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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

パリ(2)

ルーヴルで見たイタリア絵画は、イタリアで見たイタリア絵画とはまた異なった雰囲気で、感動の連続でした。特に非道のナポレオンがヴェネツィアから略奪して持ち去った、そして未だに返還されていないヴェロネーゼの大作『カナの婚礼(婚宴とも)』、ルーヴル最大のこの絵画にようやく出会えた時は至福の一時でした(出来ればヴェネツィアのサンタ・マリーア・マッジョーレ教会修道院で鑑賞したかった)。
カナのカナの婚礼それに比すと、同じ部屋のこの絵の対面に展示されていた『モナリザ』は、頑丈なガラス・ケースで保護され、護衛付きで、6~7メートル遠くから見ることを強制され、ガラスが反射して観賞に堪える設置になっておらず、単なるルーヴルが誇る至宝の誇示といった趣でした。
スティーン雪のチュイルリー公園を横断して見に行ったオランジュリー美術館の小品達は、全て親しみの持てる simpatici のものばかり。モディリアーニ、スーティン、アンリ・ルソー……。気に入ったスーティンのものを1点掲げます。
チュイルリー公園再度チュイルリーの雪を踏み締め縦断し、リヴォリ通りに出ると向かい側に噂に聞いていたガリニャーニ(Galignani)という書店がありました。この書店の歴史について何か本があるかと聞くと、オルディナトゥールで検索すればある筈ですよ、という店員さんの返事で、帰国してからパソコンを開きました。以下がこの書店の歴史です。
ガリニャーニ書店「ガリニャーニ書店は、多くの読者に書籍を提供するために、発明されて間もない印刷機を、その初期から使用したことで知られる。1520年代初め、シモーネ・ガリニャーニはラテン語文法書をヴェネツィアで出版した(最古の《ガリニャーニ本》として知られる)。

しかし彼らの大成功は1597年出版のPTOLEMAEUS(プトレマイオス)による『地理書』であった。それは16、17世紀における超ベストセラーであった。ガリニャーニは結果的には各種の出版物の再版を重ねていった。

18世紀の終り、ブレッシャ近郊生まれのジョヴァンニ・アントーニオ・ガリニャーニは、経済的に落ち目となったヴェネツィアを後にして、先ずロンドンに向かったが、直ぐにパリに赴き、1801年ヴィヴィエンヌ通り(2区)に書店と共に、英語本の読書室を開いた。その間にも出版活動は続いた。

更に日刊新聞『ガリニャーニのメッセンジャー』の創刊、大陸での英語話者社会へのリファレンスの創設があった。この新聞に寄稿した当時の何人かの著名な作家、そして彼らの著書はガリニャーニから発刊された(バイロン、ワーズワース、サッカリー、スコット…)。書店は1856年リヴォリ通りに店を移し、現在に至る。

1882年ヴィリアン・ガリニャーニは死に際して、甥のシャルル・ジャンクール=ガリニャーニに会社を譲り、現在その直系が店の経営に携わっている。20世紀初め、新聞と印刷所は廃止、独軍占領下では英語本のストックが許されず、アンドレ・ジャンクール=ガリニャーニは芸術本のコーナーを始めた。 ……」
マルセル・プルースト(21歳)2009.07.25日から3回に渡ってプルーストのヴェネツィア文学に表れたヴェネツィア――プルースト(1~3)を書きました。今回オルセー美術館でプルーストの肖像画を撮ることが出来ましたので、その絵を掲げたいと思います。ジャック=エミール・ブランシュが1892年に描いたプルースト(21歳)です。
  1. 2010/01/30(土) 00:06:50|
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パリ(1)

急に思い立ってパリに行ってきました。初めてのパリは雪でした。真っ白に凍て付いたモンマルトルの坂道を,足を滑らせながら歩き回りました。サクレ・クール寺院前の広場からパリを見下ろしても、降雪で煙り、あまり展望は利きません。
雪のモンマルトルLa rue Norvins, Montmartre サクレ・クール寺院前からパリを望む[中央の絵は、左の写真と同じアングルでユトリロが描いたもの『La Rue Norvins, Montmartre』(東京富士美術館蔵)であることを知り、感動を新たにしています(2014.05.10追記)] 
真っ白のリュクサンブール公園の雪をキュッキュッと靴で鳴らしながら、リュクサンブール宮殿を眺めていると、突如蘇った言葉がありました。「Mais où sont les neiges d'antan.」という、かつてシャンソンで聞き、口ずさんだこともある放浪の泥棒詩人フランソワ・ヴィヨンの『遺言集』の一詩《その上の貴婦人を讃えるバラード(Ballade des Dames du temps jadis)》のルフラン《さはれ、去年(こぞ)の雪、今いづこ》です(ブラッサンスの r の音を響かせたシャンソンが思い出されます。Youtubeでブラッサンスのシャンソンをどうぞ。去年の雪、今いづこ
リュクサンブール公園リュクサンブール公園を横切り、オデオン座からサン・シュルピス教会を覗いた後、サン・ジェルマン・デ・プレに出ました。ジャン・ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワール等が屯していたというキャフェ《フロール》や《ドゥ・マゴ》を横眼で見ながら、サン・ジェルマン・デ・プレ教会に入りました。教会裏にはフュルスタンベールという大変古雅な美しい通りがあり、ドラクロワが住んでいたことを知りました。
フュルスタンベール通り更に進んでビュシ通り10番地にはアルテュール・ランボーが住んでいたというので、詩人の痕跡を探して歩きました(ヴェルレーヌの家は程近いパンテオン裏にあるとか)。テレンス・スタンプ主演の『ランボー:地獄の季節(Una stagione all'inferno)』(監督Nero Risi)というランボーの生涯を描いたイタリア映画を思い出していました。
ビュシ通り10番地ジャン・マリ・カレ著『地獄の遍歴者』(江口清訳、立風書房、1971年10月20日発行)によりますと、
「テオドール・ド・ダンヴィルは放浪詩人のためにビュシ街に学生部屋を借り受け、彼の細君がそこにベッドを運んだ。ランボーはこの夜の宿にたどり着くと、虱だらけの服をいそいで脱ぎ、汚れたシャツを取り去って、それらを一まとめにすると、隣人の驚き騒ぐ中を素っ裸になって窓に近寄り、包みを窓から通りへ投げ捨てた。」
それからしばらくして、そのパリの初宿からモンパルナス墓地脇のカンパーニュ・プルミエール街に、彼の後援者達が金を出し合って屋根裏部屋を借り受けてくれたのだそうです。

ビュシ通りからサン・ミシェル広場に至るサンタンドレ・デザール通りの脇道、passage privé で始まるコメルス・サンタンドレ通りにパリ最古と言われるキャフェ《プロコープ》がありました。割栗石が敷き詰められたその凸凹の通りは歩きにくく、いかにも古さを感じさせます。ヴォルテール、ルソー、ボーマルシェ、バルザック、ヴェルレーヌ、ディドロ、ダランベール等、文学者達が集まり、談論風発の議論を闘わせたのだそうです。
キャフェ・プロコープ[シチーリア人 Francesco Procopio dei Coltelli(パレルモ出身)が1686年作ったこのカッフェは、Comédie Française の役者の溜り場となり、その後直ぐに文学者や芸術家の集うキャフェとなったそうです。ヴェネツィアにコーヒーを飲ますカッフェが誕生したのは1683年(現存せず)。現在まで存続するカッフェ・フロリアーンが出来たのは1720年。とすると、世界最古の現存するキャフェとは《プロコープ》なのではないでしょうか。]  コメルス・サンタンドレ通りからジャルディネ通り、レプロン通り、セギエ通り等サンタンドレ・デザール通りの脇道は、中世の面影を残す通りと言われているそうです。

後日、雪も消えてから行ったギュスターヴ・モロー美術館で私が見た物とは――彼がイタリア旅行中に模写したダ・ヴィンチ等のイタリア絵画が、書斎などに飾られていましたが、最上階の大広間正面にカルパッチョの原寸大の『聖ゲオルギウス(S. Giorgio)の勝利』の模写絵があったのです。それはヴェネツィアのサン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館の天井下に描かれた、聖ゲオルギウスが竜を退治する様を描いた、私の大好きなカルパッチョの傑作の一枚だったのです。その余りに正確な模写故に、彼のカルパッチョに対する思いの程が伝わってきます。
ギュスターヴ・モロー美術館 ギュスターヴ・モローの模写 ギュスターヴ・モロー画『ヴェネツィア』そして右は、ギュスターヴ・モロー自身が描いた『ヴェネツィア』。聖マルコを表すライオンに寄り添う、都市ヴェネツィアを象徴する女性像。背後はサン・マルコ寺院のクーポラと思われます。モローもヴェネツィアを愛したに違いありません。
  1. 2010/01/23(土) 00:05:51|
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文学に表れたヴェネツィア――バイロン(3)

総督宮殿の大評議会が開かれる大会議場の天井下の壁面に、歴代総督の肖像画が年代順に飾られ、正面に向かって左背後一番奥近くに、肖像画の代わりに黒い布が張られていることは大会議場を訪れた人であれば、誰でも知っているに違いありません。

1354年に第54代総督に選ばれたマリーノ・ファリエーロ(Marin Falier)は、1355年市民が企てた反乱の首謀者に名前を連ね、事が露見し、かつて自ら議長を務めた十人委員会の死刑宣告を受け、宮殿中庭で断首の刑が執行されました。

彼の生家はカンナレージョ(Canaregio)区のサンティ・アポーストリ(Ss. Apostoli)広場からサンティ・アポーストリ橋を渡った先が、ファリエーロ軒下通り(Sotoportego Falier)ですが、その5643番地の Palazzo Falier(現在はホテル・アンティーコ・ドージェになっています)がそれだと言われ、地図帳『Calli, Campielli e Canali(通り、小広場、運河)』は次のように書いています。
ホテル・アンティーコ・ドージェマリーン・ファリエール館[写真左はホテル・アンティーコ・ドージェ、右はホテル前のサンティ・アポーストリ橋から見る3連アーチのファリエーロ軒下通り]  「この建物は12世紀に建てられ、次の世紀には手直しされたが、中央のヴェーネト・ビザンティン様式の窓と1200~1300年代の痕跡が残っている建物である。総督マリーン・ファリエールが住み、セレニッシマに対する国家反逆罪で、1355年に首を切られた。」 

バイロンはヴェネツィアに来てこの総督の事を知り、1821年に『マリーノ・ファリエーロ』という悲劇を発表しています。この悲劇と仏人カジミール・ドラヴィーニュの書いた悲劇(1829) とを元に、ジョヴァンニ・エマヌエーレ・ビデーラが台本を仕上げ、ガエターノ・ドニゼッティが3幕のオペラを作曲し、パリのテアトル・イタリエンヌで1835年3月12日初演されました。

「 第一幕二場 「陰謀へ」
……
総督 お前は私を過大に評価している。この総督の権力など、飾りにすぎぬ。この被り物は、君主の王冠ではない。この衣服は乞食のぼろのように、同情を掻き立てるかもしれぬ。いや乞食のぼろは乞食自身の持ち物だが、これらは憐れな繰り人形に貸し与えられたものに過ぎぬ。その人形はこの白テンの毛皮を着て、帝国を相手に己の役を演ぜねばならぬのじゃ。
ベル 王におなりになりたいのですか。
総督 そうだ。幸せな民の王にな。
ベル ヴェネチア絶対君主におなりになりたいのですか。
総督 そうだ。国民が統治権を共有している限りはな。そして国民も私も、これ以上、この増長した貴族社会の怪物ヒュドラーの奴隷にならないためにな。我々は皆この毒々しい怪物の毒のある頭から吐き出される毒気に悩まされてきたのだ。
ベル しかし、総督は貴族としてお生まれになり、今も貴族であらせられます。
総督 何という不幸な時に生まれたものよ。しかもその生まれによって総督になり、侮蔑を受けるとは。だが私は、ヴェネチアの国と民に仕える一兵士、一従僕として生きてきたし、苦労も重ねてきたのだ。断じて元老院に仕えるためではない。ヴェネチア国民が幸福になり、私が名誉を得たことだけで、私は報われているのだ。私は戦い、血を流してきた。そうだ、軍を統べ、勝利を得たこともある。
しばしば交渉団を率いて、和睦を結んだこともあるし、国益にかなうと見れば、和睦を反古にもした。常に職務にあって、陸や海を越え、この六十年近くの間、父祖たちや私を生んだヴェネチアのために尽してきた。その愛しい教会の尖塔が、青いラグーンの向うに聳えておる。それらを再び目にすることが出来るだけで、充分報われておる。
だが特別の人間どものためとか、一党一派などのために、血や汗を流してきたのではないのだ。だが私がなぜこういう事をしてきたか、知りたいと思うか。血を流すペリカンに、なぜ胸に傷をつけるのか訊いてみるがよい。声がだせるなら、全て雛のため、と言うにちがいない。
……」
  ――『マリノ・ファリエロ』(『対訳バイロン詩集――イギリス詩人選(8)』笠原順路編、岩波文庫、2009年2月17日発行)より
  1. 2010/01/16(土) 00:01:27|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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文学に表れたヴェネツィア――バイロン(2)

バイロン卿は滅び行こうとしているこの町について、《滅びの美》(死に行く栄光)を感じ、街の美しさを発見し、それを世界に発信し、多大の影響を及ぼした嚆矢の人であったと言われています。

前回引用しました詩『ヴェニス』の冒頭で歌われた《嘆きの橋》は、彼に歌われる以前、ヴェネツィアの観光名所ではなかったことは、例えばカナレットが描いた総督宮殿の絵の中でも、“橋”はそこにあるから、風景の一部として描かれているだけであったように推測されます。

彼の後にこの街を訪れた人達は、サン・マルコの素晴らしさは元より、名もない、心寂しき運河や橋、狭隘な小路などの佇まいにまで、目を潤ます人々が現れるようになって行ったようです(かつてはエドワード・ギボンのように「運河などという大袈裟な名前が付いていますが、悪臭ふんぷんたるただのどぶです」とこの街に嫌悪を示した人もいたのです)。

彼がヴェネツィアで、モチェニーゴ本館の2階を借りて移り住んだ、その滞在中の、イタリア女性との放蕩的恋愛沙汰については2007.11.29日に書きましたPalazzo Mocenigo Ca' Novaを参照して下さい。

ヴェネツィアでの恋愛の最後を締め括ったのは、ラヴェンナの伯爵夫人テレーザ・グイッチョリ(19歳――夫の伯爵は58歳で3度目の結婚)だったそうです。モチェニーゴ本館右隣りの古モチェニーゴ館の右隣はかつて貴族コンタリーニの館だったそうですが、明治時代、日本領事館が最初ヴェネツィアに置かれた時(数ヶ月後ミラーノに移動)、そこがその所在地だったそうで、当時グイッチョリ館と呼ばれたそうです。ラヴェンナのグイッチョリ家とはどんな関係にあったのでしょうか。
モチェニーゴ館[ヴァポレットの停留所《サン・トマ駅》対岸正面、写真左から新モチェニーゴ館、2棟のモチェニーゴ(本)館、古モチェニーゴ館、右隅に一部見えるコンタリーニ・ダッレ・フィグーレ館です。以前 R. Russo 著『ヴェネツィアの館』に従い、左の建物を《イル・ネーロ館》、中央2棟を《新モチェニーゴ館》と書きました。PCウィキペディアによりますと、左から《新モチェニーゴ館》更に《イル・ネーロ館》だそうです。古モチェニーゴ館は変わりません。どの説がいいのか判りません。]  

バイロンの恋愛行脚はテレーザで修まり、36歳の死の直前まで彼女(夫と別れました)と行動を共にします。来伊した詩人P.B. シェリー(1822年レーリチ湾で遭難死)との付き合い、そしてシェリー亡き後テレーザの兄弟達とギリシア独立運動に傾斜していく姿には感動があります。彼はその戦いのためにバイロン義勇軍を自費で組織したのでした。
鳥越輝昭『ヴェネツィアの光と陰』リアルト橋「 ゴンドラを見たことがありますか
見たことがないといけないので
正確に描写しておきましょう
ゴンドラはここでふつうに使われている
覆いつきの長いボートで
へさきに彫りものがあって
軽快な、こじんまりした造りです
そして、《ゴンドリエール》とよばれる
ふたりの漕ぎ手に漕がれて
棺桶をはめこんだカヌーみたいに
黒々とした姿で水面をすべる
この棺桶のなかでは
何をいっても何をしても
だれにもわからないのです

ゴンドラはあちらこちらの長い運河を
登っては下り
リアルト橋の下をスーッと通りぬけ
夜も昼も、速く、あるいは遅く
いろんな速さで進むのです
ゴンドラは劇場のまわりで
悲しげで陰気な仕着せを着て
黒い群れをなして待っている
でも、ゴンドラは悲しいものじゃない
ときには快楽を
ふんだんに乗せていることだってある
葬式のあとの葬儀馬車みたいにね 」  (バイロン著『ベッポ』から)
  ――『ヴェネツィアの光と影――ヨーロッパ意識史のこころみ』(鳥越輝昭著、大修館書店、1994年8月1日発行)より
  1. 2010/01/09(土) 00:01:46|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:2

文学に表れたヴェネツィア――バイロン(1)

以前にも書いたことがありますが、私が初めてヴェネツィアの語学学校に通った時、借りたアパートは、サン・サムエーレ教会脇のサン・サムエーレ大通り(Salizada S. Samuele)から大運河に向かう旧モチェニーゴ館通り(C.le Mocenigo Ca' Vechia)の旧モチェニーゴ館の一隅にありました。

大運河から、向かってこの館の右隣りは新モチェニーゴ館(Palazzo Mocenigo Ca' Nova)です。ヴァポレットでサン・トマ停留所を通る時、反対側に目をやると、この館の壁面に《ここに1918年から'19年にかけてバイロン卿が住んだ》というプレートを目にすることが出来ます。

ジョージ・ゴードン・バイロン(1788.01.22ロンドン~1824.04.19ギリシアのミソロンギ)は、1797年ナポレオンに滅亡させられ、沈滞し切ったヴェネツィアに1816年11月10日やって来ました。彼は異母姉との近親相姦があったようで(メドーラと名付けられた女児は、彼の子だというのが定説だそうです)、結婚したばかりの妻にも去られ、ロンドンの上流社会からも非難され、『チャンピオン』紙上で叩かれて、ロンドンを逃げ出し、ジュネーヴを経て、ミラーノ、ヴェローナを経由し、ヴェネツィアに辿り着いたのでした。

グランド・ツアーの行く先は古代ローマ発祥の地が最大の目的(勉強のため)だったそうですから、イギリス人の多いに違いないローマやフィレンツェ(この町にはイギリス人専用の墓地があります)は避けて、勉強の旅の最後に遊びで行くヴェネツィアはイギリス人は比較的少ないという判断があったのでしょうか。
『バイロン詩集』「 ヴェニス
私はいまヴェニスの《嘆きの橋》に立つ
かたえには宮殿、かたえには牢獄(ろうごく)
魔術師のふる杖(つえ)にこたえるかに
浪間から、その楼閣は眼のまえに浮かびあがる
千年、――そのおぼろげな翼は私のまわりにひろがり
滅びゆく栄光は、はるかな昔に微笑(ほほえ)みかえす
その昔、属領はみなその翼ある大理石(なめいし)の獅子像(ししぞう)にひれ伏し
ヴェニスは荘厳にも百の島の王座に坐した。

いま海から生まれ出たばかりの母神(シビリ)
空のかなたに誇らかな尖塔(せんとう)の冠をいただき
そびえたち、壮大の力をもって
海のくまぐまとその権勢とを握るもの
これこそ、そのかみのヴェニスの面影
国々の劫掠(ごうりゃく)と、無尽の東邦の富は、燦(きらめ)く宝玉の雨となり
この母親の膝にあつまり、その娘らの身を飾り
王者の紫衣(しえ)につつまれるとき、もろもろの帝王も
その饗宴(きょうえん)に寄りつどって、その威厳を加えた。

ヴェニスに、タッソーの歌の響きはとだえて
歌もなく、ゴンドラの舟夫(かこ)は、黙(もだ)して漕ぎ
その殿堂は、水べに崩れてゆく
いまは、耳にひびく音楽もまれとなり
かのよき日は去ったが、――美の面影はなおただよい
国々はほろび、芸術は消えたが、――自然は滅びぬ
思い出すのは、そのかみの日のヴェニスの懐かしさ。
祝祭に満ちあふれた、歓びの宮
地上の楽園、イタリアの仮面。 」 ――『チャイルド・ハロルド』第四巻より
  ――『バイロン詩集』世界詩人選第四巻(阿部知二訳、小沢書店、1996年7月20日発行)
  1. 2010/01/02(土) 00:00:07|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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