イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――マルセル・プルースト(1)

マルセル・プルースト(1871.07.10パリ~1922.11.18パリ)の『失われた時を求めて』の一部が映画化され、フォルカー・シュレンドルフ監督の『スワンの恋』(1983年)を見た時、心の内側の心の旅路がどのように映画化されるのか、不思議な思いでした。

今では映画の記憶も定かではありませんが、その時は不思議な感懐を覚えたという記憶が残っているだけです。ルキーノ・ヴィスコンティ監督もこのプルースト作品を映画化したいと思っていたそうですが、実現していれば必ず見たのに、と願ったことでした。

コンブレーでの記憶が、紅茶に浸したプティット・マドレーヌの味から突如蘇ってくるように、またサン・マルコ寺院の不揃いのタイルの上で覚えた感覚から蘇るヴェネツィアでの思い出。プルーストはヴェネツィアを次のように書いています。
マルセル・プルースト(21歳)『プルースト像』説明[オルセー美術館の『プルーストの肖像』] 「母がそこに私を連れていって数週間過ごさしてくれたのだった、そして――美はもっとも貴重なもののなかにあるとともに、またもっともつまらないもののなかにもありうるのだから――私がそこで味わった印象は、昔コンブレーであのように何度も身に覚えた印象によく似ていて、ただそれがまったく異なる音階、よりゆたかな音階に移調されたにすぎないのであった。

午前十時に私の部屋係がきて鎧戸をあけると、私の目に燃えあがって見えるのは、サン=チレール教会のスレート屋根のつやが呈する黒大理石ではなくて、サン・マルコ聖堂の尖塔の黄金の天使なのだった。

ほとんど見つめてはいられないほど太陽にまぶしく光っている天使は、大きくひろげたその両腕で、私が半時間後に小広場に出るときのために、もう私によろこびを約束していた、その天使は、かつて善意の人々に告げよと命じられたよろこびよりももっと確実なよろこびを、私に約束しているのであった。

ベッドに横たわっているだけでは、天使しか目にすることはできなかったが、世界は一つの巨大な日時計でしかなく、太陽に照らされた一つの切片だけで時刻を知ることができるので、最初の朝から私は教会広場に面したコンブレーの商店のことを考えた、それらは日曜日には私がミサに着くときにはちょうど店をしめようとしているところであり、一方市場のむぎわらは、すでに暑くなった太陽のもとで強く匂っていた。

ところが、二日目からは、私が目をさましながら見たもの、私をベッドから起きあがらせたものは(なぜなら、それらが、私の記憶と私の欲望とのなかで、コンブレーの回想にとってかわったものだから)、それはヴェネチアの最初の外出から私が受けた印象だった、

そのヴェネチアで、私の日常生活が、コンブレーでとおなじように、現実化したというわけなのだ、そのヴェネチアでは、コンブレーでのように、むろん日曜日の朝になると人々はたのしそうに休日気分の表通におりてきた、しかしその表通は、ここではすべてサファイアの水で敷きつめられていた、

水面は肌にあたたかいそよ風で気持がよく、水の色はいつも褪せないので、私の疲れた目は、その色のうつろいを心配せずに、ゆっくりとやすらって、まなざしをいつまでもそれにそそぎつづけることができた。」
  ――『失われた時を求めて』『第六篇 逃げさる女』(筑摩世界文学大系59A「プルーストⅢA」、井上究一郎訳、1988年4月30日発行)
  1. 2009/07/25(土) 00:04:49|
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スローフード

私が伊文学者の中で一番多く読んだのは、チェーザレ・パヴェーゼのもの(晶文社から全集が出る予定だったのに中断。現在装いも新たに美麗な全集が岩波書店から刊行中)でした。彼は1908年トリーノの南、サント・ステーファノ・ベルボに生まれ、1950年トリーノ、ポルタ・ヌオーヴァ駅前カルロ・フェリーチェ広場にあるホテル(Roma e Rocca Cavour)のある一室で服毒自殺してしまいます。
『Tra donne sole』彼の原作『Tra donne sole』からミケランジェロ・アントニオーニ監督が脚本化した映画『女ともだち(Le amiche)』を見たのは新宿に出来たアートシアター初期の頃だったと思います。この台本は『Tra donne sole』(Cesare Pavese, Einaudi Tascabili)にも収録されています。エレオノーラ・ロッシ・ドラーゴの熱烈なファンだった私は見逃す訳にはいきませんでした。

パヴェーゼの生まれ故郷の周辺、アスティ(Asti)、アックィ(Acqui)、アルバ(Alba)の三角地帯を含むモンフェッラート(Monferrato)地方はピエモンテ州でも有数のワインの産地とガイド本にあります。この地域に、今や世界各地に広まったスローフード運動が発祥し、その大学まであるそうです。

昨年この大学を卒業した友人の娘さんが、その卒業式で地域のいくつかの新聞社にインタビューされ、「娘が新聞に載った記事を送ってきたので読んでみて」と私に切抜きを送ってくれましたので、この場にちょっとその訳文を載せてみます。

スローフードというのは、直接ファーストフードに対置するものではなく、また有機農業や無農薬産品ということでもなく、それらを含めて地産地消を考慮に入れながら、土地の産物(出来るだけ上質を)、それも土地の風土に根付いた生産方式で産し、郷土の社会性を高め、地域を活性化していく食品の利用を促進するものだと知りました。この大学はアルバ市の西、ブラ市のポッレンツォに所在します。

「ファビオーラ・パルメーリ記者
 日本からポッレンツォへ――スローフードに開かれた大学での4年間、今や卒業――

2004年夏、東京生まれのMIZUHO H.はサン・フランシスコの大学で会話学を修め、料理への情熱からクーネオ県のポッレンツォに開かれて間のない、スローフードのための、初めての食科学研究大学の存在をPC上で見付け、知識と職を求めてやって来た。

その歩みは精神力の賜物だった。4年間の勉強後《子供達への食の教育――マリーア・モンテッソーリ・メソッドに則り》という卒論で、彼女は美学教授ペルッロの下、卒業に漕ぎ着いた。彼女の辿ってきた魅惑的な道は、スタイルや考え、味覚、インターナショナルな文化に対する興味を抱かせ、特に――彼女が微笑みながら気楽に伊語から日本語になったりして語ったように――『私は次に漕ぎ出す船を捜しているんです。それはこれからの人生の事であり、研究課題についても考えました。スローフードや大学で考えた事は、正しく私のためになっていました。』

更に『私は多文化ということを考えています。いつも多くの事を学びたいと思っていました。ここポッレンツォでは、沢山の事が学べる可能性があります、特に食品について。いずれにしてもそれは完璧です。』

東京、サン・フランシスコ、パリ、ローマのような大都会での生活の後、ピエモンテの小さな村での、ここ数年の生活はどうでしたか?
――『ポッレンツォでの生活は気に入っています。今一人住まいですが快適です。大学では世界各地からの人に会いました。生産者、土地の人、先生、学生仲間全てから刺激を貰い、新しい見方を教えられました。』

この新生なったばかりの大学の生活や組織は満足いくものでしたか?
――『全体として見れば、満足出来るものだったと言えます。もっとより良く出来る事柄は確かにありますが、この大学と私が一緒にやって来たことは大変素晴らしいことでしたし、こうしたコースのパイオニアの最たるものでした。私はパルマ近郊のコロルノの支部でも1年間学びました。そこで英語での食品と会話のマスターの学位も得ました。』
『モンテソーリの発見』子供達のためへの食品の教育とマリーア・モンテッソーリの哲学についての研究の後は、どういう方向を目指しますか?
――『ここイタリアで働くことです。書くことが好きなので雑誌や新聞に《食》の評論を書きたいのです。将来米国か日本に帰るかも知れません。それまでにパリ近郊のプチ・ホテルの経営の助言にもうすぐ出かけます。それからトリーノには何度も赴くことにしています。いずれにしても、どこであれ、私の基本テーマは常に、子供達に熱い視線を向けた文化と食との坩堝の中にあります。』」
  1. 2009/07/18(土) 00:07:01|
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文学に表れたヴェネツィア――カザノーヴァ(2)

『カサノヴァ回想録』の中で特に有名な箇所は、それまで脱獄した者のいないピオンビ監獄からの、よく知られた脱獄の一節でしょう。

運河に落下して死ぬことを恐れるソルダーチを後に残し、カザノーヴァはバルビ神父と屋根への穴を抜け、急勾配のピオンビの屋根に向かいます。

「こうして決行の時が来た。すでに月影はなかった。わたしはバルビ神父の片方の肩に綱を、もう一方の肩に彼のぼろ着の包みをかけてやった。そして、自分も同じようにした。そして二人ともチョッキだけとなり、頭に帽子をかぶると開いた穴の方へ向かった。

 そしてわれらは、外に出て、空の星を仰ぎ見た(ダンテ『神曲』)

わたしが先に出て、バルビが後に続いた。ソルダーチが屋根の穴までついてきたので、わたしは彼に鉛の板を元どおりにし、それから聖フランチェスコに祈ってくれと言った。

まずひざをつき、四つん這いになったわたしは、矛を片手でしっかりとつかみ、腕を伸ばして、板の継ぎ目に矛を突きさし、板を一枚剥がした。そうしてめくり上げた板の縁を四本の指でつかみ、屋根の頂までよじ登ることができた。

バルビはわたしについてくるのに、わたしの半ズボンのベルトを右手の四本の指でつかんでいた。だからわたしは、重い荷物を引きずる駄馬の辛い役目をはたさなければならなかった。しかも、濃い霧でしっとりと濡れて滑りやすくなった屋根の急斜面なのである。
……
やっとの思いで十五、十六枚の鉛板を乗り越えると屋根の頂に着いた。わたしはほっとして脚をひろげ、頂に馬乗りになった。バルビもわたしを真似た。わたしたちはサン・ジョルジョ・マッジョーレの小島に背を向けていた。

そして正面二百歩ばかり先には、サン・マルコ教会の丸屋根がいくつも見えていた。この教会は統領官邸の一部であり、統領の礼拝堂にほかならなかった。これほど立派な礼拝堂をもてる君主はまずないだろう。
……
あらまし一時間ほどかけて屋根のいたるところを這い回り、調べ、確かめたが無駄だった。綱の端を結びつけられるようなところはひとつも見つからなかったのだ。……このときのわたしが置かれていた位置からすれば、大胆さが必要だったが、どんな向こうみずも許されなかった。
……
ちょうどこのとき、夜半を告げるサン・マルコの鐘が鳴ったが、この鐘の音はわたしの心を激しくゆすり、わたしを押し潰しかけていた困惑の状態から救い出してくれたのである。その鐘は、まさに始まろうとしているこの日が万聖節[11月1日]であり、この日はわたしの守護聖人――わたしにもそういう聖人があるとするなら――の祭日であることをわたしに思い起こさせた。そして、わたしの聴罪司祭の予言がわたしの胸に思い浮かんだ。

しかし正直なところ、とりわけわたしの気力を振るい立たせ、わたしの肉体的な力を実際に高めてくれたのは、わが敬愛するアリオストから受けた《十月の終わりと十一月の初めのあいだに》というあの託宣だった。

鐘の音は、行動せよとわたしに語りかけ、勝利を約束する神意のように思われた。わたしは腹這いになり、小さい格子の方へ首をつきだし、矛を窓枠の中へ押し込み、格子全部をそっくり取りはずすことにした。その作業はわずか十五分ほどですみ、はずした格子は天窓のそばに置いた。窓ガラスをこわすのはなんの造作もなかった。……」
  ――『カサノヴァ回想録2 脱獄の巻』(ジル・ペロー編、大久保昭男訳、社会思想社現代教養文庫、1986年5月30日発行)

彼はその後世界を回り帰郷出来た時、カステッロ区のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ(ヴェネツィア語、サン・ザニポーロ)教会前のサン・ザニポーロ大通り(Salizada S.Zanipolo)に続くバルバリーア・デ・レ・トーレ(Barbaria de le Tole)通りの6673番地に住まい、共和国の密偵として生計を立てたようです。
  1. 2009/07/11(土) 00:00:10|
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文学に表れたヴェネツィア――カザノーヴァ(1)

かつてジャーコモ・カザノーヴァ(1725.04.02ヴェネツィア~1798.06.04ボヘミアのドゥックス)の少年時代を描いた映画、ルイージ・コメンチーニ監督『カサノヴァ回顧録(Infanzia, vocazione, e prime e sperienze di Giacomo Casanova)』をイタリア文化会館の《チネテーカ・イタリアーナ》シリーズで見たことがあります。フェッリーニ監督の『カサノバ』はチネチッタのセットで撮られた映画でしたから、現実のヴェネツィアは見れませんでした。[You tubeにこの映画がありました、次です。Giacomo Casanova]
チネテーカ・イタリアーナ『カサノヴァ回顧録』解説その後イタリア文化会館で行われたカザノーヴァ展は、彼の自由人としての面に光を当てた展覧会で、18世紀の自由ということについて考えさせられました。そんな訳で初めてヴェネツィアの語学学校に通った時、アパートから学校のあるサンタ・マルゲリータ(S.Margherita)広場まで行くのに、サン・サムエーレ教会傍のマリピエーロ(Malipiero)通り(彼が生まれたことを示す標識盤があります)を毎日通ったので、彼に対する感慨が色々湧いてきます。
カザノーヴァの碑「この通りのある家でジャーコモ・カザノーヴァが、1725年4月2日生まれた」 「母はまづだいいちに、私の面倒を見ねばならぬと考へた。それは偏愛のためばかりではなく、私が病身だったからで、そのために私は、どういふふうに扱ってよいか、扱ひにくい子供になってゐたからである。私は極めてひ弱で、食慾もなく、なにをさせても身がいらず、まるで薄馬鹿のやうな樣子をしてゐた。

醫者たちは、私の病氣の原因について、いろいろ議論をした。『とにかく、一週間に二リーブルも血をなくしてゐる。血液量は全體として、十六リーブル乃至十八リーブルしかないといふのに、これほど多量な血液生成が起こる理由はなにに基くのか?』と、彼らは語り合ってゐた。一人の醫者は、私の乳糜がみんな血に變るのだといひ、またある醫者は、私の呼吸する空氣が呼吸のたびごとに肺臟の血をふやしてゐるので、私がいつも口を開いてゐるのはそのためだといふ説をたてた。

このことは、それから六年後に、亡父の無二の親友であったバッフォ氏から聽き知ったところである。

パドヴァの有名な醫者マコップ氏に相談してくれたのもこのバッフォ氏であった。マコップ氏は書面で彼に意見を述べて寄越した。私は今もなほその書面を持ってゐるが、それによると、われわれの血液は彈力性のある流動體で、量こそ增減しないが、濃度に增減のあるもので、私の出血の場合も、血液全體の濃度に起因し、循環作用を容易にすることによって自然に症狀を輕快にさせることができるといふのである。

また、生きやうとする本然の力に助けられてゐなかったら、私はとっくに死んでゐたらうとも書いてあった。そして、私の血液が濃厚になった原因も私の呼吸してゐる空氣の性質にあるのだから、その空氣を變へさせるか、あるひは、坐して私を喪う覺悟をするか、二つに一つであると結論してあった。

なほ、彼の説によれば、私の顔つきがどことなく間拔けに見えるのも、實はすべて私の血が濃くなったことからきたのだといふことであった。

そもそもバッフォ氏といふ人物は才華絶倫、いかなる種類のものも企て及ばない最も淫靡な作風をもって鳴る詩人であったが、また實に、雄偉無雙の人物でもあった。……」
  ――『カザノヴァ回想録』(第一巻、岸田國士訳、岩波文庫、1952年4月25日発行)

文中彼が言うバッフォ氏とは、エロチック詩人ジョルジョ・バッフォのことで、彼の詩集『Sonetti Licenziosi』(La Spiga Meravigli刊、1994)という本をヴェネツィアで購入したのですが、ヴェネツィア語で書かれた詩はとても私の手に負えるものではありません。
Giorgio Baffo『Sonetti licenziosi』ジョルジョ・バッフォの家サン・マルコ(S.Marco)広場からサント・ステーファノ(S.Stefano)広場へ向かい、その一つ手前のサン・マウリーツィオ(S.Maurizio)広場に入ると、歩く進行方向正面のベッラヴィーテ=ソランツォ=バッフォ館(Palazzo Bellavite-Soranzo-Baffo o Bellavite-Terzi)の壁面に「ここに1694~1768年ジョルジョ・バッフォが住んだ。彼は勝手気儘で仰々しいばかりの言葉で愛の詩を歌った。ギヨーム・アポリネール記、1910年」とプレートが掲げられています。その碑の左側には「この家にアレッサンドロ・マンゾーニが1803~04年住んだ」というプレートもあります。

アルセナーレ西側の、アパートを借りたド・ポッツィ(Do Pozzi)広場の更にその西の島にバッフォという名の小路と広場もあります。貴族のバッフォ家は827年にパルマからヴェネツィアに来て、この地に住んだのだそうです。カンナレージョ区のサンタ・マリーア・マッダレーナ教会はバッフォ家によって建立されたと言います。バッフォ家は詩人ジョルジョをもって絶えたようです。
  1. 2009/07/04(土) 00:02:36|
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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