イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

日本の災害ニュース

ヴェネツィア大学には日本語学部がありますから、書店等に日本の文学作品の翻訳等がそれなりに多く並べられているのかな、と思いましたが、別段取り立ててそうしたこともないように感じました。しかしカ・ペーザロの東洋美術館に行った時、帰りに1階の売店を覗いてみると、谷崎潤一郎、芥川龍之介、川端康成等の日本の作家(新しい作家も含めて)の翻訳が結構並んでいました。やはり東洋美術館に日本の工芸品が数多く展観されていることと関係があるのでしょう。

「その時雨は最も激しく降り出してゐたが、貞之助が見ると、此処(ここ)の邸内で一番低いと思はれる、ちよつとした雨にもよく水が溜まる書斎の庭の東南の隅の、梅の木の下が二坪ばかり池のやうになつてゐる外には、自分の家には何の異状も認められなかつたし、それに此処は蘆屋川の西の岸から七八丁は離れてゐるので、別に危険が迫ってゐるとは感じられなかつた。

しかし悦子の行つてゐる小学校は、此処よりずつと川の近くにあるので、もし堤防でも切れたとすればどの辺が切れたであらうか、あの小学校は大丈夫であらうかと云ふことが、第一に彼の頭に来たが、幸子に無用な心配はさせまいと云ふ心づかひから、わざと落ち着いて、少し時間を置いて離れから母屋(おもや)の方へ来た。

(その、離れから母屋へ渡る五歩か六歩の間にもびしょ濡()れになつた)そして、今のサイレンは何ですやらうと幸子が云ふのを、さあ、何か分らないが大したことないやらうと云ひながら、兎も角もその辺まで出て見るつもりで薩摩絣(さつまがすり)の単衣の上に洋服のレインコートを纏(まと)つて玄関の方へ行かうとすると、えらいことでございますと、お春が顔の色を変へて、腰から下を泥まみれにして裏口から駈け込んで来た。

彼女はさつき増水の様子を見てから、何となく小学校の方面が気になつてゐたところへサイレンが鳴つたので、途端に外に飛び出して行つたのであると云ふ。と、水は直ぐ此の家の一つ東の辻まで来てゐて、山手から海の方へ、――北から南へ、滔々(たうたう)たる勢で流れてゐる。

彼女は試みにその水の中を東へ向つて進みかけたが、最初は脛を没する程度であつたのが、二三歩行くと膝まで漬()かつてしまひ、危く足を浚(さら)はれさうになつたと思つたら、人家の屋根の上から、こらツ、と怒鳴(どな)る者があつた。こらツ、此の水の中を何処へ行く、女の癖に無茶なことすなと、えらい剣幕で怒鳴られたので、誰かと思つて見たら、自警団員らしい服装はしてゐるけれども顔見知りの八百常の若主人であつた。

何やねん、あんた八百常さんかいなと云ふと、向うも気が付いて、お春どん、あんた何処へ行かはるねん、此の水の中を気でも違うたんか、これから先は男でも行かれへん、川の近くは家が潰れたり人が死んだりしてえらいこつちやがなと云ふ。

だんゞゝ聞いてみると、蘆屋川や高座川の上流の方で山崩れがあつたらしく阪急線路の北側の橋のところに押し流されて来た家や、土砂や、岩石や、樹木が後からゝゝゝと山のやうに積み重なつてしまつたので、流れが其処で堰()き止められて、川の両岸に氾濫(はんらん))したゝめに、堤防の下の道路は濁流が渦を巻いてゐて、場所に依つては一丈ぐらゐの深さに達し、二階から救ひを求めてゐる家も沢山あると云ふ。……」
 ――谷崎潤一郎『細雪』中巻の四(現代日本文学大系31巻、筑摩書房、昭和四十五年十一月三十日発行)より

12月にヴェネツィアの語学学校に通学している期間中、定期的に開かれるサン・マウリーツィオ広場での骨董市に行った時、次に掲げる、古い『La Domenica del Carriere』という絵入り新聞が目に付いたので購入しました。そこに書かれていたのは次のような事です。
La Domenica del Corriere 1938.07.24.「1938年7月24日付――日本の神戸市の一部では、3ヶ所の貯水池の決壊が起こり、道路に崩れ落ち、巨大な鉄砲水の氾濫となって、町を襲った。何百という家々に、この怒涛のような洪水が襲来し、基礎部分から破壊し去った。(絵:A.Beltrame)」

調べてみますと、阪神大震災以前の有名な災害は1938年7月初めの阪神大水害だったそうです。その時の模様が、イタリアにはこのような内容で伝わったのでしょう。大谷崎は『細雪』の中で当時の模様を、中巻四章から数章に渡って書いていました。
  1. 2009/12/26(土) 00:05:44|
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文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセ(2)

サンドとミュッセの恋の逃避行は、マルセイユまでは乗合馬車と船、マルセイユからは船でイオニア海を渡りました。ピーザで下船した時、ローマへ行くかヴェネツィアに行くかコインを床に投げて決めたようです。10度もヴェネツィア行きの表だったそうです。

フィレンツェを経てヴェネツィアまで馬車の旅。そして本土側からヴェネツィアまでは沢山の荷物をゴンドラに積み込んで、ラグーナを渡りました。

「スキアヴォーニの岸のとある建物の正面、大理石の階段の下でゴンドラが停まる。各階のオジーヴ[交差リブ]形の窓が光を放っている。やっと旅の終着点、昔のナーニ宮殿のアルベルゴ・レアーレ、別名ダニエリ・ホテル(1822年ニエルのジュゼッペとかいう男が買い取った)に到着した。

当時、ヴェネツィアを訪れる富裕な外国人を引きつけるに足る、快適で、ヨーロッパにその名を知られたホテルである。この時代の案内書は、イタリアで最良のホテルの一つとして紹介している。≪豪華な家具が備えつけられ、フォルテ・ピアノさえ置かれているアパルトマンの美しさに、この上なく魅力的な眺望が加わる。必要なものがすべて揃えられたゴンドラ、軟水および塩水の入浴施設を外国人は随時、利用できる。≫」
  ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』(ベルナデット・ショヴロン著、持田明子訳)より

ジョルジュが、先ず病に倒れ、回復するや今度はアルフレッドが病に苦しみます。その間彼の医師ピエートロ・パジェッロとジョルジュの恋が始まります。結局アルフレッドは聾桟敷に追いやられた形で、静養のために本国へ帰ることになりました。彼女とピエートロとの恋はどのようなものであったのでしょうか。

アルフレッドが帰国した後、彼女はヴェネツィアについて書いています。
「確かにこれまでヴェネツィアの空の美しさや夜の持つ無上の喜びを褒めそやした者はいない。美しい夜、ラグーナ(潟)は実に穏やかで、水面に映る星々が震えることもない。ラグーナの真んなかにいると、水があまりにも青く、平らかであるから、もはや水平線を見分けることができず、水と空が一枚の紺青のヴェールとなり、夢想が吸いこまれ、眠りに落ちる。

大気があまりに澄みきって、清らかであるから、北方のわがフランスの空に見ることのできる星の五十万倍もの星が空にある。私がここで見た星の夜は、星々の銀白が天空の紺青をしのいでいるほどであった。それはパリの夜空の月のように輝く、無数のダイヤモンドであった。パリで見える月を悪く言いたいのではない。それは青ざめた美しさであり、その物悲しさはおそらくこの地の星月夜以上に知性に語りかけるであろう。

わが国の生暖かい地方の靄に包まれた夜の魅力は、私は誰よりも楽しんだ、そして、今その魅力を誰よりも否認したい気になっている。ここでは、自然の及ぼす影響がより強烈であり、おそらくはいささか度を越して精神を封じこめている。それは思考を眠らせ、心をかきたて、感覚を支配する。天才でない限り、この官能をそそる夜の間に詩作しようなどと考えてはならない。やるべきことは愛することか眠ることだ。――『ある旅人の手紙』第二信」
  ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』より

サンドはミュッセと完全な別離をしますが、2人の間には文通は続きます(一方彼女はパジェロをパリまで連れていきます)。そうした中で、ミュッセは『世紀児の告白』(1836年)で2人をブリジットとオクターヴとして《世紀の恋》を書きました。

1836年末サンドはリストの紹介でショパンを知り、'37年末頃から2人の仲は深まり、マヨルカ島に行ったり、またアノンでのショパンとの生活が10年は続いたそうです。
その間――
「1842年、ジョルジュ・サンドのもっとも長編であり、もっとも推敲を重ねた小説『コンシュエロ』が発表される。この時代の偉大な歌姫ポリーヌ・ヴィアルドの人物描写をとおして謳い上げた音楽への壮大な賛歌であると同時に、ヴェネツィアへの感動的な賛歌である。

第一部の舞台は1742年から1755年にかけてのヴェネツィアであり、ジョルジュは才能と深い学識から、この時代をその芸術的豊かさをとおして再現することができた。……
……『コンシュエロ』はたちまち、思いがけないほどの大成功を収める。」
  ――『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』より
『彼女と彼』そして彼女もまた、ミュッセとの間を総括する意味でか、『彼女と彼』(1859年――川崎竹一訳、岩波文庫、昭和25年5月5日発行)でヴェネツィアでのミュッセとの愛を、テレーズとローランと名を変えて語りました。
[追記=2010.12.11日に歌姫コンシュエロについて書きました。]
  1. 2009/12/19(土) 00:05:51|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――サンドとミュッセ(1)

ディアーヌ・キュリス監督の映画『年下のひと(Les enfants du sie`cle)』(1999)という映画を見たことがあります。この映画は、19世紀フランス・ロマン派詩人アルフレッド・ド・ミュッセ(1810.12.11パリ~1857.05.02パリ)と男性名ジョルジュを名乗る閨秀作家ジョルジュ・サンド(1804.07.01パリ~1876.06.08ノアン)がヴェネツィアに滞在したことを中心に撮られた映画でした。
年下のひと  『赤く染まるヴェネツィア』この映画の元となったと思われる2人の評伝が訳されています。『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』(ベルナデット・ショヴロン著、持田明子訳、藤原書店)です。著者はグルノーブル大学教授でサンド協会事務局長も務めた、サンド研究者だそうです。

この本によれば、名編集者フランソワ・ビュロが、2人の出会いを仕掛けたのが、1833年6月19日の文学晩餐会だったそうです。それはジョルジュが田舎で退屈至極の(彼女がピアノを弾いて聞かせると鼾をかいてしまうような)夫カジミール・デュドゥヴァンと別居して、モーリス(10歳)とソランジュ(5歳)を連れてパリへ出、彼女が文学に励んでいた時期だったのだそうです。

ジョルジュは小さい頃からイタリアに憧れていて、アルフレッド・ド・ミュッセと出会って間もなく、彼と共にイタリアに行くことにします。アルフレッドも彼女に劣らず、イタリアに興味を持っていました。サン・マルコ広場を《世界の大広間》と名付けた彼は、ヴェネツィアを次のように歌っています。

「サンド以上にミュッセはヴェネツィアを熱望している。この街は彼にとって子供の頃から想像のなかで細部まで築き上げた街であった。できる限り早く、この空想を現実のものとする必要を感じている。わずか19歳であった1829年、一度として目にしたことのないこの街を描き出し、驚嘆させはしなかったか? 

赤く染まるヴェネツィアに
一艘の舟とて動かず
一人の釣人とて水面(みなも)になく
いさり火もない

砂浜にただ独り坐し
大いなるライオンが持ち上げる、
澄み渡った水平線に
その青銅の脚を。

ライオンの周りに、
大船小舟がむれをなし、
輪になって眠る鷺にも似て

煙る水面(みなも)で静まり返る
そして旗々が
霧のなかに交差する
かすかに渦を巻きながら。

薄れゆく月が
その過ぎる額を覆う
星がきらめき 半ば
ヴェールのかかった雲で。(……)

そして年を経た宮殿も
荘重な柱廊も
騎士達の白い階段(きざはし)

そしていくつもの橋と通りも
陰うつな彫像も
風にふるえて
波打つ入江も

すべて口をつぐむ
兵器廠の銃眼で寝ずの番をする
長き矛槍を手にした
衛兵をのぞき。(……)」
  ――ベルナデット・ショヴロン『赤く染まるヴェネツィア――サンドとミュッセの愛』(持田明子訳、藤原書店、2000年4月25日)より

アルフレッド・ド・ミュッセ著『世紀児の告白』(小松清訳、岩波文庫)は、2人の恋をオクターヴとブリジッドと名前も、また所も変えて書かれたものだと言いますが、この本の訳者の《あとがき》はヴェネツィアのミュッセを次のように書いています。

「サンドは以前から計画していたイタリア旅行にひとりで出発しようとした。ミュッセは彼女なしではもう生活できなかった。恋の国イタリアへ行き、すべての過去を忘れ、新しい空の下で新しい生活を始め、自分も創作すると云ってサンドを説き伏せた。……

……ミュッセは病める恋人を旅室に残して、見物と新しい土地での歓楽に耽りはじめた。ついには自分は思い違いをしていた……お詫びをするが、あなたを愛していないと宣言して、二人の室の間の扉は閉ざされた。」
  ――『世紀児の告白』(小松清訳、岩波文庫、昭和28年6月25日発行)より

そんな中で、ミュッセが病に倒れ、サンドが病める子を看とる母親のように看護している期間中、彼の医者ピエートロ・パジェロとの間に恋が芽生えたのでした。しかしミュッセは病が癒えると、3人の間の完全な友愛を信じ、サンドをヴェネツィアに残し、一人パリに帰って行きました。

[この映画『年下のひと』の直接の原作となったと思われる小説が訳されています。フランソワ=オリヴィエ・ルソー『年下のひと』(吉田良子訳、角川文庫、平成十二年四月二十五日)です。2011年8月18日追記]
  1. 2009/12/12(土) 00:01:30|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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Ca' Dario(ダーリオ館)(2)

「ジョヴァンニ・ダーリオはヴェネツィア貴族ではなかったが、1400年代、大運河に面して邸館を所持出来た数少ない一人であった。共和国秘書官階級[市民階級]に属していた。
ダーリオ7年間の戦争の後1479年[1月29日のこと]、セレニッシマ共和国はオスマン・トルコ皇帝(Imperatore dei turchi ottomani)メフメット2世(Maometto II)との和平交渉という重要な使命を彼に委ねていた。ジョヴァンニ・ダーリオは、大変な損失を伴う結果となったにも拘らず、ヴェネツィアを満足さすに足る条約を締結することが出来た。

スルタンは彼に黄金製の織物の衣装を3着贈物にしたし、セレニッシマは高額の報酬とノヴェンタ・パドヴァーナ[パードヴァ東部のノヴェンタ]に土地を与えて彼に報いた。ジョヴァンニが受けたこれらの褒賞は、外交交渉が成功裏に終わったことだけでなく、彼によってオスマン帝国との間に公然と開かれた関係が創始されたことがそれに値したのであった。

メフメット2世が自分の肖像画を描かせるためにイスタンブール[1453年コンスタンティノポリス(英語コンスタンティノープル、伊語コスタンティノーポリ)がこのように改名され、帝国の首都となった]の彼の宮廷に、画家ジェンティーレ・ベッリーニを招くことになった[1479.08.01のこと]のも、彼の尽力のお陰であった[その時の絵の1点が、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーに収蔵されている]。

共和国から受けた高額報酬によって、ジョヴァンニは大運河に顔を向けるゴシック様式の建造物を獲得することになった。その建物には、当時の時代趣味に則った設計による新様式のファサードを纏わせた。その設計は恐らく、ピエートロ・ロンバルドに依頼され、1487年工事は開始された。

ファサードは色大理石を潤沢に使用し、通常のゴンドラ[約10メートル]よりも狭く、洗練された装飾はアーチや古典的輪郭を持つ形のように、ルネサンスの建築語法と考えられる要素と溶け合っている。

建築の初期段階、館の所有者は下の階の大理石に≪Urbis Genio Joannes Darius≫(当市の天才に、ジョヴァンニ・ダーリオ)という銘刻を刻み込ませた。その銘刻をジョン・ラスキンは1800年代前半に一新させた。

1484年ヴェネツィア政庁は今や70歳台のジョヴァンニ・ダーリオをトルコとの交渉のために再度派遣することを決定した。今回はメフメットの息子バヤジット(Bayezid)2世が相手だった。その結果、満足の印に元老院は十人委員会の秘書に彼を任命し、その上彼の娘マリエッタの婚資までも提供したのだった。

ジョヴァンニ没後、邸宅はヴィンチェンツォ・バルバロの花嫁となった娘の手に移り、その後19世紀初頭までその古い貴族のバルバロ家の所有が続いた。

1838~42年、ラスキンの友人だった Rawdon Lubbock Brown の所属となった。彼はアルメニア人宝石商 Abdoll 侯爵からこの建物を手に入れたのだった。ロードンは27歳の時ヴェネツィアに到来し、終生この地を去らなかった。彼は古文書学者で、セレニッシマの国立古文書館にある、イギリス史関連のあらゆる史料の筆写の仕事を託されていた。とりわけ1500年代の日記を残したマリーン・サヌードについての研究を出版したのは重要である。

館は修復後、メッテルニヒ公妃の兄弟、ジークムント・ツィヒー公爵に売却された。数年後には新しい所有者ラ・ボーム公爵夫人のお陰で、カ・ダーリオは特にアンリ・ド・レニエを筆頭に彼女のサロンに足繁く集うフランス文学者達のために有名になった。

時とともに変わる持ち主が痛ましいエピソードの犠牲者となった。館に不吉な噂が立ったのである。噂だけでなく実際の持ち主にも生じたのであるが、それは未だに真相が判明していない。ガルディーニ家はカ・ダーリオの呪いから逃れられなかったのである。」
[旅行ガイドに寄りますと、企業家ラウル・ガルディーニは1993年夏、自殺を遂げたのだそうです]。
  ――Raffaella Russo著『Palazzi di Venezia(ヴェネツィアの館)』(Arsenale Editrice、1998年3月刊行)より
  1. 2009/12/05(土) 00:02:45|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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