11月7日のブログで触れた、初めて借りたアパート、モチェニーゴ家の旧館の左隣はモチェニーゴ家の新館(Ca' Nova)です。この館で、バロック時代の作曲家クラウディオ・モンテヴェルディ(1567~1643)が、詩人トルクァート・タッソ(1544~95)の『解放されたエルサレム』を元に、マントヴァから依頼されて作曲した『タンクレーディとクロリンダの戦い』を、ここで1624年に初演したのだそうです。

[左、新モチェニーゴ、中央、相似形の2軒のモチェニーゴ、右、古モチェニーゴの館だそうで、参考にした本の判断を元に書いています。この呼称には色々あるようです。]
また前掲(11月7日)の Raffaella Russo 著『Palazzi di Venezia(ヴェネツィアの館)』によれば、このモチェニーゴ家は総督ジョヴァンニ・モチェニーゴ(1478~85在位)を輩出後、1571年にレーパント[ギリシア中西部コリントス湾ナフパクトス港]の海戦を勝利に導き、74年にはフランスのアンリ3世のヴェネツィア公式訪問時の総督アルヴィーゼ1世モチェニーゴ(1570~77在位、4世までありますが、全てこの一家?)を生んだ由緒ある家系だそうです。モチェニーゴを名乗る総督にはトンマーゾ(1414~23在位)、ピエートロ(1474~76在位)がありますが、同族他家なのでしょうか。

さらにラッファエッラさんは次のように述べています。
「1797年ナポレオンに亡ぼされ、沈滞しきっていた当時のヴェネツィアにやって来たのは、英国のロマン派の大詩人ジョージ・バイロン卿である。彼は1816年この地に至るやマリアンナ・セガーティという織物商の妻と恋仲になる。

[バイロン卿、サイトから借用] 1818(-19)年この館の1フロアを借りるや、歌手アルパーリチェ・タッルシェッリ、娼婦ダ・モスト、エレオノーラ、カルロッタ、ジュリエッタ、ボローニャの女優ジュリエッタ、サンタ等と次々にアヴァンチュールを繰り広げ、特にパン屋の妻マルゲリータ・コーニ、通称《フォルナリーナ》とは激しい恋をした。最後はラヴェンナの伯爵夫人テレーザ・グイッチョリで終わるが、その間詩集『ドン・ファン』の数節がここで書かれた。 」のだそうです。
バイロン卿は、激しく泣いていたと思うとゲタゲタ笑い始めたりする、喜怒哀楽表現の激しいフォルナリーナを真摯に愛していたようです。夕方ゴンドラ乗船中、突如激しい豪雨に出会い、何とか凌いでアパートに帰ってみると、玄関の階段に丸く蹲って彼の帰りを待っている彼女をそこに見出したりしているのです。
彼は引っ越してきた時、猿2匹、熊1匹、鸚鵡2羽、狐1匹の動物と一緒だったそうですが、それらが全て放し飼いになって我が物顔に動き回っていたそうですから、彼らの手前勝手な行動には恋人達は面食らったに違いありません。
新館の更に左は、《il Nero(黒)》[上記のように新モチェニーゴだろうか?]と通称されているモチェニーゴ館があります。モチェニーゴ一族は共和国の要職に付いている人が多かったようですが、前掲の書によればこの館からは、例えば、1395年トルコ軍を破ったトンマーゾ、15世紀半ば小アジアやギリシアの海岸を略奪して回ったピエートロ等の名前が挙げられています。
[2013.02.05日追記=このラッファエッラ・ルッソ著『ヴェネツィアの館』は左から《ネーロ館》《新モチェニーゴ館(2軒)》《旧モチェニーゴ館》としていますが、他の本では《新モチェニーゴ館》《モチェニーゴ館(2軒)》《旧モチェニーゴ館》としています。どの呼称がベターなのでしょうか?]
モチェニーゴの名前を冠する館はヴェネツィアにはまだあります。例えば、この館の右隣2軒目にエーリッツォ・ナーニ・モチェニーゴ館があり、サン・スターエ教会脇のサン・スターエ大通り(Salizada S. Stae)にあるモチェニーゴ館は、18世紀の裕福な貴族の館を見せる例として一般公開されています。またサン・ポーロ広場の一廓に現在財務警察の置かれるコルネール・モチェニーゴ館もあります。
ミラーノ出身のこの一族は、以下に列挙するように7人の総督を生んでいます。何家かは判りません。
トンマーゾ・M(1414~23)、ピエートロ・M(1474~76)、ジョヴァンニ・M(1478~85)、アルヴィーゼ・M(1570~77)、アルヴィーゼ2世・M(1700~09)、アルヴィーゼ3世・M(1722~32)、アルヴィーゼ4世・M(1763~78)。
- 2007/11/29(木) 20:27:51|
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1847年マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を起草し、翌48年2月出版されたのが機になったのか、この年はヨーロッパ各地、ベルリン、ブダペスト、パリ、ウィーン、プラハ等で革命の火の手が上がりました。イタリアでもミラーノでは、ウィーン蜂起を耳にして、3月にオーストリアの支配に対しての反乱が起こります(《ミラーノの5日間(Le cinque giornate di Milano)》として有名)。
ヴェネツィアも例外ではなかったのです。1848年3月16日、オーストリアの管轄下にあるヴェネツィアの官憲に逮捕されたダニエーレ・マニーンとニッコロ・トンマゼーオ(Niccolò Tommaseo)の釈放を要求して始まったヴェネツィア人の《革命運動》は、3月22日、アルセナーレでの動乱で極となり、ハプスブルク帝国の支配を断ち切り、再び共和国の形を取り戻すことになります。


[来日され、一ツ橋の如水会館で講演された哲学者のマッシモ・カッチャーリさん(ヴェネツィア市長もされました)が“La Nuova”紙へ寄稿されたもの(マニーンはパリに亡命し1857年没)。]
マニーンは新共和国の大統領となり、トンマゼーオ(1802~74)は文化・教育大臣となります。残念ながら、この新しい共和国は1年ほどで潰えますが、彼らが作った新共和国の思い出はヴェネツィアの街に残されています。
マニーンの銅像(1875造立)がマニーン広場に立っています。銅像の目線の先には、サン・ルーカ運河(Rio de S. Luca)に面して建つ、彼が生活を送った家があります(IN QUESTA CASA ABITAVA DANIELE MANIN QUANDO IN PATRIA INIZIÒ LA LIBERTÀ PRENUNZIATRICE……)。



[左は長年住んだ我が家を見るダニエーレ・マニーン像、中央は彼が生活した家、右は像の下に置かれた、旧サン・パテルニアーンの地図。]
元々この広場にはサン・パテルニアーン教会が建っていたそうで、1810年この教区が廃止され、教会は倉庫に転用されますが、1871年には古い鐘楼共々壊され、更地になります。彼の銅像の下に、教会ありし頃の地図が敷石に刻んであります。そしてその呼称も、サン・ルーカ広場に通じるサン・パテルニアーン埋立て通り(Rio Terà S. Paternian)やマニーン家の入口のあるサン・パテルニアーン通り(Calle S. Paternian)が残されています。
サン・パテルニアーン通り近辺は、マニーンが弁護士だったこともあるのか、あるいは近くに控訴裁判所(Corte d'Appello)がある故なのか弁護士事務所の多い地区なのだそうです。実際歩いてみると、私の眼には骨董屋さんのショーウィンドーが結構目に付きました。

サン・ポーロ区のストゥーア小広場(Campiello de la Stua)に部屋を借りて、サンタ・マルゲリータ広場の語学学校に通っていた時、道順の脇道全てを探検しようと手当たり次第に入ってみました。それ故判明した事は、マニーン誕生の生家はアルド・マヌーツィオの印刷所のあったリーオ・テラ・セコンドからの脇道、アストーリ通り(Ramo Astori)のどん詰まりに、彼が生まれたことを示す碑板が掲げてありました(NEL XIII MDCCCIV QUI NAQUE DANIELE MANIN……)。2011.12.10日のブログ
《ドルフィーン・マニーン館(2)》で触れました。
サン・モイゼ教会前のサン・モイゼ橋(Ponte S. Moisè)から西に向かう3月22日大通り(Calle Larga XXII Marzo)は、この《革命運動》の頂点となった日を記念としている筈です。そしてサント・ステーファノ(S. Stefano)広場に立つニッコロ・トンマゼーオの銅像(ミラーノの彫刻家Francesco Barzaghiが1882年建立)は、目線すぐ前のスペツィエール通り(Calle del Spezier)を通して、その先の3月22日大通りを睨んでいるのかも知れません。


[左、道が広げられ“3月22日通り”と命名された時の碑でしょうか? 道の奥で見付けました] 作家だった彼の銅像の背後のお尻の下に積まれた本をヴェネツィアの人々は、cagalibri(くそ本)などと冗談めかして言っています。こういう言い方は、自分を卑下したように言い勝ちの日本人的感性に何か似ているような気もしますし、口の悪いヴェネツィアーニ的とも取れます。ミラーノの彫刻家フランチェスコ・バルザーギ作のこの彫刻に不満のヴェネツィア人が、トンマゼーオの背後に積まれた本を《くそ本》と腐しているという説も聞きました。
- 2007/11/22(木) 15:55:13|
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初めて語学学校に登録し旧モチェニーゴ館にアパートを借りた時、リアルト市場まで行くのに、大運河沿いの人通りの少ない近道を探しました。
その道中、サン・べネート(S. Beneto=伊語Benedetto)教会広場脇のフォルトゥーニ(Fortuny)美術館(ペーザロ館)や旧ロッスィーニ映画館の前を行き、直前のサン・ルーカ運河(Rio de S. Luca)の橋(ponte del Teatro)を渡り、対岸の真向かいにあるサン・ルーカ教会の前を左へ曲がり、グリマーニ館(Corte d'Appello)を通り越し、その先を左折すれば大運河岸のカルボーン運河通り(Riva del Carbon)に至ります。

[仏映画『大運河(Sait-on jamais...)』(ロジェ・ヴァディム監督)より、チネマ・ロッスィーニの入口] ロッスィーニ映画館は、例えば1950年代のフランス映画『大運河』(ロジェ・ヴァディム監督)の冒頭シーンを見ると、映画全盛期には賑やかだった様子が見られ、ロッスィーニ映画館華やかなりし頃が窺われます。現在ではこの辺りは道行く人もあまり見かけません。
[追記: ロッスィーニ映画館が現在どうなったか? 2012.11.17日の
《ジョゼフ・ターナー》で触れました。]
ロッスィーニ劇場は、1755年の建設で元々サン・ベネデット劇場と呼ばれ、ヨーロッパで最初に幕が設置された劇場の一つだそうです。1854年、前年フェニーチェ劇場(初演)で失敗に終わったヴェルディの『椿姫(La traviata)』が、何の変更もなしにここで再演され(ヴェルディは一切改変せずという手紙を残しています)、大成功を収めたのです(変更といえば、町に貼られたポスターが、前回に比べて格段に大きかったようですが)。
1868年ロッスィーニの死のニュースを受け、『アルジェのイタリア女』等彼のオペラで、成功を与えてくれた作曲家の名前を劇場名とすることにしたとのことです。その後映画館に変わったのですが、映画が退勢となった今日では、見るからに廃墟となっている感じです。
聖ルカは医者、画家、ガラス職人、公証人等の守護聖人ですが、このサン・ルーカ教会にはまだ入ったことがありません。この名のサン・ルーカ広場は教会とは離れた所に位置しています。これ程広くて、教会のない広場はヴェネツィアでは珍しいとも思われますが、1810年サン・ベネデット教区とサン・パテルニアーン教区の一部を取り込んで、サン・ルーカ教区が大きくなった時と関係があるのでしょうか。
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[サン・ルーカ広場、サイトから借用] 若い人々が集まる人気の広場だそうで、私も、知人宅でホームステイをして日本語の勉強をしていた、帰国して故郷メーストレ(Mestre)に住むスィルヴィアに指定されてここで待ち合わせをしたことがあります。その日は大変な人出で、お互い出会い損なうところでした。
この広場からゴルドーニ通りを行けば、前にも書いたエミリアーナ書店の前を通って、サン・マルコ広場裏のオルセーオロ(Bacino Orseolo)のゴンドラの溜り場に到達しますし、やはり前にも書いたアルド・マヌーツィオ2世のプレートが掲げられたサン・パテルニアーン埋立て通りからマニーン広場に通じています。
この広場のお菓子屋ローザ・サルバやメルチェリーア(Marzaria)通り、フィウベーラ(Fiubera)通りの同じ系列店ローザのお菓子やコーヒーが大変美味しいというので、街歩きの途中よくコーヒー・タイムで立ち寄りました。日本へのお土産にここのケーキを買ったこともありました。
伊語の男性の固有名詞は、通常末尾が《O》で終わるのですが、女性形の《A》で終わる例外があります。サン・マルコ区のこの S. Luca、カステッロ区の S. Zaccaria、カンナレージョ(Canaregio)区の S. Marcuola、 S. Geremia、サンタ・クローチェ区の Sant'Andrea、サン・ポーロ区の S. Tomà、ドルソドゥーロ(Dorsoduro)区の S. Barnaba とあり、読む時、《サン》なのか《サント》なのか《サンタ》なのか困ったものでした。男性聖人なので、全て《サン》です(Sant'Andrea だけは《サンタンドレーア》と読みますが)。

そんな伊語の名前の例外を、名前辞典から拾ってみました(* が付いた名前は男女両用です)。
男性=Agricola, Aminta, Amsicora, Anania, Andrea, Aquila*, Archita, Attala*, Attila, Azaria, Babila, Balilla, Barnaba, Battista, Bonaventura, Comita, Cosma, Disma, Elia, Enea, Epaminonda, Ermacora, Esdra, Ezechia, Fanfulla, Fidia, Foca, Geremia, Giovita, Giuda, Giunta*, Golia, Guerra, Iria, Isaia, Leonida*, Luca, Malachia, Menna, Nicea, Niceta, Nicola, Numa, Onia, Ormisda, Osea, Palma*, Porsenna, Tobia, Vania, Zaccaria。
女性の名前で、男性形の《O》で終わるもの(* 印は男女両用)。
Apparizio*, Asiago*, Clio, Corallo, Danubio*, Destino*, Eco*, Ero, Filidoro*, Finimondo*, Giglio*, Lugano*, Monserrato*, Montello*, Otero。
- 2007/11/17(土) 00:23:43|
- ヴェネツィアに関する言葉・文学
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イタリアでは、11月1日は諸聖人の祝日(i Santi)、2日は故人の日(i Morti)で、日本のお盆のようにこの日を中心に墓参をします。その数日後、語学学校が休みの日曜日に、サン・ミケーレ島に詣でてみました。
北のラグーナ沿いのヌオーヴェ海岸通り(Fondamente Nove)のヴァポレットの停留所近辺では、日曜日も(この時期だけなのか?)、花屋さんが開店していました。サン・ミケーレ島にも花屋さんがあると教えられ、手ぶらで乗船すると菊の花等を抱えた人達を見掛けます。

次のサン・ミケーレ島の停留所で降りると、桟橋から墓場入口まではアックァ・アルタ(acqua alta、高潮)でかなりの深さに冠水しており、通れるように板が渡してありました。11月、12月は毎年アックァ・アルタでかなり水位が上昇するのです。
この墓島は、昔はヴェネツィア本島のあちこちに散らばっていた墓を、ナポレオンの命令で一箇所に集めることになり、この島とサン・クリストーフォロ(S. Cristoforo)島との間を埋め立て、一つの島にして1827年に誕生したそうです。

島の花屋さんで、根元を水入りの壜に漬けた真っ赤な薔薇2輪を買いました。音楽好きの私は、1本はストラヴィーンスキー、もう1本はディアギレフのためにです。ディアギレフはヴェネツィアに住み、バレエのプランを練り、パリ等でバレエ・リュッスの公演を行いました。そうしたバレエのために、彼はストラヴィーンスキーに作曲を依頼したのです。
ディアギレフはヴェネツィアで、恋人の男性ダンサー達に見守られながら亡くなり、この島のロシア正教徒が眠る一画に葬られました。
ストラヴィーンスキーがニューヨークで亡くなった時、自分を引き立て、世に送り出してくれた恩人ディアギレフの傍で眠りたいとの遺言があったのか、遺体はヴェネツィアに運ばれ、ヴェネツィアで大変な葬儀が行われたことが、H.C. Robbins Landon、J.J. Norwich著『Venezia--Cinque secoli di musica』(Rizzoli、1991) という本に書かれていました。
ストラヴィーンスキーの墓は案内の立札があり、それに教えられた区画で探すと、最奥に背の高い目を引く墓標があり、それがディアギレフのものでした。誰が捧げたのか、古ぼけたトウシューズが片方だけ置いてあり、持ってきた薔薇を捧げ、合掌しました。


右の少し離れた所に、ストラヴィーンスキーの真っ白の綺麗な平板石の墓が見付かりました。いつも誰かが掃除をして磨いている様子で、塵一つ落ちていません。妻のベラの墓が寄り添うように、同じく真っ白で並んでいます。薔薇を2輪しか用意しなかったのが悔まれました。
アメリカの詩人エズラ・パウンドもヴェネツィアで亡くなり、ここに葬られたと聞いていたので、別の区画を探しに行きました。結局発見出来なかったのですが、回っている最中、真新しい花やビニールに包んだ本などが置かれた墓が目に入りました。墓石には Joseph Brodsky と名前が刻まれており、生没年が、1940.5.24~1996.1.28となっています。
没年月日を見た時、ヨシフ・ブロツキーはヴェネツィアに居て、偶々フェニーチェ劇場の炎上した前日に亡くなったと思ったのですが、後で彼の『ヴェネツィア・水の迷宮の夢』(金関寿夫訳、集英社、1996)を読んでみると、ニューヨークで亡くなっています。
旧ソ連から亡命した(1972)ノーベル賞(1987)作家は死ぬ年まで、毎年ヴェネツィアを訪れた筈です。親類縁者の僅少の外国の地で亡くなった詩人をゆっくり眠らせるには、彼の愛したヴェネツィアにベッドを作って上げるのがいいと回りの誰かが画策でもしたのでしょうか、あるいはストラヴィーンスキーのように遺言が残されたのでしょうか(あと何本か薔薇を買ってくればよかった !)。


[彼の墓と著書――私の愛読書、この『ヴェネツィア・水の迷宮の夢』の原題は英語で『Watermark』、仏語版は『Acqua alta』、独語版は『Ufer der Verlorenen』、伊語版は『Fondamenta degli incurabili』だそうです。]
明治時代、米歐を回覧した岩倉具視の一行がイタリア最後の訪問地ヴェネツィアに到着したのは、1873年のこと。イタリアで彼の一行に付き添った第3代駐日イタリア公使アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ伯爵と岩倉との話で、ヴェネツィアにヨーロッパ初の日本語を教える講座が開設されました(授業は仏語で行われたそうです)。
1909年(講座閉鎖)まで6人の日本人が先生として渡伊し、その内2代目教師緒方惟直
(これなお)は蘭学者緒方洪庵の第十子で、ヴェネツィアで亡くなり、ここに墓があるそうです。
私はまだ発見出来ずにいるのですが、入口の事務所で訊けば教えてくれると仄聞したので、次回のヴェネツィア行の時には、是非とも探してみようと思っています。
追記=サン・ミケーレ島については、2010.08.14日に
《文学に表れたヴェネツィア――パウンド(2)とサン・ミケーレ島》で少し書き足しました。2008.11.29日の
《墓参》と2009.11.07日の
《ブロツキー(1)》でも触れています。
- 2007/11/14(水) 00:07:58|
- ヴェネツィアの墓
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初めてヴェネツィアに行った時、1週間滞在しました。最初の3日間泊まったホテルは、サン・マルコ広場の旧行政館(Procuratie vechie)の直ぐ裏、ファッブリ通り(Calle dei Fabbri)の入口にある、ホテル・サン・マルコでした。泊まった翌朝、サン・マルコの鐘楼の7時の鐘の音で叩き起こされました。頭上の鐘のように驚くほどの大音響でした。
後半4日間は、ローマ広場(Piazzale Roma)近くのパパドーポリ公園(Parco pubblico Papadopoli)隣、クローチェ運河(Rio de la Croce)沿いに建つホテル・ソフィテルに移動しました。そんな訳で、ヴェネツィアの東西を初体験ながら少しは歩き回り、多少ヴェネツィア街歩きの自信が湧いたような気がします。

[現在はホテル・パパドーポリの名称] ソフィテルの部屋のバルコニーからは、下のクローチェ運河、左端の大運河から右端のトレンティーニ広場(Campazzo dei Tolentini)まで見渡せましたし、廊下の反対側の突き当たりからは、裏のパパドーポリ公園の緑が目に和みました。
この公園は昔から公園だったのではなく、元々はこの地区の名前の起源となった、サンタ・クローチェ(S. Croce)教会があったのだそうです。しかし1810年、何故か教区教会としての役目が廃止され、民間の倉庫に転用され、建物そのものが崩れ落ちると、結局は市の公園となったようです。
このサンタ・クローチェ教会の在りし日の姿を日本人が描いていました。それが判るまでに次のような経緯がありました。
ヴェネツィアで友達となった仏人ベアトリスが、仏国で出版された大きな《浮世絵本》の中に、ヴェネツィアを描いた浮世絵があると見せてくれました。そしてその浮絵(
うきえ、遠近法を使用した浮世絵)の手本となったカナレット(Canaletto、1697~1768)の都市景観画(veduta)を、彼女に案内されたサンタ・マルゲリータ広場(Campo S. Margarita)の一画にある骨董屋さんで見せてもらうことが出来ました。
この版画に使用された用紙は、ヴェネツィア人が着古した麻の衣類や麻の雑巾などから作られたのだそうです。新しい麻布で紙に加工するには、硬質過ぎて紙になりにくいということで、使い古して繊維の軟らかくなった物が求められました。当時はそうした古布を集め回るのが仕事の人もいたようです。その紙にはヴェネツィア製を示す《V》の字が透かしで入っていました。
帰国してその浮絵、歌川豊春(1725~1814)の版画のことを、ベアトリスの《本》に記されていた神戸市立博物館に問い合わせると、常設していないので、東京国立博物館(やはり常設していない)か、《アダチ版画研究所》で訊ねてみるように助言を頂き、アダチを訪ねてみました。そして当時の手法をそのままに再現して刷られた《複製》に、出会うことが出来ました。

アダチで教えて頂いたことは、歌川豊春が明和期(1764~72)頃、外国の遠近法を学ぶために、このカナレットの絵をヴィセンティーニ(Vicentini)が銅版画にしたものを手本に模写した、ということでした。題して『浮絵 紅毛(
ヲランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』です(Google のサイトで《浮絵 紅毛フランカイノ湊万里鐘響図》で検索すれば、当時の絵が見られます)。
この浮絵の手本になった絵の出自が判明(『カナル・グランデの景Veduta del Canal Grande』と題された作品)したのは、ケルンの日本文化館の岡野圭一氏のお陰だそうです。
頂いた資料のヴィセンティーニ(Vicentini)のことが知りたくて、イタリア文化会館の図書室で十数巻のイタリア美術史事典で調べさせて頂きました。"Vicentini" は存在せず、"Visentini"(ヴィゼンティーニ)が見つかりました。Antonio Visentini(1688~1782)は、美術、建築の教師をしながら、カナレットの景観画を銅版画(incisione)にする協力者だったそうです。
[Vicentini(ヴィセンティーニ)は思い違いだったようです。 ヴェネツィアでは“ヴィゼンティーニ(Visentini)”と発声します]。

左の、カ・ドーロ館左隣の大運河に面するミアーニ・コレッティ・ジュスティ館は、彼の手になる建物だそうです。また数年前出版された、ヴィゼンティーニの銅版画を38点集めた Dario Succi著『Le prospettive di Venezia―Dipinte da Canaletto e incise da Antonio Visentini―』(Grafiche Vianello srl./VianelloLibri)では、絵の中で右岸に正面を見せるサンタ・クローチェ教会の景観を描いたこの版画は、"Prospectus ab Sede S. Crucis ad P. P. Discalceatos" と題されています。

当時、現在の絵葉書と同じように、ヴェネツィアのスーヴニールとして、ヴィゼンティーニのエッチングは売られていたのだと思います。あるオランダ人がヴェネツィアで買い求めたこの絵は長崎の平戸に到着し、豊春の眼前に現れたのです。
このことから、ヴェネツィアを描いた絵画の日本人の第1号は、鎖国時代の歌川豊春であり、彼の浮絵は、北斎の激しい日本的パースペクティヴの礎を築いていたに違いないと思われます。
追記=2009.10.24日の
《ヴェネツィアと日本との関わり(1)》でこれらの版画について触れました。
- 2007/11/10(土) 00:16:59|
- 絵画
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2000年1~3月、ヴェネツィアで初めて語学学校に入学しました。
2ヶ月近く借りたアパートは、ヴァポレットのサン・トマ(S. Tomà)停留所の、大運河の対岸真正面にある、古モチェニーゴ館(Ca' Mocenigo vecchia)でした。サン・トマ駅から見ると、左から《モチェニーゴ・カーザ・ヌオーヴァ(新)》《モチェニーゴ[この建物は実は2棟が対照形に並んでいるそうです]》《モチェニーゴ・カーザ・ヴェッキア(旧)》と3棟のモチェニーゴ館が並んでいます。

借りたのは右側のカ・ヴェッキア(Ca' Vecchia)の一部屋でした。マルコ・ポーロ空港に着いて、空港からボート・タクシーで案内され、大運河の表玄関から入館した時は、大変な感激でした。やって来るまでは、大運河に面した貴族の館に住むなどという思いは全然なかったからです。
初めてのアパート生活となると、食品等の買物その他のために周りの地理を覚えることが先ずすべき事でした。アパート生活中には、例えば鍋の蓋の摘みのねじが紛失した時、探し当てた金物屋さんにピッタリの物がありました。そして今ではその店も無くなり、ヴェネツィアの人々が土産物屋ばっかりが増えていくと嘆く気持ちが能く判ります。
学校のあるサンタ・マルゲリータ広場(Campo S. Margharita、私が参考にしている地図は、Helvetia 出版『Calli, Campielli e Canali』で、ヴェネツィア語を多用しているようです)へは、近くのトラゲット通り(calle del Tragheto o Garzoni――ヴェネツィア式綴り)から、トラゲット(伊語traghetto、渡し舟。当時700リラだったでしょうか)で渡河するのが早かったのですが、アッカデーミア橋を渡って通学しました(所要時間10分)。

それを機に、大運河に面した館のことを書いた本を買ってきて読んでみました。Raffaella Russo 著『Palazzi di Venezia(ヴェネツィアの館)』(arsenale editrice、1998)という手軽な文庫本です。
ナーポリで異端の嫌疑をかけられ、1576年に逃亡し、アルプス以北の国々(北イタリアからジュネーヴ、パリ、ロンドン、ヴィッテンベルク、プラハ、フランクフルト……)を漂浪していた哲学者ジョルダーノ・ブルーノは、1591年ヴェネツィアにやって来ます。ジョヴァンニ・モチェニーゴがそれを聞き付け、彼を自分の館に招待します。ジョヴァンニは錬金術の秘密を彼から教わりたかったのでした。
哲学者にはそれは無理なことだったので、ジョヴァンニは「Cristo è tristo.(キリストは邪悪だ)」「Niuna religione mi piace.(どんな宗教も好きになれない)」等を口にしたとして、彼は異端者だ、とヴェネツィアの異端審問所に訴え、彼はこの古モチェニーゴ館で捕らえられます。名優ジャン・マリーア・ヴォレンテ演ずる、ジュリアーノ・モンタルド監督の映画
《Giordano Bruno》(これは予告編です)がありました。ヴェネツィアの街角が出てきます。
ローマに送られ、7年の刑を言い渡されますが、《異端思想》を捨てなかった(non ha abiurato)ため、1600年2月にローマのカンポ・デイ・フィオーリ(Campo dei Fiori)広場で火炙りの刑に処されます。
初めは快く招いてくれた人間が後に豹変して、彼を死に追いやった裏切者の家の中庭に、火刑になった日に幽霊となって現れるという噂が直ぐに立ち、言い伝えとなっていると書かれています。
その日学校から帰ると、復習をしながら伊語の音声に早く慣れたいため、RAIのヴェネツィア放送を聴いていました。話者達によってジョルダーノ・ブルーノの名前が何度も繰り返されるので注意をして聞いていると、その日2月17日は彼の命日で特別番組が放送されていたのでした。

その日は深夜までワインをすすりながら、中庭(大部荒れていましたが、相当に広く、狭いヴェネツィアの土地に比し、中庭を広く持てるのは貴族の誇りなのでしょう)を凝視していたのですが、奇妙な東洋人に人見知りをしたのか、彼は姿を見せてくれませんでした。
2000年の大聖年、それも彼の死後400年回忌に、彼の運命を決定的に左右した館に滞在したことで、私は以来ヴェネツィアという町に非常に不思議な因縁を感じています。

[ブルーノ像] ローマのカンポ・デイ・フィオーリは、毎日(日曜日を除く)午前中、野菜、肉、魚などの市場が立ちます。ジョルダーノ・ブルーノは今では自分が処刑されたその広場で銅像となって、ローマ人の活気ある日常生活を眺め下ろしていますが、自分の思想は間違っていなかったと思っているに違いありません、故ヨハネス・パウルス2世(1978~2005在位)はガリレーオ・ガリレーイに下した教皇庁の判断は誤りだったと公式に認めた(1992)のですから。
- 2007/11/07(水) 00:05:39|
- ヴェネツィアのアパート
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天正の4人の少年遣欧使節、伊東マンショらが、ローマからイタリア各地を経巡りヴェネツィアに到着した1585年6月26日当時、ヴェネツィアで活躍していた閨秀詩人ヴェローニカ・フランコ(1575年詩集出版)の話は、何年か前一般上映された米映画『娼婦ベロニカ』(マーシャル・ハースコビッツ監督)で記憶されている方もあるでしょう。


[映画パンフレット] 彼女がヴェネツィアの高級娼婦だったことは、例えば Alvise Zorzi 著『Cortigiana veneziana(ヴェネツィアの高級娼婦)』(Camunia出版、1986)等に詳しく述べられているのですが、このような人が詩人でもあったことに驚嘆します。

[ガースパラ・スタンパ像] またライナー・マリア・リルケが『マルテの手記』の中で言及している、ガースパラ・スタンパ(Gaspara Stampa、1523~54)もペトラルカ風の詩を遺しました。この詩集『Rime d'amore』(1554刊)を読むのは私には余りにも難しく手に負えません。悲しい失恋の歌のようです。彼女もまた高級娼婦ではなかったかと言う人がいるそうです。
『ヴェネツィアの花形娼婦総覧』に名を連ねていたヴェローニカは、ヴェニエール(Venier)家のサロンの定期的な集いにも参加し、作家ピエートロ・アレティーノ(Pietro Aretino)や出版人パーオロ・マヌーツィオ(Paolo Manuzio、アルド・マヌーツィオの息子)などまで知り合いだったようです。

[コッレール美術館のヴェローニカ・フランコの肖像] 彼女の絶頂期は、1574年(28歳)将来フランス王アンリ3世となるアンリ・ド・ヴァロワがヴェネツィアを訪問し、彼女の元を訪ねた頃と思われます。そして天正の4人の少年使節がこの地にやって来た時、彼女は大運河を歓迎船で行進する彼らを、知り合いの貴族の館から眺めたかもしれない、などと想像します。
1580年頃、彼女は娼婦のための救護院の設立を総督に請願して、500ドゥカートを差し出したということです。
しかし彼女の願いとは別に、他の貴族夫人達の案でそうした施設が数年後作られることになったそうです。その場所とは最初、サン・ニコロ・デイ・トレンティーニ(S. Nicolò dei Tolentini)、そこからサン・ピエートロ・ディ・カステッロ(S. Pietro di Castello)へ、更にサン・トロヴァーゾ(S. Trovaso)、最終的に1593年にサンタ・マルゲリータ広場(Campo S. Margarita)のサンタ・マリーア・デイ・カルミニ(S. Maria dei Carmini)教会傍のソッコルソ運河通り(Fondamenta del Soccorso)に定まったようです。
それ故に、Soccorso(救護、救急)の地名が現在まで残っているようです。
追記=2010.09.18日~ に、ヴェローニカについて参考までにもう少し詳しく
《文学に表れたヴェネツィア――ヴェローニカ・フランコ》(1~4)を書いてみました。
- 2007/11/03(土) 19:19:42|
- ヴェネツィアの娼婦
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今年はイタリアでは、ヴェネツィアもヴィアレッジョでもカーニヴァル・イヴェントは外では出来ないと思われます。こんな事は今までなかったpescecrudoヴェネツィアのカーニヴァル 2021年こんにちは、
カーニヴァルが中止になって残念ですが…
1/21のヴェネツィアのYouTube動画をみましたがショックでした。
観光客であふれていたあのサン・マルコ広場に一羽MINA新型武漢(コロナ)ウイルスcorona virus《アトリエのつぶやき》様
コメント有難う御座います。毎日ヴェネツィア・ニュースを覗いていると、どこの町では感染者何人、こっちの町では死者何人といった動きしかなくpescecrudo新型武漢(コロナ)ウイルスこんばんは!
あのような状況のイタリアを見るのは本当に心が痛みます。
友人、知人の近況を今聞くのを躊躇しています。
実際に何かをしてあげることが出来ない現実に不安mina (アトリエのつぶやき)令和元年むさしの想坊さん、コメント有難う御座います。
丸十年ヴェネツィアに触れていたいと、関連する事のみ書いてきました。
蓄積もなく、翻訳にのみ頼ってきたのですが、売り物ペッシェクルード