イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(2)

彼はイタリアに憧れを懐いていて、特に1898年ヴェネツィアに初めて到来し、ヴェネツィアを発見するや、1924年までこの地に度々滞在しながら、外人観光客の多い、この街の中で、狭いカッレ(小路)やリーオ(小運河)、廃園の片隅等に、カルロ・ゴルドーニやピエートロ・ロンギ等の生きた18世紀の共和国滅亡前の、古き良き時代の香りを感じ取っていたようです。そうした愛着のため、小説作品の中にも、Venise の名前がよく登場するのだそうです。

戦前の昭和16年に弘文堂から出た草野貞之訳『ヴェニス物語』も、この『Esquisses Ve`nitiennnes』(1906)の訳だったそうです。
『ヴェネチア風物詩』Henri de Re'gnier[フランス・ウィキペディアから借用のHenri de Re'gnier]
「 ツァッテーレ河岸――マチウ・ド・ノアイユ伯爵夫人に

 私はきみたちが好きだ、おお、ツァッテーレよ、税関岬(ドガーナ)
にはじまり、終りはカリェ・デル・ヴェントまで、石畳の
河岸はさまざまな建物の面に縁取られ、灯にきらめき、
また夜の闇に包まれるきみたちの、ながながといつまでも
つづく面白さ! 私はきみたちの隅々までもが好きだ、
なぜならば、その舗石の上は、足速く、あるいは静かに歩く
にも快く、時間と季節の移りにつれて、日蔭や日向に佇む
のもまた楽しい、おお、ツァッテーレよ!

 しばしば私はサン・トロヴァゾの堀割を通って、きみたち
のところにやってくる。おお! 通りの角に立っている
アーケードと藤棚の家よ――その藤も、今年になって
ふたたび見たときには黄に染まっている! とはいえ、十一月
の明るい太陽はヴェネチアの空に輝き、空気はさわやかで
澄みきっていた。きみたちの遊歩場で、胸一杯にそうした
空気を吸うのは何と嬉しいことか、おお、ツァッテーレよ、
きみたちの背後には大きな運河が流れ、正面には三つの
教会と、サルビアと糸杉の庭とをそなえたジウデッカ教会
がそびえ立っている!

 だからこそ、私はいまここに来ているのだ。右に曲ろうか、
それとも左に? 私にはどうしていいのかわからない。
なぜなら、ドガーナの岬からカリェ・デル・ヴェントまで、
きみたちの一切が好きなのだから、おお、ツァッテーレよ!
廃疾者救済院(インクラビリ)のあたりはジェズアチの僧院やルンゴ橋と
同じように好ましく、また、龍の落し子どもを従えた青銅の
ネプチューンをノッカーに使っている古い宮殿が残っている
場所もいい。そうだ、あそこに行って背をもたせ、あの
細巻のきつい葉巻を、土地の人々が爪で真中から二つに
切って、その半分に火をつける葉巻を一本吸うとしよう。

 ぜひそうしよう。今朝は暖かく、空も澄んでいるのだから。
河岸で荷揚げをしている船が、舫索(もやいづな)の鈍い呻き声を
あげている。ここ以外の土地ならばどこにいっても、港と船
の出入りを眺めれば、いずこかへの出立と旅立ちの思いに
かられるもの。しかし、誰がヴェネチアを去ろうなどと思う
だろうか? 積荷の船がいかに腹を膨らまし、マストが
いかに帆綱をゆらそうと、すべてこれは無駄なこと。この
青銅のノッカーに背をもたれ、靴底をきみたちの地面に
つけているより楽しいことが、一体どこにあるだろう? 
おお、ツァッテーレよ。

 午砲が鳴り響いた。鐘も一斉に鳴り出した。私はジェズアチ
の僧院の、サン・トロヴァゾ教会の、サルーテ教会の鐘の音を
聞きわけた。レデントーレやサンタ・エウフェミアの教会や
ツィッテーレ尼僧院の鐘の音も、運河の
かなたから入りまじってくる。大気がうち震えている。私の散策
の刻もすぎた。明日こそは、かくのごとく漫然と送ることなく、
きみたちのすべてを隈なく歩き廻ろう。おお、ツァッテーレよ、
ドガーナからカリェ・デル・ヴェントまで、
すべてを隈なく、おお、ツァッテーレ海岸よ!」
[ツァッテーレ、カリェ、ジェズアチ、サンタ・エウフェミア、ツィッテーレは、ヴェネツィアに行かれる方にはそれぞれ現地音、ザッテレ、カッレ、ジェズアーティ、サンテウフェーミア、ズィテッレです]
  ――『ヴェネツィア風物詩』(窪田般彌訳、王国社、1992年1月30日発行)から。同書は平成17年に同じ形で沖積舎から再版されています。
  1. 2009/05/30(土) 00:00:45|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――アンリ・ド・レニエ(1)

アッカデーミア美術館前から税関岬(Punta Dogana)に向かって、大運河に沿った道、ノーヴァ・サンタニェーゼ通り(Cl.Nova S.Agnese)を行くと、途中トレゼーレ運河(Rio de le Toresele、伊語Pietre Bianche運河とも)沿いのヴェニエール・デイ・レオーニ運河通り(Fdm.Venier dei Leoni)からグッゲンハイム(ヴェネツィア人はこんなドイツ風の発音はしないようです)美術館前を通り、サン・クリストーフォロ橋(Ponte S.Cristoforo)を渡った所が、バルバロ小広場(Cpl.Barbaro)です。

この広場の大運河側には、ダーリオ館(Pal.Dario)があり、その庭の小広場に面した壁面にフランスの詩人・小説家アンリ・ド・レニエ(1864.12.28カルヴァドスのオンフルール~1936.5.23パリ)がこの館に滞在したことを示すプレートが掲げてあります。当時この館は、ド・ラ・ボーム伯爵夫人が新しい所有者になっており、そのサロンにフランスの文学者達が足繁く通ったのだそうです。
ダーリオ館裏のレニエのプレートド・レニエは1899年以来何度かこの館に滞在し、ド・ラ・ボーム伯爵夫人のサロンの常連の一人として、ヴェネツィアを歌った詩・散文詩作品があります。題して『水都幻談』、同作品は近年『ヴェネツィ風物誌』として新訳も出ました。
『世界名詩集大成』3巻 フランスⅡ「 序詩
大運河の、あやなす小運河の
水は、緑、青、銀にして、
われらへめぐりぬヴェネチアの町を
サン=マルコ寺よりアルセナレかけて。

入江の風つよければ
おお、ドガナ・ディ・マアレの岬よ、
われは見き、汝が風見の
いとやすやすと廻れるを。

アドリア海を吹きくる風の
軟風なれ、熱風なれ、
われは汝が指さすままよ、
フジナなりとマラモッコなりと。

画舫(ゴンドラ)は屋形のかげにわれらを揺すり、
へさきなる刃はそが腕もて
しじまを切りつつ進む、
潮風に眠れるしじまを。

エスクラヴォンが河岸(かし)の上、
日は甃石(しきいし)をあたためぬ。
汝が迷路も曲がり角も、
ヴェネチアよ、われらことごとく知れり。

水は光りて、なめいしは裂け、
櫂と櫂とは相呼び相応えたり、
レッヅォニコ宮の上、
すずしき影をすぎ行けば。」
  ――『水都幻談』(青柳瑞穂訳、『世界名詩集大成3巻フランスII』、平凡社、昭和37年4月1日)より
  1. 2009/05/23(土) 00:01:54|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ガースパラ・スタンパ(3)

(続き)
「1551~52年: 健康を再び取り戻す。よく会う仲間にはティエーポロやジョルジョ・ベンゾーニのような年寄りで気の許せる人や昔からの恩師フォルトゥーニオ・スピーラやピエリッソーネ・カンビオがいた。
『Rime』ゼーンとの細やかで幸せな時間は、彼の愛情が穏やかかつ強固なもので、多分コッラルティーノよりずっと深い愛情の持ち主だったから続いたのだった。それは彼には文化に対する興味と洗練された感受性がその底に窺えるからである。

1553年: 彼女の健康状態が再び悪化する。弟のバルダッサッレと同じように、フィレンツェの穏やかな気候が身体にいいことを期待して、数ヶ月滞在した。

1554年ヴェネツィアに帰郷するや、高熱による発作と激痛に襲われる。そして2週間後、我等が閨秀詩人はサン・トロヴァーゾ教区の自宅で不帰の客となった。全く言われなき事であるが、愛人コッラルティーニに捨てられた(彼にはジューリア・トレッリとの結婚が予定されていた)ために、自殺したとするロマンチックな噂が立てられた。しかし彼の結婚は3年も後1557年になって行われたのである。

ヴェネツィアのサンティ・ジェルヴァージオ・エ・プロタージオ教区[現在、ヴェネツィアに残るゴンドラ造船所(Scuero)のあるサン・トロヴァーゾ教区]の古文書館の死亡記録は述べている。《1554年4月23日付。ガスパリーナ・スタンパ嬢はイエローニモ・モロジーニ氏所有の家において、熱病に冒され、大腸を患い、15日(15 zorni)間苦しみ、この日(questo zorno)死亡。》

ポール・ラリヴァイユ著『ルネサンスの高級娼婦』(森田義之、白崎容子、豊田雅子訳、平凡社、1993年8月25日)によれば、《美しきガスパラ・スタンパは、一説では、良家の子女が不実な愛人にだまされて生んだ堅気の娘であり、また別の説では紛れもない“高尚(オネスタ)な”娼婦であった。両者の見解を折衷しようとする者によれば、彼女は身持ちの悪い良家の娘であった。》と。

彼女の詩集から詩を2篇、訳してみます(意味だけでも理解して頂ける訳であれば嬉しいのですが)。
「  愛の歌 I
  あなたはこの悲しい詩句の中に聞くのです、
この哀しい、暗澹たる節々の中に
私の恋に燃える嘆きの響きを
私の苦悩の始まりを。
  私の嘆きの価値、評価、栄光、
許しはもとより、認めてくれる人はどこに、
生まれ良き人々の中に見出したいのです
そのわけがいかに崇高なものであるかを。
  そして誰かに言わねばと更に願います。
――至福の人よ、いつからお考えなのですか
志高い理由があれば、苦しみもまたかく気高いと!
  何たることでしょう、何故高貴なお方へのこれ程までの
愛、幸運が、私に訪れなかったのでしょう、
私も貴婦人と等し並みでありたかったのに。

   愛の歌 CIV
   おゝ夜よ、あなたは私には更に晴朗で幸せなもの
最高に幸せで、清朗だったあの日々よりも
夜は初めの日から価値あるもの、類稀なるその才は、
私にだけではなく、称えられるべきもの。
  あなたは、王が授けてくれた、偏に私の喜びへの
自由の通行手形だった。人生の
全ての苦悩を甘美なるものに変えた、
私と結ばれた彼を腕の中に抱かせて。
  私は太陽を懐かしむ、その時幸運なアルクメーナに
なっていなかったのだから、暁を取り戻すためには
ありふれた事では足りなかったのだから。
  そんな風に事がうまく運んだとしても、私には
あなたの事はさほど語れない、清らかな夜よ、
この歌は未だその中身以上のものにはなっていない、のだと。 」
 ――ガースパラ・スタンパ『Rime』(Biblioteca Universale Rizzoli)より

[アルクメーナ(希語、アルクメーネー)はアンフィトリオーネ(希語、アムピトリュオーン)の妻で、夫が戦争に出かけた留守に彼女に恋をしたジョーヴェ(希語、ゼウス)が、恋人の夫の姿に化けて忍んで来ます。ゼウスは愛の喜びを一層高めようと、太陽神エーリオ(希語、ヘーリオス)に、3日3晩太陽が姿を見せぬ夜とするよう命じて、彼女とその間同衾します。その結果産まれたのが、ギリシア神話中最大の英雄エルコレ(希語、ヘラクレース)でした。] 
  1. 2009/05/16(土) 00:04:59|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ガースパラ・スタンパ(2)

(続き)
「1548年のクリスマスの数日前、ドメーニコ・ヴェニエールのサロンで、彼女はトレヴィーゾ国境の領主で文学者の後援者でもあった、貴族のコッラルティーノ・ディ・コッラルト(Collaltino di Collalto)に逢った。当時風に言えば、彼もまた平凡な詩人であった。

彼はアレティーノ、ジェローラモ・ムッツィオ、ドルチェ、オルテンシオ・ランド、バルダッサッレの友人のドメーニキらと親しかった。

コッラルト伯爵との最初の出会いから、1、2ヶ月でガースパラとの間は恋愛関係に発展する。彼は彼女の詩作品にインスピレーションを感じていたが、彼女の深い、真っ当な愛には応えないで、縛られるような絆は拒否する態度をとった。

母と姉の願いは彼女と彼が結婚してくれることだったが、関係が始まった約6ヶ月後には2人の関係は立ち消え状態になっていた。それは突然彼が恋人には目もくれず、傭兵隊長オラッツィオ・ファルネーゼに従って、フランスでの戦争に行ってしまったからだった。

1549年彼は、1544年からイギリス人の手に落ちていたブーローニュ・シュル・メールの再度奪還を目指すアンリ2世に従って、フランスに旅立った。6月にはアンリ2世の娘ディアーヌとオラッツィオ・ファルネーゼの結婚祝賀会にも行ってしまう。

11月彼は偶々ヴェネツィアに居て、彼女に近付いたようである。彼は不在中、手紙はおろか彼女の愛情溢れるソネットには応えたことは皆無である。今や恋人の不実は明白である。2人の関係は嫌々ながらも再開したが、彼女の方が彼に対する熱い思いに再び火が点いてしまう。

そして有名な「O notte a me piu` chiara e piu` beata(おゝ夜よ、あなたは私には更に明るく晴朗で、幸せなもの)」のような、最も美しいソネットが幾つか生まれた。

数ヶ月後彼は再び出発し、1550年末まで居ない。恐らく彼女はこの間アナクスムのアナッシッラ(Anassilla da Anaxum)の名前で、ドゥッビオージ・アカデミー(Accademia dei Dubbiosi)に参加している。アナクスム(Anaxum)は、恋人の領地を流れるピアーヴェ(Piave)川のラテン名である。

1550年ヴェネツィアに帰ってくると、彼は彼女をトレヴィーゾ領のサン・サルヴァトーレに連れていく。その地で彼女は彼との関係が始まった当初のような幸せな日々を過ごした。しかし人もいない邸館に独り残されることがしばしばで、彼女は最初の精神的不安定状態に追い込まれ、健康上の虚弱体質が露わとなり、悪化していった。
ガースパラ・スタンパ[ガースパラ、イタリアのサイトから借用] サン・サルヴァトーレから帰宅すると、彼との関係は破れ、覆水盆に返らずだった。肉体的に衰弱し、精神的にも憔悴し、彼女は何ヶ月にもわたって完全な休養を取らねばならなかった。この期に彼女の近くに居たのは、ヴェネツィア貴族のバルトロメーオ・ゼーンで、彼の包容力溢れる配慮を受け入れ、感謝している。」  (続く)
  1. 2009/05/09(土) 00:01:50|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ガースパラ・スタンパ(1)

リルケが『マルテの手記』で触れ、『ドゥイノの悲歌』《第一の悲歌》で歌った、ガースパラ・スタンパの詩集『Rime』(Biblioteca Universale Rizzoli, stampare nel mese di febbraio 1994)をヴェネツィアで購いました。その中の年譜の中から彼女の人生を辿ってみます。
ガースパラ・スタンパの肖像「1523年パードヴァで出生。父バルトロメーオはミラーノの没落貴族の出で、貴金属商を営んでいた。母はヴェネツィア人で、姉カッサンドラがあり、数年後弟バルダッサッレが誕生。

父が子供達に受けさせた教育は、ラテン語、ギリシア語、修辞学、文法、音楽、文学を基本に据えた、貴族としてのそれであった。1530年頃父死亡。義兄にパードヴァの財産管理を委ね、母は熟知した故郷のヴェネツィアに戻ることに決めた。

1531年一家はヴェネツィアのサンティ・ジェルヴァージオ・エ・プロタージオ(現、サン・トロヴァーゾ)教区のイエローニモ・モロジーニ氏所有の一軒に引っ越した。

3人の子供達の教育は続けられ、母の願いで、当時大変著名な文学者であった友人の文法教師フォルトゥーニオ・スピーラの手に委ねられ、彼等は簡単な頌歌が書けるまでに教育された。娘達の音楽教育は、音楽家のピエリッソーネ・カンビオに任せられ、リュートの演奏と歌唱の表現力で頭角を現す。

1535~40年(12~17歳): 母チェチーリアの家は文学サロンとなり始め、若い貴族達、詩人、音楽家、文学者が参集した。常連の中にはフィレンツェ出身の大建築家ヤーコポ・サンソヴィーノの息子フランチェスコ、彼は詩人・編集者であり、彼女の弟バルダッサッレの友人となった。またダニエーレ・バルバロ、ブルカルド、文章家でペトラルカ風の詩を書くロドヴィーコ・ドメーニキ、サン・マルコ寺院のオルガン奏者で詩人のジェローラモ・パラボスコらであった。

人文主義者で医者のオルテンシオ・ランド、文学者のスペローネ・スペローニやベネデット・ヴァルキもこの時期、スタンパ家の近付きになっていた。ガースパラの美貌や才能、魅力は、当時ヴェネツィアで花開いた沢山の集まり(ridotto)やお喋りの中で話題となった。

そうした集まり等には裕福で無為に過ごす階層の人々、女たらしの若い貴族、軍人、知的な高級娼婦や女流詩人が通ったものという。アレティーノ、ドーニ、ドルチェといった才気煥発で進取の気性に溢れた文学者で活気を呈し、彼等はカード遊びやペンで世界を笑いのめす悪巫山戯をした。そして誹謗中傷から賛辞まであらゆる手段を利用して、自分を目立たせたりした。

2人の姉妹は歌に秀でており、リュートの伴奏でペトラルカの詩や、これら友人の文学者や詩人の歌を歌った。

1544年弟バルダッサッレが、多分肺結核のために亡くなった。弱冠19歳。虚弱体質で、健康状態が悪化し、母はフィレンツェの気候が彼に良かれと期待して、短期ではあったが彼を送り出した。その帰郷途中、家族と再会する前パードヴァまで帰ってきたところでの落命である。

彼の詩的才能を称賛していた友人のフランチェスコ・サンソヴィーノは、『愛の対話』のガースパラへの献辞の中で、彼の事を愛情深く語っているという。最愛の弟の死が彼女に精神的危機をもたらしていた。世間を捨て、修道院を選ぶのが慰めだとする修道女アンジェーリカ・パーオラ・デ・ネーグリから送られた長い手紙が、その事の証である。数ヶ月間、彼女は俗世や文学サロンから遠ざかっている。

フランチェスコ・サンソヴィーノは『愛の対話』以外にもボッカッチョの『アメート』の再版や『デッラ・カーザ(ヴェネツィア出身)猊下のソネット《嫉妬》についての、ベネデット・ヴァルキの考察』を彼女に捧献。

彼女の友情の輪は広がっていく。ジョルジョ・ベンゾーネ、ティエーポロ、ジェローラモ・モリーン、ベンボ枢機卿の息子のトルクァートが彼女のサロンにやって来る。」  (続く)
  ――『Rime』(Biblioteca Rizzoli)年譜より
  1. 2009/05/02(土) 00:01:38|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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