イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの修道院: Abbazia di S. Gregorio(聖グレゴリウス修道院)

サルーテ教会右脇のサルーテ運河(rio de la Salute)を挟んで、右隣りの2階建ての低い建物は、サン・グレゴーリオ修道院です。その奥の内陸にはサン・グレゴーリオ教会が隣接しています。『ヴェネツィア興味津々(Curiosita` veneziane)』(1863刊)はこの建物について次のように述べています。
サン・グレゴーリオ修道院「サン・グレゴーリオ教会が何年に創建されたかは明確ではないが、確かな事は、897年以来存在したとするダンドロ[第40代総督エンリーコ?]の証言がある。1105年の火災の後、再建された。

1140年頃、サンティラーリオ(S.Ilario)のベネディクト派の僧達の管轄の元に置かれることになった。彼らの有名な修道院が暴君エッゼリーノ[エッツェリーノとも]によって、1247年破壊されるや、僧達は修道士と共にヴェネツィアの彼らの教会に撤退した。そして彼らの一人フリディアーノが1342年、修道院と同時に、教会も再建したと言われている。

1450年以後、正規の神父に代わって、臨時の聖職者が代理を務めることになったが、その中の一人バルトランメーオ・パルータがサン・グレゴーリオ教会の修復を始めた。この教会はもう修道士ではなく、修道院院長に選ばれた主任司祭、あるいは他の司祭によって祭式が司宰された。

1775年には、遂に修道院の司宰する資格が廃止され、教区教会のものに変わったが、サン・グレオーリオ教会は1808年には民間に委譲された。」

[エッゼリーノ(エッゼリーノ・ダ・ロマーノ(1194~1259))はトレヴィーゾの領主で暴虐な僭主の例として、ダンテの『神曲』の中で、《あのまっ黒な髪毛のある額はアッツォリーノ》として地獄篇第12歌109行に書かれています]。shinkai さんのブログエッツェリーノ・ダ・ロマーノソンチーノ・中世の要塞とユダヤ人の印刷所が大変詳しく記されています。是非ご覧のほどを。

『ヴェネツィアとその入江(Venezia e il suo estuario)』(1926年記の前書きがあります)は以下のように述べています。
「古い修道院であるサン・グレゴーリオ修道院の教会は、少し内陸にあってゴシック様式の後陣がサルーテ運河に面している。修道院の正面のみが大運河に面しており、1300年代ゴシック様式の玄関大扉の上には、聖グレゴリウスの浮彫が置かれ、三葉飾りのアーチの華麗な窓がその両脇を飾っている。

建物内部には、1342年の非常に有名なゴシックの回廊(chiostro)があるが、これはヴェネツィアでも最も絵になる場所の一つである。

18世紀末から19世紀初頭に教会と修道院が廃止されたので、全てが個人所有となった。1911年に入念な修復が施され、現在はモンズィーノ(Monzino)の所有となっている。」

『道、広場、運河(Calli, campielli e canali)』(1989年刊)という地図は次のような説明をしています。
「9世紀にベネディクト会修道士によって創建され、大運河に面した玄関扉の上は聖グレゴリウスの浮彫で飾られた。そして内部には1342年の貴重なゴシック様式の回廊がある古い修道院として大切に保存されている。

旧サン・グレゴーリオ教会は、1445~61年に再建された。その後陣は現在、サルーテ運河に姿を映しているが、その姿は全建物の内でも最も美しい箇所で、我々にフラーリ教会の姿を思い起こさせる。現在は、ヴェーネトの文化財保護の修復センターが入っている。」

本によって、年代等の記述が区々のようです。
  1. 2009/08/29(土) 00:01:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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文学に表れたヴェネツィア――ヘミングウェイ(2)

彼が1950年に発表したこの『河を渡って木立の中へ』は、発表時、批評家達に新しいものが何もない等、非常に評判が悪かったそうです。しかし私には、彼がヴェネツィアという町を舞台に、大変楽しんで書いたように思われます。それまで行動を描いてきた彼が、全体を楽しい会話で埋めているのが、Veneziafilo の私には新鮮です。

彼は主人公の大佐に、《ヴェニスはおれの町だ》とか、《おれが死んだらあそこに埋まりたいな》とか語らせます。《18歳の時初めて見て以来》、ヴェニスはヘミングウェイには大変気に入った町だったと思われます。しかし彼はこの小説に対する批評家達の酷評に応えるかのように、1952年『老人と海』を書き、1954年ノーベル文学賞を授けられました。
サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用サルーテ教会への votivo 橋が架橋された時の右脇のグリッティ・パレス・ホテル(ピザーニ・グリッティ館)。帽子や服装の古さ、ゴンドラに設置されたfelce(felze、felse―屋根)から古い写真であることが分かります。

「キャントウェル大佐がグリッティ・ホテルの玄関を出たとき、外にはその日の最後の陽ざしがあった。広場の向こう側には、まだ陽があたっているが、ゴンドラは、広場の風あたりの強い側でなごりの日光のあたたかみにふれるよりは、グリッティの建物の蔭で風をよけているほうがいいらしい。

 それを目にとめてから、大佐は右へ向かって広場を歩きだし、右手にのびている鋪道のほうへ進んで行った。向きを変えると、ちょっと立ちどまって、サンタ・マリア・ジリオの寺院を見た。

 なんという卓抜な、緊密な、しかも、いまにも空たかく飛び去りそうに見える建物だろう、と彼は思った。おれは小さな寺院が、P47[第2次大戦中活躍したアメリカの単発戦闘機のこと?]に似ているとは、いまのいままで気がつかなかった。この寺が、いつ建てられたか、誰が建てたか、調べてみなければならぬ。畜生っ、おれはなんとかして一生、この町を歩きまわっていたいものだ。

おれの一生か、と彼は思った。何たる愚劣なギャグだ。猿轡(ギャグ)でもかませるほかはないギャグだ。絞め殺すほかはない首だ。よせよせ、元気を出せ、彼は自分に言った。《病的》なんて名のつく馬が、競馬で勝ったためしがあるか。
……
 すると橋の石段をのぼりながら、彼は疼痛を感じ、向こう側の石段をおりかけると、二人の美しい若い女に気がついた。二人とも美しい。帽子はかぶらず、貧しそうだが、しゃれた装(なり)をしていて、髪を風に吹かせ、ひどく早口におしゃべりしながら、ヴェニス女らしいすらりとした脚を大股にはこんで、石段をのぼってくる。

それを見ながら大佐は自分に言った、この通りの窓を見てあるくのはやめて、つぎの橋を渡ったほうがいい、そして広場を二つ越してから、いつものとおり右へ曲がって、まっすぐ行けばハリイの店だ。」
  ――『ヘミングウェイ全集7巻――河を渡って木立の中へ・他』(大久保康雄訳・他、三笠書房、1973年12月30日発行)

彼は自分の小説の中でも、よく通ったハリーズ・バー(バール)のことに言及しています。ヴェネツィアが気に入ったからに違いありません。ヴェネツィアの書店[ルイージの店]で偶々彼のこの作品の伊語訳の本を見付けましたので、読んでみました。
Ernest Hemingway『Di la` dal fiume e tra gli alberi』(伊語訳とまえがき Fernanda Pivano, una cronologia un'antologia di giudizi e una bibliografia 付き, Scrittori del Novecentoシリーズ、Oscar Mondadori, 2005)
Hemingway『Di la` dal fiume e tra gli alberi』「イタリアのヘミングウェイ翻訳者、92歳のフェルディナンダ・ピヴァーノ(引用はイタリアに好奇心記事のまま)がこの8月18日に亡くなった」――そうです。このニュース記事については次のサイトをご覧下さい。2009.08.19日のイタリアに好奇心。この本はフェルディナンダ・ピヴァーノではなく、《Fernanda Pivano 》が伊訳し、まえがきを書いています。
  1. 2009/08/22(土) 00:03:17|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ヘミングウェイ(1)

ヴェネツィアを愛した作家の中で、最右翼に座る人は誰なのだろうと考えました。ヴェネツィアに関心を持ったヴェネツィア生まれではない文学者は、皆それぞれの視点でこの町を眺めていた筈です。

ヴァッラレッソ(Vallaresso)通りのサン・マルコ停留所(以前はヴァッラレッソと停留所の壁面には書かれていました)直前にある、ジュゼッペ・チプリアーニが始めたハリーズ・バー(バール)は、ヘミングウェイが常連だった“バール”として殊に有名です。
ヘミングウェイ[PCサイトから借用] アーネスト・ヘミングウェイ(1899.07.21イリノイ州オークパーク~1967.07.02アイダホ州ケチャム)はヴェネツィアを愛し、彼の小説でも登場するホテル・グリッティやトルチェッロ島のロカンダ・チプリアーニ等に長期滞在したようです。そうした背景で小説『河を渡って木立の中へ』(1950年)が書かれたようです。

「《真正面がトルチェッロだ》と大佐は指さした。《西ゴート人に本土を追われた人民が住んだのが、あそこだ。その人民があそこに見える四角い塔のある教会堂を建てたのだ。むかしは、あそこに三万の住民がいて、彼らの主をたたえ、あがめるために、あの教会を建てたのだ。

それからあの教会を建てたあとで、シーレ河の河口が泥でふさがったが、大洪水で形が変わったかして、いままでおれたちが通ってきた土地がすっかり氾濫し、そこに蚊がわき、マラリアが発生して、あそこの住民を襲った。

このままでは、みんな死んでしまいそうになったので、長老たちが集まって、どこか蚊を防げる健康な土地、西ゴート人やロムバルディア人や、その他の部族に襲われない土地へ、船で漕ぎ出すことになった。そういう部族は海軍をもっていなかったからだ。

トルチェッロの青年は、みんな立派な漕手だった。そこでみんなが自分たちの家の石を全部、ちょうど、いましがた見たような艀に積んで運んで、そうしてヴェニスの都を建てたのだ》
……
《それがトルチェッロの青年たちなのだ。そんなとても我慢づよい若者ばかりで、しかも建築にいい趣味をもっていた。彼らはカオルレという海岸の小さな村からきた。だが彼らは奥地の町や村の人々が西ゴートに襲われたとき、それらの人々を、みんな呼びよせた。

そのころアレキサンドリアへ武器を密輸出したのもトルチェッロの一青年で、その若者は聖マルコの遺骸のありかをさがし出し、不信心な税関の番兵どもの目を逃れるために、新鮮な豚肉の荷の下へそれを隠して、こっそり運び出した。

この若者が聖マルコの遺骸をヴェニスへ運んだので、聖マルコがヴェニスの守護聖徒になり、その名にちなんだ大寺院がここにあるのだ。だが、その時分には、ヴェニスは遠い東方と貿易をしていたから、建築は、おれの趣味に合う美しいビザンチン式だ。トルチェッロで最初に建てたほどのものは、その後はできなかった。それがあのトルチェッロだ》」
  ――『ヘミングウェイ全集 第七巻――河を渡って木立の中へ 他』(大久保康雄訳他、三笠書房、1973年12月30日発行)

ヘミングウェイについて書くに当たって、この作品が文庫にないのは知っていましたので、PCでも調べてみました。検索が足りなかったのか、ヴェネツィアとの関連でこの『河を渡って木立の中へ』について書いている人が見当たりませんでした。日本ではこの作品に対して関心が薄いのでしょうか。
  1. 2009/08/15(土) 00:04:15|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――マルセル・プルースト(3)

「夕方になると、私は魔法にかけられたような町のなかへひとりで出かけていった。知らない界隈に足を踏み入れたときは、自分がまるで『千一夜物語』の登場人物になったような気がした。散策の途中、どんなガイドブックにも載っていなくて、いかなる旅行者からも聞いたことのない広々とした見知らぬ広場に行当たらないようなことはほとんどなかったと言っていい。」
 ――『消え去ったアルベルチーヌ』(高遠弘美訳、光文社古典新訳文庫、2008年5月20日発行)、第2章より

プルーストが最後に手を入れたグラッセ版からのこの翻訳は、著者による3分の2にも渡る削除があり、大変読み易くなっている面が窺えます。事実他の版と異なって、上記の引用文はこれだけで一段落となっています。題名も『逃げさる女』から『消え去ったアルベルチーヌ』と変更になっています。

かつてプルーストに親しんだため、自分の文章が彼のそれのように長々となって、明晰さを欠くものになっていく嫌いがありました。プルーストは最期に clarte' でないものは仏語にあらずの方向に転向したのでしょうか。

「…すなわち今は深い青空が私の目を陶然とさせ、さわやかさの印象とくらくらする光の印象が私のそばで旋回していたのである。

それをとらえたいと思った私は、ちょうどマドレーヌを味わったときにそれが思い出せるものを自分に引きよせようとしながらじっと動かずにいたように、大勢の運転手たちに笑われるのは覚悟の上で、今しがたそうしたように片足を高い敷石に、もう一方の足を低い敷石においたまま、ぐらぐらとよろけそうな姿勢を保っていた。

もっともただ身体だけでいくら同じ歩き方を繰り返しても、これはその都度なんの効果も上げはしなかった。

しかしゲルマント家の午後の集いのことも忘れて、こんなふうに両足をおきながら、ついに先ほどの感覚を見出すのに成功すると、ふたたび目のくらくらするような、しかし判然とはしない光景が私に軽くふれ、それがまるでこう語りかけているかのようだった。

『さあ、お前にその力があるのだったら、通りがかりに私をつかまえてごらん。そして、私がお前にさし出している幸福の謎を解こうとつとめてごらん』そのときほとんど同時に、私にはその光景が分かった。

それはヴェネツィアだった。この町を描こうとする私のさまざまな努力や、私の記憶が撮影したいわゆるスナップショットが、これまで一度も私に何ひとつ語ってくれなかったヴェネツィア、それを、かつてサン=マルコ寺院の洗礼堂にある二つの不揃いなタイルの上で覚えた感覚は、その日にこの感覚と一体となっていた他のすべての感覚を伴って、私に返してくれたのである。
サン・マルコ広場カナレット画『サン・マルコ寺院とサン・マルコ広場』
そうした感覚は、忘れられた一連の日々のなかのそれぞれの場所にじっと待機していたのであり、ある唐突な偶然が、それをむりやりに引き出したのだった。

これと同様に、かつてはプチット・マドレーヌの味が、コンブレーを私に思い出させた。だが、なぜコンブレーとヴェネツィアのイメージは、それぞれの瞬間に一つの喜びを私に与えたのか、確信にも似た喜び、そして他の証拠も何もないのに、それだけで死をどうでもよいものにしてしまうような喜びを、どうして私に与えたのであろうか。」
 ――『失われた時を求めて』12巻、第7編『見出された時 1』(鈴木道彦訳、集英社、2000年9月25日発行)

仏人作家フィリップ・ソレルス(『公園』(岩崎力訳、新潮社、1966.3.30発行、等翻訳あり)は、彼の『ヴェニス――愛の辞典』の中で、「プルーストの人生と『失われた時を求めて』のすべての道は、ヴェニスへと至る。……ヴェニスとは見出された時である。……」と書いているそうです。
  1. 2009/08/08(土) 00:00:50|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――マルセル・プルースト(2)

前回引用しましたように「私の目に燃えあがって見えるのは……サン・マルコ聖堂の尖塔の黄金の天使なのだった」と書いた少し後で、「私が一番多く出かける先はサン・マルコ聖堂であった、そしてそこに行くにはまずゴンドラに乗らなくてはならなかったので……」(井上究一郎訳)とプルーストは書いています。
『ヴェネツィアでプルーストを読む』プルーストが1900年5月(1899年も)にヴェネツィアに到来した時、どこのホテルに宿泊したのか、色々説があるようですが、鈴木和成著『ヴェネツィアでプルーストを読む』(集英社、2004年2月10日発行)によれば、先ずサン・マルコの鐘楼の金色の天使が見えるホテル・ダニエーリに泊り、その後恐らく、大運河の波の騒ぐ音を身近に聞く必要があり、ホテル・エウローパに移ったのだろうとしています。プルーストの街歩きは次のようです。

「こうして路地(カリ)がこの上もなく狭いためにみすぼらしい家の一軒一軒がひっそりと軒を接しているさまは、オランダ派の絵を百枚も並べた展覧会のようだった。ぎゅうぎゅうづめにされたこれらの路地は運河と潟にはさまれて切りとられたヴェネツィアの一片を、溝で縦横に分割しており、まるでこの一片が無数の薄く小さな形に結晶したかのようだ。

不意に、こうした小さな道のつき当たりで、結晶した物質が膨張を起こしたらしい。この小さな道の作る網の目のなかに、こんな立派なものはおろか、その場所だってあろうとはとても思えないくらいの広い堂々たる広場(カンポ)が、素敵な館に囲まれ、月光に青白く映えて、私の前に広がったのである。

立派な建物を一ヵ所に集めたこのような場所は、ほかの町だったら、何本もの通りがその方向に走っていて、その場所を指し示しながら人を導いてゆくところである。しかしここでは、わざわざ入り組んだ小路のあいだに隠されているように見える。

ちょうど東方(オリエント)のおとぎ話に出てくる宮殿のようなもので、夜そこへ連れてゆかれて、夜明けの前に自宅に連れ戻された人は魔法の住居をふたたび見つけだすことができないので、しまいには夢のなかで行っただけだと思いこむようになる。

その翌日私は、前夜のすばらしい広場を探しに出かけたけれども、歩いてゆく路地(カリ)はどれもこれもよく似ていてわずかな情報も与えてくれず、ますます私を迷子にするばかりであった。ときおり、ごくあいまいな手がかりを認めたような気がして、孤独と沈黙のなかに幽閉されたあの追放の身の美しい広場の出現が見られるだろうと私は想像する。

だがその瞬間に、新たな路地(カリ)の姿になった意地の悪い魔神のために心ならずも道を引き返す破目になり、そしてとつぜん大運河に自分が連れ戻されたことに気づくのだった。

そして夢の思い出と現実の思い出のあいだにはそう大きな違いがないものだから、ついに私は、暗いヴェネツィアの一片の結晶体のなかで、ロマンチックな宮殿にかこまれた大きな広場をいつまでも月光の瞑想にささげていたあのふわふわと漂うような奇妙な状態は、睡眠中に起こったのではないかと考えるようになった。……」
 ――『失われた時を求めて』第11巻第六編「逃げ去る女」(鈴木道彦訳、集英社、2000年3月22日発行)
青と銀のラグーンジェイムズ・ホイッスラー『青と銀のラグーン、ヴェネツィア』。ホイッスラーのサイトから借用。
ジェイムズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(1834~1903)という米国の画家がいます。彼が描いたヴェネツィアの景観画や小運河等の街の裏のエッチング等の絵画は、私の街歩きに詩情を与えてくれました。プルーストは『失われた時を求めて』の中で彼を何度か取り上げています。エルスティールという画家としても作品の中に取り上げている、と聞きましたが、まだ私は自分なりに確認出来ていません。
  1. 2009/08/01(土) 00:01:15|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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