イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

第30回「Su e Zo per i Ponti(橋を上ったり下りたり)」大会

ヴェネツィア史の中では比較的近年に始まった行事で、この(2008年)4月13日(日曜)に行われた《Su e Zo per i Ponti》という行事があったそうです。Zo(ヴェネツィア語)は伊語の giu` の意味ですので、ヴェネツィアの太鼓橋を昇ったり降りたりする、言わば歩行者天国のイヴェントのようです。大量の観光客に襲来された町から、また違った景色を取り戻したいという試みでしょうか。
「橋を上ったり下りたり」大会市の年間行事予定のパンフレットはこの項について次のような歴史を述べています。
初回の《Su e Zo per i Ponti》はエウログループのTGSと Venetiadi の主宰で、1975年に行われました。その後各種の団体が組織に加わり、この催しは続行されることになりました。

[エウログループTGSとは、北東イタリア・サン・マルコ・サレジオ会創設のグループであり、サレジオ(Salesiano)会は、1845年聖フランソワ・ド・サル(Francesco de Sales)を守護聖人として、聖ボスコ(Don Bosco)がトリーノに創った修道会だそうです]

競争ではないこの催しは、若い人、家庭・学校のより幼い人達まで含め、スポーツをする人・しない人もヴェネツィアの道(calli)を快く歩くことで、友情と連帯感の中で結ばれるという理想の下で続いてきました。

その後民間伝承研究グループや音楽家グループの参加もあり、その光景はサン・マルコ広場を始め、他の空間も活気あるものにしてきました。

今年で30回目を迎え初心に立ち返り、リフレッシュされる祝祭と楽しさに満ちた一日となることでしょう。平均1万~1万5千人の参加者、600人以上のヴォランティアがコースに沿って、色々サーヴィスを提供します。

何千というチラシとポスターがヴェーネト各地、イタリア全域に配られました。

沢山の人達、現協力者ジャンフランコ・マンドゥルッザートのような熱狂的な人達のお陰で、この催しは大喝采を博し、それが国民的レヴェルであることは、各メディアに現れる関心のほどで証明されています。

ヴェネツィア市は、今ではこの催しを、最重要の伝統行事である《レデントーレの祭》や《歴史的レガッタ》等と同様に、毎年のヴェネツィア行事の中でも大切なものと位置付けています。

催しに相応しいメダル等の賞牌以外に特別の賞が学校や多くのグループ、民俗的団体のために設けられました。この大会の最大の目的は慈善です。

どういう道がコースになったのでしょうか。ご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。私も一度見てみたいと思っています。
  1. 2008/04/25(金) 18:18:39|
  2. ヴェネツィアの行事
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天正のローマ使節(5)[天正遣欧使節とも]

ブレンタ川(運河)河畔に建つ、アンドレーア・パッラーディオら建築家の手になるヴェネツィア貴族の瀟洒な別荘などの建物を見学に、ブルキエッロ号という船でヴェネツィアのサン・ザッカリーア桟橋からパードヴァまで行ったことがあります。

船はフジーナの運河口から内陸を遡行します。水面にまで達する柳(salice piangente)の垂れる運河を昇っていくと、最初にレオナルド・ダ・ヴィンチ考案と言われるモランザーニ閘門が行く手に現れます。その構造とは:
「……一種の貯水池を設け……水門を利用して……水を貯め……それを放流するようにしつらえ、船が下流から上がって来ると、このところで一定の仕切りの中に入れ、水門を閉じて徐々に水を入れて水位を高め、それが上流の水位と一致するまでになると、船は平らな水面を上流に向って送り出され、反対に上流から来た船は水をいっぱいにした仕切りの中に入れられ、水門を開きつつ徐々に水を放出して水面を下げ、これに応じて次第に高度を下げた船は、下流の流れと水面が一致したとき下流にむけて送り出される……」

『デ・サンデ 天正遣欧使節記』(1590年マカオ刊、新異国叢書5、泉井久之助、長澤信壽、三谷昇二、角南一郎訳、雄松堂書店、昭和44年9月30日)は、この閘門を上記のように説明しています。天正使節達はこの運河を遡ってヴェネツィアを後にしたのでした。その後パードヴァで3泊し、次の町ヴィチェンツァには7月9日に到着しました。

当時ヴィチェンツァは、アンドレーア・パッラーディオ(1508~80)の設計になる世界初の屋内劇場テアートロ・オリンピコが開場し、記念行事でソフォクレース作『オイディプース王』の公演等が行われている最中だったそうです。
テアートロ・オリンピコの図録[テアートロ・オリンピコの図録] パッラーディオは1580年劇場の建設が始まるや亡くなり、建設は設計図を持っていた息子のスィッラと弟子のヴィンチェンツォ・スカモッツィによって進められました。

現在残っている、背後の舞台装置はパッラーディオの物ではなく、スカモッツィが悲劇『オイディプース王』舞台のためにギリシアのテーバイの町並みを設置したのが評判がよく、そのまま現代まで残ったのだそうです。
オリンピコ劇場舞台[オリンピコ劇場舞台] 天井には青空、白い雲が描かれて、座席に座るとまるで屋外劇場の雰囲気です。この青空の絵もパッラーディオの物ではなく、1914年に付け足されたものと図録にあります。

4人の使節の絵が残されていると聞き、劇場を訪ねたのです。舞台のあるホール前室の天井直ぐ下にモノクロのフレスコ画が数点ありました。初めて見た時はどれが彼らの物か全然分からなかったので、係の人に聞きました。その絵の説明文のような一節が『デ・サンデ 天正遣欧使節記』にあります。
天遣歐使節[追記(2010.05.11)=劇場での4使節] 「……この都のある劇場へ、この都のほとんどすべての貴紳・貴婦人がわれわれのために集まって下さった光景を見て感じたわれわれの不思議なほどの喜びである。この劇場では学士院会員と呼ばれる博学の士によって、悲劇や喜劇やその他の劇が豪奢に、またきらびやかに、民衆の観覧に供するために演出されるのが常である。われわれはここで丁重な歓迎を受け、各種・各様の実に快い交響曲を聞いて、大いに心を楽しますことができた。……」(『デ・サンデ 天正遣欧使節記』より)

翌日には使節達は、ヴェローナに向かい、その地で3泊します。そして7月13日にはヴェローナを発ち、ヴェネツィア共和国に永遠の別れを告げました。
  1. 2008/04/18(金) 20:57:25|
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天正のローマ使節(4)[天正遣欧使節とも]

日本人と一番最初にダンスをしたヴェネツィア人とは?、それは天正の4使節がリヴォルノに上陸するや、ピーザのお城での歓迎の夜会に招き、その夜舞踏会を催し、最初に伊東マンショと踊ったトスカーナ大公妃ビアンカ・カッペッロ(1548~87)です。彼女はバルトロメーオ・カッペッロというヴェネツィア貴族の娘でした。
[ピーザの街を歩き回った時、ガリレーオの生家を見付けた時の感激は忘れられません。]

10代の時フィレンツェの青年と駆け落ちした彼女が、大公妃まで上りつめた経緯は、塩野七生さんの『愛の年代記』(新潮文庫)に詳しいのですが、私はリアルト橋に近いストゥーア小広場(Campiello de la Stua)にアパートを借りていた時、毎日のように彼女の生家(モリーン・カッペッロ館 Pal .Molin-Cappello)を眺めながら、行き来したのでこの館には思い入れがあります。

日本の本で彼女の事を、「公妃ビアンカはただ者ではない。……まんまと公妃を追い出して大公妃の座を獲得した一世の妖婦であった」と紹介している本があるのですが、「公妃を追い出して」と事実無根[公妃は病弱で早く亡くなったそうです]と思われる事が書かれているのは残念でなりません。
鳥瞰的リアルト橋[空から見たリアルト橋]  彼女の生家への道は、先ずリアルト橋から左河岸通り、ワイン河岸(Riva del Vin)を下方に行きます。突き当たりまで行き右へ曲がり、トラゲット(Tragheto)という名のソットポルティコ(sotoportego)を抜けると、サン・スィルヴェストロ(S.Silvestro)広場に出ます。

広場を左前方に向かって横切り、ルガネゲール(Luganegher=腸詰製造人)通りを通過すると、サンタポナール(S.Aponal――伊語では Apollinare)広場です。広場と同名の教会の前を直進し、ポンテ・ストルト通り(Cl.del Ponte Storto)、またの名ビアンカ・カッペッロ(Bianca Cappello)通りを通り過ぎるとストルト橋(捩じれ橋)に出ます。

ストルト(storto)は《捩じれた、歪んだ》の意味です。かつてヴェネツィア118ヶの島内でそれぞれに機能していた道と、後に隣り合った島同士の道を便宜的に結ぶために架橋したので、真っ直ぐでない橋が多く、橋には全て名前が付いているようですが、この名称の橋が各所に存在します。

この橋の頂上で進行方向右の、運河(Rio de le Becarie)の前にある建物がビアンカの生家です。取り立てて美麗という訳でもないこの建物に、今では名状しがたい懐かしさを覚えます。
友人から来たビアンカ・カッペッロの生家の絵葉書[ストルト橋の背後にビアンカの生家モリーン=カッペッロ館] 数年前、医者や病理学者等の専門家が、メーディチ一族の墓を暴き、49の遺体の骨格や死因等を調査するプロジェクトが始まったとヴェネツィアの友人が教えてくれました。現在その事についての翻訳書も出版されています。『メディチ家の墓をあばく』(ドナテッラ・リッピ、クリスティーナ・ディ・ドメニコ著、市口桂子訳、白水社、2006.6.30)です。

そして2006年12月24日、イタリアの Il Giornale 紙にその調査結果が発表されたことを友人が教えてくれました。その記事を訳している人のブログが見つかったので、載せてみます。http://chiacchierona.blog78.fc2.com/ メディチ家、フェルディナンドの陰謀(1月17日付)

フェルディナンドの兄毒殺の事を知った今では、フィレンツェに行ってもサンタ・トリーニタ(S.Trinita――伊語 S.Trinita` とするのは誤り)橋向こうのマッジョ通り(Via Maggio)中ほど右のビアンカの家(入口内部に碑があります)を再訪することはあっても、フェルディナンド1世騎馬像の立つサンティッシマ・アンヌンツィアータ(SS.Annunziata)広場には足を向けたくない思いです。
  1. 2008/04/11(金) 00:11:14|
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天正のローマ使節(3)[天正遣欧使節とも]

4使節達が6月29日に見た行列は、ヨーロッパでは非常によく知られたもので、その上その日に行われたものは近年見たことのなかったと言われるほどの、豪華に飾り立てられたものだったそうです。それがどんなものであったのか、アッカデーミア美術館にあるジェンティーレ・ベッリーニの『サン・マルコ広場の祝祭行列』(Processione in Piazza San Marco)を見て、その片鱗を窺ってみるしかなさそうです。
ジェンティーレ・ベッリーニ『サン・マルコ広場の祝祭行列』本来その行列は、聖マルコの祝日(6月25日)に挙行される習わしであったそうですが、使節の到来に合わせて、この日に延期されたということです。

その行列の参観に先立って、サン・マルコ寺院では大ミサがあり、そこで演奏されたのはサン・マルコ寺院の第1オルガン奏者で作曲家のアンドレーア・ガブリエーリが、使節歓迎用に作曲した『四つの合唱隊による16声のグローリア(Gloria a sedici parti, con quattro cori separati)』(1587年刊)という大曲だったそうです。

サン・マルコ寺院は、内部のギリシア十字の構造により合唱席を院内各所に配置出来ることから音楽のステレオ効果を生み出すという、当時盛んだった分割合唱唱法を生み出した寺院だったそうですから、彼らは院内に木霊するその諧調をどう受け止めたのでしょうか。

私自身、未だにこの曲のCDを未発見です。旧聞に属しますが、東京・東久留米の聖グレゴリオの家で彼らに因むコンサートの最後でこの曲が演奏されたという話を聞きました。

少し古い事典等ではガブリエーリの没年について、1586年の暮に作曲に全精力を注ぎ、力尽きたかのように亡くなったとしていますが、最近ヴェネツィア古文書館の調査で分かったのでしょう、1585年8月30日とする研究書(1988年刊)がミラーノで出版されたそうです。

現在でも使われている、いわゆるグレゴリオ暦の制定者である教皇グレゴリウス13世は彼らに会った直後1585年4月10日、ヴェネツィア総督ニコロ・ダ・ポンテは7月30日、アンドレーア・ガブリエーリは8月30日に亡くなっているのが、何故か不思議な感じです、天正の遣欧少年使節に会うことを心待ちしていたような。

サン・マルコ寺院(Basilica di San Marco)は、828年ルースティコ・ダ・トルチェッロとブオーノ・トリブーノ・ダ・マラモッコというヴェネツィア商人がアレクサンドリア(Alessandria)から密かに福音書記者聖マルコの遺骸を持ち帰ったことを受け、サン・マルコ寺院が建立されました(829年)。

976年焼失、978年再建されましたが、現在の姿は総督ドメーニコ・コンタリーニ(1043~70)時代の物だそうです。

聖マルコの遺体は、829年以来盗まれるのを恐れて度々隠し場所が変更されたのだそうですが、1094年以後隠し場所が不明となっていたところ、1811年5月7日祭壇の下に埋められていることが分かり、1094年に埋葬された遺体と同一であることが証明されたそうです。

この教会はサン・マルコ寺院の名称で呼ばれることが多いようですが、本来は総督の私設の教会として造立され、教皇庁配下の司教座のある大聖堂(duomo)は、東の果てのオリーヴォロ(Olivolo=オリーヴの樹が沢山あったのでこの名があるそうです)の島にあったサン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂でした。

ヴェネツィア共和国が1797年に滅亡し、ヴェネツィア総督が存在しなくなった後、1807年サン・マルコ寺院に司教座が移され、サン・マルコ大聖堂となりました。
  1. 2008/04/04(金) 22:51:33|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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