イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Fondamenta Zattere(Z)(ザッテレ運河通り)

NHKイタリア語ラジオ講座のゲストとして出演されたミケーラ・フォースカリさんが、ヴェネツィア人のお好みの場所にザッテレ運河通りがあるとおっしゃっていました。

かつて旅行でヴェネツィアに行った時のある晴れた正午、この通りのレストランの前に置かれた外テーブルで、レデントーレ(Redentore)教会を眺めながら昼食をしていると、鳩にパン屑を与えていた隣のテーブルの中年の仏人夫婦が、TV で見たと言って英語で話し掛けてきました。

オッカイドー(北海道)で earthquake で大きな岩が落下、バスの上に落ち、児童が沢山死んだ、と。帰国して新聞を調べてみると、イタリアに到来して直ぐに、北海道で大きな岩がバスを直撃し、小学生らが死んだという記事がありました(1994.02.10日の北海道古平町豊浜トンネル崩落事故、死者20人)、地震ではなかったようです。

その仏人夫婦とは翌日散歩中、サン・マウリーツィオ(S.Maurizio)広場ですれ違い、今度は Bonjour! と声を掛けて別れました。嬉しいですね、こういう邂逅!

加藤周一氏は1983年、ヴェネツィア大学日本語学部のアドリアーナ・ボースカロ教授から客員教授として招聘され、大学の日本語・日本文学研究所で日本文学について、1年間(実際には8ヶ月)講じられたそうです。

『加藤周一著作集』(平凡社)のある巻の月報に、アドリアーナさんが書いています。その講義期間中のある日、加藤さんとザッテレ運河通りのレデントーレ教会を前にしたレストランで話された時、加藤さんからその著書『日本文学史序説』を伊語に訳して欲しいとの要望があったそうです。そして成ったのが、大部の『Storia della letteratura giapponese(全3巻)』。

加藤さんのヴェネツィアでの1年間の記録は、奥様の矢島翠さんの目から書かれた『ヴェネツィア暮し』(朝日新聞社、1987)として出版され、その後その書が平凡社ライブラリー(1994)として再版されました。その《ライブラリー版あとがき》から興味深い事を知りました。

サン・マルコ広場のコッレール美術館に展示されているカルパッチョの、かつて『二人の娼婦』と題されていた絵が、『二人のヴェネツィア女』と画題が変わったというのです。カリフォルニア州ロサンジェルスのポール・ゲッティ美術館にある、ヴェネツィアから来たと言われていた『ラグーナ(湾)での狩猟』と題された絵が、『二人の娼婦』(その前の題は知りませんが、ジョン・ラスキンが娼婦だと言い始めたと聞きました)の上部半分であり、切り離されたものであることが判明したのです。
『二人の娼婦』カルパッチョの『二人の貴婦人』『潟での狩猟』[右、『潟での狩猟』と『二人の貴婦人』を合成] 須賀敦子さんもこの絵のことを『地図のない道』(新潮社、1999)で書いておられます。上部の絵の百合の花と下部の絵の壷がぴったり一致し、その壷に描かれた紋章が貴族のトレッラ家のものであることが分かり、婦人達は貴族に違いないとなったのです。

1999~2000年にサン・サムエーレ広場(Campo S.Samuele)のグラッシ館で、この2枚のカルパッチョが並べて展観されました。

その時の新聞によりますと、紋章はトレッラ家のものではなくプレーリ家のもので、この一家は12世紀に消滅しているため、何故カルパッチョが消滅した家系の紋章を描いたのか、新しい謎が生まれたと記し、描かれた2貴婦人の目線の先に、切り取られたに違いない、更に左半分の絵を予測していました(Casseleria 通りのフィリッピ書店の店頭にその時の新聞のコピーが、長い間貼ってありました)。

2005年の夏には、アッカデーミア美術館で彼の特別展があり、ここの所蔵の聖ウルスラの連作以外に、各地から集められた彼の作品を沢山見ました。ヴェネツィアの人々はカルパッチョをこよなく愛しているに違いありません。

私もサン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館の聖ゲオルギウス作品を見て大変感動し、以来大ファンとなり、ヴェネツィアにある彼の作品を探して歩いています。キオッジャ(Chioggia)に行った時も、真っ先にサン・ドメーニコ教会の『聖パウロ(S.Paolo stigmatizzato)』に駆けつけました。
カルパッチョの『S.Paolo stigmatizzato』[カルパッチョ画『聖パウロ』(S.Paolo stigmatizzato, 1520)] リアルト橋近くのサン・サルヴァトーレ(S.Salvador)教会にある『エメイウスでの晩餐』という絵は、2004年頃カルパッチョ作品であることが同定されたそうです。相変わらず新発見があるようです。[2011年教会に入ってみますと《同定》の張り紙が剥がしてありました。]

Arianna(A) から始めて Zattere (Z)まで来ました。充電のため1ヶ月ほど休みます。
  1. 2008/01/19(土) 15:54:12|
  2. 絵画
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veneziafilo(V)(ヴェネツィア偏愛)

初めてヴェネツィアを訪れたのは、14年前、仕事の合間にようやく休暇を取ることが出来てのことでした。

それまで外国旅行したい等考えたこともなかったのに、突如それが浮上してきたのでした。それとは《イタリア、とりわけヴェネツィア》に行くことだったのです。

イタリア語の響に魅せられて、言葉の独学をしていました。始めた当初は初心者に程よい参考書も余りなく、語学学校は日伊協会があったのですが、忙しくて通えませんでした。偏に紙の上の勉強で、1990年4月にNHKが伊語講座を始めたのは途轍もない朗報でした。

ヴェネツィア好事家になる過程の記憶を辿ると、先ずヴェネツィアの映像を見たのが、ヴィスコンティ監督の映画『夏の嵐(Senso)』です。記憶に残っている場面は、運河(rio)沿いを2人が歩く暗い場面だけでしたが、後年ヴィデオで全体を再確認しました。

モダン・ジャズ狂だった私は、ロジェ・ヴァディム監督の『大運河(Sait-on jamais…)』を4、5回見に通いました。それは見るというより、モダン・ジャズ・クァルテットの演奏を聴きに行ったと言った方が適切でした。

今でも話題になるデヴィッド・リーン監督の『旅情(Summertime)』では、ヴェネツィアの風景が鮮明で、サン・マルコ広場が初めて登場する場面は印象的、またキャサリン・ヘップバーンが運河(Rio S.Barnaba)に落下するシーンは今でも目に焼き付いています。

ジョセフ・ロージー監督の『エヴァの匂い(Eve)』にもヴェネツィアが沢山登場しましたが、ジャンヌ・モローがビリー・ホリデーの『柳よ、私のために泣いておくれ(Willow weep for me)』という唄を聴くシーンが、気に入った映画でした。

映画が、私が実際に見たことのないヴェネツィア熱を刺激してきたのですが、決定的だったのはやはりルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す(Death in Venice)』でした。映画は船がサン・マルコの桟橋に向かうシーンから始まるのです。

日本ではかつてイタリアについてTVで放映されたり、雑誌等で書かれたりするのは、圧倒的にローマやフィレンツェの方が多かった筈です。何故そんな熟知された町ではなく、ヴェネツィアに心が向かうのか、自分では明確ではありませんでした。

イタリアおたくの私は、塩野七生さんの書かれる物を手当たり次第に読み、『チェーザレ・ボルジア、あるいは優雅なる冷酷』には感動しました。しかしその後の『海の都の物語』には感動以上に興奮しました。この本が最終的に《veneziafilo(ヴェネツィア偏愛)》を決定付けた、と自分では実感しています。
『海の都の物語』正・続巻ですから、海の都ヴェネツィアに初めて訪れた時は、『旅情』のように列車で入るのではなく、中世の人々のように船でサン・マルコ小広場(Piazzetta)のS. Marco Molo(桟橋)から上陸しようとしたのでした。私に出来ることはマルコ・ポーロ(Marco Polo、テッセラTesseraとも)空港からアリラグーナ(Alilaguna)の連絡船(motoscafo)を利用することでした。

乗った船はリード(Lido)を経てサン・マルコを目指します。次第に近付くにつれて、明るく晴れ渡った海上から、初めてサン・マルコ湾(Bacino)から見る税関岬(Punta di Dogana)から総督宮殿(Palazzo ducale)に及ぶ眺めは、あまりにも魅惑的で感動的で、finalmente siamo arrivati (到頭やって来た!)という思いでした。
  1. 2008/01/14(月) 00:09:15|
  2. ヴェネツィアの街
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L'universita` degli Studi di Venezia(U)(ヴェネツィア大学)

学んだ語学学校(Istituto Venezia)の裏手になるカ・フォースカリ通り(Calle de Ca' Foscari)のフォースカリ館(ヴェネツィア大学の本拠地)のすぐ前にある書店が語学生に割引で本を売ってくれるので、何度か書籍を買いに行きました。
カ・フォースカリとジュスティニアーニ館カ・フォースカリ[ヴェネツィア大学本部のあるフォースカリ館] そんな折、大学校舎の壁面にずらりと貼り出された手書きの白いポスターの前に、沢山の人が群がっていました。そのポスターには、ヴェネツィア大学でドクターの称号を得て卒業出来る学士を祝福するために、友人達が新学士を披露するために描いた漫画チックな横顔や紹介文が書いてあるのです。

初めてこうした光景に出会ったのは、パードヴァに行き、パードヴァ大学(かつてその場所に Bo という旅籠があったため《ボ》とも呼称されます)を見学した時のことでした。

2階の見学を終えて中庭に下りた時、「ドットーレ! ドットーレ!」と学士(dottore)になった学生を褒めそやしながら2階から降りてきた学生達が、2人ずつ組になって両手を高く掲げ、手を結び合って何組かの人間トンネルを作りました。

トンネルは長い方が楽しいのか、私と妻も来い(Venite)と呼ばれ、一緒にトンネルを作りました。そしてそのトンネルの下を学士様が走り抜けるから、お尻を蹴っ飛ばすようにと言われました。

学士様は頭が秀逸なように、運動神経も俊敏で、とても蹴っ飛ばす暇などない程素早くトンネルを往き、すぐに復路を駆け抜けました。

校門の外に出ると、大学の壁一面に新学士達の横顔を描いたポスターが所狭しと貼ってあり、一人の女学士は白い水着姿一枚で、両親や親族、仲間達の前でポスターに書かれた自分の紹介文を読まされていました。相当読みづらそうにしていましたから、ある事ない事、持ち上げたり扱き下ろしたりが仲間達に創作されていたのでしょう。しかし両親は時々顔を伏せながらも大笑いして嬉しそうでした。

白い水着姿の意味は? 実は前日大聖堂(Duomo)を見て野菜広場(Piazza di Erbe)にやって来ると、7月とはいえパンツ1枚で噴水の池の水の中に入って体を洗っている若者が居ました。イタリアではついぞ見かけたことのない光景です。回りで囃し立てる若い男女がおり、一人の青年が背後からこっそり近寄り、彼のパンツを引き下ろしました。

下ろされたパンツを上げるのに大童で、彼はあがらうことも出来なかったのですが、体を洗い終ると一団の学生達は和気藹々と果実広場(Piazza di Frutta)の方に立ち去りました。するとやはり同じような一団が、月桂樹の首飾りをし、体中に泥絵具のようなものを塗り掛けられた学士様を真中に、隣の大学の方からやって来ました。白い水着姿の運命は、自ずと想像出来ます。

カ・フォースカリ大学の場合はこれほど蛮カラではないようで、月桂樹の葉で作られた丸く太い首飾りを首に下げ、両親親族と仲間達が一団となってヴェネツィアの街を練り歩いています。ある商店に入って挨拶をしている学士様を見たことがありますから、お礼参りということでしょうか。

サン・パンタローン広場(Campo S.Pantalon)の教会の前で、突然耳元で「卒業……(ha laureato‥‥)」と聞こえました。そう言う小父さんの指差す方に月桂樹の首飾りをした娘さんが仲間達と居ました。

その仲間の一人の男性が「僕は今大阪で日本語を勉強しています……」とまだ関西弁になっていない日本語で、日本語学部を卒業した女学士さんを紹介しました。私を日本人と見て声を掛けた人は娘さんのお父さんでした。

「アドリアーナ・ボースカロ教授の名前は知っていますよ」と伊語で言うと、彼女が「私の先生です」と日本語で応じました。

夕方、リアルトの近くを歩いていると、10人ばかりの行列が3人連れに減った彼女に再会し、「チャオ!」と声を掛けられ、「チャオ!」と返して分かれました。こうした再会、嬉しいですね!
  1. 2008/01/09(水) 14:08:24|
  2. ヴェネツィアの大学
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S. Todaro(T)(聖テオドールス)

総督宮殿の1階の外回りのアーケイドになっている部分を含めて、昨年10月23日にサン・マルコ小広場のかつての brolo(菜園)が、broglio と呼ばれるようになった、と書きました。

その回廊の壁側には石のベンチが設置してあります。かつて独人作曲家リヒャルト・ヴァーグナーはヴェネツィア滞在時、この小広場を散歩した時は、一番布告門(Porta della Carta)寄りのベンチ、決まってそのベンチのサン・マルコ寺院側の端の席で休息したのだそうです。
子供の誕生Istituto Venezia(ヴェネツィア学院)のマルコさんが、この総督宮殿の列柱の柱頭飾りの彫刻の意味を説明してくれたことがありました。例えば中程にポルノチックな彫刻があるよ、と示されたのは、人間の一生を描いたものでした。男女が結婚して、ベッド・インし、子供が誕生する様子等が刻まれています。
酔えるノアそんな風に各柱にはそれぞれ違った意味の彫刻が彫られているようです。パーリア橋(Ponte de la Paglia)際の宮殿の壁面にカノーニカ運河(Rio de Palazzo o de Canonica)側から桟橋(Molo S.Marco)側にかけての角に2画面が描かれていますが、その彫刻はノアの箱舟のノア家の物語(『酔えるノア』)を描出しているそうです。

サン・マルコ図書館(Biblioteca marciana o Libreria sansoviniana)に面した総督宮殿の2階の中程の開廊の手すりに、ピンク色の大理石が嵌め込まれた箇所があります。総督はその柱の間から、犯罪人などの死刑の執行を指令したのだそうです(下、開廊左手のピンクの2本の円柱)。
総督宮殿そしてこの小広場の入口に立つ2本の円柱の間で死刑が執行されたので、ヴェネツィア人は縁起が悪い、とその円柱の間は決して通らないのだそうです。国賓で来訪した外国人を迎える空間と処刑場が同じというのは、コロッセーオでの剣闘士達の死を賭しての戦いを見る(祝祭と死が隣合せ?)のに似ているのでしょうか。

この2本の円柱の中、総督宮殿側の円柱上には聖マルコを現す有翼のライオンが置かれ、もう一方の上には龍(鰐だと悪口を言う人がいます)を退治する聖テオドールス(S.Todaro)が置かれています。
2本の柱のあるピアツェッタターナー画『雷雨下の2本の円柱の見えるピアッツェッタ』 現地の本では聖テオドールスが、S.Teodoro(サン・テオドーロ)ではなく、S.Todaro(サン・トーダロ)と書かれているのは何故なのか、と思い、偶々姓名辞典を見てみました。次のこと(別称)が載っていました。

Teodoroの異体(variante)=Todaro、Todero、Totaro。 派生語(derivato)=Todarello。
Teodori(複数形)の異体=Todari、Toderi。  派生語=Todarini、Toderini。
  1. 2008/01/04(金) 14:06:47|
  2. 守護神
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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