イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――アルトゥール・シュニッツラー

アルトゥール・シュニッツラー(1862.5.15ウィーン~1931.10.21ウィーン)は、オーストリアの作家です。かつて彼の劇作品『輪舞』を、ロジェ・ヴァディム監督の映画化で見たことがありましたが、作品を読んだことはありませんでした。図書館で彼の『カサノヴァの帰還』を見つけ、読んでみました。カザノーヴァの生まれたのはヴェネツィアであり、亡くなったのはボヘミアのドゥックスです。
『カサノヴァの帰還』物語はカザノーヴァが「故郷の都ヴェネツィアに寄せる望郷の思いが切に募るのを覚え」、「帰郷の許しを故郷の元老院に請願して」、マントヴァの町に逗留して、その明るい知らせを待っているところから始まります。

ヴェネツィアに近い北イタリアで、彼のアヴァンチュールは展開するのですが、物語最後に至り、彼はヴェネツィア帰還を果たすのでした。

「……船はちょうど二十五年前と同じように、朝の六時にヴェネツィアに向けて出るところであった。商いの品物を町へ運ぶ女や小売商人、職人らに立ちまじって、カサノヴァがその狭い腰掛けに座を占めるやいなや、船は岸を離れた。まるで彼が来るのを待っていたかのような按配であった。

空は曇っている。霧が潟の上にわだかまっている。あたりには饐えた水やふやけた木の臭い、魚や新鮮な果物の匂いが漂って強く鼻を突く。教会の鐘楼が見る間に高さを増して迫ってくる。今やいくつかのほかの尖塔もくっきりと浮かび上がり、教会の円屋根すらもぼつぼつ見えてきた。

その屋根のいずれかに朝日が反射するごとに、光がきらりと彼の目を射た。その数もしだいに増えていった。一塊りにしか見えなかった家々がやがて個々に離れあい、しかもだんだん大きく見えてくる。大小様々の船が霧の中から姿を現しては、往き交うたびに互いに挨拶が交わされるのであった。

カサノヴァのまわりでもおしゃべりがしだいにさかんになっていった。傍らの小娘が買ってくれないかと言って、彼に葡萄を差し出した。その青い実を口に運ぶと、彼はお国の流儀で皮を甲板越しに、背後の海へぺっと吐き出した。

やっと天気が回復してくれましたなあと言いつつしきりに笑顔を見せているどこかの男と、やがて彼は気さくに言葉を交わし始めていた。

《ええっ、三日間も雨が降ったんですか。それは知りませんでしたな。なに、南から来たばかりなもんでね、ええ、ナポリからローマ経由で来たんですよ……》

船は早くも都のはずれの運河に差しかかっている。薄汚れた家々の陰気な窓が、虚ろな目のようなよそよそしさで彼を迎える。船はその後二度三度と止まり、何人か若い者が降りていった。一人の男は大きな紙ばさみを小脇に抱え、女たちは籠を抱きこんで。」
  ――『カサノヴァの帰還』(金井英一・小林俊明共訳、集英社、1992年3月10日発行)
  1. 2009/06/27(土) 00:02:03|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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Seminario Patriarcale(総大主教のセミナーリオ)

前回書きました大運河左岸の、塩倉庫右隣りにはあまり目立たない建物、教皇庁のセミナーリオが、サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ(S.Maria della Salute)教会とに挟まれてあります。
教皇庁神学校この辺り一帯はかつて、旧至聖トリニタ教会(chiesa di SS.Trinita`)とその修道院(monastero)があったそうです。1630年元老院はペストの鎮静化に感謝して、聖母マリアに捧げる教会の建設を決定し、バルダッサーレ・ロンゲーナ(Baldassare Longhena)を建造者に選び、建設に当たり、老朽化していたらしい至聖トリニタ教会と修道院を取り壊し、その跡地を新教会の建設地としたようです。サルーテ教会の完成までに1687年まで掛かります。

1669年バルダッサーレ・ロンゲーナが、現在の総大司教セミナーリオの場所にソマースキ神父(Padri Somaschi)達のために、セミナーリオを建設しました。1810年ナポレオンの命令でヴェネツィアの宗教施設や信心会・修道会の類が、沢山廃止の憂目に遭います。1815年にはオーストリア・ハプスブルク皇帝フランツ1世の通達で、このセミナーリオは教皇庁のセミナーリオとして生き残ることになりました。

そうした中、かつてのヴェネツィアの思い出となり、記念となる物、例えば石碑や遺物等の収集に情熱を傾けていたモスキーニ(G.Ant.Moschini)司祭のお陰で、セミナーリオは芸術品や歴史的遺物等を収集・保存し始めました。

それは1810年のナポレオンの命令で廃止になった教会や修道院にあった、放っておけば結局は消滅し、失われていく運命にあった物の収集・保存ということでもありました。こうして最初のセミナーリオの重要なヴェネツィアの収集物の中核が形成されていきました。1940年に再整備された、2階にあるマンフレディアーナ美術館(Pinacoteca Manfrediana)や考古学コレクションなども含まれていきます。

私が1996年ここに訪れたのは、現在はアッカデーミア美術館になっているカリタ大同信会館[カリタ教会もカリタ修道院も美術館に改変されました。最近まで本部が置かれていた美術アカデミーはかつてのインクラービリ養育院(Ospedale Incurabili)に移されたようです]にあったと思われる、4人の天正少年遣欧使節の来訪を記した1585年の石碑を見せて頂くためでした。

1585年7月5日、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人はヨハンネス・ベッサリオン(Giovanni Bessarione)枢機卿の残された聖遺物を拝観にサンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館に来訪しました。その事を記した碑が現在はここ総大司教神学校に移されたのでした。
天正遣欧使節の碑正門を入って直ぐの広い中庭キオーストロ(chiostro)の一番奥左の壁面にその碑は掲げてありました。名状し難い感動を覚えました。素晴らしい装飾のある井桁(vera)は目に入りませんでした。またここには Giusto Le Court の沢山の彫刻で飾られた大階段もあるのだそうです。

『天正遣欧使節』(松田毅一著、講談社文庫、1999年1月10日発行)によりますと、天正の使節が宿泊した場所は、このセミナーリオの裏庭となっている場所だったそうです。老朽化した建物は彼らの滞在後、4年目1589年には大修理が施され、1606年にはイエズス会はこの建物を放棄したのだそうです。

勝手な推測を述べてみますと、年代的には至聖トリニタ修道院がまだ存在していた時代、4人の使節はこの修道院に泊ったのではないかと推察します。ヴェネツィア人にはこの石碑とトリニタ修道院の関係は分かっていて、この碑をこのセミナーリオに置いたのでしょうか。少年使節は各地のイエズス会派の宿舎に泊ったようですが、この修道院がイエズス会派のものであったかどうか、まだ調べていません。しかしこの狭い区画に宗教施設が林立していたとは考えにくいのです。

参考にした書籍=Giuseppe Tassini『Curiosita` veneziane』(Filippi Editore Venezia, ristampa 1990)、Giulio Lorenzetti『Venezia e il suo Estuario』(Edizioni Lint Trieste, 1996)、Elsa e Wanda Eleodori『Il Canal Grande―Palazzi e Famiglie』(Corbo e Fiore Editori, 2007)等。

2008年3~4月に《天正のローマ使節》として4人の少年のことを書きました。参考までに次のサイトも見て頂ければ、と思います。天正のローマ使節(3~5)》、《天正のローマ使節(1、2)
  1. 2009/06/20(土) 00:01:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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Dogana da mar(海の税関)

フランスのシャルル8世時のヴェネツィア共和国大使(1494~95)だったフィリップ・ド・コミーヌ(Philippe de Commynes、1447?~1511)は、「大運河は(……)世界で最も美しい通りであり、両岸の家並みはこの上なく麗しい。そしてそれは町を縦断している」と書いたそうですが、例えばパリのシャンゼリゼ大通りなど存在しなかった昔、それは正に彼の実感だったと想像します。
海の税関と塩の倉庫税関岬ヴィゼンティーニ板刻「海の税関、塩の倉庫、サルーテ教会[右、ヴィゼンティーニの蝕刻画『大運河の岬と町への入口』]
その大運河の左岸に最初に位置するのは、海の税関です。そこには1414年の昔から、アドリア海方面からヴェネツィアに入港してくる貿易船の積荷を陸揚げし、それに課税するための税関がありました。ここは大運河とジュデッカ運河が合流し、サン・マルコ広場の直前でもあり、ヴェネツィアでも最重要な場所だったのです。

そのため、ここにはかつて狭間を備えた櫓風の高い塔が聳え、サン・マルコやサンタ・マリーア・ゾベニーゴ、サン・ジョルジョ運河等の町の中心を海賊の襲撃から守る守護施設として機能していたそうです。

元々税関は、サン・マルコの傍にあったようです。1414年まで全ての商品はそちらに陸揚げされ、カステッロ区のサン・ビアージョ教会近くの施設で計量されたそうです。しかし商品の流れが格段に夥しくなり、余りにも手狭になったため、税関が二つ作られました。

一つは本土側から到着する物資のためにリアルトに Dogana da Terra[サン・ジョヴァンニ・エレモズィナーリオ教区のこの税関は、正面がワイン河岸(Riva del Vin)に面して建てられましたが、1511年12月19日前夜の大火で焼失し、31年に再建されました。ファサードがカナレットの景観画にも描かれているようですが、建物は現在は存在しません]が設けられました。

もう一つは海から来る商品のために、ここ Dogana da mar に移転されました[この地もまた葦の生えた湿地だった所を埋め立てて造成されたのだそうです]。

海の税関の建物は、アルベルト・ドゥレーロ作と思われるヴェネツィア岬(Pianta di Venezia――現Punta della Dogana)に際立った塔を見せていましたが、1525年に修復されたそうです。隣接して建てられた塩倉庫のために《塩の岬》とも呼ばれ、至聖トリニタ教会と修道院が傍近くあったので、《トリニタ岬》とも呼ばれたそうです。しかしサンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会の最初の礎石が1631年に置かれた時、その二つのトリニタの建物は取り壊されました。

既にある塩倉庫は活かし、海の税関の再建が決まり(1675)、コンペが行われました。ロンゲ-ナ、コミネッリ、サルディ、ベノーニの間で争われ、建築家でもあり、水力工学の技師でもあったジュゼッペ・ベノーニ(Giuseppe Benoni)の案が採用され、1677年に建設されました。

彼の仕事は素早く、堅固な塔の最終的な部分にイストラ(Istria)半島産の石を使用したのも彼の案でした。その塔は柱で支えられたポルティコから立ち上がって、ブロンズ製の黄金の球(Palla della Fortuna)を2人のアトラス(Atlante)が支えており、球の上にはベルナルド・ファルコーネ(Bernardo Falcone)作の《運命(幸運)の女神》が屹立します。

大運河沿いの塩の倉庫は、一部ジョヴァンニ・ピガッツィ(Giovanni Pigazzi)が1835~38年頃に小屋風の屋根が連続して現れるのを高い平らな壁面で隠し、石の記念碑的な空間を構えて、建て替えられました。

長い間、船の置き場や催物会場(例えば、カーニヴァル時のダンスの出来るパーティー会場等)などとして利用されてきたそうですが、建築家安藤忠雄氏の手で現代美術館に改装され、この6月4日、オープンしたそうです。詳しくはヴェネツィア在住の fumiemve さんの2009年6月4日のブログが大変参考になります。次のサイトをご覧下さい。ヴェネツィア、ときどきイタリア

2012.03月追記: 上記フィリップ・ド・コミーヌの『Me'moires』(1524~28)中の大運河についての言及の原文は、当時の古い仏語で次のように書かれているそうです。
《…et me menerent au long de la grant rue, qu'ilz appellent le Canal Grant, et est bien large. Les gallees y passent a` travers, et y ay veu navire de quatre cens tonneaux on plus pres des maisons: et est la plus belle rue que je croy qui soit en tout le monde, et la mieulx maisonnee, et va le long de la ville.》
  1. 2009/06/13(土) 00:00:44|
  2. ヴェネツィアの街
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文学に表れたヴェネツィア――ウィリアム・ロルフ

フレデリック・ウィリアム・ロルフ(1860.7.22ロンドン~1913.10.25ヴェネツィア)、通称コルヴォー男爵という不思議な作家が、『ヴェネツィアからの誘惑――コルヴォー男爵少年愛書簡』という書簡集を残しています。私は彼の作品は、この手紙以外は知りません。彼について知りたい方は次のサイトをご覧になって下さい。最下段の《松岡正剛の千夜千冊「コルヴォー男爵」》を読んでみて下さい。
『ヴェネツィアからの誘惑』彼は1908年8月どういう目的があってか、ドーキンズという教授とヴェネツィアに到着します。ヴェネツィアに在って、『全一への希求と追慕』(副題『現代ヴェネツィア物語』)という作品を書き進めながら、その内、生活にも困り、本国のマッソン・フォックス等へ手紙を送り、身辺報告と共に支援を求めています。

この書簡集冒頭の、一書状の文頭に発信地が記されて、《パラッツォ・モチェニーゴ・コーナー》と訳されています。私がヴェネツィアで初めて借りたアパートは、サン・トマ停留所の対岸正面のモチェニーゴ・ヴェッキア館だったので、モチェニーゴの名前に敏感に反応する癖が生じてしまいました。

彼が住んだ《パラッツォ・モチェニーゴ・コーナー》とは、訳注にサン・ポーロ区2128番地とあるので、『Calli, Campielli e Canali』(地図帳)にコルネール・モチェニーゴ(Corner Mocenigo)と記してある館です。
「ミケーレ・サンミケーリによる擬古典様式の堂々たる建物。正面はサン・ポーロ運河(Rio di S.Polo)に向いており、対岸のアマルテーア小広場(Corte Amaltea――この広場は探すのが少し難しいのですが)からよく見える。完成は1564年。」
と記載され、サン・ポーロ広場にも一部顔を覗かせています。現在は財務警察の建物だそうです。

「……ある朝仕事にあぶれたアマデオが、大気の感触が大好きなものですから、いつものようにシャツをはだけてジャルディネット通りをたまたまぶらついていたときに、声を掛けてきたのです。素敵な子だといいながら、伯爵はアマデオの胸を撫でました。神がお造りになったままで裸でいることのほうが好きだ、というと、伯爵はその日、アマデオをオスマリンへ連れていきました。

それからというもの、アマデオは、広場にいるときも、いつも胸をはだけていました。するとたちどころに、シニョーレたちが彼の跡について来るようになったのです。アマデオは人目のない街角へ来てから頷くのです。こうしてパトロンを見つけました。ですが、クラブがパドヴァへ移ってからは、夜の客を見つけることが、アマデオのような真正直な少年には――当時十六歳でした――難しくなりました。

昼間はザッテーレ[現地音、ザッテレ]やマリッティーマ[現地音、マリッティマ]港で沖仲士をして3.5フラン稼ぎ、そのうち3フランを、同じく沖仲士で稼ぎ高も同じ父親にあげていました。……」 ――第六書簡

「……この夏はただの一度も泳げませんでした。潟へ出る手段がなかったばっかりに。自分の部屋に釘づけになっています。広場とラルガ通りを結ぶ細い路地に面した一階の裏部屋です。外路にあまりに接していて、一晩じゅう叫んでいる売春婦や酔っぱらいの帽子に触れるかと思うほどです。陽がまったく射さず、真暗なので、この頃の快晴続きでも明かりを点けないとものを書くことが出来ません。……」――第二三書簡
 ――『ヴェネツィアからの誘惑――コルヴォー男爵少年愛書簡』(河村錠一郎訳、白水社、1994年12月25日発行)

後の第二〇書簡文頭では、発信地が《ラルガ・サン・マルコ通り(Calle Larga S.Marco)286番地》となっていることから、彼が部屋を与えられた所は、サン・マルコ広場の一隅レオーニ小広場(Piazzetta dei Leoni)の北側のラルガ・サン・マルコ通りと小広場を結ぶペッレグリーン通り(Cl.del Pellegrin)とサン・バッソ(S.Basso)通りの間にあったようです。

松岡正剛の千夜千冊「コルヴォー男爵」
2014.07.10追記: 彼の墓は、墓の島サン・ミケーレにあります。
  1. 2009/06/06(土) 00:02:10|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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