イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアと日本との関係(2)

ヴェネツィア人マルコ・ポーロが中国から帰国後、彼の『東方見聞録(Il Milion)』の中で日本のことをジパング(ズィパング―Zipangu)として世界に紹介したことを知らない日本人はいないのではないかと思われます、彼がヴェネツィア共和国の人であったことを知らなくても(上掲の写真にはマルコの家であることを示す碑文が掲げてありますが、最近の研究でここではなく直ぐ近くの場所だとする説があるそうです)。
マルコ・ポーロの家マルコ・ポーロの家[左の旧ポーロ家は近年修復されました] マルコ・ポーロの家[ファサードのマルコの碑]
[追記=2010.12.25日に書いたブログ文学に表れたヴェネツィア――ジェイムズ・カウアンで、マルコ・ポーロの影響を受けたヴェネツィアのサン・ミケーレ修道院の修道士マウロが書いた地図には、isola de Zimpagu(ジンパグ)としてヨーロッパの地図で初めて日本が書き込まれたそうです。修道士マウロはスペルを間違えたのでしょうか]

それから250年以上経って、天正の四少年使節がローマにやって来ました(1585.03.20)。日本への帰国途上、ヴェネツィアにも立ち寄りました(1585.06.26)。実は彼らがリヴォルノに上陸した時(1585.03.01)、時のトスカーナ大公フランチェスコ1世は、少年達の一行をピーザのお城に招きました。その日の夜会で、大公妃ビアンカ・カッペッロはファブリーツィオ・カローゾの曲(?)に乗って伊東マンショと踊ったと言われています。カローゾの舞踊曲は踊りたい相手に花を渡して一緒に踊り、踊りが終わるとその相手が次に踊りたい相手にその花を捧げ、踊り相手が新しく代わるというように、男女が次々に代わっていくというものだそうです。

ビアンカは塩野七生さんの『愛の年代記』(新潮文庫)でも書かれているように、ヴェネツィア貴族バルトロメーオ・カッペッロの娘でした。この町に働きに来ていたフィレンツェの青年ピエートロとフィレンツェに駆け落ちします。そして当時の大公フランチェスコに見染められ、前大公妃が病弱で亡くなった後、トスカーナ大公妃となりました(その時には駆け落ちして夫となったピエートロは、深い仲になったある未亡人の家族達に暗殺されていました)。
ビアンカ・カッペッロ右はビアンカ・カッペッロの生家ビアンカは初めて日本人男性(伊東マンショ)とダンスを踊ったヴェネツィア女性第一号となりました。語学学校通学のため、偶々彼女の生家近くにアパートを借り、リアルトの方へ出る度、毎日のようにその館の前を通り、見上げたものでした。
[彼女の生家へは、リアルトからサンタポナール教会前で左へビアンカ・カッペッロ(Bianca Cappello)通りを進むと直ぐにストルト(Storto)橋に出ます。その橋の上で右を向けば彼女の家が眼前です。上掲左の写真はサンタポナール(S.Aponal)運河の手前奥から見た正面どん詰まりにある彼女の生家モリーン・カッペッロ(Molin-Cappello)館です。フルッタローラ(Furatola――総菜屋)とバンコ・サルヴィアーティ(Banco Salviati)の軒下通りが長く続く美しい眺めです。右はストルト橋から見上げたモリーン・カッペッロ館]
巨人の階段カナレット『巨人の階段』[右、カナレット画『巨人の階段』] 総督宮殿中庭にある巨人の階段は通常、人の通行は禁じられています。この階段を登った最初の日本人は天正の四少年ローマ使節だったそうですが、最後に登った日本人は、1987年6月8日のヴェネツィア・サミットに参加した中曾根首相だそうです。下の写真は四少年遣欧使節が1585年にヴェネツィアを訪ねたことを示す碑盤で、サルーテ教会左隣の総大司教神学校の回廊(chiostro)壁面にあります。天正のローマ使節(2)に文面を転写しています。
天正遣欧使節の碑天正の使節が訪伊した次の世紀、再びイタリアに日本人の姿が現れました。伊達政宗使節の支倉常長の一行です。チヴィタヴェッキア港に上陸したため、港に彼の銅像があると聞きました。マドリードに到達し資金も尽きたようですが、スペイン国王の許しがあり、信仰のためローマまで行って宜しいと、資金を提供してくれたため、ローマまで辿り着くことが出来たと言います。
Da Sendai a Roma[支倉常長に関する書『仙台からローマへ』(イタリア、Office Move編集刊)] ヴェネツィアにも来てほしいとの要請があったそうで、しかし支倉が体調を崩し、日本から一緒に来ていたヴェネツィア出身のお付きのパードレ、グレゴーリオ・マティーアスに挨拶状と贈答品の書物机を託して、彼自身はジェーノヴァでグレゴーリオの帰りを待っていたそうです(ヴェネツィアの元老院はマティーアスにはメダルの付いた金鎖、支倉には銀の十字架と聖杯を送ったとか)。

スペインにはハポン(日本)さんという名前が沢山あり、支倉の一行の出発時と帰国時で乗船していた人数に相当隔たりがあることから、スペインに残った日本人があったに違いない、と調べている人がいます。この話があるため、近年仙台の人達がヴェネツィアにも残った人がいたのではないかと、サン・ミケーレ島に調べに行ったと聞きました。

こうした過去があったため、明治時代、米欧回覧使節岩倉具視一行がアメリカ、ヨーロッパを回り、イタリアの最終地ヴェネツィアで当地の東洋学者グリエルモ・ベルシェ(Guglielmo Berchet)の案内で、フラーリの古文書館で、天正四遣欧使節と伊達政宗使節の挨拶状を発見しました。それが切っ掛けで両使節の日本での研究が始まることになります。

岩倉使節が在ヴェネツィア時、アレッサンドロ・フェ・ドスティアーニ第3代日本公使との間でヴェネツィアに領事館が置かれることになりました(数ヶ月後にミラーノに移動)。それと共にヴェネツィアに日本語学校がヨーロッパで初めて設置されることになりました(1873~1909)。
古モチェニーゴ館右寄りの2・3階中央に四連窓がある館が初めて日本領事館が置かれたコンタリーニ・デッレ(ダッレとも)・フィグーレ館で、領事館が置かれた当時はグイッチョリ館と呼ばれたそうです。この館の左隣は古モチェニーゴ館で私が初めてアパートを借りたので、懐かしさが溢れます。
緒方惟直の墓1873年に始まった日本語学校の2代目教師は緒方惟直(これなお―緒方洪庵の第十子)で、彼は若くしてヴェネツィアで亡くなり、サン・ミケーレ島に葬られました。日本人の墓第一号です(1878)。

ヴェネツィア・ビエンナーレは1895年に第1回が開かれました。その特別展はパリで活躍したモディリアーニの回顧展でした。彼の黒っぽい肉体表現は、当時のヴェネツィア市長には気に入らずそれを酷評したと言います。第2回目の特別展(1897)には、日本の工芸品が展示されたそうです。パリでもてはやされたジャポニスムの影響があったのでしょうか。
[追記: 大間違いを冒しています。アメデーオ・モディリアーニ(1884リヴォルノ~1920パリ)は1903~05年ヴェネツィアで絵画の勉強をしています。1906年にはパリへ越し、日本人画家藤田嗣治やスーティンらとも知り合いになり、35才の若さで亡くなりました。1895年の第1回ビエンナーレで彼の展覧会があった筈はありません。それは彼の死後の1922年のことでした。]
モディリアーニモディリアーニの家[サン・セバスティアーノ(S.Sebastian)橋傍の、モディリアーニ勉強中の下宿] 第二次世界大戦後ヨーロッパで初めて、1954年(昭和29年)第13回ヴェネツィア演劇ビエンナーレの時、能楽が招かれました。前もって日本で作った舞台をヴェネツィアに送り、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会裏の庭園にある野外劇場テアートロ・ヴェルデ(緑の劇場)の上に組み立て、観世寿夫と当時喜多流で修行していた観世栄夫らが中心となって『葵上』等演じたそうです。能楽のヨーロッパ初演です(2年後のパリ公演も評判になったとか)。
テアトロ・ヴェルデヴェネツィア能公演葵上 サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会[左、テアートロ・ヴェルデ、中左、当時のポスター(両者共サイトから借用)、中右、『葵上』切手、右、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会]
  1. 2009/10/31(土) 00:01:22|
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ヴェネツィアと日本との関わり(1)

ヴェネツィアに行った時、下掲の写真の本『Le prospettive di Venezia――Dipinte da Canaletto e Incise da Antonio Visentini』(Dario Succi 著、Grafiche Vianello srl/Vianello Libri刊)を見付け、購入しました。それは18世紀の画家カナレット(本名Giovanni Antonio Canal、1697.10.07ヴェネツィア~1768.04.19ヴェネツィア)が描いたヴェネツィアの都市景観画(Veduta)を、アントーニオ・ヴィゼンティーニ(1688.11.21ヴェネツィア~1782.06.26ヴェネツィア)が、彼に協力してエッチングに食刻した版画の本です。
ヴィゼンティーニについての本カナレットの描いたヴェネツィアのヴェドゥータは、この街のスーヴニールとして魅力があり、高価ではあっても、人々の人気は高かったと思われます。そんな中で写真のまだなかった時代、現代の絵葉書的感覚でより求め易い形の腐食銅版画(acquaforte)というモノクロ版画がヴィゼンティーニの手で実現し、売り出されたようです。

前掲書によりますと、1742年に第一集(14点)、第二集(12点)、第三集(12点)の3集を発刊しています。第一・ニ集は大運河を通して見た景観画、第三集は広場を通して見たそれです。解説者はやはり第一集が一番力がこもっており、刻線が濃密で、第二・三集となるに従い、描線は単純化を目指している、としています。ヴィゼンティーニはカナレットの色の世界、光と影、明と暗、水と空等をどんな刻線と白地の空間で表現するか苦労したようです。

彼は自分の本で《Professor di Pittura, Architettura, Prospettiva ed Intagliatore(絵画、建築、遠近法の教師そして彫版家)》と自分のことを言っており、事実アカデミー(アッカデーミア)で教師をしていました。建築の仕事が入り、カナレットの絵の食刻をやむを得ず中断せざるを得なかった時は、カナレット以上に悲しんだようです。

現在私達がヴェネツィアに行けば、彼の建築作品を目にすることが出来ます。
サンタ・ルチーア駅前からヴァポレット1番線に乗ってリアルト橋が次第に近付いて、左手にカ・ドーロの素晴らしい建物を目にしたら、この館の左隣に薄緑色の建物を見ることが出来ます。そのミアーニ・コレッティ・ジュスティ(Miani Colettei Giusti)館が彼の設計になる物だそうです。
ミアーニ・コレッティ・ジュスティ館ミアーニ・チェレッティ・ジュスティ館、カ・ドーロ マンジッリ・ヴァルマラーナ・スミス館そのまま左岸に目を凝らして、サンタ・ソフィーア(S.Sofia)のトラゲット乗場を通過して、サンティ・アポーストリ(Ss.Apostoli)運河が見えると、その運河左岸端に白いマンジッリ・ヴァルマラーナ・スミス(Mangilli Valmarana Smith)館が、大運河に顔を向けています。カナレットの絵の収集家だったジョーゼフ・スミスが住んだ家で、この館もヴィゼンティーニによって改築されたとのことです。
[ここに掲載した写真の説明には建築家として、フェニーチェ劇場を建てたジャン・アントーニオ・セルヴァの名前を記していますが、彼が手掛けたのは最上階の増築のみだとか]

このヴィゼンティーニの銅版画集第二集の2番目に《Prospectus ab Sede S.Crucis ad P.P.Discalceatos》と題された《サンタ・クローチェ教会からスカルツィ教会に向かう都市景観画》と称される版画があります。
カナレットの元のスケッチ大運河とサンタ・クローチェ教会ヴィゼンティーニの[左は、カナレットが最初に描いたサンタ・クローチェ教会の見えるスケッチ(ウィンザー城蔵)、右はそれをカナレットが完成させた景観画(ヴェドゥータ)から、ヴィゼンティーニが版画に起こした物。]

これは現在では失われた景色です。右にある中心となるサンタ・クローチェ教会は《サンタ・クローチェ区》の名前の元となった教会ですが、1810年修道院と共に廃止されることとなり、民間の倉庫に転用されていましたが、それが崩れ落ちると市の公園となることになり、現在ではパパドーポリ公園となっています。このブログで以前に書きました記事Hotelを参考までに。

その先に、サン・シメオン・ピッコロ教会(昨年暮は修復中)があり、その丁度対岸にはサンタ・ルチーア教会がありましたが、鉄道駅建設用地に充てられることになり、聖ルキアの聖遺骨が近くのサン・ジェレミーア教会に移された後、サンタ・ルチーア国鉄駅建設のために1861年壊されてしまいました。

その直ぐ先のゴシック様式のスカルツィ教会は現在も健在ですが、スカルツィ橋が架橋され(1932年にEugenio Miozzi により)、そしてカナレットがこの絵のためのキャンバスを立てた辺りから対岸に新しくガラス製の《憲法橋》が昨年の初めに架けられました。

更にヴェネツィアでは、観光バス等の駐車場のあるトロンケット島とローマ広場を結ぶ“moderno sistema di trasporto persone”の treno のための陸橋が、今年中の完成を目指して建設中(開業は来年2月とか)だそうですし、マルコ・ポーロ空港とアルセナーレを結ぶ地下トンネル(ムラーノ島経由)で人を運ぶ予定もあるとかで、この街の風景は少しずつ変わっていくようです。

ヴィゼンティーニの版画が、当時長崎の出島に渡来していたオランダ人の手で日本にもたらされ、そして歌川派の開祖であった浮世絵師歌川豊春(1735~1814)の前に現れました。豊春は明和期(1764~72)、遠近法の研究をしていたそうで、このカナレットの絵の版画を遠近法の勉強のために模写したようです。それを浮絵と呼ぶそうです。

ヴィゼンティーニの版画が1742年ヴェネツィアに現れてから、何年経って豊春のこの『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』が日本に登場したのでしょうか。博物館の学芸員の方はこの題名の故なのか、ヴェネツィアを描いたものとは明言されませんが、明らかに日本人がヴェネツィアを描いた第一号だったと思われます。
『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊鐘響図』これはアダチ版画研究所が当時の技法で復刻した物(販売もしています)ですが、かつての版画をご覧になりたい方は次のサイトをご覧下さい。歌川豊春。この浮絵は、東京国立博物館や神戸市立博物館等が所持していますが、常設展示はしていません。

ヴェネツィアX日本の範囲を広げ、イタリアX日本についても書いてみました。2010.02.06日のイタリアと日本との関係(1)です。
  1. 2009/10/24(土) 00:03:28|
  2. ヴェネツィアの街
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文学に表れたヴェネツィア――カルロ・ゴルドーニ(4)

ゴルドーニの伊語訳された『回想録』(Biblioteca Universale Rizzoli 版)を読んだ時、前にも書きました、カザノーヴァとのある関係が記してあり、興味深いことでした。それは、当時彼が台本を提供していたイメール(G.Imer)一座で、カザノーヴァの母親ザネッタが喜劇の中の若い恋人役を演じる、優雅でとても演技力のある女優だった、という一節です。
『Memorie』『Carlo Goldoni』また『回想録』の他の場所では、ヴィヴァルディについて触れています。彼はサン・サムエーレ劇場の所有者、貴族のグリマーニに頼まれてアポーストロ・ゼーノとピエートロ・パリアーティ共作のオペラ『グリゼルダ』の全体を縮めたり、歌手や作曲家の意向に添うようにアリア等の歌う場所の変更など、板に乗せるために必要な処置を講ずるために、作曲者のヴィヴァルディの所に行ったのでした。

その挿話の中で、彼がアンナ(ゴルドーニはマッダレーナと書いています)・ジローの声の細いことを言うと、ヴィヴァルディは自分の生徒の悪口を言わないでくれと旋毛を曲げ、台本を見せようとはしませんでした。しかし彼がその場でしてみせた一部の改訂の素晴らしさに驚いて、ジロー嬢を呼んで彼に全体の手入れを頼んだのだそうです。

彼はヴィヴァルディをヴァイオリニストとしては優秀だが、作曲家としては凡庸だと手厳しく書いています。このオペラは1735年にサン・サムエーレ劇場で公開されたそうです。

『回想録』は述べています。彼の喜劇が主に上演されたのは、ヴァポレットのサンタンジェロ停留所傍のサンタンジェロ劇場とサン・サムエーレ教会右脇から、カザノーヴァが生まれたマリピエーロ通りを通り越した先にあるサン・サムエーレ劇場だったそうです。

そのサンタンジェロ劇場で1748年のカーニヴァル中に喜劇『抜け目のない未亡人(Vedova scaltra)』がジローラモ・メデバック一座によって初演されました(当時のカーニヴァル的賑いは12月26日~四旬節前まで、キリスト昇天祭~6月19日、9月1日~11月30日と続いたのだそうで、どの頃のことを言うのでしょうか)。

「第三幕 最終場(舞台は三幕ともヴェネツィア)
パンタローネ、ロンバールディ博士と前記の人たち(ムシュー・ル・フロー、ルネビーフ閣下、ボスコ・ネーロ伯爵、ロザーウラ、エレオノーラ、マリオネット)

……
パンタローネ  夜会の方の進み具合はいかがですか?
博士  一体ドン・アルバロ様に対して何をやらかしたのですか。アルバロ様はイタリアの女という女の悪態を口をきわめて罵って出て行かれましたが。
ムシュー  パンタローネ様、博士様、僕の大事な舅のお父様、尊敬すべきお義兄(にい)様。僕がこの美しい令嬢の愛を獲たという喜びを皆様にもわかちもつということが出来るよう、僕がお二人を優しく抱きしめることをお許しください。
パンタローネ  なんだと、これは初耳だぞ?
博士  父親であるこの私に何も言わずにか?
ロザーウラ  お二人の結婚をきちんと取り決める前には、お父様にお話し申しあげるつもりでございました。こうして一晩の夜会のうちに二組の結婚のお話がまとまりました。わたくしはボスコ・ネーロ伯爵様と妹はムシュー・ル・ブロー様と。なにか御反対の御異議はございますか?
博士  私はいつも娘のおまえに万事まかせていた。おまえがうまくやったと思うなら、私は反対しない。
パンタローネ  (ひとりで)≪ここで取り乱してはならん。こうなってしまった以上、進んでこの事態を良しとして引き受けるとしよう。≫ 私はエレオノーラ様と結婚したかったが、御本人が喜んで承諾なさるというのが私の希望でした。私にお気がなかった以上、致し方ない。あきらめても損をしたわけではない。なにしろあの方は私を絶望で死なせたかもしれないのだから。
ムシュー  パンタローネ様に万歳!
閣下  あの方はまるでイギリス人そっくりの理にかなった考え方をなさいますな。
ロザーウラ  こうしてわたくしの目論見はみな目出度く結末に達しました。こうして二人は、一人は後家、一人は生娘と、共にあやうく婚期を逸する身の上でしたが、無事に身を固めることが出来ました。正直に申しますと、わたくし確かに抜け目なく立ちまわりました。しかしずるさはしても、世間の掟とか人様の名誉にそむくことは一切いたしませんでした。ですから皆様、たとい拍手喝采はなさらずとも、大目には見ていただけるかと存じます。そして多分、きっと皆様はこのわたくしを羨ましいとひそかに思っておいでのことかと存じます。 ――喜劇の終り」
  ――『抜目のない未亡人』(平川祐弘訳、岩波文庫、1995年8月18日発行)
『抜目のない未亡人』この芝居は、エルマンノ・ヴォルフ=フェッラーリ(1876.01.12ヴェネツィア~1948.01.21ヴェネツィア)が、1931年ローマで同名のオペラを発表しています。ヴェネツィア生まれの彼は、その他『Le donne curiose』『I quattro rusteghi』『I campiello』等ゴルドーニの戯曲からオペラを作曲しているようです[rusteghi=伊語rustici(田舎者達)]。

ゴルドーニの戯曲は色々な作曲家の関心を呼び、オペラに作曲されています。同じヴェネツィアのブラーノ島生まれで仲の良かったと思われるバルダッサーレ・ガルッピとのコラボレーションは、『L'Arcadia in Brenta』『Il mondo della luna』『Il mondo alla roversa』『Le virtuose ridicole』『La calamita` de' cuori』『Il filosofo di campagna』等あります。

クリストフ・グルックには『Tigrane』、ニッコロ・ピッチンニには『La Cecchina, ossia La buona figliuola』(成功作)、ヴォルフガング・モーツァルトには『La finta semplice』(マルコ・コルテッリーニによる改作)、ジュゼッペ・サルティには『Fra i due litiganti il terzo gode(漁夫の利)』、トンマーゾ・トラエッタには『Buovo d'Antona』『Buona figliuola』、ヨーゼフ・ハイドンには『Lo speziale』『Le pescatrici』『Il mondo della luna』等々と彼の戯曲が使われています。

『ゴルドーニ喜劇集』(齊藤泰弘訳、名古屋大学出版会)が2007年に発行され、次の戯曲が訳出されているそうですが、私は未読です。内容は『骨董狂いの家庭、あるいは嫁と姑』『コーヒー店』『宿屋の女主人』『小さな広場』『恋人たち』『田舎者たち』『新しい家』『別荘狂い』『キオッジャの喧嘩』だそうです。
  1. 2009/10/17(土) 00:01:56|
  2. ヴェネツィアの演劇
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文学に表れたヴェネツィア――カルロ・ゴルドーニ(3)

18世紀のヴェネツィアはかつての栄光の時代の残照の中で、頽唐する輝きを見せますが、前世紀と特徴的に変化した様相の一つに、作家や作曲家、画家達が国外に出掛けて行ったことがあります。戦争もなく、平和な時代だったと思われますが、やはり17世紀よりは貿易活動も鎮静化し、国力が衰えてきたことが背景にあったと思われます。

ゴルドーニは彼の改革運動に反対の立場を表明するP. キアーリやC. ゴッズィとの争いに敗れた形で、パリへ逃れました。カザノーヴァは脱獄でこの町を後にしますが、一度は許されて帰郷します。結局はボヘミアのドゥックスで貴族の図書館の司書をしながら亡くなりました。

ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749チェーネダ(ヴィットーリオ・ヴェーネト)~1838ニューヨーク)はヴェネツィアでの荒れた生活が災いして追放され、ウィーン、ロンドン、アメリカと落ち延びていった形です。ニューヨークで彼の台本によるモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』等の上演を企画し、アメリカ初演(1817)の記録を残しています。この3人は回想録を残しました。

ヴィヴァルディはヴェネツィアでの人気が落ちたと思ったのか、皇帝カール6世を頼ってウィーンに行きますが、頼みの綱の皇帝が死去、貧窮の中に亡くなりました(1741年)。哀れなことに無縁墓地に葬られたことが判明したのは、200年後のことでした。

ジャンバッティスタ・ティエーポロ(1696~1770)はヴェネツィアを後にした後、1767年から亡くなるまで、マドリードで王宮の天井画を描いたりしていました。カナレット(1697~1768)はヴェネツィアで亡くなりましたが、1746~56年ロンドンに滞在して、英国の景観画を描いています。

ゴルドーニの1750年の作品『コーヒー店』(3幕)の牧野文子氏の日本語訳があります。コーヒーは当時のモダンな流行で、まだ庶民が誰でも飲めるほど安くはなく、生活に余裕のある人だけのものだったようです。

塩野七生著『イタリア異聞』(新潮社、1982年7月15日発行)の《大使とコーヒー》の章によりますと、1585年トルコ帝国駐在大使ジャンフランコ・モロジーニが故国に「トルコ人は cave'e と呼ばれる種から取った、煮え立っている黒い色をした飲物を飲むのです。この飲物は飲む人の頭をはっきりさせる効果があるとか」と報告書を送っているそうです。

暫くしての帰国時、モロジーニはその種を持ち帰り、少しずつこの魅惑的な飲物はヴェネツィアの上流社会に広まります。そして1638年サン・マルコ広場の回廊の一画に、ヨーロッパで初めてのコーヒー店が開店し、それを切っ掛けとして直ぐにヴェネツィアでコーヒー店の流行が始まったそうです。

サン・マルコ広場に1720年にフロリアーノ・フランチェスコーニ(Floriano Francesconi)によって始められたカッフェは、日本のTVインタビューに店の代表のジュゼッペ・ウルソッティ氏が、「ヴェネツィア式の言い方[語尾の o の脱落]で、フロリアーンと呼ばれるようになった」と答えていましたが、現代まで延々と続く世界初のカッフェであることはよく知られています。
[2012年追記――ヴェネツィアのコーヒー文化は直ぐパリに飛び火し、キャフェ文化の華はパリで開花します。パリのコメルス・サンタンドレ通りのキャフェ《プロコープ》はシチーリア人フランチェスコ・プロコーピオが1686年に開業したもので現在も続いています。ここが最古のコーヒー店なのでしょうか。]

劇作家や役者達が集まるので有名だった、劇場近くの《メネガッツォ》というコーヒー店はゴルドーニも常連だったそうで、カナレットやロンギ等の画家達もこの店に出入りしたとか。

イタリアでは、かつて淑女がカッフェに入るのははしたないと考えられて、ローマやフィレンツェのカッフェに入っている女性は、外国人か淑女ではない女だったと言われています。しかしヴェネツィアにはそんな偏見はなかったようです。
『ゴルドーニ傑作喜劇集』「コーヒー店(三幕)=三幕とも変わらず、舞台は同じヴェネツィアの小さな広場――第一幕
舞台面は建物に囲まれた四つ辻のある小さな広場で、その正面に三軒の店があり、手前が幾らか広い往来になっている。中央にコーヒー店、右手に床屋、そして左手に賭場でもある娯楽店が並んでいる。それらの店の上には、手前の道路を見下ろす窓をもった娯楽店に属した小部屋が幾つかある。俳優は、この二階の小部屋に上がって、窓から顔を出したり往来を見下ろしたりすることが出来る。床屋の側に、道をはさんで踊り子の住んでいる家があり、娯楽店の側には、実際に開けたての出来る扉と窓のついた宿屋が見える。
第一景  リドルフォ(コーヒー店主)、トラッポラ(コーヒー店給仕)、その他の給仕たち

リドルフォ   さあ、みんな、しっかり、 ちゃんとやるんだぞ。敏速かつ丁寧に、綺麗にしてお客さんたちを迎える用意をするんだ。普通お店のひいき客ってのはな、そこの店のサー ビスのよしあしで決まるんだからな。
トラッポラ  旦那さん、本当いいますとね、こんな朝早く起きたんでは、 わっしの性に合わんのでして、何もやれませんよ。
リドルフォ  だがな、やっぱり早く起きなくちゃならん。みなさんにサービスをしなくちゃな。旅に出掛けていく人たちは、朝早くからやってくる。働くもんや船乗り、水夫たちはな、みんな朝早くから起きるからな。
トラッポラ  人夫らふぜいがコーヒーを飲みにやってくるなんて、ほんとに笑わせられますよね。
リドルフォ  誰もがな、他人のすることを一応はやってみたがるもんだよ。そいつがひところは、あのブランディだったのが、近ごろではコーヒーが流行ってるってわけだ。
トラッポラ  毎朝わっしがコーヒーを運んでいくあの家の奥さんね、あの人いつもわっしに薪をちょっとだけ買ってきてくれと頼むんです。それでいて、高くてもやっぱりコーヒーは飲みたがるんですよ。
……」
  ――『ゴルドーニ傑作喜劇集 扉/コーヒー店』(牧野文子訳、未来社、1984年6月8日発行)

この本の《あとがき》がゴルドーニ最期の模様について触れています。フランス革命の犠牲者となったフランスの詩人アンドレ・シェニエ(1762~94)の弟ジョゼフ・シェニエは、公衆指導委員会の委員の一人でした。1792年7月25日以後、王女達の伊語教師としての給与を停止され、困窮の極みにあったゴルドーニのために、彼は年金を贈与する案をフランス革命議会で通過させ、その吉報を彼自身ゴルドーニに届けたのですが、時既にして遅し、ゴルドーニはその生涯を閉じていたのです。

ジョゼフが、第二の故国としてフランスを愛した詩人ゴルドーニを我がフランスは忘れてはならないと言って、フランス国民革命議会で弁じていた丁度その時刻頃に恐らく息を引き取っただろうという話が伝わっているそうです。結局年金は妻のニコレッタが受け取ることが出来ました。

作曲家ジャン・フランチェスコ・マリピエーロ(1882.03.18ヴェネツィア~1973.08.01トレヴィーゾ)は、ヴェネツィアに育った故か、『三つのゴルドーニの喜劇』というオペラで、この『コーヒー店』『不平たらたらのトーデロ氏』『キオッジャのいざこざ』の三つを纏めたオペラを作っています。
  1. 2009/10/10(土) 00:05:06|
  2. ヴェネツィアの演劇
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文学に表れたヴェネツィア――カルロ・ゴルドーニ(2)

ヴェネツィアのレストランで偶々席が隣り合ったことで簡単な会話を始め、フィレンツェに来ることがあったら電話しなさい、と電話番号を頂き、結局言葉に甘えてそのアルフォンソご夫妻のお宅に伺った時、昼食の席でその時頭にあった日本公演のフェッルッチョ・ソレーリの演技に感動したことを話しました。

アルフォンソさんはフェッルッチョと同じ町内に生まれたと言われ、彼がその町内のバールでコーヒーを飲んでいる時に同席したことが何度もあると、彼と同町内出身であることは誇らしい、という口調で彼の事を何か話してくれました。ますますコンメーディア・デッラルテにのめり込んでいく要因でした。

初めてヴェネツィアに赴いた時、先ず訪れたい場所がありました。マルコ・ポーロの家、カ・レッツォーニコ(18世紀美術館)とスタンパーリア美術館、そしてカルロ・ゴルドーニの生家(演劇博物館)でした。色々道を尋ねながらどうにか辿り着くことが出来ました。工事中で足場等が組んでありましたが、2階の玄関を開けて、入場は出来ないかと尋ねると意外にもOKの返事でした。

現在ではあの当時とすっかり博物館の様相が変わってしまいましたが、昨年訪れた時もゴルドーニの芝居のDVDを見せて頂き、奇妙に興奮していました。しかし売店で買ったゴルドーニの演劇のDVDは未だにどうやっても開けません。

『ゴルドーニ劇場』(田之倉稔編訳、晶文社、一九八三年九月一五日)には『二人の主人を一度に持つと』と『ヴェネツィアのふたご』の訳があります。『二人の主人を一度に持つと』の原作の登場人物は次のようです。
『ゴルドーニ劇場』パンタローネ・デ・ビゾニョージ、クラリーチェ(パンタローネの娘)、イル・ドットーレ・ロンバルディ、シルヴィオ(ドットーレの息子)、ベアトリーチェ(男装のトリノ人、フェデリーゴ・ラスポーニ)、フロリンド・アレトゥージ(トリノ人、ベアトリーチェの恋人)、ブリゲッラ(旅館の主人)、ズメラルディーナ(クラリーチェの女中)、トゥルッファルディーノ(ベアトリーチェとフロリンドの召使い)、旅館のボーイ、パンタローネの召使い、ポーター2人、食事の時のボーイ数人が登場人物ですが、当然これにアルレッキーノが加わります。

アルレッキーノはベルガモのキャラクターですが、ストレーレルはピッコロ座の演出ではベルガモ弁ではなく、ヴェネツィア語を話すように変更したようです(テクストの変更はその他にもあるようです)。舞台は勿論ヴェネツィアです。

「第一幕
第一場 パンタローネ家の部屋。パンタローネ、ドットーレ、シルヴィオ、ブリゲッラ、ズメラルディーナ、パンタローネのもう一人の召使い

シルヴィオ  さあ、ぼくの右の手をお取り下さい。この手といっしょにぼくの心もさしあげます。(クラリーチェに右手をさしのべる)
パンタローネ  さあ、もう恥ずかしがらずに、お前も手を出しなさい。そうすりゃふたりは婚約したことになる。すぐその次は夫婦というわけさ。
クラリーチェ  はい。シルヴィオさん、どうぞわたしの手を。まちがいなくあなたの妻になることを誓います。
シルヴィオ  ぼくも誓います。君の夫になることを。(ふたりは手を合わせる)
ドットーレ  結構結構。やっとこぎつけた。もう後へ引き返すことはあるまい。
ズメラルディーナ  <ああ、うらやましい話! まったくあたしまで結婚したくなってしまうわ。>
パンタローネ  (ブリゲッラと自分の召使いに)君たちはこの二人の婚約成立の立会人ということにしてもらいたい、娘のクラリーチェとドットーレ・ロンヴァルディ氏のご令息シルヴィオ君のな。
ブリゲッラ  (パンタローネに)ええ、よござんすとも。そんな晴れがましいことをさせていただいて、むしろお礼がいいたいくらいです。
パンタローネ  そうだろう。わたしも君の結婚の立会人になった。だから君にも娘の結婚の立会人になってもらおうというわけだ。それに友人連中に声をかけたり、親戚を招んだりするのは嫌だったのでね。先生もまったくわたしと同じ性格でいらっしゃる。すべて大騒ぎせず、つつましくなさるのがお好きなんだ。内輪で会食をし、楽しむ。そうすれば誰からも迷惑をこうむることはない。(クラリーチェとシルヴィオに)どうだ、うまいやり方とは思わんかね、そこのおふたりも。
…… 」
  ――『ゴルドーニ劇場』(田之倉稔編訳、晶文社、一九八三年九月一五日発行)より  
  1. 2009/10/03(土) 00:01:28|
  2. ヴェネツィアの演劇
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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