訳、角川文庫、昭和五十四年六月三十日)や澁澤龍彦文学館1『ルネサンスの箱』中、『好色談義(六日物語)(抄)』(河島英昭訳、筑摩書房)があり、彼についての『ティツィアーノ ピエトロ・アレティーノの肖像』(フランチェスコ・モッツェッティ著、越川倫明+松下真記訳、三元社、2001年11月15日)があります。尚、ヴェネツィアのアレティーノについては、2012.01.14日のブログボッラーニ・エーリッツォ館もご参照下さい。]

すでにお分かりの読者もいらっしゃるはずだが、ヴェネツィアの方言で書かれた作者不詳の五幕の喜劇、韻文の幕間劇も備えた『ヴェネツィア婦人』のことである。おそらくは靴下同盟の誰かが、余興のために制作した作品と思われる。制作年代は1535年の終わりから38年のあいだと考えられている。年代を推定させるさまざまな状況証拠のなかでも、とりわけ重要なのは、本作品についてマリン・サヌードが何も述べていないことだった。
『ヴェネツィア女』[作者不詳『La Veniexiana(ヴェネツィア女)』(ジョルジョ・パドアーン監修、Marsilio Editori、1994.01)は、左頁伊語、右頁ヴェネツィア語の左右対称の形の本で出版されています。サヌードの日記に記されていないという事はサヌード没(1536.04.04)後の事らしく、このドラマの発見後、イタリアの百科事典にも項目として掲げられているように著名な作品のようです。その事について2008.07.20日のブログヴェネツィア映画で触れています。]

だがわれわれの濃厚に官能的な《本当の出来事》の登場人物は、身分の低い下賎な者たちではない。それどころか、この喜劇の主人公二人は――未亡人と若妻、彼女たちがひとりの若い兵士の逞しい肉体を奪いあう――、ヴェネツィアでも評判の良い裕福な貴族の家柄に属していた。

1520年代に上演された数多くの作品をサヌードは語っている。ビッビエーナの『カランドリア』、アリオストの『カッサリア』、マキャヴェッリの『マンドラゴラ』、ルザンテの初期作品など……。『マンドラゴラ』――《フィレンツェに住む老いた医師とその妻、子どもができずに云々》――は、1522年2月にクロセキエーリの修道院で上演された。そこでは実験的な演劇がよく取りあげられ、貴族も商人も庶民も1マルチェッロ払えば観劇できた。サヌードにしたがえば、『マンドラゴラ』は満員御礼で、《あまりに多くの人が入場したので、第五幕を演じることができないほどだった。》

ヴェネツィア市民生活の完璧なバロメーター、サヌードは、あらたな現象に立ち会っているのだ。 ……」 (4へ続く)
  1. 2017/08/10(木) 00:09:58|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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