イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

マルコ・ポーロ

今回ヴェネツィアで借りたアパートは、知り合ったマウリーツィオが4人用のアパートを作ったから利用してくれという話に乗りました。到着し、電話してそのアパートに辿り着くと、最終の宣伝用の写真撮影の最中でした。リヴィングのソファーをばらすとベッドになり6人まで泊まれるようです。

アパートのロケーションが大変気に入りました。テアートロ小広場のマーリブラン劇場正面入口の左脇の建物です。街歩きにはとても便利しました。サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ大通りの教会右脇を入ると、銀座のイタリアン・レストラン《バラババオ》のシェフが修業された《バラババオ》本店があり、その更に奥に劇場があります。劇場右脇には、ミリオーン[Milionは『東方見聞録』の原名、大風呂敷の意]小広場があり、軒下通りを抜けて、運河前左を見ると、マーリブラン劇場の裏手にマルコ・ポーロがかつて住んだことを示す碑が掲げられています。この劇場は1596年マルコの家が焼失した後、その礎の上に建てられたものだそうです。
マーリブラン劇場ヴェーネト・ビザンティン様式[左、アパートの窓から見たマーリブラン劇場、右、ミリオーン小広場の、一説にポーロ家が所有したと言われるヴェーネト・ビザンティン様式(1200年代)の帯状装飾]  このマルコの碑の直ぐ運河の向こうには、橋を渡って有名なバーカロ《Al Portego》があり、狭い店からはみ出して、ソートポルテゴ(軒下通り)の下で、テーブル代わりに置かれた樽の上にワイングラスを置き、わいわい呑兵衛達が屯してお喋りに懸命です。その直ぐ向こうのサンタ・マリーナ広場に語学校通学にアパートを借りた時はよく通いました。懐かしい一角です。
マルコ・ポーロ ヴェネツィア1ヴェネツィア2そんな訳で今回は日本人も良く知っているマルコ・ポーロについてです。ニック・マカーティ著『マルコ・ポーロ Marco Polo――世界を旅した男』(久松武宏訳、BL出版、2009年1月20日)というビジュアル版伝記シリーズの絵本です。絵や写真が一杯掲載されているので眺めているだけで読んだような気になってきます。私が最初にマルコの事を知ったのは次の本でした。
東方見聞録マルコ・ポーロについては、2008.10.12日の日本の旅や2009.10.31日のヴェネツィアと日本で触れましたように、カステッロ地区のサン・ロレンツォ教会に葬られたそうですが、1600年代には墓の在所が分からなくなってしまったそうです。現在サン・ロレンツォ教会は再生のための修復工事が何年も前から続いており、教会として甦るのは何年先か丸で分かりません。
サン・ロレンツォ教会ヴェネツィア警察前から見た、修復中のサン・ロレンツォ教会。マルコ・ポーロについては2011.11.26日のサン・ロレンツォ教会も参考までに。
ヴェネツィア話は変わりますが、帰国して図書館で谷口ジロー著『ヴェネツィアVenezia』(双葉社、2016年11月23日)という本を見ました。去年暮れに出版されたばかりの本です。ヴェネツィアのイメージがまだ濃密に残っていたので、大変心を刺激されました。著者が描いた場所の大体がどこか分かりました。正確な実景の絵だったのです。先日週刊誌で著者がこの2月に亡くなられたことを知りました。昂ぶった心を揺さぶられました。合掌です。
  1. 2017/03/16(木) 00:07:41|
  2. ヴェネツィアのアパート
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Giordano Bruno(G)(ジョルダーノ・ブルーノ―1548~1600)

2000年1~3月、ヴェネツィアで初めて語学学校に入学しました。

2ヶ月近くの間、借りたアパートは、ヴァポレットのサン・トマ(S.Toma`)停留所の、大運河の対岸真正面にある、モチェニーゴ館(Ca` Mocenigo)でした。サン・トマ駅から見ると、左から《モチェニーゴ・カーザ・ヌオーヴァ(新)》《モチェニーゴ》《モチェニーゴ・カーザ・ヴェッキア(旧)》と3棟のモチェニーゴ館が並んでいます。
モチェニーゴ館借りたのは右側のカ・ヴェッキア(Ca` Vecchia)の一部屋でした。マルコ・ポーロ空港に着いて、空港からボート・タクシーで案内され、大運河の表玄関から入館した時は、大変な感激でした。やって来るまでは、大運河に面した貴族の館に住むなどという思いは全然なかったからです。

初めてのアパート生活となると、食品等の買物その他のために周りの地理を覚えることが先決です。アパート生活中、鍋の蓋の摘みのねじが紛失した時、探し当てた金物屋さんにピッタリの物がありました。今ではその店も無くなり、ヴェネツィアの人々が土産物屋ばっかりが増えていくと嘆く気持ちが、よく分かります。

学校のあるサンタ・マルゲリータ広場(Campo S.Margharita、私の参照している地図は、Helvetia 出版『Calli, Campielli e Canali』で、ヴェネツィア語を多用しているようです)へは、近くのトラゲット通り(calle del Tragheto o Garzoni――ヴェネツィア式綴り)から、トラゲット(伊語traghetto、渡し舟。当時700リラだったでしょうか)で渡河するのが早かったのですが、アッカデーミア橋を渡って通学しました(所要時間10分)。

それを機に、大運河に面した館のことを書いた本を買ってきて読んでみました。Raffaella Russo 著『Palazzi di Venezia(ヴェネツィアの館)』(arsenale editrice、1998)という文庫本です。

ナーポリで異端の嫌疑をかけられ、1576年に逃亡し、アルプス以北の国々(北イタリアからジュネーヴ、パリ、ロンドン、ヴィッテンベルク、プラハ、フランクフルト……)を漂浪していた哲学者ジョルダーノ・ブルーノは、1591年ヴェネツィアにやって来ます。ジョヴァンニ・モチェニーゴがそれを聞き付け、彼を自分の館に招待します。ジョヴァンニは錬金術の秘密を彼から教わりたかったのでした。

哲学者にはそれは無理なことだったので、ジョヴァンニは「Cristo e` tristo.(キリストは邪悪だ)」「Niuna religione gli piace.(どんな宗教も好きになれない)」等を口にしたとして、彼は異端者だ、とヴェネツィアの異端審問所に訴え、彼はこの古モチェニーゴ館で捕らえられます。

ローマに送られ、7年の刑を言い渡されますが、《異端思想》を捨てなかった(non ha abiurato)ため、1600年2月にローマのカンポ・デイ・フィオーリ(Campo dei Fiori)広場で火炙りの刑に処されます。

初めは快く招いてくれた人間が後で豹変して、彼を死に追いやった裏切者の家の中庭に、火刑になった日に幽霊となって現れるという噂がすぐに立ち、言い伝えとなっていると書かれています。

その日学校から帰ると、復習をしながら伊語の音声に早く慣れたいため、RAIのヴェネツィア放送を聴いていました。話者達によってジョルダーノ・ブルーノの名前が何度も繰り返されるので注意をして聞いていると、その日2月17日は彼の命日で特別番組が放送されていたのでした。

その日は深夜までワインをすすりながら、中庭(大部荒れていましたが、相当に広く、狭いヴェネツィアの土地に比し、中庭を広く持てるのは貴族の誇りなのでしょう)を凝視していたのですが、奇妙な東洋人に人見知りをしたのか、彼は姿を見せてくれませんでした。

2000年の大聖年、それも彼の死後400年回忌に、彼の運命を決定的に左右した館に滞在したことで、私は以来ヴェネツィアという町に非常に不思議な因縁を感じています。
campo-de-fiori-market[サイトから借用]  ローマのカンポ・デイ・フィオーリは、毎日(日曜日を除く)午前中、野菜、肉、魚などの市場が立ちます。ジョルダーノ・ブルーノは今では自分が処刑されたその広場で銅の像となって、ローマ人の活気ある日常生活を眺め下ろしていますが、自分の思想は間違っていなかったと思っているに違いありません、故ヨハネス・パウルス2世(1978~2005在位)はガリレーオ・ガリレーイに下した教皇庁の判断は誤りだったと認めたのですから。
  1. 2007/11/07(水) 00:05:39|
  2. ヴェネツィアのアパート
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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