イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Libreria Emiliana(E)(エミリアーナ書店)

この地で知り合った仏人女性ベアトリスと夕食前リアルト地区のバーカロで、よくスプリッツ・コン・ビッテル(spritz con bitter)を飲みながら、お喋りをしました。彼女は3年前から昼間はサン・ラッザロ・デリ・アルメーニ(S.Lazzaro degli Armeni)島の同名教会付属図書館の古本の修復を仕事にしていました。修復には和紙が最適なんだそうです。
[和紙と言えば、日本の援助で行われたヴァティカン宮システィーナ礼拝堂の、ミケランジェロ画『最後の審判』の修復でも活躍しました。]

彼女は仕事が終わると、帰りの船上から私の携帯に電話してきて、私達はリアルト橋の頂上でランデヴーをしました。彼女は日本の浮世絵が好きで(オリジナルを数枚所持)、日本に大変興味を持っていました。

サン・ポーロ広場(Campo S.Polo)北のリーオ・テラ・セコンド(Rio Tera` Secondo)に、ヴェネツィアの印刷出版業を繁栄させたアルド・マヌーツィオ(Aldo Manuzio、1450~1515)が、1495年から印刷所を構えた場所として、ラテン語のプレートが掲げられていることは知っていました。
マヌーツィオの碑マヌーツィオの碑の壁面[リーオ・テラ・セコンドの碑] 彼女がお喋りの中で教えてくれたのは、アルド以前にフランスから来たニコラ・ジャンソン(Nicolas Jenson、1420~80)が、丸型のローマン体の活字、現在ヴェネシアン・オールド・スタイル(Venetian old style)と呼ばれる活字を考案し[ガラモンやアルドゥス書体の礎となったそうです]、アルドが活躍する土壌を既に作っていたことでした。

ニコラはグーテンベルクが活版印刷術を発明した(1455年『四十二行聖書』出版)後、マインツ(Magonza)でその技術を学び、母国に帰国しないでヴェネツィアに到来、印刷所を開いたのでした。

彼女に教えられて、ゴルドーニ通り(calle Goldoni)のエミリアーナ書店(Libreria Emiliana)で、ニコラとアルドが実際に出版した本を見せて頂くことが出来ました。現在の書籍と同じ大きさの本で、彼らの作り出した新書体のお陰で本の小型化が成ったのでした(本と言えば、以前は印刷ではなく筆写のため、持ち運びの大変な、大きな物が当たり前だったのです[ミニ本も存在したようですが]。小型本発明以前、学生達にとって勉学は大変な労苦を強いられたことでしょう)。

彼女にアルド・マヌーツィオ2世の印刷所のことを尋ねると、知らないということなので案内しました。アルドの孫が2世を名乗り、サン・ルーカ広場(Campo S.Luca)とマニーン広場(Campo Manin)を結ぶリーオ・テラ・サン・パテルニアーン(Rio Tera` S.Paternian)のヴェネツィア貯蓄銀行の壁面に、アルド2世が印刷所をこの地に移したとのプレートが貼ってあることを偶々目にしていたからです。

アルド時代ヴェネツィアはヨーロッパ随一の出版王国(150を超える印刷所があったとか)で、第2位のパリの2倍以上の出版点数を誇りました。マヌーツィオ、ジョリーティ、ジュンティ、マルコリーニ、ミラーノ出身のビンドーニ一族等の出版社や地図出版のラムージョ、それ以外にも、音符と譜線を一つに出来る楽譜印刷システムを考案したオッタヴィアーノ・デイ・ペトルッチ(1466フォッソンブローネ~1539ヴェネツィア)をはじめ、フランスから来たガルダーノ一族(仏名Gardane)、ジローラモ・スコット、アンティーコ、ヴィンチェンティ等の楽譜出版社が名を馳せたそうです(音楽出版社名は『ニューグローヴ音楽事典』(全20巻、講談社)から抽出しました)。

ヴィヴァルディが『調和の幻想』を出版した(1711年)のは、オランダのアムステルダムのロジェ出版社からでしたから、1700年代の初めにはヴェネツィアの凋落は目に余るものだったと思われます。

追記=アルド1世、2世について間違いを犯しています。2007年12月13日のRio tera` S.Paternianに訂正を書きました。

追記2=パリの老舗書店ガリニャーニ(Galignani)は、16世紀からヴェネツィアで出版業を営んでいた一族が1802年パリに移り住んで創業して以来の書店だそうです。そのガリニャーニ書店については、2010.01.30日にパリ(2)に追記を書きました。
  1. 2007/10/31(水) 02:23:45|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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Campo Do Pozzi(D)(二つの井戸広場)

2度目の語学留学をしたのは、語学学校(Istituto Venezia)のマッシモ先生のお宅をお借りしてのことでした。アルセナーレ(Arsenale)のすぐ西にあるド・ポッツィ広場(Campo Do Pozzi)から北に向かうマーニョ通り(Calle Magno)にその家はありました。

停留所アルセナーレからカ・レッツォーニコ(Ca’ Rezzonico)駅までヴァポレットで、ヴェネツィア定期券(CartaVenezia)を購入して学校に通いました。現在ヴァポレットの値段が上がり、定期券も何がしか変更になったようです。

Do(ヴェネツィア語)=Due(伊語、二つの意)なので、この広場は《二つの井戸の広場》の意味ですが、ここカステッロ区(sestiere di Castello)以外にも、サン・マルコ区の3月22日大通り(Calle Larga XXII Marzo)南のCorte dei Do Pozzi や、カンナレージョ区(Canaregio)のサンタ・ソフィーア運河(Rio Priuli o S.Sofia)脇の Ruga Do Pozzi 等《ド・ポッツィ》の地名があります。地図によっては Due と書いてあるものもあります。

ド・ポッツィ広場のバーカロ(bacaro)、オステリーア・アイ・フォルネーリ(Osteria ai Forneri)でよくコーヒーやオンブラ(特に白ワイン)を飲んだ(バーカロはアルコール類だけを出すところが多いようです)ので、そんな折、現在井戸は一つしかないのに何故 Do(二つ)なのか、ここで傍にいた人に尋ねたことがあります。その人はこの土地生まれではなかったのか、知らないという返事でした。
ド・ポッツィ広場[井戸が一つだけ見えるド・ポッツィ広場] Giuseppe Tassini 著『Curiosita` veneziane』(1863、Filippi Editore 再刊)という本を帰国して読んでみると、やはりかつては井戸が二つあったようです。

伊映画『ベニスで恋して(Pane e tulipani)』の中で、女主人公のロザルバとコスタンティーノ探偵が出会いの場所として《井戸の広場》に決めます。翌朝2人が会った場所が画面に映し出された時、それが毎日目にしていたド・ポッツィ広場だったのでジーンと胸が熱くなりました。
「ベニスで恋して」パンフレット[映画パンフレット] 映画では《カンポ・ド・ポッツィ》と発音されましたが、字幕は《井戸の広場》だったので、映画の訳者には Do の意味は分からなかったかもしれません。映画ではツィンツィアと発音されていた人名が、字幕では英語のシンシアとなっていましたから。

フォルネーリの主人は、映画撮影時、ここの内部からも撮影したけれど、映画ではそのシーンはカットされていた、と教えてくれました。ヴェネツィア映画は当たらないというジンクスがあるそうです。スィルヴィオ・ソルディーニ監督自身はこの映画を観客動員2万以下と予想したのだそうですが、130万超の観客に見られたヒット作となったのです。

ある日夜遅く帰宅前に立ち寄ると、カウンターの上だけ明かりが点いていました。奥のテーブルのあるスペースは暗くなっていて、ぎっしり人が居り、TV のサッカーを見ていました。試合終了で明かりが点くと、40人ぐらいの人が立ち上がったでしょうか。

何人かの人に、中田のローマはよくやったと言われ、握手を求められました。ユヴェントゥスとローマが闘い、0:0の引き分けの試合でした。この日は中田英寿選手は出場しませんでしたが。

このバーカロにはこの地域のサッカー・チーム《ソニー》の選手達の写真が飾ってあり、ユーヴのスポンサーだったソニーの名前をチーム名としていました。TV 放映の時は、ビアンコネーリ・ファンが集まるようです。

近所の高校生らしい青年が、よくチェス盤を抱えてやって来て、店の主人とチェスを指していました。客そっちのけのこの闘いは見ていて、昔日本でもあった縁台将棋そのままで楽しい見物でした。

クリスマスの前には、大きな albero di Natale(クリスマストゥリー)を広場に立て、店の主人が一人飾り付けをしていました。まるでこの店の広場であるかのようですが、近所の人達もそれを楽しんでいる風が傍目にも分かりました。
  1. 2007/10/28(日) 02:17:37|
  2. バーカロ
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Ponte di Calatrava(C)(カラトゥラーヴァ橋)

今夏7月末ヴェネツィアに行った時、飛行機が遅れて深夜0時に到着、ローマ広場(Piazzale Roma)に着いた時は2時近い時間でした。大運河のヴァポレット(バス船)は運航されておらず、ジュデッカ運河(Canale della Giudecca)経由でチェントロ(中心街)に行けたのですが、それは最終便でした。

翌日の深夜、リアルト橋(Ponte de Rialto)の近くをゆっくりと進む、警察の船などに物々しく先導された巨大な平底船(chiatta)を見ました。橋下を潜る時、巻上げ機(argani e verricelli)用の高い塔を下げて潜って行きました。
カナレットのリアルト橋 リアルト橋を潜る工事船大運河を進む工事船左、カナレット画『大運河とリアルト橋を南から見る』、中央、リアルト橋を潜るカラトラーヴァ橋工事船、右、大運河を進む、橋基礎部分等を運んだ工事船

宿に帰るのにアッカデーミア橋(Ponte de l'Accademia)まで行くと、その平坦な厚板状の船はまだそこまで来ていません。カ・フォースカリ(Ca' Foscari)のカーブを曲がるのが難しいようでした。

その作業船はカラトゥラーヴァ橋の両岸の基礎の土台に、中央の橋桁(concio centrale)を取り付けるための、両脇の接続用の橋桁(conci laterali)を設置するための船で、その工事のために大運河の交通は全面ストップになっていたのでした。

帰国後8月に、アーチ橋の中央の長い橋桁(70メートル、270トン)を両岸の橋桁と接続するヴィデオを、Citta` di Venezia のサイトで見ました。8月7・8日の両日30時間かかった大工事で、しっかり接続された時には観客から拍手が沸き起こりました。

今までサンタ・ルチーア駅(Stazione ferroviaria S.Lucia)とローマ広場の行き来は、スカルツィ橋(Ponte dei Scalzi)を渡る遠回りの道しかなかったのですが、今年中には渡れる予定だそうで、大運河第4番目の橋として大変便利になる見通しです。

2年前に購入したヴェネツィアの教会、美術館、建物を紹介する絵地図本では、既にこの橋が描かれていました。設計はスペイン人 Santiago Calatrava(サンティアゴ・カラトゥラバ)で、橋は彼の名前で現在は呼ばれていますが、どういう風に命名されるのでしょうか。
[建築家は西人カラトゥラバ、ヴェネツィアではカラトゥラーヴァ橋――西語の v の綴字は b 音]
  1. 2007/10/24(水) 15:52:23|
  2. ヴェネツィアの橋
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Broglio(B)(サン・マルコ小広場の菜園)

10月25日まで渋谷の Bunkamura で開かれている『ヴェネツィア絵画のきらめき』展で、ガブリエール・ベッラの『トーガの着衣式、ブローリオ』という絵が展観されています。
『トーガの着衣式、ブローリオ』現在ヴェネツィアの総督宮殿のある所には、かつてサン・ザッカリーア教会の裕福な修道女達が所有する菜園(brolo)があり、12世紀総督宮殿増築時に、その土地が総督に譲られました[毎年復活祭の日曜日、総督はそのお礼としてサン・ザッカリーア修道院に表敬訪問をする習わしがあったそうです]。そのため、宮殿のアーケイド下やその辺り(サン・マルコ小広場)を、brolo、brogio、broglio(伊語ではペテンの意)等と呼んでいたそうです。
サン・ザッカリーア教会サン・ザッカリーア教会[聖ザカリアは洗礼者ヨハネの父で、その遺体はビザンティン皇帝レオ5世(813-820、Leone V l'Armeno)からヴェネツィアに友情の印に贈与されたそうです]。
25歳になって大評議会の議員になる貴族の若者は、トーガの礼服を着て、ブローリオで行われる式典に参加したとのことです[entrare in brogio――Giuseppe Boerio 著『ヴェネツィア語辞典』より]。

その貴族の親達も大評議会での選挙が近づくと、富裕貴族が貧乏貴族の票を買収しようとし、売る側、買う側がこの空間を歩き回ったといいます。

その事から現在の伊語の imbroglio(ペテン、詐欺、ごたごたの意)が生まれたそうです。更に、imbroglione(ペテン師、詐欺師、いかさま師)の同義語を探すと、辞書上には次に列挙するように夥しくあります。日本語との比ではなさそうです。

abbindolatore, aggiratore, armeggione, arruffamatasse, arruffone, azzeccagarbugli, baro, cabalone, cavaliere d'industria, ciarlatano, ciurmatore(ciurmadore), dulcamara, faccia da culo, farabolone(farabulone), farabutto, fraudolento, frodatore, gabbacristiani, gabbamondo, gabbatore, garbuglione, giuntatore, imbroglione, impostore, intrigante, ladroncello, lazzarone, lestofante, magliaro, mariolo, mercante di tappeti, mestatore, mistificatore, pataccaro, raggiratore, raggirone, trafficante, trafurello(traforello), trappolatore, trappolone, truccone, truffaldino, truffatore, turlupinatore, vendifrottole, venditore di fumo
  1. 2007/10/23(火) 18:39:32|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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Il filo d'Arianna(A)(アリアドネーの糸)

初めてヴェネツィアに行きたいと思った時、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の映画『ベニスに死す』でのように船でヴェネツィア入りしたいと思い、資料を渉猟しました。マルコ・ポーロ空港(Aeroporto Marco Polo=テッセラTessera)空港からサン・マルコ小広場(Piazzetta S.Marco)の桟橋(S.Marco Molo)までアリラグーナ(Alilaguna)の船便があることを知りました。
『サン・マルコ湾から見たピアッツェッタと総督宮殿』[カナレット画『サン・マルコ湾から見たピアッツェッタと総督宮殿』。サン・マルコ桟橋とはサン・マルコ小広場前の海岸通りを指します。]
乗船した船はリード(Lido)島に立ち寄った後[その途中、ムラーノ島に立ち寄ったのですが、その時は何処やら分かりませんでした]、サン・マルコ桟橋に向かいました。その日は快晴で、船上からの、海の税関(Dogana di mare)、サルーテ教会(chiesa di Santa Maria della Salute)、総督宮殿(Palazzo ducale=ドゥカーレ宮殿)等の近付いてくる眺めは、一生忘れられないものとなりました(当時はどれがどれやら分かりませんでしたが)。

この街は迷宮都市と聞いていましたので、道に迷わないようにと『ガイド(ヴェネツィア イタリア北東部)』(Touring Club Italiano版)のヴェネツィアの地図をコピーして持って行きました。

サン・マルコ桟橋からその白地図を頼りに、入り組んだ道(intrico di calli)を曲がり、角ごとにマーカーで印を付けながら、無事ホテルに辿り着くことが出来た時は感慨も一入でした。

そして1週間、街歩きをしながらその白地図に色変わりでマーカーリングをすると、迷宮をそれほど迷わずに6つの地区(sestiera)を巡ることが出来ました。この地図はホテルなどで呉れる省略だらけの地図とは異なり、強力なものでした。

迷宮(ラビュリントス)は伊語で labirinto、meandro、dedalo 等が辞書にあります。

ギリシア神話の中で、ダイダロス(Dedalo)がクレータ(Creta)島に作った迷宮に、閉じ込められた牛頭人身の怪物ミーノータウロス(Minotauro―ポセイドーンが送った牡牛とパーシパエーの子)の生贄として、テーセウス(Teseo)がやって来ます。

彼に一目惚れしたアリアドネー(Arianna―クレータ王ミーノースとパーシパエーの娘)は、迷宮から地上に帰還出来る策をダイダロスから授かり、彼に教えます。彼は教えられた通り入口から糸玉の糸を伸ばしながら怪物の所に至り、怪物退治をして無事戻ってくることが出来ました。

その糸のことを伊語で、il filo d'Arianna(アリアドネーの糸=問題解決の手掛かり)と言い、私がコピーしたヴェネツィア白地図は正にその糸玉でした。辞書にデーダロとは、ダイダロス(Dedalo)の作った迷宮(dedalo)の意味、ともあります。

ヴェネツィアの街歩きには、全ての通り名の載った、無省略の地図が必携のようです。
  1. 2007/10/21(日) 22:47:55|
  2. ヴェネツィアの地図
  3. | コメント:0

piacere よろしく

Piacere.
ヴェネツィア好きが嵩じて、ブログとかいうものをやってみることにしました。
ヴェネツィアの人々は、Venezia e` l'unica citta` al mondo.(世界で唯一の町)と言いますが、一方で E` la citta` anfibia.(水陸両棲都市)とか E` la citta` come palafitte.(杭上都市)[街を逆様にすると杭の森になるほど木の杭が打ち込んであるのが分かるそうです]とか冗談めかして言います。
日本にいるので誤解やら勘違いやら多々犯すことでしょうが、ヴェネツィアのことを楽しみで書いてみたいと思います。
  1. 2007/10/19(金) 00:58:56|
  2. お知らせ
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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