イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

アックァ・アルタ(高潮)

私のアックァ・アルタの初体験は、2000年11月のことでした。アルセナーレ脇の《二つの井戸広場》近くにアパートを借りて、語学学校に通っていました。早朝5時頃サイレンが鳴り響きました。「すわ、 火事!」と起き上がりましたが、サイレンは数回鳴っただけで、直ぐに鳴り止みました。「火事ではなかったのか!」

いつものように起きて朝食を済ませ、ヴァポレットの停留所に向かうと、毎日通るアルセナーレの城壁の周りのゴルネ運河(Rio de le Gorne)沿いのゴルネ運河通りは水で埋まっています。他の停留所に通じる道全てを試してみましたが、水に浸かっていない道はありませんでした。

アパートに戻り、ビニールの大袋を靴から膝に巻いて、何とか学校の近くまで行きました。学校前のカナール埋立通り(Rio Tera` Canal)は低く、完全に水没しており、拳骨橋手前のサン・バルナバ広場(Campo S.Barnaba)で潮の引きを暫く待ちました。

学校の私のクラスに着くと、1966年の嵐と高潮が重なって、ヴェネツィアに大被害をもたらした時のフィルムを生徒達は見ていました。いつもの半分の人数です。その年はイタリア北部は各地で悪天候のために洪水などの被害を被りました。アルノ川が氾濫してフィレンツェが水に浸かったのもこの時です。

帰宅前にサン・モイゼ大通り(Salizada S.Moise`)で土産物屋を開いている、ジャンニの店に寄ると、今日は水がここまで来たとショーウィンドーの下を指差します。10日ばかり前の高潮はもっと高かったそうで、1966年以来の高潮だったと言います。そのため引き潮の時、沢山のサン・マルコ小広場に置かれていたアックァ・アルタ用の渡り廊下が波に浚われたのだそうです。早速、ダークグリーンの長靴を買いに行きました。

『ヴェネツィア貴族の世界―社会と意識』(永井三明著、刀水書房、1994年2月4日)の巻末の年表を括ると、アックァ・アルタの歴史をピックアップすることが出来ますが、ホテルで頂いた雑誌『ヴェニス・マガジン』(2002年11月15日号)にその記事が集められ、年代記風に掲載されています。それを訳してみます。
VeniceMagazine「589年=我々は水上でも陸上でも生存出来ない。
782年=余りに大量の水量で、殆ど全ての島が沈んでしまった。
885年=水が町全体に襲い掛かり、教会も民家も突き抜いていった。
1240年9月23日=水が人の背丈以上の水位で道を沈めた。
1386年=水位が通常の8ピエーデ(1ピエーデ30.48cm)高に達した。
1410年8月10日=多くの船が沈んだ。メーストレや他の町から来ていた人々が1000人ばかり溺れ死んだ。
1442年11月10日=商品の損害は黄金100万ドゥカートにも及び、建物の損壊は優に10万ドゥカートを超している。
 [『地中海』(フェルナン・ブローデル著、浜名優美訳、藤原書店)は、《1443年11月10日の損害は巨額で、50万ドゥカート》と書いています。]
1535年12月20日=水位が上昇、家に侵入し井戸を壊した。
1536年1月=水位がかつて見たこともない程の高さに達した。
1600年12月18-19日=船がサン・マルコ広場や通りを行き交った。
 [上記『地中海』(ブローデル著)は、この日の記述に《砂州、堤防、建物、1階の個人商店、塩、小麦、香辛料の公共商店は大変な被害を受けた。損害は金100万である》としています。]
1848年=水は140cm の高さに達した。
1867年=水位は153cm に届いた。」
フェリックス・ジアン画『サン・マルコ寺院前の高潮』フェリックス・ジアン(仏画家―1821~1911)画『サン・マルコ寺院前の高潮』
  1. 2008/10/26(日) 00:08:58|
  2. ヴェネツィアの自然
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潟(ラグーナ・ヴェーネタ)の自然

東のピアーヴェ(Piave)川河口から西のブレンタ(Brenta)川河口に至る海岸地帯は、ヴェネツィア本島がその中央に位置している《ヴェーネタ潟(Raguna veneta)》と言われ、イタリアでも最重要な湿地帯です。そしてイエーゾロ(Jesolo)からキオッジャ(Chioggia)まで、太い縄状に延びるカヴァッリーノ(Cavallino)半島、リード、マラモッコ(Lido、Malamocco)島、ペッレストリーナ(Pellestrina)島でアドリア海から隔てられ、潟を《閉じられた》空間とし、潟の自然を外海からも守るような形になっています。
ヴァティカン、地図の間[ヴァティカン、地図の間。"VENETIA"より] 800年代初め、フランク王ピピンに攻められた時、潟の浮標等水路表示物一切を取り払い、潟に攻め入るピピン軍の船を浅瀬に座礁させ、ヴェネツィアを救った歴史以来、共和国政府は潟が陸化することを恐れ、ブレンタ川やシーレ(Sile)川が潟に土砂を運び込まないように流路を変更し、放水路が直接外海に注ぐよう工事をしました。

元々の川には新たに閘門を設けて運河化し、流速を抑え、土砂が移動しない処置が講じられました。地図で現在のブレンタ川とシーレ川の流路を見ると、大変興味深い思いに駆られます。

それ以来何世紀もの間、潟の自然はあまり変わっていないと思われます。その点正に生物達の楽園であり、海の海水と川の淡水が混じる汽水域として、陸生、海生、両生の動植物が共存する、世界でも稀有の生態系を持つ領域ではないでしょうか。

潟はおよそ550k㎡の塩水の広がりで、全般に水深が非常に浅く、潮の干満によって陸地が見え隠れする洲(secca)状地で、人々は潟を埋め立て、堤防を築き、運河を掘削して、ヴェネツィア本島を少しずつ立ち上げ、ブリコーラ(メーダとも)とかダーマ(3本を束ねた杭の内、水路の始まり終わり、交差路等の区切りを示すため1本が高く飛び出している)と呼ばれる澪漂(みおつくし)としての水路表示の杭を並列させて水路を浚渫し、船の運行を容易にしました。自由に航行するには Carta idrografica(海運図)が必要になります。
Venezia無数にある無人有人の島(正確な数は分かりません、沈んだり現れたり)は、長い間に高潮等によってその姿形を幾度も変えたり、また沈んでしまったものもあるようです。TVのドキュメンタリー番組で、教会と共に沈んでしまって今は存在しない Boccalama 島に係留されていた、潟に沈む貴重なガレー船の、潟の水を堰き止めての発掘調査の模様を撮ったフィルムを見たことがあります(この島の修道院には、かつてペストで亡くなった大量の亡骸を収容したのだ、とか)。

潟や潟の島々では人々は庭園や菜園を作り、夥しい種類の野菜や果実を育て[アーティチョークのカストラウーレ(castraure)はサンテラーズモ(S.Erasmo)島の特産]、避寒避暑や狩猟を楽しむ場所として、また養魚場として牡蠣、高価な鯛、舌鮃、鱸(すずき)等の養殖にも利用されています。

潟の澱んだ箇所には鰻や鯔(ぼら)の魚類、蛙や蟇蛙等の両生類、また島の森を好む鼬、胸白貂(参考にした文献の《faina》は小学館の伊和辞典では《ブナテン》と出ていますが、白水社の伊和辞典では《胸白貂》とあり、ここでは後者を採用しました)、狐等の哺乳類が棲息しているそうです。

しかし何と言っても潟の主人公は鳥類と思われます。自然が豊富な餌を提供するので、季節により葦原等に各種の鳥が輻輳します。名前を列挙すれば青鷺、子鷺、尾白鴫、緋鳥鴫、尾長鴫、翡翠(かわせみ――martin pescatore、 私はこの伊語の音の響きが気に入っています)等、限りがありません。

植生には、塩分を含んだ湿地帯でも育つ広塩生植物の蒲や葦の原、藜科の厚岸草(salicornia――野菜として食用)、磯松科のスターチスの一種(?――limonio)、菊科の海のアスター(astro marino)等以外に御柳、柳、白楊(ポプラ)、楡、松、糸杉、常磐樫、椰子、菩提樹、アカシア等、枚挙に遑がありません。

リアルトの魚市場へ行けば、潟に棲息する魚の姿が見られます(大半はアドリア海で獲れたものでしょうか):
蝦蛄(しゃこ――リアルト市場で子持ち蝦蛄を購入、茹でて食し、その美味だったこと!)、甲烏賊、海老、モエーカ(蟹=moleca、moeca、moecca、ヴェネツィア語では母音に挟まれたL(エル)は通常発音しないので、省略したスペルもあります)、平鯛、比売知、舌平目、鯔、鱸……、その豊富さに目を見張ります。貝の《海のトリュフ(tartufo di mare=伊語 cappa verrucosa=ヴェ語 caparossolo/caparozzolo?――マルスダレ貝科あらぬのめ貝)》は珍しく生食(pescecrudo)されます。
[この高価な貝の生食が刺身のように美味であることを知らないヴェネツィア人は結構いるようです。煮て食べた人を知っています。煮たらあの微妙な味は飛んでしまいます]。
  1. 2008/10/19(日) 00:03:00|
  2. ヴェネツィアの自然
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日本の旅(2)

平泉は世界遺産の選から落ちました。土地の人は悔しかったことでしょう。選ばれた石見銀山では、そのため沢山の人がやって来て、静かな生活が破壊されたと言う人もいます。

世界遺産の町ヴェネツィアに行くようになって、知り合った鞄屋の小父さんは、観光客があまりにも多過ぎて生活者として大変迷惑していると言っていました。あの時から10年も経ち、私達観光客の数は一層増え続けています。しかしヴェネツィアに残るメイン産業は観光業だけです。

金色堂は3度目の対面ですが、やっぱり美麗な建物です。奥州藤原氏初代清衡公が1124年に造営しましたが、同じく黄金の寺院と呼ばれるヴェネツィアのサン・マルコ寺院は、総督ドメーニコ・コンタリーニ(1043~70在位)により、現在目にする聖堂が建立されました。

富める人達が《天国のイメージを表現するには、やはり黄金に尽きる》のでしょうか。金色堂の何百倍もの大きさと思われるサン・マルコ寺院を見るにつけ、ヴェネツィア共和国の富の蓄積がいかに莫大であったかが察せられます。

平泉の金色堂の話が、大きく膨れ上がり、中国にも伝えられ、元のフビライ・ハーンに仕えていたマルコ・ポーロの耳に入り、彼が日本を黄金の国 Cipango として世界に紹介した話は、日本人なら誰でも知っていることです。日本について書き残したイタリア人第1号というより、ヨーロッパ人第1号の人物です。

クロアツィアの資料を見ると、コールチェラ島(伊語Curzola)にポーロ家のオリジンがあり、マルコが生まれ、「子供の頃、対岸の山並みを眺めて夢想に耽った家」が写真と共に紹介されています[イタリア人は愚説と言っています]。
『クロアチア』『クロアチア』ヴェネツィアのスキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni)の《スキアヴォーニ》とは、クロアツィア人のことを差し、マルコの祖父がコールチェラ島からヴェネツィアに到来し、最初に住み着いたのは同国人の多いこの地区だったのではないでしょうか。マルコが亡くなった時、スキアヴォーニ海岸通り北のサン・ロレンツォ教会に葬られたことからも、そのように類推されます。マルコもその地区で育ち、ヴェネツィア語を喋るようになったのでしょう。

現在マルコの家として碑が掲げられているマーリブラン劇場裏の、サン・リーオ運河(Rio de S.Lio)前の建物は、『ヴェネツィアの冒険家――マルコ・ポーロ伝』(ヘンリー・H・ハート著、幸田礼雅訳、新評論社、1994年11月31日)が述べているように、マルコがジェーノヴァの牢獄に囚われていた時、ルスティケッロ(Rustichello da Pisa)の助けで『東方見聞録』を書いていた頃、ポーロ家が手に入れた、としているような事情だったのでしょう。
マルコ・ポーロの家[近年修復されたマルコの家壁面] いずれにしても、彼の書いた『東方見聞録(Il Milion)』の日本の黄金伝説を信じて、ジェーノヴァ人クリストーフォロ・コロンボ(羅典式クリストファー・コロンブス)はその本を携えて、1492年サンタ・マリア号で日本に向かって大西洋に船出したのです。
  1. 2008/10/12(日) 00:14:31|
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日本の旅(1)

9月中旬、遠野、花巻、平泉と巡ってきました。宮沢賢治が愛した岩手県の旅は、云わば《“賢治銀河”の旅》といった趣があります。

遠野は2度目の訪問です。今回もまた祭日と重なったのですが、この度は町の周辺を歩きました。昔語りの民話の故郷は、得も言われぬ幻想の世界へ引き込みます。ちょっとした川や原、木立までも、何か名状し難い、深い含意を持って迫ってきます。

賢治の町、花巻もお祭の最中で、夜は9時頃まで華麗な山車や掛け声勇ましい神輿が練り歩きました。外人グループの神輿もありました。何かおどろおどろした興奮が身内に広がり、大町の神輿終了地点近辺で最後の一挺まで見納めました。
宮沢賢治記念館宮沢賢治記念館 2賢治記念館に行き、賢治の遺品等が目に触れるや「どこかでふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云ふ聲がした」ように思われ、賢治銀河の星座巡りといった心地で館内を巡歴しました。賢治作詞・作曲の『星めぐりの歌』、「あかい目だまのさそり/ひろげた鷲のつばさ/‥‥‥」を思わず口ずさんでいました。
『星めぐりの歌』.曲については次のYoutube星めぐりの歌でどうぞ。
偶々傍近く居た学芸員の人に『永訣の朝』の「あめゆじゆとてちてけんじや」の事を尋ねると、土地の訛りで朗詠して下さり、「あめ雪取ってきて賢兄ちゃん」と聞こえ、その岩手県の発声に大変感動しました。土地の発声での朗読を Youtube でどうぞ、永訣の朝
[「けんじや」の意味は賢兄ちゃんの事ではなく、お願いしますという土地の丁寧語だそうです。2011.11.19追記]

それにしても賢治は『銀河鐵道の夜』の中で、何故ジョバンニやカムパネルラ、また悪戯好きのザネリといったイタリア風の人名を使用したのでしょうか。イタリアお宅の私が勝手に空想しますと、パードヴァ時代ガリレーオ・ガリレーイが望遠鏡を発明し、ヴェネツィア共和国政府の要職にあったジョヴァンニ・F・サグレードと親友だったことから、1609年、ヴェネツィアのサン・マルコ鐘楼の上で、筒眼鏡として遠くの敵船等の発見に便利な物として、時の総督レオナルド・ドナに実際に覗かせた話は広く知られたことです。ガリレーオ自身も倍率30倍のその望遠鏡で木星の四つの衛星、月面の凹凸、太陽の黒点等を発見したように、実質的な天体観測がイタリアから始まったことを受けて、自分の作中人物名にイタリア名前を使用したのでしょうか。

ジョバンニは普通のイタリアのファースト・ネームですが、ザネリは『姓・名事典』では見付かりません。カムパネルラと言えば、高校の世界史で学んだ16-17世紀の理想主義哲学者トンマッソ・カンパネッラのことが思い浮かびます。
パーオロ・サルピ像[サンタ・フォスカ広場のパーオロ・サルピ像]  「1591年出版した『感覚哲学』が革命的過ぎたため敵を作り、郷里を捨て、各地を遍歴。ヴェネツィアでもガリレーオやパーオロ・サルピと親交を持った。郷里に戻るや理想社会実現のために、修道院に革命運動の秘密組織を作り、運動の準備中捕らえられ投獄された。26年間の獄中生活後、若干の自由を得、『太陽の都』を書き、理想社会を提示した。」
と、彼はガリレーオやサルピとも繋がりがありました。

こういう話を読むと、初めてヴェネツィアに語学留学して借りたアパート、大運河に面した旧モチェニーゴ館で、1592年異端の罪で捕まり(当主ジョヴァンニ・モチェニーゴの裏切りによる)、ローマに送られた哲学者ジョルダーノ・ブルーノのことを思い出してしまいます。1600年彼がローマのカンポ・デイ・フィオーリ広場で焚刑になった2月17日から、正確に400年経った大聖年の2000年のこの日を含む2ヶ月間、この館の一室を借りていました。命日当日裏切り者の館の庭にブルーノの亡霊が現れると聞き、夜明け近くまで起きていましたが、結局《Piacere》と挨拶出来ませんでした。
  1. 2008/10/05(日) 00:18:45|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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