イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

カランパーネ埋立て通り

アパートを借りたストゥーア小広場からリアルト市場に買物に行くには、次の道順があります。ソットポルティコ(sotoportego)を抜け、前回書きましたストゥーア運河通りに出、直ぐ前方の乳房橋を渡り、右脇のカランパーネ埋立て通り(Rio tera' de le Carampane)を進みます。そして右のタモッシ通り(Cl.del Tamossi)からビアンカ・カッペッロ館前のストルト橋を渡ってリアルトへ向うか、或いは左のカランパーネのソットポルティコを潜り、ボテーリ(Boteri)通りに出て向うかの2通りです。
友人から来たビアンカ・カッペッロの生家の絵葉書[ビアンカ・カッペッロの生家] この辺りカランパーネ埋立て通り一帯は、昔は遊郭とも呼べる地区だったそうなので、かつて浅草から竜泉寺の樋口一葉記念館に向う途中、旧吉原を通過した時感じたようなものが、胸奥に蠢動したように覚えました。Carampana という言葉を伊和辞典で引くと、《身なりのだらしない女》とあります。ジュゼッペ・タッシーニの『ヴェネツィア興味津々Curiosita` veneziane』の Carampane の項を見ると、次のような事が書かれていました。

「1358年、区長は娼婦を一ヶ所に集めるため、リアルト地区にその場所を探した。1360年、サン・マッテーオ教区に何軒かの一群の家が見付かり、そこはカステッレット(Castelletto)と呼ばれることになった。6人の監視員が置かれ、毎夜、サン・マルコ鐘楼の第3番(テルツァ)の鐘で閉店し、家に籠り、教会の祭日には開店しないこととされた。

売上げは一旦マダム(Matrona)に預け、月末に各自に配分された。時が経つにつれて、カステッレットの娼婦達は散らばっていき、特にランパーニ(Rampani)という古い貴族が持つ家(Ca')があったため、カランパーネ(Carampane)と呼称されるこの地区に移った者が多かった。カステッレットから移動することは娼婦達には禁じられていたが、そこに閉じ込められることを嫌がった彼女達は、法令に背いてこの地区に移り住んだ。

ヴェネツィアには娼婦の数は多かったが、当時男色が相当に流行した。そのため政庁は、夕方、彼女達がランプの明かりの下、戸口や窓で淫らに胸を出して誘い、男達の異性愛を掻き立てることを命じた。」
のだそうです。市民皆兵のヴェネツィア共和国は、男子の出生率の低下を殊の外恐れたのだと思われます。

更に乳房橋については、総じて次のように書かれています。
「カランパーネに住む娼婦の館では、この地区にやって来る男達を誘うのに彼女達はバルコニー等で乳房を剥き出しにしていたが、その事がこの橋の命名の元となった。その露出した姿は男色の罪を犯す男を、そのような誘惑から気を逸らす目的で発せられた政令に由来する。

男色は古くからヴェネツィアに根付き、年代記の中でも色々卑猥な事件が語られている。マリーン・サヌードが記したベルナルディーノ・コッレールのような例もある。 ……。
十人委員会の発した布告がいくつかある。男色を根こそぎにするため、地区で2人の貴族が選ばれ、毎金曜日、男色家を調べる代表者会議が招集される。治療のために呼ばれた医者と床屋(外科を担当)は当局に3日以内に報告する。告発された男色者は、先ずサン・マルコ小広場の2本の円柱の間で首を括られ、更に灰になるまで焼却される。」

カランパーネ埋立て通りにあるレストラン(trattoria)《アンティーケ・カランパーネ》の入口には、この店で道を尋ねる人には聴取料を申し受けますと貼り紙がしてあります。借りたアパートの大家さんは、この店の魚料理は美味しいですよ、と言っていました。

2008.07.04日のストゥーア小広場も娼婦に関連しています。高級娼婦だったヴェローニカ・フランコについては、2010.09.18日~ の文学に表れたヴェネツィア――ヴェローニカ・フランコを参考までに。
  1. 2008/06/27(金) 14:38:16|
  2. ヴェネツィアの娼婦
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世界初のオペラ劇場

サンタ・クローチェ区東端の、リアルト橋に比較的近いストゥーア小広場(Campiello de la Stua)にアパートを借りたことがありました。
アパートと洗濯物[借りたアパートは最上階の4階。時々スーパーで日本から持参のカートで炊事・飲用の2L水をまとめ買いして来ると、上まで運ぶのは一苦労。]
この小広場脇のソットポルティコを潜ると、サン・カッスィアーノ運河(Rio de S.Cassan)沿いのストゥーア運河通り(Fondamenta de la Stua)に出ます。直ぐの乳房橋(Ponte de le Tete)で右折し、そのアニェッラ通り(Calle de l'Agnella)の最初の路地を左折すると、コンメーディア(Comedia)通りからテアートロ小広場(Corte del Teatro)に出ます。かつてこの一角に新カッスィアーノ劇場と呼ばれた、世界初のオペラ劇場があったのだそうです(アパートから5分もかからない位置でした)。
新カッスィアーノ劇場前[古新カッスィアーノ劇場前の小広場] トゥローン家によって1581年に建てられたこの木造の円形劇場は、サンタ・クローチェ区にありながら、サン・ポーロ区のサン・カッスィアーノ教会が近い所為なのか、こう呼ばれたようです。1629年焼失後、1636年石造りで再建され、1812年まで断続的に劇場として機能していたようです。

極初期は芝居小屋として使われたようですが、1637年世界で初めてオペラの商業公演が行われました。ベネデット・フェッラーリ・デッラ・ティオルバ作『アンドロメデー(L'Andromedaアンドローメダ)』にフランチェスコ・マンネッリが音楽を付けました。合唱はサン・マルコ寺院の合唱隊が歌ったのだそうですが、その一員にサン・マルコ寺院楽長のクラウディオ・モンテヴェルディの息子のフランチェスコもいたのだそうです。

ここで上演されたものには、フランチェスコ・カヴァッリの『テティスとペーレウスの結婚(Le nozze di Teti e di Peleo、1639)』(台本ペルスィアーニ)、モンテヴェルディの『オデュッセウスの祖国帰還(Il ritorno d'Ulisse in patria、1641)』(台本バドアーロ)、カヴァッリの『イアーソーン(Giasone、1649)』(台本チコニーニ)等があり、特に『イアーソーン』は大成功を収め、イタリア各地でも上演されたそうですし、17年後にはヴェネツィアで再演されたそうです(彼は初期オペラ作家として近年見直されているそうです)。

ウィーンで宮廷詩人(poeta cesareo)となった、ヴェネツィア生まれの詩人アポーストロ・ゼーノの台本が音楽化されたり、18世紀になると劇作家カルロ・ゴルドーニと、ブラーノ島生まれのためブラネッロと呼ばれたバルダッサーレ・ガルッピのコンビのコラヴォレイションが幾つか上演されたようです。
ゴルドーニ像ガルッピ像[左、リアルト橋傍のサン・バルトロメーオ小広場に立つゴルドーニ像。右、ブラーノ島ガルッピ広場(Palazzo B.Galuppi)のガルッピ像。両者共イタリアのサイトから借用] 1763年抜本的な造り直しが行われた後、ドメーニコ・チマローザやジョヴァンニ・パイジエッロの作品が上場されます。

1776年当時、帰郷して祖国の国家糺問官のスパイとして働いていたジャーコモ・カザノーヴァは、上演中桟敷席では色々な不正不倫行為が行われていると報告しているそうです。劇場は多くの娼婦達の商取引の場として利用されていたようですし、1700年代後半にもなると、幕間は宴会になるのが通常で、ただただ料理された肉や鶏肉を食べまくっていたと言います。

共和国滅亡後、1798年に最後のオペラが上演されたそうです。サン・カッスィアーノ運河を挟む隣の島のアルブリッツィ館の庭園にするため、1812年建物は壊されてしまいました。乳房橋上から見るとアルブリッツィ館と劇場跡地を結ぶ橋が1本見えるだけです。
アルブリッツィの橋[左のアルブリッツィ館とその庭園となった古新カッスィアーノ劇場とを結ぶ運河上の橋を乳房橋から] 
サン・カッスィアーノ教会の大運河側の裏側に、テアートロ・ヴェッキオ小広場(Corte del Teatro Vechio)という一角があります。ここには1580年建造の旧サン・カッスィアーノ劇場があったそうです。ミキエール家によって建てられたこの芝居小屋は、1500年代末まで存続したようですが、何かとスキャンダルが絶えなかったようです(ヴェネツィア人は芝居小屋に通うためには、大運河を泳いでも渡ったと言われるほど演劇好きだったそうです)。
  1. 2008/06/20(金) 13:23:38|
  2. ヴェネツィアの劇場
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フランチェスコ・ペトラルカ(1304~74)

以前書いた《Su e Zo per i ponti》の文学をテーマ(?)にした2004年の大会は、パーリア橋(Ponte de la Paglia――大運河以外の架橋で1360年に架けられた最古の橋だそうです)を出発し、スキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)を東へ向かったと思われますが、次のセポルクロ(Sepolcro)橋を渡ると左の建物のサン・マルコ湾(Bacino S.Marco)に面した壁面(4143番)にプレートが掲げてあります。
フランチェスコ・ペトラルカの碑ペトラルカ ペトラルカ[右、イタリア・ウィキペディアから借用] 「ここは言い伝えによれば、元老院がその使用の自由を提供したフランチェスコ・ペトラルカの家だったという。ヴェネツィア市は生誕600年記念に際し、高名なる客人のことを正式に顕彰する。1904年」(ラテン語の碑文も掲げてあります)。

この碑文の掲げられた館は、当時、二つの塔のモリーン館(Palazzo Molin dalle Due Torri)と言われ、死後その蔵書を共和国に遺贈する(その蔵書は将来のマルチャーナ図書館の基となったそうです)との約束を受けて、ヴェネツィア政庁が詩人のために用意した居館だったようです。

トスカーナと対立するミラーノのヴィスコンティ家の招きに応じた彼を激しく非難した友人のボッカッチョも、詩人がミラーノからヴェネツィアとパードヴァに移り、館を構えた頃になると、度々彼の館を訪ねたと言います。

詩人に傾倒していてよく訪ねてくるヴェネツィア共和国書記官長(1352年就任)ベニンテンディ・ラヴァニャーニが、夕方になるとやって来て、2人を自分のゴンドラに乗せて楽しい舟遊びとなったのだそうです。

1353年ミラーノの僭主ジョヴァンニ・ヴィスコンティ大司教に請われて、ヴィスコンティ家の客人となります。そしてジョヴァンニの願いで、周囲の対ヴィスコンティ同盟に対して、最初(1354年)平和要請の書簡をヴェネツィアに送り、総督から返書が届きます。その後外交使節としてヴェネツィアを来訪、共和国の支配層との友好関係を築いたのでした。

外交使節としての任務は不成功ではあったものの、ヴェネツィア人との親交の深まりとともに、1361年ミラーノにペストが襲来したのを機にパードヴァ、そしてヴェネツィアに移り住むこととなりました。

晩年はパードヴァのカッラーラ家から提供された土地、パードヴァ郊外のエウガーネイ丘陵(Colli Euganei)のアルクァ(Arqua`)に、孤独を追究出来る山荘を建て、1370年移住しました。そしてその地で亡くなります(1374年)。

現在はその周辺が公園(Parco Regionale dei Colli Euganei)となり、彼の山荘はペトラルカ博物館(Casa di F.Petrarca)となっているそうです。そして町名も Arqua` Petrarca と呼称されているようです。

ペトラルカ博物館については、次の shinkai さんのサイトが写真等大変詳しいですので、是非ご覧下さい。
http://italiashio.exblog.jp/4752528/ アルカ・ペトラルカ・詩人の里・中世の町
  1. 2008/06/13(金) 18:27:11|
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文学に表れたヴェネツィア――ダンテ、と造船所(アルセナーレ)

16世紀初め元老院によって《ヴェネツィアの心臓部》と位置付けられた、カステッロ地区のアルセナーレ(Arsenale 造船所――ヴェネツィア語 Arsenal/Arzana)は、現在は海軍の所有地であるため、入ることは出来ません。
アルセナーレ(造船所)門前の獅子像[造船所門前のライオン等の彫刻群] 私は90年代半ば頃、サン・マルコ湾(Bacino S.Marco)からアルセナーレ運河(Rio de l'Arsenal)を通過し、水門の2基の塔の間を抜け、ドック(Darsena Vecchia)を通り抜けてムラーノ島(Isola di Murano)へ行くヴァポレットの1便に乗船し、内部を船から見たことがありました。

また最近、夏に行われる演劇祭で、有料無料の演劇やパフォーマンスが内部の広場や建物内で催され、《火のパフォーマンス》というイヴェントを見に入場したこともありました。

西側のゴルネ(le Gorne)運河に面したゴルネ運河通りから、東のターナ(la Tana)運河に沿ったターナ運河通りまで、アルセナーレの南のぐるりを歩いたり、ヴェネツィア周回便の41・42番(かつてアルセナーレを通り抜けていた5番がこの41・42番に変更されたようです)のヴァポレットでヴェネツィアの北側から眺めても分かることですが、要塞化された高い壁で囲われており、かつてこの壁を越えて進入した者には死罪が待ち受けていたそうです。

造船の工程は分業化され、細分されて専門化され、オートメ的作業で船が組み立てられ、1570年にトルコ軍が当時ヴェネツィア領であったキプロス(Cipro)島に攻撃を仕掛けた時には、軍船の建造に要した時間は武装化も含めて、2ヶ月で100隻のガレー船を完成させたというスピードだったと言います。

工員達(アルセナロッティ arsenalotti)の秀でた技術や道具類と、生産される各部品等の正確さはもとより、当時のヨーロッパの中では随一と言われた、格段に優れた流れ作業システムで運営された工場だったようです。
[YoutubeのL'Arsenale di Veneziaが参考になります。]

その事が大詩人ダンテの目にとって括目に値することだったのでしょう、彼は『神曲 』の中でアルセナーレのことを歌っています。『神曲』というと何か難しく、近寄り難い感じですが、原題は《神聖な喜劇 Divina Commedia》の意です。《地獄篇》は中世の噂話満載で面白く読んだ記憶があります。本来《Comedia》(ダンテの表記)の題だったものが、1555年にヴェネツィアで『Divina Commedia』の表題で出版されて以来、この題名が踏襲されているのだそうです。[『神曲』という呼称は森鷗外が訳したアンデルセンの『卽興詩人』の中でこの題名を使って以来だそうです。]
ギュスターヴ・ドレの版画ダンテ[左、ギュスターヴ・ドレ画『地獄篇』第3歌挿図。右、ダンテ像、ウィキペディアから借用]
『筑摩世界文学大系11巻』(野上素一訳、筑摩書房、昭和48年11月15日刊)――『神曲』《地獄篇第21歌》より
「……
ちょうど冬になるとヴィニツィアの造船所で
破損した彼らの船を塗りかえるため
あのねばった瀝青を煮るときのように、
(その時期には航海ができないかわりに
あるものは新しく船を造り、あるものは
いくたびも航海した船の側面に麻屑をつめこみ、
あるものは舳(へさき)をうち、あるものは艫(とも)をうち、
あるものは櫂(かい)を作り、あるものは綱をより、
あるものは大小の帆につぎをあてるのである)
下のほうには火力でなく神の技によって
濃い瀝青が煮え沸(たぎ)っており
岸の一面にねばりついていた。
私は瀝青へ目をそそいだが、その中に沸(たぎ)りつつ
浮きあがる泡のほかはなにも見えず、
瀝青は一面にふくれあがっては潰れて下へ落ちていた。
私が下のほうばかり目をこらして眺めていると、
私の案内者は「気をつけろ、気をつけろ」といって
立っている場所から私を自分のほうへ引きよせた。
そこで私は見ただけでぞっとして逃げ出したくなり、
恐怖のために急に全身の力が抜けそうになるのを
見たがるくせに、見ている間も逃げる足を
とめない人のように、ふりむいて見ると、
私たちの背後から一人の悪魔が
岩礁を渡って走ってくるのが目にとまった。  ……」
  1. 2008/06/06(金) 20:59:51|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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