イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの大道芸人(1)

カーニヴァルの時、サン・マルコ広場で丸太材や板で組んだ簡素な舞台上での、アルレッキーノとパンタローネのやり取りを見たことがあります。掛け合いはヴェネツィア弁なのかベルガモ弁なのか全然分からなくても、ワクワクする演戯です。またサント・ステーファノ広場では、よく流しのミュジシャンが歌っていましたし、新しい演し物のパフォーマンスをやる人もいました。サン・ルーカ広場では、火吹き芸人の芸を見たこともあります。
Antonio Visentini のサント・ステーファノ広場[Antonio Visentini の銅版画『サント・ステーファノ広場』]  ヨーロッパには中世の昔から、南仏のトゥルヴァドゥール(伊語trovatore)、北仏のトゥルヴェール(伊troviero)といった貴族の詩人作曲家がおり、宮廷等ではそうした歌などをミンストゥレル(伊menestrello)が実際に演奏していたそうです。

一方町中では、ジョングルール(伊giullare)がそんな唄等を広場などで演奏するため、縁日、定期市など祭日を求めて各地を徘徊していました。ジョングルールは楽師、役者、曲芸師、人形遣い、動物遣い、香具師等大道芸・放浪芸を見せる旅芸人・辻芸人の総称で、流離って生計を立てている人々でした。

以前放映されたNHKのTV番組『ヴェネツィア 水上の千年都市 音の記録』の中で――かつて日本では振売り、呼売り、立売り、触売り、棒手振などと呼称された商行為をする人達、即ち各地を渡り歩いて商いをする大道商人(mercante ambulante――日本では彼らのことを連雀とか連著と言ったようです)として――ヴェネツィア市街を流しながら呼売りする包丁等の砥ぎ屋さんや椅子の修理屋さん等の渡り職人の呼び声、空き瓶、ぼろ布・麻布等の廃品回収業の行商人の触れ声等を大変懐かしんで語る、第2代総督マルチェッロ・テガリアーノ(717~26)の家系に繋がるマルチェッロさんの話がありました(各地を渡り歩くタイプと同じ都市の内部を流しながら呼売りするタイプと2種類あったのでしょうか)。

ヴェネツィアではまた、広場等で露天商が屋台を並べたり、薬売りが人々を集め口上を述べていたようです。Ofiuco(蛇遣い座)という言葉があるほど、蛇遣いの歴史は古いのでしょう、広場で蛇に腕を噛ませ、その傷をあっという間に治癒させる薬を売った蛇屋さんも、広場の歴史に欠かせない存在と思われます。こうした浮草家業の人達の渡世の厳しさは、想像に余りあるものがあったと思われますが、また詩情も醸し出します。

《遍歴、放浪》を意味する伊語を探してみました。
aggirarsi(徘徊する)、ambulante(旅回りの)、ambulare(ぶらつき歩く)、bighellonare(ほっつき歩く)、ciondolare(うろつく)、deambulare(ぶらぶら歩き回る)、errabondo(さすらう)、errante(流亡の人)、errare(さまよう)、giramondo(浮浪者)、girandolare(ぶらつく)、girare(流漂する)、girellare(放浪する)、girellonare(巡歴する)、girondolare(ぶらつく)、gironzare(歩き回る)、gironzolare(ほっつき回る)、girovagare(漂浪する)、girovago(宿無し・行商人、さすらいの)、itinerante(遍歴の)、itinerario(旅の、行程)、nomade(遊牧民の、流浪の民)、pellegrinare(回遊する)、pellegrino(巡礼者)、peregrinare(巡り歩く)、peregrino(巡礼の、巡礼者)、ramingare(さすらう)、ramingo(漂浪の)、randagio(流離の)、vagabondare(漂寓する)、vagabondo(流浪の、放浪者)、vagare(漂泊する)、vagolare(彷徨する)

attore girovago は旅役者、artigiano itinerante は渡り職人、cane randagio は野良犬です。
  1. 2008/07/27(日) 00:11:46|
  2. 大道芸
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ヴェネツィア映画

《ヴェネツィア》という項目をイタリアの百科事典で引くと長大な項目が登場しますが、その項目の直前に《Venexiana―ヴェネツィア女》という小項目がありました。訳してみます。

「1500年代に書かれた、作者不詳の喜劇で大部分がヴェネツィア語で書かれ、全イタリア劇作品の中でも最も著名なものの一つである。1928年エミーリオ・ロヴァリーニによって発見され、彼は作品の成立年代を16世紀初頭と決定した(近年G. パドアーンがアレティーノのための作家・詩人の集まりで復活上演した)。この喜劇は現実に起きた事から書かれたものであるとし、著者はもしかしてロレンツォ・ヴェニエールかも知れないという仮説を提出した。(この喜劇の中に窺える政治的・宗教的大胆さのために、また序文の中のアイデアと、高名な医師、詩人としての詩学的発想との中で書かれたと認めうることから、ロヴァリーニは作者としてジローラモ・フラカストーロ[1476/78ヴェローナ~1553ヴェローナ北Incaffi、科学者]の可能性を示唆している)」。

この劇作品は、現在では1536年頃[『ヴェネツィア史』(クリスチャン・ベック著、仙北谷芽戸訳、白水社クセジュ文庫、2000年3月30日)による]書かれたのではないかと言われ、マーウロ・ボロニーニ監督が映画化しています。

この監督の、クラウディア・カルディナーレとマルチェッロ・マストロイアンニで撮った映画『汚れなき抱擁』(原作のヴィタリアーノ・ブランカーティの『美男アントニオ』は随分昔に日本語訳が出ました)を見たことがありますし、また Metello という青年の物語『わが青春のフロレンス』については、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会裏のトゥリーポリ通りを歩いている時、この映画の中に迷い込んだ眩暈のようなものを感じたことがありました。また『狂った夜』という映画を見たこともありました。
マウリツィオ・スカパッロマウリツィオ・スカパッロ 『ヴェネツィア女』この劇作品 Venexiana(Veniexiana)は書籍も Marsilio 書店から、伊語とヴェネツィア語が見開きで対照出来る形で発刊されています。映画のストーリーは、一人の外国人と2人のヴェネツィアの有閑マダム、アンジェラとヴァレーリア3人の恋愛遊戯(l'eterno triangolo?)ということから、かなりエロティックなものではあったのですが、ヴェネツィアの現風景が頻繁に現れるので、ヴェネツィア・街クイズの感がありました。現代演劇について講演されたマウリーツィオ・スカパッロ氏が手掛けられた、1965年の『ヴェネツィア女』がそれのようです。

映画では陣内秀信先生ご推奨の建物、ソランツォ・ヴァン・アクセル館が女主人公の居館として登場します。テースタ通り(Calle de la Testa)にアパートを借りたことがありますので、直ぐ近くの、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会前のカヴァッロ橋(Ponte Cavallo)から物語が始まるこの映画は、ヴェネツィアーフィロ(veneziafilo―ヴェネツィアおたく)の人間には興味津々でした。
ヴァン・アクセル館[ソランツォ・ヴァン・アクセル館] 下女の走り回るサンタ・マリーア・デイ・ミラーコリ教会脇の金属の手すりのある通り(Cl.fianco la Chiesa)や女主人公の一人ヴァレーリアが恋人の待ち伏せをする、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会前の特徴のある飾り門の間など、よく通った所でした。

以前に書きましたが、ストゥーア小広場でアパート生活をした経験があると、1500年代という中世ヴェネツィアの乳房橋近辺の雰囲気等を濃密に描いたと思われるこの映画は、ヴェネツィアを知る上で大変刺激になりました。

街中で演じる旅芸人達! 今のヴェネツィアを知り、かつてのヴェネツィアがこうであったと知る落差の摩訶不思議。そして当時とあまり変わっていないと言われる街を見るにつけ、日本とのあまりの懸隔に愕然とし、異様の感動を覚えます。

この映画はマーウロ・ボロニーニ監督『薔薇の貴婦人』という題で公開されました。
  1. 2008/07/20(日) 02:55:18|
  2. ヴェネツィアの街
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インテルプレティ・ヴェネツィアーニ(ヴェネツィア室内合奏団)(1)

過日、ヴェネツィア室内合奏団《インテルプレティ・ヴェネツィアーニ》がまた来日しましたので、横浜みなとみらいホールに聴きに行ってきました。2000年5月に初来日以来、今回で何度目の訪日になるのでしょうか?

団長のチェンバロ奏者パーオロ・コニョラートさんによって1987年に結成されたこの合奏団の演奏を初めて聴いたのは、14年前サント・ステーファノ教会ででした。その後サン・サムエーレ教会、またリアルトのサン・バルトロメーオ教会で何度か聴きました。そして現在はサン・ヴィターレ教会(私の好きな画家カルパッチョの『馬上の聖ウィターリス(S.Vitalis=S.Vitale=S.Vidal)』が中央の主祭壇にあります)で、定期的に演奏活動を行っています。

今回来日された方々は、この2月にヴェネツィアで聴いた時のメンバーとは多少異なっていましたが、コントラバスを奏されたジャンニ・アマディーオさんは、サント・ステーファノ広場の隣の広場にあるサン・マウリーツィオ教会が現在無料の古楽器博物館になっていて、そこで偶々、古いコントラバスを見ている時、背後から声を掛けてきた人でした。

実は自分もこの楽器を演奏するのだが、とその楽器の説明をしてくれた、陽気で人懐っこい顔立ちのオジサンでした。みなとみらいホールでの演奏終了後サイン会があり、列に並ぶと彼にあなたの顔は見覚えがあると言われてしまいました。サン・ヴィターレ教会にまた聴きに行きます、と返事しました(チェロ奏者のダーヴィデさんの父君と知りました)。

今回のヴィヴァルディの演目には、ヴァイオリニストの礒絵里子さんとの共演の『四季』がありました。世界で最もポピュラーといわれるこの曲を聴くと、ヴェネツィアの春夏秋冬が目前を過ぎっていくようになりました。

アントーニオ・ヴィヴァルディは1678年、ヴェネツィアに生まれました(かつては1675年頃と言われていたようです――古い音楽事典)。スキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)から中へ入ったバンディエーラ・エ・モーロ広場(Campo Bandiera e Moro o de la Bragora)にあるサン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会に行くと、教会前にヴィヴァルディがここで洗礼を受けたことを示すプレートが掲げてあります。

教会内部に入って直ぐ左の壁面を見ると、次のような古い文書のコピーが貼ってあります。
ヴィヴァルディの出生証明書の写し「アントーニオ・ヴィヴァルディの洗礼記録: 故アゴスティーノ・ヴィヴァルディの息子、演奏家のジャンバッティスタと、故カミッロ・カリッキオの娘、ジャンバッティスタの妻カミッラとの間の息子であるアントーニオ・ヴィヴァルディは、去る3月4日に誕生し、死の危険もある中、自宅で産婆のマルゲリータ・ヴェロネーゼ氏に洗礼名を授けられた。本日この教会に連れてこられ、私こと教区司祭ジャーコモ・フォルナチェーリにより、祓魔式と聖油を受けた。……」

彼は司祭になったのですが、スキアヴォーニ海岸通りにあるサンタ・マリーア・デッラ・ヴィズィタツィオーネ教会、通称ラ・ピエタ教会の養育院のヴァイオリン指導者となります。1348年に設立されたこのピエタ養育院は、ヴィヴァルディの時代、音楽学校の体裁も持っていました(ヴェネツィアの音楽院化した四つの養育院を手本に、世界各地にコンセールヴァトワールが作られたと言います)。

彼は1703~40年の間、断続的にピエタ養育院の女子を指導し、ここの楽団をヨーロッパ随一のものに育て上げました(彼女達の演奏時の服の色は赤だったそうです)。ピエタ通り(Calle de la Pieta`)の入口に次のようなプレートが掲げてあります。
ピエタ養育院のヴィヴァルディについての碑「この場所にはピエタ音楽院の音楽堂が建っていた。当時その才能は十全に理解されていなかったが、ここでアントーニオ・ヴィヴァルディが1703~1740年の間《コンサート・マスター》として作曲し、ヴェネツィアそして全世界に比類なき豊饒の音楽を提供した。中でも『四季』は音楽の精華である。彼の時代が今や訪れた。」

以前にこの通りの奥に小さなヴィヴァルディ博物館がありましたが、展示物の貧弱さに比し、入場料が割高だったのか、入場した翌年には姿を消してしまいました。

1740年にヴィヴァルディはヴェネツィアを出立します。彼がウィーンの貧民墓地に1741年7月28日葬られたことが判明したのは、それから200年も後のことで、埋葬の何日か前、貧窮の内に亡くなったと考えられています。
  1. 2008/07/15(火) 11:35:41|
  2. 音楽
  3. | コメント:2

ストゥーア小広場

アパートのあるストゥーア小広場に帰ってきた時、珍しく広場に金髪の若い男女が入ってきました。彼女の方は激しく跛を引いています。靴擦れを起こしているようです。でしゃばりとも思いましたが、尋ねると足を見せました。
アパートと洗濯物[我がアパートは最上階の4階。飲料水のボトルを運ぶのは重労働。夏の3ヶ月間、対面のアパートとの洗濯紐の交換で洗濯物を干さして頂きました。] 左足の踵が真っ赤に擦り剥けて、見るからに相当痛そうです。アパートの4階まで取って返し、日本から持参の絆創膏を持ってきて2枚張り、靴との間にティッシュを挟みました。少しは痛みが和らいだのか、お礼を言いながら北欧の若者と思しき2人は去って行きました。

その後2、3日して、アパートに入ろうとしていると、背後から声を掛けられました。振り返ると若い男女が地図を示して尋ねています。近付いて彼の本の地図を覗き込むと仏語のようでした。カルロ・ゴッズィの生家を訊いているのでした。

カルロ・ゴッズィといえば、日本ではプッチーニのオペラ『トゥランドット』の原作者として知られていると思います。彼は他にもプロコーフィエフ『三つのオレンジへの恋』(1921)、ヴァーグナー『妖精』(1834)等のオペラの原作となった、コンメーディア・デッラルテを基本に据えた演劇作品を10点ほど書いているそうです。上演された芝居は成功を収めたようです。
Gozzi彼は、古い演劇を革新すべく、新しいブルジョア的演劇を始めたカルロ・ゴルドーニに異を唱え、対抗上自分の作品を書いたと言われ、ゴルドーニと演劇の新旧論争をしました。

彼の兄ガースパロ・ゴッズィは、日常生活を扱いながらも教養主義的新聞『Gazzetta veneta』(1760~61)、『Osservatore veneto』(1761~62)を発刊した人で、コンメーディア・デッラルテの即興性を排した、ゴルドーニの風俗喜劇への演劇改良運動を支持したのでしたが、ゴルドーニはパリへ旅立ち、フランス革命後のドサクサの中で貧窮の末に亡くなってしまいます。
ゴッズィの家ゴッズィの生家はこのストゥーア小広場を出ると直ぐのT字路にあり(Calle de la Regina と Ramo の角)、近年この館の1階にパン屋さんが開店し、毎日のように早朝その日のパンを買いに通っていました。そんな訳で案内は簡単でした。

アパートを借りた地、ストゥーア(Stua)について調べてみると、ジュゼッペ・ボエーリオ著『ヴェネツィア語辞典』では、Stua=伊語 Stufa とあり、伊和辞典で Stufa の項を調べると《ストーブ》《乾燥室》《16世紀の公衆浴場》の三つの意味が挙げてあります。

事実ここにはかつて公衆浴場が存在したのだそうです。人々は体を洗いに、また町で広まっている病気の治療、足の爪の治療や魚の目を切ったり、各種軟膏などの塗り薬を塗布して貰いにやって来ました。そういう医師(下級外科医)がいたようです。しかしその内に、売春宿だとの評判が立つような場所に変わったのだそうです。

直ぐ近くの乳房橋を挟んで、カランパーネ(Carampane)通り、ボッラーニのコルテ(Corte de Ca' Bollani)からストゥーア小広場辺りまで一帯は、かつて赤線地帯だったことが分かりました。それもフランスのアンリ3世と付き合ったヴェローニカ・フランコのようにちゃんとした邸館に住み、詩を書くようなコルティジャーナ・オネスタ(高級娼婦)とは雲泥の差の、下級娼婦のたむろする地域だったようです。

マリン・サヌード(1466~1536)の時代、彼の日記には娼婦の数は11000人を数えたと書かれているそうですが、少し下った時代のヴェネツィアの人口が、1581年――134861人[『ヴェネツィア史』(クリスチャン・ベック著、仙北谷茅戸訳、文庫クセジュ)]だったようですので、大まかな比率が分かります。仏史学者フェルナン・ブローデルはパリやロンドンとその比率は変わらないと述べています。

そういう事情から生まれた言葉なのか、今日ヴェネツィア語で言われる《Vecia(=Vecchia) carampana》の意味するところは、《醜悪な鬼婆め!》と悪罵する言葉だそうです。
  1. 2008/07/04(金) 00:49:57|
  2. ヴェネツィアの遊郭
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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