イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ジャン=ジャック・ルソー(2)

(続き)
「わたしの好みからいえば、オペラ音楽よりもはるかにすぐれ、イタリアにも、また世界のどこにも類のないと思えるのは、スクオーレの音楽である。

このスクオーレというのは貧しい少女たちを教育するために設けられた慈善院で、政府は、やがて彼女たちが結婚したり、修道院に入ったりするときに、資金を出してやることになっている。ここで少女たちにみがかせる芸のうち、音楽が第一位をしめている。

これら四つのスクオーレのそれぞれの教会では、日曜日ごとに、晩禱のあいだ、モテットが大合唱と大オーケストラで演奏される。イタリアのもっともすぐれた巨匠たちによる作曲および指揮で、格子のはまった壇のなかで、いずれも二十歳までの少女たちばかりによって演奏されるのである。

この音楽ほど官能的で、心をうごかすものはほかに考えられない。そのゆたかな技巧、妙趣あふれる歌曲、美しい声、正確な演奏、これらすべてがこの快い合奏にとけあって、教会という場所柄にはなるほどふさわしくないが、万人の心をうごかさずにはおかぬある種の印象を生みだすのだ。

カリオもわたしも、この Mendicanti(貧しい人たち)への晩禱には一度も欠席したことはなかった。これはわたしたちだけのことではない。教会はいつも愛好家でいっぱいだった。

オペラ座の俳優たちまでやってきて、このすぐれた手本によって歌の真の感覚をみがこうとした。わたしをがっかりさせたのは、あのいまいましい格子である。それがあるために声しかきこえず、その声にふさわしい美の天使たちの姿は見えないのだ。」
  ――『告白』(桑原武夫訳、筑摩世界文学大系22巻《ルソー》、昭和48年1月10日発行)より

ルソーのこのヴェネツィア時代の記述を読むと、700年代のヴェネツィアの音楽事情、即ち、四つあったオスペダーレ、ジュデッカ運河に面したザッテレにあったインクラービリ慈善院(養育院とも表記)、スキアヴォーニ海岸通りに面したピエタ慈善院、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ広場近くのデレリッティ慈善院とメンディカンティ慈善院で行われていた音楽活動が垣間見えます。文中の《Mendicantiへの晩禱》は、メンディカンティ慈善院で歌われる晩禱の意でしょう。
[インクラービリ慈善院は現在、かつてアッカデーミア美術館にあった美術学校の本拠地がここに移されています]
マリブラン劇場ルソー(1)の文中、サン・クリソストモ座(私の表記法はサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場)は、現在(左)のマーリブラン劇場となる劇場です。

また幾つもあったヴェネツィアのオペラ劇場での観客達の、当時のオペラに対する接し方が分かります。話には聞いたことがありましたが、オペラ劇場は、賭博場であったり、レストランであったり、娼婦達の客引きの場だったりして、絶好のアーリアがやってくるまで誰も聞いていなかったようです。

『新エロイーズ』や『エミール』等のこの作家は日本にも大変影響を及ぼし、島崎藤村などは『告白』を何度も読んだそうです。この文学者にして思想家のルソー全集が刊行されている国はフランス以外、日本とドイツだけなのだそうで、明治以後、日本はルソーの思想に影響を受け、取り込み、彼の全てを知りたくなった国の一つだったようです。
  1. 2009/03/28(土) 00:04:57|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ジャン=ジャック・ルソー(1)

31歳のジャン=ジャック・ルソー(1712年6月28日ジュネーヴ~1778年7月2日エルムノンヴィル)は、ヴェネツィア駐在フランス大使モンテギュ伯爵の秘書となり、1743年9月4日ヴェネツィアに赴任しました。その事について彼は『告白(録)』の中で語っています。
スリアーン・ベッロット館ルソーの碑[当時カンナレージョ運河前のスリアーン・ベッロット館が仏大使館。碑文: この館でジュネーヴ市民ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)が、1743~44年仏国大使館秘書だった。]  傲慢で無能なモンテギュの下で彼は何とか秘書としての仕事をこなしたようですが、それも1年近くの我慢の末、大使と大喧嘩をし、1744年8月22日にはヴェネツィアを発ち、パリへ帰ってしまいました。

日本では『むすんでひらいて』の作曲家としても知られる彼は、ディドロ、ダランベールの『百科全書』の音楽関係の執筆者として、また1752年パリのオペラ座でリュリのトラジェディ・リリック『アシスとガラテ』の幕間劇にペルゴレージのオペラ・ブッファ『奥様女中』が上演されたことから発生した、フランス・オペラ派とイタリア・オペラ派の対立、その《ブフォン戦争(ブッファ論争)》中、ヴェネツィア滞在中イタリア音楽を楽しんだ体験があったためか、イタリア・オペラ派の中心人物としても活躍したのだそうです。

田園劇『村の占師』(1752年、フォンテンブロー宮初演、パリ・オペラ座初演1753年)を作詞作曲し、これは長い間オペラ座のレパートリーとして何度も上演されたようです。
ジャン・ジャック・ルソー[Wikipedia から借用] 「……私はパリから、フランスの国におけるイタリア音楽への偏見をもってきていた。だが偏見などというものでおし通せない。あのさとりの早い感受性をも自然から与えられていた。だからこの国の音楽を正しく判断するために生まれてきた人々だけに感興をそそるあの情熱を私はただちにもったのであった。ゴンドラの舟歌をききながら、いままでこんなふうにうたわれるのをきいたことがないように思った。

またオペラにもすぐ夢中になって、こちらはただききたいばかりなのに、桟敷でみんながしゃべったり、食ったり、勝負事をしたりするのがわずらわしく、しばしば仲間からはずれて、脇のはなれたところへ行ったりした。そこで、ただ1人、自分だけの桟敷にとじこもって、長い出し物でも、おわりまでゆっくり味わうたのしみにふけるのだ。

ある日、サン・クリソストモ座で、私はねむりこんだ。しかも自分のベッドでねむるよりももっと深くであった。かん高い、はなやかなアリアは、私の目をさまさなかった。しかし、私をよびさましたアリアのしずかな和声と天使の声のような旋律とが私に与えたあのこころよい感覚を、誰が言いあらわしえよう。

耳と目とを同時にひらいたときの、何という目ざめ! なんという恍惚! 何という陶酔! 最初は天国にいるのかと思った。

この恍惚とした曲は、いまでもまだ思い出すし、生涯わすれはしないだろう。こんなふうにはじまるのだ、
私を救ってくれるのはあの美しいひと Conservami la bella
あゝ、こんなに私の心をもえたたせる Che si m'accende il cor. 」 (続く)
  ――『告白録』(井上究一郎訳、河出書房新社、昭和39年1月10日発行、《世界文学全集 2-5 ルソー》)より

彼の音楽に対する情熱は『音楽事典』(1768)というユニークな著作にも結晶しているそうですし、その他『ピグマリオン』(1770年初演)のようなメロドラムを書いたり、死後出版の歌曲集『わが生涯の悲惨の慰め』(1781)等、音楽家としての面目躍如です。
  1. 2009/03/21(土) 00:09:27|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアのカーニヴァル(2)

ヴェネツィアは年間2100万人の観光客が訪れ、その内1500万人は日帰り客なのだそうです。この71%強の日帰り客は、ヴェネツィアにとっては余り歓迎したくない客(?)と思われる節が窺えますが、全観光客が宿泊出来る筈もないと思われます。

日本に到来する外人観光客は、年間835万2千人(2008年――過去最高だったそうです)で、この数字からすれば、あの小さな島に莫大な数の観光客が蝟集しており、ヴェネツィア人がもうこれ以上観光客は不要と言っている気持も推察出来ます。

しかしホテル代等値上がりが激しく、昨年のカーニヴァル時の新聞は、ホテルの空きが目立つのはホテルの料金値上げが酷過ぎる故だと書いていました。

私が初めてカーニヴァル時期イタリアを旅した時、ヴェネツィアに入る前日はカステルフランコで宿が見つかりました。翌朝出発時、宿の人に「今夜の泊りはどこか」と尋ねられ、ヴェネツィアと答えると、「宿が取れなかったら、ここが空いているから帰ってきなさい。毎日ここから電車で通ったら」と言われました。

カーニヴァル期間中ヴェネツィアで偶々逢った人達が話してくれたのは、この時期ヴェネツィアの宿泊料は大幅に値上がりするし、通常の料金の宿は本土側でしか見つからないから、今回はパードヴァに宿を取ったとその若いアメリカ人達は言っていました。しかし本土側の宿では楽しさが半減します。

近年サン・マルコ広場に銀色のプレートに臙脂色の文字で、広場での禁止事項を書いた看板が何ヶ所かに置かれているのを目にします。次の四ヶ条です。

●水着姿や美観を損ねる姿、また辺りを汚す行為
●地べたに座ること、腰を下して食べること、ゴミを捨てること
●自転車やスケートの使用、スポーツ行為、その他危険な行為
●音を出すラジオのような機械や拡声器等でボリューム・アップすること

1980年代末、サン・マルコ広場でピンク・フロイドの野外ロック・コンサート公演が許可され、若者達が30万人も集まったのだそうです。私がその記事を読んだ時、危惧したのはトイレ施設等の設置のことでした。その翌日、広場周辺は勿論のことヴェネツィア中がゴミ箱の中の有様で、自然環境保護主義者達からの抗議の声は何ヶ月にも渡って続いたそうです。

昨年11月のアックァ・アルタ(高潮)の時はヴェネツィアの友人が、これを見てどう思うか、と次のようなサイトをメールで送ってくれました。
http://magazine.libero.it/videotormento/crazy/fare-surf-a-venezia-ne9085.phtmlサン・マルコでサーフ
アックァ・アルタのサン・マルコ広場でオランダの青年がサーフィンをする光景がPC上のビデオに映されていましたが、2013.04.25日確認するとそのサイトは既に削除され、You tube に移されています。

カーニヴァル中サン・マルコ広場では砕けたガラス瓶やペットボトル等の芥を多数見かけます。それを毎日緑の清掃の人達が集め掃除している筈です。昨年2月アパートを借りた時はまだゴミの分別収集は行われていませんでした。狭い道で一軒一軒の玄関前から、手押しの芥収集車にゴミ袋を集めて回り、太鼓橋を渡る人達の苦労を見ると、ヴェネツィアは大変だと思います。ナーポリ民謡等を声高に歌って仕事をこなしている陽気な人を見るとほっとしました。ついボンジョールノと声を掛けてしまいました。

ヴェネツィアのカーニヴァルは10日間は続きます。この期間中、上記の禁止行為の看板など気にした人はいたのでしょうか。観光立国のヴェネツィアは色々な問題や矛盾を抱えていると思われます。
サン・マルコ広場の舞踏いずれにしても祝祭のエンディングは、もの皆踊りで終わった、に違いありません。
  1. 2009/03/14(土) 00:00:20|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィアのカーニヴァル(1)

2月24日が今年の謝肉祭の最終日(il martedi` grasso)でした。私がカーニヴァルを体験したのは、1996年から数回だけのことです。初めての'96年の時は、1月29日にフェニーチェ劇場が焼失後直ぐにヴェネツィアに到着しましたので、先ず劇場の前に赴きました。劇場前には弔意の花束が文字通り山と捧げられていました。数日後再度赴くと、綱が張られ、焼跡には近付けなくなっていました。
フェニーチェ劇場焼失翌朝1977年のフェニーチェ劇場[焼失前のフェニーチェ劇場の舞台] 劇場裏側(本来は表)の運河の方に回ってみますと、運河は大運河の出口から堰き止められ、水を排除して、下に溜まったヘドロ等の泥濘を小型のブルドーザーで掻き取っていましたから、消防艇も来れなかったのです。そのためでしょうか直ぐに火付けではないかと囁かれ、放火と断定されました。

防火設備の設置のための工事中だったそうで、工事完了後にはウッディ・アレンのジャズ・コンサートで再開場の予定だったそうですが、結局コンサートは別の場所で行われ、彼は入場料から再建費用として寄付したと伝えられています。

放火犯がメキシコに潜伏していることがその後判明したそうです。工事現場の看板に明記された予定よりあまりに遅延する工事のため、故意に業者が遅らせていることも知れ、別の業者に差し替えられて再建されることにもなりました。2003年12月の再開場のニュースはまだ記憶に新しいところです。

大分前に書かれた古いヴェネツィア・ガイド『Venezia e il suo estuario(ヴェネツィアとその入江)』(Giulio Lorenzetti, Edizioni Lint Trieste、1926)を読むと、現在の仮面のカーニヴァル(1979年に現代のコンパニーア・デ・カルザ・イ・アンティーキの人達が町興しのために再興したのだと聞きました)が始まる前の時代の、カーニヴァルの模様が分かります。

「時代とともに、別の楽しみも追加されるようになった。その一つに《volo del Turco, o dell'Anzolo(天使の飛翔)》がある。アクロバットの若者がサン・マルコの鐘楼の上から総督宮殿の開廊まで降りてきて、総督にオマージュとして花束あるいは詩作品を捧げるのである。それは、サン・マルコ湾に浮かべられた平底船から鐘楼まで張られたロープを輪になった装置で、鐘楼上まで登り、降りてくるのであるが、途中総督宮殿のフォースカラ開廊まで下り、出発地点まで戻るというものである。
[始まりはそれまでヴェネツィア人が見たこともない種類のトルコ人のアクロバットの spettacolo(ショー)だったので、この呼び名が残っているようです]
ガブリエール・ベッラ画『ピアッツェッタでのカーニヴァルの最終木曜日の祭』[2001年の『華麗なる18世紀イタリア――ヴェネツィア絵画展』で展示されたガブリエル・ベッラ画『ピアッツェッタにおけるカーニヴァル最後の木曜日の祭』に描かれた、鐘楼と総督宮殿を結ぶ綱の曲芸《人間ロケット》とニコロッティとカステッラーニ対抗の《人間ピラミッド》。]

この謝肉祭行事に新たに加わったものは、《Forze d'Ercole(ヘラクレスの力業――人間ピラミッド)》であった。大運河のあっちとこっちで町を二分する二つの区域のカステッラーニとニコロッティ間で争う、敏捷さと力強さの競技である。

カステッラーニはカステッロ区の者の意で赤いベレー帽とスカーフを身に着けた。ニコロッティはドルソドゥーロ区の者で黒いバッジを付けた。町の一番西の端に位置するサン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教会があるためそのように呼称された。選手は最も機敏で強力な人達の中から選ばれ、また競技のための各種の規則も定められ、人間ピラミッドを作り上げる能力が問われた。最も細身で迅速な人が頂上に昇り、cimiero(兜の頂き飾り)となった。」

これが有名な拳骨の橋の闘いが禁じられた後の、ニコロッティとカステッラーニ間の競技となり、カーニヴァル時に行われたようです。
  1. 2009/03/07(土) 00:03:25|
  2. ヴェネツィアの行事
  3. | コメント:0

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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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