イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ジョルジョ・バッサーニ(2)

(続き)
「……ミコルはその日の午後過ぎにヴェニスに、彼女も≪射落す≫というプログラムをたずさえて出発していたのだ。彼女はきれいな旅行着を着て、トランクだの何だのをそろえて、食事に降りてくるや、≪虚を突かれて唖然としている家族の者に≫、心に堅く持していることを宣言したのである。つまり、六月にではなく、二月に卒論を仕上げて出るつもりである、ヴェニスではマルチアナとかクェリーニ・スタンパリアなどの図書館がすぐそばにあるから、うまくいくにちがいない、フェルラーラでは駄目である……」 (第三章の二より――大空幸子訳)
[サン・マルコ図書館(Biblioteca marciana)やクェリーニ・スタンパーリア(Querini Stampalia)図書館は有名です]

前回引用の訳文中の《マルツォ22番街(Calle Larga XXII Marzo)》[3月22日大通りの事]について: 
2007年11月22日のブログでも書きましたが、1848年はヨーロッパ中で革命の嵐が吹き荒れた年でした。特にイタリアは他国に支配されていた地域が多く、強権に確執を醸す、土地に根差した運動が各地で起きました。シチーリアの反ブルボン運動、ナーポリの大デモ、ミラーノの市民の市街戦《ミラーノの5日》等。

ヴェネツィア人の心にもその熱い息吹が伝わり、当時の占領者オーストリア帝国に対して、ダニエーレ・マニーン(1804ヴェネツィア~'57パリ)とニッコロ・トンマゼーオ(1802セベニーコ(ダルマツィアのシーベニク)~'74フィレンツェ)をリーダーに、民衆、特にアルセナロット(造船所労働者)達を中心にヴェネツィア人が蜂起し、権力の象徴(そこに敵の息のかかった軍隊がいた)としてのアルセナーレ(国営造船所)を占拠したのが《3月22日》でした。

その蜂起から始まった行動により、オーストリア支配を排除し、革命運動が成就し、第二のヴェネツィア共和国としての臨時政府が誕生しました。しかしこの革命政府もオーストリア軍の反撃で、再び一年足らずで潰えてしまい、マニーンとトンマゼーオは他の38人の主だった人達と共に国外に追放されてしまいます。

イタリア人による統治が復活するのは、イタリア維新(リソルジメント)の中、1866年にイタリア王国に併合されるまで待たねばなりませんでした(もはや《ヴェネツィア共和国》の時代ではなかったようです)。

色々な家が崩壊したことに始まった、この3月22日大通り地区の道路拡張整備により、広い大通りが1881年に開通し、あの革命的《3月22日》を記念して、《3月22日大通り》と命名されました。サン・モイゼ教会を背にして、大通りの前方どん詰まり右に、道路拡張記念のプレートが掲げてあります。
拡張された3月22日大通りの碑「市民の願いにより、1880年この道は拡張された。市長ダンテ・ディ・セレーゴ・アッリギエーリ」
バッサーニのこの本にはサント・ステーファノ広場が登場します。その広場中央にはニッコロ・トンマゼーオの銅像が立ち、多分《3月22日大通り》を、更にその先のアルセナーレを凝視しています。ダニエーレ・マニーンの銅像は彼の名を冠したマニーン広場にあって、彼の長年住み慣れた《我が家》を見下ろしています(生家については、サンタゴスティーン広場(Cp.S.Agostin)傍のアストーリ小路(Rm.Astori)最奥にその碑板が掲げてあります)。
ダニエーレ・マニーン像ダニエーレ・マニーンの生家トンマゼーオ左、マニーン広場のマニーン像。中、アストーリ小路奥のマニーン生家、右、サント・ステーファノ広場のトンマゼーオ像(背後のcagalibri)。
  1. 2009/02/28(土) 00:02:07|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:2

文学に表れたヴェネツィア――ジョルジョ・バッサーニ(1)

1987年製作のジュリアーノ・モンタルド監督の映画『フェラーラ物語(Gli occhiali d'oro)』をご覧になった方も多いと思います。原作はフェッラーラに住んで、フェッラーラを描いたユダヤ系作家ジョルジョ・バッサーニ(1916.03.04ボローニャ~2000.04.13ローマ)が、1958年に発表した『金縁の眼鏡』でした。
『Dentro le mura』『Cinque storie ferraresi』『Dentro le mura』の改訂版が『Cinque storie ferraresi』ですが、《Gli occhiali d'oro》は含まれていません
仏人俳優フィリップ・ノワレが主人公の同性愛者のユダヤ人医師ファディガーティを好演し、金縁眼鏡の奥に悲しみを湛えた寂しそうな目線での演技が忘れられません。

バッサーニは幾つかの映画にも関わりを持ったようで、例えば日本でも評判を呼んだソフィーア・ローレン主演の映画『河の女』(マーリオ・ソルダーティ監督、1954)で、後には映画監督デビューするピエール・パーオロ・パゾリーニらと脚本家の一員として名を連ねています。
ジョルジョ・バッサーニ[サイトから借用] 彼の主要作品の一つ『フィンツィ・コンティーニ家の庭(Il giardino dei Finzi Contini)』(1962)は、日本でもかつて次のような形で出版されました。大空幸子訳『フィンツィ・コンティーニ家の庭』(新潮社、1969.12.15発行).
「フィンツィ・コンティーニ家の庭』フェッラーラのユダヤ人一家、ミコル、アルベルト、エルマンノ教授、オルガ夫人というフィンツィ・コンティーニ家の人々を《わたし》の目から描いた小説で、そのオルガ夫人がヴェネツィアのヘルレラ家出身で、夫人の兄弟達がヴェネツィアに住んでいることもあり、主人公のミコルはヴェネツィアに度々顔を出します。

「……ミコルがラッティミに熱中しだしたのは、ヴェニスでのことだった。彼女は何時間も骨董品屋をめぐり歩いた。とくに、サント・ステファノ周辺のサン・サムエレ地区とか、そのしもの駅の方にあるゲットーのなかとかを――ここはもっぱら売るのが目的であった。

ジュリオ、フェデリコ両叔父はサン・モイゼ近くのクリスト小通りに住んでいた。夕方になると、ほかにすることもなかったので、むろん家庭教師のブレーメンフェルド嬢(フランクフルト・アン・メン[現在、フランクフルト・アム・マインと表記されています]出の口うるさい六十歳くらいのドイツ人で、もう三十年以上イタリアに住んでいた。まことに厄介な存在であった!)につきまとわれてだが、よくマルツォ22番街にラッティミ狩りに出かけた。

サント・ステファノ広場はサン・モイゼのすぐそばであった。がゲットーのあるサン・ジェレミアにはそう簡単にはいけない。サン・バルトロミオとリスタ・ディ・スパーニャを通らねばならない。サン・モイゼから歩いて三十分はかかるほど遠かったのだ。

しかし近道をすると、グラッシ劇場とグランデ運河[Canal Grande=大運河]を横切り、フラーリの方に出て……だが、ここで彼女はラッティミの方に話を引き戻した。……」 (――第三章の一から)
『映画100年 STORY まるかじり』追記=柳沢一博著『映画100年 STORY まるかじり―イタリア映画 快作210本』(朝日新聞社、1994年11月30日)によりますと、この作品はヴィットーリオ・デ・シーカ監督、ドミニク・サンダ主演で、1971年『悲しみの青春』という題名で一般公開されたそうです。
  1. 2009/02/21(土) 00:02:48|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:2

文学に表れたヴェネツィア――フリードリヒ・ニーチェ

百科事典等では思想家として取り上げられているフリードリヒ・ニーチェ(1844.10.15ザクセン州レッケン~1900.08.25ワイマール)のことを、ニューグローヴ音楽事典では「彼はピアノの演奏はプロ並みだったが、作曲は凡庸だった」と書いています。
フリードリヒ・ニーチェ[肖像、サイトから借用] ヴェネツィアの音楽に関する本を読んでいて、次のようなニーチェの一文に出会いました。《Se cerco un'altra parola per dire musica, trovo sempre e solo la parola Venezia.(音楽という言葉を口にする時、何かほかの言葉を探すとなれば、私がいつも思い付くのはヴェネツィアという言葉だけである)》、あるいは《Quando cerco un sinonimo della parola "musica", lo trovo solo nella parola "Venezia".》、と。

この言葉に遭遇した時、図書館でニーチェ全集に総当たりしてみました。その訳文は『この人を見よ(エクツェ・ホーモEcce Homo)
』(1888)の中の《なぜ私はこんなに利口なのか》の章第七節にありました。

「……誰が何と言おうと、私はドイツ人が音楽の何たるかを知りうるとは思えない。ドイツの音楽家と言われている人々、その中でも特に最大の音楽家と言われている人々は、みんな外国人、つまりスラブ人、クロアチア人、イタリア人、オランダ人などであるか――さもなければユダヤ人である。

そのどちらでもない場合には、たとえばハインリッヒ・シュッツとかバッハとかヘンデルのような強い種族のドイツ人であるが、この種族はもう死に絶えてしまっている。私自身だって今なお、かなりの程度までポーランド人だからショパンのためならほかの音楽は全部くれてやってもいいと思う。

ほかの音楽は全部くれてやるとは言ったが、しかし三つの理由から、ヴァーグナーのジークフリート牧歌は例外とする。それからすべての音楽家を凌駕する高貴なオーケストラ的アクセントを持っているリストのもの若干。最後にアルプスのかなたで生育した音楽全部。

これだけは例外だ――もっともアルプスのかなたとは言ったが、今の私から言えばアルプスのこちらになるわけだが……私はロッシーニの音楽がなかったらどうしていいかわからなくなるだろうし、それ以上に、音楽における私の南国、すなわちわが親愛なるヴェネツィアの楽士ピエトロ・ガスティ[ニーチェの弟子の音楽家Peter Gast]の音楽なしではすまされない。

そもそも私がアルプスのかなたと言うとき、じつはそれはヴェネツィアだけのことを言っているのである。音楽を言い表わすための語として、音楽という語のほかに何かあるだろうかとどんなに探してみても、私としてはヴェネツィアという語しか見つからない。

私は涙と音楽とを区別するすべを知らない――私は幸福を、南国を、恐怖におののくことなしに考えるすべを知らない。

橋のたもとに私は立った
ついこの間、鳶色の夜のこと。
遠くから歌声が聞こえて来た、
湧きいでた黄金(こがね)のしずくさながらに
きらめく水面(みのも)を流れて行った。
ゴンドラと、ともしびと、楽の音()と――
酔いしれて薄闇へ漕ぎ出て行った……
私の心の琴線(いと)も
目に見えぬ手に触れてか
ひそやかにゴンドラの歌にあわせて歌い始めた、
あやなす至福に震えながら。
――誰かそれに聞き入る人があっただろうか?」
  ――『ニーチェ全集』第14巻《この人を見よ・自伝集》川原栄峰訳、理想社、昭和42年4月25日発行より

この一文を目にし、私にとってもヴェネツィアが次第に音楽の代名詞になっていきました。フィレンツェで創始されたオペラを発展させたサン・マルコ寺院楽長クラウディオ・モンテヴェルディ、そしてそれを大衆化したヴェネツィアという町。

ニーチェはヴェネツィアで体調を崩し、友人の Peter Gast に付き添われて国へ帰って行きました。その時、ヴェネツィアからの帰省列車の中で座席に横たわり、上記の自作の詩に作曲をした歌を口ずさんでいたそうです。
  1. 2009/02/14(土) 00:01:41|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:2

マリーア祭(3)

(続き)
「12人のマリーアは結婚する予定の娘の中から、6セスティエール(区)から2名ずつ選ばれ、最初、サン・ピエートロ・ディ・カステッロ大聖堂に、peata(ペアータ)と呼ばれる平底船で連れてこられ、そこで司教から祝福を受け、それからそのペアータで大聖堂の全聖職者とそのお付きの者が、サン・マルコ広場に戻ると総督宮殿に招かれる。
カルパッチョのリアルト橋[カルパッチョのリアルト橋]  最終的には Canalazzo(大運河)を大水上行列が、リアルト橋のドイツ人商館(Fontego dei Tedeschi)の所まで進んだ。総督はブチントーロ船で全廷臣を従えていた。マリーア達は、共和国が国費で彼女達の婚資として衣装や豪華な贈物を贈ったので、豊かになって帰宅することになった。

しかし年月と共に、事は悪い風潮に流れていった。というのは、窓からお金がばら撒かれるようになったからである。それは栄光の聖母マリア様のように、宝石と光輝くものを満載して練り歩くマリーア達に対してであった。サン・マルコの宝物殿の王冠や首飾りが借り出されなかった時でも、そうだった。こんな狂乱が2、3年も続く内に、総督や貴族達の気前のいい贈与品も枯渇してきた。

更にマリーアを選ぶのが競争者間の嫉妬と妬みのため益々困難になってきた。その選ばれる地位は余りにも大きなものになっていたのである。それ故程なくしてそれを最後に、はっきり分かるように手術を施す必要があった。こうして12人の乙女は、職人の上手な手技で作られた12体の木造人形に代えられた。それは木造だったので、祭が終わると倉庫に保管され、翌年には埃を払って再利用された。

しかし人々ががっかりしたのは明白で、彼ら流のやり方でそれに抵抗した。その上、その人形は非常に背高のっぽに作られていたので、le Marione(Maria の拡大辞 Mariona の複数)と呼ばれた。

更に次には、ある正直な商人がこのマリオーネよりもう少しましな、見栄えのいいものはないかと考え、その試作品を世に問うた。それはより小さな人形だったので、人々に大層気に入られ、le marionette と呼ばれた。

マリーアの祭は何とか暫く続いた。キオッジャ戦争(1380年)の時代、ジェーノヴァ人により共和国の命運が危ぶまれた時、この祭は不適当と判断され、廃止された。

しかし le Marionette(伊語の操り人形師の手で舞台下から操られる広場の操り人形と混同しないこと)は世間を独り歩き始めた。腕と足に紐が付けられ、邸宅や劇場に入り込んでいった。そして音楽劇の主人公にさえなった。

貴婦人、貴紳、医師、家庭教師、プルチネッラ、従僕、給仕、悪魔までが、木製の手と胴体で名声と幸運を呼んだ。土地の言葉にも入り込んできた。「ピエーロをご覧よ。彼はマリオネッタだ」(Varda el Piero, el ze na marioneta.)。今日でもよく言われるように、極端に大袈裟な身振りで喋りながら身を動かす人のことである。そこから意気地がないか、あるいは自分の利益のため、いつもそのためだけに行動する人を指すようになるには、後一歩である。」  (終わり)
  ――Armando Scandellari 著『ヴェネツィア伝説集』(Edizione Helvetia、1984)より
[Marione は Marie de tola[tavola と同根の言葉のようでasse(板)の意] とも言い、ヴェネツィア語に根付いた言葉で、今日でも何も知らない、冷たくて、面白くもない女性のことを Maria de tola(板のマリーア)と言うのだそうです。]
  1. 2009/02/07(土) 00:04:20|
  2. ヴェネツィアの伝説
  3. | コメント:2

カウンタ

カレンダー

01 | 2009/02 | 03
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア