イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Campo S. Stefano(S)(サント・ステーファノ広場)

最初に借りたアパート、旧モチェニーゴ館近くにサント・ステーファノ広場があります。ここではよく旅芸人の人達が芸を披露したり、歌を歌ったりして、観客を丸く集めて喝采を博していました。
サント・ステーファノ広場[ベルナルド・ベッロット画『サント・ステーファノ広場』] この広場を歩いていると、道を訊かれることがよくありました。ここはアッカデーミア方面、サン・マルコ方面、リアルト方面に別れて行くT字路のようなものなので、イタリア人も、一目で東洋人と分かる私にまで、「サン・マルコへはどの道?」などと訊いたりします。

サント・ステーファノ教会前のバール《アンゴロ》左の脇道ボッテーゲ通り(calle de la Boteghe)に入り込んで、「ステーション、ステーション?」と叫んでいた若いアメリカ青年達には、サンタ・ルチーア駅まで2キロ余りの道程を説明するのは難しく、サンティ・アポーストリ教会の前まで案内したこともありました。
con bitterそのバール《アンゴロ》には毎日夕食前の散歩で、スプリッツ・コン・ビッテル(spritz con bitter、カンパリと白ワインを炭酸で割り、オリーヴの実をいれるヴェネツィア独特の飲物。その真っ赤な色はヴェネツィア人のお好み)のために寄りました。毎日同じ時間に同じ顔がそこで出会うと会話が生まれるものだと分かりました。

この広場に、12月は mercatino という、お伽の国にある丸太小屋風のクリスマス用の小さな店が幾つも出現しますし、カーニヴァルの時は、衣装屋さんや仮面屋さんのテントの店が沢山並びます。

広場の南にはサン・ヴィターレ(S.Vidar)教会があります。現在ここは、ヴェネツィア室内合奏団(Interpreti veneziani)の定期演奏会場となっています。私が初めてこの楽団の演奏を聞いたのは、サント・ステーファノ教会ででした。
馬上の聖ヴィタリス[サン・ヴィターレ教会中央祭壇のカルパッチョ画『馬上の聖ヴィタリス』] その時は、普段は公開されていないティントレットの絵などの部屋が、演奏合間に開放されました(現在は有料で公開)。その後、サン・サムエーレ教会等での公演の後、リアルト橋の袂のサン・バルトロメーオ(S.Bartolomio)教会が彼らの常時の演奏会場となりました。現在は上記のサン・ヴィターレ教会に変わりました。

ある時、開演前に並んでいると、その教会の脇で煙草を吸っている人がチェロ奏者のダーヴィデ・アマディーオさんと気付いて、話しかけたことがありました。気さくに応じてくれて、写真に納まってくれました。
山形由美とヴェネツィアの仲間たち今年の12月2日浜離宮朝日ホールで、フルート奏者山形由美さんとヴェネツィア室内合奏団のチェンバロ奏者パーオロ・コニョラートさんとダーヴィデさんがトリオでヴィヴァルディ等を演奏しました。

演奏後、3人のサイン会があり、彼とも少し話しました。この後アメリカ公演があり、ヴェネツィアには来年2月5日に帰る、のだと。来年2008年7月には全団員での何回目かになる演奏会のために、また来日するそうです。
  1. 2007/12/30(日) 00:28:47|
  2. ヴェネツィアの広場
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Ca' Rezzonico, Museo del settecento veneziano(R)(ヴェネツィア18世紀博物館)

初めてヴェネツィアに行った時、初日に訪れたのはカ・レッツォーニコ博物館(Museo d'arte veneziana del Settecento とも)でした。この博物館には、絵画、家具、陶器、布など、18世紀ヴェネツィア生活を知るためのあらゆる物(竈から蒸留器までの日用雑器等)が収集されています。この館が完成したのも18世紀で、まさにヴェネツィア18世紀博物館です。
『レッツォーニコ館』カタログこの館の持主だったレッツォーニコ家はコーモ出身で、カンディア[クレタ島の現イラクリオン(Heraklion)]戦争の時、10万ドゥカートを共和国に寄付し、同じく10万ドゥカートを寄付したラービア家(サン・ジェレミーア教会隣)等(数家あったようです)と同様に貴族に列せられました(1687)。

カンディア戦争(1645~69)とは、当時ヴェネツィアの所有していたカンディア(クレタ島の港、ギリシア式イラクリオン)死守のためフランチェスコ・モロジーニ麾下で、24年間に渡るトルコに対する徹底抗戦のことで、《妥協なき抵抗(una vera guerra di Candia)》と言われているそうです。

1751年ジャンバッティスタ・レッツォーニコは、大運河に面した未完成のボン家の家を購入します。それは有力なヴェネツィア貴族になったことを全市にアピールすることでした。そして1758年彼の息子で、パードヴァ司教のカルロ[対岸のサン・フェリーチェ(S.Felice)運河脇のフォンターナ・レッツォーニコ館生まれ]が教皇(クレメンス13世Clemente ⅩⅢ)に選出されます。

共和国政府はその事により、この一家に《サン・マルコの騎士》の勲位を与えました。この勲位は最も古いヴェネツィア3貴族、コンタリーニ、クェリーニ、モロジーニにだけ与えられていたものでした。

更に同年他の息子ルドヴィーコが、ヴェネツィア有数の貴族の娘ファウスティーナ・サヴォルニャーンと結婚し、一家の盛名は絶頂を迎えました。1752年建築家マッサーリによって3階が付け加えられ、未完の家を新しく完成させたこの18世紀の最も豪華な館は、そのお祝いの披露のためには絶好でした。

ジャンバッティスタ・ティエーポロが、結婚を祝して描いた『結婚の寓意』という天井画が残っています。しかし一家の好運は続かず、最後の相続人アッボンディオが1810年亡くなってこの一族は消滅し、館も売却されました。所有者は転々とし、1888年にはイギリスの詩人ロバート・ブラウニングが獲得しました。しかし翌年12月12日に彼は亡くなってしまいます。

次のような彼の詩のプレートが掲げてあるそうです。
Open my heart and you will see graven inside of it Italy.(我が心を開いてみて下さい、その中にイタリアが彫り込まれているのが分かるでしょう)。

入場券を買って豪華な階段を2階に上がった最初のセクションに、ロザルバ・カッリエーラの描いた肖像画が集められていました。予期もしていなかったので大変驚いた絵がありました。それは彼女の手になるファウスティーナ・ボルドーニの肖像画でした。ヘンデルの伝記等で見知っていたものがここにあった!という感激でした。
ロザルバ・カッリエーラ画『ファウスティーナ・ボルドーニ・ハッセの肖像』[ロザルバ・カッリエーラ画『ファウスティーナ・ボルドーニ・ハッセの肖像』] 音楽史によればバロック・オペラ全盛時代、ファウスティーナはロンドンでフランチェスカ・クッツォーニと、ヘンデル(独)やジョヴァンニ・ボノンチーニ(伊)のオペラでプリマ・ドンナを争って、観客まで巻き込んで争ったほどの犬猿の仲の歌姫だったそうです。そして1727年、ボノンチーニのオペラ『アスティアナッテ(Astianatte)』(ギリシア神話、アステュアナクスはヘクトールとアンドロマケーの息子)で2人の争いは頂点に達し、最後には舞台上で取っ組み合いの喧嘩をし、観客はその《格闘劇、立回り》を楽しんだというのです。

ファウスティーナはヴェネツィアに帰国すると、ドイツ人作曲家ハッセと結婚し、おしどりでドレースデン等々に演奏旅行し、夫に見取られて亡くなったようですが、フランチェスカの方はボローニャに戻り、ボタン職人になり、貧窮の中に亡くなったということです。
  1. 2007/12/25(火) 09:43:27|
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Pinacoteca Querini Stampalia(Q)

本土(terraferma)のトゥレヴィーゾ(Treviso)県に住むダーリオさんは、ヴェネツィア人の感覚は不思議だ、と言います。サンタ・マリーア・フォルモーザ(S.Maria Formosa)教会の"formosa"は、伊語で《豊満でセクシー》の意だから、信仰の対象たる聖母マリアの形容語としては奇妙(strano)だと言っていました。

言われて辞書を見ると、formosa は《女性が豊満な、肉付き良く均整のとれた》とあります。prosperoso《ピチピチした、血色のよい》と同義のようです。

ある本ではラテン語の formusus/a =伊語 bello, grazioso(優雅で美しい)がそのまま残ったのだと書いていました。前にも引用した Giuseppe Tassini 著『Curiosita` veneziane』は、聖母を俗語的に(volgarmente)に《S.Maria Formosa》と言っていた、からだとしています。

先頃、渋谷の文化村であった『ヴェネツィア絵画のきらめき』展で展覧された絵画に登場した美女達は、全て formosa で、prosperosa でした。かつては飢饉が多発し、庶民は飢えることが多く、痩せた人が当たり前の社会だったのでしょうから、ふくよかな女性は魅力的で、女性美=豊満ということになった、という文を読んだこともあります。

ヴェネツィア共和国政府は、大運河沿いに今に残るメージョ倉庫(Depositi del Megio)を設置していたように、庶民・市民のために食糧確保には大変気を使っていたようで、この倉庫の役人は食糧量には常に目を配り、必要とあらば買い付けに船を出したり、時には強引な海賊行為にまで及んでいたようです。この共和国政府の姿勢には刮目します。

サンタ・マリーア・フォルモーザ教会にある、パルマ・イル・ヴェッキオ作『聖バルバラと諸聖人』(1510頃)の聖バルバラは大柄で、まさに formosa な感じです。その凛々しい姿はヴェネツィア女性の理想美と言われているそうです。
カナレット『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)[左、カナレット画『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』、奥にフォルモーザ教会が見える。右、パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)]
この広場の東隣の一角にクェリーニ・スタンパーリア小広場(Campiello Querini Stampalia)があり、同名の美術館があります。前述した『ヴェネツィア絵画のきらめき』展で、来日したピエートロ・ロンギとガブリエール・ベッラの絵が多数展示されました。初めてヴェネツィアに行った時ここも訪れました。

今回の日本での展覧会も楽しかったのですが、初めての時は、自分はこれを見るためにここに来たのだ、という思いが込み上げてきました。ヴェネツィアの18世紀の風俗習慣に非常に魅了されていたからでした。

この美術館には、日本の仙台で客死した、ヴェネツィア生まれの建築家カルロ・スカルパ(1906~78)が整備した美しい庭園もあります。

夕方初めて訪れた時、ロンギとベッラの絵に満喫し、1700年代のヴェネツィアに陶酔していると、閉館間近、その入場券でコンサートも聴けますよ、と言われ出席しました。

広間に満席50脚ほどの椅子が並べられるプチ・コンサートです。直ぐ前に今夜の歌手の家族達が並び、幼い男の子が「マンマ!」と手を振ると隣のおじいちゃんにたしなめられていました。

リュートに合わせてのルネサンス歌曲のデュエットは、1時間足らずで終わりましたが、こういう催し事が定期的にここではあるそうです。こうしたヴェネツィア体験がこの街へのこだわりを強めていったようです。
  1. 2007/12/20(木) 00:11:09|
  2. 絵画
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Rio tera` S.Paternian(P)

10月31日に書いたブログ《エミリア書店(Libreria Emiliana)》のところで間違いを冒していました。

サン・パテルニアーン埋立て通り(Rio tera` S.Paternian)で触れた、《アルド・マヌーツィオ2世》の碑文は、よく読めば下記の原文のようにアルド(本人)、パーオロ(息子)、アルド2世(孫)と書かれているため、リーオ・テラ・セコンドに印刷所を開いたアルドがここに引越したということでしょうか。孫のアルド2世からではなかったようです。
アルド・マヌーツィオの碑碑文「Aldo Pio, Paolo, Aldo II Manuzi, principi dell'arte della stampa nel sestodecimo secolo coi classici libri da questo luogo diffusero nuova luce di civile sapienza(アルド・マヌッツィオ、パーオロ(息子)、アルド2世(孫)は16世紀の印刷出版の王者である。この地から古典書で新しい文明の知の光を弘めた)……」。

アルドはヴェネツィアに到来する前、ラテン語・ギリシア語の教師をしていたそうで、到来後でしょうかアンドレーア・トッレザーニに、自分の著書を印刷してもらっています。

そのアンドレーアは、マインツで修業しヴェネツィアで活躍中の仏人印刷者ニコラ・ジャンソンの印刷所に弟子入りし、彼の印刷技術を習得し、さらに1480年彼が亡くなる前、彼の印刷所の活字母型などを引き継いでいたのでした。

アルドが印刷出版を手掛けたいとの意向を知って、アンドレーアが彼の後援者の一人となります。そして彼の印刷所が1494年にリーオ・テラ・セコンドにオープンしたのです。

1505年アルドが後援者アンドレーアの娘と結婚した時、彼は印刷所をこのサン・パテルニアーン埋立て通りに移したのでした。彼とアンドレーアの出版傾向は異なるようですが、妻の実家に引っ越したということでしょう。

彼の《アルディーナ・アッカデーミア》は、この地に創設されのだそうです。ギリシア語だけを使用して、ギリシア文化等を語る文化サークルです。そんなところにエラスムス(伊語Erasmo)が自分の本の出版の依頼にやって来たのだそうです。

1515年彼は亡くなります(旧サン・パテルニアーン教会には彼の死亡記録があったようです)。息子のパーオロは末子で幼く、祖父アンドレーアはパーオロが事業を引き継げるようになるまで、面倒をみたようです。そのお陰でしょう、ヴェネツィアの正統的印刷所は3代続きました。

ヴェネツィアについてのある訳本を読んでいて、Campo S.s.Filippo e Giacomo が「サンティ・フィリッポ・エ・ジャコモ聖堂前の広場」と訳されていたので、ヴェネツィアの地図を見てみました。その伊語の地図は Campo Santissimi Filippo e Giacomo(?) となっているので他の資料も探しました。

かつてゴシック様式のサンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ教会が、カノーニカ(Canonica)橋の傍に建っていたそうですが、19世紀に宗教施設としての役目が終わってしまい、この名の教会は現存しませんから、単に《サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ広場》がいいようです。

間違いを冒さないということは大変難しいことです。注意していても思い込みで書き過ぎ、つい書いた事に胡坐をかいてしまいます。出来るだけ注意深くあることに努力するしかないようです。
  1. 2007/12/13(木) 16:31:32|
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ospedale(O)(オスペダーレ=病院)

現在ではこの言葉 ospedale(ヴェネツィア語 ospeal)は、《病院》の意味で用いられていますが、かつてヴェネツィアでは orfanotrofio(孤児院)等を指す、ospizio(慈善院、救貧院、養老院、巡礼者救護所など)の意味で用いられていたそうです。ですから収容される人達は、巡礼、病人、貧者、孤児、老人、あらゆる年齢・境遇の女などと救護を必要とする全ての人が対象でした(ボエーリオ著『ヴェネツィア語辞典』より)。

こうした施設がヴェネツィアに誕生したのは939年のことだそうで、共和国最晩年頃には115の施設があったようです(ヴェネツィア人はローマ以上にカトリック的で、慈悲深かったといいます。その証拠に大変な数の教会はローマの比ではなかったようです)。施設の運営は寄進・献金などに多く頼っていたので、維持するのは大変だったと思われますが、中には遺産の中から遺言で1600ドゥカーティも寄進した人の記録もあるそうです。

こうした慈善院で後世に名を残した、四つの養育院(この訳語が使用されることが多いように思われます)が、音楽学校(conservatorio)として、ヨーロッパ中に知られることになります。即ちピエタ(la Pieta`)、メンディカンティ(i Mendicanti)、オスペダレット(ヴェ語式l'Ospitaletto)、インクラービリ(gl'Incurabili)養育院です。

収容された人々を扶養していくには、お金が掛かることは目に見えており、献金を待つのではなく、音楽で人を集めて集金出来るということが次第に分かり、収容した子供達に音楽を教えるということが始まったようです。

オペラの公演が、世界で初めて商業ベースで行われるようになったのは、1637年にヴェネツィアの新カッスィアーノ劇場から始まったそうですが、その事と養育院の音楽院化の社会的背景が何やら関連がありそうにも思われます。

特に少女の孤児達(putte)で、手芸裁縫などを教わりながら、音楽に才能ありと思われた者が音楽教育を授けられたのでしょう。オスペダレット養育院のラーウラ・ロンバルディーニという少女は、特に優秀と認められ、パードヴァのタルティーニの下にヴァイオリンの勉強に送られたそうです。

逆に外国からも、孤児ではない少女達がこれらの養育院に音楽を学びにやって来ました。ヨーロッパの音楽学校の手本にもなったのです。
ピエタ養育院のヴィヴァルディについての碑スキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)にあるサンタ・マリーア・ディ・ヴィズィタツィオーネ教会のピエタ養育院は、少女達を養育し、音楽はヴィヴァルディが指導し(1703~38)、ここの楽団をヨーロッパ随一という評判を得るまでに育てたそうです。教会右脇のピエタ通り(calle de la Pieta`)にピエタ養育院についてのプレートが掲げてあります。

サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会脇のメンディカンティ運河通り(Fondamenta dei Mendicanti)にあったメンディカンティ養育院は、本来1246年サン・ラッザロ(S.Lazzaro)島にハンセン病患者収容のために出来たのが始まりなのだそうですが、ブラーノ島出身のため《ブラネッロ》と呼ばれたバルダッサッレ・ガルッピ(1740~51)に指導されたことで知られています。

サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会隣の、サンタ・マリーア・デイ・デレリッティ教会のオスペダレット養育院では、アントーニオ・ポッラローロ(1716~43)やアントーニオ・マルティネッリ(1733~65)が長らく教師を勤めたようです。日本でも知られた音楽家(ジェラール・コルビオ監督映画『カストラート』でカストラート歌手ファリネッリに音楽を教えたナーポリのマエーストロ)ニコーラ・ポルポラ(1744~47)の名前もあります。

ザッテレ海岸通り(Fondamenta Zattere)のインクラービリ養育院は、ドイツ人作曲家ヨーハン・アードルフ・ハッセ(1733~39)、ガルッピ(1768~76)等が教えています。

引用させて頂いている『Venezia――I luoghi della musica』の著者 Aldo Bova は、歴史家は認めていないがと断わった上で、次のような挿話を挙げています。1709年ここでオルガンとチェンバロの競演が、ジョージ・フレデリック・ハンデル(Georg Friedrich Haendel)とドメーニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti)の間で行われたのだとか、あるいはそれは2年前サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場だったかも、と。

『ミサの物語』(和田町子著、日本評論社)で、フランシスコ・シャビエル(旧ザビエル)が来日するずっと前、イグナティウス・デ・ロヨラがエルサレムに巡礼行をしようとして、その船待ちのためにここで奉仕活動をしていたことを知りました。《incurabili》とは伊語で不治を意味し、この施設は元々梅毒患者用のものだったそうです。

その後、この建物は用途が転々としたようですが、現在、アッカデーミア美術館にある未展示品を展観する施設に模様替えされるという話を聞きました。既に成ったのでしょうか?

2009年追記=アッカデーミア美術館の中にあった美術学校の本拠地(sede)がこちらに移り、未展示品の展観室ということではなかったようです。その後、美術館は工事(2005.02.04工事開始)されていましたから、美術学校の跡が、展示室に変わるようです。
  1. 2007/12/06(木) 14:22:31|
  2. 音楽
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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