イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアでの墓参

11月1日は諸聖人の祝日(I Santi)、11月2日は故人の日(I Morti)で、11月は云わば日本のお盆のような墓参りの月です。そんなこともあってヴェネツィアに行ってきました。

この4月、マリーノ氏が亡くなったと夫人のMさんがメールを呉れました。直ぐには行けなくて、今月になってしまいました。糖尿病の薬が原因で半身不随になったマリーノさんの介護に、彼女が何年も奮闘していた姿はヴェネツィアに行くたびに目にしました。頭が下がる思いでした。

彼はサン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教区に生まれたのですが、現在は住んでいたリード島のサン・ニコロ教会脇の墓地に眠っていました(ユダヤ人墓地が隣接しているそうです)。ご冥福を祈ります。

何度か日本にまで電話を呉れたパーオラさん! 彼女はメーストレ(Mestre)の奥のスピネーア(Spinea)に住んでいましたが、昨年亡くなってしまいました。一人息子のジャーコモさんが手紙を呉れたのですが、今回初めて電話連絡が出来、彼女の墓に案内して貰うことが出来ました。ヴェーネトのミラーノ(Mirano――有名なMilanoではありません)近くのキリニャーゴ(Chirignago)の教会裏の墓地で、御亭主と長男と一緒に眠っていました。ご冥福を祈りました。

肝臓を悪くし、足にチアノーゼ反応も出て歩行も困難になり、冬には日本のホカロンで足を暖めてくれるように何度か送りましたが、肝臓は益々悪化し、死に繋がったようです。

'77年、消防士をしていた彼女の夫と長男が消火の終わった船の船倉に点検に入ったところ、船が突如爆発して2人一緒に亡くし、以後次男を一人育ててきたのです。パーオラさんの事を思うと涙してしまいます。

お二人の墓参りの後、ヴェネツィアのサン・ミケーレ島にも墓参に行ってきました。以前にも触れたことがありますが、日本人の墓があると聞いていたからです。島の最南端の第2チェレーザのー角に緒方惟直の墓はありました。墓守の人の案内で辿り着けました。

『ヴェネツィアと日本』(石井元章著、ブリュッケ社、1999年10月23日刊)によりますと、1873年ヨーロッパで初めてヴェネツィアに日本語学校が出来、6人の先生が赴任し、第2代の教師として緒方洪庵の10子、緒方惟直が赴任し、当地で結婚し、エウジェーニアという娘も生まれたそうです。しかし25歳の若さ(1853~78)で亡くなってしまいます。墓を見ているとジーンとしてきます。
緒方惟直の墓 『ヴェネツィアと日本』この本によりますと、先生方とは吉田要作(1873~76)、緒方惟直(1876~78)、川村清雄(1878~81)、長沼守敬(1881~87)、伊藤平蔵(1887~88)、[中断: 1888~1908]、寺崎武男(1908~09)の6人で、日本語学校はその中断期を含め、1909年まで37年間存続したそうです。この学校が現在のヴェネツィア大学の日本語学科に繋がってきたのでしょう。墓碑銘の《緒方維直、1855~1878》との誤記は明治期の混乱を思わせます。

米欧回覧の使節団長の岩倉具視がヴェネツィアの東洋学者グリエルモ・ベルシェの案内で、フラーリの古文書館で天正遣欧使節や支倉常長(彼はヴェネツィアに実際には行かなかったようです)のもたらした挨拶状を発見したこと等、マルコ・ポーロの昔から、日本とこの町との不思議な因縁を感じます。

JI さん、《サン・ミケーレ島》へのコメント、有難うございました。

追記=2010.08.29日にパウンド(2)とサン・ミケーレ島でサン・ミケーレ島についてもう少し詳しく調べてみました。 
  1. 2008/11/29(土) 01:06:50|
  2. ヴェネツィアの墓
  3. | コメント:4

ヴェネツィアの聖マルコ伝説(3)

(続き)
「翌朝アレクサンドリア港の税関に、このヴェネツィア人が葉っぱで覆った積荷を持ってやって来た。2人は馬鹿を装っていた。税関吏が到着した。しかし彼らはその積荷の中に豚肉の肉片があるのに気付くと、怖がって天を指差し、叫びながら直ぐに走り去った。

「豚だ、豚だ! 早く逃げろ!」

こうしてヴェネツィア人は関税を掛けられることもなく、直ちに積荷の籠を船に乗せ、帆を揚げて沖に漕ぎ出し、順風で帰航の途に就いた。航海中、闇夜の中で突然時化に襲われ、沈没の危機の中で、聖地巡礼からの帰りで乗船していたドメーニコ会士の夢の中に聖マルコが現れたのだった。僧は水夫を起こし、手遅れになる前に大急ぎで帆を降ろさせた。

ヴェーネタ潟まで辿り着き、1月31日に潟の端の島に一時停泊し、総督に伝えた。

ヴェネツィアでは聖マルコは信心信仰の対象というよりは、愛とか熱狂する対象といったことで受け入れられた。ジュスティニアーノ・パルテチパーツィオ総督は名誉ある厳かな祝典を布告し、人々は町の守護聖人として歓呼して迎えた。

1年後教会の建設が始まる。それはまだ全世界が賛美する黄金の寺院ではない。総督の私設の礼拝堂でもなく、遺体は一時的にそこに置かれただけであった。

教会が完成すると、誰かに突如仕返しされることを恐れて、聖マルコの遺骸の入った棺は秘密の場所に移し変えられた。総督と寺院参事会会長だけが知っていた。隠匿場所があまりに極秘とされたため、時を経て知る者が皆無となった。

それは1094年6月25日、総督ヴィターレ・フェリエール時代のことである。神の怒りを鎮めるための、厳かな行列が行われた。その時、奇跡的に壁柱が壊れ、祝福を授ける片腕がはみ出した棺が見つかったのである。

正に僥倖である。何故なら、その日寺院には皇帝ハインリヒ(Enrico)4世が参拝にトレヴィーゾから、丁度来訪していたからである。

こうして賛歌と敬虔な音楽の中で、福音史家の遺体は正しく正当な場所に置かれた。しかしそれもまた秘密裏に処理され、直ぐに忘れ去られてしまった。
サン・マルコ広場サン・マルコ寺院と広場[左、カナレット画『サン・マルコ広場と寺院』。右、ヴィゼンティーニがそれを銅版画にしたもの] 見付かったのは正しく偶然で、1817年、寺院の中のコンタリーニ地下祭室でであった。紆余曲折の経緯の後、聖マルコの遺体の棺は最終的には、主祭壇の聖体拝領台の下に安置されている。」 (終り)
 ――Armando Scandellari『Leggende di Venezia(ヴェネツィアの伝説)』(Ediziona Helvetia、1984刊)より。
  1. 2008/11/22(土) 00:02:42|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ヴェネツィアの聖マルコ伝説(2)

(続き)
「ヴェネツィア人は信仰心は大変厚かったが、宗教的な事で細部に拘ることはなかった。即ち聖遺物が必要なだけだった。何処かから盗んでくれば何とかなる。ヴェネツィア人にとって、他所の教会からの奪略など、些細な事でしかない。そんな事には拘泥しないし、今や皆、口にしていることだ。

それは828年のことであった。2人のヴェネツィア商人、一人はブオーノ・トリブーノ・ダ・マラモッコ、もう一人は造船所や家屋、船等を数多く所有していたルースティコ・ダ・トルチェッロの2人が、エジプトのアレクサンドリア(Alessamdria)で10艘の船に商品を満載したことがあった。

アレクサンドリアに到着すると、この2人の商人は危険を冒したのである。というのは、当時のヴェネツィアの税関の規定では、サラセン人との交易は禁じられており、事が露見すると只では済まないし、当然出費は多額に及ぶからである。

その当時イスラム教徒はモスクを飾り立てるために、キリスト教会から略奪しようとする気配があり、それは2人にとっても好ましくなく、取引が終わるや、ヴェネツィア総督に取り入り、友達関係になる方策について考えよう。

聖マルコの遺体は、760年前からここアレクサンドリアにあった。2人の聖マルコの監視員スタウラーツィオ・モーナコとテオドーロ・プレーテ(伊語式呼称)が、聖マルコの聖域を汚されることを恐れているのを知り、2人は大胆な計画を立てた。

それは聖マルコの遺体を盗み、ヴェネツィアに持ち帰るというものであった。ヴェネツィアでは他のどの土地よりも聖マルコに対する権利を主張出来るようになるだろう。

2人の監視人を丸め込むのは造作なかった。ある夜2人は寺院に入り、墓を暴いた。福音史家は顔を隠すように封印されたマントで全身が包まれていた。2人は全てを予測していた。

マントの背中から切り、聖人の遺体を引き出し、代わりにベアータ・クラウディアの体を包みの中に突っ込んだ。そして密かに全ての戸締りを終え、逃げ帰った。気付いた者は皆無だったろう。

難関が最後に控えていた。即ち港での遺骸の輸送である。準備万端の税関吏チェックが待ち受けていたが、実に抜け目ない2人には直ぐに策略が頭に閃いた。

聖マルコの遺体は籠の一番底の穴に収められ、その上に四つ切りした豚の肉切れがいくつも置かれた。豚の肉をイスラム教徒は非常に不潔な物と考えていたので、一瞥することさえしようとしないのである。」 (続く)
  1. 2008/11/09(日) 00:02:56|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ヴェネツィアの聖マルコ伝説(1)

ヴェネツィアには独自の聖マルコ伝説があるそうで、それを記載した『Leggende di Venezia』(Armando Scandellari著、Edizione Helvetia、1984刊)という本をヴェネツィアで見付けました。抄訳ですが、紹介してみます。
『Leggende di Venezia』「聖ペテロの弟子の福音史家マルコは、イエスの言葉の普及のためにローマから世界に旅立つ時、歴史が述べているようにエジプトに向かって南への道を辿ったのではなく、先ず初め、ローマ帝国の大都市《アクィレーイア(Aquileia)》(ヴェネツィアの東にある)へと北を目指したということを、ヴェネツィア人は正しいと思っている[史書曰く、アレクサンドリアで布教し、その地で司教として殉教した]。

アクィレーイアで、彼は直ぐに多くの市民を改宗させた。この布教活動からの帰途、聖エルマーコラ[アクィレーイアの聖エルマゴラス]と《七つの海》[古代ローマ人の言う、ヴェーネト潟のこと]を航海し、ヴァルスガノッタの山々から下ってくる川ブレンタの古い河口の近くで、激しい嵐に襲われ、現在、(ヴェネツィアの)サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャと呼ばれる場所に避難した。

当時ラグーナ(laguna―潟)は無数の草木に覆われた島々や岸辺、葦の生い茂った、人気のない水面だらけといった状態だった。水は楽しそうに戯れ流れ、潮流はぐねぐね蛇行し、時に通行可能の運河が出来たりした。そこでは、沢山の小鳥がかしましく囀り、風の動きで水面が盛り上がってくる、浮遊する平原の最中に居るかのようだった。

聖マルコは嵐が静まると、出来る限り休息し、草を枕に眠った。熟睡している時、青い稲妻のような振動がして、夢の中に美しい天使が舞い降りた。「汝に平和を、我が福音史家マルコよ。いつの日か知るがいい、この島に帰ってくることを」(その間に人々が、この地を曙光よりも美しい街に仕上げている筈だ。人の住む町の中で、最も素晴らしい、信じ難いほどの町に……)。

ヴェネツィア最初の守護神、聖テオドールスが聖マルコに取って代わったのは何故だったのか。聖テオドールスに誠実だったヴェネツィア人は《煩わしがられた》し、厳しく応じられもした。聖テオドールスは余りにもギリシア的であり、その重々しい権威をラグーナ社会に押し付けるビザンティン世界と結び付き過ぎていた。

それ故、カール大帝の息子ピピンに率いられた強力なフランク軍に対する、ラグーナでの伝説的反撃の後、ヴェネツィアは自分達の守護聖人を選ぶことにした(この選択は正に聖マルコに下った)。一福音史家、純粋無垢の聖人、死を恐れぬ勇猛果敢の人、貨幣の上に彼のライオンを刻印したり、旗や船をライオンで飾ったり、本土からほど遠い国境や地中海の孤島でもその存在を際立たせるには、ライオンが相応しい。

[ヴェネツィアでよく目にするように、聖マルコ(Marco)を表示する時は、有翼のライオンで表されます。他に聖マタイ(Matteo)は有翼の男子、聖ルカ(Luca)は雄牛、聖ヨハネ(Giovanni)は白髪の老人であったり、髭のない青年で表されたりします。]

しかし、聖マルコがそうした存在であるためには、町中にそれに値する確固とした物、人々が日常手で触れることの出来るもの、即ち、彼の聖遺物が必要だった。それを手に入れるのは、当時難しくはなかった。」 (続く)
  1. 2008/11/02(日) 00:01:57|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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