イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

天正のローマ使節(2)[天正遣欧使節とも]

前回7月5日、彼らがサンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館に訪れた、と書きましたように、かつてはそこの中庭(chiostro)に彼らが訪れたことを記した碑があり(?)、その後別の場所に移動したことが、ルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節公記』の注記として書かれていることは帰国後に知りました。

その碑の存在は仄聞していましたので、ヴェネツィアに行った時あちこち訊ね回りました。そんな昔の些細な事を知るインフォーメーションは存在せず、旅行者としては辿り着くまでに相当時間が掛かりました。サルーテ教会左隣のセミナーリオ・パトリアルカーレ(教皇庁神学校)にある筈と教えられ、電話し、見せて貰えないかと頼み、OKを得ました。

ルイスの本の注記通り、カリタ大同信会館が1800年代に美術学校に改組された時、この碑は行き場を失い、結局近くの教皇庁神学校の中庭に移されたようです。

そこで見た碑を写真に撮って来ましたので、次に転写してみます(全文大文字、現在Uで表記されるものがVで書かれています。その他固有名詞など読み易いように変更してみました)。
天正遣欧使節の碑
  Caritas a Iapono in spe fide data remansa
Li intrepidi et illustriss. Ito Mantio nepote del re de Tiunga
nontio del re de Bungo D. Michael Ciunga consobrino del re
de Arima et dell'eccelso Bartholomeo et li invittissimi
baroni et serenissimi principali del regno de Tigen
D. Iuliano Nacaura et D. Martino Iara del Iapon
de l'estreme parte dell'altro hemispero alli V. Luglio M.D.LXXXV.
Viste le santissime reliquie di questa Scola gia lassate
per l'illustriss. et essemplariss. Card. Bessarione con
reverenza a nome delli lor reggi et suoi entrorno in
quella con giurata promessa di altra simile in questo
nome de Carita elevar in esse lor parti, et percio
a loro dal Guardian Maggior fu dona la sua cappa
con tutti altri suoi adherenti et a nome de questa
Scola in esquisito modo presentati. Il che sii a
gloria de tanta prottetrice nostra. Amen.
 M.D.LXXXV.

この碑を眺めている時、意味は丸で分かりませんでしたが、非常に感動しました。ルイスの訳書の注にも抄訳が書かれています。次に誤訳かも知れませんが意味を辿ってみます。

「日向藩主の甥で豊後藩主の教皇使節の伊東マンショ殿、有馬藩主そして大村純忠(バルトロメオ)の従兄弟の千々石ミゲル殿、肥前藩の重臣中浦ジュリアン殿と原マルチノ殿は、1585年7月5日裏半球の極地日本から来訪し、ヨハンネス・ベッサリオン枢機卿の遺贈されたこの同信会館の聖遺物を拝観。藩主と彼らの名においてカリタの名を高からしめるために、同じ名の同信会館を彼らの地にも建てることを誓約。それ故大修道院長から提供のマントと付属品一式が同信会館の名の元に彼らに贈呈。我らが守護聖人の栄光がありますように。アーメン。1585年」

伊文化会館の図書室で、20数巻の『伊国語辞典』で entrorno 等調べましたが言葉が見つからず、Giuseppe Boerio 著『ヴェネツィア語辞典』にもありません。訳意の間違っていないことを願うだけです。
  1. 2008/03/28(金) 18:07:56|
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天正のローマ使節(1)[天正遣欧使節とも]

初めてヴェネツィアを訪れた日本人は、天正時代(1573~92)の4人の少年(青年)達、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノとそのお付の人々だったことはよく知られています。
『カトリック大辞典』で彼らの足跡を辿ってみます。

リヴォルノに1585年3月1日上陸、ピーザ、フィレンツェ、シエーナ、ヴィテルボ、バニャーイア、カプラローラを経てローマに到着、グレゴリウス13世(Gregorio ⅩⅢ)に拝謁しました。直後教皇が亡くなり、コンクラーベを経て選出されたシクトゥス5世(Sisto Ⅴ)にもお目通りが叶い(その間2ヶ月強)、その後イタリアを旅しながら帰国の途に付きます。
[グレゴリウス13世は、現在も世界で使用されている暦の制定者で、1582年10月4日(木)の翌日を10月15日(金)と10日を省き調整したことで知られています]

チヴィタ・カステッラーナ、ナルニ、スポレート、モンテファルコ、フォリーニョ、アッシージ、ペルージャ、カメリーノ、トレンティーノ、マチェラータ、レカナーティ、ロレート、アンコーナ、セニガッリア、ファーノ、ペーザロ、リーミニ、チェゼーナ、フォルリ、イーモラ、ボローニャ、フェッラーラ、キオッジャ、ヴェネツィア。この最後の町には、ローマ以外では一番長く9日間逗留しました。

その後パードヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、マントヴァ、クレモーナ、ローディ、ミラーノ、パヴィーア、ヴォゲーラ、トルトーナ、ノーヴィ、ガーヴィ、ジェーノヴァ。ここから船でスペインに向かいました(1585年8月8日)。

彼らがヴェネツィアに到来したのは1585年6月26日でした。彼らの行動のあらましを『九州三侯遣欧使節行記』(ルイス・フロイス著、岡本良知訳注、東洋堂、1942)から抜粋してみますと次のようです。

6月26日=誓願修舎の客室に一泊。夜、教皇使節来訪。
6月27日=ヴェネツィア総大司教、ドイツ皇帝大使及び諸国の大使・貴顕の来訪。市内数ヶ所の聖堂を訪問。
6月28日=総督ニコロ・ダ・ポンテ(当時95歳)の謁見式が総督宮殿で。日本服1着、刀1振、短刀1振贈呈。その後、武器室、第十参議会[十人委員会の事?]室、宝庫を参観。昼食後ムラーノ島のガラス工場を見学。
6月29日=この日は聖ペテロと聖パウロの祝日であったが、毎年聖マルコの祝日(6月25日)に行われる習わしであったヨーロッパでも著名な豪奢な行列がこの日に延期された、それを参観。
ジェンティーレ・ベッリーニ画『サン・マルコ広場の祝祭行列』部分[ジェンティーレ・ベッリーニ画『サン・マルコ広場の祝祭行列』(部分)]
6月30日=大会議室にて歓迎会。
7月1日 =教皇使節の宴会。 
7月2日 =聖母御訪問の祝日でミサを聞き、天主堂で聖体拝領。
7月3日 =造船所、リードの2城塞を訪問。
7月4日 =政庁に告別に赴く。大会議室に彼らの姿を記念に残すことになり、ティントレットに描かせた(マンショの物だけが完成したが、いまだ未発見)。昼食後政庁は一行に贈物をした。
[2014.10.19日追記: 大ティントレットの息子ドメーニコが描いた伊東マンショの肖像画が、2014年3月イタリア北部の個人コレクションで発見されたそうです]

「高価な象牙製の十字架4個、美麗に彩色された鏡4面、立派な種々の硝子器の入った美しい函(硝子器が500個以上)、濃紅色天鵞絨の織物2反、グラン染織物2反、濃紫色琥珀織物2反、繻子2反、金襴の織物2反(1反は濃紅色、他は薔薇色でヴェネツィアで最も珍重される絹地であり、色合いであった)、金襴錦織物2反」。

7月5日 =サンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館を来訪、ヨハンネス(希語式バシレイオスBasilios)・ベッサリオン(羅典語式Johannes Bessarion――伊語式ジョヴァンニ・ベッサリオーネGiovanni Bessarione)枢機卿の残された聖遺物を拝観。ヴェネツィアを発つ。

使節が贈られた《美麗に彩色された鏡4面》とは、当時ムラーノ島でしか作れなかった平面鏡のことだそうです。
[後にフランス人は何十年もかけてムラーノの職人を引き抜き、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間を完成することが出来たと言われています。]

《金襴の織物2反(1反は濃紅色、他は薔薇色でヴェネツィアで最も珍重される絹地であり色合いであった)》とは、前回に書きましたヴェネツィア人の《赤》好きの、正にその色合いではなかったかと想像されます。当時香辛料貿易が落目になったヴェネツィアの輸出品としては、ヴェネツィア製の高級織物、絹織物や毛織物、綿織物が地中海世界で持てはやされていたという記述を目にしたことがあります。

NHK教育テレビのイタリア語講座は、4月からは講座が展開する町がヴェネツィアだそうです。毎回この町の風景が楽しめるようです。
伊東マンショ像[サイトから借用] 近年伊東マンショの肖像画が発見されました。左の絵がそれだそうです。
  1. 2008/03/21(金) 22:39:23|
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ヴェネツィアの濃紅色

ヴェネツィアを撮った、かつての名画『旅情』の中で、キャサリン・ヘップバーンが真っ赤なゴブレットを映写機に収めようと、背後を確かめようともせずに下がっていき、運河に落ちた広場はサン・バルナバ広場ですが、当の赤い酒杯はヴェネツィアの伝統的な形ということではなく、この映画のためにデザインされたものだと聞きました。

しかしあの真っ赤な色は、ヴェネツィア独特の色のようです。ヴェネツィアに行くようになって思ったことは、ヴェネツィアの人は、あの鮮烈な赤をこよなく愛しているように見受けられることです。

例えば、コンメーディア・デッラルテの登場人物の一人、パンタローネは真っ赤な衣服に黒いマントを羽織るヴェネツィアの商人の役柄です。仮面を着けてもその衣装で彼と直ぐ分かります。あの色はヴェネツィアの象徴ということでしょうか。
パンタローネ[パンタローネ]  赤が目に映える色だということもありますが、ヴェネツィア関連の書物を繙読しながら、絵などの図版を見ていると、赤い衣服の男女の姿が数多く目に飛び込んできます。

サン・マルコ広場近くのヴァラレッソ通りの《ハリーズ・バー》のオーナーのチプリアーニ氏が考案した、薄切りにした生の赤い牛肉を、付け合せのコントルノの上に並べ、白いパルミジャーノ・レッジャーノをあしらい、オリーヴのドレッシングで味付けした料理は、日本でも牛肉の代わりに鮪の刺身で代用させた《カルパッチョ》の名前で知られていますが、これもヴェネツィア人の《赤》好きから来ているのではないでしょうか。

アッカデーミア美術館に行くと、最後の方にカルパッチョの部屋があります。聖ウルスラ伝等の一連の作品が展示されています。中央のソファに腰を下ろすと丸1日でもここで過ごせそうに思ってしまいます。これらの赤を基調にした絵が、料理《カルパッチョ》の発想の原点ではないでしょうか。

美術館は現在工事中です。隣接の美術学校は、旧インクラービリ養育院の修復が終り、本部をそちらへ移動しています。そのあと空いた場所は美術館用として利用されるのでしょうか。
con bitter夕方になると、街の人々は散歩に出ます。あちこちにあるバールやバーカロに立ち寄ります。オンブラ(ワイン)やスプリッツ(カクテル)のはしごをする人は多いようです。スプリッツ(spritz/spriz)にはカンパーリ、アペロール、セレクト(セレとも)、チナール等とのカクテルがあります。全て真っ赤な色です。この飲物はミラーノやフィレンツェ、ローマでは見掛けませんから、ヴェネツィア独自の飲物ということでしょう。

ヴェネツィアは1866年までオーストリアに支配されていました。spritz という言葉はもしかしてドイツ語の《ワインをソーダ水で割った物(spritzer)》から来ているのでしょうか? そこにヴェネツィア人の嗜好が入り込んでこうしたカクテルが生まれたのかもしれません。アルコール拒否症の人にも同じ体裁の真っ赤な飲物が用意されています。

この赤色について伊語を調べると以下のようになりました。
名詞: carminio(カーマイン、洋紅色) chermisi、cremisi(濃赤色、臙脂色) cinabro(朱色、バーミリオン) porpora(真紅色、緋色) vermiglio(朱色、鮮紅色)
形容詞: amarena、paonazzo、purpureo、scarlatto(真紅の、緋色の、深紅色の) bordo`、rosso bruno、vermiglio(朱色の、鮮紅色の) vinato、vinaccio(ワインレッドの)
ヴェネツィア語 cremese(クレーメゼ)=伊語 chermisi(ケルミーズィ)、cremisi(クレーミズィ)
  1. 2008/03/13(木) 18:50:07|
  2. ヴェネツィアの色
  3. | コメント:0

騎士道

ヴェネツィアの、とあるホテル。朝食を終え、レセプション横のサロンで休憩していると、日本人の若夫婦が入ってきました。深々とソッファに腰を下ろすと、彼女はやおら膝に置いた美麗な箱から化粧道具を取り出し、注目を得るように顔のメイクを始めました。彼はそれを眺めています。

そこに中年の外国人女性3人が入ってきました。それを目にするやギョッとした風で何やら囁き合い、何か不潔なものでも見たかのように3人とも直ぐさま、顔を顰めて踵を返してしまいました[外国では人前で化粧をするのは、売笑婦の、男の気を引く行為とされています]。

同じホテルで。エレベーターに乗ると、後ろから壮年の日本人夫婦が乗り込んできました。部屋の階で止まると、長身の夫は胸を張って大股で先に降り、ドンドン進みます。小柄の妻は2メートルほど後ろから俯きかげんに小走りに追っ掛けていきました。

他の場所で見かけたことです。初老の外人夫婦がある入口に近付くと、良人は先に急いでドアを開け、(押さえている必要はないのですが)配偶者が通り過ぎるまでそれを手で押さえていました。彼女が中へ入るや、ドアを閉め、後から彼女の腕を捉え、手を組んで入っていきました。日本人男性にはとても出来ない事だと思われました。

ヴェーネト地方のヴィチェンツァからバッサーノ・デル・グラッパへバスで行った時、途中のバス停から高校生位の青年が2人乗車してきました。次の停留所で老婦人が乗ってきました。件の若者達は前の方に座っていたのですが、直ぐに立ち上がり、彼女に席を譲りました。

暫く先の駅で彼女が降りようと立ち上がると、直ぐに1人が彼女に手を貸し、もう1人は下車して待ち、彼女が降りてくるのに手を差し出していました。感動しました。終ぞ日本では目にしたことのない光景だったからです(知り合いだったようには見えませんでした)。

ヴェネツィアではヴァポレットが fermata(停船場)に着くと、船の車掌が先に下りて駅名を言ったり、「下がってますから、注意して下さい(Attenzione, bassa, bassa!)」等声を掛けます。彼に手を取って貰いたい(?)老婦人は昇降時直ぐ彼の前に立ち、手を添えて貰います。そうでなくとも、杖を突いたような老婦人には彼が手を貸すのは極当たり前の光景です。

老人は男としての誇りがあるのでしょう、車掌が手を貸す様子は見たことがありません。

この2月、異常渇水時は、浮船になった停留所が激しく水位が下がり、桟橋と繋ぐ、渡しの板の角度が30度近い急斜面になり、ヴェネツィアに多い足の悪い老人達には危険極まりない状態でした。流石に、その時間帯(夕方の散歩に出掛ける時間に合致)停留所には老人の姿がありませんでした。
  1. 2008/03/07(金) 17:53:41|
  2. 騎士道
  3. | コメント:0

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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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