イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの高級娼婦の結婚

先日ヴェネツィアの高級娼婦、ヴェローニカ・フランコについて触れましたが、マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori s.r.l. 2007)には、ヴェネツィア貴族と結婚した高級娼婦の話が掲載されています。
Marcello Brusegan『ヴェネツィアの神話と伝説』「1581年の聖フランチェスコの日[彼の聖名祝日は10月4日です]、サンタ・マリーア・フォルモーザ教区で23歳の貴族マルコ・ダンドロと高級娼婦としては最高位にあった20歳のアンドリアーナ・サヴォルニャーンが結婚した。結婚式は町で大スキャンダルを惹起したが、特に新郎新婦間の社会的階級の隔たりが余りにも過度であったがためであった。一人の貴族が好き勝手で一人の高級娼婦を扶養するということは、極普通のことであったが、結婚し、彼女を貴族階級に引き上げることは常識外れであった。

《確かに》と、コメントされている。《ダンドロ家は愛の妙薬に取り憑かれていた。高級娼婦達は財産のある夫を手に入れるために、こうした事をやっている!》。怖れをなした十人委員会さえも行動を開始し、若い二人に対して逮捕令を発したが、二人の結婚を取り仕切った司祭の司祭館で、胡散臭い世相を感じ取った二人が雲隠れしてしまったため、どんな成果も得られなかった。

若者は両親を亡くしており、多分少々単純なお人よしであり、彼女の方はウーディネ生まれで、貴族サヴォルニャーンの召使いの娘で、この貴族から姓を貰っていた。(父親がセレニッスィマのガレー船の漕ぎ手として仕えていたが窃盗で罪に服し)幼くしてヴェネツィアに引っ越さざるを得ず、子供の時から苦しい生活で、11歳から公娼となり、ヴェネツィアやパードヴァで商売をしていた。

彼女の幸運は、1576年の大ペスト蔓延に生き残ったことであり、競争相手がひどく少ないということから、沢山のヴェネツィアの老若貴族との接触が可能になった。その中には令名高き姓の若き芽があった。即ちコンタリーニ、コルネール、カナール、アヴォガードゥロ、ダンドロ、ソランヅォである。こうした人達の中で最もよく通い詰めたのがマルコ・ダンドロその人だった。彼はある時から若い娼婦の家で同棲を始めたのだった。

兄弟のフランチェスコや姉妹、全ての親族はこの不名誉な関係に全面対立しており、この2羽の小鳥に目を光らし始めた。こうして判ったことがあった。アンドリアーナは自宅に数十のホスチアという聖体を小箱に収めて持っており、それはキリスト像を刻印した物であり、宗教的魔術的呪文の類いで、胃痛の時など彼女はそれを食べていた。人々が期待したことは、サヴォルニャーン嬢が直ぐに魔女になってくれることだった。

《で、あなたもあの魔女がマルコにもあのホスチアをこっそり食べさすところを見たいの?》。親族達は言った。《きっと何か悪魔の儀式で魔法をかけられたんだよ》。

魔法という鋭い武器で何も判らない純真なマルコ・ダンドロを彼女に首ったけにさせているとして魔女に対する裁判の下準備をしようと総代司教に申し立てたのは直ぐだった。こうして区々の証拠が直ぐに現れた。《結婚して2時間後には、もうアンドリアーナはベッドで他の男と横になっていた。》と小間使いが言った。《彼女が死人の頭を持っているのを見た。》とゴンドラ漕ぎが話した。《空豆を投げて未来を予言した。》と誰かが断言した。《魔法の草で媚薬を調合している。》 《アヴォガードゥロ公妃を殺そうとした。》等々。結局全ては予想とは逆のものであった。

確かな事は、空豆の話は彼女が作り上げたものであり、正しくこれはこの種の魔術においては最も適正なものの一つであるということ。また確かな事は、“黒”と書かれたホスチアは祝別された神聖な物で、サヴォルニャーンがフラーリ教会の教区司祭から手に入れた物であったこと。更に確かな事は、《彼女が悪魔に取り憑かれ》、同一の司祭に何度も悪魔祓いの儀式で、彼女は祓い清められたということ。その上、他の女達と一緒に、幾つかの祭儀に熱心に参加したということも確か。それは奇天烈な神像を持って歩く奇天烈な行列であり、大きな深鍋で煮え立たせるために入れられた死人の摩訶不思議な頭のことについて言っているのか? 全て本当の事のように思われた。

結果は? 裁判での証言は披露されなかったし、陰口など考慮されなかったから、それについては事実上何もない。サヴォルニャーンは誤解を避けるために最初パードヴァに逃げた、更により安全な別の場所に。ダンドロはローマ教皇庁に助けを求めたが、結婚を無としないだけでなく、妖術の告訴を全て排除してくれた。二人の若者はこうして、ヴェネツィアに意気揚々と帰還することが出来、幸福に愛の生活を全うすることが出来た。

マルコ・ダンドロは人生を進展させ、続いてセレニッスィマの公的生活を栄光あるキャリアで飾り(中でもフェルトレの行政長官)、1616年8月、58歳で生まれ故郷で亡くなった。アンドリアーナ・サヴォルニャーンについては、貴族としての生活が続かなかったとしても、知られていることは僅かである。当時のヴェネツィアの中傷話が定義するように、我々も断言しよう、確かに彼女は“成り上がり者”ではあった、と。」                         
  1. 2018/06/14(木) 00:22:22|
  2. ヴェネツィアの娼婦
  3. | コメント:0

カランパーネ埋立て通り

アパートを借りたストゥーア小広場からリアルト市場に買物に行くには、次の道順があります。ソットポルティコ(sotoportego)を抜け、前回書きましたストゥーア運河通りに出、直ぐ前方の乳房橋を渡り、右脇のカランパーネ埋立て通り(Rio tera' de le Carampane)を進みます。そして右のタモッシ通り(Cl.del Tamossi)からビアンカ・カッペッロ館前のストルト橋を渡ってリアルトへ向うか、或いは左のカランパーネのソットポルティコを潜り、ボテーリ(Boteri)通りに出て向うかの2通りです。
友人から来たビアンカ・カッペッロの生家の絵葉書[ビアンカ・カッペッロの生家] この辺りカランパーネ埋立て通り一帯は、昔は遊郭とも呼べる地区だったそうなので、かつて浅草から竜泉寺の樋口一葉記念館に向う途中、旧吉原を通過した時感じたようなものが、胸奥に蠢動したように覚えました。Carampana という言葉を伊和辞典で引くと、《身なりのだらしない女》とあります。ジュゼッペ・タッシーニの『ヴェネツィア興味津々Curiosita` veneziane』の Carampane の項を見ると、次のような事が書かれていました。

「1358年、区長は娼婦を一ヶ所に集めるため、リアルト地区にその場所を探した。1360年、サン・マッテーオ教区に何軒かの一群の家が見付かり、そこはカステッレット(Castelletto)と呼ばれることになった。6人の監視員が置かれ、毎夜、サン・マルコ鐘楼の第3番(テルツァ)の鐘で閉店し、家に籠り、教会の祭日には開店しないこととされた。

売上げは一旦マダム(Matrona)に預け、月末に各自に配分された。時が経つにつれて、カステッレットの娼婦達は散らばっていき、特にランパーニ(Rampani)という古い貴族が持つ家(Ca')があったため、カランパーネ(Carampane)と呼称されるこの地区に移った者が多かった。カステッレットから移動することは娼婦達には禁じられていたが、そこに閉じ込められることを嫌がった彼女達は、法令に背いてこの地区に移り住んだ。

ヴェネツィアには娼婦の数は多かったが、当時男色が相当に流行した。そのため政庁は、夕方、彼女達がランプの明かりの下、戸口や窓で淫らに胸を出して誘い、男達の異性愛を掻き立てることを命じた。」
のだそうです。市民皆兵のヴェネツィア共和国は、男子の出生率の低下を殊の外恐れたのだと思われます。

更に乳房橋については、総じて次のように書かれています。
「カランパーネに住む娼婦の館では、この地区にやって来る男達を誘うのに彼女達はバルコニー等で乳房を剥き出しにしていたが、その事がこの橋の命名の元となった。その露出した姿は男色の罪を犯す男を、そのような誘惑から気を逸らす目的で発せられた政令に由来する。

男色は古くからヴェネツィアに根付き、年代記の中でも色々卑猥な事件が語られている。マリーン・サヌードが記したベルナルディーノ・コッレールのような例もある。 ……。
十人委員会の発した布告がいくつかある。男色を根こそぎにするため、地区で2人の貴族が選ばれ、毎金曜日、男色家を調べる代表者会議が招集される。治療のために呼ばれた医者と床屋(外科を担当)は当局に3日以内に報告する。告発された男色者は、先ずサン・マルコ小広場の2本の円柱の間で首を括られ、更に灰になるまで焼却される。」

カランパーネ埋立て通りにあるレストラン(trattoria)《アンティーケ・カランパーネ》の入口には、この店で道を尋ねる人には聴取料を申し受けますと貼り紙がしてあります。借りたアパートの大家さんは、この店の魚料理は美味しいですよ、と言っていました。

2008.07.04日のストゥーア小広場も娼婦に関連しています。高級娼婦だったヴェローニカ・フランコについては、2010.09.18日~ の文学に表れたヴェネツィア――ヴェローニカ・フランコを参考までに。
  1. 2008/06/27(金) 14:38:16|
  2. ヴェネツィアの娼婦
  3. | コメント:2

Veronica Franco(F)(ヴェローニカ・フランコ―1546~91)

天正の4人の少年使節、伊東マンショらが、ローマからイタリア各地を回りヴェネツィアに到着した1585年6月26日当時、ヴェネツィアで活躍していた閨秀詩人ヴェローニカ・フランコ(1575年詩集出版)の話は、何年か前一般上映された米映画『娼婦ベロニカ』(マーシャル・ハースコビッツ監督)で記憶されている方もあるでしょう。
ベロニカ―1ベロニカ―2[映画パンフレット] 彼女がヴェネツィアの高級娼婦だったことは、例えば Alvise Zorzi 著『Cortigiana veneziana』(Camunia出版、1986)等に詳しく述べられているのですが、このような人が詩人でもあったことは驚きです。

またライナー・マリア・リルケが『マルテの手記』の中で言及している、ガースパラ・スタンパ(Gaspara Stampa、1523~54)もペトラルカ風の詩を遺しました。この詩集『Rime d'amore』(1554刊)を読むのは私には難しく手に負えません。悲しい失恋の歌のようです。彼女もまた高級娼婦ではなかったかと言われています。

『ヴェネツィアの花形娼婦総覧』に名を連ねていたヴェローニカは、ヴェニエール(Venier)家のサロンの定期的な集いにも参加し、作家ピエートロ・アレティーノ(Pietro Aretino)や出版人パーオロ・マヌーツィオ(Paolo Manuzio、アルド・マヌーツィオの息子)などまで知り合いだったようです。
ヴェローニカ・フランコの肖像[コッレール美術館のヴェローニカ・フランコの肖像] 彼女の絶頂期は、1574年(28歳)将来フランス王アンリ3世となるアンリ・ド・ヴァロワがヴェネツィアを訪問し、彼女の元を訪ねた頃と思われます。そして天正の4人の少年使節がこの地にやって来た時、彼女は大運河を歓迎船で行進する彼らを、知り合いの貴族の館から眺めたかもしれない、などと想像します。

1580年頃、彼女は娼婦のための救護院の設立を総督に請願して、500ドゥカートを差し出したということです。

しかし彼女の願いとは別に、他の貴族夫人達の案でそうした施設が数年後作られることになったそうです。その場所とは最初、サン・ニコロ・デイ・トレンティーニ(S. Nicolò dei Tolentini)、そこからサン・ピエートロ・ディ・カステッロ(S. Pietro di Castello)へ、更にサン・トロヴァーゾ(S. Trovaso)、最終的に1593年にサンタ・マルゲリータ広場(Campo S. Margarita)のサンタ・マリーア・デイ・カルミニ(S. Maria dei Carmini)教会傍のソッコルソ運河通り(Fondamenta del Soccorso)に定まったようです。

それ故に、Soccorso(救護)の地名が現在まで残っているようです。

追記=2010.09.18日~ に、ヴェローニカについて参考までにもう少し詳しく文学に表れたヴェネツィア――ヴェローニカ・フランコ(1~4)を書いてみました。
  1. 2007/11/03(土) 19:19:42|
  2. ヴェネツィアの娼婦
  3. | コメント:0

カウンタ

カレンダー

05 | 2018/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア