イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――カルロ・ゴルドーニ(1)

この7月の初め、フェッルッチョ・ソレーリ(1929.11.06フィレンツェ~  )がまた来日しました。今回で4度目の訪日と思われます。出し物は1997年に亡くなったジョルジョ・ストレーレル演出の、カルロ・ゴルドーニ作『二人の主人を一度にもつと』です。
ミラノ・ピッコロ座ピッコロ座としては1979年、99年そして今回の世田谷パブリックシアターと3度目です。私が初めて彼の舞台を見たのは、1995年鎌倉芸術館大ホールで行われた、《フェリュチョ・ソレーリと「アルルカンと仲間達」》が演じた、ピッコロ座とは別ヴァージョンのゴルドーニ作『2人の主人を一度に持つと』でした(これはゴルドーニがパリに行き、1764年3月4日にテアトル・イタリエンヌで上演した『アルルカン――二人の主人を持つ召使』だったのでしょうか?)。
アルレッキーノ「アルレッキーノ」  コメディア・デラルテ「コメディア・デラルテ」95年そして前回の99年の新宿文化センターでの公演時にはトンボを切ったりして、その若々しく激しい動きで見せたテンポの速い演技は、やはり今回79歳という年齢では影を潜めた感があったものの、よく計算された切れの鋭い円熟した演技は、やはり期待通りで楽しいものでした。

ストレーレルの演出ではゴルドーニの戯曲は解体的に改められ、ベルガモ出身のアルレッキーノの言葉もヴェネツィア訛りに変更するなど、ゴルドーニのテクストとは相当離反しているようです。しかし彼の緻密に計算し尽された演出による演劇ですから、即興性など皆無の筈ですが、即興性やラッツィ(lazzi)を言葉に頼らず肉体で表現したかつての喜劇集団であったコンメーディア・デッラルテとはこんなものであった、ということを納得させてくれました。

カルロ・ゴルドーニの生涯をガルザンティ(Garzanti)のウニヴェルサーレ事典から拾ってみます。

「喜劇作家(1707.02.25ヴェネツィア~1793.02.06パリ)。法学を学ぶ。俳優のジュゼッペ・イメールやジローラモ・メデバックの一座と付き合い、弁護士を放棄してしまう。1748~53年はヴェネツィアのサンタンジェロ劇場、1753~61年はサン・ルーカ劇場のために戯曲を提供した。

1751年だけでも喜劇を16作品書いた。彼の成功はピエートロ・キアーリやカルロ・ゴッズィの反目を引き起こした。1762年コメディ・イタリエンヌの座長としてパリへ赴いた。

彼はコンメーディア・デッラルテの粗筋(canovaccio)に代わるものとして、文章化された喜劇として作品を提出し、現実の人物を登場させることで演劇の改革を試みた。彼の作品のオリジナリティは、現実世界と舞台との複雑な相互関係の中に見られる。彼は豊かで、理路整然とした言語表現を駆使して、啓蒙主義的理想を程よく吸収した作品を書いた。

彼の作品は150ほどあり、一番古いもの(1743~49)に、『二人の主人を一度に持つと』(1745)を舞台的な遊びとして提示している。そして性格劇的な『粋な女』(1743)、『抜け目のない未亡人』『素直な娘』(1749)。心理的に深める追究は続けられ、『パメーラ』『嘘つき男』『コーヒー店』(1750)、『宿屋の女主人』(1752)、そしてヴェネツィア語での作品が続く。

彼の傑作としては『小広場』(1756)、『恋人達』(1758)、『田舎者達』(1760)、『不平たらたらのトーデロ氏』『キオッジャのいざこざ』『避暑地三部作』(1761)、『カーニヴァル最後の一夜』(1762)。

パリに行ってから書かれたものに、『扇』(1764)。更にフランス語で書かれたものに『気立てのいい気難し屋さん』(1771)がある。『回想録』はフランス語で残した。」
[『不平たらたらのトーデロ氏』のトーデロ(トーダロも)は伊語の名前テオドーロのヴェネツィア式の言い方で、サン・マルコ小広場の2本の円柱の上の、竜を退治する聖テオドールスも、ヴェネツィアではサン・トーダロと呼ばれているようです。]
『カルロ・ゴルドーニの肖像』2001.03.24~05.27日の《華麗なる18世紀イタリア ヴェネツィア絵画展》で初来日したアレッサンドロ・ロンギ画『カルロ・ゴルドーニの肖像』。初ヴェネツィア行の時、《ゴルドーニの生家(演劇博物館)》で観ることが出来ましたので、《ヴェネツィア絵画展》での再会は contentissimo でした。
  1. 2009/09/26(土) 00:04:10|
  2. ヴェネツィアの演劇
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文学に表れたヴェネツィア――トーマス・マン(2)

マンのこの作品は、イギリスのベンジャミン・ブリテンによって、同名のオペラ作品が作曲されています。そのオペラは彼の死を看取ったピーター・ピアーズらによって、1973年スネープで初演されたそうです。

ブリテンは日本とも関係があり、日本の皇紀2600年奉祝のための作曲を委嘱されました。完成した総譜が送られて来ましたが、駐米日本大使から、その内容が奉祝に不適であると激しい抗議を受け、結局日本では演奏されないまま、太平洋戦争が始まってしまいます。

かつては世界の地名は英語で言われるケースが多かったと思われますが、近年は現地音で発声されるようになって来ました。Venezia(ヴェネツィア、ヴェネチア、ベネチア等)は、英語Venice(ヴェニス、ベニス)、仏語Venise(ヴニーズ)、独語Venedig(ヴェネーディヒ)、西語Venecia(ベネシア――西語にはヴ音なし)等、国によって発音表記は異なるのですから、日本語も簡単に《べネチア》でいいのでしょうが、私はここでは出来るだけ現地音に近付けて表記するように心がけて来ました。

この独語の本『ヴェニスに死す』が、最近の新訳では『ヴェネツィアに死す』と題されて発刊されています。時代が変わっていくのをひしひしと感じます。
『ヴェネツィアに死す』「やがて会衆は開かれた正面玄関[サン・マルコ寺院の]を抜けて、日射しの強い鳩の群がる広場に次々と溢れ出てきた。そのとき惚れ込んだ男は入り口のホールに身を隠した、そしてこっそりと様子を窺った。

ポーランド人たちが教会を出ていった。子供たちは堅苦しい態度で母親に別れの挨拶をし、母親はホテルに帰るためにピアツェッタの方に向かった。彼は、美しい少年と尼僧のような姉妹と付き添いの教師が、右に道を折れて時計塔の門を抜け、メルチェリーアに入るのを確認した。

そして彼らを先に行かせ、その後をつけた。こっそりと後ろから彼らの散歩に従い、ヴェネツィアの町をさまよった。彼らが立ち止まると、彼も立ち止まらねばならなかった。引き返してくる彼らをやり過ごすために、小さな食堂や中庭に逃げ込まねばならなかった。

姿を見失い、橋を渡り、汚い袋小路に入り込み、夢中でその姿を捜し求めて疲れ果てた。そしてとつぜん、逃げ場もない狭い通路を向こうからやって来る彼らに出くわして死にそうなくらい苦しい数分間を耐えた。それでも彼が苦しんでいたということはできない。

頭と心は酔いしれていた。その足取りは、人間の理性と威厳を踏みにじって喜ぶデーモンの指示に従っていたのである。
……」
  ――『ヴェネツィアに死す』(岸美光訳、光文社文庫、2007年3月20日発行)

ルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』(1971)の場面が彷彿とします。
  1. 2009/09/19(土) 00:05:31|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――トーマス・マン(1)

色々な要因が重層的に絡み合った中で、何よりもヴェネツィアに行きたいと思った切っ掛けは、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』を見たことがありました。映画を見たことに引き摺られてトーマス・マン(1875.06.06リューベク~1955.08.12チューリヒ)の『ヴェニスに死す』を読みました。

そのため初めてのヴェネツィア行は、中世人のように何とか船でヴェネツィアに、それもヴェネツィアの表玄関であるサン・マルコ小広場に着岸したいと思ったことでした。
ブローデル著『都市ヴェネツィア』フランスの地中海学者フェルナン・ブローデルの『都市ヴェネツィア』(岩崎力、岩波書店)を読むと、筆者はコスタンティノーポリ(イスタンブール)やラグーザ(ドゥブロヴニク)から船でヴェネツィアに入港しています。益々船でサン・マルコへ、と思うようになりました。

加藤周一・堀田善衛対談集『ヨーロッパ・二つの窓――トレドとヴェネツィア』(リブロポート社)を読んだ時、加藤さんが空港からサン・マルコ小広場まで船便があると言っておられ、私に出来ることはこれだ、と思いました。

80年代にイタリアン・シンドロームが始まり、ようやくイタリア旅行ガイドが少しずつ出版され始めており、片っ端からルート探しに読み漁り、あるガイドにその行程が書かれているのを見付けました。

昼間ヴェネツィア入りするために、アリタリアでマルペンサに降り、ミラーノに3日泊り、4日目の午前中リナーテ空港から双発飛行機でヴェネツィアに飛び立ちました。雲一つない快晴でした。1時間足らずでラグーナ上空から右下に、絵で見た鰈のような魚の形をしたヴェネツィアがラグーナを泳いでいるのが見えました。

空港では、船でヴェネツィアに行きたい旨カウンターにいたイタリア人にたどたどしく尋ねると、指差された先に船着場があり、運河が通じていました(現在は空港が大きく拡張され、桟橋までは大分離れてしまいました)。このアリラグーナの船便に乗ったのは5、6グループの人で、殆どの人は早くて安いバス便でヴェネツィア入りをしたのでしょう。

モトスカーフォ(船)はブリコーラ(古くはmete o mede とも)やダーマと呼ばれる水路表示の杭(澪標)の間を進みます。時々マリア様を祀った小さな祠があったりします。その時はそこがどこか分かりませんでしたが、ムラーノ島で停船しました。あちこちに島影があり、漁船と思しき小舟が沢山見えました。

カンパーリの大きな看板が見え、その島には車が走っています。ここでも停まりました。後でリード島と知ります。ここでも下船する人はいません。船は太陽の燦爛と輝く中、銀色の波頭を切ってサン・マルコを目指します。

停留所を出て船が180度方向を変えた時、初めて前方にサン・マルコ大聖堂の鐘楼らしき物が遠望されました。進むに従って海の税関の屋根の上の円球がまばゆく黄金色に輝く背後には、サルーテ教会の穹窿が聳え、そして対岸の水際直ぐに建ち上がった総督宮殿とマルチャーナ図書館が視認出来た時は感動でした。明るく光輝くヴェネツィアでした。中世以来ヴェネツィアに入市した人々は、皆こうした光景を目にしてきたのだという粟立つような興奮を覚えました。
税関岬ヴィゼンティーニ板刻「海の税関、塩の倉庫、サルーテ教会左、夕焼けに染まる税関岬。右、ヴィゼンティーニの銅版画『海の税関、塩の倉庫、サルーテ教会』
「こうして彼はまた、最も驚嘆すべき埠頭を見た。ヴェニス共和国が近づいてくる航海者の畏敬の目に出して見せるあのまばゆいばかりの、幻想的な建物の構図を、宮殿の軽快な壮観とためいきの橋を、岸ぞいにある獅子と聖者のついた柱を、おとぎばなしに出てくるような寺院の、華やかに突き出している側翼を、門道と大時計まで見通すながめとを、見たのである。

そして、じっと見やりながら、彼は、陸路をとってヴェニスの停車場に着くのは宮殿に裏口からはいるのと同じことである、都市という都市の中でも最も現実ばなれのしたこの都市には、今の自分のように海路、大海を越えてくるべきものなのだ、ということをつくづくと考えた。」
 ――『ヴェニスに死す』他(関楠生訳他、世界の文学35巻、中央公論社、昭和40年6月10日発行)
  1. 2009/09/12(土) 00:01:32|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ヴェネツィアの建物: サン・グレゴーリオ修道院とPalazzo Genovese(ジェノヴェーゼ館)

サン・グレゴーリオ修道院にピッタリ接して大きなジェノヴェーゼ館が低い修道院と対照的に偉容を誇っています。グレゴーリオ修道院についての『大運河(Il Canal Grande)――建物とその一家』(1993年刊)の説明は次のようになっています。
ジェノヴェーゼ館「1160年、サンティラーリオのベネディクト派の修道士によって創建され、14世紀に再建され、1775年には廃止された。右隣のジェノヴェーゼ館に場所を提供するために、1800年代一部が壊されたが、柱のアーキトレーヴ配置を残す1300年代のゴシック様式の回廊と、同時代の表玄関(三葉飾りの背の高い窓が両脇に置かれ、門の上には祭壇上の聖グレゴリウスの壁龕がある)は残された。

1461年頃の教会の後陣は、大運河からも見ることが出来、透かし細工の特徴的窓と入り組んだ中空のアーチも視認出来る。1805年修道院は廃止され、現在は文化財保護修復センターが入っている。」

道理で、発想の異なる建物が不自然に接しているのが分かりました。
『ヴェネツィアとその入江』(1926)はジェノヴェーゼ館について次のようなコメントをしています。

「古い建物風に建てられ、修道院の中の第二の回廊風を取り入れ、1892年に建てられたゴシック・スタイルの新しい建物である(建築家トゥリコーミ・マッテーイ)。」

『大運河――建物とその一家』(1993年刊)は次のような評価を下しています。

「頑ななまでに左右が完全なシンメトリーに設計されたネオゴシック様式の巨大な建造物。サン・グレゴーリオ修道院のゴシック様式の第二の回廊を取り壊して、建築家トゥリコーミ・マッテーイにより1892年建てられた。そのあまりにも大きい容積は、大運河のこの周りのバランスを壊しており、一部サルーテ教会の景観を奪っている。」

『ヴェネツィア』(望遠郷5、ガリマール社・同朋社出版編、1994年8月23日発行)の、古い時代のものと思われる大運河沿いの建物景観図を見ますと、大運河沿いに広大な敷地を占めたサン・グレゴーリオ修道院は、その3分の2近くが取り壊されて、ジェノヴェーゼ館が建てられた様子が読み取れます。
サルーテ教会を望むこの建物は現在は五つ星のホテル《Centurion Palace》となっているそうです。アッカデーミア橋に立ってサルーテ教会方向を見ますと、やはりこの建物によって教会の雄姿が大きく遮られているのが分かります。
  1. 2009/09/05(土) 00:01:45|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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