イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

小林惺先生

『山猫(Il Gattopardo)』(ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ著、小林惺訳、岩波文庫、2008.03.14刊)を読了しました。この事に関連して、ちょっと触れてみたいと思います。
『山猫』小林先生のサイン[先生のサイン] この作品は何年も前にルキーノ・ヴィスコンティ監督の手によって映画化され、よく知られていますように、リソルジメント時代のスィチーリア島の一貴族の物語です。

私は以前、日伊協会の伊語購読の授業を受講していました。当時の講師の先生は、この本の訳者の小林惺先生でした。先生は講義中、この作品を伊語から直に訳して出版したい、とよくおっしゃっていました。事実この作品は、かつては仏語訳されたものから佐藤朔氏が日本語訳されたものが、出回っていました。

今年2月ヴェネツィア滞在中に、先生がお亡くなりになったことを帰国して知りました。先生は病床でこの本の校正を続けられ、全校正を完了された翌日に息を引き取られたと聞きました。ご冥福をお祈りいたします。

かつては伊語の翻訳物は、伊語から直に訳出されないことが間々あり、例えばルイージ・ピランデッロの『ピランデルロ名作集』(白水社、1958.08.10刊)の訳者は、岩田豊雄、内村直也、諏訪正、中田耕治、梅田晴夫と伊文学者は皆無です。ようやく伊語から日本語訳が普通に出る時代になったということでしょうか(『ピランデッロ戯曲集』Ⅰ・Ⅱ、白澤定雄訳、新水社、2000.04刊、という新訳が発刊されています)。

先生が大学を辞められ、日伊協会も退かれた後、受講生達は一年に一度先生を囲む食事会をイタリアン・レストランで続けてきましたが、残念ながら今ではそれも叶いません。

今では相当以前のことになりましたが、長い間ヴェネツィアで絵を描いておられた別府貫一郎画伯が帰国された時、オリヴェッティ社のCM誌『SPAZIO』誌上で、陣内秀信先生が聞き手で対談された記事が載ったことがありました。

その対談の中で、陣内先生がヴェネツィア留学中の70年代、サン・スィルヴェーストロ(S.Silvestro)停留所近くのカ・バルヅィッヅァ(Ca' Barzizza)という13世紀頃の建物に住まわれていた画伯の所に、3人の留学生小林惺先生、浜田信次氏、陣内先生が集まってよく酒盛りをされたのだ、と陣内先生が語っておられました。

小林先生との食事会の時、その対談の事を先生に尋ねると、「私も出る予定だったんですが、急用が出来て、全て陣内君に任せたんですよ」とのことでした。ヴェネツィアへの興味が高まっていったのは、陣内先生の建築・ヴェネツィア関連の御本やTV等での御講演、小林先生のお話を伺ってのことでした。

この『山猫』の文章を読んでいると、先生の授業が彷彿とされ、先生の訳例を聞いているような感に囚われましたが、それとは別に、先生が出版したいとおっしゃっていた2冊の本の一つが『イタリア文解読法』(大学書林、平成13年3月10日刊)として結晶しており、繰り返し読みながら、イタリア文と付き合っています。
  1. 2008/05/30(金) 18:17:07|
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イタリアの食品

リアルトの魚市場にしろ、野菜市場にしろ、日本では見たこともない食品に出会うと興味を掻き立てられます。
ペスケリーア魚介類市場《ペスケリーア》。写真左に野菜市場が広がっています。対岸のサンタ・ソフィーアから渡し船のトラゲットで買い物に通いました。乗船時は座らないのが町の習慣です。

蛸(polpo)はイボが2列のものを言いますが、1列のものもあって folpo と言うのだと魚屋のジャンニが教えてくれました。不思議な物が八百屋の屋台に並べてあり尋ねると、puntarelle と教わり、料理法も教えられ、買ってみました。不思議な食感なので、山菜好きの日本人は、イタリア人の味覚も日本人に似ていると思ったことでした。
puntarelle[プンタレッラ(複数puntarelle)、サイトから借用] リアルト市場で見たアルプス産の茸の話を語学学校ですると、オーストリア人受講生は、イタリア人は泥棒だ、と非難しました。店頭のオーストリア産の茸は正式に輸入されたものでしょうが、オーストリアに山荘を持つイタリア人は、彼の地の山には茸がふんだんにあると、涎をたらしそうに言っています。

新聞を整理していると、物価上昇について度々言及されています。逆に家電製品等値下げになった物もあるようですが、食品等の値上げは家計に響きます。

果実と野菜に関してだけでも、年間50ユーロの出費増になると言っています: 昨年比、果実6.7%増(最高ミカン11.5%up)、野菜13%増(最高ズッキーネ27.5%up)。魚も同様です(最高鱈29.5%up)。

そんな中で新聞は言っています。安い野菜がスペイン等から輸入され、残留農薬が問題になっている、と。更にリンゴ、豆類そしてトマトまでが中国から安く輸入され、市場を席巻し始めているというのです。

中国の安い織物が輸入され、イタリア随一の織物の町トスカーナのプラートの町半分もの織物業者が廃業に追い込まれたというドキュメントは、数年前NHKテレビで放映されました。フィレンツェの友人はあまりにも中国人が多くなり、彼らのためにイタリア語講座がテレビで始まったと語っていました。

中国人は働き者なので、夜遅くまで働き、物やサーヴィスを安く提供しようとしています。ヴェネツィアでも、サンタ・マルゲリータ広場の語学学校下の、休憩時間にコーヒーを飲んだバールは中国人経営に変わるなど、中国人経営が目に付くようになりました。中華料理店も増えました。リアルトの古い中華の店はヴェネツィアに行く度に顔を出すので知り合いになりました。中華料理はイタリア料理に比べてかなり割安です。

スーパー等には沢山の種類のトマトの缶詰・瓶詰めがあり、選ぶのが大変でした。日本で買うトマトの缶詰等の中身は原産国イタリアと記してありますが、南イタリアの太陽の光を燦々と受けた、全て丸ごと made in Italy なのでしょうか。お土産に買ったスーヴニールが、made in China(伊語Cina)ということは大いにありそうです。
  1. 2008/05/23(金) 09:55:53|
  2. 食品
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「Su e Zo per i ponti(橋を上がったり下ったり)」大会(2)

ヴェネツィアで手にした新聞を整理していたところ、《Su e Zo per i ponti》の2004年の記事が見つかりました。それを読むと前に書いたものより、イメージがより鮮明になりましたので訳してみます。

「2004年3月28日の Su e Zo per i ponti への参加者が求められている。競争ではなく慈善を標榜する歩行に、過去の大会への1万を超す参加者に比し、現在(3月18日)やっと登録者が3千人に達したところ。大会事務局によれば、去る3月11日のスペインのマドリードでのテロ爆発と例年のカーニヴァルの悪天候が原因だという。

大会委員長ジャンフランコ・ロチェッリ氏は、《今年の大会テーマは『微笑みながら歩こう』》と名付け、《平和文化の促進を目指す》と語っている。

8時サン・マルコ大聖堂でのミサに始まり、9時半国旗等の掲揚式[かつてサン・マルコ広場を散歩中、大聖堂直前にある3本の旗竿から国旗等3旒の旗が、喇叭手の演奏とともに降下される儀式に遭遇したことがありました――サン・マルコ広場の時計の塔の修復完成時]、続いて白赤緑の服装の少年達によって3脚の点火台に火が入れられ、空に平和祈願のメッセージを込めた風船が放たれる。

ピアッツェッタ桟橋(Molo)から10時に出発し、14時にはサン・マルコ広場に最終歩行者が到着することで終了する。

コースは町の文学に関連した場所を経ながら、12km に渡って全市をあちこち経巡る。
場所: スキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ広場(Campo Ss.Giovanni e Paolo)、ミゼリコルディア(Misericordia)広場、ヌオーヴァ大通り(Strada Nova)、トレンティーニ(Tolentini)広場、ザッテレ運河通り(Fondamenta Zattere)、アッカデーミア広場(Campo de la Carita`)。
[サン・ジョルジョ同信会館(Scuola di S.Giorgio degli Schiavoni)東に位置するウーゴ・フォースコロ広場(Campo de le Gate[詩人 Ugo Foscolo が住んだ])も通過したのでしょうか?]

参加者は3地点で、各種の元気回復のサーヴィス品の提供を受けることが出来る: ジェズイーティ教会(Chiesa di S.Maria Assunta dei Gesuiti)前、ザッテレ運河通り、サン・マウリーツィオ(S.Maurizio)教会前。

そして20世紀の文化や文人達に関するものによって精神的にも癒されるものが見つかるだろう[この年のテーマは《文学》だったのでしょうか]。

登録料は通常4ユーロで、アチティヴ(Actv)の往復割引乗船券付で申込むと6ユーロ[今年1月からヴァポレット60分券が6.5ユーロに値上げになりました]。 」

現代のコンパニーア・デ・カルザ・イ・アンティーキのメンバーが、1970年代末に復活させたと言われる有名な仮面のカーニヴァルより前に開始されたこのイヴェントのことは、全然聞いたことがありませんでしたが、全市を歩き回るこの大会に一度は参加してみたいと思っています。
http://www.tgseurogroup.it Su e Zo per i ponti
  1. 2008/05/16(金) 10:42:40|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアの拳骨橋(2)

前回に書いた拳骨橋について、1863年刊の Giuseppe Tassini 著『ヴェネツィア興味津々(Curiosita` veneziane)』は、次のような事を述べています。

「ヴェネツィアは昔、今日レガッタにその痕跡を留めているような、二つの党派、カステッラーニとニコロッティに分かれていた。前者は町の東端の島カステッロに代表される東の地区の住民、後者はサン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教会のある西の地区の住民。前者はベレー帽に赤いスカーフを巻き、後者はベレー帽に黒いスカーフを身に着けた。

彼らの出身地は正確には不明だが、エラクレーアとイエーゾロの町(ラグーナの東に位置する)の間に端を発するいがみ合いを持ったまま、その後、彼らがそれぞれヴェネツィアのその地区に住み着くことになった。カステッロ島に住む司教の殺害はニコロッティの仕業とされた。

共和国政府は肉弾戦で鍛えられた血気盛んな市民確保のために、彼らの敵愾心を増長させ、多分一方を持ち上げると他方は抑える、次回は逆、といったやり方で彼らを分割コントロールした。

両者は互いに、相手を一方的に凌駕しようとし、拳骨の乱闘から、葦を棒状に束ねた物や木の棒の戦争へと変化していった。

この戦いは9月からクリスマスの間にだけ許され、概ね橋の上だけで戦うこととされ、それも《拳骨橋》と通称されるようになったサン・バルナバ橋とサンタ・フォースカ橋がメイン舞台となった。

二つの橋の頂上の平面には足型が嵌め込まれ、戦いはその足型に両者足を置いてから始めることになっていた。一つの橋には現在でも欄干がないように、容易く運河に落下するので、戦闘員はそれに適した服装で、水に落ちるや直ぐに戦闘行為から離脱して、怒りを鎮めることが求められた。
[『ヴェネツィア興味津々』発刊の1863年当時、この二つの橋のどちらか(?)は欄干がなかったようですが、この当時オーストリア占領下で各橋に欄干の設置が促進されました。オーストリア風デザインで造られたので、その欄干を毛嫌いするヴェネツィア人の事を聞いたことがあります。ヴェネツィアのイタリア王国への併合は1866年。]

拳骨戦争は1705年まで続いたが、この年を最後に政庁は厳しく禁止した。
アントーニオ・ストーム画『拳骨戦』[アントーニオ・ストーム画『拳骨橋の戦い』] 最後の戦争の舞台となったサン・バルナバの拳骨橋の戦いは、9月30日に行われ、夥しい流血を見た。拳骨で始まった肉弾戦は最後には岩石や短剣の戦いと変貌した。余りにも熱狂した人々は、偶々発生したサン・ジローラモ修道院の火事にも目も呉れず、消火に駆け付ける者とてなく、サン・バルナバ教会の司祭が、戦闘員達に割って入ろうと十字架を手に飛び出したのだった。

共和国末期は、両者は人間ピラミッド(le forze d'Ercole)やレガッタのような残酷さのないスポーツ等に熱中するしかなかった。」
 ――ジュゼッペ・タッスィーニ著『ヴェネツィア興味津々』(1863)より
  1. 2008/05/09(金) 16:49:45|
  2. ヴェネツィアの橋
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八百屋さんと拳骨橋

かつてのデヴィッド・リーン監督の映画『旅情』の中で、キャサリーン・ヘップバーンがサン・バルナバ広場(Campo S.Barnaba)に面する運河に落ちたシーンはよく知られています。
[ヘップバーンは、綺麗とは決して言えない運河に落ちるシーンのために、大量の予防薬を飲み、敢行したそうです。]

その落下直前のシーンで、その運河に浮かぶ船の八百屋が映し出されました。位置関係は映画とは異なりますが、このサン・バルナバ広場の運河に船の八百屋さんが実際にあります。
サン・バルナバ運河すぐ隣の埋立て通り(Rio Tera' Canal)の語学学校に通っていましたので、放課後、この八百屋さんでフィノッキオ等の野菜を買って帰ったことが何回かあります。今年2月、船は係留してあるのに、八百屋さんの顔も野菜等の姿もありませんでした。どうしたのでしょうか。

他の場所にも船の八百屋さんがあります。東のカステッロ区(Sestiere Castello)のヴェネツィア一幅広い、ガリバルディ通り(Via Garibaldi, o Rio Tera' Garibaldi)は、Rio Tera' とあるように、かつては運河だった所を埋め立てたもので、当初は直ぐ傍に公園(Giardini Pubblici)があるために、新公園通り(Strada Nuova dei Giardini)と呼ばれていたそうです。

1866年、イタリア統一戦争中イタリアがオーストリアを破り、イタリア王国軍がヴェネツィアに進駐した時、時の将軍の名前をこの道の名としたのだそうです。

この大通りを暫く北上すると道が途切れ、すぐそこからサンタンナ運河(Rio de S.Anna)が始まります。その地の構成からも埋め立てられたことがはっきり分かります。その運河の始まる箇所にも船の八百屋さんがあります。
[サンテラーズモ島辺りからカオルリーナ舟で運んできた野菜を売る人達なのでしょうか。]

運河は土地建物とは無関係な上、船の運航に全然支障がなければ、市の許可を得て(?)開店出来るのかもしれません。こんな船の店はまだ他にもあるのでしょうか。野菜といえば、イタリアではスペイン等から輸入した野菜の残留農薬が問題になっています。

サン・バルナバ広場のこの船の八百屋さんが係留している直ぐ傍の橋は、ヴェネツィア・ガイド等にも必ず載っている有名な拳骨橋(Ponte dei Pugni)で、橋の両端の上に足型が向い合って貼り込まれています。

カンナレージョ(Canaregio)区のサンタ・フォースカ(S.Fosca)広場から、北のザンカーニ通り(Cl.Zancani)にかけて架かるサンタ・フォースカ橋にも拳骨橋と同じように足型が示されてあり、ここでも西のニコロッティ(カンナレージョ区、サンタ・クローチェ(S.Croce)区、サン・ポーロ(S.Polo)区の住民)と、東のカステッラーニ(カステッロ区、サン・マルコ(S.Marco)区、ドルソドゥーロ(Dorsoduro)区の一部の住民)の間で、かつて殴り合いの競技的抗争があったのだそうです。

近くのゲットの住民、ユダヤ人達も時代が下ると町に馴染んだのか、ニコロッティ・グループでこの戦いに参加する者が現れるようになったと言います。

サン・マルコ区のサン・ジュリアーノ(S.Zurian)教会裏にあるグェッラ橋[Ponte de la Guera〈=伊語Guerra(戦争)〉]でも、同じく2派に分かれての戦いがあり、かつては欄干のない橋が多かったと言いますから、組んず解れつで、絡み合ったまま水中に落ちた者も多かったことでしょう。

竹竿のような棒を使っての殴打は、死人が多数出てからは共和国政府によって禁止されたそうです。他に見られない、国民こぞって対外的戦争に対処したお国柄だったと思われるのに、こんな狭い土地の中で死者があってもこうした擬似戦争を真剣にやっていた意味は何だったのでしょうか、理解し難いところです。いずれにしても後には、この乱暴な戦争ごっこそのものも禁止になったそうです。
  1. 2008/05/02(金) 21:40:01|
  2. ヴェネツィアの街
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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