イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

サンタンジェロ劇場

古モチェニーゴ館通りからリアルト市場に向かう時、サン・サムエーレ大通り(Sz.S.Samuele)からピッシーナ通り(Rm.di Piscina)、サン・サムエーレ橋を渡り、ナリージ運河通り(Fdm.Narisi)を行くと、アルベロ小広場(Corte de l'Albero)に出ます。

この小広場の大運河に面したサンタンジェロ劇場(Teatro a S.Angelo)運河通りにある貴族のカッペッロ=マルチェッロ家の土地に、1676年ヴェネツィアで唯一大運河に向いた劇場が建てられました。大運河に面していたとはいえ、1828年の新聞によれば、剥き出しの壁面に小さな窓が少数あるだけで、中央に正門、左側に脇門があるだけだったようです。

この劇場の最初の興行師フランチェスコ・サントゥリーニは中産階級の出でした。ヴェネツィアの有力貴族達からボックス席の未払いの席料を徴収出来ない困難の中で、料金を激しく値下げして完売を目指しますが、影響を恐れる他の劇場主から非難されます。

1713年からアントーニオ・ヴィヴァルディが協同の劇場支配人となります。'39年までに彼が作曲し、上演したオペラは18にも及び、その中には『ダレイオス王の戴冠』(1717)、『狂乱のオルランド(アリオストの詩より)』(1727)、『ファルナーチェ(ボスポロス国王ファルナケス2世のこと?)』(1727――大成功を収め、再演されたそうです)、『オリンピーアデ(オリンピック競技会)』(1734)等があるようです。

1720年ベネデット・マルチェッロがヴェネツィアのオペラ界裏面を面白可笑しく風刺した本『Il Teatro alla moda』(『当世流行劇場――18世紀ヴェネツィア、絢爛たるバロック・オペラ制作のてんやわんやの舞台裏』小田切慎平・小野里香織訳、未来社、2002年4月25日発行)を無署名で発刊しました。
『当世流行劇場』『当世流行劇場』図版大扉には、現代人には分からなくても当時の人には明白な内容で、サンタンジェロ劇場に関わった色々な人物についての風刺的言及が暗示的に示されており、特に揶揄の対象になっているのは、司祭帽を被り、片足で拍子を取りながらヴァイオリンを弾き、船の舵を取っている天使で、Prerotesso Aldiviva が Prete Rosso Vivaldi の字句転綴(anagramma)したものであることから、当時カッペッロ=マルチェッロ家の土地に7年間の貸借契約で建てられた劇場の土地が、期限切れになっても返却されないので、裁判に訴え、その相手を茶化していることから作者の名前は直ぐ知れたようです。

いずれにしても、この書は18世紀のオペラの上演に関わった全ての人々、台本作家から劇場売店の主人に至るまで、その大雑把な行動を揶揄したもので、当時の劇場の習慣や裏面等を知るための有力な史料だと言われています。

ヴィヴァルディがよく連れて歩き、彼のオペラにも数多く出演した(14作品だとか)アンナ・ジロは、マントヴァ出身のため《マントヴァーナ》とか《ラ・ジロ》と呼ばれ、1724年サン・モイゼ劇場でヴェネツィア・デビューを果たしました。彼との出会いはマントヴァで、1718~20年頃彼がマントヴァのヘッセン・ダルムシュタット辺境伯の礼拝堂楽長をしていた頃とされています。
[彼が教えたピエタ養育院の娘達は舞台に立つことはおろか、独立したプロの音楽家になることも出来ませんでした。]

そのアンナが住んでいた建物は、この劇場の左側にある道を挟んだ劇場小広場(Cpl.del Teatro)前の建物(現在のヴァポレットのサンタンジェロ停留所前)に住んでいたそうですから、活躍した劇場は全く目と鼻の先だった訳です。
サンタンジェロ停留所前のアンナの家(左)、右は同名の劇場サンタンジェロ停留所前、左はアンナが住んだと言われる建物、路地を挟んで右は旧サンタンジェロ劇場
このヴィヴァルディのお気に入りの愛弟子は、《赤毛司祭のアンナちゃん(Annina del Prete Rosso)》と愛称され、ヨーロッパ演奏旅行では、一人旅が困難だった彼のために、14年間も身の回りの世話で一緒に行動しました(他の歌手達も一緒にです)。ヴィヴァルディは聖職者が女性と同棲関係にあると見做され、非常に非難されます。1737年のフェッラーラ巡業では、堕落した聖職者として入市を拒否されました。

彼によって歌唱力が数段に上がったと言われる彼女のアパートに、彼が“度々”滞在したとする評伝もあるようですが、彼は1740年突然ヴェネツィアを発ち、1741年に独り貧窮の中で、ウィーンで亡くなっています(2008年7月15日のブログインテルプレティ・ヴェネツィアーニもご参照下さい)。一方彼女は、1747年サン・サムエーレ劇場での舞台がヴェネツィアでのラスト・ステージで、翌'48年ピアチェンツァの劇場に出演し、同年ピアチェンツァの伯爵と結婚したと伝えられています。

また1700年代にはT.アルビノーニ、A.カルダーラ、A.ハッセの作品の上演があり、1740年のG.B.ペルゴレージのオペラ・ブッファ『奥様女中』の上演を機に、B.ガルッピとC.ゴルドーニのコラボレーションが数多く見られたそうです。
ゴルドーニ傑作喜劇集ゴルドーニの喜劇としては1753年までに、『骨董屋の家族』『嘘つき』、『コーヒー店』(『ゴルドーニ傑作喜劇集』牧野文子訳、未来社、1984年6月8日発行にあり)、『宿屋の女主人』等が上演されました。

1780年新しく劇場支配人に就任したジャーコモ・カザノーヴァは、フランスから喜劇役者を呼び寄せます。

18世紀終わりには、ファルサやオペラ・ブッファの上演準備がなされる中、1797年には、'92年からヴェネツィアに来ていた前期ロマン派詩人ウーゴ・フォースコロの悲劇『ティエステ(Tieste)』が板に乗せられます。

最後の演し物は1803年のことだったそうです。それ以後建物は倉庫に転用され、数十年後には取り壊されてしまいました。現在大運河に顔を見せる建物、バロッチ館(19世紀建造)はその跡地に建った物でしょうか?

次回も更にリアルト方面に向かって、サン・ベネデット劇場です。
  1. 2008/12/27(土) 00:01:44|
  2. ヴェネツィアの劇場
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サン・サムエーレ劇場

ヴァポレットのサン・トマ停留所の真向かいにある4軒のモチェニーゴ館の内、右端の古モチェニーゴ館の中の一隅にあるアパートを借りたのは、「近くにジャーコモ・カザノーヴァが生まれた通りもある」と言われてのことでした。

そのマリピエーロ通り(Calle Malipiero)は、古モチェニーゴ館(Mocenigo Ca' Vecchia)通りからマリピエーロ大通り(Salizada Malipiero)を通り、サン・サムエーレ教会の右脇で左折する通りがそれです。通りの入口に彼が生まれた道だというプレートが掲げてあります。
カザノーヴァの碑1980年代、イタリア文化会館で《チネテーカ・イタリアーナ》という映画の上演会が行われていました。その中で'85年12月にルイージ・コメンチーニ監督の『カサノヴァ回顧録(Infanzia, vocazione e prime esperienze di Giacomo Casanova veneziano)』(日本未公開)という映画が上演されました。ティーン・エージの少年カザノーヴァが色事師に育っていくというような映画で、ヴェネツィアの現風景がたっぷり現れ、記憶に残っています。

映画終了後、観客少ない中に先頃亡くなられた加藤周一さんが、夫人共々お見えになっており、文化会館館長と挨拶されていました。加藤さんが招聘されてヴェネツィア大学で日本文学を講じられたのは、'83年の事だったそうですから、映画でヴェネツィア現風景が観賞出来るとなれば、これは当然の事だったのではないでしょうか。

この通りを過ぎ、更に進むと劇場通り(Cl.del Teatro)があり、現在中学校になっている所に1655年サン・サムエーレ劇場が建てられ、1710年までは特に喜劇を上演していたそうです。現在の中学校前にある橋(P.de le Scuole)は当時は存在せず、そのためアクセスは悪く、サント・ステーファノ教会前の工房通り(Cl.de le Boteghe)から盲人(Orbi)通りを抜け、最奥まで行かねばなりませんでした。

この劇場はその後C.ゴルドーニらの喜劇と、T.アルビノーニ、A.ヴィヴァルディ、A.ハッセ、C.W.グルック、B.ガルッピ[彼はブラーノ島生まれで、ヴェネツィア生まれのゴルドーニとも気が合ったのか、度々コラボレーション(『裏返しの世界』等)をしたようです]らのオペラが交互に上演されたといいます。

1720年には有名なバレー振付師ガエターノ・グロッサテースタも登場します。

カザノーヴァは、父親がここで演じていたのが縁だったのか、1746年ここの楽団にヴァイオリン奏者として雇われます。『回想録』の中で彼は、単なるディレッタントに過ぎないので、演奏はギーコ、ギーコ弦を引っ掻いていただけだと大変謙遜しているそうです。

1761-62年にはカルロ・ゴッズィの四つの台本が上演されました: 『三つのオレンジの恋』(1761①)、『鴉』(1762②)、『鹿の王』(1762③)、『トゥランドット』(1762④)。彼の戯曲は人気があったようで、次のようにオペラ作品の台本になっています。①S.S.プロコーフィエフ(1919)、②A.J.ロンベルク(1794)、J.P.E.ハルトマン(1832)、③H.W.ヘンツェ(1956)、④C.G.ライシガー(1835)、A.バッズィーニ(1867)、F.B.ブゾーニ(1917)、G.プッチーニ(未完、1926年ミラーノ・スカーラ座初演)。

その他にも『蛇女』(1763)が、F.H.ヒンメル『空気の精』(1806)、R.ヴァーグナー『妖精』(1834)の題で、またA.カゼッラ(1932)により、『幸運な乞食達』(1764)がJ.A.ベンダ(1780)により、など音楽作品があります。

1770年この劇場を建てたグリマーニ[カザノーヴァはこのグリマーニの息子と言われているそうです]家が劇場をある団体に売却しますが、演劇とオペラの上演は続けられ、G.パイジエッロやD.チマローザらの音楽劇が上演されました。

チマローザはナーポリで共和制から王政に戻った時、ジャコバン主義者を我が家に匿った(共和国が出来た時、その賛歌も作っていた)廉で4ヶ月投獄され、釈放されるとヴェネツィアにやって来ました。結局サンタンジェロ(Sant'Anzolo)広場のドゥオード館で1801年客死したのでした。
チマローザ[カッフェッティエール(Cafetier)通り入り口、ドゥオード館の碑] 800年代初め劇場は一旦閉鎖されますが、1819年にはG.ドニゼッティの『リヴォーニアの指物師』の初演が行われました(リヴォーニアはラトヴィア地方の歴史的名称)。

1853年にはヴェローナ人ジュゼッペ・カンプローイが新所有者となり、劇場を修復し、新装成って、ドニゼッティの『ポリュート』で再開場しましたが、場所の悪さと他の劇場との競合で閉鎖止む無しとなり、1894年には壊されてしまいました。

次回は借りたアパートからリアルト方面に向かって、サンタンジェロ劇場です。
  1. 2008/12/20(土) 00:01:52|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ボローニャのモーツァルト

ボローニャに行ってきました。ボローニャに行って是非とも見たいと思っていたのは、アルキジンナージオにある解剖教室(Teatro anatomico)でした。かつての大学の建物には、図書館等が入っています。解剖教室はその一角にありました。

第二次世界大戦中の爆撃で建物が破壊され、解剖教室は戦後再建されたようです。世界初の人体解剖が行われたこの教室の造りは、パードヴァ大学の人の眼を集中させる造りとは異なり、広く明るく開放的でした。

ボローニャに行くに当たって、井上ひさし著『ボローニャ紀行』を読んで行きました。その一番のお勧めに従えば、サン・ドメーニコ教会は必見です。

教会右側廊の中央の聖ドミニクス礼拝堂には、ミケランジェロ・ブオナローティが若かりし頃に刻んだ小さな天使像が右祭壇にありました。この礼拝堂はとても奇麗で素晴らしく、訪れる人が引っ切り無しです。ミケランジェロの天使を見ている間、ここだけに顔を出して帰っていく人も多いように見受けられました。
井上ひさし『ボローニャ紀行』井上さんの本の中の、主祭壇の聖歌隊席の記述の直ぐ後「そして片隅には……」と、14歳のモーツァルトが弾いたオルガンがあると書かれていたので、プレートか何かないかと探しましたが発見出来ませんでした。オルガンのパイプは主祭壇両側にあります。

その足で左側廊中央のロザーリオ礼拝堂(聖ドミニクス礼拝堂真向い)にも入ってみました。ここにも両側にオルガンのパイプがあり、その下にプレートが掲げられ、何やらラテン語で書かれています。右端下に伊語のプレートがあり、最後に次のような事が書かれていました。
モーツァルトについて「……若き神童W.A.モーツァルトが1770年ボローニャ滞在中、その有名な礼拝堂を訪ねたのは偶然だったのではなく、伝統に従い聖歌隊席の新しいオルガンを弾いてみたいと望んだからであった。……」

その時偶々通り掛かった白い僧服の神父(?)さんに、このオルガンをモーツァルトが弾いたのですか、と問うとそうだとおっしゃいました。
イタリアのモーツァルト『イタリアのモーツァルト』(グリエルモ・バルブラン編著、戸口幸策訳、音楽之友社、昭和53年5月15日発行)によれば、ヴェーネトの天才的オルガン製作者ピエートロ・ナッキーニが、モーツァルトのこの教会訪問の10年程前、このオルガンを作ったとあり、それは祭壇の側面の聖書奉読台にある、と書かれていることから、それは主祭壇のオルガンの事のようです。モーツァルトは両方のオルガンを弾いたに違いありません。

この『イタリアのモーツァルト』によりますと、モーツァルト父子が滞在したのは、ボローニャ郊外のクローチェ・デル・ビアッコ村にある、大変世話になったジャン・ルーカ・パッラヴィチーノ伯爵の別荘だったそうで、伯爵にはヴォルフガングと同い年の息子ジュゼッペがおり、彼はジャンバッティスタ・プレディエーリについてピアノを習っており、少年達は直ぐに仲良しになったそうです。

そんな2人の事を映画化したものがあり、モーツァルト没(1791)後200年記念行事の一環で、1990年に一般公開されたプーピ・アヴァーティ監督の『モーツァルト 青春の日々(Noi tre)』です。この2人の少年の間に1人の美少女が配され、少年少女の淡い恋物語(ほのかな eterno triangolo)が、煙るエミーリア・ロマーニャの田園風景で展開します。思い出す度に、しみじみとした、ほのぼのとした気持ちにさせられます。
『モーツァルト 青春の日々』の入場券から[映画の入場券から] モーツァルトの痕跡はヴェネツィアにもあります: サン・マルコ広場のプロクラティーエ・ヴェッキエの一番コッレール美術館寄りの建物下を抜けると、沢山のゴンドラが舫っているオルセーオロのゴンドラ溜まり(Bacino Orseolo)があります。運河沿いのオルセーオロ運河通りを最初の橋(P.Tron)まで行き、左に曲がると直ぐに賑やかなフレッツェリーア(Frezzeria)通りに突き当ります。そのT字路を右に曲がると道は直ぐに左に90度折れ曲がります。そのまま直進するとバルカローリ(Barcaroli)橋に出ます。
モーツァルト記念碑この橋の袂、左の角の建物の運河側に次のような碑文が掲げてあります。「この家に客人として15歳のモーツァルトが、1771年のカーニヴァルの期間楽しく滞在した。ヴィヴァルディとゴルドーニの街は、音楽的天才と18世紀的優雅さを純粋な詩として高めたザルツブルク(Salisburgo)の少年を、ここに記念したいと思う。200年記念日(1971年)、ヴェネツィア市」

この碑文が掲げられている館は、父レーオポルトの精確を期す旅行手帳には《リーオ・サン・ファンティーノのバルカローリ橋のカヴァレッティ(Cavaletti)邸》と記されているそうですが、古文書調査によるとその名は存在せず、《チェゼレッティ(Ceseletti)》家の邸宅だったと前掲の『イタリアのモーツァルト』は述べています。

私の利用している地図は、このサン・ファンティーン(旧教区名)運河をバルカローリ運河(Rio dei Barcaroli)と記載しています。
  1. 2008/12/13(土) 00:34:32|
  2. 音楽
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サン・マルティーノの祝日

リアルトのバーカロ《アンティーカ・オステリーア・ルーガ・リアルト》は、かつて、初めてヴェネツィアを訪れ、夕食に入った時は、《レティーツィア》という名のトラットリーア(食事処)でした。それから数年して現在のバーカロに変わったみたいです。奥で食事が出来るので、ヴェネツィアに行くたびに食事に行き、時には店先のカウンターでスプリッツを立ち飲みしたので、経営者のマルコさんやジョルジョさんとも顔馴染みになってしまいました。
篠利幸『ヴェネツィア―カフェ&バーカロでめぐる12の迷宮路地散歩』この11月この店に夕食に行った時、カウンター内に居たジョルジョさんが、「マルコが日本の本に出た!」と言って、写真家の篠利幸さんが出版されたバーカロの本『ヴェネツィア』(ダイヤモンド社、2008.08.01刊)の中で、この店の欄に写っているマルコさんの姿を見せてくれました。

その夜夕食を摂っている時、突然店先のカウンターの方で、鍋の底を叩くような騒音が始まりました。何だろう?と聞き耳を立てている内に、ふと気付きました。今日は11月11日サン・マルティーノ(聖マルティヌス)の祝日だと。

この日は子供達が集団でお菓子をおねだりに、町中を鍋の底を木のお玉で太鼓のように叩いて練り歩くのです。この風習は前世紀には廃れていたものを、町興しのために近年復活させたのだ、と知り合ったファビアーナさんが教えてくれました。

お菓子屋さんでは、馬に跨った聖マルティヌスの姿をパスタで捏ね上げて作り、様々の色の砂糖菓子や銀色の玉の菓子などで飾り立てるのだそうです。子供のためのお祭なので、子供達が群がります。鍋の騒音は子供達が何らかの戦利品を得るまでは鳴り止まないそうですが、真偽のほどは知りません。この夜、鍋叩きの音が直ぐに終わったので、店でも子供たちへのドルチェを用意していたに違いありません。
[この日は、この聖人の騎士姿を象ったお菓子が子供達に振る舞われますが、ヴェネツィアでは固いマルメロ・ジャムのペルセガーダ(persegada)で作り、銀色の砂糖玉で飾り付けるのが伝統なのだそうです。]

イタリア語を習い始め、暫くして読んだ初心者向けの伝説集に《L'estate di S.Martino(サン・マルティーノの夏)》の一節があり、サン・マルティーノの祝日(la festa di S.Martino)の頃に天気の良い、暖かな日をそう呼ぶのだ[イタリア版《小春日和》]と知りました。このような固有名詞を直接使った熟語、慣用句の類を辞書で探してみました。

avere il tallone d'Achille(アキレウスの腱=アキレス腱)=弱点を持つ
essere Achille sotto la tenda(テント下のアキレウス――『イーリアス』の英雄アキレウスはトロイア戦争10年目、戦争中得た美女ブリーセーイスをアガメムノーンに略奪されて怒り、戦闘を放棄、自分の天幕に帰ってしまったため、ギリシア軍は窮地に陥る)=政争から退いて仲間を見殺しにする
costume d'Adamo(アダムの着衣)=ヌード
essere parente per parte di Adamo(アダムは父[神]により土から作られた)=甚だ遠縁である
figli d'Adamo(アダムの子孫)=人類
pomo d'Adamo(アダムの林檎)=禁断の木の実。あるいは喉仏。因みに pomo della discordia はトロイア戦争の原因となった黄金の林檎
venire dalla costola di Adamo(エヴァはアダムの肋骨から作られた)=(諷刺語として)名門の出である
scendere all'Ade(冥界の王ハーデースの国、黄泉の国に下りる)=死ぬ
croce di S.Andrea(聖アンデレの十字路)=X字形の交差点
fuoco di Sant'Antonio(3世紀の大・聖アントニウス――古く麦角菌中毒を聖アントニウスの火と呼んだ)=ヘルペス(帯状疱疹)
troppa grazia S.Antonio !(パードヴァのイル・サント[清貧に徹した聖アントニウス])=「これは頂き過ぎだ!」
essere secco allampanato(magro) come il cavallo dell'Apocalisse(ヨハネ黙示録の馬――蒼ざめた馬?)=ひどく痩せこけている
essere il filo d'Arianna(アリアドネーが迷宮に入るテーセウスに渡した糸)=問題解決の糸口である
fare l'Aristarco(古代ギリシアの文献学者、批評家アリスタルコス)=酷評を呈する
essere il discorso d'Arlecchino(コンメーディア・デッラルテのアルレッキーノのお喋り)=ちゃらんぽらんな話である
mantello d'Arlecchino(アルレッキーノのマント)=プロセニアム・アーチ
portare nottole ad Atene(アテネに浮気女を連れていく)=無駄なことをする
lago d'Averno(古典古代に冥界の入口と考えられたナーポリ近郊の湖)=冥界、地獄
torre di Babele(バベルの塔)=実現不可能の計画、あるいは騒々しく混乱した光景
la salsa di San Bernardo(シトー会クレルヴォーの聖ベルナールのソース。彼は自己節制が激しく、過酷なまでの清貧生活を強いた)=空腹
fare l'offerta di Caino(カインは弟アベルを殺す)=心のこもらない贈物をする
essere un vero Calvario(カルヴァーリオはキリストが十字架に掛けられたゴルゴタ(Golgota)の丘の別称)=本当に苦労の連続である
gli ozi di Capua(ハンニバルがカープアで兵士を休息させたため、ローマ軍に対する勝機を失う)=油断大敵
farne piu` di quante Carlo in Francia(カール大帝(シャルルマーニュ)の活動以上のことをする)=躍起になる。慌ただしく物事を片付ける
Date a Cesare quel che e` di Cesare, a Dio quel che e`di Dio=皇帝の物は皇帝に、神の物は神に返しなさい
essere Cesare(カエサル) o Niccolo`(ありふれた人名)=全てを、与えるか与えないか(一か八か)
essere come la moglie di Cesare(カエサルが妻ポンペイアを不義の疑いで離縁した時、「苟もカエサルの妻たる者は疑いを掛けられるようなことがあってはならない」と言ったという)=貞節な妻である。何一つ疑点はない
segnare in zona Cesarini(チェザリーニはアルゼンチン出身のサッカー選手)=土壇場で成功する
labirinto di Creta(クレタ島の迷宮)=ラビュリントス
essere sulla via di Damasco(ダマスカスへの途上にある)=改悛・改宗が間近い
avere la spada di Damocle sul capo(シラクーザの僭主ディオニューシオス1世は、王座とは常に危険なもので、髪1本で吊るされた剣の下にあるようなものだ、と廷臣ダモクレスに教えた)=一見幸せの中にありそうだが、常に危険に脅かされている
essere la botte delle Danaidi(穴の空いた樽にダナイス達は水を汲む)=無駄骨を折る
complesso di Elettra(エーレクトラー)=ファーザー・コンプレックス
colonne d'Ercole(ヘーラクレースの柱――ジブラルタル海峡に聳える岩)=それ以上進めない地点
dodici fatiche d'Ercole=ヘーラクレースの十二功業
forze d'Ercole(ヘーラクレースの力)=人間ピラミッド
figli d'Eva(イヴの子孫)=人類
Porca Eva !(酷いエーヴァ)=「畜生、何てこった!」
andare col cavallo di San Francesco(アッシージの聖フランチェスコの馬――彼は動物愛護のため、馬にも乗らなかった、に違いない)=歩いて行く
carrozza di San Francesco(アッシージの聖フランチェスコの馬車)=徒歩
cavallo di Frisia(オランダ北部のフリースラント州の馬―16世紀末スペイン騎馬隊からフローニンゲンの町を守るため木等を組み合わせて作った防御柵)=木の台に有刺鉄線を巻き付けた防柵また鉄条網
rosa di Gerico(ジェリコ[Jerichoエリコ]は死海北方のヨルダン(現パレスチナ)の古代都市)=アンザンジュ(安産樹)
Conchiglia di San Giacomo(Santiago[西語《聖イアゴ(ハコボ)》=伊語《聖ジャーコモ》=聖ヤコブ] de Compostela に巡礼する人達は、この地方西海岸 Finisterre で採れる帆立貝の殻を巡礼のシンボルとした。ボッティチェッリのヴィーナスはこの貝から誕生)=帆立貝のこと。ヴェーネト地方では capasanta だとか
rosa di Giappone(日本の薔薇)=椿
pagare nella valle di Giosafat(旧約聖書ヨエル書のヨシャファト(主の裁き)の谷。彼らがユダヤの地を分配して私物化したことは決して認めない)=支払いは無とする、無期限に延期する
essere piu` tondo dell'O di Giotto(画家ジョットのO)=真ん丸である(ジョットはフリーハンドで完全な円を描きながら「訳ない」と言ったそうです)。あるいは、間抜けである
dare il bacio di Giuda(ユダの接吻〔=il bacio di Tosca(プッチーニのオペラ『トスカ』より)〕)=裏切る。表面だけの好意を示す
fare il volo di Icaro(イーカロスは父ダイダロスの考案した蠟で留めた羽根でラビュリントスから飛び立つ)=野心的壮挙に出るも惨めに潰える
sembrare Lazzaro resuscitato(奇跡的に蘇生したラザロはキリスト死後も伝道に尽くす)=辛うじて生き長らえる
fare la Maddalena(マグダラのマリア) pentita=悔やんでいる事を更に誇示する
Madonna!(聖母マリア)=「うわっ、何としたこと!」
cercare Maria per Ravenna(マリーアとマーレ(海)の連想遊びから、海岸から離れたラヴェンナを諷して)=見つかる当てのないものを探し回る
fare da Marta(ラザロとマリアの妹マルタ) e Maddalena(マグダラのマリア)=何事にも献身的に奉仕する。一人で色々の仕事をこなす
gioco di Marte(軍神マルスのお遊び)=詩語、戦(いくさ)
estate di san Martino(聖マルティヌスの夏)=小春日和
fare san Martino(聖マルティヌスの聖名祝日11月11日を住居契約の期限としたことから)=引っ越しする。立ち去る
Per un punto Martin(=san Martino) perse la cappa(彼はピリオドの打ち方を間違え、修道院長しか着れないマントを摑み損ねた)=千慮の一失 
avere gli anni di Matusalemme(ノア時代前のユダヤの族長メトセラは969年間生きた)=非常に長命である
fare san Michele(聖ミカエルの祝日、5月8日と9月29日を住居契約の期限としたことから)=引っ越しする。立ち去る
menare l'orso a Modena(モーデナに熊を連れていく)=得にもならない仕事を始める、出来もしないことをやる
far molto Montenapo Capri(ミラーノのモンテナポレオーネ通りやカープリ島に住む優雅な人達)=上流階級の人だ
essere in braccio a Morfeo(夢の神モルペウスの腕の中)=熟睡している
fata Morgana(アヴァロン島の女王、妖精モーガン・ル・フェイ[アーサー王の妹])=蜃気楼
durare da Natale a S.Stefano(クリスマスから12月26日(聖ステパノの日)まで)=長続きしない
avre la camicia di Nesso(半人半馬の怪物ネッソス神。デーイアネイラは夫ヘーラクレースにネッソスの血が付いた下着を送り、彼が着ると死に、自らも縊れた)=苦境に立つ、にっちもさっちも行かない
giunco del Nilo(ナイル川の藺草)=パピルス
arca di Noe`(ノアの方舟)=人類の救済
scendere dal suo Olimpo(オリュムポス山から降りる)=身分の高い人がお出ましになる
avere visto l'Orco(冥界の王ハーデースに出逢った)=驚きのあまりはっと息を呑む、声がかすれる
Paganini non ripete(音楽家パガニーニは演奏後サルデーニャ王カルロ・フェリーチェのbis(アンコール)の要求には応じようともしなかったため、2年間国外追放になった)=同じ事は二度としない
Paga Pantalone !(「パンタローネが払ってくれるさ !」)=常に弱者が償わされる
essere il pozzo di San Patrizio(アイルランドの小島にある聖パトリックの井戸の底のイメージから)=底なしに強欲である。着想(財産)が尽きない
essere come la tela di Penelope(オデュッセウスの妻ペネロペーの織物)=いつ終わるとも知れない仕事である
essere il parere di Perpetua(A.マンゾーニの『いいなづけ』の登場人物ドン・アッボンディオ司祭の下女の名、お喋りで、無教養、だが常識に富む)=世間の常識に適う意見である
valere un Peru`(ペルー国)=莫大な価値を持つ
la barca di Pietro(聖ペテロの舟)=カトリック教会
essere come la fabbrica di San Pietro(サン・ピエートロ大聖堂の建設)=いつ終わるとも知れない仕事である
fare San Pietro〔prendere San Pietro per la barba〕=白々しい嘘をつく
la vittoria di Pirro(ギリシア北方エペイロスの王ピュロスはBC.280年ローマ軍を破ったが、完全な勝利ではなく大損害が残った)=大き過ぎる犠牲を払って得た勝利
portare il soccorso di Pisa(第一次十字軍の闘いで、既に勝利していたジェーノヴァ軍の後でピーザ軍が現場に到着)=遅ればせながら援助の手を差し伸べる、役に立たない
tavola pitagorica(ピュータゴラース=ピタゴラスの表)=九九の表(2x2=4……9x9=81)
letto di Procuste(o Procruste)(ギリシア神話の強盗プロクルーステースは旅人をベッドに縛り付け、ベッドの長さに合わせて切ったり叩き伸ばしたりしていたが、テーセウスに退治された)=身動きの取れない苦境(letto di Damaste とも―ダマステはレスボス島のMitiliniに生まれた古代ギリシアの歴史家Hellanikos(Ellanico)の弟子と言われています)
fare il Pulcinella(コンメーディア・デッラルテのプルチネッラ)=無暗に考えを変える
fare le nozze di Pulcinella(プルチネッラの結婚)=結婚式などが滅茶苦茶になる
il segreto di Pulcinella(プルチネッラの秘密)=公然の秘密
fare come i capponi di Renzo(マンゾーニ著『いいなづけ』の登場人物レンツォが持参した雄鶏)=不幸な者同士が自棄になって喧嘩する
capire(prendere) Roma per toma(toma[僻陬の地?]をローマと取り違える)=完全に誤解する
promettere Roma e toma=途方もない事を約束する
passare il Rubicone(ルビコン川渡河)=重大な決意をする
credersi un Salomone(前10世紀頃のイスラエルの王ソロモン)=自分を賢い人間だと思っている
essere una sirena(海の妖精セイレン)=セクシーな女性である
essere fra Scilla e Cariddi(メッシーナ海峡にある岩シッラと渦巻きカリュブディスの間)=進退極まる
il supplizio di Tantalo(神々の秘密を洩らした罪で罰せられたタンタロスは、目前の水や果実を手にしようとすると、水も果実も退き、永遠の飢えと渇きに苦しむ)=飢えの地獄のような苦しみ
regno di Teti(海の神テティスの領土)=海
Tizio Caio e Sempronio=甲氏、乙氏、丙氏等々
cavallo di Troia=トロイの木馬
sacerdotessa di Venere(ヴェヌスの巫女)=娼婦
strabismo di Venere=女性の魅惑的な斜視
gnomo di Zurigo(チューリッヒの小鬼)=(大規模に国際投機を展開する)スイスの銀行員

日本語も『論語』等の昔から、四字熟語など長い歴史を引きずっているように、イタリア語も聖書やギリシア神話、古代ローマ等からの伝統を受け継いでいるのが理解されます。
  1. 2008/12/06(土) 00:01:33|
  2. ヴェネツィアの行事
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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