イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ライナー・マリア・リルケ(2)

リルケは『ドゥイノの悲歌』《第一の悲歌》の中で、閨秀詩人ガースパラ・スタンパやサンタ・マリーア・フォルモーザ教会のことを歌っています。彼がヴェネツィアの東、国境の町トリエステの西の郊外にあるドゥイーノのお城にタクシス夫人の招きで滞在したのは、1910年のことだったそうで、『ドゥイノの悲歌』の第一、第二の悲歌がドゥイーノのお城で書かれたのは1912年のことで、その年更に、イタリアの舞台女優エレオノーラ・ドゥーゼとヴェネツィアで親交を結んだと年譜にあります。
『世界名詩集10』リルケ ヘッセ「…… しかしあの愛に生きた女たちは? 彼女らをあらしめることで精根つきた自然は、
彼女らが塵に帰るにまかしている、そういう愛を生みだす力が
二度と自然にはないかのように。おまえはいったいあのガスパラ・スタンパを
心ゆくまで偲んで歌ったことがあるか、恋人に去られた
いずこかの乙女がこの高い範例にならって
自分たちもそうなろうと思いさだめるほどに。
……
また、さきごろサンタ・マリヤ・フォルモーサ寺院でもそうであったように
死者の碑銘がおごそかにおまえに委託してきたではないか。
かれらは何をわたしに望むのか。 ……」
 ――『ドゥイノの悲歌』《第一の悲歌》(手塚富雄訳、『世界名詩集10巻リルケ』、平凡社、昭和44年3月20日発行)

リルケが初めてイタリア旅行をしたのは1898年(23歳)の時で、フィレンツェ等を旅したようです。年譜によればボッティチェッリに感動したとあります。その翌年『神さまの話』を上梓しています。

「……あのポンテ・ディ・リアルトと呼ばれる大橋のしたをゴンドラでくぐりぬけ、フォンダコ・デ・ツルキや魚市のほとりを過ぎるころ、船頭にむかって、『右へ』と命じますと、船頭は、ちょっとびっくりした顔つきをして、きっと『どちらへ』と尋ねます。

それでもこちらは、舟を右にやるように、あくまで言い張らねばなりません。そうして、薄汚ない川運河のひとつに入ってから、舟を下り、船頭と船賃を掛けあって、悪態をすてぜりふに、せせこましい路地や黒い煤けた門道を抜けて行きますと、がらんとして、ちょっと開けた、広場のひとつに出られましょう。
……
……まあ、大体、ヴェニス総督はアルヴィーゼ・モンセニコ[モチェニーゴ?]四世治下のときと推測されますが、もしかすると、それよりも少し前後しているかもしれません。あなたもごらんになられたはずですが、たとえば、カルパチオです。あのカルパチオの絵を見ますと、真紅のビロードのうえにでも描きあげたように、なにか、ほのぼのと温かい、いわば森にも似た感じが、画面いちめんに、にじみ出ていますでしょう。

そうして、画面のなかの鈍い光のまわりには、そっと耳傾けるように影がつめよっていますね。ジョルジョーネは、くすんだ古めかしい金地に、描きました。ティチアンは、漆黒の繻子を、下地に用いました。

ところが、僕がただいまお話しする時代には、素絹の地のうえに色彩を置いた、明るい絵が、一般に愛好されていました。

したがって、人々に持てはやされ、さながら鞠(まり)のように、美しい唇が、太陽にむかって、投げかけていた名前、そうです、その名前はまた、こまかく震えながら、落ちてくるところを、愛くるしい耳に、受けとめられてもいましたが、じつにその名前こそは、ジャン・バッティスタ・ティエポロだったのです。……」
  ――『神さまの話』《ヴェニスのユダヤ人街で拾ったある風景》(谷友幸訳、『新潮世界文学32巻リルケ』、1971年9月20日発行)
『ヴェニスからアウシュヴィッツへ』.ドゥイーノやヴェネツィアのゲットについては、徳永洵著『ヴェニスからアウシュヴィッツへ』(講談社文庫、2004年7月10日発行)が色々触れています。

上記のように、リルケはヴェネツィアのユダヤ人ゲットのことを作品にしました。現在のゲットは、私が初めて訪れた何年も前の閑散としたゲット広場と異なり、再びユダヤ人達が舞い戻ってきて、昨年暮れにはかなりのユダヤ帽キッパを被った人々を見かけ、ここからユダヤを発信している活気を感じました。
  1. 2009/04/25(土) 00:03:16|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ライナー・マリア・リルケ(1)

ヴェネツィアに行くようになり、偶々読み返していた時、気付いたのは、ライナー・マリア・リルケ(1875.12.04プラハ~1926.12.29スイス、ヴァル・モン)が『マルテの手記』の中でヴェネツィアについて書いている一節でした。
ライナー・マリア・リルケ[Wikipedia から借用] 年譜を捲ってみると、彼は32歳の1907年から45歳の20年までの間に計6回ヴェネツィアを訪れています。『マルテの手記』は1904年ローマで書き始められ、09年にはおおよそが書き上げられ、翌年には上梓されたとあります。07年11月19~30日、ヴェネツィアのロマネッリ家の客人となったことがこの書に影響を与えているに違いありません。

この書の最後の方で「最近再び、アベローネよ、……」と語りかけるように、彼はヴェネツィアのイマージュを書いています。

「そんな人々の中に僕は立ち交っていたのだ。僕は旅行者でないことをうれしく感じた。もうすぐ寒くなるだろう。彼らの空想の贅沢な偏見でゆがめられた《軟弱な、阿片のヴェネチア》はくたびれた眠そうな外国の旅行者といっしょに消えてしまうのだ。

そしてある朝、全く別な、現実の、いきいきした、今にもはじけそうな、元気のよい、夢からさめたヴェネチアが、姿を見せるに違いない。

海底に沈んだ森の上に建設したという、《無》から生まれたヴェネチア。意志によって建てられ、強制によって築かれたヴェネチア。あくまで実在に堅く縛りつけられたヴェネチア。

きびしく鍛えられ、不要なものいっさいを切り捨てたヴェネチアの肉体には、夜ふけの眠らぬ兵器廠が潑溂と血液を通わせるのだ。そのような肉体が持つ、精悍な、突進しか知らぬ精神には、地中海沿岸の馥郁たる空気の匂いなどから空想されるものとはおよそ比較を絶した凜冽さがあった。

資源の貧しさにもかかわらず、塩やガラスとの交易で、あらゆる国の財宝をかき寄せた不逞な都市ヴェネチアだ。ただ表面の美しい装飾としか見えぬものの中にさえ、それがかぼそく美しくあればあるほど強いかくされた力を忍ばせているヴェネチア。

ヴェネチアは全世界の重石(おもし)、しかも堅固な美しい重石だった。」
  ――『マルテの手記』――新潮世界文学32巻『リルケ』(大山定一訳、1971年9月20日発行)より

『手記』の中で彼がヴェネツィアの閨秀詩人ガースパラ・スタンパやポルトガルの尼僧のことを書いており、その名を知ったのもこの『手記』でした。

ガースパラ・スタンパについては、『マルテの手記』の訳注に「イタリアの女詩人、コラルティノ・コラルト伯爵にあてた手紙と恋愛詩がある。リルケはそれを自分で訳したいと言っていた」とありますので、次回のその次に、リルケが書いた彼女の事について触れます。
  1. 2009/04/18(土) 00:04:47|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ヘンリー・ジェイムズ(2)

「《ヴェニス》という名前を書くのはまことにいい気分である。」という文章で始まる『郷愁のイタリア』(海外旅行選書、千葉雄一郎訳、図書出版社、1995年2月28日発行)は、ヘンリー・ジェイムズのヴェネツィア絵画好きが明確に現れたイタリア旅行記のようです。
『郷愁のイタリア』「ラスキン氏の著作をひもとくことはまことに結構なことであり、この街に関する古い記録を読むことは、おそらく一層すばらしいことであるに違いない。だが、いちばんいいのは、単に滞在することだ。ヴェニスをその街にふさわしく愛する方法はただひとつ、その街にしばしば触れさせる機会を与えることであり、そのためにはぐずぐずとその街に居座わって長居し、どこかに飛んで行って、また舞い戻ってくることだ。」
と、ジェイムズは“Ⅰ”章の終りを締め括っています。

更に“Ⅱ”章では、
「ヴェニスの持つ豊かな魅力をそれと知るのは毎日その街に住むことによってであり、そうしてこそ、初めてその微妙な影響が心の奥底にまで沁みるのだ。この街は神経質な女性のように変るので、そうした女性を理解するのは、彼女の美のあらゆる面を知り尽くした、その後のことになるのである。

高揚した気分のときもあり、暗くうち沈んでいるときもある。青白いときもあれば紅潮しているときもある。冷淡なときもあれば、激しく熱しているときもある。新鮮な場合もあり、あるいは物憂さそうな場合もある。すべては天候や時間によるのであり、ヴェニスの街はつねに興味深く、またたいていの場合悲しげだ。」

ブラゴーラのサン・ジョヴァンニ聖堂[サン・ジョヴァンニ・イン・ブラーゴラ教会のこと]とかサン・ロッコ学校[サン・ロッコ大同信会館のこと。scuola は学校ではなく、小学館『伊和中辞典』の第6の意味、ヴェネツィアの《信徒会》のこと]等、訳語に?がある所もありますが、ジェイムズのヴェネツィアに対する思いは強烈に伝わってきます。

「この街の開口部の眺めがもっともすばらしいのは、おそらく夏の日の朝の、サルーテ教会の階段からの眺望だろうと思われる。そのときにはあらゆるものが申し分なく構成されているのだが、それはまるで、構成こそ人間の本能の主要な目的であるかのようである。

魅力的なドガーナ・ダ・マール教会がもっとも優美な腕を差し伸ばし、その手の中では金鍍金された地球儀がバランスを保っていて、その上には女性の形をした小さな風見の、愉快で皮肉な像がまわっている。

大運河の別の側には幸せな宮殿(パラッツォ)の長い列が瞬き、輝いているが、それらの大部分は、今日では贅沢なホテルになっている。

明るいヴェニスの空気の中ではいたるところにあらゆるものが少しずつ存在するが、これらの建物の外見は、水を隔てて関税を取り立てるためにそこに座っているかのようであり、偽善的な愛想のよさで異邦人や犠牲者を眺めているかのようような感じがする。

私はそれらの建物を幸せなと呼ぶが、それと言うのも、それらの建物の曖昧な、潮風にさらされたピンク色と黄褐色で、時代遅れの建物の反映を補う光と色彩の異様な陽気さの中に、いつの間にか溶け込んでしまっているからだ。」
  ――『郷愁のイタリア』(千葉雄一郎訳、図書出版社、1995年2月28日)より

《ドガーナ・ダ・マール教会》とは教会ではなく、《金鍍金された地球儀がバランスを保っていて、その上には女性の形をした小さな風見の》とあるので海の税関舎のことでしょう。 《塩の倉庫》は大分前からすっぽりテントを被って工事中で、昨年11月にも税関岬の突端まで行けませんでした。何かに変貌するレスタウロ(restauro)なのでしょうか。
[2012.10.12日追記:  安藤忠雄さんの設計で塩の倉庫が美術館に変更されるための工事だったようです。]
  1. 2009/04/11(土) 00:01:14|
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文学に表れたヴェネツィア――ヘンリー・ジェイムズ(1)

イギリス映画『鳩の翼』(監督イアン・ソフトリー、1998)を見て、早10年も経ってしまいました。この映画を見た時、アメリカ娘ミリーと英国の新聞記者デンシャーが、ヴェネツィアのカーニヴァルの時、地元の人々と輪になって踊る熱狂的な群舞のシーン(多分サンタ・マリーア・フォルモーザ広場で撮影された?)は、かつて見た映画の中で最高にヴェネツィアへの思いを謳ったものという印象を抱かせました。
ヘンリー・ジェイムズ[サイトから借用] ヘンリー・ジェイムズ(1843.4.15ニューヨーク~1916.2.28ロンドン)の原作『鳩の翼』ではヴェネツィアでの場面は、全10部の内、2部が充てられており、彼のイタリア旅行記『郷愁のイタリア』(千葉雄一郎訳、海外旅行選書、図書出版社、1995年2月28日発行)を読むと、彼のイタリア、とりわけヴェネツィア好きが伝わってきましたし、映画では殊に細かくヴェネツィアが描かれていました。

講談社文芸文庫『鳩の翼』(青木次生訳、1997年10月10日発行)からヴェネツィアの場面を引用してみます。
『鳩の翼』「……この会話は、広い気軽な談話室、磨き上げた床に青天井の快適な部屋とでも言いたい印象を持ち、語り合うのに常に申し分のないサン・マルコ広場の中央で交された。もっと正確に言えば、中央ではなくて、大きな回教寺院に似た教会を出たあと、二人が言い合わせたように立ち止った場所、と言うべきかも知れない。

円屋根と尖塔を持つその教会は、二人の少し後方にそびえ、前方には大きな閑散とした広場がひろがっていて、その周囲を取りかこむアーケイドの辺りをのぞけば、行き来する人々の動きは見られなかった。

ヴェニスは今朝食の時間で、観光客が出歩く時間でもなく、年中続いている祝祭気分のおこぼれをしきりについばんでいる幾群れかの鳩のほかには、二人の視野を遮る物は何一つなかった。……」  ――第八部から

「……赤い四角な大理石を敷きつめた回廊の部分も塩水の飛沫をあびてうす汚れていた。品位あふれる構想と細部の美を誇る広大で優雅だったサン・マルコ広場そのものが、いつも以上に巨大な応接間、不運に見舞われて落ちぶれ、辱められ途方に暮れているヨーロッパの応接間を思わせた。

ななめにかぶった帽子や、だらりと垂れ下がった上着のだらしない袖が仮装舞踏会の憂鬱な踊り手を連想させる男たちと、彼は肩を触れあった。

カフェーから広場に溢れ出していたテーブルや椅子は、見かけだけはなおも客待ち顔にアーケイドの中に集められ、ここかしこで眼鏡を掛けたドイツ人がコートの襟を立て、人眼にさらされながら食事をとり瞑想にふけっていた。

デンシャーはまたこうした光景に眼をとめなかったわけではない。しかし広場を三周したあとではじめて、急に、フロリアンのカフェーの前で彼は強く注意を惹かれて立ちどまった。彼の視線はカフェーの中のある顔をとらえた――」  ――第九部から 
  1. 2009/04/04(土) 00:04:43|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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