イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

バルバロ・ヴォルコフ館とカ・ダーリオ(1)

更にヴァポレットで左岸を眺めながら大運河を下っていきます。

サルヴィアーティの家右のフォルナーチェ(窯)運河(Rio de la Fornace)を挟んで、右に目立たない18世紀住宅があり、その右にバルバロ・ヴォルコフ館(P.Barbaro Wolkof)があります。『大運河――館と一家』(1993年)は次のように述べています。

「15世紀半ばのゴシック建築の改築の所産であるが、これもまた左右のバランス的な点でも建築メソッド上でも、《無秩序》を示しており、ファサードは建築上の解釈に明確性を欠いている。

1階の枠を決める六連窓は、勿論美しい1400年代のものである。その上に見える四連窓には、右に二連窓が配置され、使用されている補修材料から、そのビザンティン風のアーチと共に、より古い時代に区分されることを示している。」

更に右に進むと有名なカ・ダーリオ(Ca' Dario)が大運河に顔を覗かせています。前にも引用しました『ヴェネツィアとその入江』(1926年)は次のように述べています。
カ・ダーリオバルバロ館、ダーリオ館「ルネサンス期の著名な建造物――それ自体が有する建築的な価値以上に、装飾的モティーフ、即ち円盤風、車輪風、入り組んだ薔薇風といった素晴らしい飾りで、色取り取りの大理石のアップリケといった、貴重な装飾に満ちた特徴的ファサードは称賛に値する。

その装飾でもってロンバルド一派がルネサンスのエレガントな構成に生気を与えようとし、ヴェネツィアには馴染んだ、生き生きとしたポリクロミー(多色装飾)が続いている。

――1479年コンスタンティノープル(伊語Costantinopoli)でヴェネツィア共和国の秘書官をしていたジョヴァンニ・ダーリオが、確かにピエートロ・ロンバルドであったかどうかは定かではないが、《ロンバルディーアのマエーストロ》の設計に従い、1487年頃に建てたと一般には言われている。

バルバロが遺産として引き継いだ後、19世紀まで色々な国の家族の手に渡った。1838~42年の間、英国のヴェネツィア史研究者ロードン・ブラウン(Rawdon Brown)が住んだ。その後所有者が区々に変わった。」
[英人ロードン・ブラウンの研究により、マリーン・サヌード(伊語Marino Sanuto)の『日記』(1496.01.01~1533.09.30)が発掘され、イタリア社会にその存在が周知されました。]

仏詩人・作家アンリ・ド・レニエが滞在したことは、バルバロ小広場(Cpl. Barbaro)に面した壁面に、その事を示す碑盤が掲げてありますが、それについては2009.05.23日のアンリ・ド・レニエで触れました。一方『大運河――館と一家』(前出)の記述は次のようです。

「1487年に改築が施されるが、それ以前に存在したゴシック構造の、ルネサンス初期の大変に凝った建物である。その構造はファサードに構成的要素を取り入れた。

改築はピエートロ・ロンバルドの工房に委ねられ、共和国元老院秘書官であり、トルコのスルタン・バヤジット(Bayezid)2世の宮廷の駐在員であったジョヴァンニ・ダーリオに請われたものだった。
[バヤジット2世ではなく、その父メフメット2世(Maometto II)の宮廷だったようです]

ダーリオの素晴らしい仲介のお陰で、1479年彼がセレニッシマの名の元に批准したトルコとの平和条約が締結された。感謝の贈物として、パードヴァに土地を与えられ、スルタン側からはご褒美として豪華な金の織物の衣服3着が与えられた。

19世紀にこの館のファサードは解体され、改築された。古い基礎部分の陥没があり、傾いたままであるが、大運河のこの区間の舞台背景の重要な要素の一つとなっている。

2~4階の四連窓は左に開かれており、全体は非常に珍しい大理石で完全に覆われている。それは彩色された盃という伝統的なモティーフを強調している。ここに1838年歴史家ロードン・ブラウンが住んだ。古文書館の史料を筆写しにやってきたのだが、結局一生ここに住んだ。」

『道、広場、運河(地図)』(Edizione Helvetia、2003年刊)の解説は以下のようです。

「ロンバルド工房によるルネサンスの著名な建物(1487年頃)。ダーリオ館の最も美しい特徴は、ファサードが大理石で覆われていることで、ゴシック的バランスを示す窓々の間に覗く、絢爛たる多色装飾(ポリクロミー)は、とりわけヴェネツィア的色彩感である、伝統的な古代装飾がヴェネツィアに常に息衝いていることを示している。」

この館を米国の映画監督ウッディ・アレンが購入するという話を聞いたことがあります。過去の不審死の呪わしい話が伝わっている故か、取り止めたということです。
  1. 2009/11/28(土) 00:01:02|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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オーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館とサルヴィアーティの家

ヴァポレット1番線でサンタ・ルチーア鉄道駅に向かって大運河左岸を眺めながら下って行きます。そしてジェノヴェーゼ館から更に前進しますと、ナーニ・モチェニーゴ館(16世紀?)、その右のトラゲット通り(calle del Tragheto)を挟んで、サントマーゾの家(14世紀?)があり、次の建物はゴシック式の窓を覗かせたオーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館です。このベンゾーン館について前にも引用しました『大運河――館と一家』(1993年)は次のように書いています。
オーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館、サルヴィアーティ館等オーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館とサルヴィアーティ館「この美しい館の起源は、1300年代半ばまで遡ることが出来るが、以来何世紀にも渡って建物に対して粗略な扱いがなされてきた。ゴシックの尖頭式の大門と2階の六連窓がその起源を示している。六連窓は豪奢な飾り柱で、上部のアーチ空間が柱の上に四連窓風に作られている。

オーリオ家は非常に古い家柄で、1000年前グラデニーゴ家やジュスティニアーン家と共にリアルトの未開の湿地帯を干拓して、彼らの住宅を建てた。」

その右には正面に一枚の美しい色ガラスのモザイク画を掲げたサルヴィアーティの家があります[左のオーリオ・セミテーコロ・ベンゾーン館と右中央のサルヴィアーティの家]。『大運河――館と一家』(前出)は次のように言っています。
中央はサルヴィアーティ館サルヴィアーティの家「このルネサンス様式で建てられた1800年代の小さな建物は、1924年に更に上に増築された。製作用の窯を設置しているガラス店サルヴィアーティの本拠地であるこの家は、モザイクで飾られたファサードが正面に見える。」

上で触れたトラゲット通りは、対岸のトラゲット広場(Cp.del Tragheto)との間にゴンドラの渡しが通っています。私が初めてこのトラゲットで、右岸から左岸の税関岬に行くために乗船した時は、350リラ(現在の35円位)でした。現在の0.5ユーロ(1ユーロ=約135円)からすれば、当時は格段に安かったのが分かります。

11月21日にはサルーテ教会の例祭があります。その数日前からトラゲット広場と左岸のトラゲット通りを結ぶ架設の奉納の橋(ponte votivo)が架橋されます。私も一度サルーテのお祭りに参詣したことがありました。
サルーテ教会へのお詣りの浮橋。Alvise Zorzi『Venezia ritrovata』から借用サルーテ教会へのお詣りの、かつての浮橋。Alvise Zorzi著『Venezia ritrovata 1895-1939』(Arnoldo Mondadori Editore刊)から借用
この橋は大動脈である大運河に架けるため、ヴァポレットの通行を止める訳にはいかないので、船の往来可能なように、橋桁を高く上げて架橋されます[7月のレデントーレ教会のお祭りのための舟の浮橋では一時期通行止めになります]。

参詣のために渡橋してサン・グレゴーリオ通り(Cl.S.Gregorio)に出ると道が狭いので、一方通行になったように人の動きはサルーテ教会に向かう人だけで、逆流の人は見かけませんでした。

教会前には奉納のローソクを売っている屋台が並んでおり、善男善女はこれを購ってお参りします。階段を上って教会内部へ入ります。

祭壇前から4分の3くらいまで人でぎっしりです。その時偶然にリアルト市場でいつも買っている八百屋さんが奥さんと居るのにバッタリ出会い、挨拶しました。ヴェネツィアとはことほど左様に狭い町だということでしょうか。ミサを見学している内にだんだん前へ押しやられ、結局主祭壇左脇から教会背後に押し出されてしまいました。

人の波の動きに従って歩いていくとサルーテ橋(P.de la Salute)を渡って、広いカテクーメニ埋立通り(Rio Tera` del Catecumeni)からサローニ埋立通り(Rio Tera` ai Saloni)にかけて、子供達やドルチェ好き向けのお菓子屋さんが軒(テント)を連ねて沢山の人が群れています。運河を埋め立てた通りなので、屋台が両側に並ぶほど広い通りです。
サルーテ教会の祭りの屋台(1)サルーテ教会の祭りの屋台(2)その時、語学学校で同クラスの正義感溢れる、屈託ないアメリカ青年ニックが女友達と歩いていました。「チャオ !」と気軽に声を掛け合って別れました。こんな日はアパートに帰る前に、お祝いの赤いヴィン・サントを飲んで帰らねばなりません。

このお祭りの日には、家庭あるいは食堂でヴェネツィア人は《カストラディーナ(castradina)》という料理を食べるのだそうです。ボエーリオの『ヴェネツィア語-伊語辞典』は次のように書いています。
「カストラディーナ=去勢した羊肉を塩漬け、燻製にした物。特にスキアヴォーニ(ダルマツィア人)が販売した。」

[2012.08.18日にもう少し詳しくカストラディーナについて書きました。]
  1. 2009/11/21(土) 00:03:13|
  2. ヴェネツィアの街
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文学に表れたヴェネツィア――ヨシフ・ブロツキー(2)

Veneziafilo の私の愛読書となった『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』は以前にも書きましたが、原題『Watermark』、仏語題『Acqua alta』、独語題『Ufer der Verlorenen』、伊語題『Fondamenta degli incurabili』だそうです。薄い本なので、ヴェネツィア行の時には必ず携帯しましたが、現地で読めたことがありません。
『ヴェネツィア』もう大分前のことになりますが、NHKテレビで『ベネチア 水上千年都市・音の記憶』という番組が放映されたことがありました。その中でヴェネツィア第2代ドージェ、マルチェッロ・テガッリアーノ以来続く一族マルチェッロ家に逗留したブロツキーが、この家に残したという詩を、当主のジローラモ・マルチェッロ伯爵が朗唱されるのを聞いたことがあります(アレッサンドロとベネデット・マルチェッロの作曲家兄弟もこの一族でしょうか)。

「日が沈む 街の灯りが――
厚化粧した女優のまぶたのように
スミレ色の光を放つ
傾いた鐘楼から響く鐘の音
ベネチアは枝から落ちても
地面に届かぬ果実のよう
あの世があるなら 誰かが
受け止めるのだろうか」(NHK訳)

『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』以外には、私は詩集『ローマ悲歌』(たなかあきみつ訳、群像社、1999年3月10日発行)と戯曲『大理石』(沼野充義訳、白水社、1991年3月30日発行)しか読んだことはありませんが、1987年にノーベル文学賞を受賞した作家の作品としては、他に『私人――ノーベル賞受賞講演』(沼野充義訳、群像社、1996年11月発行)という本があるそうです。

「……ぼくは随分前から、人間の感情生活を売り物にして飯を食わない、というのを美徳にしてきた。その他常にやるべき仕事は山ほどあるし、外には広い世界があること、これは言うまでもない。そして最後には、いつもこの町にたどり着くのだった。

この町が存在する限り、ぼくは自分自身が、いやこの点に関しては、誰だって、ロマンチックな悲劇に目が眩んだり、自分を失ったりするようなことはないと確信している。

ぼくはある日のことをおぼえている。一カ月の滞在の後―― 一人でこの町を離れた日のことだ。ぼくはフォンダメンテ・ヌオーヴェのはずれの、小さな軽食堂(トラットリーア)で昼食を食べた。焼き魚とワインをボトル半分。それだけを腹に入れると、ぼくは自分の宿にむかって出発した。あずけた荷物を取って、水上バス(ヴァポレット)に乗るためだ。

フォンダメンテ・ヌオーヴェを四分の一マイルほど歩いた。まるでぼくはあの巨大な水彩画の中の、小さな動く点みたいだった。そしてジョヴァンニ・エ・パーオロ病院のところへ出ると、そこで右に曲がった。

その日は暖かくて天気も良く、空は青くてすべてが素晴らしかった。フォンダメンテとサン・ミケーレ島に背をむけて、病院の壁をまるで抱きかかえるように、左肩をほとんど壁にこすりつけながら、太陽に向かって目を細めた。

その時だ。突然ぼくは思った。ぼくは猫なんだ。今、魚を食ったばかりの猫。その時誰かがぼくに呼びかけたら、きっとぼくはニャーと返事したことだろう。ぼくは絶対的に、動物的な幸せを満喫していた。 ……」
  ――『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』(金関寿夫訳、集英社、1996年1月22日発行)

和田忠彦著『ヴェネツィア 水の夢』(筑摩書房、2000年7月25日発行)の中の《水を夢見る》というエッセイは、ヨシフ・ブロツキーに対する美しいオマッジョです。
ヨシフ・ブロツキーの碑旧インクラービリ養育院前の碑近年、ヴェネツィアを愛した彼の『Watermark』の伊語訳題『インクラービリ海岸通り』に因んで上掲のプレートが、ザッテレ海岸通りのインクラービリ通りに掲げられました――《ノーベル賞を受けたロシアの偉大なる詩人ヨシフ・ブロツキー(1940~1996)はこの地を愛し、歌った。》[2012.08.17日、追記]
  1. 2009/11/14(土) 00:05:04|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――ヨシフ・ブロツキー(1)

イタリアでは11月1日が万聖節(Ognissanti)、2日が故人の日(I Morti)なので、ヴェネツィア人は11月は花を抱えてサン・ミケーレ島に墓参をします。私も語学学校通学中、11月中旬にこの墓地の島に行ってみました。2007年11月14日サン・ミケーレ島にも書いたことですが、今回写真掲載が可能になったので再度書いてみます。
サン・ミケーレ・イン・イーゾラ教会 ヴェネツィアで亡くなったと仄聞していたセルゲイ・ディアギレフの墓と、その彼に世話になったストラヴィーンスキー(ニューヨーク没)が、「死んだ時は彼の傍に葬って欲しい」との遺言で彼の墓近くに埋葬されたということなので、その墓に詣でたのでした。

島に渡った時は11月の事でもあり、アックァ・アルタで墓地入口まで水位が上がっており、停留所からは板の橋が架けてありました。ストラヴィーンスキーの墓は案内の看板が出ていることもあり、直ぐに見つかりました。

ディアギレフの墓の棚の上には、二つの古びたトウシューズが片方ずつ置かれていました。彼の墓の右、少し離れた所にストラヴィーンスキーの墓が、しょっちゅう誰かが掃除をしているのか、美しい真っ白の墓石で、同じ作りの妻のベーラの物と並んで2人は眠っていました。『ヴェネツィアと音楽――五世紀の栄光』(H.C.ロビンス・ランドン、ジョン・ジュリアス・ノリッジ著、畑舜一郎訳、音楽之友社、1996年6月20日発行)によりますと、彼のヴェネツィアでの葬儀は厳粛かつ壮大な式典となったそうです。
ディアギレフの墓に置かれたトウシューズスラヴィンスキー夫妻の墓ストラヴィーンスキーは、自分のオペラ『夜うぐいす』(1914年)、『狐』(1922年)、『マヴラ』(1922年)、オラトリオ『オイディプース』(1927年)等をパリで初演しています。オペラ『道楽者のなりゆき(『遊蕩児の遍歴』の訳もあり)』は、1951年9月11日にわざわざフェニーチェ劇場で彼自身の指揮で初演するというほど、ヴェネツィア好きになったようです。

その足でヴェネツィアで亡くなったアメリカの詩人エズラ・パウンドの墓を探しましたが、見つかりません。捜し回っていると真新しい墓にビニールに包まれた本(詩集でしょうか)などを捧げた墓がありました。墓碑銘にはJoseph Brodsky(1940.05.24~1996.01.28)とあります。
ヨシフ・ブロツキーの墓死亡年月日からすると、彼はフェニーチェ劇場が炎上した前の日、亡くなったのです。毎年冬、訪ヴェネツィアの詩人は愛したこの地で亡くなったものと思いました。しかし後で彼の本『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』(金関寿夫訳、集英社、1996年1月22日発行)を見ると、ニューヨークで亡くなっています。1972年に国外追放になった詩人は、ストラヴィーンスキーのようにヴェネツィアで眠りたいという遺言でもあったのでしょうか。

「……この町で初めてヴィヴァルディ・ウィークを開くのに一役買ったのが、確かオルガ・ラッジ[グローヴ音楽事典の《アントーニオ・ヴィヴァルディ》の項目を執筆したヴィヴァルディ研究家、またエズラ・パウンドに生涯付き添った恋人]だったことまで思い出した。第二次大戦が勃発する数日前のことだったらしい。誰から聞いたのか忘れたのだが、それはポリニャック伯爵夫人の館(パラッツォ)で催されたということだった。

そのときミス・ラッジは、ヴァイオリンを奏いたという。曲を奏き始めてしばらくして、一人の紳士が、サロンの中に入って来るのを、彼女は目の片端で捉えた。席がなかったので、その紳士は、ドアのそばに立っていた。曲はとても長かった。そして奏く手を休めずに楽譜の頁をめくらなければならぬところにさしかかって、彼女は少し動揺し始めた。目の片端にいた男は移動して、間もなく彼女の視野から消えてしまった。

問題の小節が迫ってきて彼女の神経はますます高ぶってきた。そしてちょうどその頁をめくらねばならぬ所にさしかかった時、左のほうから、見知らぬ手が、突然さっと伸びると、楽譜の頁をゆっくりとめくるのだった。彼女は演奏を続けた。そしてその難しい小節が終わった時に、彼女は感謝の気持ちを伝えようと、左のほうに目を上げた。


《そしてそれこそ》、オルガ・ラッジがあとでぼくの友達に語ったところによると、《ストラヴィンスキーとの、最初の出会いだったのよ》 ……」
  ――『ヴェネツィア――水の迷宮の夢』(金関寿夫訳、集英社、1996年1月22日発行)

ヴェネツィアのエズラ・パウンドの墓等については、2010.08.07日の文学に表れたヴェネツィア―パウンド(1)(2)に書きました。ご参照下さい。
  1. 2009/11/07(土) 00:02:55|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:6

ヴェネツィアの鳥瞰図

娘が「好きな若冲を東博でやってるよ」と突然電話して来たので、慌てて東京国立博物館平成館に行ってきました。

伊藤若冲の『動植綵絵』のオンパレードでした。《皇室の名宝――日本美の華》と題した特別展で、御成婚50周年記念、御即位20年記念ということで宮内庁が所持する名宝の数々を展観したのでした。

『動植綵絵』は、若冲が相国寺に奉納したものですが、現在は天皇家が所持するものなので、こういう機会でなければ庶民は見られません。大変感動しました。

大変な人出で、とても絵を見る雰囲気ではありませんでしたが、それでも全然動かない人と人の間から絵の部分部分を見て回りました。今日は少し人が少ない、などの私語が聞こえたことからすると、何度も見に来ている人がいるようです。

若冲を見た後では、他の名宝は私にはどうでもいいようなものに感じられてしまいました。しかしそれらを見て時間を過ごしました。黒山の人だかりはこちらにはありません。
貝甲図池辺群虫図雪中鴛鴦図群魚図(蛸)紫陽花双鶏図閉館30分前に若冲の部屋に戻ると、人の姿が半減しています。館員に追い出されるまで若冲の絵の前にいました。私の好きな作品は、かつて出版されるや直ぐ購入した『奇想の系譜――又兵衛~国芳』(辻惟雄著、美術出版社、昭和45年3月1日発行)で知った『貝甲図』や『池辺群虫図』『雪中鴛鴦図』『群魚図(蛸)』『紫陽花双鶏図』等枚挙に遑がありません。

実は若冲の部屋に行く前に、『萬国絵図屏風』(8曲1双)という不思議な屏風絵を見ました。左隻の屏風は当時の世界地図を描いたもの、右隻は世界の都市図を描いたものでした(安土桃山~江戸時代、17世紀初期頃)。

説明によりますと、左隻の世界地図はオランダのブラウが1607年に刊行した大型の壁掛け世界地図、それを改訂したカエリウスの1609年版の世界地図等が原図になったと考えられるのだそうです。日本列島の形は大分違いますが、アメリカ南北大陸も描かれ、現代の地図に大分近くなっています。これらの絵は宣教師達が日本人に、将来西洋的な宗教画を描かせるための訓練として描かせたのではないか、と言われているそうです。

右の屏風絵は、平成8年の修理の際、『ローマ皇帝図集』に見られる皇帝図の下図が確認された、とかでポルトガルやインドのゴアをはじめ、ローマ、パリ、ロンドンなど世界の28の当時の都市が描かれているのだそうです。いずれにしても、これらの絵の元になったのはイエズス会の宣教師達が布教の道具として日本に持ち込んだものなのでしょう。

この都市図の中で私に直ぐ分かったのは、中ほどに描かれているヴェネツィアの鳥瞰図でした。魚の形で逆S字型の大運河が流れる図は、1572年刊の図(下に掲載)そっくりでした。もしかしてこの絵図が元になったのでしょうか。セーヌ川のシテ島らしきものが描かれたパリ(?)もありましたが、他は見当がつきませんでした。ヴェネツィアは当時も今もその形がそれほど変わっていないということです(島は拡張しようがないということ)。
『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊鐘響図』以前歌川豊春の『浮絵 紅毛(ヲランダ)フランカイノ湊万里鐘響図』が、日本人がヴェネツィアを描いた第一号と書きました(2009.10.24)が、この屏風絵は更に古いものでした[直ぐ下のモノクロ図はヴェネツィアで1572年(右は1574年のもの)に出版された物、その右2図は今回展示の屏風絵です。絵柄が酷似しています]。2009.10.24日のヴェネツィアと日本との関わり(1)も参考までに。
ヴェネツィア鳥瞰図ヴェネツィア鳥瞰図万国絵図屏風ヴェネツィアやパリなど
  1. 2009/11/03(火) 00:01:24|
  2. 絵画
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プロフィール

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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