イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

マリーア祭(2)

(続き)
「昼に夜にヴェネツィア人は追跡のために猛り狂ったように海を駆け抜けた。遂に夜明けにはカーオルレの沖で追い付いた。海賊どもには最早逃げ道はなかった。

敵船舷側に横付け(All'arrembaggio)などという程度の攻撃ではなかった。敵船に躍り込み、肉弾戦での突撃による全殺戮だった。ヴェネツィア人の皆殺しは執拗で、悪党どもの一人として死を免れた者はいなかった。

こうして、身に敵の辱めを受けるよりも自殺を決意していた花嫁達への復讐は成り、その累々たる屍骸の、気味は悪いがそれに値する埋葬を残すだけとなった。各々の足に石を括り付け、魚の餌とすべく海に沈めた。

その日から海は鏡のように凪ぎ、この戦いの舞台はその時からそして現在に至るも、Porto delle Donzelle(乙女の港)と呼ばれている。

2月2日の聖母マリア様のお清めの祝日に、小さな船団が帰還してきた。あの日、花嫁が掠奪された恐ろしい日以来、町には不穏な空気が漂っていた。しかし今や花嫁を取り戻すという記念すべき快挙を断行した英雄達のために、お祝いをしなければならない。

こうして喜びの知らせが小路から小路へと伝わっていき、市民挙って総督宮殿前に集まった。総督が最高に勇敢だった者に褒美を取らせると伝えたのだが、それを選ぶのは市民自身になるだろう。

攻撃の中心になったのは箪笥や宝石箱など高級な家具を作る家具職人(casseler――伊語cassettaio)達だった。総督の前で、今やこの勇気ある職人達はお互い肩を抱き合い、見つめ合っていた。何を望んでいるのだろうか。

「晴朗極まりなき閣下、我々はなすべき事をなしたまでのことでございます。我々は皆、サン・マルコの息子であります(Semo tuti fioi de San Marco.)。しかし閣下がこの日を記念として、我等が教会サンタ・マリーア・フォルモーザへご来駕頂けるという、類いまれなる名誉を賜ることが出来ますれば、生涯に渡り閣下に感謝の意を捧げる者であります。」

こうした気高い至情に満足して、総督カンディアーノは目で同意の意を示し、冗談を言い始めた。
「しかし……その日雨でも降っていれば……?」
「恐怖はありませんでした。晴朗極まる日でございました。閣下に黄金色の麦藁帽をお送り致します。」
「しかし、飢えと渇きを覚えたら?」
「その時は、オレンジとマルヴァジア酒[マルヴァジーア産白ワイン]をお送り致します。」
こんな風に事が決まり、実際その通りとなった。

毎年2月2日、総督はサンタ・マリーア・フォルモーザ教会を訪れ、世界でも最強のこの共和国の最高権威でさえなさねばならないシンボルとしての、喜捨の金貨を教会に入る前に黄金の水盤に入れたのであった。

テ・デウム(至聖なる三位一体の賛歌)の後、司祭館で家具職人達の敬意に満ちた挨拶を受けた。即ちカンディアーノ家と教皇の紋章入りの帽子各1点、籠一杯の蜜柑、大きな南瓜のようなフィアスコ瓶2本のワインである。

こうして無事に帰宅した12人の乙女のために、同夜直ぐに、以後《マリーア祭(La festa delle Marie)》と呼ばれることになる祭が行われた。翌年も次の年も、次第に華やかになりながら繰り返された。そのため時代が下ると、聖母マリアのお清めの祝日の丸1週間、連続して続くことになった。」  (3へ続く)
  1. 2009/01/31(土) 00:03:09|
  2. ヴェネツィアの伝説
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マリーア祭(1)

ヴェネツィアのカーニヴァルが近付きました。今年は2月14日から始まり、2月24日が皆こぞりて楽しむ最後の《懺悔の火曜日(martedi` grasso)》となります。因みに来年2010年は、4月4日が復活祭なので、2月16日がカーニヴァル最終日 martedi` grasso となるようです。

昨年2月のカーニヴァルの時、サン・マルコ広場の仮設の舞台で、6セスティエーリ(区)から2名ずつ選ばれた、12名のマリーエ[Marie⇒Maria の複数]の中から最終的に一人の Maria を選ぶコンテストがありました。このコンテストの基となった Festa delle Marie(マリーア祭)[この催しは今年もあるようです]の伝説が、前にも借用しました Armando Scandellari 著『ヴェネツィア伝説集(Leggende di Venezia)』(Edizione Helvetia)にありましたので、下手な抄訳を試みてみました。
『Leggende di Venezia』「1000年以上も前、ルースティコ・ダ・トルチェッロとブオーノ・トリブーノ・ダ・マラモッコがアレクサンドリアの寺院から危険を冒して盗み出してきた聖マルコの遺体が、ヴェネツィアに届いた記念日、1月31日に、ヴェネツィアでの結婚は伝統的に篤い信仰心の表れで、全てサン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂で執り行われたものだった。総督ピエートロ・カンディアーノ(2世か3世か明確でない)の時だった。

全6区からの12人の乙女達が結婚しようとする、正にヴェネツィアの国家的行事のその日、12人全員が教会に集い、装飾が施されたアルチェッラ(arcella)という櫃に婚資を入れ、12人の新郎も輝くようなお洒落で身を飾り、各花嫁の正面の身廊の向い側に横一列で並んでいた。

その日結婚式では、総督も夫人とともに素晴らしい王冠を被り、行政官や議員、貴族が居並び、貴婦人達は華麗に刺繍した絹の燃え立つようなマントを羽織り、その背後に感動してさんざめく大群衆が押し合いヘし合いしていた。

サン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂の司教と大聖堂参事会員が、この聖なる式典に参列しようとした将にその時のことである……。突如トリエステの海賊が聖堂に恐ろしい雄叫びを発しながら、凄まじい形相で乱入してきた。

その悪魔のような一団は、以前からずっとヴェネツィアの富を羨望しており、前日トレ・ポルティの海岸に1艘のブリガンティーンという帆船と1艘のガレー船でやって来て、更に密かにオリーヴォロ[カステッロ]島に着岸し、一晩中待ち伏せて待機しており、誰もそのことに気付いていなかった。何故なら、そんな企ては無謀過ぎ、狂気の沙汰だったからである。だから彼らはまんまと成功した。

不意打ちするや即逃亡、の手筈だったらしく、事は容易に成就した。ある者が武器もなしに、無駄な抵抗を試みても、あっという間に連中に薙ぎ倒され、恐ろしいばかりに地面に投げ出されることになる。連中は花嫁はもとより、全てを強奪し、三十六計を決め込んだ。そしてヴェネツィア人が我に返った時には、早、海賊は姿を消し、既に自分達の船に到達し、娘達も略奪品も積み終えていたのである。

老総督カンディアーノは怒りに震え、男達に直ぐ武装させ、何艘もの船を集めた。全員急ぎ手を取り合い、最速の船を選んだ。
[註: 貨物運搬用のカオルリーナが活躍したようです。毎年9月第1日曜日に催されるレガッタ(Regata storica)の、第3番目の競技で6人漕ぎのカオルリーナが登場します。政庁主導のレガッタは1300年頃の《マリーア祭》から始まったのだそうです]。

「ロープを解け!」。一瞬の内に帆が張られ、沖に出る。「捕まえろ、サン・マルコのために!」

その時、トリエステ人は略奪品と花嫁を分配するためにトレ・ポルティに停泊していた。そして大成功と確信していたので、最初、1艘の帆船、更に1艘、また更に1艘と船が現れたのを見ると、恐怖のあまり凍りついたようになり、遁走の前に貴重な時間を失っていた。ヴェネツィア人にとって幸運だったのは海賊船が2艘だったことである。」  (2へ続く)

[註: 年表では、この花嫁の誘拐事件は946/948年に起こり、時の総督はピエートロ・カンディアーノ3世(942~959在位)のようです。またPCの公式サイトを覗くと973年とあり、その場合はピエートロ・カンディアーノ4世となります]。
  1. 2009/01/24(土) 00:40:35|
  2. ヴェネツィアの伝説
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サン・ルーカ(あるいはサン・サルヴァトーレ)劇場(2)

[ヴェンドラミーン家によって建てられたこの劇場は、当初ヴェンドラミーン劇場またはサン・サルヴァドール(伊語S.Salvatore)劇場と呼ばれ、18世紀後半にはサン・ルーカ劇場と称された、とする資料もありました。現在はゴルドーニ劇場。]

18世紀半ばには、劇場支配人はこの劇場を特に演劇用の劇場に専門化して、1753~62年にはカルロ・ゴルドーニの傑作喜劇のいくつかを上演しました。その中には『Il Campiello(小広場)』『I Rusteghi(田舎者達――Rusteghi(ルーステギ)=伊語Rustici)』『Le Baruffe chiozotte(キオッジャのいざこざ――chiozotto=伊語chioggiotto)』『Sior Todaro Brontolon(テオドーロ・ブロントローン氏――Todaro=伊語Teodoro)』『Una delle ultime sere di Carnovale(謝肉祭の最後の一夜)』等があります。

1760年にはバルダッサーレ・ガルッピのオペラ『シリアのハドリアヌス帝』が大成功を収めました。ガルッピと協働の多かったゴルドーニは次のように書いているそうです。「そのシンフォニーアを聴くだけで心が雀躍するのを覚える。生活の中で音楽を楽しめば、感謝と勇気に満たされる」と。

1761年には劇場は全面的に建て替えられ、現在のゴルドーニ劇場と同じ位置に玄関が変えられました。現在の劇場前の、劇場あるいは喜劇通り(Calle del Teatro o de la Comedia)はその当時は大変狭かったので、入口は劇場小広場(Corte del Teatro)に向いていたのだそうです。

1818年11月14日ガエターノ・ドニゼッティは『ブルゴーニュのアンリ』と『狂気』でヴェネツィアに初登場します。
1826年ヴェネツィアの劇場では初めて、劇場にガス灯が採用になりました。
1833年にアポッロ劇場と名称を変えます。

1834年、19世紀の偉大な女性歌手の一人ジュディッタ・パースタがヴィンチェンツォ・ヴェッリーニのオペラ『ノルマ』で記録的な大当たりを取りました(初演したノルマ役は彼女の喉には難しく、《清らかな女神よ》を1音下げてヘ長調にするよう求め、以来そのままになっているのだそうです)。

1837年2月18日ドニゼッティの『Pia de' Tolomei(ピーア・デ・トロメーイ)』(『神曲』煉獄篇第五歌の中でダンテによって歌われた彼女について、その「後註」は述べています。「シエーナの貴族トロメーイ家出身の彼女は、最初バルド・デ・トロメーイに嫁したが、夫の死後ネッロ・デ・パンノッキエスキと再婚した。新夫はアルドブランデスキ伯爵の未亡人マルゲリータと結婚するため、彼女を屠ったとも、彼女自身マレンマ城上から身を投じた、とも言われている」そうです)が初演されました。

1840年著名なバレリーナ、ファンニ・チェッリートが登場します。

1847年のジュゼッペ・ヴェルディの『アルズィーラ(ヴォルテール作『Alzire』による)』(1846年ナーポリ初演)が完全な失敗の下に幕を閉じます(彼のオペラの中で最も不評だったものと言われているようです)。

1853年劇場はフェッラーリ・ブラーヴォの手で新ゴシック様式で修復されました(1979年現在のゴルドーニ劇場として再建された時、その装飾等は正確に再現されたと言われています)。

1875年劇場名が変わり、現在の呼称となりました。音楽劇としてのオペラは数が減り、オペレッタやヴォードヴィルの上演が増えたそうです。

1902年エレオノーラ・ドゥーゼが恋人ガブリエーレ・ダンヌンツィオの『フランチェスカ・ダ・リーミニ』(1901)を演じました。
アーゾロ博物館のエレオノーラ・ドゥーゼの部屋エレオノーラ・ドゥーゼの肖像左、アーゾロ博物館のエレオノーラ・ドゥーゼの部屋。右、フランツ・フォン・レンバハ画『エレオノーラ・ドゥーゼの肖像』
1909年ファサードが付け足され、その様式が雑然として曖昧だったため、鉄道駅舎だと陰口を叩かれます。
1922年エレオノーラ・ドゥーゼが『海の夫人(La donna del mare)』(ヘンリック・イプセン作)を演じました。

1932年9月6日アルフレード・カゼッラがアンジェロ・ポリツィアーノ(1454~94)の『オルフェウス物語』を元に作曲した同名のオペラを初演しました。

1937年ダリウス・ミヨーの管絃楽曲『プロヴァンス組曲』とイーゴリ・ストラヴィーンスキーのバレエ曲『カルタ遊び』の初演が行われました。

1947年劇場は使用不能として閉鎖されましたが、1979年ヴィットーリオ・モルプルゴによって徹底した修復の後、カルロ・ゴルドーニの『旅館の女主人』で再開場を果たしました。初建設の地に現存する劇場としてはヴェネツィア最古の劇場だそうです。
ゴルドーニ像リアルト橋をサン・マルコ側に降りてくると、直ぐにサン・バルトロメーオ広場(Cp.S.Bartolomeo)に出ます。広場中央にはアントーニオ・ダル・ゾット作のカルロ・ゴルドーニの銅像があります。彼の視線を追って行くと、真っ直ぐにいくつかの通りを経て、彼の名を冠したこの劇場に辿り着きます(写真=イタリアのサイトから借用)。
  1. 2009/01/17(土) 00:01:21|
  2. ヴェネツィアの劇場
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サン・ルーカ(あるいはサン・サルヴァトーレ)劇場(1)

リアルト市場に向かって更に前進します。ロッスィーニ映画館前の橋(P.del Teatro)を渡り、サン・ルーカ教会前でキエーザ運河通り(Fdm.de la Chiesa)を左へ行くと、直ぐにグリマーニ家の建物(Pal.Grimani)に突き当ります。現在ここは控訴院になっています。

右に折れ、直ぐ左折し、再び直ぐを右に折れてヴォルト通り(Cl.del Volto)を行くと、市庁舎脇の広いカヴァッリ(Cavalli)通りに出、左折すると、もうカルボーン運河通り(Riva del Carbon)で、右前方にリアルト橋が望めます。

この運河通りで3本目の横町カルボーン小路(Rm.del Carbon)へ右折し、劇場小広場(Corte del Teatro)を通り過ぎると、劇場または喜劇通り(Calle del Teatro o de la Comedia)に出ますが、直ぐ左の角が現在の演劇の専門館ゴルドーニ劇場です。
ゴルドーニ劇場[サイトから借用] この劇場の前身は、近くの教会名からサン・サルヴァトーレ(あるいはサン・ルーカ)劇場と呼ばれ、貴族のヴェンドラミーン家によって1622年建造されました。'52年には焼失、'61年にオペラに適した舞台と観客席を備えた劇場として再建され、ダニエーレ・カストロヴィッラーリの『Pasife(パジーフェ=パーシパエーは魔女キルケーの姉妹で、牛頭人身の怪物ミーノータウロスを産んだ)』を杮落しとして選びましたが、観客が台本を燃したりして騒ぎ、上演を妨害したため不成功に終わりました。

その後、アントーニオ・チェスティの『Dori(ドーリス、大洋神オーケアノスの娘)』(1663)とジョヴァンニ・レグレンツィの『世界の分割』(1675)は大成功でした。このチェスティのオペラは、フィレンツェで1661年に初演され、評判になったもののようです[アレッツォ生まれ(1623.8.5)の彼は、洗礼名ピエートロ、フランシスコ修道士としてアントーニオ、誤ってマルカントーニオ等様々に表記されるので混乱します]。

ウィーンで上演した、大変有名な『Il pomo d'oro(金の林檎―トマト?)』(1668)を書いた彼は、初期の『Orontea(エジプトの女王オロンテーア)』(1649)、『恋するカエサル』(1651)、『克己の人アレッサンドロ(アレクサンダー大王?)』(1654)とヴェネツィアで上演し、フランチェスコ・カヴァッリと並び、ヴェネツィア・オペラの双璧と見做されているそうです。その他、『Tito(ティトゥス帝)』(1666)、『Genserico(ジェンセリーコ=ヴァンダル王ガイセリック)』(1669)等がヴェネツィアで上演されたようです。

他方フランチェスコ・カヴァッリ(1602.2.14クレーマ生)は、サン・マルコ寺院楽長クラウディオ・モンテヴェルディの弟子となり、後年'68年には彼もそこの楽長に任命されました。そこに至るまでの間、『テティスとペーレウスの結婚』(1638)を皮切りに、40曲以上のオペラを作曲したと言われ、最も有名なオペラは『Giasone(ジャゾーネ=イアーソーン)』(1649)と言われています。

ヴェネツィアでは、サン・カッスィアーノ劇場で9作、この劇場が閉鎖されるとサンタポッリナーレ劇場、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場などにオペラを提供し、サン・カッスィアーノ劇場が再開場されるとそこに戻りました。それ以外にも『恋するヘラクレス』(1660)をパリで上演するなどヴェネツィア以外のためにも作曲したようです。

フェルディナンド・ビビエーナの舞台装置が大変な評判になります。

1684年には何頭かの馬を舞台に登場させるために、木の階段が舞台に設けられるという噂が流れます。

1708年、音楽家のマルチェッロ兄弟(ベネデット、アレッサンドロ、3番目のジローラモ)が借りたボックス席の支払いのことで喧嘩になり、お互いに告訴をし合い、僅かの賃料のことで裁判官の前に召喚される事態となったそうです。

1742年歌手のロザンナ・スカルフィが、オペラ『アルタセルセ(ペルシャ帝国アケメネス朝の王アルタクセルクセス)』の中で初めてにして最後のヴェネツィア・デビューを果たしました。彼女はベネデット・マルチェッロが秘密にしていた妻で、彼の死(1739.7.24ブレッシャ)まで、ヴェネツィア・デビューは禁じられていたそうです。
  1. 2009/01/10(土) 01:01:23|
  2. ヴェネツィアの劇場
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サン・ベネデット劇場

更にアルベロ小広場を通り抜け、アルベロ橋を渡って直進し、ミキエール(Michier)橋を越すと、ペーザロ(Pesaro)通りからサン・ベネデット(ヴェ語S.Beneto)広場へ出ます。

広場の前のペーザロ館は、フォルトゥーニ美術館(スペイン画家マリアノ・フォルトゥニ・イ・マルサルの息子の画家・ファッション・デザイナー、マリアノ・フォルトゥニ・イ・マドラソのMuseo)となっており、以前は素晴らしい中庭から外階段を上って2階の入口に到達しました。リアルト市場へ行く時は、この美しい中庭を覗くのが楽しみでした。現在は入口が変更され、中庭側のドアは閉ざされてしまったようです。
フォルトゥーニ美術館[フォルトゥーニ美術館パンフレット] 広場からロッスィーニ映画館裏の、劇場大通り(Salizada del Teatro)を直ぐに左折してサンタンドレーア(S.Andrea)通りを道なりに進むと、劇場橋(P.del Teatro)前に、ロッスィーニ映画館の入口が開けています。現在ヴェネツィアで稼働している映画館は、サンティ・アポーストリ教会脇を北上した所にあるジョルジョーネ映画館だけと思われ、一方この劇場近辺は人通りも稀で、今や廃墟の様相を呈しています(2007年11月17日のCampo S.Lucaもご参照のほどを)。

この劇場はかつてサン・ベネデット(ヴェネツィア語、サン・ベネート)劇場と呼ばれ、1755年有力貴族の一家グリマーニ家により建設されました(この一家は他にも豪華なサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ、サン・サムエーレ等の劇場も建造しています)。これまで建設された劇場の中では、舞台も最大で、設備も最上と言われ、ヨーロッパの中でも幕を持った最初の劇場だったそうですが、直ぐに経営がある団体《Societa`》に譲られてしまいます。

以前に触れた書『イタリアのモーツァルト』によれば、モーツァルト父子は1771年2月11日の朝ヴェネツィアに到着し、その日このヴェネツィアで最良のサン・ベネデット劇場に、メタスタージオ台本、ジョヴァン・バッティスタ・ボルギのオペラ『シロエ』を見に行った、とあります。

1774年12月26日には火事で焼け落ちてしまいますが、再建され、パスクァーレ・アンフォッシの『オリンピーアデ』で再開場しました。

1776年バレエ『コリオラーノ』は、当時国家査問官のスパイをしていたジャーコモ・カザノーヴァの告発で、革命的思想を刺激するものとして、上演が禁止されます。'78年にはバレリーナ、マリーア・カンチャーニが記録的な大当たりを取ります。

1786年には、土地の所有者ヴェニエール家が劇場の経営者の団体《Societa`》を排除・追放し、排除された人達はそこから離れた場所に新しく劇場の建設をすることになりました。それが現在のフェニーチェ劇場となっていきます。

18世紀末には観客達は、サン・サムエーレ劇場派とサン・ベネデット劇場派に分かれ、熱い議論を闘わしました。

1810年ジョヴァンニ・ガッロが劇場を購入し、呼称をガッロ劇場と改名します。
1813年5月22日ジョアッキーノ・ロッスィーニの『アルジェのイタリア女』の初演が大成功を収めました。
1845年バレリーナ、マリーア・タッリォーニが『シルフィード』でデビューし、大喝采を受けます。

1854年5月6日ジュゼッペ・ヴェルディの『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』の再演が成功裏に終わりました。彼は次のような手紙を書いているそうです。「ところで、ご存じのように、今サン・ベネデット劇場で上演している『トラヴィアータ』は、昨年フェニーチェ劇場で上演したものと全く変わりないものです。いずれにしても、音楽も歌詞も何一つ変更も追加も削除もありませんし、音楽的構想も変えていません。フェニーチェ劇場のために用意した全てが、ここサン・ベネデット劇場にそのまま全てあります。あの時は失敗でしたが、今度は大成功です」。

しかし劇場側の対応には変更があったようで、フェニーチェ劇場の時の小さな宣伝ポスターに比べて、サン・ベネデットの時の宣伝ポスターは格段に大きな物だったそうです。

1868年ロッスィーニの死亡ニュースを受けて、劇場経営者は彼のオペラで大成功を与えてくれた作曲家の名前を劇場名にすることにしました。

20世紀には映画館となりましたが、映画衰退とともに映画館でもなくなり、現在は廃墟寸前のようです。有効利用の道はないのでしょうか。次回は更にリアルト方向へ、サン・ルーカ劇場です。

追記=2012.11.17日のジョゼフ・ターナーで、ロッスィーニ映画館の再利用について触れました。
  1. 2009/01/03(土) 00:01:15|
  2. ヴェネツィアの劇場
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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