イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(3) 

(続き)
「フォンターナの論拠は、かなり議論に値するもので、事実書かれた時代としても、彼の最新の論文の中に纏められている。《「歴史家は真実を述べなければならない。真実が述べるに値し、必要な時は、記憶に留めなければならない。しかしこれはその場合ではない。意地悪い才能がないなら、真実を明らかにする適切な性癖がないなら、健康な大衆の不賛成に出くわすので、per piacere a quattro 姿を現すことはない。
ヴェローニカ・フランコの肖像[コッレール美術館のヴェローニカ・フランコの肖像]  天賦の才を持つ人、彼女は書いている[ここでフォンターナはタッスィーニを向いているのだが]、酷い身形かも知れない、そしてヴェローニカは才能豊かな娼婦であった。しかし問題はそんな身形であったということではなく、一人の作家がある日大衆にその事を告げるのに非常にあけらかんと大まかにしか語らなかったということなのである。

あなた方の評価の前にこの女をあなた方の侮蔑と共に紹介します。ご存知と思いますが、彼女は有名な作家であり、かつまた著名な娼婦でもあります……》

フランコの職業の事実を否定は出来ないので、だから彼女の擁護者はそれを明らかにする、間の悪さを感じて、結論として愛国主義の中に逃げ込んで、次のように言う。《……我々はヴェネツィアを守るために、フランコを守る。なぜならヴェローニカの不名誉は、ヴェネツィアの不名誉となるからである》。

タッスィーニに関しては、彼は自分の所有する資料に確信があり、第2版の中で本の題名を変更することで満足し、《娼婦 meretrice》という言葉を、実際そんなに醜くはない、《高級娼婦 cortigiana》という適切な用語に変えた。

何年かして、我々により近い年代で別の擁護者が“カタログ”のヴェローニカ・フランカは、『第三詩集』と『家族書簡』のヴェローニカ・フランコでは有り得ないと正に主張しようとした。何故なら“カタログ”の姓名は“a”で終わっていて“o”ではないからである。1500年代には、“a”の語尾が王族の妃を含めて、女性の姓に属するものとする使用法が通常であったことを知らないということはさて置いて、『第三詩集』の大扉でも『家族書簡』の大扉でも、要するに著者は常にフランコではなく、ヴェローニカ・フランカと呼ばれているのである。

フランコやトゥッリア・ダラゴーナのようなコルティジャーナの階級にある者が、“カタログ”の中に、自分の名前を入れる場所を見付けられなかったかも知れないなどという、同じ擁護者の主張は無意味である。 ……」 (4に続く)

[ヴェローニカ・フランコについては今まで、2007.11.03日のVeronica Francoや2010.09.18日のヴェローニカ・フランコ(1)~2010.10.19日のヴェローニカ・フランコ(4)等で、また違った面から触れています。]
  1. 2018/05/25(金) 01:00:15|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(1) 

先日ソッコルソ運河通りについて書いた時、ヴェローニカ・フランコについて触れました。ヴェネツィア学の碩学アルヴィーゼ・ゾルジ(Alvise Zorzi)氏が『ヴェネツィアの高級娼婦――ヴェローニカ・フランコと詩人達 1546~1591』(Camunia editrice srl、1986.04)という本を書いておられます。例えば日本で出版されている彼のものとしては、下記の
アルヴィーゼ・ゾルジ『ヴェネツィア歴史図鑑』『ヴェネツィア歴史図鑑――都市・共和国・帝国:697~1797年』(アルヴィーゼ・ゾルジ著、金原由紀子・松下真記・米倉立子訳、東洋書林、2005年4月22日)があり、この本などヴェネツィアを勉強する人の必読書と言えます。その他にも私がヴェネツィアで購入したものとしては、A4版『Venezia ritrovata 1895-1939』(Alvise Zorzi、Alnoldo Mondadori Editore、1995.09)は、貴重な写真が豊富に収集されている本です。
アルヴィーゼ・ゾルジ『再発見されたヴェネツィア 』アルヴィーゼ・ゾルズィ『ヴェネツィアの高級娼婦』このアルヴィーゼ・ゾルジ著『ヴェネツィアの高級娼婦』の第1章の始まりのところから、ヴェローニカを紹介してみます。
「 第1章 ヴェローニカと批評家達
1580年11月6日、ヴェネツィア滞在中の仏国作家ミシェル・ド・モンテーニュは、《ヴェネツィアの貴婦人ヴェローニカ・フランコ夫人》によって上梓された『尺牘の小冊子』が宅送されたことに気付いた。家族の書簡に対するイタリア人の思いが少々特異なことが判ったにも拘らず、彼はそのオマージュを喜んで受け、正しく《ヴェローニカ・フランカ夫人から諸氏への個人的書簡》と題され、《令名かくも高き、この上なく尊き枢機卿であらせられる、ルイージ・デステ猊下に》華やかに献呈されたこの書物を自分に送付した人物に、たっぷり2スクードを謝礼として返礼したのだった。

1500年代のヴェネツィアが正にそうであった、粋な観光の正統的な中心地に度々足を運ぶ彼以外の伊国や他国の数多の旅行者が出会ったように、出版される前、半ば非合法に流布した別の小冊子を、もしド・モンテーニュが手にしていたとすれば、今日ではその小冊子は稀覯本である。

その本は『主要で、誉れ高い、全ヴェネツィアの花魁達のカタログ、花魁達の仇名、娼楼名、花魁達の部屋[……]そして更に殿御の支払うべき玉代。他には優雅に登楼さるべきこと必定なり(Catalogo di tutte le principali et più honorate Cortigiane di Venezia, il nome loro, et il nome della lor pieza, et le stantie ove loro habitano […] et etiam il numero de li dinari che hanno da pagar quelli gentilhuomini, et altri, che desiderano entrar nella sua gratia)』と題され、無名のA.C.の編集で、《全ヴェネツィアの花魁の華、華麗で淑やかなリーヴィア・アザリーナに》捧げられており、モンテーニュはきっと、彼にその本を渡した人に支払われたお礼の額によって、その教養ある貴婦人が売り物となることを知れば、非常に驚いたに違いない。

即ち《ヴェロ(-ニか)・フランカはサンタ・マリーア・フォルモーザ広場で、pieza so mare(彼女の母親が身元保証), scudi 2》。これが意味するところは、《家族書簡》の著者が母親の斡旋で自分の体を日常的に売りに出しているということであり、その母親自身も同じ《カタログ》で明らかなように仲介無しで同様な商売をやっていたのである。《カタログ》曰く。《サンタ・マリーア・フォルモーザ広場のパーウラ・フランカ、pieza lei medema(彼女自身の斡旋), 2 スクード》

カタログには明らかな根拠があり、1580年より相当前に遡る。1566年再び印刷者ジローラモ・カピレーノは、多分この事に違いないが、許可なく印刷した廉で起訴された。そして1冊当たり1ドゥカートの罰金を払う刑を受けた。しかし1570年以後はもう印刷はしなかった。

ヴェローニカのその年に記述されたものによれば、彼女の母が死んでいる。仏人の旅行者に贈呈された《家族書簡》が上梓された同年の1580年に、正にヴェローニカは公式の記録の中でも《公娼》と定義づけられている。それ故疑いはないのである。……」 (2に続く)
  1. 2018/05/11(金) 09:55:06|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(3)

(続き)
「《フラーリ聖堂の三連祭壇画》は、ベッリーニが教会内部の聖母と諸聖人を表した三番目の祭壇画であり、この絵をもって画家はある特定の問題に対する解決法を見出した。その問題とは、説得力のある自然主義的な方法で、間違いなく聖母に適しているがむろん屋内のものである聖堂という舞台の中に、浸潤する陽の光や外気の明るさをいかに描き出すか、ということである。
聖母[サイトから借用]  教会内部を聖母の舞台として用いる、というネーデルラントの着想をイタリアへ導入したとされるピエロ・デラ・フランチェスカは、光源の隠された日光に満ち溢れる、完全に閉ざされた教会内部を表現した(1472年頃)。この方法をアントネッロ・ダ・メッシーナが1476年に《サン・カッシアーノ聖堂の祭壇画》をもってヴェネツィアに伝えたことは疑いない。

だが彼がピエロと同じく、閉鎖された屋内を絵画化したのか、あるいは部分的に空の見える教会を創作したのかは不明である。ベッリーニは、このモチーフを扱った自身の最初のヴァージョン、つまりドメニコ会のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂のために制作されたが今日では消失している《聖母》(1476年頃)において、壁のない聖堂という別の着想を試みた。……」
……
「ティツィアーノが初めてフラーリ聖堂のために制作した作品である主祭壇の崇高な《聖母被昇天》は、フラーリ修道院の院長ジェルマーノ・カザーレによって1516年に注文された。この年はちょうど、フランチェスコ会から穏健派の会士たちが離脱する時期にあたる。教皇レオ10世が1517年にこの修道会の分裂を承認して発した『イテ・ヴォス・イン・ヴィアネム・メアム(和合の大勅書)』は、同会をほとんどその創設時から苦しめてきた危機の終焉を告げるものであった。
聖母被昇天[サイトから借用]  つまり、16世紀初頭における会士たちの苦々しい気分や、1517年の教団の分裂に帰結することになる様々な出来事こそが、ティツィアーノの祭壇画と主祭壇そのものをジェルマーノが極めて公的に発注した歴史的、そしてまさしく心理的な文脈なのである。他方、その神学的および宗教的な文脈は、聖母の無原罪懐胎の議論における会士たちの勝利であった。

聖母の無原罪懐胎の問題は、カトリック信仰のもっとも根本的かつ深遠な争点について論じるもので、何世紀にもわたって神学上の議題であり続けた。すなわち、無原罪懐胎の祝日は1476年に認可されたが、その教義の布告は1854年を待たなければならないのである。中世とルネサンス期を通じて、議論は《修道会の方針》に沿って真っ二つに割れ、フランチェスコ会士たちが無原罪懐胎を断固として擁護したのに対し、ドメニコ会士たちはそれを声高に否認していた。……」
……
「ティツィアーノの《聖母》は1519年、キプロス島パフォスの司教であるヤコポ・ペーザロ(1464~1547)によって無原罪懐胎の礼拝堂のために注文された。このヤコポの祭壇は、ペーザロ家がフラーリ聖堂で無原罪の聖母に捧げた二つ目の祭壇にあたる。第2章で見たように、聖具室のペーザロ礼拝堂を飾る祭壇画の中で、ベッリーニが無原罪懐胎の祝日の典礼文をはっきりと引き合いに出していることを考慮すれば、この聖具室の礼拝堂が彼女に献じられていたことは間違いないからである。
ペーザロの聖母[サイトから借用]  しかしながら、フランチェスコ会に属するフラーリ聖堂の修道士たちは、ペーザロ家がこの二つの寄進を行うはるか以前から無原罪懐胎の祝日を祝っていた可能性が高く、またサルトーリの引用する文書記録によると、1361年には、本堂のペーザロ家の祭壇があるのと同じ場所、もしくはその近くに、無原罪懐胎を奉献対象とする礼拝堂が建っていたという。

1498年には無原罪懐胎同信会が、この団体の規則を記したマリエーゴラに記録されているとおり、フラーリ聖堂の修道士たちの承諾を得て設立された。この新たな同信会の礼拝堂は、今述べたのと同じ、14世紀にすでに無原罪のマリアへの崇拝に結びつけられていた場所に存在した可能性があり、またその場所は、15世紀の終り以降は継続的に無原罪懐胎に奉じられていたようである。

というのも、ペーザロ家の祭壇の前方に立つ、同家の紋章のついた支柱には教皇グレゴリウス13世がこの祭壇と無原罪懐胎同信会に贖宥を授けたことを記念する銘文が、1582年の年記とともに添えられているからである。……」
……
「……サヌートによれば、ヴェネツィアでは総督が聖母マリアに敬意を表し、《聖母にまつわるすべての日》にサン・マルコ聖堂でミサに参列したという。また、ヴェネツィア人たちは二つの主要なマリアの祝日を、この共和国の世俗的な大祝日として祝っており、さらに三番目の聖母の祝日は、ヴェネツィアにおいてとりわけ世俗的な含みを有していた。

まず、第一の祝日から述べると、ヴェネツィア人たちの主張するところでは、この国は421年3月25日受胎告知の祝日に創建されたため、《ヴェネツィアの誕生 Origo Venetiarum》は毎年この祝日に祝われた。ヴェネツィア暦では新年が3月25日に明けるが、これも同一の理由によるものである。

また、著しい政治的意味を持つ教会サン・マルコ聖堂では、聖母と大天使ガブリエルをかたどった浮彫りがファサードを飾り、そこでは彼らが、同じくこの都市の守護者である聖ゲオルギウスと聖デメトリウス、ヘラクレスにつき従われている。ヘラクレスは、ヴェネツィア人の起源に関係を持つとされる神話上の英雄で、二度にわたって姿を現す。

そして、受胎告知はリアルト橋にも表現され、こちらでは、ヴェネツィアの最初の守護聖人である聖テオドルスと、彼の後を継いだ聖マルコその人がマリアとガブリエルの傍らに位置している。そして、こうしたイメージが一段と明快な形で提示されているのが、ボニファチオ・デ・ピターティによって国庫財務管理者庁舎(マジストラート・デラ・カメラ・デリ・インプレスティーディ)のために制作された三連の絵である。

この絵では、大天使ガブリエル、ならびに受胎を告げられたマリアが左右のカンヴァスを占め、中央のそれには、父なる神がサン・マルコ広場に祝福を授ける様子が描かれている。つまり、こうすることで、ヴェネツィアの建国がキリストの受肉に譬えられているのである。

さらに、受胎告知がこの共和国の創建を思い起こさせるという理由から、ヴェネツィアでは必然的に、内陣アーチに伝統的に描写されていたマリアとガブリエルの図像――フラーリ聖堂の聖具室に見られる作例など――がそれ自体で、宗教のみならず政治とも深いつながりを持つことになった。

その上、こうした政治とのつながりもあって、ヴェネト地方では、イタリアの他のいかなる土地よりも一般的に受胎告知が墓碑――フラーリ聖堂の内陣に据えられた総督の墓二つを含む――において視覚化されていたのである。……」
  1. 2017/11/09(木) 00:50:34|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(2)

(続き)
「フラーリ聖堂は、ヴェネツィアと外国双方のそうした同信会によるパトロネージから多大な恩恵を受けた。1361年、ミラノ人同信会は、聖アンブロシウスと洗礼者聖ヨハネを奉献対象とする礼拝堂の寄進に同意している。また、1435年にはフィレンツェ人たちが、ドメニコ会のサン・ザニポロ聖堂に礼拝堂を建てるという当初の計画をわざわざ放棄して、洗礼者聖ヨハネと聖母に献じる自分たちの同信会をフラーリ聖堂で創立する許可を得た。
フラーリ教会[写真、サイトから借用]  このようにフィレンツェ人たちがフラーリ聖堂に寄進を行ったからこそ、ヴェネツィアに残る唯一のドナテッロの作品、すなわち彼が1438年に同国人のために制作した多彩色の木彫《洗礼者聖ヨハネ》は、この聖堂に収められているのである。……」
……
「すでに1290年代後半の法律制定が、ヴェネツィアの有力な一族からそうした世俗的関心を取り除くとともに、彼らの政治上ないし社会上の持続的な優越性を、少なくとも彼らが男子の跡継ぎをもうけることができる限りにおいて、事実上保障していたのである。その極めつけの法律は『セラータ』で、これは実際に、1297年における大評議会の『閉鎖』であった。

すなわち、大評議会の議員資格が、過去4年間に議員を輩出している一族の男子に限定されたのである。大評議会はあらゆる官職の候補者を供給する排他的な源であったため、その議員資格の限定は、政府のすべての地位と権力にまつわる資格の限定を意味した。1297年のこの法律制定をもってヴェネツィアの貴族階級は自らを生み出したのである。

そして、それから約200年がすぎた頃、ヴェネツィア貴族たちは『貴族としての自意識に極限までみがきをかける』べく、貴族の出生および結婚について記載されるいわゆる『黄金の書(リブロ・ドーロ)』を編纂し始めた。1506年8月31日に十人委員会によって定められた法令により、貴族の父親は出生を記録する義務を負った。加えて、1526年4月26日に公布された法律に従い、貴族の結婚についても登記の必要が生じたのである。

ラータの発布された時期に貴族であった一族の中には、後にフラーリ聖堂の主要なパトロンとなる家柄も含まれていた。ベルナルド家やコルネール家、ダンドロ家、フォスカリ家、ジュスティニアーニ家、マルチェッロ家、ミアーニ家、トレヴィザン家、トロン家、そして言うまでもなくペーザロ家がその例である。いやそれどころか、ヴェネツィア貴族のすべてとは言わないまでも大半は、様々な機会に様々な方法でフラーリ聖堂に寄進を行っていた。

イタリアの他の土地におけるパトロネージをしばしば特徴づけるものであった、自分の居住地の近くに建つ特定の教会への忠誠というしがらみから解き放たれていたヴェネツィア貴族は、立地に関係なく教会に寄進を行っていた可能性が高い。事実、スタンレー・ホイナツキが明らかにしたとおり、1376年の行政上の国勢調査[estimoエスティモ(市民や町の財産評価。その評価に基づく税金や貢納金の意)]は、ヴェネツィア貴族全体の76.9%がこの都市の二つ以上の地区[sestiere(六つの区のこと)]に名を連ねていたことを明瞭に示している。……」
……
「フランチェスキーナはピエトロ・ペーザロの未亡人であった。ピエトロは、ファンティーノの息子カローゾの甥にしてアンドレアの息子にあたる人物である。彼は1419年、アレッサンドロ・プリウリの娘アレッサンドラ、通称アレッサンドリーナと最初の結婚をした。この夫婦は、少なくとも四人の息子を含む数名の子供をもうけている。

その後、アレッサンドリーナは1427年に若くしてこの世を去るが、それ以前、おそらくは数回にわたる妊娠期間のいずれかに、万一のため遺言状を公証人に口述筆記させていた。遺言状は非常に簡潔で、埋葬場所については明記しておらず、アレッサンドリーナはその場所の決定を夫ピエトロら遺言執行者にゆだねている。

この最初の妻の死から一年後の1428年ピエトロは再婚した。その再婚相手こそが、サン・ベネット教区に住むニコロ・トロンの娘であったフランチェスカ、すなわちフランチェスキーナで、彼女はニコロ、ベネデット、マルコという三人の息子をピエトロにもたらした。そして、この三兄弟が、フラーリ聖堂におけるジョヴァンニ・ベッリーニのパトロンになるとともに、父よりも10年長生きした母を全面的に記念する、当初は聖具室礼拝堂を極めて豪華に飾り立てていたもののパトロンとなった。……」 (3に続く)
  1. 2017/11/01(水) 00:27:17|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ローナ・ゴッフェン: 『ヴェネツィアのパトロネージ』(1)

ローナ・ゴッフェン著『ヴェネツィアのパトロネージ――ベッリーニ、ティツィアーノの絵画とフランッチェスコ修道会』(石井元章監訳、木村太郎訳、三元社、2009年3月31日)という本を読んでみました。
パトロネージ「ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂はまるで小宇宙のようである。この聖堂は壁の内側に、まさしく文字どおり、ヴェネツィア・ルネサンス美術の歴史を含んでいる。それと同時に、フラーリ聖堂の歴史は、13世紀の創設から1517年の分裂に至るまでのフランチェスコ修道会の歴史を縮約している。

この聖堂の祭壇や装飾に表されている神学上の問題と特別な宗教性は、フランチェスコ会特有の関心やこの修道会の性格を示すものであり、また一方では、ルネサンス期ヴェネツィアにおいて教会と国家のあいだに存在した独特な関係を暗示するものでもある。そして、今述べたことすべては、15世紀のヴェネツィア最大の画家ジョヴァンニ・ベッリーニと16世紀絵画の偉大な天才ティツィアーノ・ヴェチェッリオがフラーリ聖堂のために描いた祭壇画に具現されている。
[Frari(フラーリ、単数frar、ヴェ語)=伊語frate(僧)、fratello(兄弟)の意。ここではフランチェスコ会士のこと。]

そのうちの三点は、それらが当初から置かれることになっていた場所に今日も光彩を添えている。すなわち、ベッリーニの手になる聖具室の聖母の三連祭壇画と、ティツィアーノによる主祭壇の《聖母被昇天》、および左側廊の《聖母》である。現在ヴェネツィアのアカデミア美術館に収蔵されるティツィアーノの《ピエタ》もまた、もともとは同じ聖堂のために制作されたものであった。」
……
「その約一年後の1250年4月3日、助祭枢機卿にして教皇庁の遣外使節であったオッタヴィアーノによって新しい聖堂の礎石が置かれた。オッタヴィアーノは、この聖堂の建設を援助した者には140日の贖宥を与える、と宣言した。聖母被昇天を祝うために献じられたこの聖堂は、オッタヴィアーノが説明するように、聖母を奉献対象とするヴェネツィアの他の教会と区別するため、『サンタ・マリア・グロリオーザ(『被昇天の聖母』を意味する[ただし、本来は『栄光の聖母』の意])』と名づけられた。このフラーリ聖堂の奉献はまた、聖母マリアに対する聖フランチェスコとその弟子たちの深い信仰をはっきりと示すものであった。……」
……
「教皇によるパトロネージは概してフランチェスコ会を強力に後押ししたが、それは聖母に献じられたこのヴェネツィアの聖堂においても変わりはなかった。1249年3月25日のインノケンティウス4世による大勅書の発布から3年後には、フラーリ聖堂ならびに修道院の建設費用を負担した者に40日の贖宥を与えることが新たに承認されている。

また、インノケンティウス4世の後継者アレクサンデル4世は、1255年、1256年、1261年に公布された大勅書の中でいくつかの贖宥を認めるとともに、フランチェスコ、アントニウス、キアーラの三聖人の祝日におけるフラーリ聖堂への参詣に対して褒賞を授けることで、この新たなフランチェスコ会の聖堂をよりいっそう支援した。そして、これらの後も、贖宥の認可はさらに数多く続いた。……」
……
「フランチェスコ会士たちは15世紀後半、すなわち1517年のフランチェスコ会の分裂に先立つ約50年間に、もっとも大きな成功のいくつかを収めた。フラーリ聖堂の装飾の多くはこの時期に完成しているが、それらが少なくとも全般的には、公の賛意と奨励によって助成されていたことは疑いを容れない。

例えば、1475年にヴェネツィアの元老院は、聖フランチェスコの祝日が公的な祭典をもって祝われるべきものであると定めている。しかしながら、フラーリ聖堂をまさしく文字どおり、今日見ることのできる輝かしい記念碑へと仕立て上げたのは、教皇庁でもなければヴェネツィア共和国でも、またいかなる政府機関でもなく、むしろこの聖堂の民間のパトロンたちであった。これらのパトロンの中には、外国およびヴェネツィアの様々な同信会、ならびにサンソヴィーノの述べるような『貴族、平民を問わ』ない多数の寄進者たちが含まれる。

フラーリ聖堂の建設と装飾という大事業はほぼ完全に、そうした民間の寄進者たちによる貢献のおかげでなし遂げられたのであり、そこにヴェネツィア共和国からの支援はほとんどなかった。……」 (2に続く)
  1. 2017/10/25(水) 00:14:37|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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